12.慰め
自室へ戻ると、パラスは起きて待っていた。
当然、昼間に起こったことを知っている。
悪魔の手先。天使の加護を受けている国ならば、何処も同じ。パラスの出身国である愛情の国の果実もまた、愛情の悪魔と呼ばれる存在に狙われていると前に聞いたことがある。今までは全部、おとぎ話のようなものだった。それがどうだろう。こんなにも現実的なものになってしまうなんて。
「ただいま、パラス」
部屋に戻って無言のまま迎えるパラスにそう言うと、彼女は今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。しかし涙は流さずにぐっと堪え、ゆっくりと私に近寄ってきた。馬の耳は常に倒されたまま。不安から立ち直れていなかったのだろう。
「おかえりなさいませ、ソフィア様」
近くに誰かいるのだろう。
パラスは涙ぐむ声でそちらの名前で私を呼んだ。
「あなたが吸血鬼なんかに攫われるわけがないって。それでも、私は不安でした。もう会えないんじゃないかって」
「御免ね、パラス。心配掛けてしまって」
「いいえ」
そう言ってパラスは必死に首を横に振った。
パラスの美しい容姿は笑っている姿が一番似合う。こうやって悲しんでいる姿は胸が痛むものだ。私はなんとかパラスの涙を止めようと明るく振る舞った。
「安心してパラス。見ての通り私は大丈夫。カリスティも無事よ」
「ええ……ソフィア様、あなたは御立派な方です」
それでも、パラスの涙は止まらない。
私との別れを予感し、恐れていたのだろう。
そこには見逃せない愛があった。愛情の天使の授けた愛は、きっと人工的に生み出されたパラスにもきちんと与えられているのだろう。
「ああ、パラス」
堪らず、私はパラスの胸に飛び込んだ。
母親を亡くして以来、幼い私にはヒパティアが母親代わりだった時もあった。しかし、彼女はあくまでも先生であって親ではない。無条件に甘えられる存在は世話係でもあったが、幼い頃からその入れ替わりは激しく、安定して存在した事はなかった。
それでも、今の私の世話係はパラス。もう十七歳だというのに、私はパラスの愛に甘えたくなってしまった。まるで母親のよう。
「――本当は怖かったの。気を失う時、全部終わっちゃうんじゃないかって思うと、冷静さを保つのも難しかったわ」
「そうでしょうとも……そうでしょうとも」
素直に白状すれば、パラスは優しく私を包みこんでくれた。
まるで全てを見守るユニコーンのように温かい。愛情の国が英知の国への親愛を込めて生み出した一角獣種。その正体は、自己愛に満ちているだけではなく、他者への愛もしっかりと持っている優しい守護者だった。
ニンフにパラス。この二人の存在だけでも私は心が満たされる。カリスティのことで悩んでいたとしても、私は恵まれているのかもしれない。そう思うくらい、二人は私に対して優しかった。
槍に生まれたことを後悔せずに済んでいるのは、カリスティへの得体の知れない愛着だけではなく二人のお陰でもあるかもしれない。
「ソフィア様、お茶をお飲みください」
見上げれば、太陽のように輝かしい赤毛が目に入りこむ。
「私が愛情をこめて淹れる祖国のお茶をどうかお飲みください」
「……うん」
約束された美をまとい、それでいて他人の心を慰めるもの。
パラスは自分の事を魔法も使えない凡人だと言っていたけれど、今の私にとってはどんな魔法使いよりも有力な魔術を使う、頼れる存在だった。
パラスの手を離れて長椅子に座ると、程無くして愛情の国生まれの茶は運ばれてきた。一口飲んだだけでその甘みに身体が芯から温まる。この国特有の頭の冴えるような香りのお茶でもなければ、前にパラスが淹れてくれた、奮い立たされるような渋みのある勇敢の国のお茶とも違う。愛情の国特有の甘さが、普段なら賢さを尊ぶはずの私にはちょうどよかった。
それだけ疲れていたのだろう。
カリスティの前では、そして、ニンフの前ではしっかりとしていようと思っていた分、自室に閉じこもった今だけは幼い頃のようにいられる。その空間にすっかり安心し、私は愛情の国のお茶の味に浸った。
「どうですか、少しは落ち着きました?」
パラスは馬の足を折って椅子に座る私に目線を合わせてくる。その耳は今も何らかの物音を察知してぴくぴくと動いていたが、綺麗な色の目はしっかりと私を見ていた。
「ええ、落ち着いてきたわ。美味しいお茶を有難う」
心をこめて礼を言うと、パラスは何処か切なげに眉を下げた。
「アテナ様――どうか」
ごく小さな声でその名で私を呼ぶと、パラスはぐっと何かを堪えてそのまま俯いた。
「どうしたの、パラス?」
「――すみません、何でもありません。お茶のお代わりは幾らでもありますので、お申し付けくださいませ」
事務的なことだけを言って、結局パラスはその場を離れ、居間に隣接する給仕室へと戻っていってしまった。長椅子に一人残されてその背中を暫く見送ってから、私はぼんやりと今日の事を思い出していた。
鬼族の女。
ただの不審者ではなく、悪魔の僕。
吸血鬼として都の人々を襲って殺してきたそのままの勢いで、今度はカリスティを奪いに来た。まだ狂いきってはいないのだろう。だが、彼女をやり過ごしたとしても、次はまた新しい僕を連れて悪魔エリスはやってくる。
――どうして。
神話では悪魔というものはもともと天使たちの双子の片割れ。天使たちと寄り添うように生まれたものの、それぞれの聖域に守られて暮らす人々や神々に何処までも忠実な天使を傍から見て疑問に思い、自分の理想の世界を再建しようと各々立ち上がった。
その理想とは今いる人間の世界を壊す事に他ならない。
神々は私たちを守るために聖域を授けてくれたのに、その要であるユグドラシルに危害を加えようという悪魔は、悪魔以外の何者でもない。
そもそも、理由がどうであろうともカリスティの命を狙い、私たちの平穏を崩そうとしているのならば敵以外の何者にもなり得ない。
愛情の国の御茶の甘みに浸りながら、私は静かにこの先へと想いを寄せた。
どんな未来が待っているのだろう。カリスティを守りきるには鍛練を重ねるしかない。それ以外に彼女を守れる方法はどれだけあるのだろう。悪魔の言葉に耳を貸さないでいられる国民はどれだけいるのだろう。ああ、けれど、仮に誰もが悪魔の声を聞かなかったとしたって、悪魔には奥の手があるのだ。わざと僕を殺させて、狙ったものを新たな僕にしてしまうという奥の手が。
ニンフがあと少しで吸血鬼を殺してしまいそうになったあの瞬間が甦った。
あの時、私たちは事の重大さを分かっていなかった。もしもヒパティアが駆けつけるのが遅かったらどうなっていただろう。考えただけで胸が苦しくなった。
どうか、私の知っている人が敵になりませんように。
見知った顔に槍を向けるのは辛すぎる。
寝台に潜ってからも、しばらくは寝付けなかった。
目を閉じれば最低最悪の様々な光景がイメージとなって頭の中に浮かび上がる。悪い妄想であるし、無駄な時間だと自分に言い聞かせてみても無駄だった。心を落ちつけて目を閉じ、パラスの胸に飛び込んだ温もりと愛情の国の御茶の甘みを思い出し、どうにか恐怖を薄れさせるので精一杯だった。
いざとなったらカリスティはきっと結界の強い部屋に閉じ込められてしまうのだろう。ヒパティアはあの場所から出してくれたけれど、いつかはその時が来るだろうと予感していた。カリスティがどんなに嫌がったとしても、ヒパティアがどんなに庇ってくれたとしても、私がどんなに強くなっても、そういう時期は必ず来るだろう。
神官長を始めとした多くの人間は、カリスティを人格ある少女と認めていない。人形のように過ごし、この国の聖域の為だけに生きる事を求めている。ユグドラシルの根元で穏やかに成長し、花開き、枯れて死ぬまでこの場所に居座り続けることがカリスティの仕事。その命を脅かす者がいるのならば、絶対安全とされる場所に閉じ込めようとするのは大いに予想できることだ。
特に神殿の中で一番責任の重い神官長ならば、何が大切かを測って特に疑問もなくその決断を下せるだろう。彼の迷いは神殿の迷い。彼の判断が少しでもずれたりすれば、守りはそれだけ緩くなってしまう。カリスティを甘やかすだけではいけないのだ。絶対に盗まれてはいけない少女なのだから。
――そうは分かっているのだけれど。
ヒパティアは言っていた。
悪魔が動きだすのは生まれた果実が成長し、熟し始めた頃なのだと。
その年齢は卵より孵ってから早くて八年、遅くて十六年くらい。中には三年など恐ろしく早くで熟してしまった場合もあるが、それは果実を取り巻く環境に問題が合った時等特殊な事態だ。
カリスティは十歳。例に漏れていない。ただ、少し早いくらいだろう。
この国に残っていた記録によれば、悪魔が現れ始めるのは十二、三歳が最も多かった。そこから何年生き延びたかはまちまちだった。まちまちだったが、あまり長くないという印象だった。
私たちはどうなるのだろう。
一人で抱えるなとニンフが言った通り、槍一人で防衛するのは無理があるらしい。早い例では悪魔が襲撃したその日に一つの時代が終わった過去が我が国にもある。一年どころか数カ月持ちこたえられればいい方で、皆、ミラのように寿命をまっとう出来ていない者ばかりだ。
私はどのくらいカリスティを守れるのか。
自信があるかと問われれば、正直分からなかった。
私はカリスティを守るために生まれてきたのだ。そう信じてきたのだけれど、悪魔の襲撃を受け、これまでに調べてきた槍と果実の記録を思い返してみて、ふと思うことがある。
どの国も天使の印を受けて生まれた者は、子供を残す事の出来ない身体となっているらしい。その理由は明確なもので、神々が子供を成すよりも大事な仕事を与えているからだと聞いている。それは果実も同じことで、人間の女性のような見た目をしていても、彼女たちもまた子供は残せない。その役目は武器でも果実でもない女性に任せるべきだというのが神々の御意志なのだと。
私も同じ。これまでの武器達も同じ。
前々から知っていた事ではあるけれど、どうしても今は、神々がどうして私たちにそんな身体を与えたのかを考えてしまう。
槍としての私が求められているのは、本来、カリスティを守る事ではないのではない。もしもの時にカリスティを壊すためだけに、私は存在しているのではないか。私以外の者たちも皆、それを期待しているだけなのではないだろうか。
疑問はぐるぐる回り、気付きのようなものを生みだす。
――カリスティ。
寝台の上で神官長のつけたその名を呼びながら、私は突然切ない気持ちに駆られた。もしこの疑問こそが真実ならば、どうして神々は私にカリスティを愛しむ心を与えたりしたのだろう。何度壊しても問題ない身体なんかよりもずっと大事なカリスティ。その理由は、決して私の命を握っているからなんかではない。
――強くならないと。
ミラ。百年という途方もない時間を果実と共に生き抜いた伝説の槍。その名前が羨ましくて仕方なかった。




