14.一角獣
「パラス、起きている?」
寝巻のまま私は寝室を抜け、隣接するパラスの部屋へと入りこんでいた。
よくない事だとは思ったけれど、どうしても眠れなかったのだ。もしもぐっすり眠っているようだったら素直に来た道を戻ってもう一度広過ぎる寝台に潜り込むつもりだった。だが、パラスは起きていた。
「ソフィア様?」
すぐに起きあがり、彼女はさり気なく寝癖を正して私に向き直る。
「どうなさいました?」
「……なんだか眠れなくて」
幼い頃ならこういうことも多々あった。
その時の世話係はパラスではなかったし、パラスがこちらに回されて以来はこんな事もなかっただろう。けれど、パラスはあまり戸惑うことなくすぐに起きあがると、寝巻のまま私の様子を窺い、視線を合わせた。
「御茶でも淹れましょうか」
そっと微笑むその姿に、私は静かに頷いた。
居間の長椅子に座らされ、そう待たない内にパラスは淹れたての茶を運んできた。寝る前に飲んだ愛情の国の甘みのある茶ではない。我が英知の国の茶。幼い頃より慣れ親しんできた茶は、じわりと舌に沁み渡り、頭をすっきりとさせてくれる。
我が国では冷静さもまた重んじる。
英知の天使が授けた知恵とは、ただ単に知識が豊富なだけではない。賢さというものはたった一つの種類ではなく、感情といかに向き合い、惑わされることなく、また、無視し過ぎることもなく付き合えるかということも含まれる。
それが、天使の授けた知恵。
英知の国に伝わる神話では、槍の印を持つ者こそがその化身であるのだという。
実際に、歴代の槍を見れば彼女達がどんなに賢い聖女であったのかという記録ばかりが残っている。その一つ一つを見つめる度に、私は内心圧力を感じていた。
私は賢くなんてない。カリスティと心を通わせることが難しくなってきた頃より、ずっと私は自信を失い続けてきた。
今の私が他の少女と違うところといえば、槍の印を持つことくらいだ。不死の身体と絶対に裏切ったりしない水の槍。槍の持つ最低限の力だけが私の取り柄といってもいい。きっと私はミラの足元にも及ばない。
ネガティブな想いが次から次に湧き起こる。
しかし、パラスに貰った茶を飲むと、不思議とその考えもまた流しこまれていった。まるで淀んだ川が新たな清水に流されて綺麗になるようだ。
――ソフィア。
ふと私の名を呼ぶカリスティの姿が頭を過ぎった。
歴代と比べたって仕方がない。カリスティだって、歴代の果実と比べるわけにはいかないのだから。歴代の果実の中にだってカリスティのような少女はいただろう。けれど、今も多く残っている記録は、立派で賢かった果実のものばかり。そういうものなのだ。人の遺す記録なんて。私たちのことだって、次の代、そのまた次の代にでもなれば殆ど残らないことばかりだろう。
それならば、比べる事に何の意味があるのだろう。
私の目的は後世に名を残す事ではない。カリスティとせめて長い時を共に過ごす事だけだ。その為に戦うわけだし、その為にカリスティのことを知ろうとしている。
「落ち着かれました?」
傍に控えるパラスにそっと訊ねられ、私は黙ったまま頷いた。
パラスの額に生える黄金の角が不思議な輝きを放っている。まるで私の心を窺い、癒そうとしている一角獣のよう。
一角獣の伝説は有史以前からのものだとも言われている。やはり、実際にそういう生き物がいたのだろうか。聖域を持たず、悪の魔物に震えるしかなかった時代の人々を善の魔物たちを統率して導き、天使の舞い降りる以前の国をどうにか支えていたという話もある。
天使に舞い降りて以来は、一角獣は姿を消した。代わりに生まれたのが初代の槍と果実。しかし、英知の天使とユグドラシルを崇めていながらも、英知の民の心にはいつの時代も一角獣が住んでいた。今や英知の国といえば一角獣。勇敢の国にとっての狼や信頼の国にとっての人形、豊穣の国の山猫と同じくらい固定されたイメージとなっている。
「パラス……あなたはやっぱり本物の一角獣みたい」
以前は否定されたことをまたも私は告げてみた。
目立つ一角、赤いタテガミ、馬の耳、衣服に隠れている蹄の脚に、巻き毛の尻尾。だが、そんな身体的特徴のためだけではない。古来より心に寄り添い、人々を救ってきたという一角獣のイメージは、私にとってのパラスと重なるものだった。
「いいえ、アテナ様」
耳をピンと立ててパラスは微笑みながら答える。
「私は偽物。ただ似せられているだけの女に過ぎません。英知の国にとっての本物の一角獣はあなたの方です。聖水の角で悪を清め、天使のもたらした宝物を守ってこの国を守る正義の一角獣。それが、英知の民の抱くあなたへの印象でしょうね」
神殿の結界の外の事を私はあまり知らない。
週に一度、カリスティが清められる日、半日ほどの外出を認められてはいる。無断でなければ神殿から抜け出して気ままに行動する事も可能だろう。しかし、私はあまりしたことがない。暇を持て余して神殿の中にある資料室で過去の資料を読みあさっているうちに時間が経ってしまうことばかりだった。
資料室の資料には今生きている英知の民が何を想いながら日常を過ごしているかなんて書かれていない。そういったことを少しでも教えてくれるのは、パラスなどの神官たちの噂であったり、用があって都まで飛んだニンフの口から聞ける話だったりするくらいのものだった。
父母は今頃どうしているだろう。
五歳の頃にこの目で見た光景。思い出せるものはあまりにも少ないけれど、決してないわけではない。片田舎の情景はあれからどのように変化しただろう。忘れさせようと神官長以下は必死だったみたいだけれど、私はどうしても忘れられなかった。
愛情深い父と母。別れるその日まで、私を娘として可愛がってくれた。
――アテナという名前で。
家族を忘れさせるのは、私が槍という役目を嫌がって逃げ出すかもしれないと恐れているかららしい。しかし、言わせてもらえば、そんなことは絶対にない。カリスティを守る責任をそんなことで放棄出来るような槍がいたら教えて欲しいくらいだ。槍に生まれた以上、そんなことは出来ないだろうと私は思ってしまう。
それに、私は父母を忘れられないからこそ、強く思うことがあった。父母を含めたこの国の全部――英知の国に住まう全ての人々の命を囲む聖域を守らなくては、と。もしもユグドラシルが枯れ、聖域がなくなってしまったら、数日も経たない内に魔物が国を侵し、力無き人々を喰い殺し始めるのだと言われている。
かつて、皆を守ってくれた一角獣は何処にも居ない。英知の天使だって、舞い降りてはこないだろう。だって、天使は代わりに私を授けたのだ。そういうことが起こらない為に、自身の青くて美しい羽根を槍という武器に転じさせた。
ならば私が頑張るしかない。私が一角獣になるしかないのだ。
「パラス」
私はそっと一角獣のような友に告げた。
「私……頑張るわ。カリスティを……皆を……きちんと守りきる」
決意でもあり、誓いでもあった。
一角獣。
その姿は今も脳裏に刻まれている。
私が抱く最近のイメージはパラスのような半人半馬が主だけれど、幼い頃に抱いていたイメージでは人の要素は一切なく、本物の馬のようだった。
どちらかと言えば、この国に広まる一角獣のイメージはそちらが多い。果実の女を前脚で抱える美しい一角とたてがみの生えた牝馬の絵が一番有名だ。愛情の国より渡来したロジエという画家が描いたらしいその絵は、ちょうど伝説の槍であるミラが果実エフケリアと共に天寿を全うした直後に描かれたらしい。似たような構図のものは英知の国の芸術家も、他国の芸術家も用いたらしいけれど、それが一番有名だ。
現物は都の美術館にあるらしいけれど、勿論、私は見たことがない。
代わりに、清めの日だけに半日閉じこもれる資料室にある画集によって、その絵を見ることが出来た。模写であり、版画であった。モデルとなった実物はあれの何十倍もあって、見る者全てを圧倒する神聖な雰囲気を醸し出しているとされるが、具体的にどんな様子なのかは想像も出来ない。
私に与えられたヒントはその画集だけだ。
真っ青な身体、銀色の角、流れる清水のような鬣が流れ、美しく光る金色を心臓に宿し、青い衣をまとう女を抱きしめている牝馬の姿。牝馬がミラで、女がエフケリア。実際に角なんて生えていなかった。けれど、当時の人々にとって、彼女の生み出す槍はたしかに一角獣の角だったのだろう。
そのくらいの人。
私には遠く、きっと私の先代にとっても遠かった人だろう。
「ミラ……あなたが羨ましい」
届くはずのない妬みを言葉にしたまま、独りきりの寝台の上で私はそっと目を閉じた。




