その6『エブリースの祭壇』
「ォォォォォォ――ッ!」
咆哮をあげ、黒い獣が階段を駆け下りてきた。
「……アメーリア!」
獣の後ろにいる巫女はティースの呼びかけにもピクリとも反応することはなく、ただ黙って彼らを見下ろしている。
その構図は紛れもなく、その獣魔――風の三十七族の主人が彼女であることを示していた。
地上にいるはずの彼女が何故こんなところにいるのか。
そして何故、風の三十七族をけしかけてくるのか。
……そもそも、彼女は本当にアメーリアなのか。
いくつかの疑問がティースの頭を駆け抜け――やがてそれは四散する。
(今は……ともかく!)
駆け抜ける黒い疾風。風をまとう鋭い爪の獣――風の三十七族。それを無力化することが何よりも優先される状況だった。
頭のスイッチを切り替え、ティースは愛剣“細波”を構えて叫んだ。
「リィナ、少し離れていろ!」
三十番台の数字を振られた獣魔たちの脅威は並みの人魔を上回る。風の二十七族ウィルヴェントの亜種である風の三十七族の最大の武器は、突風のごとき動きを可能とするその身体能力の高さと、渦巻く風を纏い岩石をも易々と破壊する両前脚の爪だ。
特にその爪の攻撃は、まともに食らえばデビルバスターであるティースといえど一撃で戦闘不能に陥りかねない破壊力を秘めている。
ただ、それは逆に言えば、その爪にさえ注意しておけば、そうそう危機に陥ることはないということでもあった。
特にティースの場合、その獣魔が持つもう一つの武器――目で追いきれないほどの素早い動きに関しては、さほど気にしなくても良い“事情”がある。
(さぁ、来い!)
変則的な動きで迫ってくる黒い狼。その四本の足は風を纏っていて、地面に接する瞬間まるでバネのような作用を加え瞬発力を増強する。その動きはティースに近付くほどに速さを増し、やがて並みの人間では追いきれないほどになった。その勢いのままに突進されれば、受け止めるのも容易ではない。
ティースは簡単に的を絞らせないよう、獣魔に対して横の軸のフットワークを使いながら軽く牽制する。
やがて彼我の距離は七メートルほどに詰まった。
リーチに関しては言うまでもなくティースのほうが上回っている。が、獣魔はそれをおそらく本能で察し、その射程外から瞬きするほどの一瞬で懐に飛び込んでくることだろう。
問題はそのタイミング。
それを追いきれるかどうかが生死の分かれ目となるだろう。
――じっとりとした緊張感がティースの全身を覆う。
彼らを見下ろしているであろう巫女の存在も、そのときに抱いた疑問も、すべての雑念が頭の中から消え去った。
集中する。
ただ、目の前の獣魔の動きに――
集中する。
ただ、集中――
「!」
獣魔が一際力強く地面を蹴った。
その体が、ティースのいる方向へ動く。
(……来る!)
そして――その瞬間。
視界の中の獣魔の動きがティースの支配下に落ちた。
(よく視ろ、ティーサイト――)
獣魔の体。
足の筋肉の動き。
そして獣の視線。
そのすべてが――獣魔の中でも抜きん出て素早い風の三十七族の動きでさえ――まるでスローモーションのようになり、さらにそれらのもたらす数々の情報が、やがて来る一瞬先の未来の映像さえもティースの脳裏に浮かび上がらせる。
すなわち――
(左斜め前方、低い姿勢、左前足の爪を前にして飛び込んでくる――)
ティースはそのコンマ数秒先の未来にいる獣魔に対し、手の中の剣を振るった。
――人の身体能力を高める特殊技能“心力”は、人よりも遥かに優位にある魔と戦うデビルバスターにとっては欠かすことのできない能力である。
そしてこの心力のうち、五感に関する機能、特に動体視力を高める能力を“刻眼”という。
ティースの持つ心力はこの“刻眼”に特化していた。
鋭く研ぎ澄まされた五感は視界の中のあらゆる動きを捉え、そこからあふれ出すいくつもの情報が彼の脳に近い未来の映像をもたらすのだ。
コンマ数秒先の未来の予測をもとに行動する彼の反応速度は、人や獣の最速の反応である反射運動よりもさらに優位であり、それを彼の反射神経と定義しても良いのであれば、事実上、世界に彼よりも優れた反射神経を持つ人間はいないということになるだろう。
もちろんティースのそれはあくまで未来の“予測”に基づいた行動であり、厳密に反射神経と定義してよいものではない。ただ、“刻眼”に特化した彼の能力がもたらすその予測は――いくつかの特殊な条件下を除き――ほぼ正確であり、そして正確である以上、反射神経と定義したところでその結果に何ら影響を及ぼすことはなかった。
さらに、彼が予測できる未来の距離は、単純な思考で単純な動きをする相手であればあるほどに長くなる。
つまり知能の低い獣魔に対して、彼のこの能力は圧倒的なアドバンテージとなるのだ。
すれ違いざま“細波”の一撃が獣魔を捉える――
「キャンッ!!」
悲鳴のような鳴き声を上げ、風の三十七族の体が宙を舞った。
が――
「っ……浅いッ!?」
いや。
獣魔の堅い体毛が鎧のようになっていて刃がその上を滑り、肉体まで到達できなかったのだ。与えたのは、剣を叩き付けたことによる衝撃だけだった。
宙を舞っていた獣魔が、さほどダメージを受けていないことを証明するかのようにくるっと回転して地面に着地する。
そして、
「……ォォォォォ――ッ!!」
怒りの風が地面から吹き上げた。
ティースを見据える瞳が、まるで正気を失った狂戦士のようにランランと輝いている。
――間髪いれず、獣が動いた。
(俺の力じゃ、あの硬い体毛を正面から破れない……)
手の平に残る重たい感触に、ティースはそう判断する。
彼の心力は“刻眼”に極端に特化している分、怪力を得る心力――“剛力”のような単純な肉体強化系の才能には恵まれていない。堅い体毛の上からでも繰り返しダメージを与え続ければいずれ倒せるだろうが、スタミナはおそらく相手が優位だ。そう悠長なことはしていられない。
(なら――)
再び襲い掛かってくる風の三十七族。
ティースは足を止め、正面から向かい合った。
距離はあっという間に縮まり、そしてさきほどと同じ距離――約七メートル。
獣魔がその距離から再び懐に飛び込んでくる。
もちろん、ティースの目もその動きを捉えていた。
が、動かない。
そして、一拍子。
(……よく、視ろ――!)
あえて発動を遅らせた分だけ、その瞬間にさらに意識を集中させる。
再び、視界の中にいる獣魔の動きが彼の掌に収まった。
――いや。
(もっと、もっと――ッ!)
さらに。
さらに深く、その深度を増していく。
体の動き。
筋肉の動き。
視線の動き。
――さらには、風になびく一本一本の体毛、宙を舞う砂埃の一粒一粒に至るまで。
視界の中にあるすべてが、彼の瞳の支配下に落ちた。
(左側面にステップして十時の方向から来る――)
体は先に動いている。
(攻撃は左前足の爪――)
未来の残像を目掛け、低い姿勢で地面を蹴った。
(標的は――)
獣魔が高く跳躍する。
腹の辺りにも鎧のような体毛があって、隙はない。
だが――
「!」
ティースは見つけた。
漆黒の体毛が風になびいたその瞬間に生じる、ほんの僅か、ほんの一瞬――ギリギリ刃を突き入れることができそうな隙間。
全身がカッと熱くなる――
「ぉぉぉぉぉぉ――ッ!!」
迷うことなくティースはその隙間を目掛け“細波”を突き出した。
――風を纏った獣魔の爪が左肩を掠める。
鋭い痛みと、微かに噴き出す鮮血。
しかし――
「っ!」
引き換えに、ティースの両手には確かな手ごたえが残っていた。
鉄の匂いがその鼻腔を満たす。
――“細波”は獣魔の左前足の付け根辺りから体の中心を貫き、右後ろ足の辺りまで達していた。
苦痛と断末魔の悲鳴が獣魔の口から放たれ、最後の抵抗か、その右足に風の渦を纏おうとする。だが、ティースはそれを許さず、そのまま“細波”を振り下ろして獣魔の体を地面に叩き付けた。
肉を潰し、骨を砕く感触。
黒い血が周囲に飛び散る。
――それで、勝負は完全に決した。
「……ティース様」
リィナが駆け寄ってくるのを視界の端に捉えつつ、事切れた獣魔の体から“細波”を引き抜く。
ぐちゃっ、という肉の裂ける音。
その感触に、ティースは眉をひそめた。
――いつまで経っても慣れないな――と、やや自嘲気味に心の中でつぶやきながら、駆け寄ってきたリィナを振り返る。
「ティース様。肩のお怪我は――」
「ああ。たいしたこと無いよ。それより」
左肩に滲む血にチラッと視線を落とし、傷口がそれほど深くないことを確認すると、ティースは視線を斜め上に動かし、階段の上を見上げる。
巫女はその場所で動かないままティースたちを見下ろしていた。
そんな彼女に対し、ティースは声を張り上げる。
「さあ、アメーリア! 説明してくれ!」
「……アメーリアさん!」
同じく呼びかけたリィナの声には困惑と心配の色が混じっていた。……昨日一晩とはいえ、夕食をともにした少女の思わぬ行動にショックを受けているようだ。
もちろんそれはティースも同じだった。
「アメーリア! ……この獣魔は君が操っていたのか! 村人たちを襲ったり、リージスの仲間を殺させたのも君なのか!?」
「……」
返事はない。
ティースは痺れを切らし、階段に足をかけた。
「アメーリア――!」
そしてさらにもう一段上がろうとしたとき、
「……ティーサイト様」
ついに、アメーリアが諦めたようにその口を開いた。
「そちらの地上へ帰る道はすでに閉ざされました。村へ帰るためには、この祭壇の奥の通路を利用するしかありません」
それは、地上での彼女よりもさらに抑揚のない声だった。
ティースはそんな態度に少しの不安を覚えつつ、二段目で足を止めたまま彼女を見上げ、問いかける。
「……君はその通路を使ってここまで来たのか?」
「はい」
「風の七十五族たちは――」
「彼らは巫女の職責を果たすため、この洞穴に配置された者たちです。私には彼らに命令する力があります」
「村人たちを襲わせたのも?」
「私です」
アメーリアの返答に、リィナの息を呑む音が聞こえた。
ティースは声を張り上げる。
「どうしてそんなことを! 君は――」
昨日、川端で出会ったときの彼女の言葉を思い出す。
「君はあのとき俺に、村を頼むと言ったじゃないか!」
「……ティーサイト様」
まるで彼女の周りだけ時間が止まっているかのように、アメーリアはピクリとも動かなかった。
ただ、口だけが淡々と言葉を紡いでいく。
「もし貴方様が本当に理由を知りたいとお望みなのであれば――」
そしてゆっくりと、背中を向ける。
「時間の許す限り、なんでもお話しさせていただきます。……どうぞこちらへ。いずれにしても村へ戻るためにはこちらに来ていただくしかありません」
階段の上にいたアメーリアの姿がティースの視界から消えていく。
「……」
ティースは少しためらった。
――風の三十七族をけしかけたのがアメーリアだったのであれば、彼女がティースたちを殺そうとしたことに疑う余地はない。つまり彼女が招くこの先に、罠や新たな敵が待ち受けている可能性も充分に考えられる。
ティースは無言ですぐ後ろのリィナを振り返った。
リィナはすぐに小さく頷いて、
「行きましょう、ティース様」
「……ああ」
彼女の返答にティースの中にあった小さな迷いは晴れ、そして彼は即座に頷き返した。
アメーリアが先ほど言ったように、辿ってきた地上へ続く道がすでに閉ざされていることは、彼ら自身の目で確認していたし、そして何より――
(……本当のことが知りたい)
その欲求が強かった。
アメーリアの行動の理由――それが先ほど口走った“巫女の職責”に起因するのだとすれば、そもそもそれは何を指しているのか。何のために村人たちを獣魔に襲わせ、リージスの仲間を殺し、そして今、ティースたちをも、その手にかけようとしたのか。
――その巫女の貌の裏に、歳相応の少女の顔が隠れていることを知っているだけに。
ティースはそれを突き止めたいという自らの欲求に逆らうことができなかったのだった。
「おーっす。ちっこい方の嬢ちゃんがお留守番かい」
洞穴の入り口付近にある大きめの石の上に布のシートを敷き、その上に座ってティースたちの帰りを待っていたエルレーンは、ふと聞こえてきた太い男の声にその小さな頭を軽く傾け、そして村へと続く道に一人の大柄な男の姿を見つけた。
「リージス?」
「おうよ。ほら、ちょっと早いが昼飯だ。……なんか妙な匂いがするな、この辺」
と、リージスは鼻の頭を軽く押さえながら、手にしたパンをエルレーンに手渡し、その場にどっかりと腰を下ろした。
「ありがと。これは魔除けの香の匂いだよ」
まだそれほどお腹の空いていなかったエルレーンは、受け取ったパンをひとかけらだけ千切って口の中に入れ、残りはハンカチに包んで脇に置いた。
それから土の上に直に座っているリージスに気付いて、
「ここ、座れるよ?」
と、自分の隣を示す。
そんな彼女の申し出にリージスは手を振って、
「いや、あんたと違ってこんな図体だからな。そのスペースは俺にゃ狭すぎる。……それに、ま、デビルバスターの兄ちゃんの連れを口説いてると思われちゃまずいからな」
「誰も思わないよ、そんなこと」
エルレーンはクスクスと笑って、
「せいぜい仲のよい父娘に見えるぐらいでしょ」
「そいつも無理があるんじゃねぇか? 俺みたいなゴツい男の種から、あんたみたいに華奢で可愛らしい娘が産まれるわきゃねぇよ」
実際、俺の娘は男みてぇに頑丈そうな体してるしな――と、リージスは大声で笑った。
「リージス、娘さんいるの?」
「おぅ。もう十歳になる。……ちょうどあんたと同い年ぐらいじゃねぇか?」
「そんなわけないでしょ。言っとくけど、ボクはリージスが思ってるより年上だよ、きっと」
エルレーンがわざとらしく声を潜めてそう言うと、
「わかってるさ。デビルバスターの手伝いしてるぐらいだ、十歳ってこたぁねぇ。つっても、十四、五歳ってとこだろ。俺にしてみりゃ娘とそんなに変わらんさ」
「……まあ、そうかもね」
エルレーンは苦笑した。
実際には、彼女はまもなく十七歳になる。おそらくこの先大きく背が伸びたりすることはないだろうから、しばらくして大人の女性の貫禄のようなものが出てくる――出てくることがあるとすれば、だが――まで、十歳を少し過ぎたぐらいの年齢だと言われ続けるのだろう。
もっとも、彼女は基本的にそういうことは気にしない。体が小さいのは風の人魔の特徴だ。彼女はその中でも比較的小柄なほう、というだけで、逆に言うと魔界にある風の人魔の集落では彼女のような外見の者もそう珍しくないのである。
「デビルバスターの兄ちゃんは、今頃化け物連中と戦ってんのかねぇ」
「たぶんね」
ティースたちが洞穴の中に入ってからすでに二時間以上経っている。村人たちが襲われたのがことごとく洞穴に入って三十分程度の場所ということだから、少なくとももう最初の一団には接触している頃だろう。
そうしてふと、エルレーンはアメーリアの家で見た絵と、そのときに感じた不安のことを思い出す。
(……ヴァルキュリスの巫女、か)
今の彼女にはここでティースたちの帰りを待つことしかできない。
ただ――
「ねぇ、リージス」
ふと思いついて、
「リージスたちはリガビュールから来たって言ってたよね。娘さんもそこにいるの?」
「おぅ。不細工な嫁と一緒にな」
そんなリージスの言い方には家族に対する愛情が詰まっているように感じられて、エルレーンは思わず頬を緩めた。
「じゃあリージスは生まれもリガビュール?」
「俺も嫁もずっとリガビュールさ。俺が連れてきた連中の中にゃ他の街の生まれも結構いるが、まあそれでもネービス領以外の生まれってのはいないんじゃねぇかな」
「ふぅん。それじゃあ」
エルレーンは少し身を乗り出して尋ねた。
「リガビュールはここから一番近い街だよね? この村のヴァルキュリスの巫女のこと、リージスはよく知ってる?」
「ん……そうだなぁ」
その問いかけにリージスは少し考えた。
「ここが閉鎖的な村だってのは知れ渡っていたし、地形のこともあってそれほど頻繁に交流があったわけじゃねぇから、正直そんなには知らん。けどまあ、それでも何人かはこの村に来たことがあったり、この村から出てきたって連中もいて、そういった奴らが喋った噂話みたいのを耳にすることは何度かあったな」
「噂話? たとえば?」
「うーん」
リージスは身を乗り出したエルレーンの顔をチラッと見て、何故か少し困ったような顔をした。
「それって、アレか? デビルバスターの兄ちゃんの仕事に関係がある話なのかい?」
「それはボクにもわからない。でも、もしかしたらあるかもしれないの。だから、知ってることがあるなら教えて?」
「ううーん」
それでもリージスは腕を組み、しばし考え込んだ後、
「……先に言っとくが、あんま綺麗な話じゃねえぞ?」
「どういうこと?」
「だから……なんだ。つまり、この村に来るとペッピンな姉ちゃんがタダでアレしてくれるとか、そういう類の話だよ」
「……あ」
なるほど――と思い、エルレーンはちょっと顔が熱くなるのを感じたが、
「……うん。そんなのでもいいから。教えて」
「んじゃ、まあ……」
逆にリージスのほうが最後まで気後れしていたようだが、やがて決心したように語り出す。
――そこで彼が語ったのは、以前、アメーリアがティースに語った“巫女の父親”についての話とほぼ同じものだった。そしてその話で、エルレーンはこの村に来た日の夜の、アメーリアがティースの寝所に忍び込んでいった出来事を思い出し、ようやくその行動の意味を悟ったのである。
「……そういうわけでよ。つまり若い男がこの村に来りゃ、その巫女さんとイイコトができる、ただし気に入られなきゃヴァルキュリスの生贄にされちまう、とか、まあそういう類の下世話な噂さ」
「ふぅん……」
それが目的でこの村に来よう、などというのは確かに、いい意味でも悪い意味でも人間らしい下世話な話だとエルレーンも思う。
ただ――
(村の外から来た人を巫女の父親とする――か)
その考え方自体は、実をいうと彼女にはひどく理解しやすいものだった。
何故なら、
(それってまるで、ボクらのしきたりみたい……)
彼女たち王魔の中には、それと非常に似た考えで子孫を残していっている部族が実際にいくつか存在する。子を成す行為に愛とか欲とかそういったものがない王魔たちにとって、数少ない子供が優秀であるようにと様々な画策をするのは珍しいことではなく、子を成すためだけに外の優秀な血を引き込むというのは比較的一般的な行為だ。
――そして脳裏に蘇る、あの絵に描かれた風神の紋章。
何かつながりがあるのだろうか――と、エルレーンは考え込む。
と。
「んで、まぁ、それ以外だと――」
そんなエルレーンの様子には気付かず、リージスは話を続けていた。
エルレーンも再びそれに耳を傾ける。
「変わったところじゃ、実際、この村の巫女の父親だって名乗ってるヤツがいたな。なんでもそいつはもともとこの村の生まれらしい」
「え? でも……」
と、エルレーンは先ほどのリージスの話を思い出しながら、
「村の人は、父親にはなれないんじゃなかったの?」
「ああ、だからさ。タブーにもかかわらず巫女に手を出して村を追放されたんだと。だから今の巫女――いや、その話を聞いたのはもう十年近く前で、そのときは次代の巫女、って言ってたか。それは自分の娘なんだ――とかな」
「じゃあ、まさか……」
エルレーンはゆっくりと視線を横に動かした。
その先には、柵に囲まれた一軒の家がある。
「その人はアメーリアの……お父さん?」
リージスは両手を広げて、
「どうだかな。嘘かホントかもわかんねぇし、そいつはリガビュールでヤバい連中の金に手ぇ付けて殺されちまったって話だ。今更、それが本当かどうか考えても仕方ねぇだろ」
それは確かにリージスの言うとおりだった。
そのことが今回のこの件に直接関係あるとも思えない。
ただ――
(アメーリアのお父さん、かもしれない人か――)
直接的でなくとも、あるいは間接的に関わっている可能性はないのだろうか――と。
エルレーンはぽっかりと口を開けたヴァルキュリスの顎門を見つめる。
――まだ、二人が戻ってくる気配はなかった。
「――村を追放されたその人は、私の妹の父親でした」
階段を上りきり、神殿のような建物の中に入っていくと、その奥には祭壇のようなものがあった。周囲に立ち並ぶ柱には、これまでにいくつも見てきた三日月が絡み合ったような紋章と、“エブリース”という魔界由来の古代語が刻まれている。
祭壇の前には三段ほどの階段があり、その奥には台座のようなものがあった。その上には、なにか薄茶色のものが置かれているようだったが、階段の下にいるティースからは見ることのできない角度だ。
アメーリアはその台座の前に立ち、ティースたちは階段の下、彼女から十メートルほどの距離で、彼女が語る、彼女の行動の理由について耳を傾けていた。
「その男によってしきたりは破られ、母――ヴァルキュリスの巫女は村での求心力を急速に失っていったのです」
相変わらず淡々と語るアメーリア。
……しきたりを破り、村の男の子供を産んだアメーリアの母――先代の巫女。それが十二、三年前の話だという。
ティースは問いかけた。
「その男の人は追放されるのがわかっていながら、何故?」
「わかりません。ただ、母がその人を悪く言うのを聞いたことがないので、母もあるいはすべて覚悟の上で妹を身ごもり、産んだのかもしれません。最初は妹がその人の子供であることを隠そうとしていたようですが……」
その母も妹も、火事で亡くなりました――と、アメーリアは抑揚のない言葉で続けた。
「遺された私に課された使命は、母の過ちにより失った巫女の立場を取り戻すこと。そして巫女の職責を全うし続けることでした」
巫女の職責。
ついにその言葉が出てきた。
ティースが思わず一歩足を踏み出すと、アメーリアは素早く反応し視線でそれを制止した。
近付くな、という意思表示だろう。
仕方なく、ティースはその場に足を止めたまま、
「その巫女の職責を全うするために、君は村人を襲わせたりしたのか? いったい何故? 巫女の職責ってのはなんのことなんだ?」
「ヴァルキュリスの巫女の職責は――ただ一つ」
アメーリアが僅かに、横に動く。
その後ろに微かに見える台座。
つ……と、人差し指がその台座の隅をなぞった。
「この、エブリースの祭壇を守ることです」
「エブリースの……祭壇」
そこにはいったいなにがあるのだろうか。
「スピンネルの村はもともと、そのために作られた村なのです。村人たちはこの洞穴を神聖な場所としてあがめ、畏れました。そのこと自体がここに立ち入ろうとする者たちへの抑止力となり、そしてすべてを知る巫女はそんな村人たちを誘導し、洞穴に配置した獣魔たちを操り、たとえ外部の人間が来てもここまでたどり着けないように仕向ける。しかし――」
アメーリアは目を伏せた。
「母の過ちにより、その仕組みは完全に崩壊しました。巫女の神秘性が失われたことにより、村人たちはその言葉に耳を傾けることもなくなり、そしてついには、自らこの場所を荒らそうとするようになったのです」
「……それで君は、獣魔たちを使って村人たちを?」
「はい」
「けど、それはちょっと変だな」
ティースはチラッと隣のリィナに視線を送った。
「……」
リィナが無言のまま、小さく首を横に振る。
会話の最中、彼女はずっと周囲に気を配っていた。罠や、あるいは柱の陰に何か潜んでいないか警戒したためだったが、どうやら今のところ変わったことはないようだ。
何もないとすれば、この場にいるのはアメーリア一人。
いざというとき、制圧することは可能だろう。
そのことを頭の隅に置きながら、ティースは問いかけを続けた。
「君はここに入ってきた村人たちに獣魔をけしかけておきながら、結局のところ怪我をさせただけで一人も殺していない。巫女の発言力を取り戻し村の人に畏れを取り戻させるのが目的なら、彼らを殺さずに逃がしたのは何故なんだ?」
事実、怪我をしただけの村人たちは金を求めて四度に渡って洞穴に潜り、その後、こうしてティースを呼んで獣魔の退治を依頼するに至った。
もし最初の一回、あるいは二回連続で死人が出ていたなら、村人たちは以前と同じようにこの洞穴を恐れ、以後、誰も立ち入らなくなったかもしれないというのに。
ただ、
「私は、ヴァルキュリスの巫女であり、それと同時にスピンネルの村の住人でもあります」
その問いかけには、アメーリアの語尾がほんの少しだけ乱れた。
「村の人たちを、殺したくはありませんでした……」
「……なるほど」
初めて、だろうか。
この場で、彼女の人間らしい心が覗いて見えたのは。……それだけに、その発言はおそらく彼女の本心なのであろう――と、ティースは思った。
それとともに、
(……そういうこと、か)
ティースの頭の中でいくつものパズルが埋まる。
彼女が語りつくす前に、彼女が頭の中で描いていたシナリオは彼の頭の中で形となった。
「それで、俺をこの村に呼んだんだね?」
「……」
「……どういう意味ですか?」
無言のアメーリアに、リィナの怪訝そうな声が続いた。
「この祭壇に入られるのが嫌なら、私たちを呼んだのは逆効果ではないんですか?」
「いや」
チラッとリィナを見て、それからティースは正面のアメーリアに向き直った。
「君は村人を犠牲にしたくなかった。といって、あの村長さんはどうやら怪我人が何人出ようと金の探索をやめる気配はない。……そこで君は考えた。どうすれば村人を殺さず、そして彼らがかつてのようにこの洞穴を畏れるようになってくれるか、と」
言葉にして、そして胸が少し痛む。
……今、口に出そうとしているその理由は、ティースにとっても悲しい事実だった。
それでも軽く唇を噛み、その言葉を紡ぎ出す。
「デビルバスターがここで殺されるようなことがあれば、村人たちにとってはこれ以上ない抑止力となる。……君は何度も俺に言ったね。お礼がしたい、報いたい、って。一昨日の夜に俺の部屋に忍んできたことも、昨日の夜にご馳走を振る舞ってくれたときも。……それは、生贄にするつもりで呼んだ俺に対する罪悪感の表れ、つまり――」
怒りよりも、残念な気持ちのほうが強かった。
「君は最初から最後までずっと、俺を殺すつもりでいたんだ」
「……」
アメーリアが目を閉じ、大きく息を吐く。そのときの彼女がどのような心境だったのか、ティースにはわからない。
ただ、そのことは後に回して、ティースはさらに問いかけた。
「アメーリア。……まだ一つ、わからないことがある」
「……なんでしょう?」
「この洞穴で金が採れるというのは本当なのか? いや――」
ティースは小さく首を横に振って、言い直す。
「出るかどうかはこの際どうでもいい。……金が出るということを村人たちに伝えたのは誰なんだ? 今の話を聞く限り、それが君だったとはとても思えない。でも、いくら巫女の求心力が低下していたとはいえ、何の理由もなしに村人たちがこんな気味の悪い洞穴に入るとも思えない。つまり――村の中に、ここで金が出るなんて話をできる人間はいないはずなんだ」
「さあ……金が出るかどうかは私にもわかりません」
アメーリアはそれにはあまり興味がなさそうな顔をした。
「ただ、かつて村に住んでいた人の孫がつい最近村を訪ねて来たと聞きました。もしかすると、その人がお爺様から何か聞かされていたのかもしれません」
「その人は今も村にいるのか?」
「わかりません。……ティーサイト様」
アメーリアはその話題を打ち切るように少し強い口調でティースの名を呼び、そして小さく息を吐く。
「先ほどのお話、すべてティーサイト様のおっしゃるとおりです。最初から最後まで、私は確かに貴方様を殺すつもりだったのです。そして――」
と、その台座の中央に手をかけた。
「今も、そのつもりでいます」
「!」
アメーリアの右手の指が、そこから何かをつまみ上げる。……薄茶色の宝石のような塊だ。
さらに、彼女は懐に手を入れ、首にかけていた鎖のようなものを服の外に出す。
「……?」
よく見ると、その首鎖には何か丸いものをはめ込むような場所があり、そしてそれはどうやら、彼女が右手に持っている宝石の大きさとピッタリ一致しているようだった。
「ティーサイト様。……これが、ヴァルキュリスの巫女がここを守らなければならない一番の理由です」
「……なんだって?」
「この“エブリースの首飾り”には、この大陸を滅ぼすほどの力があると言われています。だから私は――どんな手段を用いても――」
と、アメーリアの手にした宝石が、その首鎖に填め込まれる。
背後で、息を呑む音が聞こえた。
「ティース様! あれは――いけませんッ!」
「えっ?」
その瞬間。
「なッ!? これは――!?」
空気が震撼する。
巨大な魔力が、アメーリアの全身から迸って――
「……アメー……リア?」
アメーリアの背中に、緑色と薄茶色の翼のようなものが見えた。――いや、それは翼ではなく、彼女の体から迸る魔力の一端が可視化したものだ。
リィナの震える声。
「こ、これほどの魔導器が……まさかこちらの世界に存在してたなんて……」
「魔導器だって!? じゃあ――」
“魔導器”は、破魔具や神具の一種で、道具そのものが魔力を発現させる力を持つ特殊なアイテムのことだ。リィナやエルレーンがカムフラージュのために身に着けている指輪と同じ類のものである。
ただ、それ――“エブリースの首飾り”が秘める力は、彼女たちの持つそれとは比較にならないほど強く――
「彼女は人間の体で、これほどの魔力を――ッ!?」
将魔級――いや、それはかつて“朧”による制限を受ける前のリィナが行使していた王魔のそれにすら匹敵する魔力だった。
アメーリアの体から迸った風が荒れ狂い、神殿の中を渦巻く。
地の底から悲鳴のような地鳴りが聞こえてきた。
「……アメーリア! 待ってくれ!」
そんな中、ティースは力の限り叫ぶ。
「まだ確認したいことがある! そもそもこの一件の始まりは――」
「ティーサイト様。……リィナ様」
だが、アメーリアはその言葉に反応することなく、
「言い訳はしません。……巫女としての職責を果たすため、お二人には死んでいただきます」
その体は自然に宙に浮かび上がるほどの魔力に包まれていた。瞳の色はそれぞれ、地の魔力を示す薄茶と、風の魔力を示す緑色に染まっている。
「アメーリア!」
「ティース様、いけません!」
そんな彼女に駆け寄ろうとしたティースを、リィナが引き止める。
「構えてください! ……来ます!!」
「――ッ!」
アメーリアの体の中心で、風が渦巻く。
(あれは――)
凶悪な威力を秘めた、あらゆるものを貫く風の槍。
風の二十七族ウィルヴェントが持つ必殺の武器“穿つ風”――
「……アメーリア――ッ!!」
呼びかけるティースの声も空しく。
アメーリアの手から“穿つ風”が放たれた――
「……ん?」
エルレーンの元を去り、待機している家へ戻ろうとしていたリージスは、その途中で一人の青年に会った。
彼が引き連れてきた人間ではない。ということは、おそらくこの村の人間だろう。
(……しかし、見慣れねぇな)
その青年は、この村の人間とは思えない格好をしていた。
「おや」
と、青年がリージスの視線に気付く。
「洞穴のほうに行っていたのですか? あそこは今は危ないですよ」
「あんたは? 村の人間かい?」
優男だ。
「違います。ただ、実は祖父がここの出身でして。自分のルーツを辿るために来て、ここの村長さんのご好意で一ヶ月ほど滞在させてもらっている者です」
「ふぅん。そりゃ物好きだねぇ」
頭にはこのネービスでは珍しいターバンのようなものを巻いている。
「ええ、物好きなんですよ」
青年は左手を口元に当ててくすくすと笑った。
女々しいその仕草にリージスは眉をひそめたが、ふと、その青年の手の甲に不思議な形のアザがあることに気付く。
(なんだ、ありゃ……)
それはまるで涙のような形のアザだった。
それが三つ。
「……おい。どこ行くんだ?」
すれ違い、真っ直ぐ歩いていこうとする青年にそう尋ねると、
「私も少し、様子を見てこようかと思いましてね」
「……危険、じゃなかったのかい?」
「見てくるだけですよ。怖くなったらすぐ戻ります」
口元に薄い笑みを浮かべ、青年は遠ざかっていった。
一陣の風が、リージスの脇をすり抜けていく。
「……」
そしてしばしの間。
リージスはその青年の背中を不審そうに見送っていた。