8.救出
カリスティ。
その名前を初めて口にした時、並々ならぬ感動がどっと押し寄せてきた。
七歳の私の中に母性のようなものが芽生えた瞬間だ。
孵化した時をこの目で見て以降、およそ三歳児くらいの姿をしているカリスティは、本当に可愛らしい我が子のような存在だった。
名前を呼ぶとカリスティは私に縋りついてきた。
孵化した時からそうだった。彼女は孵化を見守っていた多くの人物の中から、迷うことなく私を見つけ出し、温もりを求めてきた。
それが槍と果実であるのだと。
きっと他国も同じようなものだろう。
では、他の国ではこういう事もあるのだろうか。
ぽたりと水の音が響き、私の記憶の隅っこでカリスティの笑顔が浮かんでは消える。どれもこれも幼い姿のままだ。
卵から孵ってしばらく、カリスティの実年齢が五歳になるくらいまで、彼女の笑みを得るのは非常に簡単な事だった。
あの笑みを失って、どのくらい経っているだろう。
時間がいくらかかっても、なかなか上手くいかなくても、私はもう一度、カリスティが心から笑うところを見たかった。
それにはどうしたらいいのか。
眩すぎる光に包まれた記憶が交差し、私の意識が揺らいだ。
暗闇の中に湖の青い煌めきがゆらゆらしている光景が浮かんだ。
聞こえてくるのは水滴の音で、その軽くて寂しげな響きは、優しげであるにも関わらず、私の頭を何度も叩いてきた。
真っ暗な中で遠い場所に青い光の輪が見える。
私の身体は水の中にあって、もがいても、もがいても何者かに沈まされているかのような感覚に悩まされた。
何となく、光の輝く方へと向かわなくてはならない気がしていた。
それでも、硬い私の身体は言う事を聞かず、前に進むどころか沈まないようにする事がやっとだった。
ここは何処だろう。
ユグドラシルの正面にある湖だろうか。
けれど、記憶にあるあの湖はこんなに暗くないし、冷たくもないだろう。確かにあの場所は墓場であるし、私やカリスティの先代が眠っている所ではある。
それでも、こんなにも寂しくて焦りの生まれる場所ではなかったはずだ。
私は何をしていただろうか。
その考えが私の頭を駆け廻った時、ふと、目の覚めるような感覚が生まれた。光の輪が矢のようにこちらに飛び、無力な私を包みこむ。
その瞬間、私の意識はやっと覚醒した。
意識を失っていた事はすぐに自覚できた。
けれど、ここが具体的に何処であり、どういった状況であったのかを理解するのには少々時間がかかってしまった。
横たわっているのは緑豊かな芝生の上。
神殿の敷地内であることを教えてくれたのは、カリスティの隠れる御殿から少々離れた位置にある建物の壁が見えたからだ。
そこで、自分が何をしていたのか、何をされていたのかを思い出して、私はやっと起きあがる気になった。
「ソフィア様……!」
泣きだしそうな声は人犬のものではない。
そこに居たのは別のガーディアン青年だった。見たところ、彼は獣人ではなく私と同じく純血の人間に見える。直接、目に訴えてくるようなスミレ色の目を潤ませて、彼は私を心配そうに見つめていた。
「御怪我は……?」
訊ねられ、私は冷静に首を横に振った。
あるわけがない。だって、私は槍なのだから。それでもそう訊ねるということは、彼はまだ槍というものを知識程度にしか知らないのだろう。
ふと、怒声が耳に届き、私は青年から目を逸らした。
見れば、私からやや離れた場所では、まだ緊張感の漂う状況が保たれていた。
睨みあっているのは青い影に包まれる女吸血鬼と、その女吸血鬼を心から警戒し、軽蔑の眼差しを送る二人のガーディアン。
一人は私を呼びに来た人犬の青年だ。完全なる犬の姿をやめ、半人半犬の姿で勇敢の国生まれの武器を振りまわしている。そしてもう一人はニンフだった。彼女もまた腕から翼を生やし、純血の人間には到底操れない巨大な槍を手に女吸血鬼と争っている。
その二人を相手に、女吸血鬼は余裕そうな表情を浮かべていた。
「奴に連れ去られそうになっていたのですよ」
そっと傍に居る青年が私に教えてくれた。
「あの女、どうやら恐ろしいほど強力な魔術を操るようです。ニンフ様共々、私共は惑わされてしまって……。遠吠えが聞こえるのが後少し遅ければ、追いつけなかったでしょう」
遠吠え。つまり、あの人犬が呼んだのだ。
ぞくりとした寒気に身が震えた。有りっ丈の血を吸われた感触は思い出すまでもなく、今やもう傷一つない首筋を這っていく。
あの女は私を連れ去ってどうするつもりだったのだろう。本当の狙いはカリスティにあると言っていたはずなのに、死なない私を連れ去って、何をするつもりだったというのだろう。
寒気に抗うように立ち上がり、私はゆっくりと槍を取りだした。
「ソフィア様っ――」
止めようとスミレ色の目の青年が私の身体を支えた。
「駄目です。今は彼らに任せて」
「いいえ、もう大丈夫。私も戦わなきゃ」
死ねばそれっきりの二人にこれ以上甘えてはいられない。
何のために私が槍の印を受け、何のために不死でいるのかを思えば、じっとなんてしていられなかった。
けれど――。
「ソフィア! 無理すんな!」
雷鳴の轟きのような声が聞こえてきた。
ニンフの声だ。半分だけ怪鳥の本性を現している彼女は、いまや男か女かも分からないような風貌をしている。ただ、彼女の身体を覆う羽毛とその鋭い眼だけは、恐ろしく美しいものだった。
吸血鬼の女一人相手に、獣人二人。
それでも、互角というよりも、相手に分があるようにすら思えてしまう。
純血の人間にはとても扱えない大槍を振りまわし、ニンフは吠えた。
「こいつは僕に任せろ!」
人犬の部下よりも良い動きで、ニンフは女吸血鬼を追い詰めていく。
二人の物理的な動きを見据え、女吸血鬼は亡霊のようにそれをかわしていくが、ニンフだけは諦めなかった。亡霊のようにといったが、亡霊そのものではないのだ。所詮、魔術か何かで相手を惑わしているだけのこと。
人犬の部下が吸血鬼の臭いに視線を引きつけられると、その気配を察知してか、ニンフは当の人犬よりも真っ先に動く。
これが獣人のガーディアン。
「ソフィア様、今のうちに我々はカリスティ様の元へ……」
青年のスミレ色の目が私を急かす。
それを受けて、頷こうとしたその時、乱闘の間から悲鳴のようなものが響いた。直後、ニンフの声が響く。地面に叩きつけられる半人半犬の青年へと向けられていた。傍には女吸血鬼。人犬の青年に止めを刺そうと構えている。
部下に手を出された怒りだろうか。ニンフは言葉にならぬ怒声を上げたまま大槍を手に突っ込んでいった。部下の命が奪われる前に、怒りに任せて女吸血鬼を殺すつもりだろう。
猛禽の心が素直に出た姿。
荒々しいその姿がこの目を釘づけにするせいで、私はカリスティの元へと向かうことも忘れてただただニンフを見守っていた。
それは隣に居るスミレ色の目の青年も同じだった。
ニンフが敵に止めを刺す姿。
初めて見るわけではない。
時に、聞きわけの悪い侵入者が相手である場合、我々はその命を奪わなくてはならなくなる。命を奪う罪よりも、カリスティを奪われる罪の方がずっと重たい。そう言われているからこそ、私たちは必要とあれば敵を殺した。
私はこの目で見たことがある。
猛禽の姿をしたニンフが、人間の侵入者を抑え込み、そのまま喰い殺してしまった姿をこの目で見たことがある。
その夜は眠れなかった。
カリスティに危害を加えようとした敵であった上に、人の死と言うものを初めて見たわけではなかったはずなのに、震えと怯えが止まらずに眠ることが出来なかったのだ。
そして、恐ろしかった。
もしも私の力が及ばないようなことがあれば、カリスティがあんな目に遭うことだってあるのだと思うと、恐ろしくてたまらなかった。
他人の死を見るのは苦手だ。
敵であっても、味方であっても、苦手なものは苦手だ。
しかし、今この瞬間、どうやらその苦手な場面と向き合わねばならない時が訪れようとしているらしい。
その足音に気付き、覚悟し、私は目を逸らさずにニンフを見守った。
人犬の青年からニンフへと視線を向けた女吸血鬼が、軽く槍を避けた。転んでいた人犬への追撃は諦めて、ニンフの相手に専念するらしい。
だが、積極的には動かない。
動けないのか、敢えて動いていないのかは分からないが、ニンフの気迫と俊敏さの方が遥かに上回っている。
勝利はニンフのものだ。
そう確信した時、ついにニンフの大槍が女吸血鬼をなぎ倒した。地面に仰向けに倒さる女吸血鬼は、やはりのろのろとした動きでニンフを見つめている。何にせよ、この機会をニンフが見逃すはずもない。
大槍の切っ先を女吸血鬼の胸元に突きつけると、ニンフは恐ろしく低い声で唸るように言った。
「遺言があるなら聞こうか」
どうやら危険な鬼族の侵入者に与えられる未来は一つだけのようだ。
それでも、女吸血鬼は全く動じていなかった。命の危機に瀕しているというのに、何処か他人事のような表情を浮かべ、大槍を構えるニンフを眺めていた。
「随分と物騒ね。私の心は何も口にしなくても、すぐに君にも分かると思うよ。小鳥さん、殺すのなら殺しなさい。君の力で私を殺せるのなら」
不可思議な物言いだった。
諦めているのか、何か裏があるのかは分からない。
ただ、ニンフは冷静さに欠いているようだった。戦っている内に猛りというものに心を支配されてしまったのだろうか。
殺されるという直前でなおも微笑を浮かべられる女吸血鬼の態度について、立ち止まって考察するようなこともないらしい。
そして、ニンフが叫び、その手の槍が動き出した。
――ああ……。
また、人が死ぬらしい。
魔族であろうが、少しばかりの人間の血を受け継いだ……この英知の聖域の中に留まることを許されている人物が、殺される。
その光景を覚悟しながら見守っていた……はずだった。
一体どういうことだろう。
私も、ニンフも、そしてニンフの部下の青年たちも、皆揃って茫然としていた。特に、ニンフは目を丸くしていた。半鳥の変身も解け、今やただの娘のような姿で大槍を支えて震えている。大槍の切っ先は虚しく空を貫き、その先に居たはずの女吸血鬼の姿は何処にも見当たらない。
私たちを取り巻くのは青い紙が張り巡らされた異空間であった。
一見して、魔術によるものだと分かるもの。
その正体が分かるのはいいが、問題は、誰がこの空間を作り出しているかであった。
女吸血鬼による魔術に全員が囚われた。
真っ先に思ったのはそれだった。だから、私たちは全員絶望していたのだ。相手は鬼族。魔術に関しては聖域の中に住まう全ての生き物の頂点に君臨していると言ってもいいだろう。そんな血を引いている者が相手なのだから、もっと警戒するべきだったかもしれない。
後悔が駆け廻ったが、もう遅い。
これがもし本当に女吸血鬼による魔術ならば、私たちにはもう抗う術が殆どない。こうしている間に、カリスティへと近づかれたらどうしよう。
ただただそんな恐れを抱き、私は息が詰まりそうな思いで青い空間を見渡していた。
「そんな……此処は……」
ニンフが我に返り、狼狽し始める。
しかし、そんな時。
「危ない所でした」
清らかな水が流れいくようなその声は響いたのだった。




