その8『風裂爆弾(ブレンダー・ボム)』
まるで彼女だけが重力の束縛から解放されているのではないか――と、そう思えるほど、その動きはしなやかで軽やかだった。
そして実際、彼女の体は地上五メートルほどの高さにある。
尾を引く緑の光粒。
宙に浮かぶ姿は、まさに幻想の妖精そのものだった。
「“朧”で力を制限されてなお――」
それを見上げるザヴィアの左手から、標的を射抜く“風の短槍”が放たれる。
が――
「無駄」
緑の光に包まれた少女の体は、木の葉のようにクルリとひるがえって風の短槍を造作もなく避けた。
「キミの攻撃は当たらない。この先どれだけ続けようともね」
風の妖精――エルレーンは慇懃な悪意の男に対し、そう宣言したのである。
“ヴァルキュリスの顎門”の前で繰り広げられていたその戦いは、開戦の口火を切ったザヴィアの予想に反し、長引くこととなっていた。
その原因は二つある。
一つは、相性だ。
王魔以上の魔にのみ使うことが許される“神気”は、自らの魔力を増幅する効果だけでなく、他の者が扱う魔力を弱める効果をも持つ。かつてエルレーンが、タナトスに所属する炎の将魔、ネイル=メドラ=クルティウスと相対し、その魔力を完封して圧倒することができたのは、王魔としての力の強さもさることながら、この敵対魔力の弱化効果によるところも大きかったのだ。
さらに神気の及ぼす効果は、その属性が近ければ近いほどに高まるという特性がある。つまり王魔の中でも特に神気の扱いに長けているエルレーンが支配するこの空間においては、風の将魔であるザヴィアがその力を存分に発揮できないのは至極当たり前のことだったのである。
そしてもう一つの原因。
それはザヴィアが、エルレーンの能力を読み違えていたということだ。
「まさか、あらゆる飛び道具を事実上無効化する“風妖精の舞”とは――」
ザヴィアの生み出す武器が短槍から刃の形に変わり、それが立て続けにエルレーンを目掛けて飛んでいく。
しかし結果は同じだった。
宙に浮かんだエルレーンはそれらの攻撃を難なく避ける。まるで伸ばした指先からヒラヒラと逃れてしまう花弁のように。
「……そのセンス。さすがはシルバ族の姫といったところですか」
ザヴィアは自らの読みが甘かったことを認めた。
とはいえ。
彼がそれを誤認識してしまったのは、無理からぬことでもある。
“王魔とは強力な武器を持った素人であり、将魔とは貧相な武器を持った兵士である”
王魔と将魔を比較するときに用いられるそのことわざは、強大な魔力を持つ王魔のほとんどが、戦闘技術においては将魔のそれに及ばないことを表している。その例え話において本当に強いのがどちらなのかはさておくとして、実際にはそれでも王魔の力が将魔を遥かに上回る場合がほとんどだ。
持っている武器の強大さゆえである。
――しかし。
この場においては、そもそもその前提条件が崩れているのだ。
ザヴィアは貧相な武器を持った玄人であり。
エルレーンはそれよりもさらに貧相な、錆びた農具しか持たない素人である。
――いや。
そうである、と、ザヴィアは思い込んでいたのだ。
しかし、実際には違っていた。
もちろん彼女は戦闘のプロなどではない。が、おそらくは馬を華麗に乗りこなすことに長けていた。歩兵であるザヴィアを翻弄する程度の馬術を身につけていたのだ。
それが彼の誤算。
短い剣を伸ばしても、馬上の彼女には決して届かない。そしてもちろん、武器らしい武器を持たない彼女が、ザヴィアの身に刃を突き立てることもないだろう。
完全なるこう着状態だ。
ただ――
長引けば、やがて彼女の騎士がこの場に現れる。
それ自体はザヴィアにとっても望むところであったが、目の前の姫を物言わぬ骸にした後、というのが彼の思い描いたシナリオだった。
そのために、どうするか。
「……仕方、ありませんね」
ザヴィアは無念そうにそう呟く。
「本来、これはティースさんを歓迎するために用意したものなのですが……」
懐に入れた手がそこから棒切れのようなものを掴み出す。
「――?」
そんなザヴィアの行動に、エルレーンは怪訝そうな顔をした。
彼が取り出したのは小さな笛だったのだ。
「私の持っているカードの中で、貴女の“風妖精の舞”を封じられるのは、どうやらこれしかないようです」
迸る、甲高い笛の音。
ザザザ――と、草木を掻き分ける音がして、上空に黒い影が飛んだ。
「! 風の五十四族――?」
それは体長二メートルほどの、大きな翼を持つ鳥型の獣魔だった。
しかし、それ自体は今のエルレーンにとってさほど脅威ではない。鋭いくちばしも、大きな爪も、おそらくは今の彼女の身を脅かすには至らないだろう。
しかもその獣魔は飛び立った後、彼女たちの頭上をただ通過しただけでその武器を向けてくることさえなく。ザヴィアが一瞬気を取られた彼女の隙を突いてくるようなこともなかった。
――いったいなんの意図があったのか。
と、エルレーンがその疑問の答えを出すより先に。
「騎馬の足を封じるのに一番有効な方法をご存知ですか?」
と、ザヴィアは言った。
「……なんの話?」
目を細めてエルレーンが聞き返すと、ザヴィアはその口元に薄い笑みを湛えて、
「答えは簡単です。馬が飛び越えられない程度の障害物を用意してあげればいいんです。そこに鋭い刃物でもついていればなお効果的ですね」
「――」
彼女がその言葉の意味を悟ったとき。
その周りにはすでに“障害物”が張り巡らされていた。
「これ、は……」
拳ぐらいのサイズの緑色の球体が、ふわふわと彼女の周りを浮遊している。
ザヴィアの口元がさらに歪んだ。
「貴女ならご存知でしょう。それは風の魔力を練り上げて作った“風裂爆弾”と呼ばれるものです。私はこれを作るのが非常に得意でしてね。……ああ、気をつけてください。ちっぽけなシャボン玉のように見えますが、下手に触れると――」
ギャァァァァァ――という怪鳥の叫び声が、先ほどの獣魔が飛び去った方角から聞こえた。
「抵抗力のない人間なら、血も肉も骨もぐちゃぐちゃになってしまいますから」
ふふ、と、ザヴィアは可笑しそうに、
「それを獣魔に運ばせる方法は色々工夫しましてね。外の膜と内の膜を作り、外の膜は遠隔操作式、内の膜を衝撃感知式にするんです。それで今のようにばら撒かせるところまでは上手くいくようになったのですが、ああするとどうしてもいくつか翼に引っかかって残ってしまうらしく――」
私が外の膜を破ると同時に、運び屋さんはあのとおりです――と、喉を鳴らして笑う。
「……」
エルレーンは上下左右に視線を動かした。
“風裂爆弾”は鋭い刃を持つ螺旋状の風をこの球体に封じ込めた、主に罠として用いられるものである。……と言えば一見なんてことないように思えるが、実際には同じような形状の罠の中でもっとも作成難度が高く、それを作るためには魔力の強さだけでなく、魔力の形を自在に変化させる技術が必要とされ、その技術を持つ者であっても一日に二、三個作るのが限界と言われている。
その威力はザヴィアが口にしたとおり、抵抗力のまったくない一般人であれば骨まで粉々に粉砕されるほどだ。
それが――
彼女の周囲を覆う薄緑色の球体は、とてつもない数だ。
ざっと見て五十、いや百個近くはあるだろうか。
「……」
緊張に、エルレーンの喉が鳴る。
一見、ふわふわとただ浮遊しているだけに見えるが、おそらくその動きはザヴィアの意図したものだろう。ばら撒かれて無秩序に漂うだけならこれほど彼女の周りだけに密集することはないし、ばら撒いた時点でいくつかは体に触れてしまっているはずである。
つまり逆に言うと、やろうと思えばザヴィアは今すぐにでも、この百個近い“風裂爆弾”を炸裂させることができるということだ。
「ちなみに、貴女の周りにあるそれらはすでに外の膜を破った後です。触れると――まあ神気に守られた貴女なら一つや二つでどうということはないでしょうが、十、二十と……さて、何発まで耐えられるでしょうか」
全部耐え切ったら見逃して差し上げますよ――と、ザヴィアは酷薄な笑みを浮かべた。
「っ……」
冷や汗がエルレーンの背中を流れる。
何発まで――と、ザヴィアはそう言ったが、それはおそらく意味のない仮定だろう。その球体が彼の言うように衝撃を感知して力を解放するタイプなら、一つ破壊した時点で他の球体も連鎖するはずなのだ。
つまりその段階で、百近い“風裂爆弾”が彼女を一斉に襲うことになる。
その威力はどれほどのものか。少なくとも“朧”で魔力を制限された彼女がそれに耐え切れる可能性はゼロだろう。
ならば、触れないようにその包囲を抜け出す方法は――と、エルレーンは隙間を探す。が、彼女の周囲を覆うそれの密度は、降り注ぐ雨が空中に停止しているかのごとくだ。いかに小柄な彼女といえど、間を縫って抜け出すほどの隙間はない。
自力での脱出は不可能だった。
それどころか、下手に身じろぎでもしようものなら、うっかりその球体に触れてしまいかねない。
「空中で磔にされた気分はいかがです?」
身じろぎすらも困難となったエルレーンの姿にザヴィアは嬉々としながら、
「洞穴の中で渦巻いていた風の魔力が止まりました。どうやら下でも決着が付いたようですね。……彼が戻ってくるまで、最速で見積もって十五分、普通なら三十分ぐらいでしょうか」
彼女に聞かせるようにそう呟く。
「ま、何が起きるかわかりませんし、そんなに時間をかけるつもりはありません。貴女がもう少し絶望的な表情を見せてくれればなお喜ばしいのですが――」
キッと睨み付けたエルレーンを、ザヴィアは余裕の表情で見つめ返すと、
「見かけによらず負けん気の強い性格のようですね。いえ、それが王魔のプライドというものでしょうか」
「……キミみたいな最低の男を喜ばせるなんて死んでもゴメンだ」
「そうですか。まあいいでしょう」
小さく頷いたザヴィア。
エルレーンは小さく息を吸って――ゆっくりと、吐いた。
――彼女が生きてここを抜け出すには他者の力が必要だ。その力を持つ他者は今、洞穴の奥にいる。
戻ってくるまで十五分、というのはかなり用心深く見積もった結果だろう。洞穴の中の戦闘が起きていたと思われる地点からティースが直線距離で走ってきたとしておそらく十五分程度。実際にはもっともっとかかる。
彼女の目の前にいるザヴィアという男は、こうして勝負がついた後でもすぐにトドメをささないことからわかるように、相手を倒すことよりもいたぶることに喜びを見出すタイプだ。
が、それでも最低限の状況判断はできている。
ティースが戻ってくるギリギリまで彼女を生かしておくつもりはないだろう。
と、なれば――
もう一つ、深呼吸。
その事実を受け入れるにはさすがに時間が必要だった。
それはつまり――自らの生を諦めるということ――。
「では、終わりにしましょうか。運がよければティースさんもすぐに貴女の後を追うでしょう。寂しがる必要はありません」
す――と、ザヴィアが左手を彼女に向ける。
「!」
浮遊していた“風裂爆弾”がさらにその包囲を狭めた。
彼女の肌まで数センチ。
「真っ赤な血の花火です。観客が私一人というのが勿体ないですね――」
ゆっくり。
ゆっくりと左手を広げる。
「……」
エルレーンは目を閉じた。
息を吸って。
吐く。
おそらくそれが、この世で最後の深呼吸になるだろう、と、そんなことを思いながら。
――しかし。
彼女の覚悟はそこでいったん中断することとなった。
「――!?」
近くの茂みから姿を現した大柄な影。
それがひっそりとザヴィアの背後に迫っていたのだ。
(……リージス!?)
おそらくはザヴィアの意識がエルレーンへと最大限向けられる、その好機を窺っていたのだろう。素人とは思えない絶妙のタイミングだった。
が、しかし、
「……リージス! ダメ、離れて!」
エルレーンは大声で叫んだ。
ひっそりと忍び寄った苦労が台無しになることがわかっていながら、それでも彼女がそう叫んだのはもちろん、ザヴィアがそんなリージスの存在にとっくに気付いているとわかっていたからである。
「くたばりやがれ、この化け物がぁぁぁぁぁ――ッ!」
渾身の力で振り下ろされたリージスのスコップ。
しかし、ザヴィアはそれを避けようともしなかった。
「……どうやら観客がわざわざいらしてくれたようですね」
もちろん、避ける必要がなかったのである。
「――なッ!?」
リージスにとっては驚くべきことに、そしてザヴィアやエルレーンにとっては当たり前のごとく、振り下ろされたスコップはザヴィアの後頭部からほんの数センチのところでピタリと止まっていた。
“魔力の壁”である。
「なんと軽率な。しかしまぁ」
ザヴィアはゆっくりとリージスを振り返る。
そこには喜悦の笑みが浮かんでいた。
「っ……なんだ、こいつぁ……ッ!」
リージスは見えない壁の存在に表情を歪めつつ、スコップをもう一度振り上げ、全体重をかけて振り下ろす。
しかし結果は同じだった。
ザヴィアはふふ、と、笑って、
「危険であることがわかっていながら彼女を助けに来たというのであれば、その勇気は尊敬に値します。そして喜んでください。貴方の犠牲によってほんの数十秒、彼女は命を永らえさせることができたようです」
「くっ……!」
それ以上は無駄であるとようやく悟ったのか、リージスがザヴィアから距離を置く。
そんなリージスに、ザヴィアは左手を向けた。
「ダメ――ッ! リージス! 逃げてッ!!」
エルレーンが悲鳴のような叫び声を上げる。
リージスは困惑と恐怖の表情を浮かべてさらに後ずさったが、もちろんそれで逃げ切れるものではない。
「いい表情です。それでは――」
ザヴィアはそこで言葉を切って。
そして――驚きに目を見開いた。
「……ぉぉぉぉ――ッ!!」
「……てぇぇぇぇぇぇ――ッ!!」
ザヴィアがリージスに攻撃を加えようとしたその瞬間、周りの茂みからさらに、雄たけびを上げながら十人ほどの男たちが飛び出してきたのだ。
手にしていたのはスコップやピッケルなどの様々な採掘道具。
どうやら皆、リージスの仲間たちのようだった。
しかし、
「っ……なんだよ、こいつ!」
「どうなってやがんだ、こりゃぁ!」
硬いスコップの先も、ピッケルの刃も、そのことごとくがザヴィアの魔力の壁に阻まれ、自ら弾き飛ばされて次々と尻餅をついた。
……下位魔ならいざ知らず、将魔が相手では一人が十人、十人が百人になろうと結果は変わらない。
ただ、彼らはその事実を知らなかった。
「こんちくしょぉぉぉぉ――ッ!」
リーダー格のリージスに従ってか、あるいは彼らにとって命の恩人であるエルレーンを自ら助けようとしたのか。男たちは決して敵うことのない相手に立ち向かい、そして魔力の壁に弾き返されていった。
「……」
そしてザヴィアの顔が次第に無表情へと変わっていく。
――一人が勘違いして飛び込んできたところまでは、彼にとっても余興として楽しむ価値のあるものだった。
しかし、
「……愚かすぎて、さすがに興ざめです」
呟くようにそう言って左手を上げる。
ゴォッ、という音がしてザヴィアの周囲に突風が吹き荒れ、男たちは悲鳴とともに一斉に吹き飛ばされた。
まずい――、と、エルレーンは叫んだ。
「やめてッ!!」
しかし、ザヴィアの動きは止まらない。
――全員を殺すつもりだ。
そう感じて、エルレーンはグッと奥歯を噛み締める。
――殺させるわけには、いかない。
「ザヴィア――!」
そして咄嗟に叫んだ。
「取り引きをしよう、ザヴィア! だからその人たちには手を出さないで!」
ピタリ、と。
「……取り引き?」
振り下ろそうとしたザヴィアの手が止まり、そして興味深そうな目が彼女を振り返った。その身に纏っていた風が止む。
エルレーンは小さく頷いてみせて、
「そう。……取り引きだよ」
「不思議なことを、言いますね」
と、ザヴィアは空中に磔状態になったままのエルレーンの全身を舐めるように見回して、
「今の貴女に、私と取り引きできる材料があるとは思えませんね。……まあ確かに、そこにいる何人かの命など私にとっても大して価値のあるものではありませんが――」
「だったら」
エルレーンは強い口調で言った。
「なおさら、キミにとってこの取り引きには価値があるはずだよ」
「……」
そんな彼女の真意を探ろうとするかのように、ザヴィアはゆっくりと手を元の位置に戻した。そして突風に飛ばされ尻餅をついて動けずにいる男たちを一瞥すると、
「伺いましょう」
エルレーンへ視線を戻した。
「彼らの命と逆の天秤に、貴女は何を乗せるつもりですか?」
「それはもちろん――」
深い緑色の瞳が引き絞られて、鋭くザヴィアを見据える。
「キミの命だ、ザヴィア=レスター。ボクはキミの命と引き換えに、その人たちの安全を要求する」
「……」
一瞬だけ目を大きく見開いて。
にぃ、と、ザヴィアの口が楽しそうに歪んだ。
ティースは真っ直ぐに伸びる坂道を駆け上がっていた。
負けを認めたアメーリアの言葉によれば、その道は彼女の家の隠し部屋へと続いていて、ティースやリィナが通ってきた道と比べると半分以下の時間で地上へたどり着くことができるという。
ただ、それでも二、三十分はかかる道のりだった。
――長い。長すぎる。
気ばかりが逸った。
もしも、今回のことを企んだのがティースの予想通りの人物だったとすれば、それは人の命などなんとも思っていないような男だ。
つまり村の人々の命はいまや、風前にさらされた灯のようなもの。その中にはもちろん、万が一のことを考えて地上に残してきたエルレーンも含まれている。
最悪は――いや。
頭を振ってその考えを振り払う。
今はただ。
早く。
とにかく早く――
……どこまでも続くかと思われた坂道はやがて、遠く射し込んでくる陽光によってその終着点が近いことを知らせた。
ティースは抜き身の状態の“細波”を握り直し、一気に走っていく。
坂が緩くなり、道が徐々に狭くなって、そして光の中へと飛び出すと――
(ここは……?)
そこは狭い土倉のような場所だった。周囲はすべて壁で窓は一つもなく、太陽の光は天井の辺りに作られた採光口から微かに射し込んでいるだけだ。
四方の壁の一角には、一面に大きな絵が描かれている。……どうやらそこが回転する仕組みになっているらしかった。
躊躇なくそこを通ってアメーリアの部屋へ。
……しん、と静まり返っている。
家の中には誰の気配もなかった。
そして――
(あの、光は……)
ふと視線を移動させた窓の外に、微かな緑色の光が見える。
「エル!」
ティースは窓から外へ飛び出した。
その緑の光はエルレーンの神気の輝きだ。それは異常事態を知らせるものであると同時に、彼女がまだ生きていることの証でもある。
ただ、その方角から争う音のようなものは聞こえなかった。
心臓が早鐘を打つ。
どういう状況なのかを一刻も早く確認するため、ティースは速度を緩めず一気にその場所――“ヴァルキュリスの顎門”の入り口へと駆けつけた。
そして――
(あれは……)
やがて視界に、その男の後姿が映る。
黒いアンダーシャツにくすんだ灰色のベスト。頭にはターバンのような白い布。
変わらない。
一昨年の夏、北の街クレイドウルで初めて会ったときとまったく同じ出で立ちだった。
かつての記憶がティースの脳裏に蘇ってくる。
あれから一年半。
様々な出会いと別れがあって、数多の戦場を潜り抜け、残酷な現実にも直面し、いくつもの経験を得た。
それでも――なお。
その男の存在はティースにとって特別だった。
「……ザヴィア!」
「おや」
ゆっくりと、少しだけ意外そうな顔でその男が振り返る。
口元には不快感を刺激する微笑。
人を騙し、絶望に陥れ、その様を喜ぶ、歪んだ笑み。
唾棄すべき、邪悪の者。
「予想より早かったですね。お久しぶりです、ティースさん。クレイドウル以来ですか」
右手に中サイズの両刃の剣を携え、左手には細い笛。その甲には涙型のアザがある。
そしてザヴィアはゆっくりと会釈した。
「リューゼットさんやネイルさんをはじめ、貴方にはタナトスの皆が何かとお世話になっているようで。やはり私たちには不思議な縁があるようですね」
「……」
穏やかに耳障りなその言葉を聞き流し、ザヴィアを睨みつけるティース。
そうしながらまずは状況を確認する。
ザヴィアの背後、三メートルほどのところに大きな木があって、そこにエルレーンが後ろ手に縛り付けられていた。その手首には不思議な文様の入った枷がはめられ、口はタオルのようなもので猿ぐつわをかまされている。
そしてその反対側。大木を挟んで彼女と背中合わせに大柄な男――リージスが、やはり同じように縛り付けられていた。
二人とも意識はあるようで、見たところ大きな怪我はない。
「ッ……」
ティースの姿に気付いたエルレーンは、猿ぐつわの向こうから何か言おうとして諦め、眉を曇らせて申し訳なさそうな表情をした。
そんな彼女に対し、ティースは小さく首を振って、気にするな――と、唇だけを動かしてそう伝えると、すぐにザヴィアへと視線を戻す。
そして油断なく辺りの気配を窺った。
――不自然だ、と思った。
エルレーンの手を封じている枷は、人魔を捕らえたときによく用いられる魔力を封じる枷だ。物によっては上位魔クラスの魔力を完全に封じるものもあり、今の彼女では自力で抜け出すことは難しいだろう。
ならば何故、ザヴィアが彼女を生かしているのだろうか――と。
理由もなくそうしているとはとても思えず、つまり何か罠のようなものがあるのではないか、と、ティースはそう疑ったのである。
そんな彼の様子を見て、
「彼は、貴女の先ほどの話を知らないようですね」
と、ザヴィアが呟く。
ティースは一瞬戸惑ったが、どうやらそれはエルレーンに向けた言葉のようだった。
「まあ、そのほうが面白いのでいいでしょう。……さて、ティースさん」
薄笑いを浮かべたまま、向き直る。
「心配しなくとも今は彼女に手を出すつもりはありません。そして実を言えば、私にはこの場所で貴方をどうこうする気もないのです。……いえ、つい先ほど事情が変わり、それができなくなってしまったというのが正確ですね」
と、ザヴィアは言った。
その言葉の意味は理解できなかったが、
「そっちになくともこっちにはある」
周囲に何かが隠れている気配はない――と、ティースはザヴィアとの距離を詰めた。
ザヴィアはふふっと笑って、
「自信があるようですね」
「……」
かつては手も足も出ずに敗れた。
今は――わからない。が、自信のようなものはない。
彼の中にあったのはただ、目の前の醜悪な者に対する怒りだけだった。
さらに距離を詰めながら威嚇するように“細波”を握り直し、
「今度は何を企んでいた?」
「何も。今回に関していえば本当にほとんど眺めていただけですよ。ありもしない金の話をしたり、それを求める若者を洞穴の奥に誘ったりはしましたがね」
すべては彼らの欲深さが引き起こしたものです――と、ザヴィアは悲しげに言った。
「白々しいことを……!」
唇をかみ締め、ティースは吐き捨てる。
この村の経済状況を考えれば、彼らが金を求めたのは当然のことだった。ザヴィアは当然それをわかっていて危険な洞穴へ向かうよう仕向け、それを楽しんでいたのだ。
二人の距離が七メートルにまで縮まる。
ティースはそこで前に進むのをいったん止めた。
剣の間合いには程遠いが、その先は彼らにとって、互いに一呼吸で飛び込むとともに攻撃できる距離だ。
「ずいぶんと腹を立てておられるようですね」
ザヴィアはゆっくりと右手の剣を持ち上げ、その切っ先をティースに向ける。ただ、正式な構えではなく、左手には笛を持ったままだ。
「一つ予言をしておきましょう」
「……予言?」
「先ほども言ったとおり、私はここで貴方を殺すつもりはありません。そして貴方が私を殺すこともできないでしょう」
「さっきも言った。ここでお前を逃がすつもりはない……!」
「……やれやれ」
ティースの怒気が膨れるにつれ、ザヴィアは楽しそうに口の端を大きく持ち上げた。
「ならば仕方ありません。本当はこのまま立ち去るつもりでしたが、ほんの少しだけ相手をしてさしあげます――」
――その言葉が終わるか終わらないかのうちに。
瞬きほどの時間でティースの体は一刀一足の間合いに接近した。
「!」
それはザヴィアにとって、予想をやや上回る速さだった。
脇腹辺りを目掛けて“細波”が振るわれる。
やや引き気味にザヴィアの剣がそれを迎えた。
金属の打ち合う甲高い音。
「……魔力の壁は、なんなく越えたようですね」
「お前の予言は当たらない……ッ」
ティースは重ねた剣に力を込め、呼吸が聞こえるほどの近い距離でザヴィアを睨みつけた。
「ここがお前の最期の場所だ、ザヴィア!」
「この程度で――」
「!」
足もとから突風が吹き上がる。
危険を感じ、ティースは瞬時に間合いを取った。
「私も、舐められたものですね――!」
ザヴィアの頭上に集まった風がいくつもの刃と化し、ティースを襲う。
その一つ一つが必殺の威力を秘めた攻撃だった。
しかし、
「舐めているのは――」
世界が動きを止める。
「――お前のほうだッ!」
「! な……ッ!?」
ザヴィアが驚愕の声を上げる。
その長身が一瞬子供に見えるほど低い体勢で突進し、ティースは剣を振るうこともなく、偶然そこにできていた風の刃の隙間を抜けた。
「っ……!」
ザヴィアは左手の笛を宙に放り投げると、両手で剣の柄を握りしめる。
ティースの渾身の力で振り上げられた“細波”が、ザヴィアの剣と真っ向から重なった。
「くっ……!」
その剣圧がザヴィアの表情から余裕を消した。
一歩、二歩と後退る。
ティースが追う。
三合打ち合って、ザヴィアの口元が再び笑みを浮かべた。
しかしそれは余裕の笑みではない。
「……驚きました。まさかたった一年半で――いや、予想通りというべきですか……」
私の目に狂いはなかったようです――と、そう言って、
「少し早いですが、ここまで、ですね。私のほうも今日は全力でやれない事情がありまして」
ザヴィアが後ろに飛ぶ。
「逃がすかッ」
「いいえ――貴方は私を逃がすしかありません」
「!」
ザヴィアは先ほど放り投げた笛を空中でキャッチすると、それをすぐに口元に運んだ。
――頭上に影が走る。
「風の五十四族!?」
それはザヴィアがかつてクレイドウルでも使役していた大きな鳥型の獣魔だ。そして、頭上を通過した獣魔がその身から緑色の玉のようなものをばら撒く。
その数は三つ。
ふわふわと向かった先は――
「さぁ、ティースさん。早くあの二人を助けてあげてください。でなければ――」
エルレーンとリージスが括りつけられた大木だった。
「あの“風裂爆弾”が、二人をミックスジュースにしてしまいますよ」
「ッ……!」
その言葉がハッタリではないことを即座に察し、ティースはザヴィアから間合いを取って、躊躇することなく二人のもとへと向かった。
「エル! リージスさん!」
ティースは“細波”を振るい、少々乱暴に二人の拘束を切断する。
「――! ――!!」
猿ぐつわをかまされたまま、エルレーンが何事か訴えていた。
ティースは後ろを振り返る。
“風裂爆弾”はすぐ眼前に迫っていた。
「……リージスさんを頼む!!」
ティースはエルレーンの手首にはめられていた枷を“細波”の一撃で破壊し、二人の背中を押して、迫りくる緑の球体へと向き直った。
「静かに波立つ海よ、悪意を弾く盾と成れ――ッ!」
“細波”が青い輝きを放ち“水の盾”がティースの正面に展開する。
背後で風が渦巻き、二人の気配が離れた。
ティースはギリッと奥歯を噛み、踵に力を込め、“細波”を正眼に構える。
――“水の盾”に触れた三つの“風裂爆弾”が弾けた。
耳をつんざく轟音。
「っ――!!」
球体に封じられていた鋭い刃を持つ螺旋状の風が、周囲のあらゆるものを巻き込みながら広がっていく。
大地が削れ、大木の幹がまるでお玉杓子で掬ったかのようにお椀状に抉れた。
「くっ……!」
ティースの正面に展開した“水の盾”もその威力を押さえきることはできず、圧に耐えかねてシャボン玉のように割れてしまう。
が、それはティースの予測の範囲内だった。
「ふ――ッ!!」
息を詰め、水の盾を越えてきた風の螺旋に“細波”を叩きつけるように振り下ろすと、まるで火薬が爆発したときのような大きな音がして風が弾け飛ぶ。飛び散った風の刃のいくつかはティースの体を掠めたが、そのほとんどはやがて空中に溶けるようにして消えていった。
「……ふぅ――っ」
脅威が去ったことを確認してティースが詰めていた息を吐くと、パチパチパチ、と、手を叩く音がして、
「お見事です、ティースさん。その“風裂爆弾”は私の自信作なのですが、貴方にトドメを刺せるほどのものではないようですね。……安心しました」
「ザヴィア……貴様!」
ティースがその視界に再びザヴィアの姿を捉えたとき、その体は風の五十四族とともに高く空に上っていた。
「言ったでしょう。今回はこれでお別れです。次は――」
と、空中のザヴィアの視線がティースの後方、十メートルほどの場所にいるエルレーンへと注がれる。
「次はお互い全力で殺しあえる環境を用意します。色々と障害を排除して、ね」
「……逃がさない!」
ティースの叫びに応え、“細波”が緑色の光を放つ。
「穏やかに凪ぐ風よ――!」
「おっと、ティースさん。そんなことをしている場合ではありませんよ。ほら……」
と、ザヴィアの人差し指がティースたちから大きく逸れ、村の中心部辺りを指差す。
「あの辺りには村の人たちが大勢避難しているんでしょう? 彼らを放っておいて大丈夫ですか?」
「……なんだと?」
「急げば全員を助けられるかもしれませんよ」
ニヤリ、と笑う。
「もっとも――貴方一人で約三百個の“風裂爆弾”をすべて処理できれば、の話です」
「な――」
ティースがその言葉の意味を投げかけようとした、そのとき。
「……ティース! 風の五十四族が!」
「!」
エルレーンの指した先、村の中心辺りの遥か上空に、旋回する風の五十四族の小さな影が見えた。
ティースの背筋に冷たいものが走る。
(約三百個って、まさか――!)
ザヴィアが笛を口元に運んだ。
「さあ、ゲームスタートです。村全体に撒き散らされた三百個の“風裂爆弾”が地表に到達するまで約五分。その間にすべて破壊するのも良し、村人たちを逃がすのも良し。……ま、どちらも難しいと思いますがね」
「ザヴィア! やめろぉぉッ!!」
「お断りします」
楽しそうにそう言って、ザヴィアは笛に口を付けた。
禍々しい音色が、青空に響き渡る。
そして、
「ティースッ!」
エルレーンの悲痛な叫び。
「――」
ティースは言葉を失う。
見上げた上空。
緑色をした無数の爆弾が、まるで青空を侵食するかのように広がっていくのが見えた――。