コーヒーは注がれ
空気は冷たい。
枯れ木とコンクリートの高層ビルの向こう、空は雲一つなく、ぞっとするほど青かった。
私は公園のベンチに座っていた。何をするためでもない。
ただ、力なく空を見上げている。
今朝、私は会社が人員整理と人件費カットとして推進している、リストラクチャリングの対象に選抜されてしまった。
分かりやすい言葉で言えば、クビになってしまったのだ。
ブラックだと噂に聞いての入社だったし、実際に真っ黒けな企業だった。それでも、私は頑張った。私の持つ全てを、会社に捧げたつもりだった。
それでも、こう、あっさりと使い潰されて、お払い箱にされると虚しかった。
自分のささやかなスキルも、それを形作るための努力も否定された気分だった。
何のために大学を出て、いろいろ資格を取ったのか分からなくなる。
確かに、重要なポストではなく、しがない平社員。失っても会社に損失はないだろう。それどころか、月給二十八万だかの価値もない上に、育てるタマでもないと判断されてしまったわけだ。
これからどうすればいいのやら。
収入がなくなってしまった。それが、こんなにも無力感を呼び起こすだなんて。
時給千円以下のろくでもないバイトだの、失業保険だの、色褪せたイメージが頭の中をよぎる。
いいや、どんな対症療法も今の私を癒してはくれないだろう。
自分の傷つけられた尊厳が治ることはない。
生きている限り、この痛みを感じながら生きていかねばならないのだ。
果たして、そこまでして生きていかねばならないのだろうか?
自分が打ちのめされて、ヤケを起こしているのは分かる。だが、一つの重大な疑問が、頭の中でこだまするのを止められなかった。
もう生きていても仕方がないのではないか。
私はその疑問を胸に、動く気力もないまま、公園のベンチでがっくりと肩を落としていた。
酷く寒く、スーツ姿のまま座っているべきではないのだとは思う。だが、現状を改善するために何か行動を起こすような力は残されていなかった。
このまま凍死でもしてしまうのは、いけないことなのだろうか?
そんな疑問が頭にこびりついて、離れることはない。
ふいに、視界の端で動くものが見えた。
私は努力して、のろのろと首を向けた。
隣に、女の子が座っていた。
カプチーノ色の肌に、可愛らしくカールさせた黒髪のショートボブという見た目。服装は黒のブルゾンの上に、臙脂色のマフラーを巻いていた。
年は十代半ばといったところだろうが、目鼻立ちは幼かった。だが、その態度は、何か深みある湖面を思わせる落ち着きのようなものがあって、それほど子供じみて見えない。
そして、胸元に魔法瓶を抱えている。
そんな女の子は私のベンチに、遠慮もなく同席してきている。
彼女は、にっこり笑って言った。
「こんにちは」
妙に慣れ慣れしい。見知らぬ他人に話しかけられることに慣れていない私は、まじまじと見返すことしかできない。
女の子は私が不思議がっているのを面白がっている表情を浮かべた。
私は努力して口を開く。
「どこかで会ったことがあったかな?」
「いいえ。でも、寂しそうな顔なので、お話した方がいいかなって」
「……寂しそう? 気のせいだよ」
私は行ったが、語尾が震えた感じになってしまう。
私が語尾を切って、俯いても、女の子は微笑を顔に浮かべて待っていた。
自分自身の境遇に真摯な反応を示してもらうのは、ずいぶん久し振りだった。
私は、自分の顔が歪みそうになるのを、意志の力で押さえながら、言葉を絞り出す。
「……周りの人々から、私には価値がないと言われてしまってね……」
「あら」
「いや……ずいぶん前からだな。そして、役立たずだと、捨てられてしまったんだ」
「大変ですね」
「大変だよ。……これからどうすればいいんだろう。全てを失ったよ」
自分で言って、自分の言葉に傷つけられる。
そう、全ては失われた。私には何も残っていない。
「本当に全てを失ったのですか?」
女の子が純粋に疑問を感じている声で尋ねてきた。
「失ったよ……ポストも業績も……いや、社会的な地位が根本からだな。この社会は、働いて金を稼いでいない人間に価値なんか認めてくれやしないからね。名実ともに……価値のない人間になってしまったよ」
「身軽になれてよかったじゃないですか」
女の子がさらりと言った。
虚を突かれた私の心臓が、一拍動きを止めた。心の底に残っていた残り火が、微かに揺れる。
私は眉間に皺を作り、じろりと彼女の方へ目を動かす。
「君は……君も私をバカにするのかい?」
私は声を低くして問う。
自分でぎょっとするほど威圧的で、それでいながら苦々しさに満ちあふれていた。
「しませんよ」
女の子はあっさりと答えた。睨みつける私にひるむことなく、見上げてくる。
目を合わせていられないのは私の方だった。女の子から眼を逸らして、空と都庁のビルの境界辺りへ視線をさまよわせた。
「あなたにとって本当に価値あるモノは、決して他人が奪い去ることのできないモノなのかもしれません」
女の子は言うが、私はいじけた反応しかできない。
「何が分かると言うんだよ。何も知らない他人のくせに……」
「いいえ、一つだけ分かることがあります」
女の子は魔法瓶の上部をくるくると回して、カップと水筒を分離した。
「あなたに、これが必要だということです」
私が何もできずにいる間に、水筒のカップを持たされる。
「おいしいコーヒーをどうぞ」
「あ……ありがとう」
女の子が水筒を傾けた。濃い茶色の液体が放物線を描く。冷たい空気の中、湯気が膨らんで広まった。
私は息をのむ。注がれているものの迫力に気づき始めていた。
カップを持つ手が震える。左手を添えて、どうにか液体を受け止める。
震えが茶色い水面に波紋を描いた。
このコーヒー……。
天国のような素晴らしい香りから判断するに、一級品だろう。
いい豆を使い、それを熟達した技術で飲み物に編み上げている。
高度な芸術に疎い私でも、溜息が出るような出来だ。
女の子がコーヒーを注ぐのを止めた。顔に満面の笑みを浮かべている。
「召し上がれ」
凄いコーヒーだ。
絵画の知識のない人間でも、名画を前に圧倒されてしまうのに似ている。
魂の弦を振るわせる芸術品。
そんな芸術品が、ボロボロになった私に差し出されているのだ。感動するべき事だった。
だが、飲むことはできなかった。
それどころか、このコーヒーが傷を抉ってこじ開けようとする痛みのようなものさえ感じた。
私は、またしても奈落に突き落とされていた。
「済まないけど……飲めないんだ……」
私は身を捩るように言葉を吐くや、コーヒー満ちるカップを女の子に突き返した。
我ながら乱暴な手つきだった。
女の子は目を丸くしながらも、巧みに受け止め、コーヒーをこぼさなかった。
私は何度も大きく息を吐いて、心を落ち着ける。
申し訳なさが滲んだ。
「……私はモルモン教徒でね。カフェインを摂ることは御法度なんだ」
女の子はきょとんとした顔で私の言葉を聞いている。きっと、モルモンが何なのか知らないのだろう。
私がモルモンに帰依してから、ずいぶん経つ。宗教のない国でモルモン教徒をやっていると苦労も多かった。
周りの理解はまず得られないし、主の教えに従うことが悪いことであるかのように振る舞われることもあった。
だが、私の精神は宗教的に護られているはずだった。
私は救われるはずだった。
それなのに、結局のところ、私は救われていない。
仕事同様、信仰だって手を抜いたことはないのに、私はこんなにも迷っている。
打ち捨てられた私に女の子は好意を向けてくれた。それすら、こうやって無碍にしなければならないなんて。
なんて虚しいのだろう。
私の全身から力が抜けていく。
一方、好意を冷たく拒否されたにも関わらず、少女は楽しげだった。
拒否されたコーヒーを自分の口へと近づけていく。両手でコップを支えて口を付け、たいそう美味しそうに飲み干す。
彼女は、とろけそうな笑みを浮かべた。
コーヒーを飲んだことのない私が、そのことを後悔するような表情だった。
「メデリンとマンデリンとモカのブレンドです」
カップの底に残る液体を愛おしげに見つめながら、女の子が言う。
「あんまり人気のないブレンドなんですけど、私は大好きなんですよ。飲むと胸が一杯になるんです」
私は何の返事も出来なかった。
女の子はカップを振って、それを魔法瓶に戻した。
持ち帰ると思いきや、それを私に抱えさせた。
「え?」
女の子は足を振って立ち上がる。
私は押しつけられた魔法瓶の意味が分からずにいる。
カップ一杯のコーヒーを飲めない私に、魔法瓶一本分のコーヒーを与えても無意味に決まっているではないか。
魔法瓶を押し返そうと、私は腰を浮かした。女の子はそれを制する。
「飲むだけが全てじゃありませんよ」
どきりとするような澄んだ瞳で女の子に言われて、私の試みは封じられてしまった。
女の子は踵を返した。私は、言葉もなく、その後ろ姿を見送るしかなかった。
我に返ると、私はまたベンチに一人座っていた。
不思議な女の子だった。
世の中には色んな人間がいることを知っているが、それにしても不思議な子だった。
ふいに強い寒さを感じる。私は暖を求めるかのように魔法瓶を強く抱きしめていた。
コーヒーなんて、私の手に余る。
宗教を捨て去ってまで飲みたくなるような誘惑の源で、危険だ。誰かに渡して、重荷から解放されたかった。
私は心に決めて立ち上がる。
立ち上がってすぐに、はっとする。
誰かにって……誰に?
長らく、他人に注意を向けたことがなかったことに気付く。
道ですれ違うのは、顔のない人々であって、彼らが私の人生に関わったことはない。
現代社会の都市は、殺伐とした場所だった。
進む道が挑戦となって私を試していた。
いったい、誰に渡せばいいというのだろう?
目に映るもの全てが問いかけてくる。
「分かるわけない……」
私はかすれた声で呟いた。
飲めもしないコーヒーがなぜ私をここまでかき乱し、試練にかけてくる。なんという不条理だろう。
捨ててしまうか。
何をするにも、私は疲れ果て、打ちのめされていた。
こんな残骸のような自分に、こんな重労働は無理なのだ。
一生懸命働いてこのざまなのだ。私にできる事なんて、何もない。
そう、自分は残骸。生きる屍なのだ。
私はそれをはっきりと認識した。
背を丸めて、よろめき歩く。
自嘲を顔に、ゴミ箱へと近づく。私という名のゴミが、ゴミ箱に近づいていく。
私の足が止まる。
その脇の地面に座る男に、目を吸い寄せられた。
全く知らない男だった。
ボロボロの身形だ。浮浪者かもしれない。
どこの誰とも、全く知らない人間だった。だが、この男が、私よりはるかにボロボロであることは明らかだった。
身体はもちろん、魂も精神も残骸でしかない、そんな人間。その皺の刻まれた顔は堅く、眼には一切の光がなかった。
徹底的に痛めつけられ、磨耗し、一切の尊厳を奪われた人間の顔だった。
過去の私なら、決して目をやることはなかった
都心で働くようになって初めて、私はちゃんと他人をみた。
他人の心の有様を直視してしまった。
そして、その衝撃は大きかった。
この男は、もう顔のない人間ではないのだ。
勇気を振り絞る。
幸い、私に失うほどのものはない。
私は少女を真似た手つきで、魔法瓶のカップにコーヒーを注いだ。湯気が立ち上る。
そして、かがみ込みながら男にカップを差し出した。
「おいしいコーヒーをどうぞ」
目を丸くして、口をぽかんとあけて男は私を見上げる。
他人に真摯な反応を示してもらう、なんてことは久しくなかったことなのだろう。
他人に親切なことをしてくれるのは、もっと久しぶりなのだろう。それがどのようなことなのか、男自身が覚えていないに違いない。
「わ……私に?」
男は、現実を理解できない視線を、何度もコーヒーと私の顔を往復させた。
「はい。あなたに」
私は穏やかに、しかし断固とした口調で言った。
男が骨と血管の浮き出た震える手を持ち上げる。
私の差し出すカップに触れ、電流が流れたかのように手をはねのけた。カップの温かさに驚いたのだろう。
私は動じず、カップを差し出し続ける。そして、ようやく男はカップを受け取った。
男は髭を濡らしながらコーヒーを啜った。
「……素晴らしい……味だ」
間違いなく素晴らしい味だろう。
私には味わう資格がないものの、それは分かった。
「……ありがとう」
男はむせび泣くような声で言って、またコーヒーを飲んだ。
私は男のカップにコーヒーを注ぐ。
そのとき、ふと気付く。
私はコーヒーを口にしていないのにも関わらず、幸福感が身体に流れ込んでくることを自覚した。
見知らぬ男の感謝の念が、私に作用しているのだ。
いい大学を出たり、企業に就職して金銭を稼ぐことでは感じたことがない暖かみ。
そんな経験したこともない法悦が、私を一杯にしているのだ。
「ありがとう……ありがとう」
男は歓喜の涙を浮かべて、繰り返していた。
私は痛めつけられ、辱めを受けた。
だが、痛みは永久に続くものではなかった。
私は自省するきっかけを与えられ、結果、己を知った。
悟りの道へ誘う、不可欠な理解を経ることができたのだ。




