プロローグ
――雨だ。
サァァァァァァ……という細かい雨粒が地面を叩く音に気付き、男は目を覚ました。
ゆっくりと顔を上げ、周囲の状況を確認する。
カビの匂い。
湿った空気。
偶然見つけた洞穴の中で息を潜めていたつもりが、いつの間にか眠ってしまったのだろう。
眠る前に握っていた短剣はそのまま右手の中。
――夢じゃなかったのか。
男はそのことに落胆しつつも、さらに外の様子を観察することにした。
洞穴から見える外の景色はほんの少しだけ明るくなってきている。朝、時間は午前五時ぐらいだろうか。とすると、二、三時間ほどは眠っていたことになる。
風の音。
草木の擦れる音。
ざわ、ざわ、と。
その音が聞こえるたび、心臓が早鐘を鳴らす。体とともに眠っていた恐怖心が、再び胸の中に沸き上がってくるのを感じた。
どくん、どくん、と。
胸が締め付けられるように痛む。
とても恐ろしい。
――ヤツはもう、どこかに行っただろうか。
――それともまだこの辺りをウロウロしているのだろうか。
外に出てそれを確かめたかったが、恐ろしさのあまり実行に移すことはできず、結局男はさらに二時間ほど、その狭い洞穴の中で息を潜めじっとしていた。
雨足は強くなっている。外は明るくなってきてはいるようだが、モヤがかかっていて全体的に視界が悪い。洞穴の中には雨水が少しずつ染み込んできて、うつ伏せになっている男の服はもうびしょぬれになっていた。
腰にぶら下げた袋に乾パンが入っていることを思い出し、体力を維持するためにと少し湿ったそれを口の中に入れたが喉を通らず、結局吐き出してしまう。
――早く帰りたい。
男は体を丸め、こらえきれずに嗚咽を漏らした。
昨日まで一緒にいた四人の仲間のうち二人が目の前で撲殺された。
“ヤツ”――その獣は体長三メートル以上はあっただろうか。二人の仲間たちは斧でその獣を迎撃しようとしたが、体中を覆う黒い体毛はそれらの刃物をまったく通すことはなく、逆に丸太のような腕が二人の頭部を叩き割り、首をへし折って、まだ明るかった森に大量の血飛沫を撒き散らした。
その無惨な最期は、今も脳裏に焼き付いたまま離れない。
男が残る二人の仲間とともに逃げ出すと、巨獣はすぐにその後を追ってきた。巨大な体を持つ獣の動きは見た目に反して明らかに彼らよりも速く、やがて仲間の一人は叫びながら道を外れて山の斜面を駆け下りていった。
巨獣はそれを追い、男は直後、仲間の断末魔の叫び声とともに、何かが砕かれる鈍い破裂音を聞くことになる。
そこからはもう記憶が曖昧だ。
夕闇に包まれつつあった山の中を逃げ惑い、いつの間にかもう一人の仲間ともはぐれ、やがて夜の闇が深くなる頃に人が一人ようやく入れるほどの小さな洞穴を発見して、そこに身を潜めたのだった。
――あの獣はなんなのだろう。
洞穴の中で体を丸め、恐怖と闘いながら男はその巨獣の姿を再度頭に思い浮かべる。
男は小さな村の若きハンターとして、十年ほど、村の近くにあるこの山の害獣駆除を担ってきた。村の農作物を荒らすサルやイノシシ、家畜を襲うオオカミやキツネ。仲間たちと協力してクマを狩ったことも何度もある。
今回の目撃情報を耳にしたときも、その類だと思った。
一緒に狩りに参加した四人のハンター仲間たちも同様に考えていたに違いない。
しかし――
体の大きさはともかくとして、斧の一撃も、矢の一撃も、すべて無効化してしまう巨獣の存在など、男は聞いたことがなかった。
そうしてさらに一時間。
男はついに、洞穴を出て山を降りることを決断する。雨とモヤで、洞穴の中から周囲の状況を把握するのは絶望的となっていたが、視界が晴れるまでこの洞穴にいては、いずれ山を降りる体力すらも削り取られてしまうだろう。あの巨獣がまだこの辺りをうろついている危険も十分にあったが、いずれにせよこのままじっとしているわけにはいかなかった。
狭い洞穴の中で、太ももの辺りを軽くマッサージする。
途中で脱げることがないよう、ヤギの皮で出来た革靴の紐をしっかりと結び直した。
――行こう。
男は決意してゆっくりと身を起こす。
と――そのとき。
男の耳がこれまでにない異質な音を捉えた。
雨の音。
風の音。
草木の擦れ合う音。
それらに混じって聞こえてきたのは、ずる、ずる、という足を引きずるような音だ。
男は再び姿勢を低くして、息を潜めた。
やがて――
男の心臓が一際大きな鼓動を打った。
モヤに包まれた景色の中に浮かび上がる、巨大な黒い影。
その大きさ、その息遣い。
それは昨日、男たちを襲った巨獣に間違いなかった。
男は咄嗟に口を両手で押さえ、息を殺す。
ドクン。
ドクン、ドクン――と、早鐘を打つ心臓。
その恐怖に自然と震えだす体。
恐ろしい。
ただ、恐ろしい。
幸い、その巨獣は洞穴目掛けて近付いてきているというよりは、その前を斜めに横切ろうとしているようだった。
男は巨獣がこちらに気付かないことを必死に祈りながら、ただひたすらに脅威が去るのを待つ。
ずる。
ずる、ずる――
やがて、モヤの中から黒い体毛に包まれた巨獣の姿が現れた。洞穴の中にいる男の存在に気付いた様子はなく、左手前方から近付いてきて、右手後方へと向かっている。
早く。
早く過ぎ去ってくれ――と。奥歯をグッと噛み締めた男は、やがてその巨獣の後ろに奇妙なものを発見した。
尻尾、だろうか。
巨大な獣の腰の辺りに、長い尻尾のようなものが見える。先ほどから聞こえていた、ずる、ずる、という音は、この尻尾を引きずる音だったようだ。
しかし――
男は巨獣と出会ったときのことを思い出す。そのとき、その獣に尻尾のようなものは――少なくともこれほどに長い尻尾は見当たらなかった。
ずる、ずる。
ずる、ずる――
やがて。
巨獣が洞穴の前を横切ろうとした、そのとき。
男はその尻尾――いや、尻尾だと思っていたものの正体を知ることになる。
「!」
それは巨獣に引きずられた、最後の仲間の死体だった。
血まみれの顔、生気を失った目が、ギョロリ、と、男を見つめる。
「――ギャァァァァァァァッ!!」
男はついに悲鳴を上げ、洞穴から飛び出した。
もう、何も考えられなかった。
雨にぬかるんだ地面を蹴り、草むらを掻き分け、途中、手にしていた短剣を振り返りもせずに後方へと投げ捨てて、一目散に駆ける。自分でもよくわからない叫び声をあげ、喉が破れるほどに荒い呼吸を繰り返し、木の根に足を取られそうになりながらも懸命に走り続けて――
ふ、と。
無意識に後背を振り返った男は、
「ッ――!!」
すぐ目の前に黒い巨体が迫っているのに気付いて、声にならない叫びを上げた。
と。
そのとき――
「……そのまま走ってッ!!」
森に響き渡ったのは、少女の声。
この場面にあまりにも不釣合いな、幼い少女の声だった。
しかしその声は幻聴ではない。
その証拠に――
「!?」
男の周囲を、急に不自然な風が渦巻く。
そして、
「グォォォォォ――ッ!!」
男のすぐ背後まで迫っていた巨獣が、怒りの声を発した。
「え――」
男には何が起きたか理解できなかった。巨獣の顔にはいつの間にか小さな刃物傷のようなものが複数出来ており、そこからは血のようなものが流れていたのだ。
さらに、
「そのまま! こちらへ走ってください!!」
今度は別の、柔らかな声質の大人の女性の声がした。
「!」
わけもわからずに、それでも男は弾かれるようにして声のした方角へと走り出す。
そして、
「エル! リィナ!!」
モヤの中から浮かび上がるようにして長身の影が現れた。
その青年は男と入れ替わるようにしてすれ違い、腰の鞘から両刃の剣を引き抜きながら巨獣へ向かって駆けていく。
「地の四十二族だ! リィナは男の人を! エルはこっちの援護を頼む!」
「了解!」
「任せてください!」
やがて息を切らせて走る男の視界に、二人の女性の姿が映る。
小柄でおとぎ話に出てくる妖精のような雰囲気の少女と。
修道女のようなフードをかぶった黒髪で長身の女性。
「ッ……!」
足がもつれ、転びそうになった男を長身の女性が抱きとめる。
「安心してください。もう大丈夫です」
「あ……あんたたちは――」
「私たちは――」
女性がその名を名乗る前に。
男は気付いていた。
自分たちを襲った規格外の化け物――異世界の生物、獣魔。
そんな化け物たちを専門に退治する者が、この大陸には存在することを。
「デビル、バスター……」
男はそう呟くと、ようやく命が助かったことを悟り、気を失ったのだった。
デビルバスター。
これはその称号を受けた者たちによる、戦いの記録の物語である。




