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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第1部
16/54

11.カリスティ

 ユグドラシルの根元。湖の辺。

 空では美しい形の月が輝き、神殿の広過ぎる中庭を厳かな色に照らしている。

 昼間とは異世界となってしまったかのようなこの空間で、私はカリスティと二人だけで過ごしていた。ユグドラシルも入れれば三人。私にはユグドラシルの言葉なんて分からないから、二人きりのようなもの。それでもカリスティにとっては生みの母親。

 神話によれば、ユグドラシルは果実の母であり、私たち武器は果実の父のようなものらしい。私自身としては姉のような気持ちなのだが、カリスティたち果実にとって槍に求めている愛情は、幼子が父親に求めるような類のものなのだろう。

 私はカリスティの父親になれているだろうか。十七歳の少女に過ぎない私に父親なんて務まるわけはないだろうと普通に考えて思うものだけれど、カリスティがそれを求めているのならば出来る限りそう振る舞いたかった。

「ねえ、カリスティ」

 ユグドラシルの根元に縋りつく十歳の少女に向かって、私は声をかけてみた。

「今日はずっと結界の中にいたものね。好きなだけ此処に居てもいいわ。何かあったら私もすぐに駆けつけるから、安心して」

 そう言い残し、私は立ちあがった。

 これ以上一緒に居ても、カリスティとユグドラシルの神聖な場面を穢してしまうだけになってしまいそうだったから。

 私は立ち去り、部屋に戻るべきだ。

 心配しなくとも、此処は神殿。隙など無く私よりも優秀なガーディアンたちが交代でカリスティを見守ってくれている。

 だから、私は必要ない。

 そう思っていたのに。

「待って、ソフィア」

 泣き出しそうな声。

 それだけではない。ふわりと漂うのはカリスティの香り。感触も、感覚も、鼓動も、温もりも、全てが久しぶりに違いなかった。

 何が起こったのかすぐに理解出来なかったのは、予想すらしていなかったのだろう。

 どうして想像出来るだろう。カリスティが自分から私に抱きついてくるなんて。

「ごめんなさい。ごめんなさい、でも、行かないで、ソフィア。何処にも行かないで」

「どうしたの? どうして謝るの、カリスティ?」

 その表情を窺おうとしても、カリスティは簡単には見せてくれない。むしろ、私にその表情を悟られるのが怖いようだ。それでも、抱きついたまま離れようとはしない。どうやら非常に嬉しい事に、私が離れていくのは望んでいないらしい。私だって槍の印をもって生まれたのだ。カリスティの傍に居るのが好ましいに決まっている。

 ――一緒に居てってこと?

 その事実だけでも愛おしかった。

「謝らないで。私は何処にも行かないわ」

 そう言って頭を撫でてやると、カリスティはほっとしたように力を緩めた。

 けれど、その身体は離れようとはしない。私の体温を確かめるように身を寄せて、その耳を胸元にぴったりとくっつけている。鼓動を聞いているらしい。何度止まり、復活したかも分からないこの鼓動を。

「ごめんなさい」

 カリスティは謝り続ける。

 その理由が私にはどうしても分からない。

 いつの日からだろう。カリスティは私に対して負い目を感じているように見えた。まるで私に対して取り返しのつかない罪でも犯したかのよう。

 もしかして、私が此処に引き取られた経緯や理由に対して責任を感じているのだろうか。でも、そんな事はカリスティのせいではない。私にはカリスティさえいればそれでいいのだ。それが槍という生き物。

「カリスティ?」

 窺ってみようとしても、カリスティは目を合わせようとしない。一体、どうしたというのだろう。どうしても彼女の考えている事は分からなかった。

 ユグドラシルが夜風を受けて枝を揺らしている。湖にも波が生まれ、ざわざわとした音で私たちを包んでいる。月光を反射する湖は銀色に光っている。その光景をぼんやりと見つめ、私はカリスティの背中を撫で続けた。

 ユグドラシルならカリスティの考えていることも分かるのだろうか。だとしたら教えて欲しい。カリスティは何を思い悩んでいるのだろうか。

 何にせよ、彼女が私を求めてくれるのならもう少しだけ此処に居よう。

 私はカリスティの為だけに生まれてきたのだから。

「ねえ、ソフィア」

 ふとカリスティから口を開いた。

「ソフィアはソフィアって名前好き?」

 意外な問いかけに私は思わず口ごもってしまった。

 名前なんてどうだっていいと思いつつも、今でもパラスが私のことをアテナと呼ぶ度に、心の何処かで嬉しくなってしまうものだった。

 神官長が恐れているのは私が強い自我をもつ事なのだと知っている。だからアテナと言う名前を奪い、私が人格ある一人の少女だということを無視したのだ。この国の危機が訪れれば私は自らの命を水底に沈めにいかなくてはならない。こんなにも愛しているカリスティの魂と共に眠りにつかなくてはならない。

 それ以外の道を忘れさせる為に、彼は私の名前を奪った。

 彼の魂胆など御見通しだ。それに、そこまで心配しなくてもいいのだ。私は分かっている。ちゃんと自覚している。槍に生まれた事を後悔した事なんてない。カリスティの孵化をこの目で見てからずっと、自分の役目の尊さを分かってきたつもりだ。

 だから、彼の心配など無用のもの。

 しかし、どうしてだろう。どうして私は動揺しているのだろう。カリスティも私も普通の少女として生まれ、出会っていたらよかったのに。そんな思いが強まり、カリスティに対してまともな返しが出来なくなる。

 そんな私に気付かないまま、カリスティは言った。

「わたしね、ソフィアのことを一度でいいから本当の名前で呼んでみたいの」

 その真っ直ぐとした目に息が詰まる思いだった。

 カリスティは卵より孵って以来ずっと真面目な果実であろうとした。誰かに何かを禁じられると、それを頑なに守るような子。そんな彼女には、パラスのように大胆な行動なんて取れない。それに、取る機会もない。私が傍に付いている今だって、神殿の何処かからガーディアンの誰かが監視しているのだ。勝手な行動どころか言動も許されはしない。もしも彼女が私を本名で呼べば、たちまち神官長の耳に入って面倒な事になるだろう。

 それでも、私は――。

「カリスティがそうしたいのなら、いいのよ」

 いざとなればカリスティを庇おうと思えた。怒られるのは私だけでいい。私にとっては何よりもカリスティの心の負担を軽くすることが重要だったのだから。

 しかし、カリスティは首を横に振った。

「やめておく。ソフィアもヒパティアも怒られちゃうもの」

 断るだろうことは分かっていた。

 カリスティはただの子供ではないのだ。どんなにあどけなく見えても、その内心に抱えているものは決して単純なものではない。

 何処の国の果実だって同じだと聞いている。卵より孵って待ちうけているのは、平穏であっても何処となく緊迫した不自由な生活と終わりの見えない恐怖、そして閉ざされたままの未来。成長すればするほど、その現実は果実に生まれてしまった少女たちの胸に重く圧し掛かる。

 武器を手にして戦える私とは全く違う。痛い思いは避けられない日々ではあるけれど、カリスティの為だと思えば不思議なくらい頑張れた。しかし、守られるだけのカリスティはどうだろう。

 その不安は私には想像すら出来ない。

「カリスティ」

 青き礼服の少女を抱きしめながら、私は囁いた。

「明日は朝早くに私が迎えに来てあげるから、それからまたユグドラシルと一緒に過ごしましょう?」

 カリスティの小さな吐息が聞こえ、私はそっとその表情を窺った。てっきり、部屋に戻る事を言われてがっかりしているのだと思ったのだ。けれど、罪悪感と共に視線を送ったその瞬間、意外な光景に私もまた惚けてしまった。

 カリスティが笑っている。

 ぎこちないものではあった。長らく心から笑えることが無かった為だろう。微笑みに留まってはいるし、その目も何処か切なげではあった。けれど、笑っている。笑っているのには変わりない。嬉しそうに、けれど、悲しそうに涙を浮かべて、カリスティは私に縋りついてきたのだ。

「うん、分かった」

 この笑みの意味は何だろう。

 母親に甘える子供のように縋りついて来るカリスティを慰めながら、私はふと考えた。

 嬉しさ、安心といったポジティブな要素が含まれているのは確かだろう。それだけならばどんなに嬉しいか分かったものではない。けれど、私は気付いていた。この笑みにさえカリスティを根っこから支配する悲しみのようなものが含まれているということを。

 何なのだろう、カリスティを苦しめているものとは。

 どうしても、どうしても、思い当たらない。

「ソフィア。引き留めて御免なさい。もう大丈夫」

 考え込む私に向かって、カリスティは言った。

 そしてうんと声を潜めて続けた。

「今日から夢の中で、好きなだけアテナって呼ぶね」

 きっと周りを取り囲むガーディアンなんかには聞きとれなかっただろう。


 ユグドラシルの枝がうんと上まで伸びている。

 その雄大な姿と共に、吹き抜けの上階から私は中庭にてうたた寝をしてしまったカリスティをふと見降ろした。

 別れる時、カリスティは嫌に潔く離れたものだった。

 また自分の気持ちを抑圧しているのか、はたまた、本当にもう大丈夫なのか、私には判断できない。カリスティが孵ってからもう十年も経っているというのに、私はまだカリスティのことをちゃんと分かってあげられていないのだ。

「憂鬱そうだな。カリスティ様と何を話していたんだい?」

 問いかけるのは横に居る人物。

 ニンフだ。どうやら、今の時間は彼女もまたカリスティの見張りに当たるらしい。ずっと観ていたのかと思うと少し恥ずかしい気もした。しかし、会話が聞こえていないのならまだいいかもしれない。

「別に、大したことではないわ。ただ甘えてくれたの」

 これが嘘だとしても構わない。

 カリスティが私の本名を言いたがっていたなんて、いくらニンフであっても告げられるわけがない。ヒパティアならば告げずとも読みとってしまう可能性もあるけれど、何も自らの口を割ってこういうことを言う必要なんてないのだ。

 とはいえ、ニンフは何かを察したかもしれない。万華鏡のような目はじっと私を見つめたまま考え事をしている。

 私は静かに覚悟を決めていた。

 ニンフの養父は神官長だ。元々、ニンフは出自があまりにもはっきりとしている身分の娘だったらしい。

 もう本当に子供の頃だが、彼女は市場で売られていた。父も、母も、血を分けた兄弟も、良質の肉と美しい羽根をもっているとされ、それなりの値打ちをつけられて売り出されていたのだと聞いている。食肉目的で買おうとしていた人物から横取りする形で今の神官長が買い上げたのだと。

 あまりにも悲劇的で信じられない話だったけれど、本人はほんの少し覚えていることを教えてくれた。ニンフの出自は本人よりも神殿に仕える人間たちがよく噂しているのを聞く。決まってあまりいい雰囲気ではない。彼女にニンフと名付けたのも神官長。養父となったのも神官長。人間たちがその状況によからぬ勘ぐりをいれているらしい場面を目撃する度に、私はニンフの立場も自分の立場も忘れて怒鳴りこみそうになるものだった。

 ともあれ、引き取られてからずっと、ニンフは神官長の忠実な娘として存在している。ガーディアンになれたのだって、当時は幹部の一人に過ぎなかった彼が幼いニンフの身体能力を考慮して、人鳥のガーディアン頭に指導を仰いだためだ。師は勿論、養父に感謝しないわけもないだろう。

 これまでの恩をニンフは忘れてはいない。

 神官長の養女。そんな立場で居続ける彼女を困らせるようなことはしたくなかった。

 何かを察してか、ニンフもまた深くは追求してこなかった。

「そっか。久しぶりにカリスティ様の笑顔を見た気がしたよ。そして、君もね、ソフィア」

「私?」

 首を傾げる私に、ニンフは静かに微笑んだ。

 人間の髪の毛に非常によく似た羽毛が夜風に揺れている。万華鏡のような輝きの目が夜の世界の中でもよく輝いている。美しく、頼りになる人鳥。そんな彼女がかつて食用兼装飾用雛鳥とかいう品名で売られていたなんて誰が信じるだろうか。言葉も交わせる人間の血を引く者なのに。

「カリスティ様に抱きしめられて、君も幸せそうに見えたよ。傍から見ていた僕でさえも嬉しくなるくらいに」

 面と向かって言われると、少しだけ恥ずかしくなった。

「物騒な話ばかり聞いた後だったからね。君とカリスティ様との絆が少しでも深まれば僕たちも安心するよ」

 そう言われ、少しだけ安心した。

 同時に、何処か切ない気持ちが生まれた。

 カリスティ。あの子は何を抱えているのだろう。私を求めているように思えたけれど、あまりにも窺えば今度は怖気づいてしまう。自然と心を開く時を待つしかないのだろう。しかし、ヒパティアに悪魔の話を聞いた直後の今、私は怖かった。

「ソフィア?」

 ふとニンフに窺われ、我に返る。

 きっと、私の表情が優れなかった為だろう。彼女は心配を顕わにしていた。

「大丈夫、ソフィア? 今日はもう休みなよ。心配せずともカリスティ様は僕達が見張っている。何かあったらすぐに起こすからさ」

 気持ちだけで動けたらどんなにいいだろう。

 不死の身体は便利だけれど、痛みや苦しみだけではなく、眠気もあるし疲れもたまる。身体に負担がかかれば不死の力も若干弱まり、長く昏睡してしまう羽目になる。数時間の睡眠さえも気がかりだと言うのに、気を失うなんてもってのほかだ。

 気が重いけれど、ニンフの言葉に甘えるしかないだろう。

「有難う、ニンフ」

 一言だけ礼を告げて去ろうとしたその背中に、ニンフは言った。

「――ソフィア」

 振り返れば、万華鏡の目が私の視界の中で輝いた。

「君一人で抱えては駄目だよ」

 直接的な優しさに心が震えた。


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