1.ニンフ
空を飛ぶということを一度考えてしまうと難しい。
走る時にいちいち考えるだろうか。そんなことをしたら脚がもつれて転んでしまうかもしれない。それとほとんど同じことで、空を飛ぶということもいちいち考えてやっていることではないのだ。
けれど、僕には癖があった。
空を飛ぶということを頭で考えてしまう癖。
身体に流れる怪鳥の血。この血を継がせた先祖たちにはそんな癖はあったのだろうか。
考えればすぐに虚しい気持ちになってしまう。
きっと、僕に血のバトンを渡した先祖たちの多くは、自由に空を飛ぶなんてことも知らずに死んでいったことだろう。
僕の卵を産むと決めたのは母ではない。産ませると決めたのは父でもない。父母が愛し合っていたかどうかさえも疑わしい。父は仕事で母に接し、母も仕事で卵を産んだ。二人とも自由に飛んだ事なんてなかっただろう。飛ぶ技術が優れていると期待されたわけでもない。
卵を割って外に出た僕が期待されていたのは、羽根の美しさとそれを含めた容姿の美しさ、そして、肌の下に隠される肉付きと旨みだった。
愛玩でも、装飾でも、食肉でも好きなように。万能の鳥として、僕は純血の英知の民の手によって生まれてきた。
だから、空を飛ぶなんて事はきっと考慮されていない。
音楽の才能があると養父に言われたのだって、先祖にそういうものが幾らかいたからだろうと予想が付く。愛玩の道に進めたならば、美しい歌を歌って人間を喜ばせたのだろう。この容姿だってそう。もう少し完璧ならば、市場に並ぶより先に直接的に主人の得意先に売られていたことだろう。
だから、空を飛ぶ事なんて全く考えられていない。
そう、僕は苦手なのだ。空を飛ぶことが。
それでも、僕は努力した。
僕を信じて待ってくれている少女の為。確かな家の純血の英知の民でありながら、生まれた時にその当然の権利を殆ど剥奪されてしまった哀れな子。左胸に神聖なる刺青が入っていたばかりに、普通の人生を送れなくなってしまった可哀そうな少女の為に。
「おかえり、ニンフ」
太陽の隠れた時間。都の明りが果てしなく遠くでちらつく光景を背後に、展望台へと着地する僕を、その少女は出迎えた。
知的な美しさを秘める少女。まるで、古の女神のよう。その傍らに寄り添う梟か何かのようなつもりで、僕は親しげな笑みを向け、気恥ずかしさに伸びをしながら答えた。
「ただいま、ソフィア」
ニンフ。その名前の意味を教えてくれたのは、他のガーディアンたちの陰口だった。どうせ此処以外に行き場のない僕にとってはどうでもいい話だったけれど、引っかかるものがないわけではなかった。
ニンフ。それは花嫁という意味。名付けられた時の事を、僕はよく覚えている。けれど、どうして賑やかな市場に居たのか、どうして生まれた家から連れ出されたのか、その真の意味を当初、僕は何も分かっていなかった。
ただ漠然と、僕は理解していた。
露店の主人に金を払い、僕の手を引いて帰って行った純血の人間の男こそが、恩人に間違いないのだという事だけは理解していた。
僕は努力した。引き取られた先で勉学と修行に励み、養父となってくれた彼の元で役に立てるように頑張り続けた。
だからこそ、ニンフという名前の意味を知った瞬間、やっぱり僕はショックだった。しかし、だからといって養父を嫌いになったわけではない。僕の養父――キクノスは、今や神官長である。僕を引き取った時は幹部の一人に過ぎなかったけれど、いつの間にか当然のように駆けあがってしまった。身を固めてはおらず、変人扱いをされている。それでも、その変人ぶりが高じた結果であった僕にはそれなりの責任を果たしてくれた。
僕のような者は他にも数名いる。
もっと若い時は買い叩いた中古の機械人形集めに没頭していたらしく、そのなれのはては今でも末端の神官として働いていたりもする。さすがに何百年も動き続けているらしいから、もう殆ど使い物にはならないけれど、自分の手当てで買ったものを神殿に役立てているということで、それなりに感謝されてはいたらしい。
手当てが上がってからは、それが変わった容姿の奴隷の買い占めに転じた。その一人が僕だった。食べるか、羽根を毟るか、ペットにするか、ご自由に。そんな乱暴な扱いで売られていた僕だったらしいけれど、少女時代の僕の容姿はキクノスの感性に十分に響くものがあったらしい。
購入してからは、人鳥の子供を手懐けたかっただけだと周囲に言い訳し、言葉通りに既にいた人鳥のガーディアン――こちらは出自もしっかりとしたものをもっている――に命じて、僕の素質を測った。
その頃にはもう、自分がどんな状況に立たされていたかを理解出来ていたので、無理ならば食べられてしまうかもしれないと恐れて頑張った。後から聞けば、どちらにせよ神官などにする道を用意していたらしいと聞いて、少し気が抜けた。
でも、ガーディアンは僕の天職だった。
人間には扱えない大槍を振り回す事も、空を自由に飛んで皆の為に有益な情報を持ちかえることも、愉しくて仕方が無かった。
それがよかったのだろうか。
十代の前半には、僕は様々な仕事をどんどんと任されるようになって、十代の後半に差しかかった頃にはいつのまにか身分だけはガーディアン頭となった。
そう、身分だけだ。他の頭のように部隊なんて持っていない。それは経験の豊富な者が任されるものであって、僕がするべきことは単独での任務ばかりだった。
だが、特に、気にはしていなかった。
何故なら、神官長であり、養父でもあるキクノスの直属でもあったからだ。彼から直接命じられて空を飛ぶのは愉しかったし、嬉しかった。彼の役に立っている。そう思うだけで、心が弾んだ。
しかし、いつからだっただろう。
養父の力になれるのが嬉しかっただけの毎日が、少しずつ変わり始めていた。きっかけは、この国の槍――ソフィアのことだった。
その頃、キクノスの興味は合成生物にあった。愛情の国によって親交を込められて作られた一角獣種。どんなに頭を抱えても安いとはいえないその値段を何日も眺めながら、ようやく買うと決めだした頃、僕はソフィアとカリスティ様のおかしな関係にようやく気付いたのだった。
それを何となく親子の会話のつもりでキクノスに話した時に、僕はやっとその違和感を知ることが出来た。
「必要以上に彼女たちと関わるのはよくない傾向だ、ニンフ」
静かに、語りかけるように叱るキクノスに、僕は驚いた。まさか苦言を受けるとは全くといっていいほども思っていなかったからだ。
しかし、キクノスは厳しい眼差しで僕を見続けた。
「あれは槍と果実。この国における要ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。つまらない好奇心でちょっかいを出していいような存在ではないのだよ」
「でも、父さん――」
「神官長だ。此処では神官長と呼びなさい、ニンフ」
訂正され、僕は息を呑んで頷いた。
「すみません、ですが神官長、どうしてソフィアたちに関わってはいけないのですか? 私は別に好奇心でちょっかいを出しているのではありません。この国の要だからこそ、注意を払っているだけです」
しかし、誠意を持って言ったはずの言葉は、キクノスに否定された。
「ならぬものはならぬ、ということだ。あれは――槍は武器に過ぎない。年若い女の形で生まれてきているだけで、その正体はその身を呈して危機を救う最終兵器に過ぎない。果実も同様。こちらはまだ幼い人間のように見えるから厄介だが、ユグドラシルから生まれた卵から孵ったのは確かなこと。君も見ただろう、ニンフ」
問いかけられ、その時の光景が目に浮かんだ。
今よりも幼いソフィアに寄り添い、青い卵から果実を宿した少女が現れる瞬間だ。自分の力で卵を破るその姿は、僕達のような人鳥の孵化を想い起こさせるものだった。
神秘的で、何処か切ない。
孵ったばかりの愛らしい少女は、見守る人々をぐるりと見渡した後で、一目でソフィアの正体を見抜いてふらふらと歩み寄った。裸のままソフィアに抱きついて笑顔で甘える彼女を見て、当時の神官長はその名前を思いついた。
――カリスティ。
一番美しい人へ。
それは、天使の歴史よりも古い神話が元となった話から取られた。
「先の神官長はあの光景に感動してカリスティ様の名前を考えついたのではないのですか?」
率直に思った事を訊ねてみるも、キクノスの表情は渋いものだった。
「それとこれとは別の話だ。二人の関係は美しかろう。しかし、それは《人》の関わっていいものではない。ニンフ、これは命令でもあり、君への思いやりでもあるのだよ」
「思いやり?」
訊ね返せば、キクノスは何処か唸るように頷いた。
金色の髭の生えた顎をかくその姿は、純血の人間にも関わらず獅子のようだ。
「思いやりってなんです?」
重ねて問いかけてみれば、キクノスは大きく溜め息を吐いた。
「答えるまでもない」
彼は言った。
「君にもいずれ分かる。分からない時が続けばいいが、私の言っている意味が分かる日が来てしまうだろう。今は分からなくとも、私の言葉は忘れてはならない。『奴らは人ではなく、天使の授けた国宝に過ぎない』のだ。いいね?」
納得がいかない。
わざとらしいほどに、彼は嫌な大人だった。
だが、冗談でも何でもなく、キクノスは本気で僕にそう言っているらしい。そして、僕はそれ以上反論する事は出来なかった。
何故なら此処は神殿であり、彼は神官長であるのだから。




