ぶらり寄る男
夜の街に悲鳴が響いていた。若い女の悲鳴だ。切羽づまった、誰が効いても異常事態だと分かるような悪夢の証明。
人の目から隠れる路地裏。そこに怪人がいた。比喩でもない。例えでもない。本物の怪人。一応は人の形を保っていたが、その風貌は異常に尽きる。
人間にショベルカーを乗っけたような風貌。頭は操縦席。右腕はアーム。そんな怪人。操縦席に乗ったシルクハットを被る小人が陽気に喋っていた。
「オーッホッホッホ!お嬢さん、馬鹿ですねえこんな夜中に歩きまわるなんて!自殺願望を町中にアピールしているようなものですよ!」
女は怯え、首をいやいやと振るばかりだ。
「さてさて、もう逃げられません。ここは地獄の袋小路。もうあなたが行けるのは地の底、地の獄だけなんですよ!」
ゴギギギと不快な音を立ててアームが持ち上がる。
「お死になさいッ!」
振り下ろされた。華奢な女へ向けて。その柔肌の先にあるコンクリートの壁を砕く音がした。凄まじい音が鳴り、衝撃で土煙が舞い視界を遮る。
怪人の表情は曇った。
「おかしい…この感触はッ!?」
煙が収まる。中には誰もいなかった。
「危なかったわ!こんな綺麗なレディーに何するのよ!」
声の方を怪人は振り返る。そこには高校生ほどの外見の少女がいた。背中に背負ったリュックサックからは巨大な鋼鉄製の人の手が伸びており、先ほどの女を優しく包んでいる。
「貴様…何者だ!見たことない顔だが新手のヒーローか!?」
少女は腕を組み、怪人を見据え、その名を威風堂々と告げた。
「私の名は呂子世 淵子!ヒーロー名はまだない!なんてったってヒーローじゃないから!でも!ヒーローじゃなくたって人を守ることは出来るッ!」
巨大な手…名付けてメッチャビックリアームは女を地面に優しく下ろした。
「さあ、逃げなさい!ここは私が食い止めるッ!」
女は慌てながら頭を下げて礼を言うと、一目散に逃げていった。
「ホーーーウ!生意気にもちんちくりんな小娘がヒーローの真似事ですか!小賢しい!本物の怪人に歯向かうとどうなるのか教えてあげますよ!」
怪人は淵子へと飛び、巨大なアームを叩きつける。なんという質量と重量!それが恐ろしいパワーで思い切り迫ってくるのだ、まともに喰らえば体はぐちゃぐちゃの粉々だろう。しかし!女はこれを避けた!
「ナヒィっ!ナンダアイそれは!」
女の足には奇妙で奇怪な機械が取り付けられていたのだ!
「移動補佐用超跳躍レッグ装置『跳ねるくん』!その程度のスピード、子供の遊びにもなりゃしないよ!」
女は怪人の周りを跳ね回り、撹乱する。背を取り、スキを突いてメッチャビックリアームの拳骨を喰らわせようと突進した!だが!
「…ふぅん。まあまあの動きだが…所詮はヒーローもどきか。」
「何ィッ!?」
なんとその攻撃は怪人が後ろに回した手に受け止められていた!
「甘いんですよォォオオオオ!!!」
「あああああああああっ!!!」
ぶん、ぶんと振り回された後淵子は思い切り地面へと叩きつけられた。
「…ホーゥ。今ので死んでいないとは驚きだ。それも今までと同じ珍妙な発明品の力か?」
淵子は答えない。頭の中で必死に状況の改善策を練る。
「(どうする…!?今のはかなり痛かった…『包んで!アーマーくん』がなければとっくに死んでたね。
でももう後が無い。あと一撃…耐えられる自信が無い。つまりはこれ以上は戦えない。
もうさっきの一般人は逃げただろう。だったら私もオサラバしよう。)」
「死んだふりかい?全くこしゃくな…でしたら私がそれを本当の死へと変えてあげましょうかねえ!死ねぃッ!」
アームを振り上げ、振り降ろさんと狙いを定める!そこで!
「おりゃっ!」
「うぐぇ!?目が!目があああ!」
獲物を仕留めきったと油断するその精神の一瞬の隙を突いて、淵子は閃光弾を投げたのだ!もちろん怪人相手に普通の閃光弾など意味が無い。法律道徳一切無視で作り上げた、街を一瞬昼間に変える程の超強力な光源爆弾だ!
「今!」
怪人相手ではほんの数秒の効果しかないだろうが、それで十分。淵子は屋根の上へと飛び、逃げの体制へと入った。だが!
「ぎゃぁぁああああああああっ!」
闇夜を切り裂く大音量の悲鳴!なんと恐ろしいものだろうか、猫もカラスも怯えている!
「なっ、何!?」
淵子が声のした方を覗き込むとそこには先程の女がいた。しかも怪人のアームに片脚をもがれた状態で!
「なんで!?もうとっくに逃げたはずでしょう!?」
淵子には知るよしもないが、実は先程逃げた女は超強力マグナム吸着ガムに足を取られていたのだ!これはショベルカー怪人とは全く関係のない怪人が昼間残していったものである。本来こういった有害な落し物は町の清掃員が片付ける役割なのだが、あろうことか彼らはこれを見過ごしたのだ!いくら見つけにくい場所にさも普通のガム面をして落ちていたとはいえ、許し難い失態である!
普通ならば靴を脱いで一目散に逃げるべきなのだろう。しかしこの女はことさら脱ぎにくいブランド物のやけに紐が多い靴を履いていた!パニック状態に夜間で足元が見えづらいという悪条件が加わり、女はずっと紐が解けずにここで立ち往生していたのだ!
そこへ先程視力を失った怪人が来襲!闇雲に振り回したアームが女の足に当たり、引きちぎったのだ!
かくして女はガムから自由になる事が出来た。ただし、自身の片足と引き換えに!
「ホホーウ!そこでしたか!お死になさいッ!」
怪人は悲鳴の主を淵子と勘違い。一直線にアームを振り下ろした!
「やめてぇぇえええっ!!!」
淵子は走った。彼女を、自分の正義を守るため。
鋭い金属音。大重量の機械どうしがぶつかり合い、互いにきいきいと悲鳴を上げる。
結果、ガム踏み女は命拾いをした。上空から滑り込んできた淵子のメッチャビックリアームが怪人の攻撃を受け止めたのだ。
しかし、これはあくまでその場しのぎ。根本的な問題は何も解決してはいない!
「…やばいなあ。」
メッチャビックリアームごと押し潰されかけた体を守ったことにより防護装置はもう動かなくなっていた。次に攻撃を受ければ普通の女の子と同じように体が千切れ、死ぬだろう。今の衝撃で跳ねるくんにまで異常が起きていた。もうただ逃げることもかなわない。
「フーム、今のでも死なない!正直ヒーローじゃない割には随分頑張ったほうだと思いますよ。しかしそれも一発分…一発分命を永らえさせただけです。」
怪人がアームを振り上げる。押さえ付けられていた体は自由になったが、どうしようもなかった。
「サヨウナラお嬢さん!地獄で先に待っておりなさい!」
淵子はそっと、目を閉じる。助けられなかったガム女と、育ててきてくれた両親と、なによりも果たせなかった自分自身の信条に。
アームが振り下ろされた!しかし!
「やめときな、エセ紳士。ちょいと度が過ぎるオイタだ。」
淵子に届く前に、アームはその動きを止めていた!なぜだ!?どうしてだ!?止めているのは一本の腕だ!
そして…一人の男だった!夏だというのに長袖のコート!年期の入ったくたびれジーンズ!頭には中折れ帽!
はっきり言って不審者!奇妙な乱入者!
彼は重機の一撃を片腕で止めてしまったのだ!
「なに…!?」
「オラァッ!!!」
男は怪人の懐に潜り込むと腹へ重い一撃を放ち、吹き飛ばした。ブロック塀では止めきれず、怪人は民家へと叩きつけられる。中の住民はさぞ驚いているだろう。
男はスタスタと怪人に近づいていく。怪人は今まさに立ち上がろうとしていた。大したダメージは与えられなかったようだ。
「グ、ギゲゲ…何者だ貴様…まさか、ヒーローか!?」
男は帽子のツバをちょいちょいと直しながら大胆不敵に呟いた。
「ちげえな。今の俺はしがないフリーター。一般人ってわけよ。」
「ふざけるな!ただの一般人が私の一撃を素手で受け止められるわけが無い!」
「まあ、そんな事はどうだっていい。なあ怪人さんよ、アンタ今は手を引いちゃあくれねえか。そうすれば俺もこれ以上危害は加えねえ。」
「…なぜ私の邪魔をする?お前がヒーローでないなら私と戦う意味が無い。なぜ自分から命を危険にさらす?」
「さあ?なんでだろうな。ただ…気に食わなかったんだろう。無力な女子供が死んでいくのが、我慢ならなかった。そんだけだよ。」
「ふん…お前も頭のおかしいヒーロー気取りか。まあいい!死体が一人、ポイントが一つ!増えればそれだけノルマも楽になる!
おい!乱入者!殺す前に名前を聞いておいてやろう!名乗れ!私の名はグチャット・アームズ!長いからチャットでいいぞ!」
「…俺は我愛。『我』を『愛』するって書いて『があい』だ。」
「…ホーウ。悪くない。良い名だと思うぞ。まあもう二度と聞くことはないと思うがな。それでは我愛…夢と現実の狭間に潰されて死にゆけぇ!!!」
チャットの攻撃!恐るべき質量を持ったアームが我愛へと迫り来る!我愛避ける!アームの追撃!今度はいなす!懐に潜り込んだ!しかし!
「ホオォォオオーウッ!」
「何!?」
アームがぐにゃりと真横に折れ曲がったのだ!本来ならあり得るはずのない無茶な軌道!それにより我愛は打撃をくらい吹き飛ばされた。しかし華麗に着地!
「ならば!」
我愛はチャットに突っ込む!と見せかけて!地面を蹴りを蹴り建物の屋根を蹴りチャットの背後へと回り込んだ!しかしそれも!
「ホォーゥッ!」
アームは本来の動きとは真逆の向きに折れ曲がった!本来90°しか動かないはずのアームが180°開脚したのだ!
これにより我愛は吹き飛ばされる!チャットの追撃!我愛の腹にアームがめり込んだ!コンクリート塀に叩き付けられる!サンドイッチだ!グシャリ!
「甘いですよお…甘い甘い!私のアームが普通のショベルカーのものと同じだとでも思ってたんですかぁぁあああ!?
違う!大間違い!360°に折れ曲がれる!ちょーーーぅ高性能アームなんですよお!工事に使えばはかどるでしょうねえ!」
「そいつは…便利だな。土木工事に重宝しそうだ。」
「何!?」
チャットが驚いたのは声の出どころだ。サンドイッチな場所ではない。背後、それも高い場所からだったのだ!
チャットは振り返る。満月を背に、その男は電柱のてっぺんに立っていた。いつの間に。考える頃には姿も消えていた。
「見つけたぜ!そのアームの攻略法!」
我愛はチャットの横へと走り込んでいた!そのまま地面へと尻をつけ…スライディングだ!
「ぐあああああ!!!」
左足にキックだ!オラ!オラ!オラ!オラ!両足交互に連続キック!
「いい加減に…しろっ!」
ぐるりと周り、アームを地面に叩きつける!しかしハズレ!我愛は反対側へと回り込みまた左足をスライディング急襲!
「ぐあああ!!!」
「お前のアームには弱点がある!180°開く…確かにそれは素晴らしい利点だ!しかし!それでもどうやってもカバーできない部分は出てくる!右手のアームの対極、つまりは左足だ!」
凄まじい連激!ぐる、ぐる、ぐると向きを変えながら追いかけっこは続いていく!
「お前は右手のアームに頼るあまりその他の四肢の攻撃をおろそかにした!つまり頭左手両足!もろい箇所だということだ!そして!」
「ぐわああああああ!!!」
チャットの左足にヒビが入った!
「もろさと無防備さ、二つの絡み合った左足に俺の攻撃から逃れる手段は無い…。もう耐久力も限界だろう?」
「貴様ぁぁあああっ…ナヌ!?」
新たなステップを踏み出そうとした瞬間、ついにその時は来た。左足に入ったヒビが大きく広がり、破片を周囲に撒き散らかした!
「お前の体内、見えてるぜ。」
おどろおどろしい発光が辺りを照らした。薄い黄緑で、闇の中に淡く光る様は妙に綺麗だった。怪人の血液なのだろうか?と考えるとそうも言えないのだが。
「ホッ…ホヒッ…ホーッヒッヒッヒ!!!」
突然チャットはそれはそれは可笑しそうに笑い始めた。我愛もドン引きするが、とりあえず質問してみる。
「…おい、どうした?気でも狂ったの?」
「いーえいえいえ…フヒヒホ…。あなたの馬鹿さに呆れてしまいましてねえ。」
「あ?」
「だってそうでしょう?アーナタはまだ!私の片足にかすり傷を付けただけ!それなのに勝ち誇るなんてねえ!」
チャットは一方的に、それはそれは愉快そうに喋り始めた。彼にとって馬鹿(だと彼が思った者)を見下し嘲笑うのは実に楽しいことなのだろう。
「いいですかあ!?確かに私は左足にかすり傷を負わされました、それは事実ですー!だけれどそこ以外の場所の防備は万全!全くもって無事!ノーダメージ!頭や胴体をえぐられない限り、私が致命傷を負うことはなーい!
それに左足だってまだまぁーーーだ動くっ!!!そうだ、いっそのことこうすればいいんです!」
チャットは左足を後ろに折り曲げ、右足一本のケンケン状態になった。
「片足でも私の機動力は殆ど衰えまっセーん!これでもう弱点も糞もないですねえ!つまりあなたのやってきたことに全くもって意味は無かったのですよ!フッ…フヒヒ…」
「フーーーッホッホッホ!!!」
「ムーーーーシッシッシ!!!」
「あ゛?」
チャットは探す。気持ちの良い見下し笑いを邪魔した不快な声の出どころを。そして、探すまでもない事にすぐ気づいた。
「あー、ダメだな。お前の真似してアホみたいな笑い声出してみたけど全然しっくりこねえわ。みたいというかまんまアホ。」
「貴様…なんのつもりだ?もうなすすべが無いことに絶望して気でも狂ったか?」
「いやいやあ?あんまり可笑しすぎて笑ってたんだよ。あんたの馬鹿さに。…十分なんだよ。その傷で。」
「何が!?」
「アンタを殺しきるのが、だ。」
「ふざけるな!だからこんなのはかすり傷だと言っただろう!お前はこれ以上はどうしようも…な…い…」
チャットは思わず言葉を失った。それは目の前であまりにも常識外れな出来事が起こったからであり、『未知に恐怖する』ことが人も怪人も変わらぬことを示していた。
我愛は半分を無くしていた。
最初は横を向いているだけかと思った。しかしどうやら様子がおかしい。形が不可解だ。
そしてにやにやと楽しそうな目を見つけた時、チャットは理解した。こいつは真正面から見た体の右半分をすっぽりと無くしている!まるで頭上から振り下ろされた巨大な剣でバッサリと斬られたかのように!
そしてチャットは自分の左足の異常に気付いた。なぜだろう、どうにもむずむずする。奇妙な感覚だ。下ろして見てみる。するとなんと!
「な…なんじゃこりゃああああ!?」
虫だ!虫で!あまりにも沢山の虫!蝿や蜘蛛や百足など!よりにもよって人に忌み嫌われるような虫ばかりがチャットの左足にまとわりついていた!
チャットは慌てて足を振って落とそうとする!しかしガッチリとまとわりついた虫は離れない!全てが羽虫というわけではないのに、虫の塊は空中を飛んでいた!
「なんなんだこれは!?なんなんだよおおおお!!!」
「Bug's。」
呟いた我愛は、目にぞっとするような深い闇をたたえていた。チャットはこの目を見たことがあった。蛙だ。獲物を狙う捕食者の目。ならば今の自分は…羽虫?
「その特異な能力!貴様…ヒーローではないと言ってただろうが!」
「ヒーローじゃないよ。だってもう引退したからさ。」
「なに…!?」
「ああ、さっきの名前。元の名前名乗った方がよかったか?だったらそうしよう。俺の元ヒーローは…『屑虫』。」
「屑虫…!?聞いたことがある!どこかで小耳に挟んだぞ…確かダークヒーローの一味だったか!」
「お、知ってる?嬉しいなあ、まだこの名前も通じるか。で、さ。この名前の由来の害虫達…ちぃーっと深いところまで入ってない?」
「なに…ハッ!」
その通りだった。先程まで表層を覆っていただけの虫はスライディングで開いた傷口に潜り込み、内部へと侵入していた!
「質問なんだけどさ。一匹のネズミがいたとする。腹の空いたネズミさ、ペコペコに。そのネズミを穴あきチーズの穴の中にひょいっと。放り込んだとしたら…どうなる?」
「ア゛ア゛!? そんなの中から喰い尽くすに決まって…ま、さか…」
サーっとチャットの血の気が引き、一気に顔が真っ青になる。絡繰のようにぎこちない動きで我愛…いや、屑虫に顔を向けた。
「喰え。」
その言葉を合図に虐殺が始まった。チャット内の虫共が手当たり次第に肉を喰い散らかし始めたのだ。手近な肉を、バクリグチュリガブリ。
「ギュッ…グゲグギュゴギョギュギョヅッグゴォ!!!?」
当然チャットには凄まじい苦痛が押し寄せる。生きたままその身を齧られ、削られ、グチャグチャのミンチにされる。その苦痛はいかほどのものか想像すらできない。
あっという間に足は食い尽くされ虫共は胴体へと侵入を始めた。
「うう゛!う゛ぐるぶあ゛あ゛あ゛あ゛!やめてくれ!やめて!」
チャットは必死に懇願する。このままでは命にかかわる。それにこの痛みが更に続く!?冗談じゃない!
だが屑虫は淡々と言った。
「無理だな。最近腹減ってたからお前ちょうどいい食料だし、それにここで止めてもどうせお前また人襲うだろ?いたちごっこは面倒くさい。それを止めるには…やっぱり根っこを殺すしかないよなあ?」
「ぶざげるなああああ!!!そもそもなぜ!こんな虫如きに私が怯えなければならない!?怪人のこの私が!?」
「まあ表層から直接食い尽くすことは無理だけどさ。それでも傷口の一つもあれば後はこの通りだよ。…さてと、そろそろメインディッシュかな。」
「ブギ!?」
その言葉の意味をチャットは身をもって理解していた。胴体を通過した虫はついに首へと到達。最後の砦、頭部へと侵入しようとしていた。
喉を食い荒らされ、もう声は出ない。怒鳴る者がいなくなった今、辺りは静かなものだった。今聞こえるのは時折聞こえる『ゴブ』だの『ゲブグ』といったチャットの口から聞こえる怪音だけ。
そしてついに虫は脳みそへと辿りついた。体の司令塔。全ての部位を指揮する体で最も大事な場所。その端へ齧り付いたのだ。瞬間、チャットは過去を思い出していた。人間だった頃。冤罪をかけられ全てを失い、世間に絶望して怪人になったこと。最初はこの国を少しでもまともにするために世界征服活動を行っていた事。しかし徐々に力を使って快楽を得ることを優先し始めたこと…。
走馬灯の中、ちらつくのは未練だった。なぜだ。死にたくない。なぜこんな。
足が見えた。先程自分がちぎり取った足だ。それを見て『あいつもこんな気持ちだったのだろうか』などと考えた。
そして最後の最後。もう声帯は食い荒らされたはずなのに。一時的に麻痺していただけだったのか虫がその代わりを努めたのか。チャットは叫んだ。
「い、や、だぁぁぁあああああたああっ!!!」
「さよならだ。来世ではまともな人生歩めよ。」
痛みも、恐怖も、思考すら消えた。後に残ったのはただの虚無だけだった。