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英知の槍  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第1部
15/54

10.鴉の書

 ヒパティアが私たちに見せたのは「鴉の書」と呼ばれる分厚い装丁の古めかしい本だった。表紙には鳥が描かれ、エンジ色の表紙はどこか不安を掻き立てるものすらある。

 だが、これは禍々しいものではない。ヒパティアたちのような魔術師の一派が熟読する魔導書である。書いたのはコローネという人物。もちろん偽名で、その意味は鳥のカラスを現す。何故、カラスなのかと言えば、この本に出てくる女賢者の名前がカラスを意味する名前であるためらしい。この本に書かれていることの多くは、大昔に東の果て勇敢の国に現れたというその女賢者の教えを受け継いだものである。

 もう何百年も前の話だ。

 神殿に仕える魔術師は何処の国であっても一般人は勿論、他の役職の者、そして更には果実や武器自身よりも神話について詳しくなくてはならないものだが、その女賢者がいた時代は違った。

 私は幼い頃からヒパティアに養育され、悪魔についての話を子守唄のように刷り込まれた。悪魔の甘い言葉に騙されてはいけない。悪魔に果実を渡してはならない。もしもカリスティを奪われれば、私は最悪の決断を迫られることになってしまうのだと。

 始めはただただ怖かった。まだ幼いためにどんなに努力をしても強くなれたとは思えず、本当に自分が大切な果実を守れるのか不安だった。けれど、カリスティが孵ってからはその恐怖も薄らいだ。怖いのは確かだが、それに負けてはならないと思える。

 しかし、昔はそうでなかったらしい。

 訳も分からない内に悪魔は絶望する人々の前に現れ、取引を交わし、願いを全て叶えてやる代わりに神殿を襲わせる。そうして翻弄される武器の目の前で果実を自分のものにしようとしてきたらしい。そうして行われるのは、武器による身を削った報復。果実を奪い返し、ようやく悪魔の目論見は失敗に終わる。

 だが、悪魔は狡猾だった。

 自分の正体を殆どの者には漏らさず、自分の情報も秘密裏に処分してきたのだ。そうすることで、次の果実、或いはその次の果実が成長する頃には、また悪魔という存在が曖昧になるように狙っていたらしい。

 けれど、そんな時代も終わる日はくる。

 勇敢の国に女賢者が現れた為だ。彼女には死ぬまで勇敢の国の悪魔の姿が見えていたという。悪魔が彼女を気に入り、虜にしようと印をつけたためだ。呪われた身体に苦しめられながらも、四十歳を超えるまで国の為に戦い続け、悪魔に関する情報を同じ魔術師仲間に広めていったのだ。彼女の話と魔術は国を越えて、我が英知の国の賢者たちにまで知れ渡った。そしてコローネと名乗る人物がその言葉と教えを文字に起こし、分かりやすい魔導書として各国に輸出したらしい。

 勿論、勇敢の悪魔は怒ったのだろう。

 その女賢者は五十歳を超えることはなかった。一人きりで悪魔の僕と戦い、拷問の末に死んだらしい。最期まで悪魔の僕にならぬように耐え抜いたと当時の者たちは彼女を讃えた。この本にはそこまでも書かれているそうだ。

 ヒパティアはその女賢者の教えの流れを汲んでいる。今や、神殿付きの多くの魔術師はそうであるのだと聞いたことがある。中でも、ヒパティアは若い頃から「鴉の書」を読み解く才能もあったらしい。十代前半より、決して恵まれているわけではない魔力を駆使して様々な魔術を操れるという才知は、英知の国のカラスとも呼ばれたのだとか。

 それを教えてくれたのは、今、隣でぼんやりと本を眺めているニンフだ。彼女もまた年上のものに聞いただけであったらしいのだけれど。

「今やこの本に書かれている事は魔術師の間では常識となっていますが、魔術師以外となるとまだまだ常識とは程遠いようですね」

 ヒパティアは呟くように言った。

「昔もそうでした。悪魔と戦う際には、禁忌があるのです。それは、悪魔のしもべと直接戦わない事」

「――戦わない?」

 思わず訊ね返すと、幼い頃に威圧的にすら思えたヒパティアの視線とまともにぶつかってしまって、たじろいだ。

「そう、戦わない」

 幼子に言い聞かせるようにヒパティアは繰り返す。

「悪魔の僕の命を奪ってはならないのです。悪魔の僕は悪魔の宝物。もしも勝手に壊すようなことがあれば、その代償に新しい僕となるように悪魔は要求してくるのです」

「新しい僕……」

 呟いたのはニンフだ。

 その目はまだ開けたままの「鴉の書」の頁へと向いている。文字を目で追いながら、ヒパティアの言葉を頭に入れているらしい。

「決して拒めない呪い。悪魔の僕を殺してしまえば、その殺した者が後を引き継ぎ、悪魔に囚われてしまうのです。そうなればどうなるでしょうか。国を破滅させたいなんて願っていなくとも、内なる願いを誇張させられ、悪魔の言うままに果実を狙いだすのです。悪魔とは僕を宝として守るもの。けれど、用済みになれば敢えて欲しい人物に僕を殺させて、手っ取り早く自分のものにしてしまうのです。……ニンフ、あなたが吸血鬼を仕留めようとした時、私が止めた理由はもうお分かりですね」

「……ああ、よく分かった。感謝するよ、ヒパティア」

 やや震えた声でニンフは言った。

 私も恐くなった。あの時、もしもヒパティアが到着するのが少しでも遅れていたら、ニンフは私たちの敵になっていたのだ。愛するカリスティを奪う者として、私たちに大槍を向けてきたかもしれないのだ。

「きっと、本当はソフィアを狙っていたのでしょう。その方が手っ取り早く果実に近づけますからね。けれど、手に入れば他の者でも構わない。何しろ、悪魔というものはいつまでも同じしもべを持っているわけにはいかないのです」

「どうして……?」

 訊ねる声にどこか力が入らない。

 綺麗さっぱり治っているはずの首筋が気持ち悪くて、気になっていたためだ。もしもあのまま吸血鬼に連れ去られ、死ぬほどの苦しみを何度も与えられるような事があったならば、深く考えずに私は抵抗し、吸血鬼の命を奪ってしまっていただろう。

 そう思うと冷やりとした。

「悪魔の僕は強過ぎる魔力にあてられ続け、やがては精神を疲弊させていきます。悪魔に身を捧げたことによって、冷静さを奪われていくのです。やがてしもべの心は完全に死に絶え、本当の意味で人形と成り果ててしまう。そうなった時、僕は悪魔の身体の一部となってしまいます。そうなれば、もうそのしもべは果実を奪えない。神殿にはられた古の結界に弾かれて、侵入する事すらままならなくなるのです」

 つまり、あの吸血鬼の心はまだ死んでいない。何処か正常のまま、或いは開き直って、悪魔とやらの言いなりになって私たちを襲ったのだ。

「じゃあ、このまま待っていれば奴もいつか忍びこめなくなるんだな?」

 ニンフが訊ねると、ヒパティアは頷いた。

 しかし、その表情は優れない。

「あの吸血鬼は、そうでしょう。でもそうなった後でも、悪魔は焦ったりしません。神殿に忍びこめなくなったしもべを殺させる相手を探すだけです。きっとすぐに見つかるでしょう。この国は昔よりも豊かになりましたが、それでも悪魔につい耳を貸したくなるくらい絶望している者もいます。そういった者に悪魔は姿を現し、少しずつ手懐けていこうとする……」

 そこまで言って、ふとヒパティアは胸元を抑えた。

 苦しそうにしているように見えたが、それも一瞬のことで、すぐにその色は消えた。代わりに、透き通るようなその目が真っ直ぐ私たち二人を見つめた。

「あなた達には悪魔の姿は見えましたか? ソフィア、あなたには青い光、もしくは影が見えませんでしたか?」

「……見えたわ、青い影よ」

 即答する私を横目に、ニンフは首を横に振る。

「僕には何も」

 その言葉にはっとした。

 あの青い影。私にだけ見えて、ニンフには見えなかった。つまり、あれが悪魔。女吸血鬼を守るように取り巻いていたあれこそが、私が幼い頃よりずっと聞かされてきた悪魔の姿なのだ。

「悪魔は特定の人物にしか見えないのです。ニンフ、もしかしたらあなたの前に現れる日も来るかもしれない。そして、ソフィア、あなたにも今以上にその姿がはっきりと見える日が来るかもしれない」

「今以上に……?」

 青い影が本体ではないのだろうか。

 しかし、ヒパティアは首を振る。

「英知の悪魔は少女の姿をしています。美しい金髪と碧眼。悪意など全くないかのような無邪気な容姿と言動。けれど、その姿に騙されたならば、救われぬ未来が訪れるでしょう。エリスと名乗る悪魔。彼女に耳を貸してはなりません」

 エリス。

 名前まで知っている。そんなヒパティアが奇妙だった。美しい金髪と碧眼。少女の容姿。あの青い影だけでは全く分からない情報だ。悪魔を見たことのある極一部の人物の話を聞いたのか、或いはヒパティア自身が――。

「悪魔の事は分かった」

 ニンフが唸るように言った。

「じゃあ、悪魔を滅ぼす方法はないのか? 倒す方法は? 脅威を取り除く方法は見つかっているのか?」

 不安に駆られているのが私にも分かる。

 私だってそうだった。

 しかし、ヒパティアはまたしても首を横に振った。

「ありません。そのような方法はないのです。天使が我々に授けたのは武器だけ。それも、果実にもしものことが起こった時に強制的に時代を終わらせることしか出来ない」

「ヒパティア!」

 ニンフがヒパティアを咎めるように叫んだ。

 私のことを気遣ってだろうか。でも、私は気にしない。それもヒパティアに幼い頃から教えられてきた話だ。もしもカリスティを悪魔に奪われてしまったら、私は果実を守れなかった罪を償うために、奪われた果実を壊す戦いに身を投じなくてはならない。寿命も、老いることも奪われ、役目を果たすまで永遠に戦わなくてはならなくなるのだ。全ては英知の国を守るため。ユグドラシルと聖域に手を出される前に蹴りをつけることが、武器に課せられた使命となるのだ。

 そんなのは嫌。

 果実とは私の命。カリスティそのものでもあるのだ。それを壊すということは、私の手で愛おしいカリスティの魂を潰すということ。絶対にしたくないことだ。身体を何度滅ぼされたとしても、やりたくないことだ。

「……結局、悪魔にカリスティを盗られないように、戦い続けるしかないのね?」

「――ええ」

 私の問いにヒパティアは短く答えた。

 ああ、ミラ。

 あなたはどうやって百年の時を生き延びたのだろう。

 人馬という恵まれた身体能力だけでは敵わない場面もあったはず。それでも、あなたは自分の果実を百年以上も守り切り、最期は微笑みながらユグドラシルの根元で寄り添い死んでいったと聞いている。

 私もそうなりたい。

 カリスティと出来るだけ長く一緒にいたい。

 果てしない戦いだと分かった。これから先、ずっと。悪魔の影に怯えながら寄り添いあって生きていくしかないのだ。時には戦い、時には共に逃げて、カリスティを守る事に専念しなくては。

 カリスティは大丈夫だろうか。

 ふと硬く閉ざされていた扉の向こうを想った。

 震えてはいないだろうか。怖がってはいないだろうか。けれど、今の私にはカリスティがせめて不快な気持ちになっていないことを願うことしか出来なかった。

「ソフィア」

 ヒパティアが私に語りかけた。

「これから先、あなた達を苦しめるものはきっと増えるわ。けれど、忘れないで。あなたは天使の遺した英知。神々はきっとあなたを正しい道に導いてくれるはずよ」

 そうだと信じたい。

 第二のミラになれるなんて思えないけれど、せめて、出来るだけ長く、カリスティと一緒にいたい。心を閉ざしてしまっているし、拒絶されていると思うと悲しいのは確かな事。それでも、カリスティの命の源をこの手で潰してしまうなんて未来に比べたら、今の状況はずっとましなことだと思えた。

 忘れてはならない。

 英知の国の土台を守り続けてきた果実と槍の殆どは、望まない末路を迎えているという事実を忘れてはならない。

 たしか先代の槍と果実もそうだと聞いている。

 私のようにただの人間の一家に生まれたらしい槍の女と御人形のように愛らしかった英知の果実の少女。二人は結局寿命の半分も迎えられずに死んでしまった。その理由は悪魔の所為。幼い頃の私は、非常にざっくりとした説明を受けた。

「先代も、そうやって死んだのよね?」

 胸に浮かんだ正直な疑問を私はヒパティアにぶつけた。

 ヒパティアは先代の槍と果実を知っている。生前の彼女と話したこともあると聞いている。神官長に至っては二代前の槍と果実も知っているらしいけれど、彼自身と個人的に会話した事なんてないから関係ない。

 私の直接的な疑問に答えられるのはヒパティアくらいのものだろう。

 案の定、彼女は困惑の色を見せた。その時の事を思い出してか、表情は何処か暗いものだった。

「そうね。悲劇的な最期だったわ」

 幼い頃はぼかして教えられた。けれど、もう私は隠して貰わねばならない年齢でもない。

「先代の槍はエリスから自分の果実を守るために、エリスとその僕の手を逃れたわ。ユグドラシルから結界の張られたこの場所へ。けれど、その直前になって、エリスは魔術を用いて二人の行く手を阻んだの。神殿に居るものは誰も助けられなかった。不死ではない槍以外の人間が助けようとすれば、悪魔の僕に殺されるか、新たな僕にされるかの二択しかなかった。二人の逃げ道は何処にもない。そんな状況を打ち破ったのが、槍だったの」

 つまり、二人は死をもってその手を逃れた。槍が自ら英知の果実を壊す事によって。

 最悪の結末だ。

「エリスは二人の遺体を見て、怒り狂っていました。けれど、その姿は殆どのものには見えていなかった。神殿に居た人たちの目はただ英知の国を守った二人の聖女だけを見つめていた。そしてエリスの欲望を叶えられなかった僕が狂いながら神殿を逃げ出すところしか見えていなかったのです」

「ヒパティア、君にはその時から悪魔――エリスの姿が見えていたのかい?」

 ニンフの問いに、ヒパティアは静かに頷いた。

 それ以上はきっと何も言わないだろう。そうだと分かる態度だった。

「ソフィア。あなたにはそんな最期を辿って欲しくない。出来る事なら、あなたとカリスティ様には此処に居て欲しい。居心地がよくないのはよく分かっています。悪魔を弾く結界は、天使にとっても不快な類のものなのです。その天使の系譜であるあなたとカリスティ様にとってもそうであるはず」

 ――そっか。だからカリスティは……。

 清めの日は憂鬱だとカリスティは漏らしたことがある。

 この結界の中に閉じ込められることは、生きながら湖の底に沈められてしまうのではないかと錯覚するくらいの辛さであるのだと。最初はカリスティだけの感覚なのだと思ったけれど、神殿に残されていた歴代の果実や私の先代となる槍達の中にも、そう証言していた者が複数いたらしい。

 私はそこまで嫌ではない。不安を掻き立てられるのは確かだし、出来れば外に出たいとは思うけれど、カリスティを見ればまだましなのだと自覚できる。

 それでも、ヒパティアの願いは素直に受け入れられないものだった。

「危険は分かったわ。でも、私はカリスティの望みに従いたい」

 週に一度の清めの日でさえも嫌がるのに、此処よりも更に結界の濃い場所に囚われているなんて。考えただけで可哀そうで仕方なかった。

「そうですか……」

 非常に残念そうな、しかし、予想はしていたかのような様子で、ヒパティアは言った。

「カリスティ様のご希望はとうに承知しております。彼女は閉じ込められてからずっと、いつ外に出られるのか、ユグドラシルの元に帰れるのかとばかり御聞きになるのです」

「それなら、私の希望は一つだけよ」

 カリスティを出来るだけユグドラシルと共に過ごさせてあげたい。

 その為ならば、肉の盾となったっていい。どうせ私は死なないのだ。ヒパティアに真実を教えてもらった以上、誤って悪魔の僕を殺すなんて失態はしない。どんな拷問を受けたとしても、カリスティを陥れるようなものに負けたりはしない。

 思いは強まるばかりで、不安もいつしか薄らいでしまっていた。

 そんな私の目を見つめ、ヒパティアは切なげな視線を送ってきた。

「分かりました。もうじきです。カリスティ様と共にユグドラシルの根元へ御戻りなさい」

 まるで母親が幼子に語りかけるかのよう。


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