その9『聖女の結界』
青空を侵食する緑色の粒は、刻一刻とその面積を広げていった。最初は砂粒ぐらいの大きさに見えていたものが、今では林檎の種ぐらいの大きさにまでなっている。
それらはゆっくりと、しかし確実に地上へと近付いていたのだ。
「くそ……ッ!」
ティースは風の五十四族とともに空へ逃げたザヴィアを追うのを諦め、エルレーン、リージスとともに、その“風裂爆弾”の落下地点――村人たちが集まっているはずの村の中心地へと走っていた。
(あの感じだと、地表に落ちるまで五分程度――)
それについては先ほどのザヴィアの言葉に嘘はなさそうだった。
が、しかし。
それは絶望的な時間だ。
彼らが村の中心にたどり着くまでどんなに急いでも三分はかかる。そこから村人たち全員を“風裂爆弾”の影響範囲外に逃がすとなると――
「エル! この距離であれを撃墜できるかッ!?」
ティースは正面を向いたまま速度を緩めず、後ろに向かってそう叫んだ。
村人の中には足腰の弱った老人もいるし、若い男たちも大半が獣魔に襲われ負傷している。まともにやれば決して間に合わないのが明らかだった。
それならば空中で、あの爆弾の効果が地表に及ばない高さのうちにすべて破壊できれば、と、ティースは考えたのである。
(数は多いが、うまく連鎖させることができれば……)
希望がないわけではない。
「やってみるけど――」
返ってきた声とともに、背後で突風が発生する。鋭い音を立て、いくつもの風の刃が上空目掛けて飛び、そのうちのいくつかは落下する緑の球体に直撃した。
が――
「ダメ! 爆発しない!」
「くっ……」
先ほどティースを襲った“風裂爆弾”は衝撃感知型だったが、どうやら空中にばら撒かれたのはそれと違う――時限型か、あるいは遠隔操作型のようだった。
どちらも外殻を破壊すれば強制的に破裂させることもできるが――
「この距離だとボクの力じゃ破壊できない! 近距離なら可能性はあるけど――」
「それじゃ意味がない!」
そこまで近付いてしまっては、破壊に成功したとしても地表に被害が及ぶのは避けられないし、三百もの標的をタイムリミットまでに破壊することも不可能だ。
「リージスさん!」
と、ティースはエルレーンのさらに後ろを若干遅れて付いてきていたリージスに向かって叫ぶ。
「おぅ! なんだ!?」
「あなたはここから離れてください!」
「はぁ!?」
リージスが不満そうな声を出す。
「冗談じゃねぇよ! 手を貸さなきゃ逃げらんねぇじいさんばあさんもいるんだろうが!」
「それは俺たちでなんとかします! だからあっちへ!」
と、ティースは続けた。
三百個とはいえある程度は分散しているから、最悪、あの爆弾が炸裂する中心にいてもティースやエルレーンには生き残れる可能性もある。しかし、魔力に対して抵抗力のないリージスは確実に命を落とすことになるだろう。
だから、これ以上彼を付いてこさせるわけにはいかなかったのだ。
だが、
「いいや! 俺は一人でも連れて一緒に逃げるぜ!」
リージスは足を止めようとはしなかった。
「っ……」
ティースはさらに説得を続けようとしたが、もはやその余裕もない。
約三百個の“風裂爆弾”は、すでに半分以上その高度を下げていたのだ。
「――皆さん! 外へ出て! 逃げてください!!」
目的地へたどり着き、ティースが大声を張り上げると、村人たちが何事かと家から出てくる。
「何事ですか、ティーサイト様!」
中には村長であるアルフレッドの姿もあった。
「空を見てください!」
ティースの言葉に村人たちは一斉に空を見上げ、直後、どよめきが広がっていく。
続けてティースは言った。
「あれは魔の攻撃です! 皆さんとにかく村の外へ! 外のほうへ向かって逃げてください! 怪我人やお年寄りには――」
言いかけて口を噤んだ。
怪我人や老人に手を貸していてはおそらく逃げ切れない。かといって彼らを見捨てて逃げろとは言えない。
そんなティースの背後からリージスが声を張り上げた。
「おい、おめぇら! 元気の有り余ってるやつは怪我人やじいさんばあさんを手伝え! それ以外の連中は一目散に逃げろ! ためらってる暇ぁねぇぞッ!!」
そう言ってリージスは自ら、家を出てこようとしていた老夫婦に駆け寄っていった。
そんな彼の背中にティースは心の中で感謝の言葉を呟き、そして空を見上げる。
(……あと二分程度――)
ティースの左右を、村人たちが必死に駆け抜けていった。
――彼らの足、“風裂爆弾”の散らばり具合とその効果範囲。
運良く逃げ延びることができるのはよくて一割程度だろう。怪我人や老人、そんな彼らに手を貸している人々は、このままだとおそらく全滅だ。
「くそ……ッ!」
ティースは背後を振り返り、空に浮かんでいる風の五十四族――高い場所から傍観を決め込んでいるザヴィアを睨みつけた。もちろんその表情まで窺い知ることはできなかったが、おそらく彼が浮かべているであろう喜悦の笑みを想像してティースの胸は熱く煮えたぎった。
(……あいつの思い通りになんか、させるもんか――!)
ぐっと拳を握り締める。
「エル! ……手を貸してくれ!」
「え!?」
手にした“細波”を地面に突き立て、上空を見上げたティースの言葉に、エルレーンは驚いたような顔をした。
「手を貸せって……ティース、まさかアレを――!?」
「それしかない! 今ならまだ、空中で全部破壊できればみんなを助けられる!」
落下まで一分未満の距離になれば、地表が爆弾の効果範囲内に入ってしまい、それもできなくなるだろう。
だから空中で破壊するなら今のタイミングしかなく、そしてティースにはそれを可能とする奥の手があった。
が、しかし、
「無茶だよ!」
エルレーンはそんな彼の正面に回って、言った。
「確かに可能性はゼロじゃないけど、失敗すればキミは死ぬ! それにアレはそういう使い方をするものじゃない!」
「わかってる! けど、やらなきゃ俺たち以外みんな死んでしまう!!」
キッと彼女を見つめる。
「っ……」
そんなティースの強い眼差しに、エルレーンは一瞬怯んだ顔をしたが、
「……ダメ! そんな自殺行為に手は貸せない! そんなことでキミを死なせたら、リィナやシーラに顔向けできないよッ!」
そう言ってティースから一歩離れた。
「エル!」
その奥の手は彼女の協力なしには成立しない。
しかし、エルレーンは頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
「……エル! 頼む!」
そうこうしているうちに爆弾はさらに地表に近付いていた。
あと三十秒もすれば、空中で破壊することさえ不可能になる。
「ティース、みんなを手伝って! 早くここから離れないと!」
「くっ――」
リージスやその仲間たちが、怪我人や老人たちを助けてその場から離れていく。が、たとえティースが手を貸したところで、彼らがあと一分半の間に爆弾の効果範囲外に逃れることは不可能だった。
(このままじゃ、みんな――)
全員死ぬ。
みんな手が届くぐらい近くにいるのに。
誰一人救うことができない。
また――
「っ……」
唇を噛み締めて。
「……エル! もしお前が手を貸してくれないなら――!」
と。
ティースが言いかけた、そのとき。
――咆哮のような唸りを上げ、一筋の風の渦が上空に向かって飛んだ。
「……えっ!?」
ティースとエルレーンが同時に空を見上げる。
空に飛んでいった風の渦は、地表に近付きつつあった“風裂爆弾”のいくつかを呑み込み、破壊して消えていった。
「――“穿つ風”!?」
ある予感とともに、ティースがその“穿つ風”が放たれた辺りに視線を動かすと、洞穴へと続く道の途中に、緑と薄茶の光に包まれた巫女の姿があった。
「アメーリア!?」
「ティーサイト様……お逃げください。ここは私が……」
フラ、フラ、と近付き、空を睨みつける。
「この村は、私が守ります。それが私の――」
アメーリアの体が緑色に輝くと、再び“穿つ風”が上空に放たれ、空いっぱいに広がった爆弾の群れに風穴を開ける。
しかし――
「アメーリア! やめろ、無茶だ!」
華奢な少女が地面に膝をついたのを見て、ティースは彼女に駆け寄った。
「君の力はもうほとんど尽きている! それ以上やったら体が壊れるぞ!」
それは誇張でもなんでもない。事実、アメーリアの体は怪我をしたわけでもないのに、ところどころ皮膚が裂け、そこから赤い血が流れ出していた。
体が大きな魔力の放出に耐え切れなくなっているのだ。
「でも、私は――」
「それに、それじゃもう間に合わない! もう――」
と、ティースは空を見上げた。
二発の“穿つ風”が破壊した“風裂爆弾”は十個か、十五個か。いずれにせよ全体の一割にも満たない数だ。たとえ彼女の体が崩壊するまで“穿つ風”を撃ち続けたところで、おそらくはその半分も破壊できずに終わることだろう。
「でも――」
ティースが告げたその事実に、空を見上げたアメーリアの目が大きく見開かれる。
「このままでは、私の村が……私は――」
貴方様を殺してまでも守ろうとしたのに――と、声が震え、目の端に薄っすらと涙が浮かんだ。
「私は――」
「……わかってる、アメーリア」
そっと彼女の前に屈みこみ、ティースは人差し指でその涙を掬った。
「その想いは決して無駄にはならない。だから」
立ち上がって、顔を上げる。
「あとは全部任せて、ここでじっとしているんだ」
それは慰めでもなんでもなく。
事実だった。
村を心配し、まともに動かないはずの体で洞穴から出てきた。
彼女のその想いが――おそらくは村を救うことになる。
「……ティース様!」
ティースが向けた視線の先――洞穴へ続く道に、もう一つの人影。
おそらくアメーリアと一緒に出てきたのだろう。リィナだった。
ティースは叫ぶ。
「リィナ! 手を貸してくれ!!」
空に広がる緑色の球体は、その表面の光彩がわかるぐらいにまで接近していた。
もはや地表に影響を与えずに破壊することもできないだろう。
が――
「アレを、全部破壊する!!」
「はいッ!」
ティースの意図を察し、ためらうことなくリィナは頷いた。
――大きく息を吐く。
手にした“細波”を地面に突き立てた。
そんなティースの背後に、寄り添うようにリィナが立つ。
「――静かに波立つ海よ」
ティースの口が呪文を刻み、“細波”の柄にはめ込まれた宝石が青い光を放った。
そして、
「ティース様。……いきます」
後ろから抱きしめるように、リィナがティースの体に両手を回す。
その、瞬間。
「ッ――!」
ティースの全身を痺れるような魔力の奔流が駆け抜けた。
体中のすべての力が吸い尽くされる。
二人の全身を覆ったのは青い光粒――水の“神気”。“細波”の宝石がさらに眩い光を放ち、その力が“神気”によって数倍に増幅される。
「く……ぅッ!」
強烈な脱力感に震える膝に力を込め、ティースは全身の気力を振り絞った。
増幅され、凝縮した水の魔力が“細波”の剣身を満たす。
空気が。
大地が震える。
そばにいたアメーリアの目は驚きに見開かれ。
逃げようとしていた村人たちも、いったい何事かと振り返る。
村の中心には青い光。
そして、
「“細波”よ、すべてを守護する光と成れ――ッ!」
ティースの口が再び呪文を刻んで。
その剣の奥底に秘められた力が、解放された――。
「……これは」
ザヴィアは驚愕に目を見張った。
村の中心辺りに発生した青い光の膜は、今まさに村に落下しようとしていた“風裂爆弾”を押しのけるように破壊しながら広がり、村全体を包み込んで、上空に浮かんでいたザヴィアの眼前辺りまで達していた。
三百個の爆弾はすべて空中から消え。
どうやら村の中に被害はないようだ。
「……」
ザヴィアは微かに眉をひそめ、眼前の水の結界に左手を向けた。
そこに風の渦が生まれ、結界に向けて放たれる。
が――
「ビクともしない……か」
ほぼ全力で放ったザヴィアの風が、結界の表面に揺らぎすら残すこともできずに四散する。どうやらその結界は、最低でも王魔級の魔力で形成されたものだ。――いや、そうでなくてはこれだけ広範囲に、ザヴィアの爆弾をすべて防ぐほどの結界を張ることはできないだろう。
目を閉じて、しばしの思考。
「厄介ですね。あの二人――」
再び開いた視界の先に小さく映る、ティースのそばに寄り添う二人の少女。
「……ま、いいでしょう」
ふふっ、と笑い、
「次はもう少し面白い趣向を考えておきます。……またお会いしましょう、ティースさん――」
ザヴィアは風の五十四族とともに空高く上がっていく。
そうして――スピンネルの村を襲った脅威は去っていったのである。
ティースが意識を取り戻したのは、真っ暗な部屋の片隅だった。
「う……っ」
呻き、状況を認識。
体には布団がかけられている。背中の感触からするとどうやらベッドの上のようだった。
「ここは……」
身を起こそうとしたが力が入らない。
混濁した記憶が徐々に蘇って、そしてティースはようやく思い出した。
(ああ、そうか。アレを使って――)
リィナの力を借りて“大結界”を展開した後、村人たちが全員無事であること、さらにザヴィアの姿が消えていることを確認して、そこで力尽きて――
いや。
力尽きたことも確かだが、それよりも緊張が解けてしまったことでリィナに触れられていることを思い出し“アレルギー症状”により気絶してしまったのだった。
なんともしまらない話である。
――少し気合を入れてベッドの上に上半身を起こす。
うっすらと射し込んでくる月の明かりで、どうやらそこがアメーリアの家の一室――彼が昨晩泊まった部屋であることが確認できた。
外は昼間の喧騒が嘘のように静かだ。
(……みんな助かったんだな)
そのことを再確認して、ティースは深く安堵の息を吐いた。
脅威は去った。そしておそらく、この村で起きていた金の採掘騒動も終わることとなるだろう。金が採れるというのが作り話であった以上、村人たちが洞穴に潜る理由はなくなったのだから。
もちろん、それでこの村のすべての問題が解決したというわけではない。
復興のアテがなくなり、村長はまた頭を悩ませることになるだろう。
しかし――ひとまずは。
(巫女は、どうなるのかな……)
次にティースはそのことを考えた。
彼女が上空に向かって“穿つ風”を放つ姿は、おそらく何人かの村人にも目撃されただろう。その存在がただの“飾り物”でないことはいずれ知れ渡ることになる。
信仰を取り戻すか。
あるいは迫害されるか。
……いや、それ以前に、巫女の持つ“エブリースの首飾り”は常識外の力を秘めた魔導器だ。そのことが知れればネービス公直属のデビルバスター部隊“ネスティアス”辺りが調査に動くことになるだろう。
これだけの騒ぎだ。ティースが報告しなかったとしてもいずれ同じ運命になる。
この村の未来。
巫女の未来。
それがどうなるのか、ティースにはわからないが――
(今までどおり、にはならないかな……)
脳裏にアメーリアの涙が蘇る。
――彼女は何を望むのだろうか、と。
そう、ティースが考えたそのとき、
「……?」
顔を上げる。
部屋の扉がゆっくりと開いて、そこにうっすらと佇む人影があった。
顔までは見えなかったが、体格からしてどうやらアメーリアのようだ。
「気がつかれたのですね」
別の部屋で寝ているのであろうリィナやエルレーンに気を遣ったのか潜めた声でそう言って、アメーリアはゆっくりとティースの横たわるベッドへと近付いた。
「アメーリア……ああ、もう大丈夫だよ」
一瞬この村に来た夜のことが脳裏に蘇って肝を冷やしたティースだったが、近付いてきたアメーリアはあの日と違い、きちんと寝間着を身に纏っていた。
「どうしたんだ? こんな遅くに」
ティースがそう問いかけると、アメーリアはベッドの横に置いてあった椅子に腰を下ろし、手にしていたタオルを見せて、
「少し汗を掻いておられたようでしたから。風邪をお召しにならぬようにと」
「あ、ああ。そうか」
それでティースは気付く。おそらく彼女は今やってきたわけではなく、もともとそこに座って彼の看病をしていたのだ。タオルを取りにいったところでたまたま目を覚ましたのだろう。
「あ、自分でやるよ。ありがとう」
手を伸ばそうとしたアメーリアを制止して、ティースはタオルを受け取った。
それで首筋の汗を拭いながら、
「君も今日は疲れてるんじゃないか? 俺はもう大丈夫だから部屋に戻るといいよ」
「いえ、私は大丈夫です」
「大丈夫には見えないけどね」
この薄暗い中でも、彼女の顔に浮かぶ疲労は隠せていないし、ところどころに巻いた包帯には血が滲んでいる。
ティースは深刻そうな顔のアメーリアに対し、少し軽い口調で言った。
「寝たほうがいい。夜更かしは美貌の天敵だというしね」
「……ティーサイト様」
「ん?」
「明日には、もうお戻りになられるのですか?」
「ん、まあ……村長さんとも相談だけど、ここにいる理由はもうなくなったかな」
「……」
黙りこむアメーリア。
「……気に病むことはないよ、アメーリア」
彼女が何を考えているのかを想像し、ティースは先にそう言った。
「君の想いは理解してるし、俺には君を糾弾するつもりはない。――こんな仕事だからね。殺されかけるのなんて慣れっこさ」
最後は軽口に紛らせる。
彼女の殺意はおそらく巫女の立場を知るザヴィアによって意図的に誘導され作られたものだ。さらにリージスの仲間が命を落としてしまったことも、ザヴィアによって洞穴の奥深くまで誘い込まれた結果である。
弱冠十四歳の少女が巫女としての自らの立場に思い悩み、村を守ろうとして起こした行動だと考えれば、このティースというお人よしの男がそれに怒りを抱くはずもなかった。
「色々、あるだろうけど」
それでも黙ったままのアメーリアに対し、ティースは言葉を選びながら言った。
「君は村のことだけじゃなく、自分のことも少し考えたほうがいいんじゃないかな。……正直、俺は君が巫女であろうとして淡々と話す姿を見てると、無性にやり切れない気持ちになるんだ」
「やり切れない……?」
不思議そうに呟くアメーリアに、君がまだ子供だということもあるんだけど――と、言ってティースは小さく息を吐く。
「セシルという子がいてね。君と同い年で動物にものすごく好かれる子なんだけど、だいたいいつも笑顔で天真爛漫な子なんだ。だからどうしても、重ねて見てしまって――いや、ごめん。これは説教とかじゃなくて俺の願望だな」
「私はヴァルキュリスの巫女、ですから」
「わかってる。君がセシルと一緒じゃないこともね。でも、巫女としての使命ってのは、そこまで自分を殺さなきゃ本当に守れないものなのかな? ……かつて天に近い場所にいた巫女は、神秘性を失って地上に堕ちた。そうしたのは君のお母さんだったね」
「……」
アメーリアは考え込むように黙った。
「それを無かったことにして再び天に昇ろうとするのも選択肢の一つではあるけど――もしかすると君のお母さんは、すべて承知の上で“わざとそうした”んじゃないかな」
「わざと……?」
「時代が変わったんだ。昔と違って村は貧困に窮し、少しずつでも外と交流を増やさなければやっていけない状況になりつつあった。だけど“ヴァルキュリスの巫女”というこの村独自の信仰は、外の世界では異質なものだ」
だから――と、ティースはいったん言葉を切って、そして続けた。
「君はお母さんの行動を“過ち”と表現したけれど――先代の巫女は“堕ちた”んじゃなくて、敢えて地上に“降りた”んじゃないのかな」
「……母は、そんなことは一度も」
「いずれ、言うつもりだったのかもしれない。……でも不幸な火事で、君のお母さんはそれを伝える前に命を落としてしまった。あるいは自分の代ですべてを片付けてしまうつもりだったのかもしれない」
すべては憶測に過ぎないけれど――そう付け足して、ティースは口を閉ざした。
そう。その話に根拠は無く、すべては彼の願望を含めた推測だ。……が、少なくともそこに破綻がなく、真実を知る人間がもうこの世に存在しない以上、事実がどうであろうと、あとは彼女――アメーリアがそれをどう受け取るか、ただそれだけの問題である。
巫女として生きるか、人として生きるか。
もちろん“エブリースの首飾り”という強力な魔導器の存在が明るみに出た以上、いずれは外的な要因が彼女に干渉してくることもあるだろう。
しかし、それでもまずは彼女自身の意思だ。
それらに流されないようにするためにも、彼女が自分自身の意思を強く認識する必要がある。
「……」
アメーリアが無言で視線を落とす。
――長い沈黙があった。
(すぐ結論が出るものでもない、か……)
そう思い、ティースは再び口を開く。
「さあ、アメーリア、今日はもう寝よう。……俺も眠くなってきたよ」
そう言ってわざとらしくアクビをしてみせた。
すると、
「……ティーサイト様」
アメーリアが顔を上げる。
「うん?」
アクビの涙を手の甲で拭いながら彼女を見ると、
「これからどうすればいいのか、私にはまだわかりません。頭の中も混乱していて……でも、一つだけ、今の話を聞いてわかったことがあります」
「なんだい?」
「私は――」
アメーリアは真っ直ぐにティースを見つめる。
そして言った。
「……貴方のことが好きになってしまったようです」
「へ?」
アメーリアが腰を浮かせ、身を乗り出してくる。
――ティースの頭に非常事態を知らせる警告音が鳴り響いた。
「ちょっ……ちょっと待って! アメーリア!」
咄嗟に逃げようとしたが、昼間の疲労が抜けきらない体にはまったく力が入らない。
「ティーサイト様――」
薄闇の中。
十四歳の少女とは思えない熱っぽい瞳がすぐ目の前にあった。
「……申し訳ありません。でも私は、これ以外に想いを伝える方法を知らなくて――」
「お、落ち着いてくれ! それは一時の気の迷いだ! こんなことがあって君は混乱しているんだッ!」
「ティーサイト様――」
「ちょっ……まっ――」
「……――うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「ティース! どうしたの!?」
「ティース様ッ!?」
家の中に明かりが灯って、他の部屋で眠っていたエルレーンとリィナが即座にティースの部屋へと駆けつける。
するとそこには、
「どうして……?」
ティースの手を握って困惑した顔のアメーリアと。
……ベッドの上でぐったりとしているティースの姿があった。
「ティース様――」
「……あちゃぁ」
エルレーンはその光景を見て状況のすべてを理解し、苦笑いする。
「おい! なにがあった!」
そこへ、近くで悲鳴を聞きつけたらしいリージスも家に飛び込んできた。
エルレーンは彼を振り返って、
「あ、ちょうど良かった。リージス。悪いんだけどティースの看病、お願いしてもいいかな?」
「はぁ? 俺がか?」
リージスは不審そうに聞き返して、気絶したティースとそのそばに寄り添うアメーリアを見る。
何が起きたのかまったくわからない表情だった。
――当然だろう。
「うん。ティースにとってはそのほうが良さそうだから。……さ、アメーリア。部屋に戻ろ?」
「で、ですがティーサイト様が――」
「大丈夫大丈夫。それにキミが悪いわけじゃないから心配しないで。あ、リィナ。彼女を部屋に連れて行ってあげて」
「お、おい。なにがなんだかわかんねぇぞ」
リィナとアメーリアが退室しても、リージスは状況を理解できていないようだった。
どうやら何も説明せずに納得させることは難しいようだ。
エルレーンは答える。
「ティースはその、ちょっとね。女の子が苦手でね」
「に、苦手? 苦手ってレベルなのか、あれ……」
そうだよ――と、エルレーンはそれ以上説明することなく、
「そういうことだから、疲れているところ悪いけど、お願いね。たぶん一時間もあれば目を覚ますと思うから」
「お、おぅ……」
そうして次の日以降。
スピンネルの村には、村を救った英雄として“女嫌いのデビルバスター”ティーサイト=アマルナの名が、しばしの間、語り継がれることとなったのである――。
その道ではチェリンという名前の木が桃色の花びらを枝いっぱいに咲かせていた。
大陸暦三百二十一年三月の末。それはネービスの街にある学園群で次々と卒業式が行われ、学徒たちが旅立っていく時期だ。
そして、その学園群の中でも五本の指に入るであろう名門“サンタニア学園”。その薬草学科では、およそ十数年ぶりに入学試験から卒業試験までトップを守り続けた、才媛の誉れ高い少女が卒業を迎えていた。
シーラ=スノーフォール。
あらゆる意味で学園の有名人だった彼女の門出は、不思議とひっそりとしたものだった。
学園の関係者を除けばそんな彼女を見送ったのはたった一人の友人だけであり。
そして彼女を出迎えたのもたった一人だけだった。
「……おめでとう、シーラ」
「一年遅れてしまったから無条件にめでたくはないけど、でもありがとう」
特別な日でもそんな彼女の態度はいつもどおりで。
ティースは胸がいっぱいになりながらも、その感情をぐっとこらえた。
そうして二人、並んで歩き出す。
――この道を一緒に歩くのは、一年ほど前、ティースがこの学園の特別講師を務めたとき以来のことだった。
「ここを歩くのも、これが最後なのね」
「……ああ」
「通い始めた頃は、まさかこんなことになっているなんて思わなかったわ。お前がまさかデビルバスターになってるなんてね」
「……ああ」
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ」
やや不満そうな顔をしたシーラにティースはそう答える。
嘘ではない。嘘ではないが――下手なことを考えると、つい口をついてしまいそうになる言葉があって、ティースはあえて思考を麻痺させていたのだ。
その言葉とはつまり。
これからどうするのか――、ということ。
サンタニア学園をトップで卒業したとなれば引く手は数多だろう。それはネービス領の内外も問わない。すでに薬師を営んでいるところで修行することも可能だし、いきなり店を開こうとしても出資者を集めることは難しくない。
そして彼女は、おそらくはもう進路を決めているだろう。ただ、ティースには話していないだけだ。
――彼女がミューティレイクの屋敷にいるのは、ティースの被保護者という立場だからである。そんな彼女がティースの保護下から抜けるということは、それはすなわち屋敷を出て行くということでもあった。
それでもネービスで仕事をするのならば、会いに行くことは難しいことではない。
が、もし彼女がそれ以外の選択をした場合。
――それは別れを意味する。
別れ。
その事実を認識すると、ティースの胸は寂しさと、それ以外の言いようのない感情で埋め尽くされる。
ディバーナ・ロウに所属するティースはこのネービスから離れるわけにはいかないし、たとえ、彼がディバーナ・ロウを抜けて彼女に付いていこうとしたところで、彼女がそれを認めないだろう。
なぜならば、彼が果たすべき役目はもう、終わったのだから――
「……なぁ、シーラ」
そしてティースは意を決し、口を開く。
「お前、これから――」
「ティース」
その言葉を遮って。
――おそらくは自ら切り出すことにこだわったのだろう。
シーラは足を止めた。
ティースは少し遅れて足を止め、そんな彼女を振り返る。
周囲には桃色の花びらが舞っていた。
一瞬の躊躇。
ゆっくりと、彼女の唇が開く。
「感謝しているわ。お前のおかげで、私はこうして夢のスタート地点に立てた」
「……」
その瞬間にティースは悟る。
――次に続く彼女の言葉は、おそらく別れの言葉になるだろう、と。
そしてシーラは続けた。
彼の予想通りに。
「私はジェニス領に――カザロスに戻るわ。向こうで薬師になる」
胸がきゅっと締め付けられた。
「……そうか」
「お父様のことも気になるし、ここまで来ればもう反対されることもないでしょうし。……だから」
「……いつ?」
引き止める言葉を喉の奥に飲み込んで、ティースは淡々とそう尋ねる。
返すシーラの言葉も淡々としていた。
「まだ決めてないわ。最後に一つ、やり残したことがあるから」
「……やり残したこと?」
「覚えてる? 私が一つ、願い事を残したままにしてたこと」
「……ああ」
それは、ティースがデビルバスターを本格的に目指した頃のこと。
三つの願いのうちの一つを残したままにしたことがあった。
シーラは頷いて、
「あの願いを今使うわ。ネービスを離れる前にやらなきゃならないこと――そのために行かなければならない場所があるの」
「どこに?」
最後の願いならきっと叶えてあげることになるだろう、と、ティースはそう思いながら尋ねる。
シーラはそんな彼の目を見つめ。
そして言った。
「大陸の北西――“常冬の国”クリーヴランド領よ」
そうして、おそらく最後になるであろう彼らの旅が始まる――。
-了-