その3『ヴァルキュリスの巫女』
「本当に失礼いたしました!」
「は、はぁ」
翌日の朝、ソファに座った自らの膝よりも低く頭を下げて謝罪する村長、アルフレッドに対し、ティースは困惑の表情を浮かべてそう呟くしかなかった。
昨日と違い、村長の後ろに彼女――アメーリアの姿はない。
「あの娘はなんといいますか、いきなり突拍子もない行動をすることがありまして、それであのような真似を。どうかご容赦ください」
「……」
ティースは何も言えずに村長から視線を逸らす。
――昨晩の出来事については、何が起きたのかよくわからないというのが正直なティースの気持ちである。彼が覚えているのは、彼の寝所にアメーリアらしき人物がやってきたというところまでで、そこから先のことは気絶してしまったためほとんど記憶にない。
ただ、ティースの悲鳴を聞いてすぐに駆けつけたエルレーンとリィナの話によると、発見時のアメーリアは身に何も纏わぬ姿だったらしく――その辺りは彼もおぼろげに記憶していたが、話を聞くまでは肌色の襦袢か何かを着ていると思っていた――彼女らに発見されたときは、気を失ってしまった彼のことを不思議そうに見下ろしていたのだという。
いったい何が目的だったのか。
いや、何をするつもりだったのかという点については、あの年頃の娘が裸で男の寝所に忍び込んできたのだから、いくら女性に免疫のないティースでも想像することはできた。
問題は“何のためにその行動を起こしたのか”という点である。
「ヴァルキュリスの巫女という立場上、村の男と接触する機会のない娘ですから。外から来た貴方に、まあ、いわば一目ぼれでもしてしまったのでしょうな。それで衝動的にあのようなことを」
「……はぁ」
アルフレッドの言葉に気のない返事をするティース。
普通であればその発言に多少なりとも舞い上がってしまうのかもしれないが、残念ながら彼はそういった類の自惚れとはとことん無縁の男であった。
そんなことはあり得ない、と確信している。
つまり彼女があんなことをしたのには何か別の理由があるということだ。
「いや、しかしティーサイト様はさすがですな」
アルフレッドはただでさえ細い目がまったく見えなくなってしまうほどに表情を崩す。
「なんです?」
昨日は好々爺のように思えたその笑みが、今日は少し印象が違って見えた。
「意思がお強いということです。村の男たちはよく言っておるのですよ。あの娘は巫女にしておくのがもったいない女だ、と。あの娘に迫られて自制できる男など、ティーサイト様の他にこの村にはおらんのではないかな」
アルフレッドは声をあげて笑った。
「はあ」
ティースの場合は自制したわけでもなんでもなく、やむにやまれぬ事情から気を失ってしまっただけのことである。……ただまあ、気絶しなかったとして、彼がその据え膳に手を出せたかどうかはかなり疑問の残るところではあったが。
「ははは……おっと、こんなことを口にしてはヴァルキュリスの怒りを買ってしまいますな。くわばらくわばら」
「はあ」
どんな言葉を返せばいいものかわからず、ティースはオウムのように同じ言葉を繰り返した。そうしながら、胸の中に起きていた疑問の回答を見つけるべく頭を回転させる。
昨日も感じていたことだったが、やはりアルフレッドの言葉からは、ヴァルキュリスや、その怒りを鎮める役目を担っている巫女に対する敬意のようなものは感じられなかった。
そしてそのことはティースの胸に一つの疑念を呼び起こす。
つまり、アルフレッドが、アメーリアの昨晩の行動の理由を知っているのではないだろうか、ということだ。
はっきりとした根拠があるわけではない。ただ、彼女の行動に隠された目的があるという前提に立てば、その目的はティースがこの村に呼ばれたことと関係があると考えるのが自然だ。そしてディバーナ・ロウへ依頼をしてきたのはアメーリアだが、昨日、真っ先にこの家に案内されたことからわかるように、実質的な依頼主は村長のアルフレッドだと考えていいだろう。
とすると、昨日の彼女の行動について彼がまったくの関係がないとは思えないのである。
ただ、
「……それはそうと。今の状況について詳しいお話を聞かせてください」
その疑念はおくびにも出さずに、ティースは話題を変えた。
すべては薄い憶測に過ぎなかったし、獣魔を退治するために呼んだ彼に危害を加えようとした可能性も今のところは低い。
ならば、あえてこの場で追求する必要はないだろうという判断だった。
「ああ、そうでしたな」
アルフレッドは自分しか笑っていなかったことにようやく気付き、こほんと咳払いをする。
「獣魔が現れるようになったのは一ヶ月ほど前のことです。採掘に行っていた若者が三人、怪我をして洞穴から出てきたのが最初でした」
「洞穴というのは?」
「後ほど見ていただきますが、村の北側、ヴァルキュリス山脈に近いところにある洞穴です。中はかなり深くヴァルキュリス山脈の奥にまでつながっているとされています」
「村の中にも獣魔が現れていると聞きましたが……」
「ああ、ええ。ただそれは一度だけです。一度だけ、洞穴から村の中に出てきた獣魔がいました。それでいよいよ放っておけないということになり、ティーサイト様をお呼びした次第です」
「被害の状況はどうなんです?」
「被害にあったのは採掘を行う若い男ばかりです。十三人やられています」
「やられたというのは――」
ティースはいったん言葉を切って、
「命を落とされた、という意味ですか?」
「あ、いえ。幸い、命を落とした者は一人もおりません。村の男どもは小さい頃から体をよく動かしておりまして、一人で熊を狩る者もおるほどですから、みな、どうにか逃げおおせております。獣魔が相手となるとさすがに逃げ足を生かすしかなかったようですが」
「そうですか」
ティースはホッとする。
これから何人もの遺族の話を聞きにいかなければならないのかと少し憂鬱な気持ちになっていたところだ。
「ところで――」
もう一つ。
確認のためにとティースは尋ねた。
「採掘といいましたが、なにが掘れるんです?」
「それは――これです」
アルフレッドはソファから腰をあげると、棚から親指の先ほどの小さな鉱物の塊を取り出してティースに見せた。
「金、ですか」
人差し指と親指の間で鈍い輝きを放っている金色の石。
リージスから聞いた話と一致している。
「この村唯一の収入源と言っても過言ではありません。これが採れなくなるとこの村はおしまいです」
アルフレッドはその小さな塊を大事そうに棚の中へ戻し、ソファへ戻る。
「ティーサイト様。どうかお願いです。また金の採掘ができるよう、洞穴に住み着いた獣魔を退治してください。報酬は……このとおり貧乏な村ではありますが、可能な限りの金額をお支払いさせていただきますので、どうか」
再び、膝よりも深く頭を下げるアルフレッド。
「あ、いえ、そんなにかしこまらないでください」
禿げ上がったその後頭部を見せられて、ティースは逆に恐縮しながらアルフレッドの頭を上げさせた。
「報酬については事前にお伝えしてあるとおりです。それ以上いただくつもりはありません」
ディバーナ・ロウの各部隊はその活動資金を少しでも補うため、依頼主から報酬を受け取ることを基本としてはいるが、他のデビルバスターたちと比べて安い料金を提示する場合がほとんどだ。
その中でも彼のディバーナ・クロスは最初から人助けを一番の目的としていることから、他のディバーナ・ロウの部隊と比べても依頼料はさらに安く、相手の経済状況によっては無償で働くことも珍しくはない。
だからティースは報酬の多寡を交渉するつもりなど最初から微塵もなかったのだ。
――その後、今日一日は獣魔に襲われた男たちの話を聞くことや、洞穴の場所、状況などについての情報収集に費やすことについての了承をもらい、本格的な獣魔退治は明日から始めるということで話し合いを終えた。
さらさら、さらさら、という音が聞こえてきてティースはふと足を止めた。
このスピンネルの村には道らしき道が一本しか作られておらず、昨日も今日もティースはこの道を往復していただけだったのだが、村長の家からティースが借りている空き家の前を通り過ぎた後、道を脇に逸れ、ヴァルキュリスの山々を正面に見ながら獣道のような草むらを二、三分歩いていくと、村を斜めに横切るように流れている小さな川を見つけることができた。
澄んだ色の綺麗な川だ。ヴァルキュリスの山々から流れてきて、どこへ向かっているのだろうか。
(リィナだったら水の精霊みたいなものに聞いたりできるのかなぁ。……ああ、精霊じゃなくて神気、だったっけ)
川端に座り込んで澄んだ水を掬い上げる。獣魔の毒を判別する“毒見草”をそこに浮かべてしまったのはデビルバスターとしてのほぼ無意識の行動だった。
もちろん異常はない。
その水で軽く喉を潤し、膝に手をついて立ち上がる。
腰の剣がカチャリと音を立てた。
すると、
「……ん?」
水の撥ねる音。
音の方角に視線を向けたティースは、川の上流側に人影があることに気付く。
(あれは――……)
しばし逡巡した後、ティースは軽く決意を固めてその人物のもとへと近付いていった。
「アメーリアさん。……こ、こんにちは」
「?」
昨日と同じ奇妙なデザインの衣装。土色の服に雪の結晶のような模様――と思っていたが、近付いてよくよく見てみると、それは雪の結晶ではなく、細長い三日月が四つ絡み合ったような奇妙な模様だった。
ヴァルキュリスは“地の四族”であり、土色の服はおそらくそれを表現しているのだろうと思ったが、この模様についてはどういう意匠なのか不明である。
「こんにちは、ティーサイト様」
昨日のことがあって、ティースなどは話しかけるのにそれなりの勇気を必要としたのだが、一方の彼女は特に気まずく思っているわけでもないらしく、昨日、村長であるアルフレッドの後ろに佇んでいたときとまったく変わらぬ態度だった。
そんな彼女の態度に、ティースは一瞬、昨日の出来事はすべて夢の中の話で、リィナやエルレーン、村の全員で自分をからかっているのではないか――なんてことを思ってしまったが、もちろんそんなことはあろうはずもない。
ただ、彼女のそういう振舞いは、ティースにしてみればありがたいことだった。
「なにをしているんだい?」
いくぶん気が楽になって、そう尋ねる。
川端にかがみこんだアメーリアは手に緑色の何かを持っていた。
「笹舟を流していました」
「笹舟?」
「はい。ティーサイト様もいかがですか?」
と、アメーリアは手にした笹舟をティースのほうへ差し出してくる。
「……あ、えっと」
どうしたものかと思いつつも、ティースは恐る恐るそれを受け取った。
「これは……あれかい? 巫女としての、神事みたいなものなのかい?」
「いいえ。ただの暇つぶしです」
「あ、そうなのか」
果たしてこんなことで暇が潰せるのだろうか、とティースは疑問に思ったが、手際よく笹舟を折っていく彼女の仕草を見て、逆にこういう単純作業のほうが暇つぶしには最適なのかもしれないと思い直した。
そしてふと。
「……?」
見下ろした彼女の白い首に鎖のようなものが巻かれていることにティースは気付いた。
一瞬昔の奴隷が巻いていた首輪のようなものを想像してしまったが、よくよく見てみるとそれほどゴツイものではなく、どうやらペンダントか何かの首鎖の部分が覗いているだけのようだった。
早とちりだったことにホッと胸を撫で下ろして視線を逸らし、今度はもらった笹舟を目線の高さまで持ち上げる。
その出来栄えに感心していると、やがて舟の中に白い花びらが乗っていることに気付いた。
「この花は?」
「そこで咲いていた花です。名前は……わかりません。ただ、誰か乗っていないと舟も寂しいだろうと思ったので」
「ふーん」
やはり少し変わった女性だ、とティースは改めて思った。
ただ、
「ところでさ」
一つだけ、昨日までと印象の違っていたところがあり、ティースはそれを尋ねてみることにする。
「君、歳はいくつなんだ?」
アメーリアは少し不思議そうにティースの顔を見上げたが、すぐに視線を正面に戻し、ポツリと呟くように言った。
「十四歳です」
「十四、か……」
昨日のティースであればその回答にビックリし、間違いかと思って聞き直していたかもしれない。
が、今なら少し納得できた。
(……昨日とはまるで別人だ)
川を見つめながら細い指で笹舟を折るその横顔には、昨日、村長の後ろで控えていたときや、その後ティースの寝所に忍び込んできたときには見られなかった幼さがありありと浮かんでいたのだ。
(十四歳ってことはセシルと同い年だな……)
ミューティレイクにいる、動物に異常に好かれる少女のことを思い出す。アメーリアはその少女よりはだいぶ大人びて見えたが、それでも同い年だと言われれば、ああ、そうなのかと納得できる範囲だった。
「……」
ティースは無言でアメーリアの隣にかがみこみ、もらった笹舟をそっと川に浮かべる。舟は緩やかな流れに乗り、右へ左へ、ときには回転しながらフラフラと下流のほうへと流れていった。
横を見ると、アメーリアがその舟の動きを視線で追っている。
「昨日は……どうしてあんなことをしたんだ?」
決意して、ティースはその話題を口に出した。
それが歳の近い女性だったら恥ずかしくて聞けなかったかもしれない。だが、相手が六つも年下の、ティースにとってはかろうじて“子供”といえる年齢の少女だとわかったことで、彼の中では照れよりも保護欲のようなものが上回るようになっていた。
アメーリアはティースの顔を見ずに、
「お礼です」
「お礼?」
「ティーサイト様はこの村を救ってくださる方ですから。喜んでいただけると思ってやりました」
「……それは君の考えで?」
「はい。そのための作法は母から学びました」
「……」
「どうしました?」
少し呆気に取られていたティースを、アメーリアの深緑色の瞳が不思議そうに見つめた。
「あ、いや。ごめん。なんだか……俺の知ってる同じ年頃の子たちとは言うことがずいぶんと違っていたものだから」
無言で視線を正面に戻すアメーリア。
気分を害したのかと思ったが、
「それはきっと私が特別なのでしょう。巫女は村の男と子を成すことを禁じられています。ですから数少ない外からの客人が来る日に備え、小さい頃からそういったことを教わるのです。母もそうでしたし、私も妹もそうして産まれました」
淡々と述べるアメーリアの顔から先ほどまでの幼さが少しずつ抜け落ちていく。
ああ、昨日の貌だ――と、ティースは思った。
「村の外から来た男を婿として迎え入れる、ということかい?」
「いいえ。巫女が人間の男と婚姻を結ぶことはありません」
ティースは眉間に少し皺を寄せて、
「じゃあ、お父さんは?」
「少なくともこの村の中にはいません」
「……」
なんとなく理解した。
――ヴァルキュリスの巫女と呼ばれる彼女たちは、婚姻を結ぶことなく跡を継ぐ子を授かる。おそらくは建前上、それは人間の子ではない、ということなのだろう。相手を村の外から来た男に限定するのは、それらの神秘性を確保するためだ。
それが現在、村人たちにどの程度信じられているのかは別として――
「じゃあ、昨日のことも?」
自分が“そういう男”だったら、あるいは次代の巫女の父親になっていた可能性もあるのだろうか、なんて、そんなことを考えながらティースはそう尋ねたが、
「いいえ、昨日のことはただのお礼のつもりでした。……結果としてそうなっていたかもしれませんが、それはそれで構わないことでしたから」
「そういうものか……」
ティースは神妙な顔で川の流れを見つめる。
彼にとってはいまいちピンと来ない考え方だった。ただ、そういう風習もあるのだと理解できる程度の思考の柔軟性は持ち合わせている。
と。
アメーリアはそんなティースの横顔を見つめて、
「もしティーサイト様が受け入れてくださるのであれば、今晩、また――」
「あ、いや。それは……ごめん」
無理な相談だった。
もちろん女性アレルギーという特異体質が一番の理由だが、それだけではない。
「俺はその、君たちの考えと相容れないのはわかってるけど、女の子はやっぱり好きな男と一緒になって、好きな男の子供を産むのが一番だと思ってるから。俺は男だけど、そういう風に考えてるし、みんなそうであって欲しいと思ってるから……だから、無理だ」
「……残念です」
つ――、と、アメーリアは指先を川の上に伸ばし、笹舟を浮かべる。
「私には他に、貴方様に報いる手段がありません」
「君がそんなこと気にする必要はないよ。仕事の報酬はきちんともらうんだからね」
「……」
アメーリアは無言でゆっくりと立ち上がると、裾に付いた砂を軽く払った。
ティースに向き直り、そして深々と頭を下げる。
「この村をよろしくお願いします。ティーサイト様」
「あ、ああ……」
最後は大人びた――巫女の貌でそう言って、アメーリアは小走りに立ち去っていった。
村を一周し、獣魔が出るという洞穴の入り口付近までの確認を終えた頃、時間は正午を過ぎていた。
村の人口は約五十人程度と聞いていたし、けが人も多数いるはずだから、村の中でほとんど人と出会わなかったのは想像していたとおりだったが、廃屋らしきものが目立つのが気になった。廃屋がたくさんあるということは人が減っているということだろう。
中には、火事か何かで焼けた家がそのまま残されているものもあった。
(獣魔が出たこととは関係なさそうだけど……)
廃屋はいずれも、大昔のものではないが、つい最近まで住んでいたという感じでもない。数年から十数年といったものが多いようだ。
つまり人口の減少は何かのきっかけで一気に、というわけではなく、徐々に減っていっているものだろう。
しかし――と、ティースは疑問に思う。
確かに最近はネービス領でも大都市近郊への人口の集中が進んでいて、特に目玉となる産業を持たない辺境の村々はどこも人口の減少が続いている状態だと聞く。このスピンネルの村は地形的にも不便なところだし、地理的な条件からいえば人口が減少することは不思議なことではない。
ただ、村長のアルフレッドが言っていたように、この村ではどうやら金が採れるようだ。
それがどの程度の量なのかはわからないが、その事実だけで村にやってくる人間はいくらでもいそうなものである。
そういった外の人間を締め出す風習でもあるのか。
あるいは――人が寄ってこない何らかの理由があるのか。
「――あれ?」
そんなこんなで、昼食がてら、朝から情報収集に動いてもらっていたリィナたちと合流しようと家まで戻ってきたところ、中で何やら人の動いている気配がしていた。
村人が掃除でもしてくれているのだろうかと思ったが、聞こえてきた声ですぐにそうではないことを悟る。
「……だから。ボクは別に止めないけど。ティースはきっと困った顔すると思うよ?」
「どうしてですか? 私はただ――」
聞こえてきたのはエルレーンとリィナ、二人の声だ。
嫌な予感がして、ティースは家のドアを開ける。
「あ、ティース様。おかえりなさい」
リィナは何故かベッドを運び込んでいる最中のようだった。
長身とはいえ華奢な体つきの彼女が重たい木のベッドを一人で運んでいるというのはなかなか異様な光景だったが、ティースとしては気になったのはそっちのほうではなく、
「リィナ……なにしてるんだ?」
「なにって――」
当然といわんばかりの顔でリィナは答えた。
「今晩からは私もこちらに泊まります。また昨晩のような襲撃があったら困りますから」
予想通りの返答に、ティースはちょっと顔を青くして、
「ちょ、ちょっと、それはまずいよ……」
「なにがまずいんですか?」
いつもにこやかなはずのリィナの表情が、今日はどことなく硬いように見えた。あまり機嫌が良くないようだ。
「なにがって。おい、エル――」
ティースは助けを求めてリィナの隣にいるエルレーンに視線を送ったが、彼女は仕方なさそうに肩をすくめてみせただけだった。
どうやらすでに説得を試みた後で、それでも効果はなかった、ということらしい。
「ティース様の安全を守ることは私の使命です!」
そんな二人のやり取りを見て、リィナが声を張り上げた。
いつも大人しい彼女のこういう態度は珍しいことだが、一度言い出したら聞かない頑固なところも彼女の一面である。
「いや、そうはいっても……やっぱまずいってば」
まあ、第三者の視点から見れば、この二人が寝所を共にしたところで“何か”が起きる可能性などゼロに近い――というより正真正銘のゼロであることはわかりきっていることで、当事者であるティースもエルレーンももちろんそう思っているし、リィナにいたっては、起きるかもしれない“何か”が何なのかすら予測できていない状態なわけだが――しかし。
そうであったとしても、ティースはそんな彼女の主張をすんなり受け入れるわけにはいかなかった。
理由は至極単純で、そんな状況ではとても心穏やかに睡眠を取れない、ということだ。
もちろん、旅の途中では彼女のそばで睡眠を取ることは珍しいことではない。が、その場合は大抵どちらか、あるいはエルレーンが起きて見張りをしているし、そもそも危険に対する緊張感もあるからそれほど意識することはない。
このように、暗く静かな家の中で二人きりになるのとは、まったく事情が違うのである。
「だって……ほら、着替えだって困るだろ。ここ広さはあるけど、仕切りがぜんぜんないんだし。わざわざ別の場所で着替えて寝巻き姿でここに戻ってくるのか?」
「それは――」
考えてなかったのかリィナは少し言葉を詰まらせたが、すぐに、
「ティース様の身の安全を守ることに比べたら些細なことです」
「いや、だから、昨日のは別に襲撃とかじゃないんだって。あれは――」
言葉に詰まる。
男女の仲やそういった行為について、人間とはかなりかけ離れた価値観を持つ彼女に対し、先ほどアメーリアから聞いた昨晩の行動の意味をどのように説明すればいいのか。
難しいことだった。
それに実際、そういった行為がすべて“子孫を残すために支払うべき代償”であり、男女を問わず、肉体的にも精神的にも苦痛を伴う“忌むべき行為”であるという彼らの価値観に照らし合わせてみれば、昨日のアメーリアの行いは確かに襲撃以外のなにものでもないのだ。
同じ人間であるアメーリアとでさえ、認識の違いを埋めることはできなかったというのに。
さらに食い違っているリィナを納得させる自信はティースにはなかった。
と。
そんな理由から言葉に詰まっていた彼を見て、
「とにかく。この村に滞在している間、夜はおそばに控えさせてもらいますから」
リィナは再びベッドを運び込む作業に戻ってしまう。
そんな彼女にティースは困り果てて、
「……おい、エル、なんとかしてくれよ。昨日のあれは襲撃とかじゃないんだって、リィナに説明してやってくれ」
結局、もう一度エルレーンに助けを求めて耳打ちする。
リィナと違い、彼女は王魔と人間の両方の価値観を理解している希少な存在である。だから、その食い違いを上手く説明できるのは彼女しかいない――と、そう思ってのことだったが、
「……無理だよ。ああなっちゃったリィナはもう止められないもん」
諦めた顔でそう言った後、エルレーンはちょっと視線を逸らした。
「それに、その、ボクだって人間のそういうことは一般的な知識として知ってるだけで、あのアメーリアって子の気持ちがわかるわけじゃないし。人間の男はそういうのを無条件に喜ぶって聞いたこともあるからティースの気持ちだってホントのところわかんないし――」
「いや、俺は――っていうか、昨晩のことはここ特有の儀式みたいなもので、別に悪意とか変な意図があったわけじゃないらしいんだ。だからそこらへんの違いをリィナに説明して――」
「……だ、だからぁ」
エルレーンは不満そうに言った。
「ボクだって“そんなこと”をリィナに具体的に説明したりできないってば。……人間の知識があるんだから、なおさらだよ……」
「え……あ」
そっぽを向いたまま、顔を少し上気させている彼女を見て、
「す、すまん」
慌てるあまり、どうやら少々デリカシーのない発言をしてしまっていたようだった。
「もぅ……」
そして数秒――気まずい沈黙。
ガタガタ、と、リィナがベッドを動かす音だけがしばらく響いていた。
「……とりあえず」
コホン、と、沈黙を破ったのはエルレーンのほうだった。
「リィナのアレはもう認めるしかないよ。諦めよ?」
「いや、だけど――」
それでもどうにか抵抗しようとしたティースに、エルレーンは言った。
「だからさ。ボクも一緒にここで寝るよ。それなら少しは気が楽でしょ」
「え……」
そんな無茶苦茶な、と、思ったが、よくよく考えて、それは名案かもしれないと考え直す。
この状況で一番問題となるのは、ティースがリィナの存在を意識しすぎてしまうということである。だからエルレーンも一緒にいるとなれば――彼女には少々失礼な物言いかもしれないが、きっと緩衝材のような役割を果たしてくれることだろう。
「着替えはほら、ティースが後ろを向いていてくれればそれでいいよ。それは野宿するときとそんなに変わらないし」
「まぁ……」
雰囲気が違うので同じとは言い切れなかったが、もちろんティースはそれについて――多少理性を働かせて精神が削られる可能性はあるものの――邪な考えを抱いていたりはしない。
それに、いずれにしても――
ティースは振り返る。
リィナはベッドの設置をすでに終えていた。汗一つ掻いてないところを見ると、彼女にとってあの数十キロあるベッドを動かすのは、花瓶の位置を移動させる程度のものだったのだろうか。
(……仕方ないか)
ため息を吐く。
どうやら、彼女の意思を変えるのは難しい。となれば、エルレーンの提案を受け入れるしか道はなさそうだった。
「リィナ!」
と、そんな彼女にエルレーンが駆け寄っていく。
「ボクもここで寝ることになったから。悪いんだけどボクのベッドも運んでくれる?」
「え? あ、はい。もともとそのつもりでした。エルさんだけ仲間外れにするわけにはいきませんからね」
当然のように頷くリィナ。
そんな彼女に、ティースはやれやれと苦笑しつつ、
「リィナ、俺も手伝うよ。エル。念のため、村長さんのところに行ってこのことを報告してきてくれないか。理由は……そうだな。離れていると仕事の打ち合わせがしづらくなるからとかなんとか、そんなんで」
「うん。わかった」
頷いて軽快に家を飛び出していくエルレーン。
なにか下世話な勘繰りをされるかもしれないが、まぁ仕方ない――と、ティースは半ば諦めた気持ちで、
「じゃあさっさと運び込んじゃうか。それが終わったら昼食を食べて、それから情報交換だ」
すると、リィナは少し視線を落とした。
「……すみません、ティース様。なんだかワガママを言ってしまったみたいで」
「え? ああ、いいよいいよ。俺を守りたいって言ってくれる気持ちは嬉しいし。俺のほうこそ、こんなことで心配かけちゃって申し訳ない気持ちだよ」
それは紛れもないティースの本心だった。
「はい。……ありがとうございます」
リィナはようやく笑顔を見せる。
彼女らしい聖女のようなその微笑みに、ティースはつまらないことにこだわっていた先ほどまでの自分を恥じ、同時にほんの少し気分が高揚していくのを感じたのだった。
村長の家に招かれての昼食を終え、ティースたちは再び彼らの借り家へと戻ってきた。
だだっ広い部屋の奥にはベッドが三つ。二つと一つが部屋の隅と隅に離されていたのは、ティースのせめてもの抵抗の跡である。
リィナとエルレーンの二人はそれぞれのベッドの上に腰掛け、ティースは木の椅子を持ってきて彼女たちと向かい合っている。
「では私から。獣魔の被害にあった方々からお話を聞いてきました」
リィナがそう切り出して、情報の共有が始まった。
「負傷された十三名のうち、十名の方から当時の状況を伺うことができました。……洞穴の中で彼らを襲ったのは首の長い鴨のような鳥型の獣魔だったそうです。体毛は、暗い洞穴の中ですので見間違えや思い込みもあったのか、異なる証言がいくつかありましたが、総合したところ灰色かクリーム色の柔らかそうな体毛だったそうです」
「風の七十五族か?」
頭の中の知識を引っ張り出してティースがそう呟くと、リィナは頷いた。
「聞いた限りでは私もそうかと思いました。何人かが突風のようなものに飛ばされて負傷したという証言もありましたから」
「じゃあおそらく間違いないな」
風の七十五族は、鴨、というよりはアヒルに似た形の獣魔だ。体毛の色は灰色で、翼を持つが空を飛ぶことはできない。地面から頭までの高さは一メートルから一メートル半。羽を広げることで突風を発生させ、敵を攻撃する。足の速さは獣魔にしては遅いほうで、一般的な成人男性と同等程度だ。村長のアルフレッドが言っていたように逃げ足に自信のある人間であれば、遭遇して攻撃されたとしても逃げ切れる可能性は比較的高い。
しかし――と、ティースは少し考えて、
「エル。風の七十五族って森に住んでるイメージしかないんだけど、洞穴の中に生息することってあるのか?」
エルレーンは即座に答えた。
「あるよ。森に住んでることが多いのは確かだけど、彼らの主食は昆虫類だから、それが獲れる場所ならどこでも。鳥型だけど夜目は利くほうだし」
「そっか。なるほど」
ティースもデビルバスターとして魔の知識は豊富に持っているが、それでも魔界の住人だったこの二人には及ばないところもある。
そういった意味でも彼女たちのサポートは有用だ。
リィナが続ける。
「襲撃された場所ですが、いずれも洞穴を三十分ほど潜った辺りだったそうです」
「ああ、そういえば確認してなかった。負傷したのが十三人という話は聞いたけど、結局何回襲われたんだ?」
「四回です」
「そんなに、か……」
普通であれば一回、せいぜい二回襲われれば危険だと判断して、諦めるか、退治するためにデビルバスターを呼ぶかを考えそうなものである。金の採掘がこの村の生命線なのであれば前者の選択肢はなかったのだろうが、後者の選択をするまでにも随分と時間がかかっている印象だ。
閉鎖的な村で、外から人を呼ぶことにためらいがあったのか。
あるいは獣魔の危険性に対する認識が甘かったのか。
すぐにデビルバスターを呼ぶだけの財力がなかった、という理由も考えられるが――
「風の七十五族の生活範囲はそれほど広くないんだし、同じ相手に襲われたんだとすると、迂闊といえば迂闊だよね」
エルレーンもティースと同じ意見のようだった。
「襲ったのが別の集団だったって可能性もあるか?」
「複数の集団が同時に洞穴に棲み付いたってこと?」
「考えにくいか?」
「証言では」
と、リィナが補足する。
「襲われたのはそれぞれ別の場所だそうです。洞穴の中はかなり広いそうで、危険だとわかって別のルートを行こうとしたそうですが、大体同じ深さの、まったく別の場所で襲われてしまったみたいですね」
エルレーンが不思議そうな顔をして、
「じゃあ別の集団なのかなぁ? 今までいなかったのに、急にいくつもの集団が棲み付くなんて、なんだか変な話だね」
(……いや、もしかすると)
そんなエルレーンの疑問に対する回答を、ティースはなんとなく見つけていた。
が、ひとまずそれはまだ胸のうちに留めておく。
その後、リィナは集めてきた証言をさらに細かく語ったが、その他に有用と思われる情報はなかった。
「じゃあ、次はボクだね。村の人から世間話をしながら色々聞いてきたんだけど……」
と、エルレーンが話を始める。
「関係なさそうなことも一応話すよ。まずはこの村の状況についてだけど――」
そこで彼女の語ったことは、村の貧しい経済状況や、人口が減少し続けている現状など、ティースが村の景色を眺めて何となく感じていたことを裏付けるものだった。
「それとあの子、ヴァルキュリスの巫女についてだけど……一年ぐらい前に、母親と叔母、妹を火事で亡くしてるみたい」
「火事?」
「うん。かなりおおごとだったみたいだよ。下手をしたら巫女の家系が途絶えてしまうところだったって。人が三人も死んだんだから、それだけで充分おおごとだと思うけどね」
そういえば――と、ティースは村を見て周っているときに見つけた焼け跡を思い出す。
(アメーリアも妹がいるような話をしてたっけ……そっか。もう死んでるのか)
とすると、彼女は天涯孤独の身なのだろうか。
一人、笹舟を流していた姿を思い出して、ティースは少し切ない気持ちになった。
かつての巫女たちがそうしてきたように、彼女も子供を産めば少しは幸せになれるのだろうか――、と、余計なお世話だと思いながらも同情的になってしまう。
「巫女に対する信仰のようなものは、話した印象だと四十歳ぐらいを境に若い世代で急激に薄れてる感じだったね。彼女と同世代の子なんかは、どうせ自分たちと変わらない普通の人間なのに――って、悪口みたいなことも平気で言ってたよ」
「……そっか」
村長のアルフレッドは四十歳をとうに過ぎているはずだが、アメーリアに接する態度はそれほど丁寧ではなかった。とすると、その世代でも人によってはすでに薄れつつあるといえるのかもしれない。
「それと洞穴のこと。これはおばあちゃんがポツリと呟いていたんだけど、あの洞穴は何か特別な場所らしくて“ヴァルキュリスの顎門”って名前がついてるみたい」
「ヴァルキュリスの顎門? ……不吉だな。入ったらそのまま喰われてしまいそうじゃないか」
「おばあちゃんもそんなこと言ってたよ。その洞穴に入ることに対して、恐れ多いって」
「まあ、ヴァルキュリス山脈の中にまで続いている洞穴らしいから、ネーミングとしては正しいのかもしれないけど……そっか。恐れ多い、か」
その証言は、なんとなくティースの胸のうちにある推測の正しさを裏付けているように思えた。
そこでティースはふと思い出し、
「そういえばリィナ。今朝頼んだこと、見てきてくれたか?」
「……あ、言うのを忘れてました」
リィナはすみません、と言って、
「ティース様の言ったとおり、負傷者の自宅には採掘道具がありましたけど、どれも比較的新しいものばかりでした。少なくとも使い込んでボロボロという感じではなかったです」
「やっぱりか……」
「どうしたの?」
不思議そうな顔のエルレーン。
そんな彼女に、ティースはほぼ確信に変わった胸の中の回答を口にする。
「さっきの疑問だけど、エル。風の七十五族はやっぱり急に棲み付いたわけじゃなさそうだよ」
「どういうこと?」
「うん。おそらく――」
ティースはエルレーンとリィナを交互に見て、
「金の採掘がこの村の生命線だっていうのは、嘘だ」
「嘘?」
「ああ。……実際には、金が採れることが判明したのはごく最近なんじゃないかと思う。それで掘りに行ったら風の七十五族に襲われた。つまり風の七十五族は最近棲み付いたんじゃなくて最初から洞穴にいたんだ」
「あ、そっか。それなら複数の集団が棲んでいてもおかしくはないね。でも……どうして嘘だと思ったの?」
「理由は色々あるんだけど。俺も――というか、ディバーナ・ロウの情報部隊もこの村で金が採れるなんて話を知らなかった。盗掘者を寄せ付けないために村人以外に隠していた可能性もあるけど、最近は村から出て行く人が多いみたいだし、普通だったらいずれそこから漏れちゃうもんだ。それが漏れてなかったってことは、つい最近まで、村人すらそれを知らなかった可能性が高い。エルが聞いたっていう老婆の証言からしても、村人にとってあの洞穴はもともと禁忌の場所だったと考えられる。……だから、さ。この金は昔からの村の産業なんかじゃなくて、最近判明した、危機的状況にある村を再興するための希望、といったところなんじゃないかな。もちろん、大事なものであることに変わりはないけどね」
「でも」
リィナが当然の疑問を口にした。
「どうしてそんな嘘をつく必要があったんでしょう?」
「それはわかんないけど……」
ティースは今朝の村長の顔を頭の中に思い浮かべて、
「僕らや――労働力として呼んだリージスさんたちに、固定報酬じゃなく相応の分け前を寄こせと言われるのを恐れたのかもしれないね。村の産業だということならまだしも、最近採れることが判明して、しかもどれだけの量になるかわからないとなると、そういうことを言い出す連中もいるかもしれない」
「そうだったとしたら、ティースはどうするの?」
「もちろん、どうもしないよ」
エルレーンの疑問に、ティースは笑って答えた。
「人里のすぐ近くに獣魔が棲み付いているのは確かだ。もともと棲んでいた獣魔たちには申し訳ないけど、人里に出て危害を加える恐れがある以上は放ってはおけない。依頼どおりに獣魔を退治して、予定どおりの報酬をもらって帰るだけだよ」
その言葉にエルレーンは頷きながらも、ちょっと不服そうに、
「でも信用されてないみたいってのは、なんだかすっきりしないね」
「仕方ないさ。俺たちは彼らにしてみれば完全な部外者なんだから。ただ、元から獣魔が棲んでいたとなると、どれだけの数がいるかわからないし、場合によっては浅い辺りに棲み付いている獣魔だけを退治して、深い場所での採掘は諦めてもらうかもしれない。それは必要に応じて村長さんに話をするよ」
ただ――、口に出しはしなかったものの、ティースは新たな疑問を覚えていた。
“ヴァルキュリスの顎門”
その名称や、老婆がそこに立ち入ることを恐れていたらしいという話から、おそらく“ヴァルキュリスの巫女”に何らかの関わりがある場所なのだろう。
そんな、村に関わりの深い場所で、金が掘れることが判明した。
今更になって。
……ティースはそのことに少々違和感を覚える。
もし神聖な場所としてこれまで不可侵だったのなら、少なくともそこを採掘することになった何らかのきっかけがあったはず。
誰が誘導したのだろう。
巫女、だろうか。
不可侵な場所だったとしても、巫女だけは立ち入ることを許されていた可能性はある。
彼女がそこで偶然金を発見し、村長に伝え、そして村人たちが採掘に向かった。
そういうことだろうか。
結果、村人たちは獣魔に襲われ怪我をした。
そのことでティースが呼ばれ、巫女は自分が発端となった出来事だけに責任を感じ、村の救世主となるティースに対し“お礼”として昨晩のような行動に出た――
これで辻褄はそれなりに合う。
が――
(……なんかしっくりこないんだよなぁ)
事実にたどり着くにはまだ情報が足りない気がした。
……と。
村人が息を切らせながら飛び込んできたのは、そのときだった。
「大変です! デビルバスター様!」
見知らぬ顔の初老の男は飛び込んでくるなり、額とこめかみに汗を滴らせながら震える声を張り上げて、
「洞穴の中から、獣魔が――!」
「!」
その言葉を最後まで聞く前にティースは愛剣“細波”を手に取り、リィナ、エルレーンと視線を交わし合っていた。
「リィナは村人たちの安全確保を優先! エルは俺と一緒に迎撃だ!」
二人の返事を聞きながら家を飛び出す。
外に出ると、向かって左手の道から数人の村人たちが逃げてくるのが見えた。
“ヴァルキュリスの顎門”のある方角だ。
(風の七十五族なら足は遅い。これなら被害が出る前に――!)
そうして辿りついた、“ヴァルキュリスの顎門”の前。
「!?」
そこにいたのは風の七十五族――アヒルのような小型獣魔――ではなかった。
「あれは――!」
狼のような容貌。
長い鼻先。
その姿を目にした瞬間、ティースの背中を戦慄と緊張が駆け抜けた。
「まさか、“ウィルヴェント”――!?」
風の二十七族“ウィルヴェント”――それは“風穴を開ける者”と呼ばれ、過去に多くのデビルバスターの命を奪ってきた種類の獣魔だ。
咆哮が村の中に響き渡る。
その背後にある暗黒の洞穴“ヴァルキュリスの顎門”は、今まさに、ティースたちをその巨大な顎で飲み込まんとしているかのように映っていた――。