6.侵入者
遠目で見えるユグドラシルは誰が見ても美しいらしい。
無論、それは自我を失いかけている哀れな女であっても同じ事で、本物の吸血鬼と称される彼女は、もう数え切れないほど何度も、何度も、御殿を突き破って天上を目指して伸びるユグドラシルの姿をその美しい目に映していた。
鬼族の女。
本物の鬼の血を引く女。
彼女にとって、神殿に仕える者たちは悲しいほどに雑魚ばかりで、結局は誰もが己の命を散らす事を恐れ、神話の産物である不死の力を頼っているのが実態である以上、彼女にとって不足はなかった。
それでも一部は気付いているだろう。けれど、そんな事もどうだっていい。
彼女は恐れていなかった。
何故なら彼女は一人ではないのだから。
ユグドラシルから目を離し、鬼族の女は周囲を窺った。
あの美しい木よりもずっと、この場所には面白いものがある。
それを知っているからこそ、彼女はいつまでもユグドラシルに気を取られない。
この英知の神殿に足を踏み入れたその瞬間、彼女はその鋭い意識をある二つの気配に引き寄せられていた。
一つはユグドラシルの根元にいるカリスティという名の少女。その胸に宿るのは英知の果実。魔術に傾倒する者の誰もが一度はそれを手にすることを妄想する。尋常でない力を秘めつつも、何も出来ないただ守られるだけの存在。
そしてもう一つは、哀れにも生みの親からの名前を奪われ、ソフィアという名を押しつけられた年端もいかぬ少女。カリスティを守るために、闇雲に戦う意思を引きずって侵入者であるこの女の元に向かっている。
槍。聖なる一角獣。まだ年若い人間の処女。
「美味しそう……」
その気配を正面から捕えた時、鬼族の女は心の底から笑った。
香ってくるのはソフィアの匂い。年若く成人にも満たない彼女の匂いを感じながら、その肌の下に通う血の気配を目ざとくも捉え、すでにその血の味を想像して悦に浸る。
その味はきっと、どんな獲物よりも美味であろう。獣や魔族は勿論、同じような年頃の処女の血と比べても、驚くほどの旨味を持っているのだろう。
決して死なない御馳走が自らの意思で飛び込んでくるのだと思えば思うほど、鬼族の女の期待は膨らんでいくばかりだった。
そして同時に、彼女は虚しさを覚えていた。
その虚しさは何処から来ているのだろう。今の彼女にはもはや分からない。分かろうという意識も次第に萎れていく。
そう、時間はあまりないのだ。
どうせ崩壊するのならば、何もかも忘れてこの世で一番美味だという赤い酒に浸らせてあげたい。
彼女がするべき事は、いち早くユグドラシルの根元へと向かい、カリスティと名付けられた果実を手にすること。身体を疼かせる欲求の全てを邪魔な槍の少女にぶつけ、その意識を掻っ攫ってしまってから、静かにその目的を果たすことだ。
それを何度も確認し、鬼族の女は魔術に身を包んだ。
聖域に足を踏み込める者の中で最強とも呼ばれるほどの魔力を秘める一族。生まれ持った鬼族の血を最大限に生かしながら、彼女は少しずつソフィアという名の獲物の元へと引き寄せられていった。
その姿はどんな姿だろう。
聖なる一角獣の血はどんな味だろう。
「とても、美味しそう……」
うっとりとした声が女の喉元を零れるように漏れだしていく。
それと同時に血の味を欲しがる唾液が生まれ、舌と鼻の感覚を疼かせていた。
果敢にも自分に立ち向かおうとする若き処女の血の味を思い描きながら、鬼族の女はじわじわとソフィアを引きこむ準備をしていた。
最低限、手は尽くした。鬼族として恵まれた魔術に覆われて、この神殿は不可思議な空間へと変わっていく。
後は獲物が近づくのを待つだけ。
そして、その時はやってきた。




