9.ヒパティア
青い紙が張り巡らされた空間。
その場にいるだけで伝わってくるのは、底知らずの強大な魔力と、それに伴う圧倒的な緊張感。そして、冷や水のように相手を凍りつかせる声だった。
ヒパティア。
その名は長らく母親のように安心感のあるものだった。
それは今だって同じ。
彼女は私の保護者のようなものだ。でも、保護者というだけではない。彼女は間違いなく神官長が一番頼りに思っているだろう存在だった。
「ヒパティア……何故、あなたが――」
言いかけたのはニンフ。
大槍を手に構えたまま、今もなお、その猛禽の目で青い空間をぼんやりと眺めている。この場所に居るのは、私と、ニンフと、二人の青年と、そしてヒパティアだ。ただ一人、女吸血鬼だけが何処かへと隔離されてしまっている。
いや、隔離されているのは私たちのほうなのだ。
この魔術。ヒパティアのように魔力を操る才に恵まれていなければ扱ないものだ。知ってはいるものの、あいにく私自身は魔術など使えないのでとても真似は出来ない。
いや、そんなことよりも、何故ヒパティアはニンフの邪魔をしたのだろう。
あと少しで不届き者を成敗出来たというのに。
邪魔したどころか、私たち全てを隔離してしまっては、相手の好きに出来てしまうではないか。この間に女吸血鬼がカリスティの元にでも向かってしまったら……。考えただけで悪寒が走った。
それでも、ヒパティアは表情を崩さずに私たち全てを見つめてから告げた。
「全員、よく聞きなさい。此処は異空間。私に逆らえばあなた達の心は凍らされてしまうでしょう。分かったのなら、余計な事は聞かずに黙って私に付いて来なさい」
ニンフが絶句する。私も同じだ。
だって、滅茶苦茶だ。
ろくな説明もなしに脅されるなんて。
しかし、逆らうにも逆らえない。ヒパティアは力ある魔術師であり、賢者でもある。魔術師長という位は長らく揺るがされず、今も当然のように神殿付きの全ての魔術師の頂点に君臨している。魔術に関して彼女と競って勝てるような者なんて、この国全域を捜しているかいないか分からない。
それに、ヒパティアという人には逆らえない理由もあった。母親のように慕ってきた者ではあるけれど、だからこそ彼女の命令を無視する事は出来ないということが身に沁みていたのだ。
説明が欲しくとも、ヒパティアが言うのなら、それに従って付いて行くしかないだろう。いくら、カリスティが心配で仕方なくとも、ヒパティアの命令を逆らってまで行動することなんて出来なかった。
ヒパティアだってカリスティをわざわざ危険な目に遭わせるような選択はしないだろう。そうでなければ魔術師長になんて任命されないし、カリスティの主治医も担わないはずだ。
そう、彼女こそがカリスティのケアを担う医者。
私とカリスティの関係をずっと見守り、少しでもカリスティの心が歪まないように支えてくれている存在。武器と果実というものを長らく研究し、その力が英知の国のためとなるように導く者。
彼女に従うのは間違いではない。
いつだってカリスティのことを優先させるのは変わらないのだから。
「……分かった」
私が渋々納得するのとほぼ同時のタイミングで、ニンフが頷いた。
「この場はあなたに委ねよう」
二人の部下もまた異論はないようだった。
ヒパティアはたしか四十代半ばほどの年齢だったかと思う。
外見だけではあまり年を取ったようには見えず、幼い頃に縋った時の姿とそんなに変わらないように思えるが、体力も魔力も全盛期に比べれば緩やかに衰えてきているのだと自覚しているらしい。
だが、そうであってもヒパティアは一人の魔術師として十分に活躍できる力を保ち続けているようだ。神官長が一番信頼しているのは今も昔もヒパティアであるし、他の若き魔術師たちの中に第二のヒパティアとなれる候補が見当たらないせいでもあるだろう。
現役で戦えなくなった後は、きっと若き魔術師の指導に専念し、そこから新たに優秀な魔術師が誕生するかもしれない。
そう期待されていることは私もよく知っていた。
知ってはいたが、具体的にどういうことなのかまでは知らなかった。
私は槍の印を持つだけの小娘に過ぎない。魔力もたいして持っておらず、せいぜい槍としての力によるものだけだ。
こんな私に複雑な魔導書に因んだ高度な魔術など理解出来るはずもない。
それは共にヒパティアに従うニンフや二人の青年も同じであるらしい。皆、不安を素直に表に出しながら、青い空間を進んでいる。
この空間でヒパティアを見失ってはいけない。彼女を見失い、もしも迷ってしまったならば、水の底へと沈むより苦しい思いをする羽目になるだろう。
これは幻術なのだ。
もしも囚われれば過去の嫌な記憶や忘却の海に沈めた負の感情を呼び起こされ、延々とその苦痛の味を舐めさせられることになる。
空間に引きずられた者は全て術主の判断に委ねられ、術主に守られなくては例外なくそんな目にあってしまう。
危険な幻術だ。
しかし、同時に回避と逃走の術でもある。魔術に長けた者がうまく使えば選んだ者だけを隔離して、そのまま選ばなかった者の目を眩ませて逃げてしまうことだって出来るのだ。
その代わり、術主は大量の魔力を消費してしまう事になる。魔術自体は有名であってもあまり使われることがないのはその為だ。
「そろそろ切れるわ」
ぼそりとヒパティアが言った直後、青い紙が風に飛ばされるように消え始めた。
あっという間に青くて気味の悪い空間はぼろぼろと崩れていき、本来の世界が顔を覗かせ始める。
そしてやっと私は自分達が今何処にいるのかを知ることが出来た。
そこは、中庭のすぐ傍の厚い扉の向こう側であった。
カリスティが週に一度清められる時に使われる部屋のすぐ近く。滅多な事では解放されない理由は、悪しき者からカリスティを守るための結界を無駄に薄めるわけにはいかないからだと聞いたことがある。
そんな結界の張られた場所に、ヒパティアと私たちはいた。
「カリスティ様はこの奥に隠してあります」
淡々とヒパティアは言って、薄暗い部屋の更に奥の扉を示した。
だだっ広いこの空間は、いつも私が清めの儀を終えたカリスティを迎えに来る場所だ。震えながら私の訪れを待ち、ユグドラシルの生える中庭へと一刻も早く逃れたがっている姿を見る羽目になる部屋。
その奥となれば、いつもカリスティが清められている時に入っている部屋だろう。
そこは確かにカリスティを守るに適した場所であるようだが、その命を守る代わりに、ただでさえ崩れかけたカリスティの心を更に抉る何かがあるらしい。
私はカリスティが清められている所を見たことがない。
槍の印を持ってカリスティの為だけに生まれてきたはずなのに、愛らしいその身体が清められ、心を抉られてしまう瞬間を、この目で見る事を許されていないのだ。
その扉の奥にどんな真実があるにせよ、重要なのはいつもカリスティの心を蝕むものがあるということだ。
「カリスティ……」
たまらなくなって私はその名を呟いた。
閉じ込められているということは、今もそうなのだろうか。早くユグドラシルの根元へと戻りたいと嘆いているのだろうか。
「可哀そうですが仕方がないのです。奴の気配が消え去るまでは中庭に出すわけにはいかないのですから……」
私の心を察したようにヒパティアは言った。
「お分かりでしょうけれど、奴の狙いはカリスティ様です。しかし、ただの不届き者などではなく、ある特殊な力を持ってカリスティ様を手に入れに来たようですね」
特殊な力。
そう言われ、ふとあの女吸血鬼の姿を思い出した。
今まで見てきた侵入者と明らかに違うところがあるとすれば、真っ先に思いつくのが女吸血鬼を守るように存在していたあの青い影だ。並々ならぬ雰囲気もまた忘れられない。あれは何だろう。鬼族特有の力だろうか。底知れぬ魔力があのような形で漏れだしているのだろうか。
しかし、どうやらそんなに単純なものではないらしい。
ヒパティアは溜め息混じりに言ったのだ。
「あれは悪魔」
「悪魔……?」
ニンフがやや疑わしそうに返す。だが、ヒパティアは全く動じない。
「そう、悪魔。この英知の国で古くから伝わる神話によれば、この国を知恵で導く英知の天使の双子であり、影に潜みながら神々への反逆を目論んでいる存在」
英知の悪魔。
ニンフも、そして二人の青年も、その名を聞いたことがないなんて事はないだろう。
対応する神話は天使に比べれば数少ないけれど、その名はあまりにも有名だった。
悪魔は天使の産んだ果実を狙う者。神々と天使を憎み、聖域というものを崩壊させるべくユグドラシルを枯らそうとしているらしい。
その存在は謎に包まれている。一体いつから現れ、何故、ユグドラシルを枯らしたいのかまでは神話にも記されていない。
それでも、悪魔の存在があるからこそ、魔術師が常に結界を張らねばならないと定められているのは確かだった。
この部屋から奥の存在意義もまた、悪魔のせいだと言われている。
しかし、私もニンフたちも半信半疑だった。何せ、悪魔は知っているが、悪魔が実在するなんて事は知らないからだ。全くいないなんて考えているわけではないが、天使だって姿を見せたりしないのだ。悪魔もまた世の中の何処かで潜んでいるだけだと思っていた。
飽く迄も、私の敵は黒い欲望に忠実すぎる不届き者だけ。
英知の国の全てを崩壊させたとしても、各々の願望によってカリスティを力で奪おうとする悪人だけだと思っていた。
「……正確には悪魔の僕ですね」
ヒパティアはそう付け加えた。
「彼女は恐らく聖域の外にも行けるほどの魔力を持った鬼族。誇り高く、自分のことは自分で決めて行動するはずの者。だけど、今の彼女は違います。その心、その魂は、英知の悪魔が握っている」
「どういうことだ……? 操り人形ってことか?」
ニンフの問いに、ヒパティアは頷いた。
「彼女がどんな人物だったのかは、もはや分かりません。ですが、今の彼女は主人である悪魔の為にカリスティ様を手に入れることしか考えていないはずです。それが悪魔の僕。ただの不届き者と違うのは、悪魔の力を借りているという点です」
「悪魔の力を――?」
その言葉に嫌な感情が芽生えた。
何であったとしても、カリスティに危害を加えようとしている存在があるというだけで気持ちが悪かった。
「悪魔は常に僕の傍に寄り添っています。そして、果実を奪うためにその尋常でない力を惜しみなく僕に与えるのです。悪魔の僕は厄介な存在。生半可な状態で立ち向かったとしても、呆気なくその牙にかかるだけでしょう」
あの青い影。女吸血鬼を守るように存在していた。
あれが悪魔の力。もしくは、悪魔そのものなのだろうか。
――嫌な感じだ。
青というものはこの英知の国においては聖なる色。ユグドラシルの前に広がる湖の色でもあるし、カリスティの色でもある。そして、私のような槍の色でもある。青い一角獣は正義の象徴。その青が、悪魔というものに取り憑かれた女を守っているなんて。
それにしても、分からない事はまだ残っていた。
「危険なのは分かったが、教えてくれ、どうして邪魔したんだ」
ニンフが半ば憤慨したように訊ねた。
そう、あの時、ニンフは間違いなく止めをさせそうだったのだ。青い影に取りつかれる強敵の命を奪えていたかもしれない。
それなのに、どうしてヒパティアは止めたのか。
「それについてはもう少ししてから説明しましょう。今はともかく、此処で待機しなさい。今、こういう時の為に準備をしてきた魔術師たちが、奴を追い出すために動いています」
この部屋の外の話でまだ戦っている人がいる。
魔術師たちということは、ガーディアンはいないのかもしれない。どうやら、あの敵の相手をするべきなのは、力任せのガーディアンではいけないらしい。悪魔の僕とはそれほどまでに特殊な敵なのだろうか。
ふと、カリスティが心配になった。
閉め切られている扉を見つめても、その奥がどうなっているかなんて分からない。
「ヒパティア……」
私はそっと彼女に訊ねてみた。
「カリスティはどうしている? 怖がっていない?」
すると、ヒパティアは少しだけ目を伏せた。
「あの子の心を掴むのは難しい……」
幼い頃に私に語ってくれたような声色で、ヒパティアは答えてくれた。
「でも、ソフィア。不安に怯えるあの子にあなたの名前を聞かせてあげたら、少しは落ち着いて言う事を聞いてくれました。今はただ時が過ぎるのをじっと待っているところ。後でまた中庭に出られたときは、あなたが慰めてあげて」
言い聞かせられ、私はふと不安を覚えた。
カリスティを慰める。そんなことが私に出来るだろうか。触れようとすればいつだって怯えるあの子をどうやって慰めたらいいのだろう。ただ傍に居ればいいのか、何か話しかけなければならないのか、どうしても分からない。
あの子を慰められるのは、きっと私ではなくユグドラシルの方だろう。生みの母親なのだから。彼女の言葉はいつだって真実なのだとかつてカリスティは笑顔で教えてくれたものだった。その時は少しだけユグドラシルに嫉妬したのだけれど、今はあの頃に戻りたくて仕方がない。
ユグドラシル。私もその声が聞けたならどんなによかったことか。
「どうやら、悪魔の僕は立ち去ったようですね」
ふと、ヒパティアが言った。
その目は閉ざされたままの結界の扉の向こうを見ている。ユグドラシルはきっとあの向こうで不吉な状況を少しでも癒そうと枝を揺らしていることだろう。
壁すらも見通すその目を凝らしながら、ヒパティアは続けた。
「恐らく、ソフィアもカリスティ様も手に入らないと睨んで悪魔が撤退させたのでしょう。私がいる限り、二人に近づけるようなことにはさせない。おそらく悪魔はそれを分かっているのです」
「分かっている?」
聞き返すニンフに、ヒパティアは頷き、そして歩きだした。
向かうは、結界内の別の部屋。ただしそこはカリスティが匿われているはずの部屋ではない。不安を浮かべる私に気付いてか、ヒパティアは冷静な声で告げた。
「念のため、少し時間を置きましょう。心配せずとも、カリスティ様には後でちゃんと会わせてあげますよ。だから、もう少しだけ、私の話を聞いてください」
扉が開かれた先にあるのは、ヒパティアが管理する魔術師長の部屋。
幼い頃には何度か連れてこられたことがあったが、久しく入ったことはない。ここでは我が国の果実や武器について研究されてきた結果が詰まっているのだと大きくなってから聞かされた。
そこへとヒパティアは私とニンフのみを導いた。




