喫煙所
細い雨粒が引っ掻き傷のように、喫煙所の窓に張り付いている。次第に水滴の跡は増えていった。
駅に設けられた喫煙所で、鈴木は窓を流れる雨粒を眺めていた。喫煙所内には鈴木の他に誰もおらず、ガラス張りの小部屋はどうも落ち着かない感じがした。
駅の中には「No smoking」と書かれたプレートが、いたるところに貼ってあった。いつのころからか、この文字をどこに行っても見かけるようになった。
鈴木はシャツの胸ポケットから、たばこの箱を取り出した。そこからトントンと軽く叩いて1本取り出し、ライターで火をつけた。火の点いたたばこは息を吸い込むと、先端が赤く染まった。
「ふう」
そして、一息つく。鈴木は口から煙を吐き出した。
喫煙所の外を見ると子供が鈴木を見ていた。小学生くらいだろう、野球帽をかぶっていた。隣には若い母親が立っている。喫煙所の中の鈴木に視線をやると、子供の手を引いて歩いて行った。隣の子供に何か話しながら、立ち去るようにして。「たばこは体に悪いから吸ってはいけない」だとか「煙を吸い込むとよくないから近づいちゃいけない」そんなことを言っているのだろうな、と鈴木は思った。
煙を吐き出す。もやもやとした煙はしばらく宙を漂い、霧散していった。
鈴木は派遣社員として働く20代の男性だった。契約の都合で、今の仕事を続けられるのは今年いっぱいだった。それを過ぎると、契約を更新してもらうか、またどこかの会社を探さなくてはならない。でないと仕事がない。そうなったらどうしようか、と鈴木は先の見えない未来を案じていた。
煙とともにため息を吐き出す。「たばこは有害です」と最近はどのパッケージにも書かれている。ガラスでできた喫煙所は水族館の水槽のように思えた。どうにも喫煙者は差別されているような気がしてならない。食事をしようと店に入っても、禁煙の場所は多くなった。社会のそうした傾向を肌で感じ、自分も禁煙したほうがいいのだろうかと、考え始めていた。
雨空は灰色にくすんでいて、どこかぱっとしなかった。煙を吐きだし、灰皿に灰を落とす。駅での待ち時間はまだまだあった。鈴木が燻った気分のまま喫煙所にいると、人が入って来た。ガラスの戸を開けて入って来たのは、頭の薄くなった中年男性だった。体の肉はつき、ワイシャツが悲鳴を上げているように見えた。手に持ったハンカチで額の汗を拭っている。鈴木はその男性を横目でちらりと見て、たばこを咥えた。
「あの、すみません。火を貸してもらえませんか?」
中年男性はいつの間にか鈴木の目の前に立っていた。鈴木は少し驚きつつも「いいですよ」と言って、ライターを差し出した。
「ありがとうございます」
中年男性は鈴木からライターを受け取り、手に持った箱から1本取り出して、口元に運んだ。
「助かりました。ライターを忘れてしまいまして」
「いえ、構わないですよ」
そう言って、鈴木はライターを受け取り、ポケットに落とした。
「若いのに、たばこ吸うんですね」
「?」
中年男性の言葉に鈴木は首をかしげた。
「いや、最近はどこにいっても禁煙だ、分煙だ、って言われてるじゃないですか。だから、若い人はたばこを吸わないのかと思ってたんですよ」
「ああ、そうですね。周りはそういう人が多いです。たばこを吸っている俺は少数派です」
鈴木は自分の友人を思いだして言った。学生時代、仲間内でたばこを吸っていたのは鈴木だけだった。
「値上がりもしましたしねえ。消費税も上がって、国民を苦しめて何が楽しいんだか」
中年男性は嘆息した。煙が鼻から出る。彼の言う通り、たばこは数年前に値上がりした。前よりも税金が重くなったのだ。一昔前は1箱200円くらいだった。それでも高い気はしていたが、今や400円を超えるのが普通である。他の業界だったらとんでもないことだろう。
「たばこは日本で、もっとも税負担の大きい物らしいですよ」
鈴木は学生の頃にかじった税金の話を思い出していた。
「へえ、そうなんですか。私は一番高いのはビールだと思ってましたよ」
「まあ、ビールも似たようなものですけどね。税金ていうのは、絞りやすいところからいくらでも持って行こうとしますから。知ってますか?たばこは全部で5つもの課税が為されているんです。そして、一箱のうち、だいたい6割5分が税金で出来ているんですよ。だから、煙草を吸う人はみんな、優良納税者なんです」
「いや、まったく。喫煙者は肩身が狭いですね」
中年男性は気さくに笑った。
「ええ。分煙とか言われて、こんなところで吸ってますけど、差別ですよね」
鈴木は自分の入っているガラスの喫煙室を見て言った。
「まあ、子供を心配するお母さん方の気持ちも分かるから辛いところですがね」
中年男性は穏やかに言った。鈴木はついさっき通り過ぎた親子のことを思いだした。あの母親の表情は煙草に対する印象を物語っていた。
「……自分、たばこやめようかと思ってるんです」
鈴木はぼそりと言った。金銭的にも、健康的にも自分を圧迫していくだけならば、やめたほうがいいんじゃないかと思い始めていた。仕事のあるうちはいいが、無くなればたばこどころではない。それでも今は、禁煙に踏み切る決意やきっかけ、あるいは勇気がなかった。
「それはいい!あなたは若いからまだやめられますよ。いや、私みたいになると、いざ禁煙しようと思っても、なかなかできないものなんです」
中年男性は額の汗をハンカチで拭きながら言った。
中年男性がたばこを一本吸い終わる頃に、喫煙所の戸が開いた。入って来たのはサングラスをかけた30代くらいの赤いジャケットを着た女性だった。派手な見た目でどこか近寄りがたい雰囲気があった。女性は適当に腰かけると、足を組んだ。それから、彼女はポケットからたばこの箱を取り出すと、慣れた手つきでそれを咥え、ライターで火をつけた。その一連の動作がとても様になっていた。
「お久しぶりですねえ」
中年男性は立ち上がって、今入って来た女性に声を掛けた。知り合いだったらしい。女性の方はふー、と煙を吐くと中年男性の方に向き直った。
「ああ、旦那の会社の同僚の方ね。前に会ったことがある」
普通に喋っているはずなのに、女性の声は冷たく響いた。
「はい。課長にはいつもお世話になっています」
中年男性は相変わらずの笑顔だった。鈴木もつられて頭を下げた。
「旦那の話はやめてくださる。たばこが不味くなるわ」
「おっと、それは失礼しました」
この女性は旦那と仲が悪いのだろうか、と鈴木は思った。中年男性は鈴木の対面に座ると、再びたばこを取り出して、ライターがないことに気付き、鈴木の方を申し訳なさそうな顔で見た。
「すみません。またお借りしてもよろしいですかね?」
「いいですよ」
そう言って、鈴木はライターを貸した。小さな水槽のような喫煙所の中を、三人の煙が揺らいでいた。
「ねえ、何か面白い話はないかしら?」
不意に女性が言った。言葉の端に傲慢そうな雰囲気が滲んでいた。
「面白い話ですか。そうですねえ、ついさっきこの若者とたばこの話をしていたんですよ」
中年男性は上っていく煙を見上げながら言った。
「いいわ。聞かせて」
「最近、どこに行っても禁煙だといわれるじゃあないですか。喫煙者は弱い立場です」
「そうね」
そう答える女性はとても堂々としていて、立場の弱い喫煙者には見えない。
「それに数年前に値上がりしたのも辛いです」
鈴木は口を挟んだ。おそらくこの中で一番値上がりが苦しいのは鈴木だろう。
「国は絞りやすいところから税を取るんですねえ。ビールだって面白いくらい税金をかけているんですよ」
中年男性が朗らかに答えた。鈴木はこの人がジョッキでビールを飲む姿を容易に想像できた。
「ええ」
「確かにたばこは体に悪いと言われています。肺が黒くなるわけだから、実際そうなんでしょう。でも、ここまできつくする必要はないんじゃないかと自分は思います」
鈴木の正直な気持ちだった。たばこは嫌いじゃない。しかし、値段も上がり、周りからの目も気になる。このまま吸い続けるのは息苦しいだけのような気がしていた。
「100歳過ぎても吸っている人だっていますしねえ」
中年男性が言った。そういう知り合いがいるのかもしれない。
「そうですよ。他にもっと規制すべきものはあります」
そう言いながらも、鈴木はたばこをやめるべきか悩んでいた。
二本目のたばこに火を点けると、女性は口を開いた。
「体に悪いものも必要なのが人間よ。大麻や覚せい剤に比べたら、たばこはよっぽど健康的だと思わない?」
「何が入ってるか分からない食品添加物よりずっといいです。体への悪影響が分かっているんですからねえ」
中年男性も陽気に言った。
「そうね。たばこを吸わない人でも重い病気に掛かったりする」
「江戸時代には子供もたばこを吸っていたみたいですよ。他の国でも遥か昔から文化としてあるわけで、それを追いやるのはあまりいいとは言えませんよねえ」
「まあ、本当に気にかけているのは煙草を吸わない人達でしょうね。副流煙を嫌って、それが社会で力を持って、こんなことになっている」
二人の会話を聞いて、この喫煙者たちはたばこをやめないだろうなと鈴木は思った。自分はどうしようか、と揺れ始めていた。これからも吸い続けるのか、禁煙に向かうのか。
「たばこは有害だからと、こんな水族館の水槽みたいなところで吸わなきゃいけない。喫煙者は社会から迫害されているような気分です」
鈴木は水族館の魚のことを考えた。見られる側の視点はこの喫煙所みたいなものだろうかと思った。
「水槽ですか。さしずめ私たちはブラックバスってところですかねえ」
中年男性は煙をくゆらせながら言った。人の都合で日本の湖沼に放流されたこの淡水魚は害為す外来種として嫌われている。
「魚と違って、たばこは個人の意思で吸っているから少し違いますけれど、ブラックバスと喫煙者に対する社会の反応は似ている気がします」
さんざん税金を搾り取っておきながら、悪者扱いし、こうして隔離している。
ブラックバスは生態系を壊すと言われてきたけれど、それ以外にも影響を与えたものはたくさんあっただろう。例えば、湖沼や河川、その周辺の大きな開発だ。人間の都合で環境が変えられるほうがよっぽど有害だったはずだ。けれど、他の要因を考えないようになるほどに外来種は分かり易い悪役だった。
世知辛い世の中だ、とブラックバスがこぼしている姿を鈴木は想像した。
「喫煙者って言い方がよくないわ。愛煙家って呼んだ方が少し、お洒落だと思わない?」
女性はたばこを灰皿に落として言った。
「いいですね。それ」
鈴木は愛煙家と言う言葉を頭の中で繰り返した。喫煙者と言うよりも何となく印象がいいように感じられた。気のせいと言ってしまえばそれまでだが、世の中はそんな曖昧な差によって変わることもある。
「それから、向こうに貼ってある禁煙のプレート、『No smoking』って書いてあるんだけど、下にスペースが空いているのよ」
鈴木は女性の言葉を聞いて、壁に掛けられたプレートを見た。無愛想な字で「禁煙」と書いてある。この駅に入るときに見かけた素っ気ない文字だった。
「あれがどうかしましたかね?」
中年男性は首をひねって後ろにあるプレートを見ていた。
「あれに『No life』と付け加えるべきだと思うの」
女性は小さく、不敵に笑っていた。面白いことを考える、と鈴木は思った。
「いいですねえ『No smoking,No life』ですか。いやまったく、その通りだと思いますよ」
中年男性は、はっはっは、と声を出して笑っていた。
―――ピリリリリリリ
携帯電話の鳴る音がした。サングラスの女性は鞄を探り、濃いピンクの携帯電話を手に取った。それから、たばこを灰皿に押し付け、荷物を持って立ち上がった。
「待ち時間を退屈せずにすんだわ、ありがとう」
そう言って彼女は喫煙所を後にした。たばこを吸う姿も、去り際も格好いい人だった。女性が出て行った後も、灰皿の上にかすかに残った火からは細い煙が伸びていた。
「そろそろ時間でしょうから、行きますかね」
中年男性がどっこいしょ、と言って立ち上がった。鈴木は壁の時計を見た。もうすぐ電車がやって来る。
「いやあ、いいですね。『No smoking,No life』世の中は禁煙の方に向かっていますが、こういう考え方もあって良いと思います」
中年男性は伸びをして、喫煙所の戸に手を掛けた。
「……俺、たばこ、やめないでいようかなと思いました」
鈴木はこれまでやめようか悩んでいたのを吹っ切れた気がした。中年男性は鈴木の方を振り返った。
「いいと思いますよ」
笑顔で中年男性は言った。
「ですよね」
鈴木も爽やかな気持ちで返した。煙で淀んだ喫煙所に少しだけ気持ちのいい空気が入り込んだようだった。
「ちなみに私はこれから禁煙します」
中年男性はさらりと言った。
「え」
鈴木は思わず声を出した。
「いやあ、実は娘が一人いるんですが、たばこはやめなさい、ときつく言われてしまいまして。これで吸いおさめです」
「そうなんですか」
鈴木は少し残念な気持ちになった。
「本当は今も禁煙するつもりだったんですけどねえ。つい吸いたくなって、途中で買っちゃったんですよ。喫煙所に入ってからライターがないのに気付いたんですけど」
中年男性はあっけらかんとしていた。
『No smoking,No life』という言葉が鈴木の頭の中で繰り返されていた。それから、駅に電車がやって来る音が聞こえた。
「禁煙、頑張ってくださいよ」
鈴木も煙草の吸殻を灰皿に押し込み、立ち上った。
「うっかり禁煙を破って、たばこを吸おうとしていたら、どこかの喫煙所で会うかもしれませんね」
中年男性はハンカチで汗をぬぐいながら言った。
「その時は、またライター貸しますよ」
「今度は忘れませんよ!」
この中年男性が娘に叱られている姿を想像して、鈴木は小さく笑いながら喫煙所の戸を閉めた。