その8『ディバーナ・クロス』
ティースたちが帝都ヴォルテストからネービスの街に帰ってきたころ、月は替わって7月になっていた。
午後の日差しは確実に夏の訪れを感じさせていたが、肌に感じる風は6月の帝都よりもむしろ涼やかで、この地がよそよりも寒冷な土地であることを改めて認識させる。
帝都に比べると幾分穏やかな喧騒の中、2ヶ月ぶりにミューティレイクの屋敷へと戻ってきたティースたちを迎えたのは、先に試験の結果を聞いていた屋敷の人々からの労いと祝福の声だった。
そう。
ティースは晴れて、デビルバスターとしてこの場所に戻ってくることができたのである。
「おめでとうございます、ティースさん」
執務室で聞いたファナの声が、ティースの耳にはひどくなつかしく聞こえた。
「ありがとう。ここまで来れたのも、ファナさんのおかげだよ」
「私はなにも。すべてティースさんの努力の結果ですわ」
「いや、そんなことないよ。ファナさんが俺をここに招いてくれなかったら――」
「あー、はいはい。謙遜合戦はそのぐらいにしておいてよね」
2人の会話に口を挟んだのは、ファナの隣に控えていたリディアだった。
まじまじとティースの顔を凝視して、
「にしても、見えないなぁ。デビルバスターになってもティースさんはティースさんのままだね」
ティースは苦笑して、
「当たり前じゃないか。脱皮するわけじゃないんだから」
「まあね」
リディアはころころと笑った。
ショートヘアと男物の執事服のせいでときおり少年のようにも見えてしまう少女だったが、今日は不思議とそういう印象がなかった。少し髪が伸びたせいだろうか。
こんな大きな屋敷の執事をやっていて、歳の割にしっかりした性格をしているからついつい忘れてしまいそうになるが、日に日に成長していく年ごろでもあるのだ。
「それにしても、お見事でした。ティースさん」
と、その場にはもうひとり。
ファナを挟んでリディアと反対側に控えているのは、ファナの執事兼ボディガードのアオイだ。
「私は正直なところ、合格する可能性はそれほど高くないと考えていました。いえ、実力的には申し分ないとは思っていましたが、本格的にデビルバスターを目指し始めてからわずか1年ということもありましたので」
するとリディアも深くうなずいて、
「この中じゃ本気で期待してたのってファナさんぐらいじゃないかなぁ。……でも、パースさんも惜しかったね」
「ああ……まあね」
リディアの言葉にティースは少しだけトーンを落とす。
再試験が100対0という一方的な結果となり、パーシヴァルはもちろん不合格となった。
ティースはそれが自分とパーシヴァルとの本当の実力差だとは思っておらず、もう一度やればまた違う結果になるだろうと考えているし、もしかすると両方合格なんて結果もあり得たのかもしれないと考えると、少し残念な気持ちにはなった。
ただ、結果は結果。
パーシヴァルも試合直後は茫然としていたが、すぐにいつもの調子を取り戻した。ショックがなかったといえば嘘だろうが、それを糧にできるだけの前向きさを持っている。
来年は間違いなく合格できるはず、と、ティースは勝手にそう信じていた。
と。
そんなティースの想いを察したわけではないだろうが、アオイが口を開いて、
「パースくんには来年またチャンスがあります。彼はまだ若いですし、合格する機会はきっとこれからいくらでもあるでしょう」
そんなアオイの言葉に、リディアがちょっとだけ眉をひそめて、
「そんな、何回でも、みたいなこと言わないでよ。帝都までの遠征費用だって馬鹿にならないんだからね。移動だけで往復1ヶ月以上、交通費に加えて本人とサポーターの宿泊費、あたしの給料何年分になるんだろうって考えたら背筋が寒くなるよ。……そうだ。試験に落ちるたびに本人の給料をカットしてくってのはどうかな? ね、ファナさん?」
ファナは微笑んで返した。
「でしたら、リディアさんも悪戯のたびに給料をカットしていくということでよろしいですか?」
「……まあ、頑張って働いている人の給料をカットするのは、モチベーション的にあまり良くないよね。うん」
あっさり手のひらを返したリディアに、ティースとアオイは視線を合わせて苦笑した。
「さて、ティースさん。今後のことですが――」
「あ、はい」
ファナの言葉にティースは少しかしこまった。
「まずはティースさんに御判断いただきたいと思います」
と、ファナは言った。
「判断? なにを?」
「もちろん、今後もディバーナ・ロウに残り、私たちに協力していただけるのかどうか、ですわ」
「へ?」
完全に想定外の質問だった。
「当たり前じゃないか、そんなの――」
当然のように肯定しようとする。
だが、
「待ってください、ティースさん」
その言葉をさえぎったのはアオイだった。
「そのお返事をいただく前に、少しお話しさせていただかなければならないことがあります」
「え? 話」
「姫。私からお話ししても?」
「ええ。お願いします、アオイさん」
ファナがうなずく。
「?」
ティースはますますわからなくなったが、ひとまず黙ってアオイの言葉を待つことにした。
アオイはティースのほうに再び向き直って、
「お話しさせていただくことというのは、このディバーナ・ロウの本来の在り方……つまりは存在理念についてです」
「存在理念?」
「はい。……リディア。呼んできてくれますか?」
「はーい」
アオイの言葉に、リディアは素直にうなずいて部屋の外へと出て行く。
「?」
わけがわからないままリディアを見送ったティースに、アオイは続けた。
「これからお話しすることは、この屋敷の中でも一部の人間しか知らないことです。後ろ暗いことではありませんが、おおっぴらにできることでもありません。ですから、もしもティースさんがこの話を聞いて、ここを離れることになったとしても、このことについては……時が来るまでは他言はしないよう、お願いします」
「……」
真剣なアオイの物言いに、ティースは少し不安になってファナの顔を見た。だが、ファナのほうは特に深刻そうな顔をするでもなく、いつもの穏やかな微笑みのままだ。
それで少し心が軽くなって、ティースはアオイに向かって言った。
「わかりました。続けてください」
アオイはうなずいて、
「簡潔に言います。この屋敷には、幾人かの『魔』が暮らしています」
「……え!?」
ティースは思わず大きな声を上げてしまった。
といっても、それはアオイが口にした事実に対しての驚きではない。
もちろんティースは知っているのだ。リィナとエル――彼の友人である2人の『魔』がこの屋敷に暮らしていることを。
しかし、
「ティースさん。アオイさんがおっしゃったのは、ティースさんのご友人のことではありませんわ」
「え?」
「ディバーナ・ロウは、もともと『そういう』部隊なのです」
「……そういう?」
ファナの言葉にティースがさらに困惑したところで、リディアが戻ってきた。
「連れてきたよー」
そして、
「や。おかえり、ティース」
「ティース様。御無事でなによりです」
「……リィナ? エル?」
リディアの後ろにその2人――リィナとエルの姿を認めて、ティースはますます混乱した。そして混乱したままで視線を正面に戻したティースに、アオイは言った。
「『キュンメル』という組織を、ティースさんはご存知ですね?」
「え? あ、ああ……」
それは以前、ティースがエルと再会するために訪れたリガビュールという町で偶然知り合った、エルバートという風魔の少年が所属している魔の組織の名前だ。
「人間に不当に虐げられている魔を救済する組織、だったっけ?」
アオイはうなずいて、
「表立ってはいませんが、キュンメルとディバーナ・ロウは協力関係にあります。ですから、あのころリガビュールの町でティースさんがなにをしていたか、そして――」
と、アオイは入り口付近に立ったままのエルに視線を送り、
「エルさんがどのような経緯でティースさんと再会したのか、我々は大体のところを知っているのです。もちろん彼女が人間でないことは最初からわかっていました」
リディアが続ける。
「リィナさんは、ウチの兄さんが直接会ってる――どころか戦ってもいるしね。ティースさんだって、本気でバレてないなんて、まさか思ってなかったでしょ?」
「……まあ、そりゃあ」
リディアの言葉にあいまいにうなずきながら、ティースはようやく事態を飲み込めてきた。
アオイが『判断する前に話さなければならない』と言ったその理由も。
「つまり、ディバーナ・ロウの存在理念というのは――」
アオイは深くうなずいた。
「魔の脅威にさらされる人々を助け、かつ不当に虐げられる魔を救い、最終的にはこのネービスに魔との共生体制を作り上げること。それがディバーナ・ロウの本当の目的です」
「……なるほど」
驚くべき事実ではあったが、今にして思えばディバーナ・ロウのメンバーには魔の存在を許容するかのような発言が多かった気がするし、レイがリィナのことを黙っていたことにもそれで合点がいく。
納得するティースに、アオイは続けた。
「人々に魔を受け入れてもらえるようにするには、まず魔の存在が脅威ではないことを示さなければなりません。我々が悪意ある魔を退治するのはそのための手段であって、本当の目的ではないのです。……40年ほど前、帝都の魔界学者が、良い心を持つ魔――『善魔』と、悪意を持つ魔――『悪魔』という呼称を用いるようになって以来、魔と共存しようという空気が大陸に広まったことが何度かあります。ですが、そのたびに『悪魔』の組織が大きな事件を起こし、機運は急速に萎んでいく……その繰り返しです。結局、魔の存在を受け入れてもらうには、まずはその脅威を排除しなければならないのです。『善魔』がその協力をしてくれたとなれば、説得力はさらに増すことになるでしょう」
アオイは熱っぽい言葉で語ったが、『善魔』や『悪魔』という呼称はティースには初耳だった。つまり、それはまだ一般的な認識ではないのだろう。
ティースとて、魔がすべて悪ではないと知ったのは、リィナやエルとの出会いがあったからだ。いわば偶然である。
「さて、ティースさん」
と、ファナが言った。
ティースは顔を上げて彼女の顔をまっすぐに見る。
「今のアオイさんのお話を踏まえた上で、再度、お伺いいたしますわ。……今後も私たち、ディバーナ・ロウにご協力いただけますか?」
「え? あ、えっと……」
ティースは言葉に詰まった。
といっても、別に迷ったわけではない。
「もちろんだよ。っていうか……今の話って、俺にとってはむしろありがたいことっていうか」
あまりにも自分にとって都合のいい事実だったものだから、逆に戸惑ってしまったのである。
「喜んで、協力させてもらうよ」
ファナはにこりと微笑んで、アオイは少しほっとした表情をした。
「あー、よかったよかった。あたしなんかもう、ティースさんが出て行っちゃうんじゃないかって、気が気じゃなかったよー」
と、棒読みのリディア。どう考えても嘘である。
ティースはアオイに視線を戻して、
「そういやアオイさん。この屋敷にいるリィナたち以外の魔って誰のことなんですか?」
と、聞いた。
するとリディアが自分に人差し指を向けて。
「あたし」
「いや、冗談じゃなくてさ」
「冗談じゃないってば」
と、リディアが口を尖らせる。
ティースはそれでも彼女の言うことを信じる気になれなかったが、
「ホントだよ、ティース。ボクもびっくりしたけど、リディアは空魔の一族だよ」
と、後ろからエルがそう言った。
「……へ?」
びっくりして振り返ったティースに、リディアはあっけらかんと言った。
「といってもハーフだけどね。あたしは覚えてないけど母親がそうだったみたい。あ、もちろんレイ兄さんもハーフだよ。どっちも人間寄りで生まれたみたいで、こうして生活するのに大きな支障はないけどね」
「レイさんも!?」
あんぐりと口を開けたティース。
エルがちょっと思い出すようにしながら言った。
「気まぐれで嘘つきなところは確かに空魔っぽいよね。2人とも」
「ひどいなぁ。あたしをあんな性悪と一緒にしないでよ」
「……まあ、その辺りの詳しい話は追々」
と、アオイが脱線しかけた話を軌道修正する。
「それでは引き続き、ティースさんの今後のことについて話を続けましょうか。……まず1週間ほどは、ゆっくり旅と試験の疲れを癒してください。正式なお話はその後になりますが、ティースさんには他のデビルバスターの方々同様に、隊をひとつ率いていただくことになります」
「……」
自然と頬の筋肉が固まった。
誰かの下で働いていた今までとは責任の重さが違ってくる。
「隊名は――姫?」
「ええ。ティースさん。以前、私がお渡ししたブローチをお持ちですか?」
「ブローチ? え? あ、ああ――」
と、ティースは襟の辺りにつけていたブローチを確認する。
十字の模様が刻まれたそのブローチは1年前――ファナと初めて会ったとき、エメラルドのブローチと一緒に贈られたものだ。
エメラルドのブローチはシーラが、そしてこの十字のブローチはティースが、ずっと身に着けている。
「これが、なにか?」
そう尋ねると、ファナはうなずいて言った。
「それが、ディバーナ・ロウの第5隊『ディバーナ・クロス』の隊章です」
「え?」
ティースは思わず間抜けな声を発した。
「隊員はすでに2名決まっています。エルさん、リィナさん。よろしくお願いいたしますね」
「ええっ!?」
さらに驚愕の声を上げて振り返ると、リィナとエルはすでに了承済みだったらしく、
「よろしくね、ティース」
「ティース様。私、ティース様のお役に立てるように精一杯頑張ります」
2人揃って、ペコリを頭を下げる。
当然、ティースは納得できずに、
「ちょっ……ファナさん! それって一体――!」
だが、ファナはいつもの穏やかな口調のまま返した。
「ティースさんがご不在の間に、エルさん、リィナさんとは色々とお話をさせていただきました。そして、『朧』を用いて人に変化してなお、魔としての力を強く残し、ティースさんのサポートをするのに十分な力があることも確認させていただきました」
「だからって――そ、そうだ! いくら力があるっていっても、人前でそんな力を使うわけにいかないじゃないか!」
「人前で力を使うことに関しては――」
と、ファナは机の中から2つの指輪を取り出す。
サファイアのような青い宝石。
エメラルドのような緑の宝石。
深い色の石をはめ込んだその指輪は、遠目にも不思議な力を持っているのがわかる代物だった。
「それぞれ水と風の魔石を填めた指輪ですわ。微々たるものですが、実際に力を行使できるアイテムです。これを身に着けておけば疑われることはないでしょう。それに疑われたとしても『朧』の力は絶対です。魔であると悟られることはまずありません」
「あ、いや、だからって――!」
「待って、ティース」
さらに声を上げようとしたティースの言葉を止めたのはエルだった。
「……エル?」
振り返ると、彼のすぐ後ろまで近付いてきていた小柄な少女は、長身のティースを見上げるようにして言った。
「それはボクのほうから言い出したことだよ。……キミには何度も話したと思うけど、ボクはもともと魔と人間の共存について興味があったんだ。ディバーナ・ロウの活動は、そんなボクの理想に合致してる。だから協力したいと思った。それだけだよ」
「……」
エルの真摯な視線になにも返せず、ティースは無言のまま、リィナに視線を送った。
リィナは小さくうなずいて、
「私はティース様やシーラ様のお役に立ちたくてこの世界に来ました。ティース様のお仕事のお手伝いができるのなら、それは私にとってこれ以上ない喜びです」
「……」
これまた言葉を返すことができず。
それでも20秒ほどの間、どうにか説得する言葉を探していたが、結局諦めて、ティースはため息を吐きながら再びファナのほうへと向き直ったのだった。
大陸暦320年、7月7日。
こうして、ディバーナ・ロウの第5隊『ディバーナ・クロス』は仮結成されたのである――。
ジェニス領――大陸の北東に位置する森と雨の国。
「目ぼしいデビルバスターは見つかったのかい?」
隠れ家を思わせる薄暗い小屋の中に、そのフードの男は待っていた。
パウロス=マジェットはその男が待ち合わせていた人物であることを確認し、小屋の扉を音を立てずに閉じる。
パラパラ……と、雨が屋根に落ちる音。
まだ太陽が上空に君臨している時間帯だったが、厚い雲に覆われて地表に届くのはほんのわずかな光のみ。小屋の中には3本のろうそくが灯っていた。
「フードを取ってくれないか? シアボルド。知ってのとおり、僕は陰気な空気があまり好きではないんだ」
「おぅ。そいつは失礼」
フードの奥から現れたのは無精ひげの男。
今年のデビルバスター試験を途中リタイヤした、シアボルド=マティーニだった。
シアボルドはテーブルの上にあったコップをあごで示して、
「お互い、無事に仕事を果たせたようじゃないか。とりあえず乾杯といかないか?」
「遠慮しておくよ。仕事中だからね」
「真面目だねぇ」
シアボルドは気にした様子もなく、コップの中に入っていた酒を一気にあおった。
「それで返答は?」
饒舌なパウロスにしては珍しく、少しでも短く話を切り上げたがっているのがありありと見て取れる問いかけだった。
シアボルドは酒を飲み干して満足そうな息を吐くと、
「人間として一番の盟友の頼みだ。断るはずもない。任せておいてくれ。……とさ」
「……そうか。助かる、と、マスター殿によろしく伝えて欲しい」
パウロスは感情のこもっていない礼をした。
「けど、その代わり」
シアボルドは軽薄な笑みを浮かべる。
「前にも話した『探し物』。いい加減、なんらかの情報は欲しいもんだ」
「……『アズラエル』のことか」
シアボルドは人差し指をパウロスに向けて。
「そう。その黒い背表紙の魔法書をベルリオーズの皆様は欲しておられる。20年ほど前、とあるデビルバスターがジェニス領に持ち込んだことまでは確認できているらしい。ま、今もジェニスにあるかどうかはわからんが、そっちの力で追跡ぐらいはできるだろ?」
「……そのことで、未確認ながら」
少しの沈黙。
パウロスは顔を上げて言った。
「本当にその魔法書かどうかは確認できていない。ただ、異様な、タイトルのない黒い背表紙の本の目撃情報があった」
「……ほう?」
シアボルドは意外そうな顔だった。
「で? そいつは今、どこに?」
「目撃されたのはヴォルテスト。ただ、持ち主は今、ネービスにいる」
再び、長い間があった。
「持ち主の名は、シーラ=スノーフォール。ジェニス領カザロス出身の娘だ」
「!」
パウロスの言葉に、シアボルドの目が大きく見開かれ、それから口元に再び軽薄な笑みが浮かんだ。
「……おもしろい。おもしろい話だな、そいつは。例のデビルバスターが最後に滞在していたのが、カザロスの町だと聞いている。……ネービスか。ちょいと厄介だが、なに。ネービスにはもうひとつ、ベルリオーズの皆様が求める宝がある。2ついっぺんに手に入ると考えればむしろ好都合だ」
「……」
パウロスはまったく表情を変えず、少し興奮した様子のシアボルドを黙って凝視していた。
「その情報が本当だったなら、大手柄だ。ベルリオーズはお前たちを永遠の盟友と認めるだろう」
「……」
パウロスの表情は変わらない。
「本格的にやるのはもう少し準備が整ってからだが、少し探りを入れてみるか。……そのシーラとかいう女について、もっと詳しい情報が欲しい」
「……」
「……おい、パウロス」
「ああ」
そこにほんの一瞬浮かんだためらいの色。
頭に過ぎった妻の悲しそうな顔。
それらは次の瞬間、国を想う心に押し流されて消えた。
すべては祖国のため。
パウロスは顔を上げて、言った。
「知っている限りのことを話そう」
ネービスの北方に広がる巨大山脈『ヴァルキュリス』。
あまりの険しさと、そこに生息する数多くの獣魔に恐れをなし、人々がほとんど足を踏み入れることの無い『魔の山』。
その山脈の一部である山の峰に『タナトス』と呼ばれる凶悪な魔の集団のアジトがある。
そのアジト――小屋の中は20畳ほどの広さで、真ん中から真っ二つに仕切りが設けられている。その間を行き来するには仕切りをぶち壊すか、いったん外に出て2つある入り口のもう片方から入るかの2通りしかない。もっとも仕切りをぶち破る方法は、その仕切りを作った人物の機嫌をいちじるしく損なってしまうことが目に見えているため、これまで誰も実践したことはなかった。
そして今日も、無難に後者の選択肢を取ったターバンの男――ザヴィア=フェレイラ=レスターは、いったん外に出て澄んだ山の空気を胸に吸い込んだ後、もうひとつの入り口の前に立ち、そしてドアをノックした。
「開いてるよ、ザヴィア。ネイルはまだ寝ているけど」
「失礼しますよ」
ゆっくりとドアを開き、ザヴィアはその場で慇懃に一礼をした。
部屋の中には2人の女性。
隅に敷いた布団の中ですやすやと子供のような寝息を立てているのが、タナトスの幹部であり、炎の将族でもあるネイル=メドラ=クルティウス。
そして、大きな姿見の前で腰の辺りまである長い髪を結っている振袖姿の女性が、ザヴィアのノックに対して返答をしたタナトスの総帥、マリアヴェル=フューレ=ソーヴレーである。
「おや。まだ身支度の途中でしたか。これは失礼を」
「いいよ」
琴を奏でたような不思議な声色でそう言うと、マリアヴェルはようやくザヴィアを振り返った。
「それで、どうしたの? なにかいいことがあったような顔してるけど」
「ええ、まあ。あなたにとっても少しは興味深い話かと思いましてね」
「なに?」
「ティースさんが、デビルバスター試験に合格したようです」
「ああ、そうか。そういえばそんな時期だったね」
「私が見込んだ人ですから、まあそのくらいは当然なのですがね」
ザヴィアの皮肉っぽい言葉に、マリアヴェルはなにも言わずに白い鈴を長い髪の先端に結んだ。
ちりん、と、甲高い音が鳴る。
「ただ――」
ザヴィアは腕を組んで、フフッと笑みをこぼした。
「もう少し、放っておこうかと。もっと色々な人から頼りにされて、色々なものを背負って、それから摘み取ってあげたほうが、きっといい顔をすると思うのです」
「キミの好きにするといいよ、ザヴィア」
「おや? あなたは彼に執着はないのですか?」
意外そうなザヴィアに、マリアヴェルは流した視線を彼の顔に止めて、
「私はただ、ディバーナ・ロウが憎いだけ。ティースさんがディバーナ・ロウでなくなるのなら、キミを殺して彼を助けるかもしれないけどね」
「よくわかりませんね、あなたの思考は」
マリアヴァルは鈴のように笑って、
「冗談だよ、ザヴィア」
「でしょうね。冗談でなければ、私は今ごろこの世には存在していないでしょうから。それこそ――そう。昨日、あなたとリューゼットさんが楽しそうに皆殺しにしたベルリオーズの尖兵たちのようにね。……良かったんですか? これであの恐ろしい王魔たちを敵に回したことになりますが」
「関係ないよ」
本当に気に留めた様子もなく、マリアヴェルは言った。
「このネービスで好きなことはさせない。そう、警告したつもりだったんだけど」
「……ま、私はどっちでもいいですけどね。怖い人たちはあなたとリューゼットさんにお任せしますよ」
「どこに行くの?」
「少し気分転換に」
ザヴィアがふところから取り出した笛を吹くと、無音の音色に誘われた巨大な鳥型の獣魔が小屋の外に舞い降りた。
その鳴き声に、眠っていたネイルが目を覚まして不機嫌そうな声をあげる。彼女が不機嫌に任せて炎の騎士たちをけしかける前に、ザヴィアは獣魔の背に乗って空へ上っていった。
見送ったマリアヴェルは布団の上で目をこすっているネイルを振り返って、
「おはよう、ネイル」
ちりん――と、鈴が音を鳴らす。
「んー、おはよー」
「いい天気だよ。……ああ、そうだ。こんな日はお弁当を作ってピクニックに出かけたいね」
「ぴくにっく? なに、それ?」
「ああ、キミは知らないんだね。じゃあクロイライナとリューゼットを誘って行ってみようか。きっと楽しいよ」
マリアヴェルがそう言うと、
「昨日の殺し合いとどっちが楽しい?」
「さあ。同じぐらいじゃないかな」
「じゃあ行く!」
ネイルは少し眠気が飛んだらしくパッと顔を輝かせた。
そんな彼女に微笑を漏らし、マリアヴェルは小屋のドアを開いた。
差し込んでくる――まばゆい陽光。
まぶしい光。
目を細め、彼女が見つめるその先にはネービスの大地が広がっていた。
「――。」
なにごとかつぶやいて。
そうして扉の外、陽光の中へと歩を進める。
ちりん――
優しい鈴の音。
そうしてマリアヴェルの姿は、外に広がる朝の陽光の中へと溶けていった。
-了-