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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第1部と第2部の境界線
88/132

幕間『ミューティレイクの菓子職人』


 空と大地の境界線から、太陽の光がわずかにこぼれ始めるころ、ミューティレイク家に仕える使用人のほとんどは、男性使用人の長であるパブロ=シンプソンと、女性使用人の長であるアマベル=ウィンスターの元に一斉に集合する。

 毎朝ほぼ欠かさず行われる朝会では、挨拶、訓辞から始まって本日の予定や注意事項の確認をした後、使用人たちはそれぞれの持ち場へと向かう。この中には男性使用人であるフットマンやボーイのほか、屋敷の手入れを主な仕事とするハウス・メイド、台所周りの雑用を主な仕事とするキッチン・メイド、来客に備えて準備をするパーラー・メイドたちの姿もあり、およそ9割強の使用人たちがこの時間から動き始めることになる。

 そしてこの場にいない残りの1割弱――厨房の主役であるコックなどはここに含まれており、だからミューティレイクの菓子職人であるシュー=タルトの朝は、他の大勢の使用人たちに比べるとほんの少しだけ(本当にほんのわずかながら)遅く始まるのである。


「……なんか腹立つ夢を見た気がするな」

 窓から射し込む朝の光にチカチカする目をこすりながら、シューはゆっくりとベッドの上で上半身を起こしていた。

 外の明るさ、光の射し込む角度からすると5時半ぐらいだろうか。やや寝過ごしてしまったのかもしれない。

 アクビと同時に背伸びをして、のそのそとベッドから這い出す。カーテンを開けると、窓の外には薄緑色の広大な庭が広がっていた。

 季節に関わらず、見慣れたこの光景を見るたびに、今日も1日が始まるのだと実感する。

 ――パン!

 両手で頬を叩き、気合を入れてシューの朝は始まった。


 シュー=タルトはミューティレイク家の若き菓子職人である。誕生年月は大陸歴301年の11月だから、ティーサイト=アマルナと同年の生まれであり、月数にすると8ヶ月ほど年下の18歳だ。

 そんな彼がこのミューティレイクで働くようになったのがちょうど2年前。菓子作りを専門とするコックが彼ひとりであることを考えると、若くしてかなりの才覚を認められているのだと考えるのはさほど難しくないだろう。

 とはいえ。

 特殊な才覚を持つ人々の多く集まるこのミューティレイク家においては、逆に言うとその程度、とも言えるのかもしれない。

 つまり剣や体術の達人だったりするわけではなく、またウインクひとつで女性の胸を高鳴らせるほどの美形でもない。

 菓子作りに対する情熱と才能以外は、いたって凡庸な年相応の青年なのである。


「ああ、そうか……」

 制服のそでに手を通したところで、シューはようやく『腹立つ夢』の内容を思い出すことができた。

「ヴァレンシアのヤツがフライパン叩きながら起こしにくる夢だったっけ。ちぇっ」

 思い出さないほうが良かった、と舌打ちする。ひどく損をした気分だ。

 なお、ヴァレンシア――ヴァレンシア=キッチンは同じ屋敷で働くハウス・メイドのひとりである。シューよりもひとつ年下で、しかし屋敷の使用人としては彼よりもだいぶ古株の、彼にとってはやかましい妹分のような少女だ。

 念のため部屋を見回してみたが、もちろんそこに彼女の姿はない。華やかさのかけらもない無機質な部屋の壁があるだけだった。

「ま、いくらあいつでもこんな朝っぱらから押し掛けてくるはずないか……」

 そもそもシューの寝泊りするこの男性寮は女人禁制だし、女性寮は男子禁制である。いや、それがなかったとしても彼女の使用人としての1日はすでに始まっているはずで、昼の休憩まではそんなことをして押しかけてくる余裕もないだろう。

「……ないよな?」

 と。

 どう考えても当たり前のことなのにそう付け加えざるを得ない。ヴァレンシアはその程度には非常識な少女なのであった。




「――あたしはこう考えるわけよ。あたしたちって毎日毎日同じところを同じように同じだけの時間をかけて掃除するわけだけどそれってものすごく無駄なことなのよね。毎日使う部屋があれば1週間に1度しか使わない部屋もある。いやいやもしかしたら1年に1回しか使わない部屋もあるかもしれない。人の出入りがあるかないかで汚れ方はぜんぜん違ってくるわけだしもっと言えば使う人間によっても違ってくる。そこんところを考えればもっと効率的に掃除ができる。効率的にやれば時間が節約できる。時間が節約できると昼休みが長くなる。昼休みが長くなるとあたしが喜ぶ。だから」

 す、と、目の前に指が突きつけられた。その向こうにややクセ毛の、ネコのようにクルクルと表情の変わる瞳の少女がいる。

「あんたは昼までに、あたしのためにおいしいお菓子を作っとくこと。いいね?」

「……つか」

 普通の人間なら息もつかせぬ彼女のマシンガントークに気圧されてしまうかもしれない。だが、幸か不幸かシューはそんな彼女に慣れっこになってしまっていた。

 そう。

 彼女こそ、シューが今朝見た悪夢のヒロイン、ヴァレンシアである。

「なんでいつもそんなに偉そうなんだ、お前……」

 シューはヴァレンシアにそう返しながら、彼女の前を素通りして食器棚へ向かい、棚から半球型の木の器を取り出す。

 ちなみにコックである彼の仕事場はもちろん屋敷の厨房だが、菓子専門のコックである彼の持ち場は他のコックたちがいる厨房のさらに奥にある、小さな一室である。

 本体の厨房が戦場となっているときでも比較的静かで集中できる環境となっており、シューは一国の主気分にひたれるこの環境がひどく気に入っているのだが、ときおりヴァレンシアのような若い使用人たちの休憩所(時には隠れ家)になってしまうことが悩みの種でもあった。

「珍しく仕事の話でまともな切り出しかと思ったのに。どうして俺がお前なんぞに菓子を作ってやらなきゃならんのだ」

 シューがそう言うと、ヴァレンシアは当たり前だと言わんばかりの顔で、

「だってあんた菓子職人じゃないのさ」

「この屋敷の、な」

 器に木の実や焼き菓子の生地を入れ、力を入れてこねる。

 そうしながらシューはチラッとヴァレンシアを見て、

「俺の作る菓子はお嬢様や客人のものであって、お前に振る舞うためのものじゃない。まして自分の仕事をさぼるだけじゃ飽きたらず、こうして他人の邪魔までしてる不良メイドなんぞに食わす菓子はないな」

「さぼりとは失礼だなぁ。今はちゃんと休憩時間。それにファナ様だっていつもおっしゃってるじゃない。つまみ食いはバレないようにやれって」

「意味わからん。つーか、あのお嬢様がつまみ食いなんて俗っぽいことするわけないだろ」

「うわ、キモッ。シューってば女の子に幻想抱いちゃうタイプだね、きっと」

「その点については心配いらないぞ。お前のおかげで夢も幻もとっくに焼け野原だからな」

 シューが冷静にそう切り返すと、なぜかヴァレンシアは誇らしげに胸を張った。

「男どもの淡い夢を打ち砕く、ドリームブレイカー、ヴァレンシアとでも呼んでくれたまえ」

「嫌な称号だな、おい。つか、誉めてねぇからな!?」

「そう? 結構大事なことだと思うけどなあ。女の子に夢なんか見ちゃいけませんって」

「そのぐらいの夢なら黙って見させてくれよ……」

 シューは別に世間を知らない温室育ちの純真無垢な少年というわけではないが、それでも屋敷のお嬢様であるファナや、その他の美しい女性たちに対しては少しぐらい幻想を持ちたい、そんな年ごろでもあるのだ。

 とまあ。

 そんな風に他愛ない話題でヴァレンシアの相手をしながらも、シューは菓子職人らしく慣れた手付きで焼き菓子の生地をひと口サイズに整えていく。今日の客が幼い子供を連れてくると聞いていたので、いつもより小さめのサイズに作ることにした。

 そのままヴァレンシアとの会話も続ける。

「ま、いずれにしてもお嬢様はお優しいからな。たまには皆さんにもお菓子を振る舞ってあげてくださいね、なぁんて、あの麗しいお声でおっしゃられたことは確かにある」

「ほらほらぁ。でしょ、でしょ? だ・か・ら」

 ヴァレンシアが手を差し出した。

(……ったく、こいつは)

 シューは空いた時間によく試作品なんかを作って、その感想を他の使用人に求めたりしている。だからそれを彼女に頼むことにすれば、シューは感想をもらえるし、ヴァレンシアはお菓子を食べられるしでウィンウィンだろう。

 しかしながら。 

「……」

 手を差し出したまま、満面の笑顔のヴァレンシア。

 そういう顔をされると、とりあえず意地悪したくなるのが人のサガというものである。

「そりゃまぁ、お前の言うことにも一理ある。けど、どうしようかなあ」

 と、シューはわざとらしく難しい顔をして、

「どうせ食べてもらうなら、心から喜んでくれそうな人のために作ってあげたいんだよなぁ」

「するする。感謝してあげちゃうから」

「お前なんぞに感謝されてもなんの足しにもならん」

 シューが即答すると、ヴァレンシアは不満そうに口を尖らせた。

「むー。なにさそれー。じゃあ誰ならいいっていうのさー」

「ん? そうだなぁ」

 シューは仕事の手をいったん止めて、頭の中に屋敷の人々の顔を思い浮かべてみた。思い浮かんだのが女性ばかりだったのは、彼が健全な青少年である以上誰にも責められないだろう。

 その中でも真っ先に浮かんだのは、物憂げな表情が印象的な金髪美人の顔だった。

「やっぱローズさんかな」

 主に接客を担当するパーラー・メイドたちの長、ローズマリー=クロフォードは、容姿端麗な者が選ばれるパーラー・メイドたちの中でも一番の美人――つまり屋敷の使用人の中でもっとも美しいと評される女性である。

 もちろん、彼女はシューを含む数多くの男性使用人たちの憧れの的でもあった。

「あのちょっと憂いのある表情をほんのりと輝かせて感謝の言葉なんか言われた日には、さすがの俺でも舞い上がっちまうね、きっと」

 自然と頬が緩んでしまう。

 しかしヴァレンシアはあっさりと言い放った。

「あぁ、ダメダメ。ローズさんはそういうの受け取ってくんないから」

「へ? なんでだよ」

「超ネガティブだから」

「は? 意味わからん」

 確かにローズマリーという女性は思考がやや――いや、かなりネガティブすぎるところがあるのだが。

「それとこれと、どういう関係があるんだ?」

「だからさ」

 ヴァレンシアは人差し指をピッと立てて、

「自分ごときが贈り物なんてたいそうなものを受け取ってしまったら、絶対よくないことが起こるに違いない! って思い込んでるから、あの人」

「……」

 そんな馬鹿な、とは思わなかった。

「……あの人なら、まぁ、そうかもなぁ」

 シューも客人向けのお菓子を手掛ける際に、接客担当責任者であるローズマリーと仕事上の打ち合わせをすることが割と多い。

 彼女は外面が美しいだけではなく、使用人としての能力もまったく申し分のない人物なのだが、なぜか自分に自信が持てない性格のようで、ことあるごとに謝罪の言葉を連発する。しまいには『産まれてきてごめんなさい』などと突然言い出して場が凍り付き、打ち合わせが意味不明のフォロー大会になってしまう……というのがお約束だった。

「不思議だよなぁ。ローズさんってなんの欠点もない完璧な人だと思うんだけど」

「欠点なさすぎるから神様が無理やり設定したんじゃない? って冗談はともかく、あたしも理由は知らないなぁ。変に追究すると絶望して首吊りされるかもしんないし」

「笑えないよ、それ……」

 さすがにそこまでは、とは思うものの、自信を持って可能性を否定することはできない。ローズマリーという女性はそれほどの筋金入りなのである。

「ともかくローズさんはやめた方がいいよ。やぶ蛇になるからマジで」

「まぁいいよ。それならアマベルさんかな」

「え、ウチのボス?」

 ボス――もとい、アマベル=ウィンスターはヴァレンシアたちハウス・メイドたちを統括し、なおかつ一部を除く女性使用人全体を管理するハウス・キーパーである。

 ローズマリーほどではないがやはり美人の部類に入るだろう。長身のモデル体型にシニヨンスタイルのボリュームある巻き髪と一見ゴージャスそうな外見にも関わらず、童顔に眼鏡という、なんともアンバランスな魅力の持ち主である。

 極端に生真面目な性格が災いしてか男っ気はまるでないのだが、やはり男性使用人からの人気は高い。

「ダメだってばさぁ。ウチのボスなんかさ、逆に怒られちゃうよ」

 そう言うとヴァレンシアは胸を張ってあごを上げ、左手を腰に当て、くいっ、と、ありもしない眼鏡を人差し指で上げる仕草をした後、ビシッとシューを指さした。

「シューさん、あなたはこのお屋敷の菓子職人でしょう! お嬢様のために振るうべき腕を他のことに使うとはなにごとですか! ……ってさ」

「……お前、物真似うまいな」

 別人だとわかっていながら、ついつい萎縮しそうになってしまった。

「そう? 似てた? 完璧?」

 と、ヴァレンシアは嬉しそうに何度も架空の眼鏡をくいくいと動かす。

「ああ、まるで本人かと思ったぞ。その起伏のない体型にさえ目をつむれば――」

 ゴスッ!

「~~~~~!!」

 すねを思いっきり蹴飛ばされて、シューは悶絶した。

「……いくらあたし相手でも言っていいことと悪いことがあるぞコラ」

「すまんかった……」

 これは自分が悪かった、と、シューは素直に謝った。

 気を取り直して。

「し、しかしまぁ、確かにアマベルさんなら喜ぶより先にそんなこと言いそうだな。だったらアレだ。ローズさんもアマベルさんもダメなら――」

「ミリィさんとか?」

「そうそう。つか、なんでわかんだよ?」

「わかるに決まってるっつーの。それってウチらのボス3人衆じゃんか」

 ヴァレンシアは両手を広げて心底あきれたようなため息を吐いた。

 彼女の言うとおり、ミリィ――ミリセント=ローヴァーズも女性使用人たちのボス、もとい、責任者のひとりであり、当主であるファナの身の回りを担当する侍女長である。

 基本的に厳格な性格は先ほど話題に上ったアマベルと共通であるが、生真面目ながらどこか抜けたところのある彼女と違い、こちらはウイットにも富んだ、知的なクールビューティである。

「いいだろ、実際に3人とも美人なんだから。みんなまだ若いんだし」

「若いったってみんなあんたより4つも5つも年上だっつーの。ったく、年上趣味もいい加減にしろよなー」

「別にそういうわけじゃないけどさ。あの3人はどうしても目立つっつーか」

 というか、この話題自体がヴァレンシアににちょっと意地悪をしてやろうと思って始めたものである。心にもないことを言ったわけではないが、ヴァレンシアの言うとおり彼女たちは年齢的にも立場的にも上の存在で、現実にそういう対象として見ているわけではない。

「とにかくだ、ヴァレンシア。そんな話よりも――」

 そろそろ切り上げようかとしたところへ、ヴァレンシアはなにごとか思い出した顔で手をポンと打った。

「ああ。でも、あんたってば上だけじゃなくて下もイケるクチだもんねー。セシルちゃんなんかにもセコセコ餌付けしてるみたいだし」

「はぁ!?」

 なんだか予期せぬ方向に話が進み始めた。

 セシル――セシリア=レイルーンは屋敷の客人扱いの少女だ。将来有望な顔立ちをしてはいるが、今は愛らしさのほうが先に立つ13歳である。

 男女問わず、ほとんどの使用人から娘あるいは妹のように可愛がられていて、シューもついつい余ったお菓子などを振る舞ってしまうのだが、もちろんヴァレンシアの言うようなやましい気持ちなど抱いたことはない。

「ボス3人衆のみならずセシルちゃんも狙ってるとなると、これはもうアレだ。ケダモノだね。もしそんなうわさが流れたら、きっと屋敷中のお父さんお兄ちゃんたちは黙ってないだろうなあ」

「ちょっと待て!」

 シューはここに至り、この会話の流れはマズいとようやく感じ始めていた。

 言うまでもなくヴァレンシアはマシンガントークの持ち主である。彼女にかかれば、どんな根も葉もないデマ話であっても、半日後には屋敷中に広がってしまうだろう。

 そして今回の場合、それはシューという人格に対する屋敷内での評価が大暴落することを意味している。

「別にやましいことはねえよ! 俺はただ、あの子がものすごく喜んでくれるから――」

「黙れ、ロリコン」

「ちげぇよ! 俺はどっちかというと年上派だ!」

 とにかくセシルのことから話題をそらさなければと思い、シューは慌ててまくしたてる。

「だいたいお前、アマベルさんたちの年齢がどうこう言ってたけど、1番上のアマベルさんだって確かまだ25歳じゃねーか! ギリギリ適齢期だっての!」

 まくしたてた、その瞬間。

 ニヤリ、と、ヴァレンシアが気味悪い笑みを浮かべたのが見えて、シューは背筋がぞくっとした。

「ギリギリ? ギリギリって言った、今?」

「え、あ……」

 しまった、と、そう思ったときには手遅れだった。

 ヴァレンシアはスキップでも始めるんじゃないかと思うほどの上機嫌で、

「そっか、ギリギリかぁー。そうだよねー。ギリギリだよねー。うんうん。ギリギリ適齢期。うん、いい響きだねぇ」

「いや。いやいや、そういう意味じゃなくて、俺との年齢差がっていう――」

「そーだ。あたしアマベル様に用があったんだった。あ、お菓子は別にいらないから。なんか急にそんな気分じゃなくなっちゃったし」

 そっけなくそう言ってきびすを返し、

「さーて、ギリギリ様――じゃなかった、アマベル様のとこに行ってこよーっと」

「こ、コノヤロウ……」

「ん? どーしたの?」

「……」

 足を止めて振り返ったヴァレンシアはニコニコしている。

 ふぅっとシューはため息を吐いて、

「……リクエストは?」

 口は災いの元。背に腹は変えられぬ。

 後日の復讐を密かに心に誓いつつ、シューはガックリと肩を落とすのだった。


 そんな昼のできごとの後――

 

「今にして思えば今朝の夢は凶兆だったか」

 結局、想定してたヴァレンシアの分だけではなく、彼女と親しい使用人たちの分まで菓子を作らされてしまい、後でアマベル辺りに怒られてしまうのではないかと、シューは少しヒヤヒヤしていた。

 もちろん怒られてしまうときはヴァレンシアも道連れにしてやろうと考えてはいる。

「まったく。あの不良メイドときたら……」

 なんてボヤきつつも。

「ま、試作品の評判は上々だったし、よしとするか」

 ヴァレンシアたちがワイワイ言いながら菓子をほおばっていた姿を思い出し、最初から素直に作ってやっても良かったなぁ、なんてチラリと考えてしまうのは菓子職人のサガだろうか。

 午後に屋敷を訪れた客人も彼の手がけた菓子を褒めていた、とローズマリーから聞かされたこともあり、今日は彼にとってそこそこに満足度の高い1日だった。

 と、そこへ。

「あれ? どうしたの、シュー?」

 菓子厨房に響く、彼の作る焼き菓子よりも甘ったるい少女の声。

「肩落としてるのに頬が緩んでる。なにかあったの?」

「う……」

 そう指摘されて、シューは自分がいつの間にかニヤニヤしていたことに気付いた。傍から見るとかなり不気味な光景である。

 シューはどうにか表情を取りつくろいながら、声の主を振り返って、

「あぁ、エルか」

 そこにいたのは厨房でよく顔を合わせるキッチン・メイドの少女、エルレーン=ファビアスだった。シューよりも2つ、3つほど年下だと聞いているが、見た目はそれよりもさらに幼く見える、最近この屋敷で働き始めた少女である。

 両手には使用済みの皿を大量に抱えており、どうやら主人と客人との晩餐会も無事に終了したようだった。

「あ、そっか。足りなくてこっちから皿を持ってったんだっけ。あとは俺がやるから、その辺に置いといてよ」

「うん、お願いね。それで、なにかいいことあったの?」 

「いや、別にないよ。それどころか、またヴァレンシアのヤツに菓子を作らされてご機嫌斜めさ」

「あ、なるほど。それで、ね」

 エルレーンは一瞬で事情を察したらしく、抱えていた皿を置いてひょいっとシューの元に戻ってきた。

 身長差は25センチぐらいあるだろうか。近づくと下から見上げるような格好になる。シューの背が高いのではない。彼女の背が低いのである。

「キミとヴァレンシアは本当に仲いいね。兄妹みたい」

「兄妹? 冗談じゃない。あんながさつでうるさい妹はゴメンだよ」

 と、そうは言ってみたものの、逆に兄と妹ってのはこんなものなのかもしれない、と思った。妹どころか他の兄弟もいないシューには想像することしかできないのだが。

「そういうエルは? 兄弟いるのか?」

 と、逆に質問してみると、

「うん。双子の弟がひとりね」

「へぇ、ってことはお姉さんか。見えないなぁ」

 するとエルレーンは不服そうな顔をして、

「それって、ボクが子供っぽいからってこと?」

「まあ、そうだな。どっちかっていうと妹っぽい」

 笑いながらそう返すシュー。

 エルレーンのこういう怒ったような態度はだいたい本気ではない。外見や口調は確かに幼いが、中身は同世代の少女たちよりむしろおとなびている。それがわかっているから、シューとしても冗談の言いやすい相手だった。

 案の定、エルレーンは尖らせていた口をすぐにゆるめて、

「でも、確かに。ボクにもお兄さんみたいな人はいるかな」

「ん? ああ、ティースさんのことかい?」

「うん。小さいころからの知り合いだし、兄弟みたいなものだよ」

 彼女と、リィナという名のハウス・メイドの少女が、屋敷の客人であるティーサイト=アマルナの知人であることはシューも知っている。

 ちなみにそのティースに対するシューの印象はかなり薄く、背が大きい割に存在感がなく、まるで空気のような男だと思っていた。

 すると、

「キミって、なんだかティースと似たところあるんだよね」

「へ?」

 思いもかけない言葉がエルレーンの口から飛び出した。

「俺が、ティースさんと? どこが?」

 空気みたいなところ、と返されたらどうしようかと思っていたが、

「なんだかんだ言ってお人よしなところ、かな」

「お人よしって……」

 あまり褒められてるように思えず、どう言い返してやろうかと、シューはわずかに思考を巡らせたが、

「キミのそういうとこ、ボクは好きだよ」

「……ばっ、馬鹿言え」

 不意打ちでストレートな物言いに、思わず顔が赤くなってしまった。それを見られまいととっさに顔をそらし、止めていた片付け作業を慌てて再開する。

「俺のどこがお人よしだってんだよ。考えなしにそういうこと言うから子供っぽいって言われるんだぞ、お前」

 そんなシューに対し、背中の向こうにいるエルレーンがクスッと笑うのがわかった。それでさらに顔が熱くなったが、不思議と悪い気分ではない。彼女に邪気がないことがわかるからだろうか。

「……あれ?」

 と、エルレーンが怪訝そうな声を上げる。

「ん?」

 振り返って見ると、エルレーンはテーブルの上にあった、とあるモノに視線を止めていた。

「このお菓子、どうしたの? 今日お客さんに出したものと違うみたい」

「ん? ああ、試作品だよ。今日は少し余裕があったからレパートリーを増やそうと思ってね」

「パイ? 中身は――赤ワインみたいな色だね。この香りはルバーブかな?」

「正解。ルバーブとストロベリーのパイだよ。……よくわかったな」

 確かにルバーブには独特の酸味と風味があり、大陸の西方でよく使用される食材だが、このネービスではそれほど一般的なものではない。なんの知識も無い人間が即答できるものではなかった。

「食いしん坊だから、かな? きっと」

 エルレーンは冗談っぽくそう答えたが、彼女は食いしん坊どころかどう見ても小食の部類である。

(……そういやコック長も褒めてたっけ。新入りにしてはいい感覚を持ってるって)

 そんな彼女に、シューは少し好奇心を刺激されて言った。

「せっかくだし、良かったら食べてみて感想を聞かせてくれないか?」

「え? うん。いいよ」

 小さく切り分けたパイのひと切れをエルレーンが口に運ぶ。

 シューは少しドキドキしながら彼女の言葉を待った。

「……」

 少し時間をかけて、コクリと飲み込んだ音が聞こえる。

「少し酸味が強い、かな」

 エルレーンはすぐにそう言った。

 予想通りの回答だった。

 シューはうなずいて、尋ねる。

「これでも砂糖を多めに入れてるんだが、増やしたほうがいいか?」

「うーん、でも、あまりやりすぎると独特の良さがなくなっちゃうかも。これはこれで完成品として、なにか他のものを合わせてみるのはどうかな?」

「……なるほど」

 シューは密かに舌を巻いた。

 彼女の抱いた感想はシューが感じていたものとまったく同じだったが、彼はこのパイそのものの味をどうするかということばかり考えていて、これをそのままに、他のものを付け合せるという発想は盲点となっていたのだ。

「ちなみに――」

 ピン、とひらめくものはあったのだが、シューはあえて尋ねた。

「なにを合わせればいいと思う?」

「……」

 エルレーンは少し視線を泳がせ、やがてなにか思いついたような顔でシューを見上げた。

 そして彼と目が合った瞬間、まるで彼の考えを見透かしたかのように、その幼い顔におとなびた微笑を浮かべる。

「バニラフレーバーのアイスクリームはどう? これから暑くなるし、お客さんも喜んでくれると思う」

「それだ」

 もちろん心を読む術を持っているわけではなく、単に彼女の感性が優れているのだろう。

 心に、なにか得体の知れない高揚感が産まれた。

「……なぁ、エル」

「うん?」

 大きな瞳がシューを見上げる。

 高揚感がさらに強くなった。――といってもそれは色恋の高揚ではない。彼女の協力を得ることでなにか新しいものが生み出せるのではないか、という、菓子職人としての高揚感である。

「時間があるときでいい。次もまた意見を聞かせてもらっていいか?」

 同じコックという分類であっても、この屋敷で菓子職人といえるのはシューただひとりである。それは主や周りから腕を認められている証拠であるし、彼にとっての誇りでもあるのだが、それは同時にすべてを独りで模索し、独りで作り上げなければならないことを意味していた。

 まだ若い彼はいったん煮詰まるとそこから抜け出すのに時間がかかる。先ほどのように、簡単な発想さえも出てこなくなることがあるのだ。

 そんなときに彼女の助けが得られれば心強い、とそう思ったのである。

「え? それはもちろんいいけど……」

 エルレーンは即答したが、少し戸惑っているようでもあった。彼女自身には、自らの舌が優れているという自覚はないのかもしれない。

「助かるよ。じゃあさっそく試してみるか、バニラアイス。といっても完成は明日になりそうだけど」

「あ、それじゃあ明日の試食にはボクの友達を呼ぶよ。感想は多いほうがいいよね?」

「ん? ああ、もちろん」

 それは彼女の言うとおりだった。パイの大きさからして、4、5人はいたほうがいいだろう。彼女の友人といえばリィナと、それに最近はセシリアと仲がいいという話も耳にするので、おそらくは彼女たちのことだろう。

 もうひとり、シーラという屋敷の有名人もいるのだが、残念ながら彼女は今、遠方に出ている。

「そこで評判が良かったら、あさってにでもお嬢様にお出しするとしよう」

 シューは久しぶりに胸がワクワクするのを感じた。考えてみると新作を主人に出すのは久々のことで、どんな反応が返ってくるかと、早くも期待と不安で胸が高鳴る。

「なんだか、楽しそうだね」

「ん? そうか?」

 楽しいかといわれれば楽しいに決まっていた。だが、男があまりニヤニヤしているのもアレなので表向きはそっけないフリをする。

「じゃあ明日は――いや、明日からもよろしくな、エル」

 この日以降、エルレーンはなかば助手のような形で菓子厨房に頻繁に出入りするようになり、彼が菓子職人として飛躍するための助けとなる、のだが。


 後日。


「……うわ、ロリコンが来た! 近寄るな、変態!」

「だからちげぇってッ!」

 エルレーンと仲良くなったことで、再びヴァレンシアの理不尽な罵声を浴びることになってしまったことはいうまでもない。


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