その4『暗躍する意志』
二十番台の獣魔は手だれのデビルバスターにとってさえかなりの難敵とされている。
その存在が事前に知れている場合は複数のデビルバスターで退治に向かうのが半ば常識とされており、それぞれの特性に応じた罠や作戦を用意することも多い。逆に言えばそれは、一人で何の準備もなく出会ってしまった場合、命を落とす可能性が非常に高い相手ということだ。
そんな、デビルバスターにさえ死を予感させる獣魔――風の二十七族“ウィルヴェント”の姿を目の当たりにして、ティースは戦慄が背中を駆け上っていくのを感じていた。
(これほどの獣魔が潜んでいるなんて……)
ウィルヴェントは体格こそ普通の狼を一回り大きくした程度のものだが、風の獣魔の特徴の一つである高い敏捷性に加え、牙のない口から放たれる長細い螺旋状の“穿つ風”は、フルプレートすら容易に貫く必殺の一撃だ。
デビルバスターになってまだ一年未満の彼には手に余る相手である。
(……かといって、下がるわけにはいかない)
ティースはグッと愛剣“細波”を握り直した。
彼の背後では村人たちが息を潜めている。もしもウィルヴェントが彼らにその照準を定めたら最後、この凶悪な獣魔から逃げ延びられる可能性は無きに等しい。
この規模の村なら、二時間もあれば全滅だろう。
(やるしか――)
と。
「……あれはウィルヴェントじゃないよ、ティース」
「え?」
そう言ったのは隣のエルレーンだった。
「似てるけど違う。よく見て。ウィルヴェントなら四つあるはずの耳が、退化しちゃってて二つしかないし、口には牙が生えたまま。……あれはウィルヴェントの亜種、風の三十七族だよ」
言われて視線の先の獣魔を改めてよく見てみると、ウィルヴェント――風の二十七族であれば深緑色であるはずの体毛は僅かながらそれよりも黒に近く、耳の数も牙の有無もエルレーンの言うとおり、その獣魔がウィルヴェントであることを否定していた。
「風の三十七族。……そうか」
どうやらそのシルエットを見ただけで動揺し、思い込んでしまっていたようである。
未熟者だと密かに反省するティースに、エルレーンは続けて、
「間違えるのも無理ないよ。似てるし、それに風の三十七族は魔界でも希少種だから。こっちの世界で見ることなんて滅多にない」
風の三十七族は身体能力自体はウィルヴェントとほとんど変わりないが、身にまとう魔力は本物の半分程度とされ、その最大の脅威である“穿つ風”を持たない。振られた番号が大きくなっていることからもわかるように、ウィルヴェントに比べればかなり組し易い相手である。
「でも手強い相手に変わりはないから、気をつけて。今のボクじゃ、あのレベルの魔力は相殺しきれない」
「ああ、わかってる」
もとより、このティースという男は実力の過信による油断などとは無縁の男だ。
剣を構えたままにらみ合う。
互いの距離はおおよそ三十メートル。周囲は比較的平坦で動きを阻害するものは少ない。足場が悪い地形ではどうしても四足の相手に分があるため、これはティース側に有利な条件だ。
「エル。あの獣魔、“つがい”の可能性はあると思うか?」
風の二十七族及び風の三十七族は基本的に群れることはないとされ、実際こちらの世界で発見されるときは大半が単体での目撃だ。
ただ、それにも例外がある。
その獣魔が“つがい”――つまり夫婦だった場合だ。
普段群れることのない風の三十七族だが、“つがい”となった相手とは生涯をともに行動しつづけると言われている。こちらの世界での目撃例は少数だが、その場合はもう一頭の獣魔の存在も念頭に置く必要があった。
しかし、そんなティースの懸念にエルレーンは首を横に振って、
「たぶんないと思う。あれは見たところ雌のようだけど、つがいの場合、敵の矢面に立つのは基本的に雄のはず。少なくとも雌だけが出てきて雄の姿が見えないってことはないはずだよ」
「そうか」
少し安堵して、
「エル、もう少し下がって援護に徹してくれ。万が一お前が狙われても、まともに相手するなよ」
「了解。キミに任せるよ」
エルレーンの気配が後ろに下がっていくのを感じながら、ティースはそこから一歩も動かずに風の三十七族を睨み続けた。
背中にはまだ、ここから離れようとする村人たちと彼らを誘導するリィナの声が聞こえてきている。
(もう少し、離れるまでは……)
単純な直線の競争でいえば、ティースの足は風の三十七族のそれには到底及ばない。だからその獣の視界に村人の姿があるうちは、なるべく戦端を開きたくなかった。
その気になれば一瞬で詰められる程度の距離を保ったまま互いに牽制し合い、そのまま二分ほど経過しただろうか。
やがて――相手は意外な行動に出た。
「……なに?」
突然唸り声を止めクルリと背中を向けた風の三十七族が、背後の洞穴――ヴァルキュリスの顎門の中へと戻っていったのである。
「え……」
驚きの声は彼の後ろにいるエルレーンの口からも漏れていた。
ティースよりも獣魔に詳しい彼女にとってさえ、それは意外な行動だったようだ。
(追うか? いや――)
ティースがチラッと背後に視線を向けると、道の向こうでリィナが足の悪い老婆を含む家族を誘導しているのが見えた。
ここで追って無闇に刺激するのは得策ではない、と、判断する。
剣を手にしたまま、ぽっかりと闇色の口を開けた洞穴の入り口を油断なく注視し、そこに変化が表れないことを確認すると、
「エル」
「うん。気配はないよ」
彼女の言葉に頷き返し、ティースはゆっくりと洞穴の入り口へ近付いていく。
エルレーンもその後に続いた。
「でも……ヘンだ。あの獣魔、完全にボクらを敵視してたみたいなのに、何もなかったみたいに引き下がるなんて」
「あの手の好戦的な獣魔にしちゃ珍しいな」
「うん。ウィルヴェントもそうだけど、あのクラスになると格上の相手にも平気で食って掛かっていくから。野生の風の三十七族が人間相手に引き下がるなんて普通は考えられないんだけど……」
言葉を交わしながらも注意深く洞穴の入り口まで辿りついた二人。
思ったとおり、獣魔の気配は完全に消え失せていた。
ただ――
「っ……!」
ティースは息を呑む。
そこには濃厚な血の匂いが漂っていた。
「これは――」
外から斜めに射し込む陽光が、洞穴の入り口付近に撒き散らされた血の跡を照らしている。
その、少し奥。
深遠の闇の縁に、ティースが偵察したときには無かったはずの黒い塊が転がっていた――
死体発見の報を聞いて、村長アルフレッドは驚愕に目を見開いた。
「ま、まさか死人が出るなんて……」
腰が抜けたようにソファに座り込み、ガックリと項垂れる。
そのショックの大きさを表すように顔面は蒼白だった。
「……」
そんなアルフレッドの後ろには、初めて訪れたときと同じようにアメーリアが佇んでいる。彼女はアルフレッドのように大きな反応を見せはしなかったが、少しはショックを受けているのかやや目を伏せていた。
ティースは小さく頭を垂れて、
「僕らがいながら、こんなことになってしまい申し訳ありません。……犠牲となった方の身元は確認できますか?」
洞穴の入り口から発見されたのは若い男の死体だった。喉から顔面にかけて鋭い爪と牙の跡がついていて人相の確認できない状態だったが、この狭い村だ。若い男が一人いなくなっていればすぐに身元がわかる。
が――
「すぐに確認したのですが……」
と、客間の入り口付近にいた初老の女性が困惑の表情を浮かべて、
「村の男はみな無事なんです。いなくなった者は一人もいません」
「そうですか。なら――」
その返答はティースの想定の範疇だった。
そんな彼の想像を裏付けるように、部屋の外から荒々しい足音が聞こえてくる。
「……村長! 聞いてねぇぞ、こんな話!」
ドアを蹴破るようにして飛び込んできたのは、労働力として外から呼ばれた一団のリーダー、リージス=マクニエルだった。
「……おぅ。デビルバスターの兄ちゃんもいたか。ちょうどいい」
リージスは入ってくるなり、長方形をイメージさせる大柄な体を怒らせながら部屋の中心まで進み、そこにあったテーブルに大きな手の平を打ち付ける。
「おい、村長さん! 村の中は絶対に安全って話じゃなかったのかい!」
「ま、待ってくれ。それは――」
その剣幕に、蒼白になったアルフレッドが何事か言おうとするのを遮って、
「リージスさん。犠牲になったのはやはりあなたの?」
問いかけたティースを振り返って、リージスは怒りを隠そうともせずに答えた。
「ああ、そうよ! ウチの若いモンだ!」
「やっぱりそうですか……」
はっきりとした記憶ではなかったが、死体の着ていた服はティースにも微かに覚えがあったのだった。
それに――
「さぁ、きちんと説明してくれ! 事と次第によっちゃタダじゃ済まさねぇぞ!」
「お、落ち着いてくれ。こっちも何が何やら混乱していて――」
「混乱だぁ!? 一人死んでんだぞ! なにを悠長なこと言ってやがる!」
「こ、これまで村の中はほぼ安全だったんだ! あんな凶暴な獣魔が出てきたのも初めてで、私だってこんなことは想定外――」
「想定外で済むかよ! てめぇまさか、危険なのを承知の上で俺たちに――!」
「待ってください、リージスさん」
「あぁ!?」
よほど興奮しているのか、リージスは苛々した顔でティースを振り返る。
その剣幕にティースもやや押されてしまったが、
「その……言いにくいことですが、確認して欲しいことがあります」
「確認?」
「ええ。亡くなった彼があんな場所にいた理由です」
「……どういう意味だ?」
ティースに対するリージスの声はアルフレッドに向けたものに比べればかなり落ち着いてはいたが、それとは別の不快感のようなものが混じっていた。
続ければ、さらに相手の気分を害すことはティースにもわかりきっていたが、それでも続けないわけにはいかず、
「あなたたちの宿泊している家はあの洞穴の近くではないですよね。にも関わらず、彼があんなところで遺体で発見されるなんて不自然ではないですか?」
「……なんだそりゃ。つまりなにか? あいつが無断で洞穴に入って盗掘しようとしてたとでも言いてぇのか?」
リージスの顔が怒りで赤くなる。
「おい、兄ちゃん。いくら恩人だっつっても根拠の無いデタラメを口走ったらタダじゃおかねぇぞ」
と、そんな彼にティースは少し気圧されつつも、
「こ、根拠はあります。彼を襲ったと思しき獣魔が村の中まで足を踏み入れた様子がないんです。これは足跡を見ればすぐにわかります。つまり彼は村の中で襲われてあそこまで連れて行かれたわけではなく、洞穴の入り口付近か、あるいはその中で獣魔に襲われたことになるんです。……村長さん。あなたは彼に採掘の開始を言いつけたのですか?」
「そ、そんなこと言うはずがない! それはあなたに獣魔の退治をしてもらってからのつもりだったんだ!」
「……」
リージスが村長を睨みつける。
が、やがて眉間に深い皺を寄せながらティースに向き直った。
「……それで?」
「亡くなった彼がどうしてあんなところにいたのか……それも今となってはどうでもいいです。僕がデタラメを言っているのだと思ってもらっても構いません。ただ、あなたが連れてきた皆さんに――あなたも含め、決して洞穴に近付くことのないよう改めて伝えてください。僕は――」
ティースは奥歯を噛み締め、グッと拳を握り締める。
「とにかくこれ以上犠牲者を出したくない。協力をお願いします」
「……」
リージスはやや納得できない表情のままでティースを睨むようにしていたが、やがて軽く唇を噛み、何かを振り切るようにして背中を向けると、来たときと同じように荒々しい足音を立てて部屋を出て行った。
そんなリージスを見送って、ティースはなんともいたたまれない気持ちになる。
……無惨な死体だった。理由はどうあれ、仲間の死に納得できないリージスの気持ちはティースにも理解できる。
そんなリージスが去ると、アルフレッドは彼の剣幕がよほど恐ろしかったのか安堵の息を吐いて、
「ふぅ、まったく。気持ちはわからんでもないが、私に八つ当たりされても……ねぇ」
「……村長さん」
ティースは、リージスの背中を見送った視線をそのままアルフレッドのほうへ移動させると、
「お願いがあります。僕らが泊まっている家を変えさせてください」
アルフレッドは疑問に眉をひそめて、
「というと?」
「洞穴から一番近い場所にポツンと建っている家があると思います。人が住んでいるようでしたが、そこを空けてもらいたいんです」
「ああ……なるほど」
アルフレッドはティースの意図を察したらしく、ふむ、ふむと二度ほど頷いて、
「また洞穴から獣魔が出てこないとも限りませんし、我々としてもそのほうが有難いですが――」
言葉を切って、くるり、と後ろを振り向いた。
「アメーリア。構わないかな?」
「……君の家だったのか」
少し驚いてティースがアルフレッドの後ろに佇む少女を見ると、
「ヴァルキュリスの山々に祈りを捧げる仕事がありますので出て行くことはできません。ただ、ティーサイト様が宿泊なさることについては特に問題はありません」
と、アメーリアは答えた。
ティースは少し難色を見せて、
「できれば君にも離れた場所に避難してもらいたいんだけど――」
「できません」
抑揚のない口調ながら、きっぱりとアメーリアはそう言った。
……どうやら説得は難しそうだった。
アルフレッドが間に割って、
「あの家はもともと四、五人は楽に生活できるだけの広さがあります。私の口から巫女としての仕事を放棄しろとも言えませんので、どうかこの子の言うとおりにしてはいただけませんか」
と、ようやく戻った好々爺の笑顔でそう言った。
「この子も何かティーサイト様をおもてなししたいと、昨日から言い続けておることですし――ああ、いや、別に昨晩のようなことを言っているのではありません。それについては私からもキツく叱ってやったところですから」
いまさら言わなくてもいいことを――と、ティースはアルフレッドを恨みたい気持ちになったが、幸いその話題が続くことはなく、
「今日の夕食はこの子に振舞わせましょう。こんな辺ぴな村で気の利いた料理が出せるわけではありませんが、こう見えてなかなかの腕前でして」
普段は振舞う相手もいないのですがね――と、アルフレッドはまた一人で笑った。
ティースがアメーリアを見ると、彼女は無言で小さく頭を下げる。
……仕方がない、と、ティースは覚悟を決めて、
「わかりました。サポートの二人も一緒に泊まりますので、あとで三人分の寝床を用意させてください」
「ベッドはあります」
アメーリアがそう言うと、アルフレッドが補足して、
「少し前までこの子の母と叔母、妹が暮らしておりましたので、ちょうど三人分の空きがあります。……掃除はしてあるのか?」
アメーリアが頷くのを見て、
「そうか。だったら……ティーサイト様。手荷物だけ持っていっていただければすぐにでも泊まれる状態です」
「わかりました」
アメーリアの表情を窺いながら、ティースは頷いた。
……一年ほど前に火事で三人の家族を亡くした、というのはどうやら事実だったらしい。
その話題が出た瞬間、ティースは思わず彼女の表情を窺ってしまったのだが、特に目に見える変化はなかった。
彼女の中ではもう整理されている出来事なのだろう。
そんなことを考えながら、ティースは視線を横にスライドさせて外を見る。
(日が沈むまで、あと三時間弱ってとこか)
その三時間の間にやるべきことを頭の中で思い描きつつ、
「では早速準備します。洞穴に入るのは予定どおり明日、日が昇ってすぐになるかと思います」
そう告げると、アルフレッドは深々と頭を下げて、
「よろしくお願いします。……アメーリア。くれぐれも失礼のないようにな」
「はい」
相変わらず淡々とアメーリアは頷いた。
洞穴の入り口を見張らせていたリィナとエルレーンに今後の方針を伝え、ティースはその足を村の南側、村の入り口ともいうべき辺りへと向けていた。
向かった先にあったのは、小屋のような小ぢんまりとした家だ。
軒には根菜が干してある。
脇には小さな畑と、元は畑だったらしき大きな荒れ地。
入り口の階段を三段上がる
足を乗せるたび、ギィ、ギィと壊れそうな悲鳴を上げた。
腐りかけの木製の扉を軽くノックすると、家の中からはしわがれた老婆の声が返ってくる。
「どちら様で?」
「はじめまして。ティーサイト=アマルナといいます」
「ティーサイト様? ああ――」
ギシギシと足音がして、玄関のドアが向こうから開く。
「あ……」
「はじめまして、ではありませんね。デビルバスター様」
そこから顔を出した老婆はそう言って、顔中が皺だらけになるほどに破顔する。
「あなたでしたか。昨日はどうも」
その老婆は、ティースがこの村に来たとき、村長の家まで案内してくれた人物だった。
「少しお伺いしたいことがありまして。お時間をいただいてもいいですか?」
「私に? はて、なんでしょう?」
不思議そうな顔をしながらも、老婆はどうぞどうぞ――と、ドアを大きく開いてティースを中に招き入れる。
老婆の後に続き、ティースは家の中に入った。
狭い家だった。居住スペースは六畳ほどだろうか。右手にベッドがあって、左手の暖炉には小さな火が灯っている。暖炉の前には真ん中に大きな亀裂の入った木のテーブルと、切り出したままの形の木製の椅子。
「どうしましょう。何かおもてなしできればよかったのですが、あいにくと今は何も用意できておりませんで――」
「ああ、いえ、お構いなく。お話を聞きたかっただけですから」
困った顔の老婆に、ティースは軽く手を振ってそう答える。
すみませんねぇ、と言って、老婆はテーブルに手を付きながら椅子の上に腰を下ろした。
歳は六十歳ぐらいだろうか。少し腰が曲がっているものの、この年齢にしてはしっかりとした足取りだった。
「それでお話というのは?」
「午前中にもエル――私の仲間が色々とお話を伺ったかと思いますが……」
エルレーンによると、この老婆は、あの洞穴“ヴァルキュリスの顎門”に入ることに対して否定的な発言をした人物らしかった。
それだけではなく。
「あなたは先代や先々代の巫女と親しい仲であったと伺いました」
「……親しいだなんて、恐れ多いことです。ただ、巫女様が何かと気にかけてくださっただけ。先々代の巫女様と同じ年に産まれたというだけのことです」
「その、先代の巫女が亡くなった一年前の火事のことも、あなたから聞いたと伺いましたが……」
そう尋ねると、老婆は肩を震わせた。
「あれは――天罰です」
「天罰?」
「村人たちの無信心にヴァルキュリスが怒った結果なのです」
「……亡くなったのは巫女とその親類だと聞きましたが」
「巫女様が村人の代わりになって、怒りをその身で受け止めてくださった。その結果あのような恐ろしいことに……」
痛ましいことです――と、老婆は目を伏せた。
ティースは続けて尋ねた。
「ヴァルキュリスの顎門というのは、神聖な場所なのですね?」
「私などには詳しいことはわかりません。ただ、巫女様が年に一度、ヴァルキュリスと意志を交わすために訪れる場所だと、そう聞かされておりました。巫女様以外の者が足を踏み入れると、ヴァルキュリスの怒りがたちどころに村を襲う、と」
「そのことは今も、村の皆さんの共通の認識なんですか?」
「今の人はあまり信じておらんようです」
「そうなったのには、何か原因が?」
「それは……」
そう言って老婆は暖炉に灯った小さな火に視線を移す。
「……わかりません」
「そうですか」
嘘をついているようにティースには思えたが、それを追求することはしなかった。
その代わりに尋ねる。
「村の人がそれを信じなくなったのは、だいたいいつ頃からなんです?」
「……十五年ほど前、でしょうか」
「わかりました」
ティースが聞きたかったことは、それでほぼすべてだった。
それが今回の件にどう関わるのか、そもそも関わりがあるのかどうかさえもわからない。
ただ、いくつかの疑問が解けたことだけは確かだった。
「……デビルバスター様」
礼を言って立ち上がったティースを、老婆が呼び止める。
「この村は、ヴァルキュリスの怒りで滅んでしまうのでしょうか……?」
「……それは僕にはわかりません。ただ、どうなるとしても、それはヴァルキュリスなんかじゃなく、人間の意志によるものでしょう」
たった今聞いた話によって、古くからあの洞穴で金を掘っていた――という村長の嘘はもう明白となった。
ただ、その嘘を表に晒す気はティースには今のところない。それが悪いものなのかどうかも判断はできない。
何もせずにいれば村が衰退する一方であることは明らかで、村長の嘘はおそらく――それが全体を思ってのことか個人の利権を守るためかは別として――村を存続させるためのものだろう。
村をどうするかは村人たちの考えることだ。
今のままが幸せな者もいれば、資金を手にしてさらなる発展を願う者もいる。……中には、村が無くなってしまったほうが幸せになれる者もいるのかもしれない。
いずれにしても、それは部外者であるティースの口出しするところではなかった。
ただ。
ティースは不安そうな顔の老婆に向かって、言った。
「僕はただ、魔の被害が村の皆さんに及ばないよう全力を尽くすだけです。……僕は魔を狩る者――デビルバスターですから」
アメーリアの家はスピンネルの村の最北端、ヴァルキュリスの顎門の入り口から歩いて五分弱の距離にあった。
ティースが旅の荷物をまとめてやってきたのは、日が沈む一時間ほど前のことで、どうやら三人の中では一番最後のようだった。
その家は他の家とは明らかに装いが違っており、建物自体、村長の家と同じようなしっかりと造りになっている他、家の周囲は高さ二メートルほどの木の柵に囲まれていて、その入り口には錠がかかるようになっている。
その光景は、今がどうであれ、ヴァルキュリスの巫女がこの村にとってどれほど特別だったかを如実に表したものといえるだろう。
柵の入り口には鍵がかかっていなかった。
ティースはそれを押し開けて、そのまま中へ入っていく。
しっかりとした階段を三段上がり、綺麗な木製のドアを手の甲で軽くノック。
「ティース様?」
先に到着していたリィナが顔を出し、家の中へと招き入れられる。
広い家だ。
入ったところは十二畳ほどの広さ。右手に二つ、正面に一つ、おそらくは各部屋に続く扉があり、左手の奥からは人の気配と食欲をそそる匂いが漂ってきていた。
「ティース様の寝室はこっちです」
と、リィナが右手の手前の扉を開ける。
中にはベッドと寝具以外に何もなかったが、一人で泊まるには充分だ。
荷物を置いて、
「エルとアメーリアはあそこ?」
と、部屋を出て正面の奥まったスペースを指す。
「仲良く夕食の準備をしてますよ」
「仲良く?」
「はい。アメーリアさんはそういったことに興味があるみたいで、エルさんが色々と。といってもお屋敷と違ってここの設備でできることは限られているみたいですけど。……どうしたんですか?」
「あ、いや」
微笑みながら話すリィナの顔を思わず凝視していたことに気付き、ティースはそんな彼女から少し視線を逸らして、
「こんな短時間で、ずいぶん打ち解けたんだなと思ってさ」
「え? ……あ」
リィナは彼の疑問をすぐに悟ったらしい。
少し苦笑いして、
「私も最初は警戒してたんです。昨晩あんなことがありましたから。でも……」
と、厨房らしき場所に視線を移動させる。
そこからはエルレーンの明るい声と、相変わらず物静かなアメーリアの声が聞こえていた。
「少し話をしたら、すぐに悪い人じゃないとわかりました。……やっぱりティース様がおっしゃっていたように、私などにはわからない理由があったのですね」
「……そっか」
リィナとアメーリアのことについては、ここに泊まる上での一番の懸念だっただけに、屈託のない彼女の笑顔を見て、ティースはホッと胸を撫で下ろしたのだった。
と、そこへ、
「あ、ティース!」
エルレーンが奥から顔を覗かせる。
その後ろからはアメーリアが、金属製の鍋らしきものを携えて姿を現した。
どうやら今日の夕食は煮込み料理らしい。少し冷え込んでいるこの夜にはもってこいだ。
ティースは視線をアメーリアに向けて、
「こんばんは、アメーリア。どのぐらいの期間になるかわからないけど、お世話になるよ」
「はい。たいしたおもてなしはできませんが……」
そう言ったアメーリアの顔は、川で笹舟を流していたときの幼い彼女のものだった。
自宅だからか。
あるいはエルレーンやリィナと打ち解けたからなのか――。
ティースは、そんな彼女の歳相応の表情を見て、やけに安堵している自分がいることに気付いた。
――どうやら彼は、自分が思っている以上にアメーリアのことが気にかかっているようだ。
村長の傍らに佇む彼女。
川で笹舟を流していた彼女。
老婆から聞いた話。
この村における立場。
……彼女にとっての幸せ。
ハッと頭を振って、ティースはそれらの考えを吹き飛ばす。
――それもまた、この村の行く末と同じ。部外者の彼が無闇に口を出すことではないのだろう。
そんな自分を誤魔化すように、ティースは口を開いた。
「準備も出来てるみたいだから、早速夕食にしようか。俺も腹ペコだよ」
そんな彼の提案に反対する声はもちろんなく。
鍋の中身は野菜と鶏肉のシチューだった。
この村で鶏肉はかなりの贅沢品だろうとティースは思ったが、そのことは口には出さず、ただ美味であることを伝えるとアメーリアはほんの少しだけ表情を崩した。
そして、
「どうぞ」
「……え?」
お代わりをよそったアメーリアが突然、鶏肉の乗ったスプーンをティースの鼻先に突き出してくる。
ティースは困惑して、
「あ、いや。そういうのは――」
「熱いのは苦手ですか?」
勘違いしたのか、アメーリアはいったん息を吹きかけて冷ましてから、再びそれをティースの口元へ差し出してくる。
「いや、そういうことじゃなくて。自分で食べられるから……」
ティースがそう言って断ると、アメーリアは困った様子で、
「させてください、ティーサイト様。私には本当にもう、このようなことでしか貴方に報いる手段が見つからないのです」
「だから――いや」
さらに断ろうとして、彼女の表情を見たティースはそれを考え直す。
(……昨晩みたいなことがあるよりはマシか)
どうやら彼女は本当に、彼に対して何かしら報いたいと考えているようだった。とすれば逆に、無茶なもの以外は叶えてあげたほういいのかもしれない――と、ティースはそう考えて、
「じゃあ、一口だけ……」
そう断って、彼女の差し出したスプーンに口を付ける。
……相手が十四歳の子供だとわかっていても、恥ずかしさで心臓の鼓動が速さを増した。
いや。
十四歳といってもアメーリアは大人びた外見をしているし、そもそも十四歳は状況によっては充分に大人と扱われてもおかしくない年齢である。それでもティースが彼女のことを子供と表現するのは、ただ単に、彼自身が彼女のことを子供と思い込みたいだけなのだ。
すぐにパッと顔を離し、咀嚼してゴクリとそれを飲み込むと、
「……うん。おいしい」
正直なところ、味を感じている余裕はなかった。
それでも、ホッと胸を撫で下ろすような仕草をしたアメーリアを見て、こんなに喜んでもらえるなら多少恥ずかしいぐらいはいいか――と、ティースは考えてしまう。
どこまでもお人よしな男なのであった。
――と。
「……」
一人。
そんな彼らの様子を不思議そうに見つめている者がいて。
「ティース様――」
「……え」
別の方向から、やはり同じように差し出されたスプーン。
何が起きたのかと、ティースはそのスプーンの先にいる人物を見て、
「リ、リィナ? いったい何の真似だ?」
「どうぞ、ティース様」
ニッコリと笑顔を浮かべたリィナがそこにいた。
まるで邪気のない聖女の微笑み。
その隣でエルレーンが、あちゃぁ……という顔をしている。
「食事を食べさせるという行為は看護のときばかりではなかったのですね。……考えてみれば、看護は愛情をもって行うものですし、もっと早くに気付くべきでした。すみません」
「い、いや、どちらかというと元の考えのほうが正し――」
「どうぞ、ティース様。……あら?」
横からもう一つのスプーンが差し出される。
「……」
アメーリアが無言でティースを見つめていた。
「ア、アメーリア……」
さぁっとティースの血の気が引いていく。
「い、いや、だから一口だけって――お、おい、エル! 二人に何か言ってやってくれ!」
「……ボクも参加したほうがいい?」
仕方ないな、という顔をしながらも、エルレーンはティースをからかうように悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「じょ、冗談はやめてくれ! 誰か――」
と。
そんな助けを求めるティースの叫びが聞こえたわけではないだろうが――
「邪魔するぜ! デビルバスターの兄ちゃんは――」
ノックの後、返事も待たずに入ってきたのはリージスだった。
その乱暴な闖入者は室内を見回し、テーブルで繰り広げられている惨劇(?)に目を止めると、
「あれ。なんか悪いタイミングだったか?」
「そんなことないです! リージスさん!」
大義名分を得て、ティースは勢いよく席を立った。
「あ……」
残念そうな二人の声を聞かなかったことにして、ティースはリージスのもとまで歩いていくと、
「そ、それで。突然どうしたんですか、リージスさん?」
「……なんだ。美女を三人侍らせていい気分になっていたのかと思いきや、そういうわけでもなかったみてぇだな?」
昼間のような剣幕はなく、それどころかリージスは軽い口調でニヤリと口元を緩めた。
「揃って俺をからかってただけですよ……」
「俺ならその状況をきっちり楽しんでやるんだが、世の中上手くいかねぇもんだな。……兄ちゃんはアレかい。もしかして女嫌いってやつなのかい。男が好きって風にも見えねぇけどな?」
「そ、そんなわけ――って、そんなことより!」
「ん。ああ――」
リージスはまだテーブルの様子が気になっている風だったが、リィナとアメーリアが諦めて自分の食事に戻ったのを見て、再び目の前のティースに視線を合わせると、
「さっきのこと謝りにきたんだ」
「謝る?」
「あんたを嘘つき呼ばわりしたことだよ」
そう言って後ろ手にドアを閉める。
「どういうことですか?」
ティースがそう尋ねると、
「あれから仲間全員に問いただしたんだ。まさか目を盗んで金を掘りに行こうなんて考えてるヤツはいねぇだろうな、ってよ。……そうしたら」
苦々しい顔をしてリージスは視線を横に逸らした。
「一人、聞いてやがったんだ。死んだアイツが“それ”をやろうとしてたってことをさ。あまつさえ、そいつはアリバイ作りに協力してて、上手くいったら分け前をもらう約束もしてたらしい。……だから、あんたの言うとおりだった。アイツはきっと勝手に金を掘りに行ってそれでやられちまったんだ」
リージスは悔しそうだった。
おそらくは仲間を信じていたのだろう。それがあっさりと裏切られてしまって、しかしその相手はもうこの世にはいない。
その複雑な心中は、鈍い鈍いといわれるティースでさえ察して余りあるものだった。
「村長さんにも謝りに行ってきたとこだ。ウチの馬鹿が迷惑かけてスマン、ってな」
「……」
そんなリージスに対し、ティースはかけるべき言葉を頭の中で巡らせて、
「リージスさん――」
それを口に出そうとした。
が、それよりも早く、
「けど――」
リージスは悔しそうに唇を噛み締めて続ける。
「自業自得だし、アイツは俺が思ってたようなイイヤツじゃなかったかもしんねぇけど。でも、あんな無惨な死に方しなきゃならないようなヤツでもねぇ……俺は今でもそう思ってんだ」
「……はい」
その言葉はティースが彼にかけようとした言葉とほぼ同じだった。
そんなティースの両肩にリージスは軽く手を置いて、
「だから、頼む。アイツの仇をとってやってくれ。あんな暴言吐いた後でムシのいい話かもしんねぇけど……」
少し声が震える。
屈強な男の目が僅かに潤んでいるようにティースには見えた。
――仲間であること以外に、死んだ男とリージスがどんな関係だったのかティースにはわからない。が、死者の無念を思うリージスの心は、ティースの琴線を充分に震わせた。
「もちろんです、リージスさん。犠牲になった人の無念を晴らし、生きている人をその脅威から守る。……それが僕らデビルバスターの仕事ですから」
「……頼む」
グッ……と、一瞬だけティースの肩を強く握り、リージスは離れた。
「俺に協力できることがあったらなんでも言ってくれ。足手まといにしかならないかもしれんが、暴言吐いちまった借りもあるしな。……嬢ちゃんたちも、邪魔したな。今日はもう来ねぇから存分にさっきの続きでもやってくれや」
「ちょっ……リージスさん!」
「んじゃな」
最後に意地の悪い笑みを浮かべて、リージスは出て行った。
「……まったく」
どうして自分はこうも他人にからかわれるのだろうか――と、ティースは理不尽な思いをしつつも、先ほどのリージスの表情を思い出し、明日からの戦いへの決意を新たにするのだった。
なお、幸いにしてその日、リージスの言う“続き”が行われることはなかったが、リィナは終始、残念そうな顔でティースを見つめ続けていたようである。