プロローグ
(――馬鹿な!)
彼がそう思ったのは決しておかしなことではない。
約束の時間は正午。
そして今は、もう日が落ちる寸前の時間だった。
一年の半分以上が冬であるといわれるこのクリーヴランド領では決して珍しくはない四月の雪。その雪がチラチラと舞い落ちる寒空の下、五時間も待っているはずがない。
そんなはずはないのだ。
彼女に限って――
――いいや。
彼がそう考えてしまったのは、彼が真に彼女の心を理解していなかったからだろう。
普通であれば待たない。
だが、今回、この時、この状況に限っては違っていたのだ。
彼女は待っているだろう。
たとえこのまま日が沈み、辺りが暗闇に包まれようとも。
「っ……!」
「あっ、ティース様!?」
宿を飛び出していく。
それでも彼には理解できない。
環境が変わっても、言葉遣いを変えてみても、彼にとっての彼女は今も“お嬢様”だった。
彼にとってそれは、前提なのだ。
自分は従者である。
彼女は主人である。
だから、そんなことはありえない。
(まさか――)
待っているはずがない。
待つ理由が理解できない。
けれど。
そうだとしたら一体どこに?
心が乱れた。
(っ……なんでもいい! とにかく無事でいてくれよ――!)
いくらネービス並みに治安が良いといわれるこの町でも、夜の闇が危険であることに変わりはない。特に彼女のように否が応でも人の目を引いてしまう女性にとっては。
次第に強くなり始めた雪の中。
駆ける。
駆ける。
駆ける。
そして――
ひゅぅ、と、一際強い風が吹いて、道路に薄く積もった雪を舞い上げていった。
白い息がゆっくりと、天に昇っていく。
町の中央に佇む情緒のある公園。夜になっても薄青の明かりに照らされたその広場は静寂に包まれていた。
ただ、そこには――
「はぁっ……はぁっ……」
「……」
雪と風の中、少女は夜空を見上げていた。
複雑な金糸の刺繍が入った黒いベルベットのトップにフレアーのロングスカート。肩にかけたシックなストールには薄っすらと雪が積もっている。
寒さのためか、両手は互いの二の腕に添えられ。
瞳はじっと、今にも凍ってしまいそうな夜空へと向けられていた。
――温もりなど、ひとかけらも存在しない冷たい空間。
それでも彼女はじっと身動き一つせず、そこに立っていたのだ。
「シー……ラ……」
幻想の世界に飛び込んでしまったのかと錯覚してしまいそうな美しい光景。
もしもこれが舞台の上の出来事で、彼が単なる一人の観客であったなら、感嘆とともに見とれるだけで良かった。
だが、これは現実。のみならず、彼はその主役ですらあった。
身体の芯まで染み込んでいく寒風も。
その肩に少しずつ降り積もっていく雪も。
全ては現実だ。
心が、冷えた。
(なんで、待ってるんだ――)
理解できない。
(一秒でも遅れたら帰るって、そう言ってたじゃないか……)
理解できない。
いや――理解できないのは、知らないから。
知ろうともしなかったからだ。
「……ティース」
ゆっくりと、少女の瞳が地上に下りた。
「ぁ……」
唇が乾く。
何か言わなければならない。
――でも、なにを?
悪いのは彼だ。仕方のないことだったとはいえ、彼は約束を反故にし、その結果、彼女はこの寒空の下で凍えながら五時間も待つことになった。
その場の善悪は単純明快だ。
だけど。
(いつもみたいに謝れば、それで……?)
心臓を鷲掴みにしたその不安が、キリキリと彼を責める。
それは、何か――取り返しのつかないものだったように思えた。
「……すまん」
だが、それでも彼には謝るしか方法がない。それ以外の何かを思いつけなかった。
頭を下げ、張り付きそうになる唇を懸命に開いて。
「俺――」
「謝らなくていいわ」
「……え?」
顔を上げると、少女は微笑んでいた。
まるで慈愛の女神のように。包み込むような暖かさを纏って。
「お前のことだもの。きっとどうしてもやらなければならないことができてしまったのでしょう?」
「あ、ああ……」
言葉は事実だ。
彼女の信頼も紛れもない真実。
彼を理解し、彼を信頼しているからこそ、彼女は彼がその理由を口にする前に確信してしまったのだろう。
しかし、
「シーラ――」
その言葉は、彼の心の枷をさらに強く締め上げた。
何故なら――
「お前は本当に優しい男だわ。少しだけ頼りないところも、おっちょこちょいなところも、鈍感なところも、全部嫌いじゃないのよ。……でも」
表情を失った視線だけが、彼を見つめていなかったから。
いつも強い意志を秘めていた太陽の瞳は、まるで黒水晶のように凍り付いて。
白い息がゆっくりと天に昇る。
「……苦しい」
「――」
呼吸が止まった。
「自分勝手で我が儘だから、思うのよ。別に立派な人間でなくてもいいから。これ以上、私を苦しめないでって……」
「ぁ……」
ゆっくりと、少女の足がその場を離れ。
そして、すれ違う。
「っ――」
振り返り、とっさに呼び止めようとした唇が固まった。
……行き先など決まっている。なにも心配する必要はない。二度と会えないわけではない。それどころか明日の朝になれば、また同じように宿で顔を合わせることになるのだろう。
だが、しかし――
「……」
結局彼女を追いかけることさえ出来ず、その場に固まったまま。
薄青の雪だけが、いつまでも、いつまでも降り続いていた――