15.夢現
光の射しこまない深海になんて行ったことはない。
海の底がどうなっているかなんて、教えてくれるのは海に潜れる獣人だけだろう。それでも、私は確かにそこを水の底だと認識した。
海かどうかは分からない。もしかしたら、中庭の湖かもしれない。私にとってあの湖は、海の代わりといってもいいくらいだった。
こんな夢を見るのは、カリスティの傍に居るついでに湖を眺めることが多かったせいだろうか。上へともがき、目指してみても、光はなかなか近づいてくれなかった。
そうしているうちに息苦しくなって、一瞬だけ意識が途切れた直後、今度は恐ろしいほどに身体が軽くなって浮上していった。
まるで、足を引っ張っていた鎖が外れたかのよう。
外れてから鎖で繋がれていたことに気付いたかのようだった。
水上へと上がると、すぐに我が国の女神ユグドラシルが見えた。カリスティの母親。同じく天使から生まれた私にとっては姉妹のような存在。ユグドラシルは枝を揺らしながら、まるで私を心配するように音を生みだしていた。
その音に誘われるままに陸を目指して泳げば、ふと、ユグドラシルの根元に人影があることに気付いた。
――カリスティだ。
眠っているのだろうか。
いや、起きている。
母親の根元で上体を起こしてこちらを見つめている。
引き寄せられるままにそちらへと向かっていると、ふと、奇妙な事に気付かされた。カリスティの傍に誰かいるのだ。
「あなたは、誰?」
陸に上がる前に訊ねると、カリスティの傍に居る影がゆらりと動いた。
青い影だ。真っ黒ではない。カリスティにそっと手を伸ばし、抱きかかえる青い影。見つめていると、段々とその輪郭がはっきりとしていった。カリスティに触れている場所から、実体を取り戻したかのようにその姿がはっきりと見えたのだ。
金髪の、青い布を纏った、少女。
真っ青な目がこちらを見つめ、見る者を凍らせるように冷たい笑みがその顔に浮かぶ。
「あなたは――」
「わたしはエリス」
少女が言った。
「久しぶりね、槍の子……今はソフィアっていうのだっけ」
――エリス。
その名前を以前に何処で聞いたのか思い出し始め、わたしは慌てて陸に上がった。そう。エリス。エリスという名前だった。ヒパティアが言っていた悪魔の名前。はっきりと覚えている。エリスと言う名の少女だって。
気が動転したまま立ち上がり、私は槍をエリスに向けた。
「カリスティから離れて!」
エリスは笑うばかり。
そうだ、従うわけがない。ならば、説得する相手は別にいる。
「カリスティ、ねえ、カリスティ、逃げるのよ!」
しかし、どういうわけだろう。
カリスティは一歩も動きださなかった。目は開いている。眠っているわけではない。その瞳孔がゆらりと動き、気だるそうに私を見つめた。
「カリスティ、どうしたの? 逃げるのよ!」
叫んでみても、カリスティはやっぱり動かなかった。
どうしたというのだろう。いつもならば、いくら私に心を開いていない日でも、危険を知らせる言葉には忠実すぎるほどに従ってくれるのに。
戸惑う私を見て、エリスはさも愉しそうにけらけらと笑った。
「ソフィア……いいえ、アテナと呼ぶ方が貴女は嬉しいのかしら? どっちでもいいか。どうせ、あなたもすぐにこうなるわ。わたしの一部として、自我を失うの。聖域も、ユグドラシルもなくなっちゃえば、あなたなんてこの世界にはいらないもの」
「この――」
不安と恐怖。我慢の限界だった。私を突き動かしたのは怒りではない。カリスティを取り返さなくてはという焦りがとても強かった。
「悪魔!」
直接的な言葉と共に槍を持って突進する私を見て、エリスは冷静にカリスティの影に隠れた。慌てて立ち止まる私を確認すると、そのままカリスティにしっかりと抱きついて笑みを崩さずに言った。
「悪魔? ええ、その通りね。わたしは英知の悪魔。そう呼ばれて久しいもの。でも、だから何? わたしを悪魔と罵ればあなたは強くなるの? そんなの無理よ。カリスティはもともとわたしのものだもの」
「違う、カリスティはお前のじゃない!」
憎き悪魔に掴みかかろうとすると、煙のようにカリスティとエリスの姿は消えた。
驚くわたしに別の方向から笑い声がかかる。見れば、ユグドラシルとも離れた場所から、エリスは意識を保ったまま動かないカリスティを抱えてこちらを見ていた。
「御免ね、ソフィア。でも、そもそもカリスティはあなたのものじゃないもの。どうしても恋しいのなら、わたしに従いなさい。自我を手放して、わたしの武器になれば、カリスティとずっと一緒に居られるわ」
「寝ぼけた事を言うな。カリスティに何をした」
「別に何も。彼女は自分からこうなった。わたしはただ背中を押しただけ。こうなってでも叶えたいものがあったんだって。可哀そうね」
「ふざけるな。カリスティを返せ!」
再び飛び掛かった丁度その時、景色がぐらりと揺らいだ。
出足が鈍り、そのまま走るのも困難になる。何事だろうと思えば、段々と周囲の光景は雨に溶ける砂の絵のように崩れてきた。
――何、これ。
茫然とする私の名を呼ぶ声が空から聞こえる。
「ソフィア様」
これは誰の声だっただろう。
「ソフィア様!」
その声にはっとした瞬間、私の見ていた光景は一瞬で吹き飛んだ。
夢だった。
その事実を理解した瞬間、自分でも驚くくらい安心した。
そう暑いわけでもないのに、寝汗をかいている。今でも心臓は高ぶっているし、息切れまでしている。
間違いなく、悪夢だった。
その事実を受け止めるのにほんの少し時間がかかったため、傍にパラスが控えていることに気付くのにはまた更に時間がかかった。
「パラス……?」
ようやく振り向く私に、パラスは小さく頷いた。
灯りを持っている。寝巻のままだ。その表情は何処か緊張感があり、私はすぐにどういった要件なのかを絞れた。
カリスティの事だろう。
「何があったの?」
「今、迎えのガーディアンが来ています。すぐに着替えて、彼らに付いて行くようにとのことです」
すでに着替えは用意されていた。着るのにさほど時間もかからない衣服。しかし、得物は用意されていない。あの吸血鬼が忍びこんだというわけではないのだろう。
「何処へ向かうの?」
衣服を手繰り寄せながら訊ねると、パラスはふと答えに詰まった。
その様子に引っかかるものを感じて振り返ると、パラスの表情からやっと異常な様子を確認する事が出来た。
「それが……」
嫌な予感はその時点でしていた。
どういうものかなんて具体的なものではなかったけれども。
「カリスティ様の様子が……おかしいそうなのです」
「様子がおかしい?」
想像は出来ないままだった。とにかく、すぐに着替え、廊下に待たせてあった名も知らぬ迎えのガーディアン二名――男女だった――の元へと向かい、私はすぐに訊ねた。
「どういうこと? 様子がおかしいって――」
訊ねると、表情を強張らせたまま女の方が答えた。
「とにかく来てください。言葉で説明するよりも、すぐに分かります」
低い声で言われ、私は恐る恐る頷いた。
パラスは心配そうに部屋の中から様子を窺っている。その姿に一声だけかけて、私はすぐさま迎えの二名に続いて、カリスティの部屋を目指した。
冷たい廊下。
暗い夜。
口では何も説明したがらない二名の名も知らぬガーディアン。彼らが導く先で待っているのが何か。カリスティに起こった異変とは何か。
謎は謎のままでいい。
嫌な真実なんて、知らない方が楽だろう。
それではいけないと分かっていても、やっぱりこの先で待っていたのは残酷な現実だった。それをはっきりと思い知ったのは、カリスティの部屋に入ってからのことだ。




