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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第11話『女嫌いのデビルバスター』
90/132

その1『卒業』

 大陸第二と謳われる北方の雄、ネービス領。

 その首都“学園都市”ネービス。

 約四十万人が住むとされる大陸有数のその都市は、街の中央を分断するかのように南北に大きな通りが走っており、それぞれ東地区、西地区と呼ばれ分けられているのだが、その両者の間に何らかの明確な区別があるわけではない。区別があるのはむしろ南北のほうで、町の南側には一般市民の多く住む一般住宅街が広がっており、中央の大通りを北に向かって三分の二ほど進むと、そこには貴族や大金持ちの多く住む高級住宅街がある。

 つまりこの街は基本的に、北に行くほど裕福な人間が住んでいるのだ。

 そこからさらに北に進んで終着点付近にはネービス領主であるネービス公家の屋敷があり、そこに辿りつく直前にはこの街が“学園都市”と呼ばれる理由――あらゆる種類の学び舎が並ぶ“学園群”があった。


 さて。


 その学園都市ネービスの中央大通りを北に三分の二ほど進み、一般住宅街と高級住宅街のちょうど境目辺りを左に折れて西地区に入ってからしばらく歩くと、高い塀に囲まれた大きな敷地が見えてくる。

 そこはこの学園都市の中でも三本の指に入る実力者であり、ネービス公家とも遠い血縁関係にある大貴族“ミューティレイク家”の所有地だ。

 目を見張るほどに広大でありながら、通りを挟んだ場所にまったく普通の一軒家が立ち並んでいるというこの妙な敷地の門をくぐり、そこから真っ直ぐに数百メートルを歩く。途中で左右に視線を向けると、住み込みの使用人たちが住む男性、女性それぞれの使用人寮のほか、一見しただけでは使途のわからないいくつかの小さな建物が視界に入ってくる。

 そうしてようやく到達する、二つの大きな建物。

 ミューティレイクの屋敷。

 左が本館。

 右が別館だ。

 その右側、つまり別館の大きな扉を押し開けると、そこに広がる一階玄関ホール付近では多数のメイドが右へ左へと忙しなく動き回っている。

 今――午前中は彼女たちにとってもっとも忙しい時間帯だ。

 そんな彼女たちの働きを見つつ正面に視線を向けると、広い玄関ホールの中央には二階へと続く大きな階段があった。

 大きなシャンデリアを頭上に見ながらその階段を上りきると、目の前には細い通路が伸びている。床にはふかふかのカーペット。通路の奥には大きな窓があってそこから太陽の光が細長く射し込んでいた。

 その通路の左右に目を向けると、そこにはいくつもの扉が並んでいて、そのうちのいくつかには名前の書かれたプレートが掲げられていることから、その一つ一つが個室への入り口になっているのだということにすぐ気付くだろう。

 その中の一室。

“ティーサイト=アマルナ”。

 そのプレートの掲げられた部屋の中に入ると、意外と質素な内装に驚かされることだろう。

 そしてその奥には二つの人影がある。

「ゴホ、ゴホッ!」

 まずはベッドの上。

 グーにした拳を口元に当て、大きく咳き込んでいる青年。

 彼の名はティーサイト=アマルナ。通称ティース。名前でわかるとおりこの部屋の主で、数日後に二十歳の誕生日を控えた男性である。年齢の割には幼さを色濃く残した童顔、今はベッドに隠れているが、かなりの長身ながらひょろっとした体型をしている上に少々猫背気味の姿勢で歩くため、彼のことを良く知る人間には“枯れ尾花”だの“カカシ男”だの、悪意がこもっていないにしてもひどいあだ名で呼ばれることが多い。

 そんな青年である。

 一方。

 彼の横たわるベッドの脇にはサイドテーブルが置いてあって、その上には氷水の入った木製のボウルがある。

 そのすぐ隣。

 椅子に腰を下ろし、氷水に浸したタオルを絞っている少女の姿があった。

「ゴホッ! ゴホッ!」

「馬鹿」

 苦しそうに咳を繰り返す青年――ティースに冷たい一言を浴びせ、少女はタオルを絞る。息を詰め、きつくタオルを絞り切った後、小さく息を吐いて首を横に振ると、朝陽の中に透き通る金糸のポニーテイルが僅かに踊った。

 そんな少女にティースは抗議をする。

「あ、あのなぁ……馬鹿ってこたぁ――ゴホゴホゴホッ!」

 少女は形の良い眉をひそめて、

「今のお前を見れば、それ以外に形容のしようがないわ。だいたい」

 そう言うとタオルをパンパンと軽く叩き、それを放るようにしてティースの額へ乗せた。

「まだ雪が溶けたばかりなのよ。なのにそんな長時間冷たい雨に当たっていたら風邪を引いて当たり前じゃない」

「し、仕事なんだから……ゴホッ! 仕方ないだろ……ゴホゴホッ!」

「そんな掠れ声じゃ何を言ってるのかさっぱりわからないわ」

 そう言って少女は呆れ顔をした。

 この少女は名をシーラ=スノーフォールという。今は十六歳だが、二ヵ月後に十七歳の誕生日を控えていてティースとの年齢差は三歳と少し。もちろん彼女が年下ということになるのだが――美しく整いすぎた容姿のせいだろうか。ティースが童顔であることと併せ、二人を見比べると危うく彼女が年上でないかと感じてしまうことも多い。

 そんな少女である。

 この二人の関係を一言で表すことは難しいが、あえて簡潔に言うならば“扶養者と被扶養者”といったところか。

 血縁はなく、姻戚でもない。

 もちろん婚姻関係にあるわけでもない。

「そういやシーラ……お前、学園のほうは?」

 咳を交えながら、どうにか聞き取れる程度の声でティースはそう尋ねた。

 枕から少しだけ首を上げたその顔は真っ赤で、朝から熱が三十九度を越えている、といえば、彼がどれほど悪質な風邪に捕まってしまったのかは容易に想像できるだろう。

「今日は休みよ。数少ない休日をこうしてお前の看病に費やしているの。感謝なさい」

 シーラはそう答えると近くの盆の上から林檎を一つ手に取り、その表面に果物ナイフと当てると、するすると見事なナイフさばきで皮を剥いていった。

「……すまん」

 どうやら喋るたびに彼の立場はどんどん悪くなっていくようだった。

「……」

 シーラは力なく項垂れたティースをチラッと横目に見て、すぐに視線を手元に戻すと、

「冗談よ。卒業が近いから今月はほとんど休みなの。だからお前に付き合ってやるぐらいは大したことじゃないわ。……はい」

 そう言って一口サイズに切った林檎をティースの口元に運ぶ。

「ん、サンキュ。……そっか。早いなぁ」

 口をモゴモゴさせながらティースが少し感慨深げに言う。

 シーラがこのネービス内のサンタニア学園で薬草学を学ぶようになって早四年。この三月は、つい先日の卒業試験をトップの成績で通過した彼女の卒業の月でもあった。

 シーラは視線を窓の外へ移動させて、

「昨日の大雨が嘘のようね。いい天気だわ」

「そりゃ、晴れる日もあれば雨の日もあるよ。……お前はカラッカラの晴天が好きそうだもんなぁ」

 と、ティースは少し笑いながら言った。

 シーラはその言葉の裏に隠れた意図に気付いて、

「悩みがなさそう、とでも言いたいの?」

「だって自由気ままに生きてるだろ?」

 さっきの仕返しのつもりなのか、ティースがからかうようにしてそう言うと、

「あら。私にだって悩み事の一つや二つ、あるわよ」

「どんな?」

 そんなティースの問いかけに、シーラは彼を悪戯っぽい流し目で見て、言った。

「冷たい雨の中に飛び出して風邪をひく、手のかかる馬鹿な男が隣の部屋に住んでいる、とかね」

「……ぅぐ」

 その言葉にティースの口は完全に封じられてしまったのである。




 ……コン、コン。

 昼を過ぎ、熱に浮かされながら夢の世界をフラフラと彷徨っていたティースの意識を呼び戻したのは、部屋のドアを叩く小さなノックの音だった。

「どうぞ」

 答えたのはシーラの声。

 薄っすらと開いたティースの目に、手にした本を閉じて顔を上げるシーラの姿がぼんやりと映った。

 ずっとそこにいたのか、あるいはちょっと前にたまたま戻ってきただけなのか。午前中からずっと眠っていた彼にはわからない。

 カチャリ、と。

 ドアの開く音がほとんど聞こえないぐらいに静かだったのは、その向こうにいた人物が、病人であるティースのことを気遣っていたためだろう。

 そのことは、直後の潜めた声からも窺えた。

「……様子、どう?」

 子供のような幼い、甘ったるい声。

(エル、かな……)

 ティースはそう思ったが確証はなかった。

 まだ十分に覚醒しておらず、思考が混濁している。

「寝てるの?」

「ええ。そのようね」

 シーラの窺うような気配を感じて、ティースは彼女たちに何か反応を返そうと思ったが、頭が重くて声を出すのが億劫だった。

「休憩中?」

 と、シーラが部屋に入ってきた少女へと問いかける。

「うん。ボクのところはお昼が終わると少しの間、楽になるからね」

 小さな気配がベッドの横まで近付いてきたようだった。

 ふわり、と、鼻腔をくすぐる森の薫り。

 そこに住む妖精のような少女の姿を脳裏に浮かべながら、ティースは覚醒を諦めて、薄っすら開いていた目を閉じた――。

「――ティース様は」

 そして急に。

 さっきまでいなかったはずの人物の声が聞こえ、ティースは再び薄っすらと目を開けた。

(……リィナ?)

 一瞬の混乱。

 しかし、まぶたの裏に焼きつく光が微かに橙色を帯びていることに気付き、どうやらまた数時間眠っていたらしい、ということにティースは思い至った。

「あら。いらっしゃい。ようやく休憩時間?」

 シーラの声が先ほどまでと同じ位置から聞こえた。

「はい。今日は本館に複数のお客様がお泊りになられるので大騒ぎでした。今も十五分の休憩を交代で取っているところです」

 パタン、と、ドアを閉める音。

 近付いてくる足音はゆっくりだったが歩幅は大きい。その声の主、聖女のような穏やかな女性の姿を脳裏に浮かべながら、ティースは再度覚醒を試みた。

「お昼、食べたの? 十五分しかないのならこんなとこに来てる暇ないじゃない」

「いえ。ティース様のご様子が気になってしまって……」

「大丈夫よ。頼りない男だけど、体だけは意外と頑丈なんだから」

「それでも心配ですから」

 結局、リィナはそのままシーラの隣に腰を下ろしたようだった。

 そのタイミングで、ようやくティースの目がゆっくりと開く。

「う……リィナ?」

「あ。すみません、ティース様。起こしてしまいましたか?」

 ゆっくりと開けた視界に、心配そうに覗き込むリィナの顔が大きく映った。

 ――近い。

 ティースは思わず呼吸を止めてしまう。

「危ないわよ、リィナ」

 シーラが苦笑しながらそんな彼女の肩を軽く引いて言った。

「あなたが触れてしまったらまた面倒なことになるんだから」

「あ、そうでしたね」

 リィナが離れて、ティースはホッと安堵の息を吐いた。

 そしてリィナは申し訳なさそうな顔をする。

「でも、残念です。こんなときにティース様の看病もできないなんて……」

「……気持ちだけで十分だよ。君が悪いわけじゃないんだし……」

 ティースはじくじくと痛む喉から声を絞り出すようにしてそう言った。

 そう。彼女には何の非もない。

 リィナがティースの看病をできない理由は、もちろん仕事が忙しいということもあるのだが、それ以上に彼の特異体質によるところが大きいのだ。

“女性アレルギー”である。

 あまり耳にすることのない彼特有のこのアレルギーは、女性に触れられるとその瞬間から急激に意識が遠のき、数秒で気絶に至ってしまう、というものだ。だから手で熱を測ったり、食事で上半身を起こすのを手伝ったりすることさえできないため、とても看病どころではないのである。

 ちなみにこの女性アレルギー、ある程度歳の離れた女性であれば問題なかったり、ティース自身が極度の緊張状態にあると大丈夫だったり、また、彼にとって一番近しい女性である少女――つまりシーラに対しては絶対に発生しないという、なんとも不可思議な性質も持っている。

 原因は今のところ不明だ。

「……あ、そろそろ休憩時間が終わってしまいますね」

 五分ほど他愛のない世間話をした後、リィナがそう言って立ち上がった。

 ティースはそんな彼女を見上げるようにして、

「忙しいのにわざわざすまなかったな、リィナ」

 するとリィナは彼女らしい柔らかな微笑みを浮かべて、

「いいえ。私が勝手に来ただけですから。早く良くなってくださいね、ティース様」

 と、部屋を出て行く。

 ティースは枕から首だけを上げてそんな彼女の姿を最後まで見送っていたが、やがて彼女の姿が見えなくなると枕の上に頭を戻してホッと息を吐く。

(心配、してくれてたんだなぁ……)

 忙しい中、たかが風邪のことでわざわざ心配して来てくれたということを考えただけで、ティースの胸には暖かいものが広がっていった。

 シーラがそんな彼を見て、

「現金なものね。ずっと寝てたくせにリィナが来たとたん目を覚ますなんて」

「……たまたまだよ、そんなの」

 からかうようなシーラの言葉にそう返して何気なく彼女の脇にあるサイドテーブルを見る。

 と。

「あれ?」

 そこに、いかにも難しそうなタイトルの本が五冊も積まれているのが見えた。

 ティースは視線を上げてシーラの顔を見ると、

「お前、もしかして今日はずっと看ててくれたのか?」

 そう尋ねると、シーラは肩をすくめながら小さく首を振って答えた。

「そこまで暇じゃないわ。お前が寝付いてすぐ部屋に帰ったし、ここに戻ってきたのは今さっきのことよ」

「……そっか」

 ずいぶん早読みなんだな、と、ティースはそう思ったが、彼女に怒られそうな気がしたので口には出さなかった。

 その代わり、

(早く、治さないとな……)

 エルレーンを含め、多くの人間に心配をかけてしまっていることを自覚したティースは心の中で堅くそう決意したのだった。




 ネービスの北西、モンフィドレル領との国境にごくごく近いヴァルキュリス山脈の麓のあたりは、昔から“ヴァルキュリスの怒りに触れた土地”とされ、原因不明の局地的な大地震に見舞われることが多い場所である。周囲の土地はその影響によると思われる巨大な隆起で大きく波打ったような形状になっており、住みづらく、また交通の便も悪い地域だった。

 その地域で唯一人間が生活している場所に、スピンネルという名前の村がある。

 村の人口は老若男女合わせて約五十人。かつてヴァルキュリスの怒りを静める巫女の住まう村として一部の人間からの信仰の対象ともなっていたが、近年は貧困と定期的に発生する地震に耐えかねて外へと移り住む村人が増え、急激に人口を減らしつつあった。


 一人の旅人がそのスピンネルの村を訪れたのは、一ヶ月ほど前のことである。


 かつてスピンネルを出て行った村人の孫だというその青年が、祖父から譲り受けたという一枚の紙切れ。

 それが、この事件の発端となるのであった。




「お体の具合はいかがですか、ティースさん?」

 おっとりとした口調の中に隠しきれない気品と知性。

 親しみやすい雰囲気なのにその前に出ると思わず姿勢を正してしまう。

 屋敷の主にして、このネービスでも三本の指に入る大貴族ミューティレイク家の当主、ファナ=ミューティレイクはそんな感じの人物だった。

「やあ、ファナさん」

 当主といってもティースより約一歳ほど年下で未婚の十九歳。ほんの少し垂れ目がちなおっとりお嬢様で、声を荒らげるようなことはほとんどない。平均年齢の低いこの屋敷の使用人たちにも非常に慕われていて、ふとこうして唐突にティースの部屋を訪れたりするような気安さがありながら、ネービスの社交界でその家柄以外の理由でも一目置かれているような人物でもある。

「それにアオイさんも。わざわざ来てくれたのか」

 ベッドから身を起こし、二人の来客を出迎える。

 あれから三日。この日の昼過ぎになって熱はようやく下がっていた。……病は気から、とはよく耳にする言葉だが、やはり気力だけだとどうにもならないこともあるようだった。

「結構長引いたけどもう大丈夫だよ。明日ぐらいからは仕事にも復帰できると思う」

「それは良かった」

 と、ファナの後ろにいた男性――彼女の護衛兼執事であるイングヴェイ=イグレシウス、通称アオイがそう言った。

 黒い正装姿が堅い印象を与える男性だが、口調はファナと同じで柔らかく、穏やかな人柄を感じさせる。

「先ほど、先日ティースさんが助けた男性からお礼状が届いていましたよ。後ほど誰かに持たせます」

 アオイがそう言いながら後ろ手にドアを閉める。

 ファナはゆっくりと、まるで足音の立たない優雅な足取りでベッドまで近付いてくると、そこにあった椅子にふわりと腰を下ろした。

「本日は、シーラさんはどちらへ?」

「今日は学園だよ。よくわからないけど卒業前に一回生相手の講演があるとか言ってたな」

「そういえばシーラさんは卒業試験で首席合格でしたわね」

「うん。勉強できない俺にはよくわかんないけど、あいつはすごいよ、ホント」

 と、ティースは言った。

 彼女が通うサンタニア学園は、この学園都市ネービスにあってさえトップクラスの伝統と実績を誇る学園である。その学園の薬草学科を首席卒業ということは、この年代で薬草学を学んだすべての者の中でトップであるといっても過言ではない。

 もちろん学園を卒業することが終着点ではないから、これからの努力も必要不可欠ではあるが、少なくともこの先、薬師としての成功はほぼ約束されたと考えてもいいだろう。

「……」

 ティースは思わず黙り込む。

 ファナが言った。

「……寂しいのですか?」

「え? あ、いや、そんなことはないけどさ」

 おっとりとしたファナの視線に心を見透かされたような気がしたティースは、慌てて彼女から目を逸らして弁解した。

「やっとあいつも一人前になるんだなって、そう思っただけだよ」

 するとファナはクスクスと笑って、

「そういうのを寂しがっている、というのですよ?」

「う、ま、まあ」

 ティースはなんだか気恥ずかしくなって軽く頭を掻いた。

「なんだかんだで、あいつを卒業させることは俺の目標の一つだったからね。まあ、そういう意味ではちょっと寂しいといえなくもないかな? それにあいつ、卒業後は――」

 コン、コン。

 部屋に響いたノックの音に、ティースは言葉を止めて返事をした。

「どうぞ」

「……あ、やっぱりいた!」

 かちゃり、と、ドアが開いて、その向こうから姿を現したのは男物の執事服に身を包んだ少女――もう一人の執事、リディア=シュナイダーだった。

「やぁ、リディア」

 と、ティースは軽く手をあげて少女を迎える。

 一年前は男装がよく似合っていた少女も、一つ年齢を重ねて濃い金色の髪をほんの少しだけ伸ばし、その格好に少しの違和感を感じるようになっていた。

 ただ、本人はその服装がいたく気に入っているらしく、女物の服に着替えるつもりは今のところないようである。

「ちょっと、アオイさん! こんなとこでのんびりしてたらダメじゃん!」

「は?」

 入ってくるなりまくし立てたリディアの言葉に不思議そうな顔をするアオイ。

 だが、やがて、

「あっ!」

 慌てた様子で辺りを見回すと、ティースに向かって言った。

「ティースさん! い、今は何時でしょうか?」

「今? ええっと……」

 ティースは視線を動かして部屋の隅の時計を見る。

「もう少しで三時半になるけど」

「さ、三時半!?」

 その言葉にアオイは色白な顔をさらに青ざめさせる。

 そして、ファナに向かって言った。

「ひ、姫! 今日は確かネービス公のお屋敷に招待されていたのではありませんかッ!?」

「あら?」

 ファナは小さく首をかしげて、

「そうでしたか? 私には初耳ですわ」

「えッ」

 するとアオイは呆気に取られた顔をしてから、次に自分の記憶を辿るように視線を泳がせて、

「!」

 ハッとする。

「も、申し訳ありません! 今日は五時から、その、ええっと……い、今すぐ準備いたしますので!!」

「急いで急いで! ミリィさんにはあたしからもう伝えてあるから!」

 リディアがアオイを追い立てる。

 弾かれたように部屋から飛び出していくアオイ。

 それに対してファナが、

「転ばないよう気をつけてくださいね」

 変わらずのんびりとそう声をかけたが、ものすごい勢いで遠ざかっていく足音の主にはおそらく届いていないだろう。

(というか、のんびりしすぎだよなぁ……)

 そんな彼女を見てティースはそう思う。

 ネービス公といえばこのネービス領を収める領主、いわば王様であり、その人物との約束の時間が迫っているのであればもっと慌てていてもよさそうなものだ。必ず間に合うという確信があるのだとしても、である。

 そんなティースの考えを余所に、ファナはそこに腰掛けたときと同じく、やはりのんびりとした感じで音を立てずにゆっくり立ち上がると、

「それでは私も支度に戻りますわ。バタバタしてしまって申し訳ありません。久々にティースさんとお話をしたかったのですが」

「ああ、いや。忙しいのにわざわざ様子を見に来てもらえて嬉しかったよ。体のほうはもう大丈夫だから」

 ファナは穏やかに微笑んで、やはり音もなく踵を返すと部屋を出て行った。

「はぁ……」

 あとに残されたリディアが大げさにため息を吐く。

「あの二人は相変わらずだなぁ、もう」

「ご苦労さん、リディア」

 ティースがそう言うと、リディアは大きく肩をすくめてみせて、

「まったくだよ。そもそもアオイさんは時間の感覚が鈍いから、スケジュール管理の仕事は向いてないんだよね」

 と、言った。

 確かにティースから見てもアオイは基本的におっちょこちょいな性格だ。低血圧で寝起きも悪く、リディアのいうように時間の感覚も鈍い。そんな人間が当主であるファナのスケジュール管理をするのは、リディアでなくとも非効率的だと考えて当然だった。

 ティースは提案する。

「ファナさんに言ってみたらどうだい? いっそのことガードのほうに専念してもらうとか」

 だが、リディアは諦めたような顔をして、

「言ってるんだけど、ファナさんは“大丈夫ですわ”の一点張りだよ。……実際、ああやってドタバタすることはあっても大きな失敗はしたことないんだよねぇ。リカバリー能力が高いっていうのかな。それにまぁ」

 そう言ってリディアはストン、と、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。

「アオイさんのあの慌てっぷりを見てるのもそれはそれで楽しいんだよね」

「……ひどいな、そりゃ」

 相変わらずな彼女の物言いにティースは苦笑する。

 ティースは彼女たちの仕事に深く関わったことがないから、その辺りの詳しい事情はわからない。ただ、とりあえずファナが困っていないのならそれはそれでいいのかな、と思った。

「ところで、リディア」

 と、ティースは話題を変える。

「ん?」

「なにか話があるんじゃないのか?」

「どして?」

「だって」

 怪訝そうな顔のリディアにティースは言った。

「君のことだから、まさかそこに座って俺の様子を見に来たわけじゃないだろ?」

「む。なんか引っかかる物言いだなぁ。あたしがティースさんの心配したらおかしいっての?」

 リディアは不満そうに口を尖らせてそう言うと、

「ま、そのとおりなんだけど」

「……やっぱりか」

 苦笑。

 ティースと彼女の付き合いももう二年近い。十歳そこそこの頃からこのミューティレイク家で執事をやっている、この抜け目ないドライな少女のことはティースもそれなりによくわかっていた。

「病み上がりのティースさんに頼むのもどうかと思ったけど、動けそうなのが“クロス”しかいなくてね。だいぶ調子も良くなったって聞いてたから先に話だけでもしておこうかと思って」

 仕事の話だ。

 大きく頷いて、ティースはリディアに言葉の先を促した。


 ティースが所属するデビルバスター部隊“ディバーナ・ロウ”。ミューティレイク家の全面的なバックアップを受けて活動するこの組織は全部で五つの隊により構成されている。

 第一隊、“ディバーナ・ファントム”。

 第二隊、“ディバーナ・ナイト”。

 第三隊、“ディバーナ・カノン”。

 第四隊、“ディバーナ・ゼロ”。

 そして、ティースの第五部隊“ディバーナ・クロス”である。

 各隊はデビルバスターを中心とし、“ゼロ”以外の隊には数名のサポートメンバーがついて、だいたい三人から五人で構成される。

 また、それぞれの隊にはおおまかな役割が決められていて、

 隠密や潜入行動を得意とする“ファントム”。

 あらゆる任務をオールマイティにこなす“ナイト”。

 戦闘行動に特化した“カノン”。

 サポートメンバーの立ち入れないような危険な任務をこなす“ゼロ”。

 と、なっている。

 なお、ティースの率いる第五隊“クロス”はというと――


「今回も人助けがメインだよ。ディバーナ・ロウのイメージアップ頑張ってね」

 と、リディア。

 その言葉どおり、ディバーナ・クロスに与えられる任務は“人助け”がテーマである。

 もちろんディバーナ・ロウ自体が魔を退治して人を助けることを目的とする組織だし、他の四つの隊も人助けを行うことはしょっちゅうあるのだが、それは魔を退治したことの結果だったり、他の目的と平行して行われるものが多い。

 それに比べ、ディバーナ・クロスの任務というのは、ただ単純に人助けを目的とする。他の隊の場合は魔が絡んでいることがほぼ明らかである場合にのみ動くが、クロスはその可能性が低くても動くことができる。

 結果的に魔が絡んでいなかったとしても人助けができればそれでいい、ということだ。

 この考え方はティースがデビルバスターとなった理由とも親和性が高く、彼自身も非常にやりがいがあると感じている。もちろんリディアが口にしたように全体のイメージアップという側面があることも確かだったが、それはティースにはあまり関係のないことだった。

 ちなみにこうしてリディアが持ってくる話に対し、各隊を率いるデビルバスターたちには拒否権がある。手に負えないと感じたり、その内容に疑問がある場合は基本的に仕事自体を断ることも可能だ。

 ただもちろん、ティースのほうに断る理由はなく、

「聞かせてくれ、リディア」

 サイドテーブルのメモ紙とペンを手に取り、彼女に先を促した。

 リディアは満足そうに頷いて、

「ティースさん、スピンネルっていう村を知ってる?」

「スピンネル? 聞いたことあるけど……」

「だよね。一応ネービス領だけど、下手したら一番名前を知られてない村だし」

 そう言ってリディアはポケットから小さいサイズの地図を取り出し、ティースのベッドの上に広げると、指先をつつ、と滑らせて、やや横に長いネービス領の北西の端辺りを指す。

「ここのリガビュールの街は知ってるよね?」

「ああ、それはわかるよ」

 ネービス領随一の歓楽街リガビュールは、ネービス領の北西、西に接するモンフィドレル領にかなり近い場所にあり、ティースにとっても思い出のある街だった。

「そのさらに北西。地図上だとヴァルキュリス山脈の中にあることになってるけど、この辺はまだ山の中じゃなくてね。デコボコに隆起した変な土地なんだけど、その奥辺りにある村だよ」

「ああ、なんか聞いたことあるな、それ」

 地図上では確かにヴァルキュリス山脈の中に埋まるようになっていて、しかもネービス領なのかモンフィドレル領なのかもよくわからない、そんな辺境の土地に村がある――そんな話を以前、ティースは誰かから聞いたことがあった。

「そ。ここにスピンネルって村があるんだけど、依頼はそこの村人からでね。その人の名前はアメーリア=スピンネル」

「……女の人か」

 ティースは自然と眉をひそめてしまう。女性アレルギーである彼としては仕方のない反応でもあった。

 もちろんそんな彼の特殊体質と心情を知っているリディアは楽しそうな笑みを浮かべて、

「歳は聞いてないけど若いみたいだよ。美人だったらいいね」

「……勘弁してくれよ」

 ティースは傍目に可哀相なぐらい沈んだ顔をする。

 普通の男であればリディアの口にしたようなことを願うのかもしれなかったが、ティースにはとてもそんな風には考えられない。だいたい彼は女性アレルギーであることを除いたとしても、綺麗な女性を前にすると緊張してしまったりしてそれほど上手く話せないタチなのだ。

 だからこういう場合はむしろ、そんなことを気にしなくてもいいぐらいのお婆さんだったらいいのに、と、そう思ってしまうのである。

「……って待てよ。アメーリア=スピンネル?」

 ティースはハッとしてリディアを見る。

 女性というところにばかり気を取られてしまっていたが、もう一つ気にすべき点があったことに気付いたのだった。

「そのスピンネルって村の名前じゃないのか?」

 もちろんリディアもそのことは知っていたらしく、小さく頷いて、

「うん。まぁ昔は村の名前をファミリーネームにすることは珍しくなかったけど、この村は違うみたい。むしろスピンネルさんは他にいないらしいから、たぶん村の代表みたいな家の人なんじゃないかな」

「ああ、そうか」

 そういうことならば納得がいく。

 リディアは続けた。

「依頼の内容は単純で、村の近くにある洞穴から獣魔らしきものがたびたび出てきて村人を襲っているから退治して欲しい、ってことみたい」

「獣魔の特徴は?」

「うん。それがね」

 と、そこでリディアが少し言いよどむ。

「集めた情報だと、いまいち特徴がはっきりしなくてさ。オオカミぐらいの大きさだって言う人もいれば三メートルぐらいある巨獣だったって言う人もいて。……困ってるのは本当っぽいんだけど、いまいち信憑性のない話が多いんだってさ。それで、まぁ、もしかしたら、本当は獣魔なんかじゃなくて、ただの害獣退治にこっちを利用しようとしてるんじゃないかって。小さい村で男手もそんなにないみたいだからさ」

「ま、その辺は実際に会って話を聞いてみればわかるか」

 ティースがそう言うと、リディアは驚いたような顔をして、

「あれ。あっさり受けちゃうの? 怪しい話だから断ってもいいかなって思ってたんだけど」

 そう言ったが、いかにもわざとらしい。ティースが断ったりしないことを最初からわかっていた表情だ。

 ティースはそんな相変わらずの彼女に苦笑しながらも、

「困ってるのは本当っぽいんだろ? それに特徴を掴めてないから信憑性がないって決め付けるのはどうかと思うぞ。獣魔なんて普通の人には馴染みのない存在だし、じっくり見るわけにもいかないんだから」

「ん、まー、そうだけどね」

 と、リディアは何か含むような言い方をした。

 ……他に何か気になることがあるのだろうか、と、ティースはさらに聞いてみようと思ったが、それよりも先にリディアは席を立った。

「まぁ正式な話は明日、ティースさんが全快してからね。エルさんとリィナさんはあたしから伝えておくから」

「ああ」

 言いかけていた言葉を飲み込む。出かかった疑問もそのときにぶつけることにした。

「……」

 リディアが出て行くと部屋の中に静寂が戻った。窓から見える茜色の空。学園に行っているシーラもそろそろ戻ってくる頃だろう。

 ベッドの脇にあった愛剣“細波”を手にとって膝の上に置く。

 デビルバスターとなってから約八ヶ月。

 このディバーナ・クロスでいくつかの任務をこなし、そろそろ彼も新米とはいえなくなってきた。

(……一人前、か)

 新米デビルバスターからの卒業。

 卒業――。

「……」

 三月に入って最初の任務。

 帰りにはどこかで卒業祝いでも買ってこようか、などとティースは考える。


 大陸暦三百二十一年三月。

 この月はティースにとって忘れられない一ヶ月になりそうだった――。


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