前編
「お前もよ、小学生の頃は綺麗な恋愛してただろ」
休日。昼時のファミレス。僕の向かいの席に座る悪魔は、ストローを咥えながらそう言った。
「綺麗な恋愛?」
悪魔の口から出るとは到底思えないようなその言葉をオウム返しに口にすると、当の本人も「そう、綺麗な恋愛」と繰り返した。
「ただ純粋に、好きな女の子と話したい。遊びたい。一緒にいたい。そういう恋愛」
「……いや、そんな恋愛は無かったと思う」
確かに、僕は小学生のときにも好きな女の子はいたが、二人きりで色々なことをしたい、とばかり思っていた記憶がある。
すると悪魔はまた僕の心を読んだのか、「うげぇ」と大げさに舌を出して見せた。
「勝手に心を読むなって」
「俺の勝手だ。それと心、じゃなくて考え、な。そうか、お前は小さな頃からそんなことばっかり考えていたのか。そりゃあ好きな女の子とも進展できないわけだ」
悪魔はぐしゃぐしゃになったストローでコップの中の烏龍茶を一気に吸い込み、目を細める。なるほど、烏龍茶は好きな味らしい。
「……綺麗な恋愛っていうのが、ただ純粋にその人と一緒にいたいっていう願望だっていうのなら。確かに僕は、そんな恋愛をしたことはない」
「そんなしょげた面すんなよ。別に俺は綺麗な恋愛をしろって言ってるわけじゃない。そもそも高校生にもなってそんな恋愛をしてる奴らなんてほとんど見ないしな」ただ、と悪魔は続ける。「お前が後悔しない恋愛をしろよ」
「後悔しない恋愛……なんて、できるのかな」
「しなきゃいけねぇんだよ。でなきゃお前、死ぬんだぞ」
しっかりと瞳を見つめられ、告げられる。
悪魔は決して僕を脅すために言ったのではなく、むしろ、僕が漠然と感じているだけの事実を、僕がしっかりと見つめられるように突きつけてくれているのだ。
後悔したら死ぬ。確かにそうだ。
「ほら、来たぜ」
つまらなそうに窓の外に視線を向けながら悪魔が呟く。その目は、駅前広場に佇む白いワンピース姿の少女を捉えていた。
「俺はここで見てる。うまくいくと信じてるぜ」
心にもないことを言ってゆがんだ笑みを浮かべる悪魔をファミレスに残し、僕は足早にその場を後にした。
◇
「あれ、神田さん?」
震えた声でワンピース姿の少女の名を呼ぶ。彼女はかすかに肩を震わせ、恐る恐るこちらを振り返り、僕の顔を見た途端ほっとしたような笑顔を浮かべた。
悪魔とは大違い、いや、むしろ正反対と言うべきその天使のような笑顔に、緊張が高まる。
「将太くん。どうしたの、こんなところで」
そう言いながら僕の右手に握られたスマートフォンに目をやり、「待ち合わせ?」と首を傾げた。
可愛い。さらに緊張が高まる。
「あ、うん。まぁね。でも、相手が寝坊しちゃって、来るのが遅れるみたいなんだ」
もちろん嘘だが、作り文句にしては上等だろう。緊張でしどろもどろになりながらも、なんとか会話を成立させようと頭を働かせる。
「神田さんも誰かと待ち合わせ?」
僕の予想通り、神田さんは首を横に振り「ううん、良い天気だし、一人で買い物にでも行こうかなぁって」と言いながら微笑む。
さて、ここからだ。ここから未来を分岐させる。
僕は腹に力を込め、精一杯の笑顔を作り、彼女に告げる。
「もしよかったら、ラブホテル行かない?」
◇
「だぁーかぁーらぁ! ラブホはやめろって言ってんだろーが!」
ファミレス。先ほどと同じ席に腰掛けた途端、悪魔が叫んだ。
「お前はあれか? ラブホを経由しないと恋は発展しないと思ってんのか。あぁん?」
「声が大きいって。他のお客さんに迷惑だろ」
「知ったことか。お前のアホさ加減の方が問題だ」
心底がっかりしたように息を吐き出す悪魔を視界の端に捉えつつ、ストローに口をつける。しかし、そのまま息を吸う気にもなれず、仕方なく悪魔のようにストローを噛んだ。
「まぁ、言いたくはないが予想通りの展開だな……」
悪魔もストローを噛みながら愚痴を漏らす。結果、食べ物も注文せずに向かい合いながらひたすらストローを噛む男二人、という異様な光景が出来上がってしまった。
しばし居心地の悪い沈黙が流れる。昼時で賑わうファミレスの喧騒も、どこか遠くのことのように感じられた。
ただ、僕は悪魔が何かを言い出すのを待っていた。
「……反省会やんぞ」
まもなく悪魔がぽつりと呟いた。僕は小さく首肯し、ようやくコップの中の液体を吸い込む。渇いた口内と喉を潤すと、それを待っていたかのように悪魔が口を開いた。
「まず、ホテルに誘うのはやめろ。こんな真昼間に、しかもそこまで親しくないクラスの男子にホテルに誘われる女子の気持ちを考えてみろ。人によっちゃあトラウマになりかねないぞ」
「し、親しくない? そんなことはないだろ。神田さんとは同じクラスになってほぼ2年経つし、それにほら、僕を下の名前で呼んでくれてるし……」
「女子ってのはそういうもんだ。さして親しくない男子でも下の名前で呼べる。あと、確かにお前らはほぼ2年間同じクラスだったが、実質お前と神田が会話を交わした時間は一時間にも満たない」
「そんな……」
そんなことはあるはずがない、とは言えなかった。なぜなら、悪魔は僕が知っているはずのことを読み取り、ただ言っているだけに過ぎないからだ。
僕がなにも言えずに口を噤んでいると、悪魔はその沈黙を了承と受けた取ったのか、再び話し始める。
「それと、無理に笑顔を作ろうとするな。お前の笑った顔、悪魔のそれより怖いからな」
「それは……知ってるけど」
「お前のそのマフィアのボスみたいな顔は笑顔で中和できるほど生易しいものじゃない。かえって逆効果だ。真顔の方がまだマシだぞ」
容赦のない悪魔の言葉に心が折れそうになるが、必死に耐える。
「まず、そもそもなんでホテルに誘おうなんて思ったんだよ。前も、その前も、そのまた前も、それで彼女逃げてっただろうが」
「悪魔が綺麗な恋愛じゃなくていいって言ったから……」
「後悔しない恋愛をしろって言ったんだ。お前は神田とホテルに行けば後悔せずに済むのか」
「そうだよ」
即答する。すると、悪魔が面食らったように黙り込んだ。
僕は構わず言う。
「二人っきりで話をする。それさえできれば、僕はきっと後悔しないで済む」
精一杯恰好良く言ったつもりだったが、悪魔は相変わらず口を中途半端に開けて固まったままだった。
不審に思い頬を叩いてみるが、なかなか硬直から立ち直らない。
「なんだよ。変なこと言った?」
不安になりそう問いかけたところ、悪魔はようやく口を開き「はぁー……」と長いため息を漏らした。
「つまりお前はあれか。誰にも邪魔されずに彼女と話すためだけに、ホテルに誘うつもりだった、というわけか」
だけ、という部分に少し引っかかりをおぼえたが、一応「そうだけど」と頷く。
すると悪魔はまた脱力したように息を吐き出した後、僕の顔を正面から見据えた。
「俺は勘違いしていたみたいだ。ずっとホテルにこだわるものだから、てっきりお前は性欲を持て余した野獣か、はたまた女子の困り顔に興奮する変態だとばかり思っていたんだが……お前はただ、神田と二人きりになりたかっただけなんだな?」
「だからそうだって何度も言ってるだろ」
なるほどな……じゃあ小学生のときの話も……と悪魔はしきりに独り言を言ったあと、「よし」と自己完結し、僕に視線を戻した。
「念のためにもう一度言っておくが、ホテルには誘うな。誘うんだったら他の場所にしろ。喫茶店とか」
「二人きりになれないだろ」
「だったらカラオケでもいい。ともかくホテルだけは駄目だ」
「ラブのホテルなのに恋愛を発展させちゃいけないのか」
「断言するがラブのホテルでお前の想像するような恋愛は発展しない。だから、わかったな」
するどくこちらを睨みつけてくるので、僕はしぶしぶ了承する。
困ったな。どうしよう。
「守る約束は二つだ。一つ、ホテルには誘わない。二つ……は、さすがに言うまでもないな。この二つさえ守れば、あとはお前の自由演技だ。せいぜい後悔しないように尽くせ」
「……了解」
釘を刺された時点で自由もへったくれもないだろ、と口を挟もうとも思ったが、面倒なことになる予感がしたのでおとなしく首を縦に振ることにした。
触らぬ悪魔になんとやらだ。
「全部聞こえてんぞ」
悪魔が自分の耳をとんとんと叩きながらこちらを睨みつける気配がしたが、僕は視線をそらし、それに気づかないふりをして再びストローに口をつけた。
◇
ちびちび飲んでいたメロンソーダがあと少しになった頃、ずっと黙り続けていた悪魔が静かに口を開いた。
「……それ飲み終わったら、戻すからな」
何を、とは聞かなかった。聞くまでもないことだったからだ。
「うん……いや、いいよ。もう戻して。メロンソーダも飽きてきたし」
僕がそう言って笑うと、悪魔はきまりが悪そうに咳払いをし、小さく鼻をすすった。
「そうか。じゃあ遠慮なく」
それだけ言うと、 悪魔は自然な動作で右手を頭上に掲げた。すでに何十回も目にしている動作だ。
彼は無表情に何かしらの感情を滲ませ、指を鳴らした。
その瞬間、 賑やかだったファミレスが途端に静まり返る。
途端、僕の体に途轍もない倦怠感が訪れた。
静かに、けれど確かに命が削り取られる感覚。視界が揺れて、平衡感覚が無くなり、たまらずテーブルに上半身を突っ伏す。
それでも僕の胸のなかを支配していたのは、喜び、それだけだった。
戻れる。また戻れる。その事実を噛み締めながら、意識が薄れて行く。
僕はまた、自分の寿命と引き換えに、悪魔から新しい今日をもらった。
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