7.吸血鬼
本物の鬼族。
危険な美しさを漂わせる彼女と目が合った途端、私は身震いしてしまった。
まるで、古き神話にて登場する美の女神のようなその姿。輝かしい色の髪に虹のような色の眼差しが心を貫く。そして、その神秘さを際立たせるように、青い影が彼女の周囲を覆っていた。
愛情の国の民の血でも引いているのだろうか。そして、その美しさを際立たせるあの青い影は何だろう。
ともかく、彼女は美しかった。パラスとは系統の違う美しさだ。
だが、どんなに美しかったとしても、侵入者は侵入者であって、鬼族は鬼族だ。こんな場所に敵意も隠さずに現れたと言う事は、どういう事なのか考えるまでもない。
犬に姿を変えたガーディアンの青年と共に、私はこの吸血鬼を警戒し続けていた。
彼女が動く前に、誰かが駆けつけてくれたらいい。
けれど、そんな事を祈るのも甘過ぎたらしい。
「ああ、君が槍の子か」
目を細めて女吸血鬼は言った。
そっとこちらを手招く姿は、気を抜けばうっかり近寄ってしまいそうなくらいの魔性を秘めていた。きっと魔術も使っているのだろう。
――あの目を見てはいけない。
私はそう判断し、虹のような目から視線を逸らそうとした。けれど、どういうわけか目が動かなかった。槍を持ったまま、女吸血鬼と目を合わせたままで、私は段々と実感した。
これが鬼族という存在。
ただの魔術師だったら簡単に目を逸らせただろう。魔術なんてまやかしに過ぎないものだと言われているし、実際、この世に存在する魔術師の多くはそういった魔術しか使えないものなのだ。それでも、賢者という称号を持つ者はまやかしなんて言えない程の魔術を披露出来るものであったし、鬼族の血を引く者はそんな者たちの一種なのだと言われているのも確かだった。
そうは言われてきていたけれど、私がその力を体感したのは初めてだった。
鬼族なんてそうそういないのだ。いたとしても、神殿に忍びこんでしまうような不届き者なんて殆どいない。彼らは賢いから、無駄に己の身を危険に曝すような事なんてしない。
それなのに、彼女はここに来た。
「――ソフィア。いいや、本当はアテナっていう名前なんだっけ?」
どうして、私の名を――。
聞くまでも無かった。鬼族の女に見つめられていると、脳の端々まで探られているような気分になって気持ちが悪かった。
震えが生じ、足を踏み出す事も出来ない。
やがて、そんな私の様子に気付いた人犬のガーディアンが、意を決したように雷鳴のような声で吠えた。
「汚らわしい鬼女め!」
猛々しい青年の声が響き、一頭の焦げ茶の猟犬が風のように走っていく。
長い耳と尻尾が揺れ、馬のように細くも筋肉質な四肢が大地を蹴っていき、白銀の牙を光らせて女吸血鬼めがけて飛び掛かる。
それを受け、女吸血鬼の視線が私から逸れた。
ふっと身体が軽くなり、私は仲間のガーディアンの姿へと目を移した。
犬姿の彼は女吸血鬼の動きを探りながら、その手が怪しげな魔術を含んで伸ばされた瞬間、すぐさま横へと避けて人の姿に戻った。それとほぼ同時に得物である勇敢の国生まれの小刀を構え、躊躇いなくその美しい肌を傷つけようとした。
しかし、女吸血鬼はそんな動きすらもお見通しだったらしい。
私もまた走り出し、槍を向けた。
人犬の彼に気を取られている隙に、この聖なる角をもって彼女の罪を裁かなくてはならない。その思いは届きそうにしか見えなかった。
けれど、私の思惑はあっさりと外れた。
女吸血鬼の蹴りがガーディアンの身体を飛ばしたと思った次の瞬間、私の槍を避けた彼女が視界からいなくなった。
「――え……」
次に伝わってきたのは冷たい手の感触。
私の首筋を優しくなぞっていったかと思えば、直後、もう片方の腕が激しく私の胴を捕まえてきたのだ。
女吸血鬼に背後を取られた。
「いや……!」
人間では考えられないその強い力に怯んで、私は思わず槍を落としてしまった。
地面に落ちると同時に、槍が水となって溶けていく。こうなっても焦らず冷静に次の槍を生みだせばいいのだけれど、落ち着くより先に、彼女の吐息が首筋にかかったせいで頭の中が真っ白になった。
女吸血鬼が嫌に密着してきている。その視線が見つめている先は、私の首筋らしい。
何が目的かなんて考えなくても分かってしまった。
「放して、放して!」
暴れたところで何も変わらない。腰に下げた有り物の剣に手を伸ばそうとしても、上手くとることが出来なかった。
こうして背後を取られてしまっていては、槍で貫く事も出来ない。
混乱が混乱を生み、どうすればいいのか分からなくなっていく。
「ソフィア様!」
人犬のガーディアンが起きあがり、目を見開いて私を見ている。
そんな彼に向って、女吸血鬼が笑いかけた。
「御免ね、ワンちゃん」
からかうようにそう言ったかと思えば、私達と人犬の間を青い霧のようなものが阻み始めた。女吸血鬼を取り巻いていたあの青い影に少し似ている。魔術なのか私にはよく分からない。ただ分かる事は、その青い霧がだんだんと私達の視界を奪っていくことだけだった。
「ソフィア様……!」
焦りだけが声となって伝わってくる。
霧の向こうで彼が動いているような気はするけれど、その鋭い鼻でさえも私の居場所を見つけられないらしい。
どうして。聞くまでもない。
女吸血鬼の魔術に翻弄されてしまっているせいだ。
こうなったら彼の助けを求めるのは無意味だ。自分でどうにか抜けだすしかないだろう。でも、どうやって。どうやって抜けだせばいい。
「あれ、震えているの? どうせ君は死なないんでしょう? だったら怖がる必要なんてないじゃない」
彼女の言う通りではある。
けれど、不死なんてものは気休めでしかないのだ。あまりにも身体を壊され続ければ、私の意識は飛んでしまう。もしもこの場で意識を失うくらい血を吸われてしまったならば、どうなってしまうのだろう。
「あなたの狙いは何なの……?」
女吸血鬼の唇が私の首筋に当たる。
手を出される前に、私は必死になって訊ねた。
「あなたは何者なの……?」
「私は鬼。ただの鬼。君の血を吸って、君が一番大切にしているものを奪いに来ただけの鬼」
――カリスティ。
危険な人物が侵入してきた。
今すぐにカリスティを何処か安全な場所に避難させなければ。私の守りなんて信用ならないけれど、私よりもずっと強いガーディアンや魔術師たちがいればまだ希望はある。特に、カリスティの主治医である賢者が居てくれれば。
「誰かっ!」
女吸血鬼に抱かれたまま、私は叫んだ。
青い霧に声は吸いこまれていくけれど、それでも叫び続ければ人犬だけではなく他の誰かにも声は届くかもしれない。
「誰か、カリスティを安全な所にっ!」
私よりも強い大人達がこの事態に気付いている事を願っている。その事ばかりを祈り続ける私の耳元で、女吸血鬼は囁いた。
「無駄だよ、アテナ。この霧の中じゃ、無駄」
ねっとりとした嫌らしい声が、もがく私を馬鹿にするように包みこんでいく。わざと時間をかけて、女吸血鬼は再び私の首筋に口づけをした。
「ねえ、アテナ。君の悲鳴、聞かせて」
その直後、痛みは生まれた。
血が奪われていく感触が倦怠感を生む。
もがこうという意識も段々と狭まっていき、槍を生みだすなんてことも考えられないほど辛くなってきた。視界は青どころか闇色に染められていき、女吸血鬼の腕に支えられていることすら苦しい。
けれど、それもほんの少しの間だけで、しばらくして女吸血鬼の牙が離れると、私の意識が再び盛り返してきた。力が戻ってきてすぐにまた動き出そうとすると、濃い血の匂いと共に深くて重たい溜め息が私の耳元にかかった。
「すごい……神話は本当なんだね……」
うっとりとしたような声で囁かれ、その手が私の身体を確かめるように触れていく。今なら抜けだせるかもと思っても、すぐにまた強い力で囚われてしまった。
「傷が治っていく。大人一人殺すくらいの血を吸ってやったのに、命が枯れ果てる気配もないんだ。……素晴らしい力だね」
「ええ、これが槍の力よ。血をどんなに吸ったって無駄なの。だから、放して」
「無駄? 本当にそう思うの?」
甘い吐息をわざと吹きかけ、女吸血鬼が私の腹部に爪を喰い込ませてきた。痛みに耐える私を見て笑うと、彼女は残酷にも告げてきた。
「君の血、ビックリするくらい美味しい。このまま幾らでも吸ってあげられそう。ねえ、君ってさ、痛みにずっと耐えられるわけじゃないのでしょう?」
声を震わせながら女吸血鬼が問いかけてくる。
答える義務なんてない。私は黙ったままどうにか逃げようともがいた。このまま腹を引き裂かれたとしても、拘束を解かなくては。
「私、聞いたんだよね。再生しても、再生しても、その度に壊し続けてしまえば、やがて君の意識がどんどん薄れてしまうんだって事をさ」
腹部についた傷も治っていく。カリスティを守るためだけに生まれ持った不死の力を、この女吸血鬼は無駄に発揮させているらしい。
女吸血鬼の指が地肌に触れ、傷一つない腹部に浮かぶべとべととした血をそっと伸ばしていった。その感触の気持ち悪さに私は呻いた。
どうして、どうしてこんなにも動けないのだろう。
このままではいけない。そう思っているだけでは力にもならない。
「君の血でさえこんなに美味しいのだから、ユグドラシルの根元で震えている子なんて、もっともっと美味しいんだろうね」
意地悪な言葉に動揺が一気に大きくなった。
こんな野蛮な吸血鬼をカリスティに近づけては駄目だ。どうか、この霧の向こうでカリスティが安全な場所に連れられているといいのだけれど。
思い願ったところで、私には何も分からない。
分からない以上、不安で仕方なかった。
「お願い」
私は無様にも侵入者に懇願していた。
「カリスティには手を出さないで」
果実を狙う者に情があることを期待しない方がいい。そういった大人の教えの一切を忘れ、信じないことでしか、私の希望は保てなくなってしまっていた。
「お願いだから……」
――私の血は幾らでもあげられるから。
そんな声にならない訴えが聞こえたのだろうか、舌舐めずりをする音が耳の中をざわつかせ、その直後、女吸血鬼の恍惚とした声が頭の中に響いた。
「御免ね、アテナ」
その声が届くか届かないかで、新たな痛みに悶えた。
次第に視界が狭まっていく。青い霧だけではなく、暗闇までもが私の視界の端々を蝕み始めていた。気が遠くなっていく感覚にただ身を委ねていると、とても遠い何処かから犬の遠吠えのような音が聞こえた気がした。
けれどその真偽を確かめる間もなく、私の意識はそこで途絶えた。




