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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第11話『女嫌いのデビルバスター』
94/132

その5『ヴァルキュリスの顎門(あぎと)』

 不気味なほどの静けさとひんやりとする風。付近には黒くなった血の跡がはっきりと残っていて、無惨に散らされた命の無念をティースに思い起こさせる。

 その洞穴の入り口は生理的にも嫌な雰囲気を漂わせていた。

 しかし。

 もちろん怯むわけにはいかない。

 明かりと食糧、そして愛剣“細波”。その他、応急手当などに用いるいくつかの道具はパートナーであるリィナが持つ。

「じゃあ、エル。あとは頼む」

 と、ティースは見送りにきたエルレーンを振り返ってそう言った。

 ――ティースたちが洞穴に潜った後、獣魔が嫌うとされる魔除けの香を入り口付近で焚く手はずになっていたが、それは一種のおまじないのようなものであって絶対的な効果があるわけではない。

 エルレーンは洞穴から獣魔が現れたときのための留守番だった。リィナではなく彼女を残すのは、単純な戦闘能力であれば彼女のほうがリィナよりも上だからである。

「それと、万が一風の三十七族が出てきたら、絶対に無理するんじゃないぞ」

「ボクはそんな命知らずじゃないよ。今の身の程はわきまえてる。任せて」

 なお、村人たちはあらかじめ、この洞穴から遠い場所に避難させてあった。――たった一人を除いて。

「ご武運を。ティーサイト様」

 体の前で手を重ね合わせたアメーリアは、昨晩と違い大人びた“巫女の貌”をしていた。……いや、そう見えたのは、あるいはティースたちのことを案じて緊張しているせいなのかもしれない。

 ティースにとって、この不思議な少女の内心を窺い知ることはまだ難しかった。

 ただ、彼女の言葉に対しては素直に応えて、

「ありがとう、アメーリア。君の村を守るため、全力を尽くさせてもらうよ」

「……はい。よろしくお願いします」

 目を閉じ、アメーリアは小さな声で深く深く頭を下げる。

 そんな彼女に頷いてみせ、ティースはリィナとともに洞穴の中へと足を踏み入れていった。


 ――想像したとおり洞穴の中はひんやりとしていたが、空気は意外に乾燥していた。風が結構強めに流れているところを見ると、他にも外に通じる口があるのかもしれない。

 足元はデコボコしていたが、歩くのに苦労するほどではなく。幅五メートルほどのゆったりとした傾斜を、二人は辺りに注意しながら進んでいった。

 入り口付近はほぼ真っ暗でカンテラが必須だったが、少し奥に進むと、昼間だけ自ら発光する魔界由来の苔が生えていて、やがて満月の夜ほどの明るさになる。

 その段階でティースはカンテラの明かりを消した。

「静かですね……」

 呟いたリィナの声が乾いた洞穴の壁に僅かに反響する。

「この辺に獣魔はいないみたいだ」

 風の三十七族も風の七十五族も、自ら息を潜めるほどの知能は持っていない。

 不意打ちされる可能性が低いのは、こういう場所では有り難いことだった。

 そうして何事もないまま、十五分ほど進んだだろうか。

「……ん?」

 道が二つに分かれていた。

(……まるで食道と気管だな)

 ティースはそんなことを考えて、本当に巨大な獣魔の体内にいるかのような錯覚に襲われたが、彼の想像したそれはあくまで人間の体内構造がベースだ。ヴァルキュリスの体が本当にそんな構造になっているのかどうかは定かではない。

 ともかく、二人は分岐点に最初の分かれ道を示す印を付け、左の道に進んだ。

 この辺りはまだ村人たちも踏み込んだことのある場所で、どちらを選んでも後で合流するらしいという話を聞いている。

 さらに五分ほど進むと、また道が二手に分かれていた。

 ティースは後ろのリィナをいったん振り返って、

「これ、右はさっきのところに戻るんだったよな?」

「そう聞いてます。目印、付けておきますね」

 リィナがその分岐点に二つ目の目印を刻み、二人は奥へと向かう左の道を進んでいく。

 それからさほど進まないうちに、今度は広間のような少し大きな空間に出た。

「広いな……」

 天井は十メートルほどあるだろうか。左手は数メートル先が崖のようになっていて、先に入った村人が立てたのか“危険!”と書かれた看板があり、右手は半円状に大きく広がっていて、先に進めそうな道が二つ。それとは別に直進する道もあった。

「村人が襲われたのはいずれもこの先、という話でした」

 リィナの言葉が微かに緊張を含んだ。

 つまりこの分岐の先がどうなっているかは、誰にもわからないということになる。

「ここからは少し慎重に進むことにしよう」

 ティースがそう言うと、

「金の採れる場所もこの先だと聞きましたけど……」

「……それも一応確認しようか」

 本当に金が採れる場所があるのかどうか。村長を含め、そこまで嘘をつくメリットはないはずだとティースは考えているが、確認しておくに越したことはない。

 もっとも――

「金ってパッと見でわかるもんだろうか?」

「どうでしょう……でも金塊が地面に埋まっていればすぐにわかるんじゃないでしょうか」

 リィナの回答にティースは苦笑する。

「さすがにそれはないよ。金は確か、それをたくさん含む鉱石を掘り出してナントカって魔界の植物を溶かした水に沈めて数週間かけて分離抽出するんだ。純粋な金がいきなり掘れるわけじゃないんだよ」

 するとリィナは少し頬を赤くして、

「そ、そうでしたか。すみません。私の里では金を装飾品として重宝する文化がないものですから」

 と、言った。

「あ……ああ、こっちこそゴメン。それなら知らなくて当然だよな」

 ティースは改めて彼女が魔界でも特別な世界の住人であることを思い出し、得意げに語ってしまったことを後悔するのだった。

 それにそもそも、彼だって得意げにするほどの知識があるわけではない。

 ティースはフォローの意味も込めて、

「金のことは、できれば確認しておく、ぐらいにしとこうか。目視だと区別できないものかもしれないし」

「はい。そうですね」

 そうして結局、二人は三つある道のうち、正面の道を選択することにした。

 代わり映えのしない道をさらに進むこと十分。

 洞穴に潜ってからおおよそ三十分が経過した頃。


 ――微かな物音が、彼らの鼓膜を震わせた。


 細かい空気の振動。

 地を擦る音。

 複数の気配だった。

「……」

 ティースが無言で目配せすると、リィナも気付いていたようでやはり無言のまま彼に頷き返す。

 まだ少し距離があるようだった。気配から察するに、どうやら彼らはまだティースたちの存在に気付いていないようだ。

(五匹、ってとこか)

 動いている気配はそれほど大きいものではない。そこから察するに、おそらく村人たちを襲撃したという風の七十五族たちだろう、とティースは思った。

 油断がなければ、彼がてこずるような相手ではない。

 リィナに向かって“援護に回れ”というジェスチャーをして、気配を殺したまま近付いていく。

 ――と。

 そのときだった。

「……ティース様!」

 突然、リィナが大きな声を出した。

「え――」

 道の先にいる風の七十五族たちがその大声に反応し、一斉に敵意の鳴き声を上げる。

「リィナ?」

 何故――と、彼がそう問いかける前に、大きく目を見開いたリィナが叫ぶ。

「足元です――ッ!」

「……えっ!?」

 とっさに視線を落とした地面。

 ――洞穴の壁と地面のちょうど境目辺りに、緑色の小さな光が見えた。

 それはちょうど、ティースが足で踏み込もうとしていた場所――  

(これは――ッ!)

 パン、と、緑色の光がシャボン玉のように割れる。

 直後。

「……ティース様!!」

「ッ――!?」

 彼の足元から、刃物のように鋭い風の渦が巻き上がった。




 地の四族“ヴァルキュリス”は体長百メートルを越える巨大な竜である。

 いや。

 正確には、巨大な竜であると“言われて”いる。

 彼ら一桁台の獣魔は“神獣”とも呼ばれ、人魔の最高位である“神魔”同様に神のごとき存在であり、広く認知されてはいても人が彼らの姿を目の当たりにすることはまずない。

 それは人間だけでなく、魔界に住む王魔以下の人魔にとっても同じことだった。

 風の王魔の中でも名門中の名門の血筋であるエルレーンでさえそれらと直に接触したことは一度もなく、ヴァルキュリスが本当にそんな巨大な竜の姿をしているのかどうかは、実際のところ定かではないのだ。

 だからこそ、

(これ――)

 部屋の壁に描かれたその画を見たとき、エルレーンは戸惑いこそしたものの、ああ、これはヴァルキュリスなんだ――と、すぐに納得することができたのだった。

 そこに描かれたヴァルキュリスらしき獣魔は、竜というよりは大きな鳥のようだった。ただ、翼を持ってはいるものの、実際に空を飛べるかどうかは疑問だ。体と翼の大きさのバランスからいえば、風の七十五族のように飛べない鳥という可能性もあるだろう。

 実際、描かれたその絵の中のヴァルキュリスは空を飛んではいなかった。巨大な二本の足を地に付け、首を大きく伸ばし、天に向かって大きな咆哮を上げている。

 周囲の地面が大きく隆起しているのはその力の強大さを表したものだろうか。

(……頻発する地震も、村周辺の隆起も、全部ヴァルキュリスの仕業ってとこかな)

 村の人間は巫女を通してヴァルキュリスに祈りを捧げる。結果、このスピンネルの村だけは大地の隆起による崩壊を免れている。――大雑把に言って、この村のヴァルキュリスに対する信仰はそういったものなのだろう、とエルレーンは理解した。

 ただ――

(この絵、ちょっとヘンな気がするなぁ……)

 改めて全体を眺め、エルレーンは首を傾げた。

 そこに描かれているのは咆哮を上げるヴァルキュリスと、隆起する大地。逃げ惑う人々と必死に祈りを捧げる人々。

 神であるヴァルキュリスと、許しを請う人間。

 それだけなら非常に単純な図式で、おかしなことは何一つない。

 ――が、しかし。

 その絵にはもう一つ、明らかに余分な要素が描かれている。

 それは咆哮を上げるヴァルキュリスの頭上――

(風神の紋章……かな?)

 細長い三日月が四つ絡み合ったような印。それは彼女の故郷で見かける風の神の紋章によく似ていた。

 その紋章が本当に風の神を表したものだとするなら、不自然なこと極まりない。

(地の神獣ヴァルキュリスの頭上に風の神の紋章なんて……)

 魔の十属性において、風と地は対極に位置するものである。炎と水、闇と光の関係と同様だ。

 にもかかわらず。

 地の神獣の頭上に輝く、風の神の紋章。

 ……不自然な図だった。

「エルさん――」

「!」

 背後からの声に驚いてエルレーンは振り返る。

 そこには、土色の衣装に身を包んだアメーリアが立っていた。

 エルレーンはホッと息を吐いて、

「あ、ゴメン。ここ、キミの部屋だよね。ドアの隙間からこの立派な絵が少し見えてたものだから、つい――入っちゃダメだった?」

「いいえ。そんなことないです」

 怒った様子もなく、アメーリアはチラッと壁の絵に視線を向けた。

「その絵は最近書き直された模写なんです。その元の絵も模写だったそうです」

「元の絵は?」

「二百年以上前に失われたと聞いています」

「そんな古いんだ」

 エルレーンはそう呟きながら壁いっぱいに描かれたその絵の端から端までを見回し、最後にアメーリアの元へと視線を戻す。

 そして気付いた。

(……風神の紋章?)

 アメーリアが着ている衣装の模様。昨日、初めて会ったときは辺りが暗かったせいか気付けなかったが、彼女が着ている土色の服に無数に配された模様は、その絵に描かれているものと同じ紋章だった。

(どういうこと……?)

 さらにエルレーンは混乱する。

 巫女が身に纏う土色の服、それに描かれた風神の紋章。

 巫女の部屋に描かれた地の神獣と、風神の紋章。

 ――それだけじゃない。

 あの洞穴で村人を襲った獣魔。昨日姿を現した獣魔。

 風の七十五族と風の三十七族。

 いずれも風の獣魔だ。

“ヴァルキュリスの顎門”に住み着いた、風の獣魔たち。

(……なんだろう。この符号)

 ざわつく胸を右手で押さえる。

 嫌な予感がそこに渦巻いていた。

「どうしたんですか?」

 アメーリアが不思議そうに彼女を見ている。

「あ、ううん。なんでも……」

「そうですか」

 それを追求することもなく、アメーリアは部屋の奥へと進んでいった。

「エルレーンさん。祈りの時間なので退室をお願いできますか?」

「あ、うん」

「申し訳ありません」

 小さく頭を下げたアメーリアに、エルレーンは小さく手を振って、

「……ボク、ちょっと洞穴のほうに戻ってるから」

「わかりました」

 アメーリアの言葉を背中に受けながら部屋を出て、エルレーンはすぐに洞穴――“ヴァルキュリスの顎門”へ向かう。

 そこに行ったところで何がわかるわけでもない。

 ただ、彼女は急に芽生えたその悪い予感にいても立ってもいられなくなっていたのだった。




 水しぶきが宙を舞った――


 リィナの叫びに呼応しティースの全身を覆った水の膜が、その足元から吹き上げた風の渦の威力を削ぐ。

「くぉ……のぉぉぉぉ――ッ!!」

 ティースの反応も速かった。

 抜き身で持っていた“細波”を足元に叩きつけると、そこに込められた破魔の力が風の魔力を押し潰す。

 散った細かい刃が彼の体を掠めたが、薄皮一枚を切り裂いた程度だ。

「ティース様!」

 安堵の声を上げ、リィナが駆け寄ってくる。

 が、ティースはそんな彼女を制止して、

「油断するな! 風の七十五族が来るぞ!!」

 道の先から押し寄せてくる気配。

 ティースはそれらが視界に入ってくる前に、剣を上段に振り上げた。

「穏やかに凪ぐ風よ――悪鬼を挫く刃と成れ!!」

 振り下ろすと同時に“細波”の柄に填められた宝石が緑色の光を放つ。

 威力を極限に抑えて放たれた無数の“風の刃”が、周囲の壁と床を無差別に削っていった。

 すると――

「……!」

 正面の緩いカーブの辺りで、先ほどと同じような風の渦が巻き起こった。

「ティース様! これは――!?」

 リィナが驚きの声を発する。

「衝撃感知タイプの罠だ……」

 そう言ってティースは大きく息を吐く。

“細波”の力を使ったことによる脱力感が彼の体を襲っていたが、威力を抑えたためそれほど大きな反動ではなかった。

「ひとまず今のでこの一帯は安全だ。まずは獣魔に専念するぞ!」

 リィナが頷くと同時に、緩いカーブの向こうから風の七十五族の集団が現れた。

 数は予想どおりの五匹。

「リィナ! 守りは任せた!」

「はい!」

 ティースは地面を蹴って一直線にその集団に突撃した。

 鳴き声を上げて、風の七十五族たちが大きく羽ばたく。

 が――

 宙に弾ける水しぶき。

 羽ばたきによる風圧攻撃はすべてティースの周囲に展開した水の膜に相殺された。

 ヒステリックな鳴き声が洞穴に響き渡る。

 ティースは防御無視のまま獣魔たちをその射程に収めると、

「ぉぉぉぉぉぉ――ッ!!」

 振り下ろし、なぎ払う――。

 正確無比な攻撃はそのことごとくが獣魔の急所を捉え、あるいは両断し。


 ――五匹葬るまでにかかった時間は一分ほどだった。


「……ふぅ」

 戦いが終わり、ティースはホッと一つ息を吐いた。

 獣魔の流した血の匂いが鼻腔の奥を突く。

 ――どれだけ優位な戦いであっても、この緊張感が薄れることはない。

 血と脂に汚れた“細波”の剣身は、軽く振るうとすぐに元の瑞々しさを取り戻した。

「ティース様。怪我はありませんか?」

 すぐさまリィナが彼に駆け寄る。

「ああ。君のおかげでね」

「頬に血が……」

「ん。ああ」

 先ほどの罠で負った傷のようだった。

「いいよ。治療するほどじゃない」

 手当て用の腰袋に手を伸ばしたリィナを制止し、頬の血を軽く拭ってティースは改めて周囲を見回した。

「……にしても。さっきの罠、気になるな」

「はい」

 この手の魔力を込めた罠はそう珍しいものではない。人が作る罠と同じように、ちょっとしたコツと技術の修練があれば――その完成度や威力に差はあれど――ほとんどの魔が作れるようになると聞く。

 そう。

 修練があれば、だ。

 つまり獣魔は作れない。厳密に言えば、罠を作って獲物を狩る獣魔もいないわけではないが、それは獣魔の中でもほんの一握りだった。

「獣魔の仕業なら風の六十九族があの手の罠で獲物を仕留めるはずだけど……リィナ。どう思う?」

“細波”を地面に突き立て、体についた土の汚れを軽く払いながらリィナに意見を求める。

 リィナは口元に手を当て、少し考える仕草をすると、

「六十台の獣魔が作ったものにしては強すぎる気がします。私の力で相殺しきれなかったところを見ると、最低でも上位魔クラスの罠ではないでしょうか」

「俺もそう思う」

 つまり――この場所には人魔が作ったと思しき罠が張り巡らされていた、ということになる。

 しばしの逡巡。

 ティースは口を開く。

「……いったん引き返そう」

 それほど迷いはなかった。

 風の三十七族に加え、上位魔クラスの人魔の意思が見え隠れしていて、さらには地の利もない。

 この戦力で挑むには心もとなかった。

 リィナにももちろん異論はなく。

 二人は獣魔の血の匂いが立ち込めるその場所から早々に引き返すことにした。

 念のため罠に注意しながら、たった今下りてきたばかりの緩やかな坂を上っていく。

 と――

「……あれ?」

 少し進んだところで、道が左右の二手に分かれていた。

 ティースは後ろのリィナを振り返って、

「こんな道、あったっけ?」

 リィナは形の良い眉をほんの僅かに曇らせて、

「いえ。私が覚えている限り、あの大きな空間までは一本道だったはずですが……」

「見落としたのか? ……来た道はどっち――」

「……ティース様」

 リィナが表情を曇らせて正面の壁を指差す。

 そして遠慮がちに言った。

「間違っていたらごめんなさい。来たときは確か、この壁のところが道になっていたはずです……」

「……なんだって?」

 言われて正面を見ると――

「なんだ、これ……」

 その壁を丸く切り取ったような範囲だけ、発光する苔がまったく生えていなかった。

 明らかに不自然な壁だ。

 まるで、さっきまで道だった場所を塞いだかのような――

「……」

 ざわっという嫌な予感が背中を駆け上がる。

 ティースは“細波”を構え、思いっきり力を込めてその壁に突き立てた。

 ガリッ、という強い反動。

“細波”はその剣身の半分ぐらいまで壁に埋まったが、向こう側に突き抜けた様子はない。

「……どうなってるんだ」

 正面の壁はちゃんと周囲の壁と繋がっている。落石が道を塞いだわけではないし、そもそも正面が来た道だったのなら、左右にも道があるのはおかしい。

 あの広い空間からここまでは一本道だったのだから。

「ティース様――」

「……進もう」

 リィナを不安にさせないためにも、ティースはその分岐点に印を付け、左の道へと足を向けることにした。

 いずれにしてもそれしか手はない。

 あの広い空間には三つの入り口があった。仮にティースたちの来た道が何らかの理由によって塞がれたのだとしても、他の道からあの場所に戻れる可能性はある。

 ただ、

(食糧は……もって五日ってとこか)

 ティースは頭の中で、すでに閉じ込められた可能性のことを考えていた。

(風の七十五族って、食べられるんだったかな……いや、一番の問題は水か。獣魔がいるんだから水が飲める場所はあるはずだけど……)

 最悪のケースを想像する。

(一日戻らなかったらエルが異常に気付く。あいつのことだから無謀なことはしない。助けに来るにしてもミューティレイクに使いを走らせてから来るはず……リガビュールまで急いで一日半、ネービスまでさらに三日。助けが来るのは――早くて十日後だな)

 ただ、それは水場さえ確保できれば、計算上は絶望的というわけでもなかった。

 ――まずは脱出する道を探すこと。

 ――最低でも水場を確保すること。

 自らの計算に気合を振り起こし、ティースはリィナを連れて奥へと進む。

(こっちは……あの場所には戻りそうもないな)

 あの広い空間に戻れるなら緩やかな上り坂になるはずだったが、ティースの期待に反し、選んだその道は少しずつ下っていっているようだった。

 戻るべきかどうかティースは一瞬迷ったが、結局そのまま先に進むことを選択する。

 ――戻れなかったら。

 ――水場が見つからなかったら。

 不安が鎌首をもたげてきた。

 押し殺し、さらに先へ。

 それから二十分ほどはずっと静かな一本道だった。

 と。

「――ティース様」

 先ほどの分岐点から無言だったリィナが初めて口を開く。

「うん?」

 振り返る。

「心配ないですよ」

 さぞかし不安になっているんじゃないかと思っていたが、リィナはいつもと変わらぬ穏やかな表情だった。

 それどころか――

「ほら。ティース様。ほっぺが強張ってます」

「……」

 ティースはハッとして口元に手を当てた。

 そんな彼の行動に、リィナはクスクスと笑って、

「やっぱり」

「……まいったな」

 どうやら、いざというとき女性のほうが強いというのは本当のようである。――彼を例にしてそう断じてしまうのは、世の男性諸氏に若干申し訳ない気もするが。

 歩く速度を僅かに緩め、ティースは大きく深呼吸する。

 胸の中にたまっていた澱のようなものがすっと溶けていくような気がした。

 そしてティースは正直に問いかける。

「君は不安じゃないのか? 閉じ込められたかもしれないのに」

「どうでしょう。不安でないわけではないですが――」

 そ……っと、その手をティースの背中に添えた。

 触れることはない。

 近づけただけだ。

「ティース様がおそばにいるうちは、何があっても大丈夫です。だって私は――」

 ティース様を守るために来たのですから――と、リィナは微笑んだ。

「……!」

 そんな彼女の笑顔をまともに向けられて、ティースの体はカッと熱くなった。

「……はは。俺ってそんなに情けない男に見えるかな」

 誤魔化し半分に言った彼の言葉に、リィナは不思議そうな顔をする。

「どうしてですか?」

「いや。女の子に守られるってのはさ。やっぱ男として情けないじゃないか」

「あっ、すみません。そういう意味ではなかったのですが……」

「ああ、いや。別に文句を言ってるわけじゃないよ」

 照れ笑いを浮かべながら正面に向き直る。そうこうしているうちに、先ほどまでの不安が嘘のようにティースの足取りは軽くなっていった。

 本当に単純な男なのである。

(……リィナを死なせるわけにはいかないしな。俺がしっかりしなきゃ)

 足取りも強く、先に進んでいく。

 時折、関係のない会話をリィナと交わしながら、さらに奥へ。

 そうして……三十分ぐらいだろうか。ティースもリィナも時間の感覚が怪しくなりつつあったが、腹具合から考えても洞穴に入って一時間半程度だろう。

「……?」

 鼓膜を震わせた音。

 最初は風の音かと思った。

 が――

「ティース様。この先に水場があるようです」

 それが水の流れる音だと気付いたのはリィナのほうが早かった。

(水場、か……)

 その言葉を聞いたティースは、救助を待つ場合の一番の懸念が解消されたことにホッと胸を撫で下ろす。

 これで生存確率が跳ね上がるはずだった。

 逸る心を抑えながらさらに先に進んでいく。

 湧き水か。

 あるいは小さな川のようなものが流れているのか。

 その先のオアシスに期待しながら歩みを進めていく二人。


 ――そんな二人の目の前に現れたのは、予想外の代物だった。


「え――」

 再び大きく開けた空間。

 先ほどの空間の数倍の広さはあるだろうか。

「ティース様。これは――」

 しかし二人を驚愕させたのはその広さではない。

 空間の左右の壁にはいくつもの穴が開いていて、そこから綺麗な水が流れ落ちている。その流れ落ちる先には細長い池のようなものができていた。

 そして正面。

 その空間の奥にたたずむモノ。

「神殿、か……?」

 そこにあったのは明らかに自然のものではない、何者かの手による人工建造物だった。

 ティースは“神殿”と呟いたが、本当にそうなのかは定かではない。それはネービス領で多く信仰されているミーカール教のものとも、大陸の主流であるクライン教のものとも形式が違っていた。

 左右に立つ大きな柱。

 二十段ほどの階段の先に四角い箱のような建物。

 建物のてっぺんには三日月を四つ組み合わせたような大きな紋章が刻まれていた。

 そして――

「柱に、何か書いてるな……」

 そこに刻印された文字。

 どこかで見たような形の文字だったが、ティースには読めなかった。

 が――

「エブ、リース……」

 後ろから聞こえた呟きに、ティースはビックリして振り返る。

「リィナ? 読めるのか?」

 リィナは小さく頷いて、

「はい。これは魔界の古い文字です。ここには“エブリースの祭壇”と書かれています」

「エブリース? ヴァルキュリスじゃないのか?」

「違います。この文字だとヴァルキュリスは……こう書きます」

 と、リィナは人差し指で空中に文字を書いてみせる。

 ティースにはよくわからなかったが、柱に書かれているものと違うことだけは理解できた。

「じゃあエブリースってのは……?」

「……わかりません。私も聞いたことがないです」

 申し訳なさそうにリィナが首を横に振る。

 ――と。

 そのときだった。

「……ォォォォォォォ――ッ!!」

「!」

 鼓膜をつんざく遠吠え。

 空気が振動する。

 ティースは即座に悟った。

「風の三十七族か――ッ!!」

 視線を上げると、見覚えのある黒いシルエットが階段の上に佇んでいた。

 間違いない。

 昨日、洞穴の前に現れたのと同じ獣魔だ。

「ティース様!」

「下がれ、リィナ! あいつは俺に任せろ!!」

“細波”を正眼に構え、階段の上の風の三十七族を睨み上げる。

 と。

「……なに?」

 気付く。

(……誰か、いる?)

 風の三十七族を従えるように佇む、人型のシルエット。

 ティースの脳裏をよぎったのは道中に仕掛けられた風の罠のことだった。

(やはり黒幕がいたか……)

 上位魔か。

 あるいは将魔か。

 ――ゴクリ、と、喉がなる。

 いずれにしても、厳しい戦いになるだろう。

「ティース様! あの人――」

 同じくその人影に気付いたのか、リィナが叫んだ。

「わかってる! たぶんヤツが、罠をしかけた人魔だ!」

 ティースはそう答えたが、

「違います、ティース様! あの人は――」

「……え?」

 改めて見上げた階段の先。

 ――土色の衣装がひらひらと揺れていた。

「アメー……リア……?」

 同じ服を着た別人か。

 ――いや。

「まさか――」

「……」

 微動だにせず佇むその姿勢。

 その小さな手が、そっと風の三十七族の背を撫でて。


 戦闘開始を告げる咆哮が響き渡った――。


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