その2『風の刃と水の盾』
“秘境”。
その村の姿を視界に捉えた瞬間、ティースは思わずそんな単語を頭に思い浮かべていた。
やや横長になったネービス領の北西、西に接するモンフィドレル領にもっとも近く、北に横たわるヴァルキュリス山脈の麓にある――地図上では山脈の中にあることになっている――スピンネルという名のその村は、山の奥地にあるわけでもないし、鬱蒼と生い茂る森の中にあるわけでもなかったが、そこは確かに秘境であるといっても過言ではない場所だった。
最も近いリガビュールの町からスピンネルへと続く道は、複雑かつ不規則に大きく隆起した大地に阻まれていて馬車を使うことはできず、徒歩での移動が基本となる。地図を見る限りでは徒歩で一日程度の距離なのだが、実際には早朝にリガビュールの町を出発し、途中で二晩野宿をして、ティースたち一行がスピンネルの村付近に辿り着いたのは二日後の昼過ぎのことだった。
「聞いていた以上にひどい悪路だな……」
ブクブクと沸騰している水の表面がそのまま固まったかのようなデコボコの大地に足を取られないよう注意しながら歩き、左手にある土の斜面から不自然にせり出した尖った岩に頭をぶつけないよう身をかがめながら進む。
そうしながらティースは後ろを振り返った。
「二人とも、大丈夫か?」
向けた視線の先には二人の少女。
「平気です」
すぐ後ろを歩いていたリィナはやはりティースと同じように身をかがめてせり出した岩を回避し、彼の眼前まで歩いてきてホッと息を吐く。
「着替えてきて正解でした。いつもの服装だったらいろいろなところに引っ掛けてみっともない姿になっていたところです」
そう言ったリィナはいつものロングスカート姿ではなく、男性用のズボンを履いていた。これはリガビュールの町でたまたま知り合った旅の人間に忠告されて急遽調達したものだったが、この状況を見ると確かに正解だったようである。
「ああ、俺もまさかここまで険しいとは思ってなかったよ。……エル! 大丈夫か!」
「大丈夫だよー」
一方、一番後ろを進んでいたエルレーンはいつもと変わらないヒラヒラのワンピース姿だ。無造作にひょいひょいと身軽に進んでいて歩きづらそうにしている様子はないし、かなり険しい道を来たにも関わらずほとんど汚れてもいなかった。
小柄だということもあるが、三人の中では一番苦労してなさそうに見える。
……いや、よくよく見ると。
「エル。その服ってなんか特殊な服なのか?」
「え?」
「いや。ほら」
ティースが指差したその先。岩場を進むエルレーンの服の袖やスカートの裾は、彼女が動くたびに宙を踊って、尖った岩や折れた木の枝に引っかかりそうになるのだが、そのたびに、まるでそれ自体が意思を持っているかのように不自然に動いて、岩や木の枝をふわふわと回避しているのである。
「あ、これ?」
エルレーンはぴょんぴょんと跳ねるようにしてティースの眼前までやってくる。小柄な彼女はティースやリィナが屈んで避けた岩もまったく気にせずに通り抜けてきたが、そのときもやはりスカートがふわっと踊って足場のすぐそばから突き出ていた木の根っこを回避していた。
「今日はみんなの機嫌がいいみたい」
と、エルレーンは言った。
「機嫌がいいって?」
「風の神気が、ね」
「神気? なんだそれ?」
どこかで聞いたことのある単語だったが、ティースはすぐに思い出せなかった。
そんな彼の顔を見て、エルレーンは大きな瞳を少し泳がせながら小さく首を傾げて、
「こっちの言い方で言うとなんだろね? 風の精霊、って言えばイメージ沸くかな?」
「ああ、それなら」
自然そのものに宿る霊、ティースの頭の中には手のひらサイズの羽の生えた女の子が飛び回っているようなイメージが浮かんだ。
「これだよ」
エルレーンがそう言って自分の体を指差す。
一瞬の後、彼女の体全体がぼわっとした薄い緑色の光のようなものに包まれた。
「あ、それ……」
それを見てようやくティースは思い出した。
……その光は、彼女と再会した事件の際、難敵と戦っていたときに彼女がその身に纏っていたものだ。そのときの敵が“神気”という単語を口にして、それをティースは耳にしていたのだった。
「それって普通の魔力と違うのか? 上位版みたいなもんかと思ってたが……」
エルレーンは小さく首を横に振る。
「まったく別物だよ。魔力の強弱にかかわらず、神気を使えるのは王魔か神魔だけなの」
そう言われて、あのときの敵が、神気を纏っているから王魔だ、と言っていたことを思い出す。
「じゃあ、神気っていうのは――?」
「ティース様、エルさん」
そこへリィナが口を挟む。
「せっかくですからそこで休憩しながらお話ししませんか?」
と、近くの大きな岩場を指差した。平たく、ちょうど三、四人程度腰掛けることができそうな頑丈な岩場だ。
ティースにもエルレーンにもその提案を拒否する理由はなく、三人はそのまま今日の昼食を済ませることにする。
そうしてティースが岩場に腰を下ろそうとすると、
「?」
ぴゅぅと小さな風が吹いて岩場の石ころや泥をさらっていった。
「……今のも?」
中腰の体勢でティースが尋ねると、
「話題にされたから喜んだのかな。よっぽど機嫌がいいんだね。ティースがボクの友達だってわかってるみたい」
「へぇ」
ティースは感心して、
「いい子なんだなぁ。どうもありがとう」
何もない岩場に向かって小さく頭を下げると、エルレーンとリィナの二人は可笑しそうに笑った。
三人並んで腰を下ろし、腰に下げた袋から乾パンを取り出して分ける。食料を持っているティースが自然と二人に挟まれる形になった。
ゆっくりと乾パンを咀嚼しながら視線を上げて辺りの景色を見る。波打つ地形の中でも小高い場所にあるその岩場からは、目的地であるスピンネルの村がすでに見えていた。
「で、さっきの話の続きだけど……」
と、ティースがエルレーンに話題を振ると、
「うん。神気っていうのは風の精霊で、それを纏えるのは意思を交わす力を持ってるってこと。魔力はあくまで自分の力だけど、神気は自然の力を借りるんだよ」
「それができるのは王魔と神魔だけってことなのか」
ティースが口をモゴモゴさせながらそう言うと、逆サイドのリィナが補足した。
「視認できるほどの神気を纏うのは王魔でもほんの一握りです。ですから、エルさんは王魔の中でも特別なんですよ」
「へぇー」
「ちょ、ちょっと、やめてよ、リィナ」
二人の感嘆の声に照れくさくなったのか、エルレーンの顔が真っ赤になる。
真っ赤になったまま、
「そ、それでね。神気そのものはそれほど強い力はないんだ。でも魔力と融合させることで力を増幅したり風の声を聞いたりできるの。風は気まぐれだから、ちゃんとしたことはほとんど聞けないんだけど、雨雲が近づいてきてるとかそういう話が聞けたりすることもあるよ」
「へぇ。すごいんだなぁ」
ティースは正直な感想を改めて口にしただけだったが、
「だからやめてってば、もぅ……」
やはり照れくさそうなエルレーンに、なぜか怒られてしまった。彼女は見た目や口調に似合わぬ大人びたところのある少女だが、どうやらあまり誉められ慣れてはいないようで、その反応は見た目どおりの子供っぽさに彩られたものだ。
「あれ、でも……」
ティースはふと気づいて、
「それって“朧”の影響は受けないのか? 二人とも力を制限されてるはずだろ?」
と、尋ねた。
魔が人へ姿を変える手段の一つである“朧”は、本人が持つ力の大半を捧げ、人間のパートナーとともに念じることによって、ほぼ完全に人の姿に変わることができる特殊なアイテムだ。エルレーンの場合はシーラが、リィナの場合はティースがパートナーとなり、その代償として彼女たちはすでに王魔としての力の大半を封印されている。
それについてはエルレーンも、憶測だけど、と前置きをして、
「“朧”で制限されるのは魔力だけみたいだね。神気と融合させる魔力が大幅に減ってるから使える力が小さくなってることには変わらないけど、神気自体を使うことにはなんの影響もないよ」
「ふーん」
小さく頷きながら乾パン二つを胃袋に収め、水筒に口をつけて喉を湿らすと、ティースは視線を再び正面へ向けた。
眼下に見える、スピンネルの村。
あと二時間、といったところだろうか。
「……じゃ、そろそろ行こうか」
他の二人が食事を終えるのを待って、ティースはそう宣言した。乾パンの入った腰の袋の紐を締め直し、後ろに置いてあった愛剣“細波”の鞘を右手に握る。
と。
そのときだった。
「?」
鼓膜が小さな振動を捉える。
ちり、ちり、と、何かが細かく擦れるような音。最初は耳鳴りかと思ったが、やがて、どうやらそれが耳の中ではなく外で鳴り響いているものらしいと気づき、ティースは辺りを見回した。
リィナとエルレーンの二人も同じものを感じたらしく、怪訝そうにした三人の視線がそれぞれに絡み合う。
その、直後だった。
「!」
ドォンッ! と、破裂音のようなものが足元から聞こえ、大地が大きく揺れる。
「え……地震!?」
「大きいぞ! 二人とも気をつけろ!」
即座に周囲を確認し、今の岩場がもっとも安全そうだと判断したティースは二人に声をかけながらその場で身を低くする。かなり大きい。ネービスではあまり体験することのない規模の揺れだった。
木の枝に止まっていた鳥が一斉に飛び立って頭上を越えていく。何かの砕けるような音が聞こえて視線を向けると、両手をいっぱいに広げたぐらいの大きさの岩が眼下の斜面を転がっていくのが見えた。
一瞬、足場にしている岩が砕けないかとティースは心配になったが、それは杞憂に終わり、縦に揺らぐようなその振動は二分ほど続いた後、発生したときと同じように唐突に、まるで力尽きたかのようにぷっつりと終息した。
「……大丈夫か」
収まってから様子見の空白を一拍子置いて。
ティースは同じように身を低くしていた二人の少女にそう声をかけた。
「すごい揺れだったね。こんなの、こっちの世界に来て初めてかも……」
ぴょんと跳ねるように立ち上がって、エルレーンは周囲を見回すと、
「リィナ。大丈夫?」
「は、はい」
リィナもゆっくりと腰をあげてホッと息を吐く。
ティースはそんな二人の無事を確認して、さらに周囲を見回すと、今の振動によって崩れた斜面と崩れ落ちた岩がティースたちの歩いてきた狭道に流れ込んで道を塞いでしまっているのに気付いた。リガビュールからスピンネルに続く道は複数あるので帰れなくなるような心配はなかったが、そこを歩いている途中で今の地震に襲われていたらと考えると背筋がぞっとする。
「もしかして、今のが“ヴァルキュリスの怒り”なのか……?」
この辺りが“ヴァルキュリスの怒りに触れた土地”と呼ばれ、局地的な大地震によく見舞われる場所であることはティースも予備知識として知っていた。
エルレーンもティースの視線に気付き、彼と同じ方向を見ながら、
「そういえばあの旅の男の人、スピンネルへ向かうルートは週替わりだ、なんて言ってたよね。……こういう意味なのかな」
ティースは頷く。
「何にしろ、土砂崩れに巻き込まれなくて良かったよ。……行こうか」
もうこの場所に長居する気にはなれなかった。
足場を確認しながら岩場を下りる。すぐ後に続いたエルレーンは相変わらず身軽に飛び降りたが、リィナは先ほどの地震の影響か、少し恐る恐るだった。
そんなリィナの緊張をほぐすように、エルレーンが軽い口調で言う。
「気をつけてね、リィナ。転びそうになってもティースは助けてくれないんだから」
「……エル。そんな言い方はないじゃないか」
冗談交じりのその言葉にティースは形だけ抗議したが、確かに彼女が転びそうになっても手を差し出すわけにはいかないのは事実だ。なにせ彼は女性アレルギーなのだから。
と、そんなティースをフォローするようにリィナは言った。
「平気です。ティース様のことは最初からアテにしていませんから」
「……」
絶句。
「……え? ティース様?」
情けない表情で振り返ったティースに、リィナが不思議そうに首を傾げる。
エルレーンが苦笑して、
「リィナ。それじゃティースが頼りない人みたいに聞こえちゃわない?」
「あ、ち、違います! そうじゃなくて、ティース様にはそうそうご迷惑をかけられないという意味で――」
「いいよいいよ。わかってる」
もちろん彼女に悪気がないのはティースも最初からわかっている。ただ、そんな彼女の言葉で自分の情けなさを再認識してちょっとヘコんでしまっただけなのだ。
いわば、いつものことである。
三人は岩場を下りて予定通りの道を進んだ。幸い、ここから先は今まで歩いてきた道に比べると道が広く、それほど困難な足場ではない。万が一先ほどの地震が再び襲ってきたとしても、土砂崩れや落石に巻き込まれる心配はないだろう。
ティースはそんなことを考えていて、ふと。
(……不自然だな)
そう、思った。
ここまで歩いてきた道。
そしてこれから進もうとしている道。
その二つを見比べて、その不自然さに。
(村の周りだけ、ずいぶんと綺麗だ……)
ティースがそう感じたとおり、ここまで辿ってきた道は、まるで神様がこの大地でアスレチックを作って遊んでいたのではないかと思うほど不自然な隆起とデコボコの道に阻まれていたが、彼らの視線の先に小さく見えるスピンネルの村周辺、目測で半径一キロメートル程度は不自然に――いや、ネービスのその他の土地との比較でいえばごくごく自然な平らな地形になっていた。
あの不自然な隆起が、頻発する局地的な地震に端を発するものだとして。
その地震が器用にあの村だけを避けているというのだろうか。
「ねぇ、ティース」
「ん?」
呼びかけられて隣を見ると、エルレーンが彼の見ていた視線の先――それよりもだいぶ手前のほうを指差していた。
「あの辺、なにかおかしくない?」
「え?」
ティースが視線を手前のほうに動かすと、ちょうど今、彼らが下っている斜面の一番下の辺りで土埃のようなものが宙に舞っているのが見えた。
が、
「なんだ、あれ?」
土埃はその一部分だけに、しかも極端に濃く舞い上がっていた。風で巻き上げられているにしては確かに不自然で、しかも――
「人がいる……?」
人、それも集団だ。まだ距離があることと宙に舞っている土埃のせいでよく見えなかったが、十人ほどはいるだろうか。その集団が何やら慌てふためいたように動き回っている。
「!」
そしてティースは状況を悟った。
言葉を発する前に地面を蹴り、愛剣“細波”の柄を握り締めて叫ぶ。
「地の七十五族だ! 救出する!」
「了解!」
「わかりました!」
エルレーンとリィナの二人も即座に状況を理解し、ティースの後に続いた。足の速さはティースとエルレーンがほぼ同等で、リィナがやや遅れ気味になる。
……地の七十五族。彼らは体長十五センチほどのモグラに似た獣魔だ。手の平が体と同じぐらいの大きさに発達していて、柔らかい土の地面に潜み集団で人間を襲う。また、行動するときは土の中と外を頻繁に行き来するため、彼らが行動する場所ではあのような不自然な土埃が舞い上がることが多い。その攻撃は手の爪によるものが主で、一撃で致命傷となるほどのものではないが、たいてい数十匹の集団で行動するため、大人の男数名が一度に犠牲になることも少なくはなかった。
十名ほどの集団はどうやら大人の男ばかりのようだったが、魔に対抗できる人物はいないらしく、手に持ったつるはしのようなもので応戦する者がいても、まったく歯が立っていない。
そのうち、集団は二手に分かれるようにして逃げ始めた。
(……まずいな)
これはティースにとって不都合な展開だった。片方ずつ助けていては手遅れになる可能性がある。
「……エル、リィナ! お前たちは向こうを頼む!」
ティースはそう言って、彼から見て右手に逃げた集団を指した。
「任せて!」
エルレーンが元気よく地面を蹴り、身軽に、宙を飛ぶようにして右手の集団を目指す。かなり遅れていたリィナの耳にはティースの声が届いていなかったが、彼のジェスチャーで意図を悟り、分かれたエルレーンの後を遅れて追っていった。
男たちの悲鳴が聞こえてくる。よく見ると、押さえた腕からかなりの量の血を流している者もいた。
“細波”を鞘から抜く。
そうしながらティースは叫んだ。
「こっちだ! 固まってこっちへッ!」
「!」
ティースの声に気付いた男たちが一瞬の躊躇の後、一斉に彼の方へ向かって逃げてくる。全部で六名。幸い全員まだ走れるようだ。
それよりも先に。
「っ……」
地の七十五族がティースの存在に気付いていた。彼から見て二時の方向で土が盛り上がる。
――見逃さない。
「はぁっ!」
土の中から獣魔の小さな体が飛び出した瞬間、瑞々しい細波の剣身が陽光にきらめく。
確実な手ごたえ。
切り返して、九時の方向。
同じく、二匹目の獣魔を一撃で仕留める。
「あ、あんたは――!?」
ちょうどそのタイミングでティースは男たちの集団と合流することができた。
足を止め、油断なく“細波”を構えて、
「俺はデビルバスターです! 周囲に背中を見せないように固まってください! 武器がある人は構えて! 適当に振り回しても牽制にはなります!」
指示を出し、辺りの地中に向けて神経を巡らす。
五感を研ぎ澄まし、気配を捕まえる。
そして思わず舌打ちを鳴らした。
(多い……ッ!)
地上に姿を見せているだけで八匹。地中にはどうやらその倍以上潜んでいる。最下級の獣魔で、この数を相手をすること自体には何の問題もないが、この状況、剣一本で七人もの人間を同時に守るのは困難だった。
男たちを逃がすことも考えたが、獣魔の何匹かは間違いなく土に潜んだままそちらを追うだろう。地の七十五族が地中を進むスピードは並みの人間の足よりは速い。そうなればきっと犠牲者が出ることは避けられない。
取り囲むように周囲の土が一斉に盛り上がった。
男たちの悲鳴が上がる。
(……だったら――)
決断とともに、ティースは“細波”の平が見えるように眼前に構え、そこに左手の平を重ねた。
「――静かに波立つ海よ」
濡れたような“細波”の美しい剣身に広がる、一雫の波紋。
その柄にはめ込まれた宝石が清廉な青い輝きを放つ。
「悪意を弾く盾と成れ――!」
ティースの口から静かに紡がれた言葉とともに青い輝きは急速に力を増し、“細波”がそこに秘めた力の一つを解放する。
「!?」
男たちの悲鳴が驚きの声に変わった。
彼ら全員を包み込むように広がった青い光はやがて薄い水のカーテンとなり、一斉に襲い掛かってきた獣魔の爪を防ぐと、小柄な獣魔たちをすべて外側へ弾き飛ばしたのだ。
水の結界に弾かれた二十匹以上の獣魔が同時に宙に浮かぶ。
ティースはその瞬間を見逃さなかった。
宙に浮いた獣魔のすべてをその視界に捉え、意識を高める。
その一瞬。
彼の視界の中の、時が止まる。
(一撃で、決める――!)
二十一個のターゲット。動きのベクトル、速さ――攻撃が到達する時点での予測位置。時が止まった一瞬にそのすべてを判断し、ティースは“細波”を両手で構えた。
「穏やかに凪ぐ風よ――」
剣身が渦巻く風を纏い、宝石が緑の光を放つ。
「悪鬼を挫く剣と成れ――!」
呪文とともに“細波”を振り抜くと、纏っていた風の渦が破裂音を立てて数多の刃となる。その数、ちょうど二十一。それらは弧を描くように宙を飛び、驚愕に固まる男たちを大きく避けながら、それぞれのターゲットに向かっていった。
奇怪な断末魔の鳴き声。空中で思うように動きの取れない獣魔たちの体を、風の刃が次々に切り裂いていく。
舞い上がった土埃に、彼らの血飛沫が混じり合った。
「ふぅ……っ」
成功を悟ったティースが息を吐くのと、最後に切り裂かれた獣魔の体が土の地面に落ちたのはほぼ同時。
そして一瞬の沈黙。
呆気に取られていた男たちから大きな歓声が上がる。
「油断しないでください。まだ何匹かは地中に潜んでいます」
ティースは彼らにそう注意を促したが、結局、様子を見るようにウロウロしていた地中の二、三匹ほどの気配は一分ほどして逃げるようにその場から遠ざかっていった。
それで、今度こそ終わりだ。
ティースはすぐに視線を横に滑らせてエルレーンたちの状況を確認する。
そして、
「……」
ほっと息をこぼす。
彼の視線の先には手を振りながらやってくるリィナとエルレーンの姿があったのだった。
「……いやぁ、助かった! まさかこんな辺鄙なところでデビルバスターの兄ちゃんに助けられるとは思わなかったよ!」
その集団のリーダー格らしき男は、どうやらティースより十歳ほど年上の、長方形を連想させる大きな顔をした大柄な人物だった。ネービスの人間にしてはずいぶんと日焼けして浅黒くなった肌、その抱えている荷物の中からスコップやつるはしらしきものが覗いているところを見れば、どういう職種の人間であるかはだいたい想像できる。
「俺はリージス。リージス=マクニエル。見ての通り、普段はリガビュールで体を使った仕事を色々やってる。後ろの連中は俺の手下が四人と、その他いろいろとかき集めてきた日雇いの連中だ」
と、その男――リージスは男くさい顔に満面の笑顔を浮かべてそう言った。
「あ、えっと、俺はティーサイト=アマルナです。ネービスでデビルバスターみたいなことをやっています」
「みたいなこと?」
「あ、いえ。じゃなくて……デビルバスターです」
ティースが言い直すと、リージスは不可解そうな顔をした。
特に意味は無い。ただ、胸を張って“俺はデビルバスターです”と言うのが未だに照れくさいだけなのである。
そこに突っ込まれないようにと、ティースはすぐに言葉を続けた。
「後ろの二人は俺の仲間で、こっちがエルレーン。こっちがリィナといいます」
「エルレーン=ファビアスです。よろしくね」
エルレーンは朗らかに挨拶したが、リィナはちょっと笑顔を浮かべて小さく会釈をしただけだった。
「へぇ、そのお嬢ちゃんたちもデビルバスターなのかい?」
「デビルバスターなのは俺だけです。でもご覧になったとおり、魔と戦うことはできます」
「そういやなんか、魔と同じような力を使ってたっけな。あんたもそうだったが……」
と、リージスが少し不可解そうな顔をする。
それについてティースが説明をしようとすると、
「あー、知ってる知ってる」
リージスの後ろで怪我の手当てをしている男たちの中から声が上がった。
「デビルバスターって、何か魔法のアイテムみたいの持ってて色々できるんだよな。俺、前にもそんな感じので助けられたことあるわ」
「なんだよ、お前。そんなしょっちゅう魔に襲われてんのか? まさか今回のも、お前が引き寄せたんじゃねぇだろうな?」
「うわ、そりゃひでぇよ。俺だって好きで死にそうな思いしてるわけじゃねえっての」
男が少し情けない声を上げると、集団の中から大きな笑いが起こった。
それでようやく緊張の糸が完全に緩んだらしい。
「おーい。誰か包帯持ってないかー! 布切れが足りねぇよー!」
「あ、私持ってます」
集団の中から上がった声に、リィナが即座に反応する。
続いてエルレーンが、
「じゃあ、ボクらも手当て手伝おうか。ティース、いいよね?」
「ああ、頼むよ」
ティースがそう言うと、彼女らは応急手当用の袋を手に、男たちの集団の中へ入っていった。
「……お。おーい。なんか美人さんが手当てしてくれるってよー」
「マジで!? おい、誰か、いったん俺の包帯ほどいてくれー!」
「うるせーよ、バカ!」
再び男たちの笑い声。その中からエルレーンやリィナの声も混じって聞こえてくる。どうやら若い男が多いようで、パッと見、ティースより年下と思われる少年もいるようだった。
そんな様子を苦笑して見ながら、ティースはリージスに尋ねる。
「リージスさんたちはどうしてこんなところに? 目的はスピンネルの村ですか?」
普通の人間である彼らがこんな場所にいる理由は、スピンネルの村に行く途中か、あるいは帰る途中かのどちらかしか考えられない。ただ、スピンネルという村は人口百人にも満たない小さな村だし、生活用品を運ぶ行商人ならともかく、彼らのような肉体労働者が、しかもこれだけの集団であの村に用があるというのは、なかなか考えにくいことだった。
それに対し、リージスは答える。
「もちろんだ。仕事でな」
「仕事?」
「見てのとおり、穴掘りさ」
そう言って、リージスは手元のスコップをバンと叩く。
「なんでも、あの村の洞穴で金が掘れるらしくてな。……ああ、この話、他にはばらさないでくれよ。助けてくれたあんただからこっそり教えるんだ」
「あ、はい」
後から釘を刺されても遅いが、もちろん彼はもともとそんなことを他言する人間ではない。
リージスは続けた。
「んで、あの村は若い男もそんなにいないし、とても手が足りないってことで俺たちが行くのさ。金が出れば報酬もたんまりいただけるってんでね」
そういうことか、と、ティースは納得したが、スピンネルで金が掘れるという話は初耳だった。ディバーナ・ロウの情報収集部隊である“影裏”からもそんな情報は聞いていない。おそらくはごく最近、新たにわかったことなのだろう。
「ところで、ティーサイトさん。あんたはどうしてこんなところに?」
今度はリージスが逆に質問してきた。
「あ、ティースと呼んでください。……俺も同じです。仕事で。最近スピンネルの村で獣魔らしきものが出るって――」
そこまで言って、ハッとする。
(そういや村の洞穴から獣魔が出てくる、って、そういう話だったな……)
金。
そして獣魔。
……無関係だろうか。
いや。
(……なにか、あるか)
ティースが呼ばれたタイミング。
リージスたちが呼ばれたタイミング。
洞穴から発掘される金と、獣魔。
その一致は、偶然の一言で片付けられるものではなさそうだった。
想像どおり、スピンネルの村は寂れたところだった。
村の入り口らしきところに立っていた案内板は腐って半分折れかかかった状態で放置されていたし、その周囲には廃墟のような無人の家ばかりが並んでいる。そこから少し奥に進むとようやく人の住んでいる気配の家があって、畑や鳥小屋のようなものも確認できたが、いずれも規模は小さく、出歩く人の姿も極端に少ない。外向けの産業があるわけでもなく、あったとしても交通に難のある土地だから、ほぼすべての世帯が自給自足の生活を送っているのだろう。明かりを灯す習慣もあまりなさそうで、夕日が射し込むこの時間になって人影がほとんど見えないのはおそらくそういう理由からだ。
そんな中、初めて出会った村の人間に素性を明かすと、ティースたちは村の中心付近にある一つの家へと案内された。
大きな家だった。他のものと比べると造りも良く、若干新しい。
「ここがスピンネルさんの家ですか?」
そこまで案内してくれた老婆にそう尋ねると、
「いえ。ここは村長のお家です」
「僕はアメーリア=スピンネルさんという方に呼ばれてきたのですが――」
「巫女様も今はこのお家におられますよ。あなた様のご到着を心待ちにされておりました」
「あ、そうでしたか。どうもありがとうございました」
ティースが納得して礼を言うと、老婆は小さく頷いただけでその場を去っていった。
「……巫女様、か」
ヴァルキュリスの怒りを鎮める巫女の住まう村――このスピンネルが昔からそう言い伝えられている村であることはティースも予備知識として知っている。
どうやらその風習は今でも残っているようだ。
「入ろうか」
と、ティースは後ろのリィナとエルレーンを振り返る。リージスたち一行とは村に入ったところで別れており、どうやら彼らは別のところに案内されていったようだ。
ドアをノックするとすぐに人が出てきて、ティースたちは家の中へと招き入れられた。
大きな家、といっても、もちろんミューティレイクの屋敷のようなとてつもない広さではない。平屋で一辺がせいぜい二十メートルぐらいだろうか。あくまでこの村の中の建物としては大きいほう、という程度だ。
その中の一室に通される。
「ようこそいらっしゃいました、ティーサイト様」
そこは二十畳弱ぐらいの広さの客間で、まず視界に入ったのはその中央、この村の雰囲気に合わない一人がけのソファから立ち上がった初老の男。年齢は五十歳ぐらいだろうか。その年代にしては背が高く、百七十センチほどはある。かなり痩せていて頭頂部は綺麗に禿げ上がっていた。
「村長のアルフレッドです。遠いところからわざわざお越しいただきまして、本当にありがとうございます。……さぁ、おかけになってください」
細い目が見えなくなるほど笑顔になると、頬の皺がさらに深くなる。物腰は柔らかく、いかにも好々爺といった雰囲気の人物だ。
彼が指し示した先には、やはりこの村には似合わない三人がけのソファがあった。
ティースは一礼して、
「ディバーナ・クロスのティーサイト=アマルナです。デビルバスターとしてはまだ新米ですが、問題の解決に全力を尽くさせていただきます。後ろの二人は僕のサポートをしてくれる、リィナ=クライストとエルレーン=ファビアスです」
その紹介に、後ろの二人が揃って頭を下げる。
村長がほんの一瞬だけ怪訝そうな視線を二人に送ったのがわかったが、その反応には比較的慣れていたのでティースは特に気にせず、勧められたソファへと腰を下ろした。
「ところで――」
と、ティースはこの部屋の中にいるもう一人の人物――その会話の間中、村長の後ろでずっと黙ってたたずんでいた一人の女性へと視線を向ける。
土色のベースに雪の結晶のような文様が入った古いデザインの衣装。この村で会った他の人々は比較的一般的な服装をしていたから、彼女のそれがこの村においても特別なものであることは容易に推測できた。
つまり彼女が、老婆の言った“巫女様”――アメーリア=スピンネルなのだろう、と。
「ああ、自己紹介させましょう。……アメーリア。ティーサイト様にご挨拶を」
村長がそう言うと、その女性は少し伏せていた視線を上げ、初めてティースの顔を見た。
「アメーリア=スピンネルと申します。以後お見知りおきください」
掠れた小さな声。
第一印象は、寡黙で儚げな女性、だった。
「……終わりか? 相変わらず愛想がない子だ」
村長は少し不満そうだったが、すぐに気を取り直した様子でティースたちに向き直る。
「ティーサイト様もご存知でしょうが、この村はヴァルキュリスの怒りを鎮めるために作られたとされる村でして。この子はヴァルキュリスに祈りを捧げる巫女の家系の娘です。そういったこともあって少々おかしなところがありまして。無礼がありましたらどうか――ティーサイト様?」
「え?」
ハッとする。
ティースはいつの間にか、どことなく神秘的な雰囲気を漂わせたその巫女に長いこと視線を奪われていたらしい。
ティースは慌てて取り繕うように、
「ああ、いえ。無礼だなんて、僕らはぜんぜん気にしません。どうかお気遣いなく」
「……そうですか」
そんなティースの反応に、村長は後ろのアメーリアをチラッと振り返り、
「では、今日はそろそろ日も沈みそうですし、ティーサイト様も長旅でお疲れでしょうから、詳しい依頼のお話は明日にしましょうか。夕食をすぐにご用意いたします。その後、お休みいただく家を案内させますので、今日はゆっくりと疲れを取ってください」
そう言って、使用人らしき女性を呼んだ。
夕食後、ティースが案内されたのは村長の家から百メートルほど離れた小さな家だった。村長の家と同じように村の中では比較的新しくしっかりした造りの建物で、部屋の仕切りや生活用品らしきものはなく、こうして客人を村に迎えるときのために用意された家なのかもしれない、とティースは思った。ただ、小さいとはいっても家全体が一つの部屋なので、一人で寝泊りするには少し寂しい。リィナとエルレーンはさらに二十メートルほど離れた家に案内されていて、外見を見たところでは、ここと同じ造りの家のようだった。
(ミューティレイクでも部屋は広いけど、あっちは隣とか周りに人の気配があるからなぁ)
太陽はもう完全に沈んでいる。この村にはネービスで使われているような魔界の発光性植物を応用した照明器具がないらしく、明かりはロウソクが二本立っているだけだった。
(……寝るか)
こうなるとすることがない。彼の体内時計的には二時間ほど早かったが、仕方なく用意されたベッドの中に身を潜らせることにした。
ベッドからはほんの少しだけカビのような匂いが漂っている。
ロウソクの火を消すと室内が一気に暗くなったが、月が出ているのでまだ薄っすらと明るい。
そうして体中の力を抜くと、意外にもすぐに眠気が襲ってきた。
(ああ。今日は“力”を使ったからか……)
その体は彼が自分で思う以上に疲れていたようだ。
獣魔が出没する危険があるため完全に気を緩めるわけにはいかないが、野宿をしたこの二晩よりはゆっくり休めそうだった。
目を閉じて。
そのまぶたの裏に、
(……それにしても、あの女性)
先ほど会ったばかりの女性――アメーリアの姿が映った。
女性、といっても、おそらくは彼より年下、リィナやエルレーンと同年代だろう。女性というよりは少女に近い年齢だと思われたが、その割には不思議なほど落ち着いた態度だった。巫女として育てられたから、と言われると、なるほどと必要以上に納得してしまう、浮世離れしたその雰囲気。
その割に、村長からの扱いが多少ぞんざいに見えたのも気になった。この村における巫女の存在が、昔ほどは神聖視されていないのだとして。あの場にいながら、結局自己紹介の一言しか口を開かなかった彼女の立ち位置はいったいどういうものなのだろう――と、ティースは部外者ながらそんなことが気になっていたのである。
と。
「……?」
家の外から人の気配が近付いてくるのにティースは気付いた。一瞬、剣に手を伸ばしかけたが、それはどうやら村人の気配だ。
カタン、と。
玄関のドアが小さな音を立てる。
ティースはベッドの上に身を起こした。
「どなたですか?」
そう声をかけながら取っ手のついた皿型の燭台に手を伸ばす。
返事はない。
返事がないまま、ドアがゆっくりと開いた。
「?」
目を細める。ティースのベッドからは月明かりがちょうど逆光になっていて、入ってきた人物の姿は輪郭しか見えなかったが、輪郭と雰囲気から、どうやら件の巫女――アメーリアらしいということがわかった。
「アメーリアさんですか? なにか用ですか?」
再び問いかけるティース。
扉が後ろ手に閉じられた。相変わらず返事はない。
「……アメーリアさん、ですよね?」
声が聞こえていないはずはない。
さすがにティースも怪訝に思い、燭台を手元に引き寄せ、マッチを手に取った。
無言のままに近付いてくる人影。
敵意を感じたわけではない。
ただ――
「……」
背筋に正体不明の悪寒が走って、ティースは燭台のロウソクに火を灯す。
そして――
「……――うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「!」
「ティース様!?」
二十メートルほど離れた隣家から聞こえてきたその叫び声に、リィナとエルレーンが飛び起きて、そしてその家に駆けつけるまでの時間は、僅か二十秒程度だった。
「ティース!」
先んじたエルレーンが、玄関のドアを壊れるほどの勢いで開ける。
少し遅れたリィナが、
「ティース様! 何があったんですかッ!」
そう叫びながら家の中に踏み込む。
そこで彼女たちが見たものは――。
「……え?」
「ティース……様?」
青い顔で情けなくベッドに横たわるティースと、
「……」
二人を無言のままに振り返る、一糸纏わぬ姿の巫女――アメーリアの不思議そうな顔だった。