その7『悪意との再会』
「――リィナ! 外だ! 外へ出ろ!」
“穿つ風”は、直撃が間違いなく即死に繋がる攻撃である。
祭壇内には身を隠す柱がたくさんあるが、アメーリアがその気になれば柱越しにティースたちの命を奪うことは容易い。
であれば、それらは逆に動きを阻害する障害物にしかならなかった。
ティースがリィナに外に出るよう指示したのは、この相手にはむしろ自由に動き回れる広い空間のほうが戦いやすいと、そう考えたからだ。
リィナを先に行かせ、神殿を出て階段を駆け下りる。
そんな彼らを追うように、二つの“穿つ風”が飛んできた。
「くっ……」
片方はリィナを狙ったもののようだったが、すでにアメーリアの視界から消えかけていたせいか狙いが甘い。
だが、少し遅れたティースを狙ったほうは確実に彼の体を目掛けて飛んできていた。
「くそっ……」
階段を駆け下りながら避けるのは不可能と瞬時に判断し、横に飛ぶ。
――間一髪。“穿つ風”は横に飛んだティースの足先を掠めるように何もない空間を切り裂き、階段の最下段に激突してそこに大きなクレーターを作った。
が、無茶な体勢で避けたティースも無事では済まず――
「っ……!」
階段を踏み外して転げ落ちていく。
「ティース様ッ!」
一足先に下り切っていたリィナが悲鳴をあげる。
が、ティースはすぐさま体勢を立て直し、近付いてこようとした彼女を制止した。
「もっと下がれ! 敵に集中しろ! すぐ来るぞ!」
だらり、と、目の端に赤いものが見える。どうやら階段を転げ落ちる途中で額のどこかを切ったようだ。
ただ、思考ははっきりしていた。
問題ない。
袖で血を拭い、階段のほうを向いたままさらに距離を取った。
「……」
階段の一番上にアメーリアの姿が現れる。
ティースはさらに下がった。階段の上から見て、五十メートルほどは離れただろうか。
(よし……)
この距離ならば、遠距離攻撃はそうそう当たらない。彼女にティースたちを殺す気があるのなら、自ら階段を下りてくるだろう。
勝負するとしたら、その後だ。
一呼吸。
思考が冷静さを取り戻すとともに、体のあちこちの痛みが蘇ってきた。
額の裂傷は出血の割におそらく大したことはない。ただ、階段を踏み外したとき最初に打ち付けた左肩がかなり痛んだ。手に力が入らないほどではないが、それなりのダメージである。
リィナはまだ無傷だ。
アメーリアは最初からティースへの攻撃に重点を置いているようだった。
――ゆっくりと、アメーリアが階段を下りてくる。
一歩、一歩。
彼女が階段を下り切った辺りが、おそらく彼女にとっての射程圏ギリギリだろう。
チラッとティースは後ろを振り返った。……半ば予想していたことだが、ここに来るときに通ってきた穴はいつの間にか塞がれていて跡形もなくなっている。
つまりこれも、アメーリアの――いや、彼女がしている“エブリースの首飾り”の力なのだろう。
額から垂れてきた血を再び拭う。
(どうする……?)
そうしながらティースは次の一手を考えていた。
距離を取った戦いではおそらく勝ち目はない。リィナの水の魔力も、ティースの“風の刃”も、アメーリアが全身に纏うあの魔力の前では無意味だろう。
攻撃するのなら近付く必要がある。
逆に近付くことさえできれば、たとえ彼女が王魔並みの魔力の壁を持っていたとしても、彼が持つ並外れて高い聖力を“細波”で増幅することによって、打ち破ることはおそらく可能だ。
――しかしそれを実現するためには二つの高いハードルがあった。
一つ目のハードルは、彼女が放つ一撃必殺の“穿つ風”だ。
これまでの攻撃を確認した限り、アメーリアは最低でも三本の“穿つ風”を立て続けに放つことができる。
この攻撃の最大の難点は、剣で払うことが難しいということである。まともに打ち込めば剣を弾き、それを握る腕の骨を粉砕し、そのまま胴体を貫いてしまう。それほどの威力がある。
つまり避けるしかない。
避ける――そのことに注力した場合、それ自体はさほど難しいことではなかった。
その理由は、軌道がほぼ直線であること。
ティースの“視る”力があれば、アメーリアが攻撃を放った直後にその軌道を予測することができる。つまり距離さえあれば、避けることは比較的容易だ。
――そう。“距離さえあれば”である。
正確に狙いを定められた“穿つ風”が、ティースの体に命中するまでの時間、そして、彼の体がその影響範囲外に逃れるまでの時間を計算すれば、攻撃を避けるために必要な彼我の距離は自ずと浮かび上がってくる。
それはティースの目算で――完全に避けるのであれば十メートル。体のどこかを掠める危険を冒すとしてもせいぜい七、八メートルといったところだろう。
七、八メートル。
デビルバスターであるティースにとっては、一瞬で詰められる距離だ。充分勝負になる。
が――
そこで問題になるのが、彼女が“穿つ風”をいくつか立て続けに放つことができるということだ。
最後の一撃を放つのが七、八メートルの距離なら勝負にはなる。が、彼女に余力がある状態で七、八メートルだったら、避けて突っ込んだところを返り討ちにされて終わりだ。
――厳しい。
これが獣相手であれば、何らかの方法で注意を逸らしたり、無駄に攻撃させて弾切れを狙うこともできるだろう。
が――
見上げる。
アメーリアは階段の半分ぐらいまで下りてきていた。薄茶と緑色の瞳はそこに何の感情も浮かべてはおらず、表情はまるで時が止まったように凍りついたままだ。
感情を自ら殺しているのだろう。
(アメーリアはおそらく……この力を使うことには慣れていない)
と、ティースは考える。
このスピンネルの村がデビルバスターを招いたのは、村長たちの言動からして――少なくともアメーリアが巫女となってからは――おそらくは初めてのことだ。とすれば、彼女がこうして力を振るうほどの相手は今までにいなかったはずだと推測できる。
これが巫女としての力だというのであれば、その制御方法については先代の巫女などから学んではいるだろうが、実戦はおそらく初めて。
ふぅっ、と、大きく息を吐く。
(一か八か、突っ込んでみる価値はあるか?)
実戦経験がないのであれば、慌てて狙いがズレる可能性もあるし、反応が遅れる可能性もある。リィナに援護させれば、それに気を取られてティースへの対応が甘くなる可能性もあるだろう。
そうなれば勝敗は簡単にひっくり返る。
しかし――
(失敗すれば確実に死ぬ。成功しても――)
アメーリアを殺すことにはなるだろう。生と死の紙一重の状況で、彼女を殺さないよう手加減することは難しい。
そう、それが二つ目のハードルだ。
ティースが、彼女を殺すことをためらっているということである。
――これがもし、彼女が自ら思い立ち、私的な理由のためにティースを殺そうとしたのであれば、いくら温厚な彼とて躊躇しなかったかもしれない。
しかし、事実はおそらくそうではない。
その行動が村や自らの職責のためであるということもそうだが、それ以上に――
(彼女は――いや、村の人はみんな、騙されてる……)
祭壇でのアメーリアの話を聞いて、ティースはこの村で起きた出来事の真相をほぼ理解するに至っていた。
そもそも今回の一件が起きた背景には、村が貧困に陥りつつあったことや、巫女が求心力を失っていたことなどのいくつかの要因があるが、一番重要な原因についてはすでにはっきりしている。
何者かが“この洞穴で金が掘れるという話を伝えたこと”だ。
その話さえなければ、村が貧困だろうと、巫女が求心力を失っていようと、村人たちがこの洞穴に侵入することはなかっただろう。逆にいえば、いくつかある要因の一つが仮に欠けていたとしても、その原因さえあれば、欲に駆られた誰かがこの洞穴に侵入する可能性はあった。
だから、すべては“それ”なのだ。
そしてもし、その原因を作り出した人物が、巫女の真の役割と、この“ヴァルキュリスの顎門”の本当の姿を知っていたとしたら――
村人たちが襲われたこと。
デビルバスターが呼ばれること。
そして――今、こうしているように、デビルバスターと巫女が殺し合いになること。
それらの出来事は、すべて予測できる。
つまり、現時点においては、村人も、アメーリアも、そしてティース自身も。
おそらくは、その“何者か”に踊らされているのだ。
「……アメーリアッ!」
「ティーサイト様――」
一段。
また一段。
アメーリアが階段を下りてくる。
あと――三段。
「これで最後です。私を恨みながら――死んでください」
「!」
全身の感覚が研ぎ澄まされる。
一瞬、世界が止まって――思考が巡る。
ティースは“細波”を構えて地面を蹴り、叫んだ。
「……リィナ! “雨”を頼む!」
「え――は、はい!」
一瞬戸惑ったような声を出したが、リィナはすぐに体勢を整えて魔力を集め始めた。
“雨”はティースたちの中での取り決めで、牽制レベルでの断続的な援護攻撃を意味する。
もちろん全力でさえおそらく突き破れないであろうアメーリアの魔力の壁に対し、リィナの牽制レベルでの攻撃が意味を成さないことはわかりきっていて、彼女が戸惑ったのもそのためだった。
アメーリアの足が階段を下りきる。
と、同時に。
「アメーリア! ここからは本気で行く!」
左右にステップを踏みながら、ティースは彼女に向かって突進した。
その後ろから、一足先にリィナの援護攻撃がアメーリアを目掛けて飛んで行く。
「……」
アメーリアは大きく息を吐いて――
その手に“穿つ風”が生まれる。
それを見ながら、ティースは手の平にじわっと汗が滲むのを感じた。
(イチか、バチか――!)
咄嗟に思い浮かんだ、死なずに、殺さない方法。
上手くいくかはどうかは、神――おそらくは彼女の神であるエブリースのみが知っていることだろう――
カラ、という音がした。
リージスが去った後、彼が持ってきてくれた昼食のパンを食べようとしたときのことである。
エルレーンは顔を上げて音のした方向を見たが、どうということはない。小石が洞穴の入り口のある崖の斜面を転がってきただけのことだった。
すぐに視線を正面に戻し、アメーリアの家がある方角へと向ける。
ヴァルキュリスへ祈りを捧げると言って部屋に閉じこもってからそろそろ一時間以上経つが、彼女が家から出てくる気配はない。
(……巫女、か)
そうしながらエルレーンは先ほどリージスから聞かされた、巫女の父親を名乗る人物の話を思い出す。……それが本当だとすれば、巫女がこの村での立場を失いつつある原因はある程度想像できた。
巫女だろうと王だろうと、あるいは聖職者であろうと、人間は所詮人間でしかない。虚構で塗り固めて無理矢理神聖化したものは――崇める人間が信じていれば信じているほど――それが剥がれ落ちたときの反動はおそらく大きい。
村の人間は、巫女もまた普通の人間であることを知り、そして急に夢から目を覚ました。所詮は夢の中のことだからと、それまでのしきたりを破ることさえいとわないようになった。もちろんそこには、村の貧困、金の発掘という二つのキーワードも影響しているが、一番大きいのはやはり巫女が巫女ではなくなったということだろう。
それがいいことなのか悪いことなのかはエルレーンにはわからない。
ただ――
(ヴァルキュリスの巫女って、結局なんなんだろう……)
その疑問が彼女の頭の中に渦巻いていた。
巫女とは通常、神、あるいはそれに準じた存在に仕え、その言葉を他の者に伝える存在だ。それはこのネービスで主流のミーカール教でも、大陸でもっとも多く信仰されているクライン教でも同じことである。
しかし、この村の巫女はそれらの宗教とは一見無関係の存在だ。
それが不自然なのである。
エルレーンは人間の文化に興味がある。その流れで、このネービスの歴史についてもそれなりに勉強していた。
――そもそもヴァルキュリスとは、ネービス領の北方に接する山脈の名前でもあることからわかるように、古くからネービス領と関わりの深い神獣だ。
当然、ネービスで主に信仰されるミーカール教の言い伝えの中にもその名前は多く登場する。
大抵の場合、ヴァルキュリスはその巨大な口から多くの魔物を吐き出し、時には自ら人間たちを食らおうとする悪しき怪獣で、最高神であるミーカールと敵対する存在であり、最後には必ず退けられる。
だからこそネービスの人々はミーカール教を信仰し、その加護を得ることによって、ヴァルキュリスの眼下でも平和に暮らしていくことができているというわけだ。つまり極端にいえば、このヴァルキュリス山脈があるからこそ、ネービスの人々は大陸主流のクライン教ではなく、ミーカール教を信仰しているのだとさえいえる。
ならば――と、エルレーンはそこで疑問に思うのだ。
ネービス領であり、そしてまたヴァルキュリス山脈の麓にあるこのスピンネルの村が、何故ミーカール教ではなく、ヴァルキュリスの巫女などというものを崇めているのだろうか、と。ミーカール教を信仰することでヴァルキュリスの脅威から逃れられるのだとすれば、そもそもヴァルキュリスに祈りを捧げる巫女など必要ないはずなのだ。
その理由。
エルレーンの頭の中には一つの仮説がある。
――それはこの村の“立地”だ。
村の周囲にある隆起。断続的に襲い掛かる地震。地殻変動。それらの現象はすべて、地の獣魔であるヴァルキュリスの力によるものと置き換えることができる。
そうだとすれば、この村の周りだけにはヴァルキュリスの力が及んでいる――イコール、ここはミーカール教の神に見捨てられた土地、と解釈することもできる。……少なくとも、かつての村の人々はそう考えたのだろう。
だから村人たちはミーカールを信仰せず、それに代わるものとしてヴァルキュリスの怒りを鎮める巫女を崇めた。その結果、村の周囲があれだけ荒れているにもかかわらず、村の中だけはヴァルキュリスの強大な力から逃れ、こうして存在することができている、というわけだ。
ここまでが“今朝のとある時点”までのエルレーンの仮説だった。
しかし――
一つの疑問がエルレーンの頭から離れない。
本当に。
本当にこの村が無事なのはそういう理由なのだろうか、と。
――彼女の脳裏に残っていたのは、今朝、アメーリアの部屋で見た絵だ。
巨大な怪物、隆起する大地、逃げ惑う人々――
そんなすべての頭上に君臨する、風を意味する神の紋章。それはまるで、人々を襲おうとするヴァルキュリスを上から力で押さえ付けようとしているかのようにも見えた。
――あれは誰なのか。
浮かび上がってくるもう一つの仮説。
(あれこそがヴァルキュリスの巫女――あるいは巫女に力を貸している神……)
そうだとすればヴァルキュリスの巫女とはそもそも、ヴァルキュリスに祈りを捧げて怒りを鎮める存在ではなく、それを上回る力を持ってヴァルキュリスを押さえ付けている存在、ということになる。
何故、そのような絵が残ったのか。
――神話とは実話ではない。が、多くの場合、神話にはその元となった何らかの事実、あるいは願望が含まれている。
この大陸の現在において、神話の時代とはそれほど遠い昔のことではない。実際、ネービス公家には今も、最高神ミーカールが魔物を退治したときに使ったとされる神剣が、その力を保ったままに“現存”している。
ならば。
ヴァルキュリスを押さえ付ける巫女の力というのも、あるいはまた――
突如、地響きが聞こえた。
「えっ……」
規則的に流れていた風が急激にそのベクトルを変える。
普通の人間には風向きが一瞬変わった程度にしか感じられないほどの変化だったが、エルレーンにはそれが、巨大な力に導かれる風の魔力の結集であることが即座に理解できた。
しかも――
(この、力……!)
人間界でそれほどの魔力を感じることは滅多にないだろう。
王魔クラスの力だ。
そしてその発生源は――
(ティース……リィナ!)
エルレーンの眼前にぽっかりと穴を開けた洞穴――“ヴァルキュリスの顎門”の奥からだった。
――迷う。
助けに行くべきか。
それともここで役目を果たすべきか。
この魔力に触発され、あるいは恐れをなして獣魔たちが洞穴から飛び出してくるケースは充分に考えられた。ここを離れれば村人たちが襲われる可能性がある。
かといって――
洞穴の奥にいる存在が何者なのかエルレーンにはわからなかったが、獣魔にせよ人魔にせよ、王魔級の魔力を持った魔が相手だとしたら、今のティースにはあまりにも荷が重すぎる。
行くべきか。
行かざるべきか。
――しかし、そんな彼女の迷いは結果的には無意味なものとなった。
「おや? どこに行くつもりです、エルレーンさん?」
「!」
洞穴を覗き込んでいたエルレーンの背後に人の気配が迫っていた。
振り返る――と。
「キミは……?」
エルレーンには見覚えのない青年だった。ただ、自分の名前を知っているということは村人か、あるいはリージスの連れていた誰かだろうか――と、彼女が過去の記憶をどうにか引っ張り出そうとしていると、
「お初にお目にかかります。シルバ族の姫よ」
「!?」
エルレーンは咄嗟に身構えた。
「……キミ、は」
頭にはターバンのようなものを巻き、腰には一振りの剣。懐からは細長い笛のようなものの先端が覗いていて、手の甲には涙型のアザが三つ。
その目は――
(……この、男)
それは正常な人間の瞳ではなかった。
濁っている。
歪んでいる。
狂っている――
……男は言った。
「私はフェレイラ族のザヴィア=レスターと申します。ザヴィア=フェレイラ=レスターです。以後、お見知りおきください」
男は慇懃無礼な口調で貴族の子息がそうするように恭しく一礼してみせた。
「ザヴィア――」
エルレーンは息を呑む。
「ザヴィア=レスター……キミが、タナトスの……?」
「おや?」
顔を上げて、ザヴィアは意外そうな顔をした。
「もしかするとティースさんから聞いていましたか? それは光栄です。二十ヶ月ほどお会いしていませんでしたから、もうとっくに忘れ去られているものと思っていました」
「……最低の男だって、聞いてる」
エルレーンが眉間に皺を寄せて吐き捨てるようにそう言うと、ザヴィアは喉を鳴らして笑った。
「私も貴女のことはリューゼットさんから聞いてますよ。エルレーン=シルバ=ファビアス。……正直、半信半疑だったのですがね。風の一族でも王の中の王であるシルバ族の姫が、まさかこちらの世界で薄汚い人間と一緒に生活しているなんて」
まあ普通は信じませんよね――と、ザヴィアは口の端を小さく上げた。
腰にぶら下げた剣が鞘を擦る。
「さて、それではやりましょうか。姫」
「……一介の将ごときが、ボクと戦うつもり?」
牽制するように、エルレーンの体が薄っすらと緑色の神気を纏う。
だが、ザヴィアは口元を歪めたままだった。
「無駄な虚勢ですよ。貴女が“朧”で力を制限し、人間のフリをして生活していることは調査済みです。いくら貴女でも、その状態で私には決して敵わない」
「っ……」
エルレーンの足が一歩、後ろに下がる。
――彼の言葉は紛れもない事実だった。
ザヴィアの足もとで、風が渦を巻く。
「本当は暇つぶしにこの村で遊ぼうかと思っていただけなのですがね。ティースさんが来られるとは思ってませんでしたから。……思わぬ収穫でした。彼との再会だけではなく、まさか王魔の姫をこの手で斬り殺す機会が得られるなんて――」
ザヴィアの頬が大きく緩み、恍惚の表情を浮かべる。
じゃり、と、その足が無造作にエルレーンに近付いた。
「楽しみです。神聖なる貴女が死の間際にどのような苦悶の顔を浮かべるのか。……晒された貴女の首を見て、ティースさんがどんな表情をするのか――ああ」
これこそが、私の唯一の楽しみなのです――と、ザヴィアは呟くように言った。
「……」
それを見たエルレーンの脳裏に、洞穴に潜ったままの二人の顔が浮かぶ。
(……ティース。リィナ。キミたちは、どうか無事でいて――)
そして彼女は自らの死を覚悟した。
(やっぱりか――!)
放たれた“穿つ風”をギリギリのところで避けながら視界の端に映るアメーリアの挙動を見て、彼女にはおそらく実戦経験がないだろうという推測に誤りがないことをティースは確信した。
「っ……」
立て続けに放たれるリィナの水の矢に、アメーリアは明らかに集中力を削がれていた。身を守る魔力の鎧だけで弾き返せる程度の攻撃にもかかわらず、いちいち風を起こしてそれらを打ち落としているのだ。
――自らの力の使い方は練習すれば習得することができる。が、相手の力の強弱を見極める力は実戦や模擬戦の中でしか培うことができない。そして、首飾りの力を借りて戦う巫女に、そのような模擬戦を実施できる環境があったとは思えない。
だから実戦経験のない彼女は、リィナの攻撃が対応すべきものか否かを判断できず、結果としてそのすべてに反応する必要があったのだ。
ついでに言うとそれは、ティースの意図を即座に察し、わざと極端な強弱をつけて援護攻撃をすることでアメーリアの判断を誤らせている、リィナの密かなファインプレーでもあった。
(……これで一つ目のハードルは突破。あとは――)
リィナが攻撃しているのと逆の方向からアメーリアに近付く。
「!」
十メートルほどの距離でアメーリアが反応した。
二本の“穿つ風”がティースを襲う。
「くっ――!」
即座に軌道を予測。
身を低くして左に飛び、二つの攻撃を避ける。
(……もう一つ!)
着地点を狙ってきた三本目の“穿つ風”を地面を転がって避けると、すぐに跳ね起きてアメーリアから距離を取った。
「……」
ティースが離れたのを見て、アメーリアは援護攻撃を続けるリィナへその矛先を向ける。が、アメーリアとリィナの距離は三十メートル以上あり、リィナは自分に向けられた“穿つ風”を容易く避けると、すぐに援護攻撃を再開した。
「っ……」
アメーリアがリィナとの距離を詰めようとすれば、ティースはそれを牽制して近付く。アメーリアが彼を攻撃すればそれを避け、再び距離を取る。さらにはリィナの援護攻撃に気を取られた隙を見計らって一気に距離を詰めようとする。
それらはすべてアメーリアの迎撃によって阻まれた。
――そんな一進一退の攻防が十分近く続いただろうか。
異変があったのはリィナだった。
「……はぁっ」
力を振り絞るように水の矢を放ち続けているが、遠目に見ても肩が大きく上下しているのがわかる。
(……まずいな)
そんな彼女の様子に気付いて、ティースはやや焦った。
いくら牽制程度の魔力とはいえ、休みなく十分近くも連続で打ち続ければ疲労は当然溜まっていく。
そして――
(俺も……そろそろか)
即死の攻撃を紙一重で避け続け、ティース自身の集中力もかなり削げ落ちていた。
しかし――
(……もう、少し)
まもなく。
そのはずだ、と。
ティースは自らの作戦――その推測の正しさを信じ、力を振り絞った。
やがて――
“予兆”は表れた。
「!」
ふ――と。
一瞬、アメーリアの身を包んでいた二色の光が消えた。
すぐに復活して――また、消える。
「……?」
アメーリアが不思議そうな顔をした。
が、次の瞬間、
「え――」
その体がグラッと揺れ、地面に膝をつく。
「な、に……?」
膝に力を込めて立ち上がろうとするアメーリア。
だが――
「な、え……?」
彼女は立ち上がるどころか、膝で立っていることもできずにその場に倒れこんだ。
それと同時に、体を覆っていた光が完全に消える。
「わ、私……あ、れ……」
「……そこまでだ、アメーリア」
ティースは剣を鞘に収め、そんな彼女に近付いていった。
「ぁ……う……」
そんな彼の行動にアメーリアは体を起こそうとしたが、手を地面につくことすらできない。
ティースは彼女のすぐ前まで近付き、
「限界だよ。……いくら王魔並みの魔力を使えるといっても、所詮人間だ。人間の体はもともと、そんな大きな魔力を使い続けられるようにはできていないんだよ」
と、言った。
ティースとて“細波”の魔力を開放した直後は疲労感と脱力感に襲われる。ましてや――彼女が使っていたのは、それとは比較にならないほど強大な魔力だ。いくらその首飾りが優れた魔導器だったとしても、いつまでも戦い続けられるはずがない。
あとは、どちらの燃料が先に切れるか。
それについては本当に一か八かだったが、どうやらリィナの攻撃に無駄な魔力を使った分、彼女のほうに早く限界が訪れたようだった。
「君の体にある魔力は今、空っぽの状態だ。……リィナ、頼む!」
近付いてきたリィナがアメーリアの体を助け起こす。アメーリアはまだ全身に力が入らないらしく、リィナにもたれかかるような格好になった。
その体勢のまま、アメーリアはティースを見上げて、
「……なんのつもり、ですか?」
「話をしようと思ってね。さっきまではそれどころじゃなかっただろ?」
と、目線の高さまで屈み込む。
「……私は」
そんなティースから目をそらし、アメーリアは呟くように、
「動けるようになったら、また貴方様を殺そうとするでしょう」
目じりが少し震えた。
ティースは小さく息を吐いて、そんな彼女を宥めるように、
「それは無理だ。その状態になったらまた魔力を行使できるようになるまで半日から丸一日はかかる。立ち上がるだけなら二十分ぐらいだろうけどね。ま、君を説得するには充分な時間だよ」
「説得……ですか?」
「そう。まずは――」
腰を下ろして水筒を取り出す。
「水、飲めるかい? ああ、このままだとアレだな……リィナ。水を分けてあげてくれるか?」
「はい」
と、リィナは自分の水筒の蓋を開けてアメーリアの口元に近づけたが、彼女はそれを拒否し、相変わらずの不思議そうな目をティースに向けた。
ティースは自分の水筒に口を付け、一息つくと、
「さっき途中まで話したと思うけど――金が掘れると吹き込んだ人物のこと、教えてくれないか?」
「……どうして、ですか。今となっては、そんなことどうでも――」
「どうでもよくはない。もしかすると、すべてその人物の企みなのかもしれないんだからね」
「え?」
不思議そうな顔のアメーリアに、ティースは自分の仮説を語り聞かせた。
「――さっきも言ったけど、この洞穴から金が出るなんて話を語れる人間がいるとは思えないんだよ。……かつて村に住んでいた人の孫が、って言ってたけど、そんな昔の話ならなおさらだ。その頃はまだ、巫女は村の人たちから強く崇められていたんだろうし、この洞穴の不可侵性も今以上に保たれていたはずだからね」
「……では、村の皆が騙されているということですか?」
動けないということもあって、ようやくアメーリアはティースの話に耳を傾ける気になったようだった。
ティースは頷いて、
「そもそも、俺がこの村で金の現物を見たのはたった一度だけだ。村長さんの家で見た、加工済みの小さな金の欠片。それ以外には金どころか、金を含む鉱物らしきものすら見たことがない」
「……」
アメーリアは視線を横に動かす。
何事か考えているようだった。
やがて、
「……それが村の皆を騙す嘘だったとして、何故そんなことをするのですか? なにか得があるとは思えません」
「それはわからないよ。その張本人に聞いてみるまではね。だから――」
ティースは真っ直ぐにアメーリアの目を見つめた。
「教えてくれ、アメーリア。その人――外から来て、かつて村に住んでいた人間の孫だと名乗り、村のみんなをそそのかした、その人のこと」
「……その人は」
まだ半信半疑という顔。
だが、なすすべのなくなった彼女は素直に答えた。
「二十代前半ぐらいの男の方です。頭にターバンのようなものを深く巻いていて――」
「……え?」
ぞわ、と。
嫌なものがティースの背筋を駆け上がった。
嫌な記憶。
嫌な予感。
嫌な――笑み。
「穏やかな感じの方でした。いつもどこか楽しそうにしておられて、笛のようなもので村の皆を楽しませていたようです――」
「!」
息が詰まる。
――脳裏に浮かぶ、不吉な青年の顔。
「ザヴィア……レスター――」
「えっ?」
アメーリアとリィナが同時に不思議そうな顔をした。
「……アメーリア。その人――」
念を押すように、ティースは尋ねた。
「手の甲に、アザのようなものは……?」
「……確か、あったと思います」
「――」
間違いない。
「アイツだ……」
混乱で、頭の中がグルグルと回る。
そして最後に浮かぶ。
あの、笑み――
「エルが――危ない――」
咄嗟に立ち上がる。
「えっ? ティース様、どういうことですか!?」
ティースの尋常ではない様子に気付き、リィナが少し強い調子の声を出した。
「……アメーリア。すぐに地上へ出る道を教えてくれ。エルが……いや、村のみんなやリージスたちも危ない。そいつは――」
唇をグッと噛み締め、吐き捨てるようにティースは言った。
「そいつはきっと、最終的にはみんな殺すつもりだ。すぐに戻らないと――みんな危ない」
「え……?」
その言葉にアメーリアの仮面はいともたやすく崩れ、困惑と焦燥がそこに浮かぶ。
「村のみんな、が……?」
「頼む。みんなを助けに戻らなきゃ……一刻も早く――」
脳裏に浮かぶ、最悪の光景。
それは、彼がかつて出会った、卑劣な悪意との再会を意味していた――。