その7『トーナメント~再試験』
「これは――クリストフ先生」
開いた扉の陰から現れたその人物の姿を見た瞬間、クインシーは一瞬だけ言葉に詰まり、それから素早く立ち上がって深々と頭を垂れた。
ティーサイト=アマルナとパーシヴァル=ラッセルの再試験が決まった日の夜。本来ならば、この日の決勝戦をもって審査員のお役御免となるはずだったクインシーの部屋を訪れたのは、真っ白な白髪の老人だった。
「お初にお目にかかります。私は――」
「313年合格のクインシー=フォーチュンだろ。覚えとるわ」
「……」
老人の言葉に、頭を下げたままのクインシーの顔がわずかに紅潮した。羞恥ではなく、名前を覚えてもらっていたという喜びのためである。
「あれからもう7年か。頑張っておるようだな」
老人は扉を閉じ、その外見に似合わない素軽い足取りで部屋の中央まで進み、ソファに腰を下ろした。
それを見て、クインシーも老人の正面のソファまで移動する。
「なにか、飲み物でもご用意しましょうか」
「いや、構わんでくれ。今回の審査員の中で、お主だけ卒業以来だったものでな。どんな男に成長したか見たくなっただけだ。長居するつもりはない」
老人――クリストフ=ベルクールはこのデビルバスター協会の会長である。
大陸で最年長のデビルバスターでもある彼については様々な逸話があり、若いころには、神話上の生き物に等しい『ひと桁台』の獣魔と対峙したこともあるとされ、見た目は60歳前後に見えるが、そのときに浴びた獣魔の返り血の効能で老化が極端に遅くなっていて、実年齢は100歳を越えている、というようなかなり怪しいうわさもある。
それらのうわさについて本人は一度も肯定したことはなく、その多くが実際の出来事を誇張したものであることは想像にかたくないにせよ、多くの魔を退治し、多くのデビルバスターを育て、数々の輝かしい功績を残した大陸でもっとも有名なデビルバスターのひとりであることに間違いはなかった。
ゆえに、クインシーのように直接師事したことがなくても、この老人のことは敬意を込めて『先生』と呼ぶ者が多いのである。
クリストフはソファの背もたれに身を預け、なつかしむように目を閉じた。
「313年か。あの年はなかなかの豊作だったな。あの年のサン・サラス――カレル=ストレンジとお主の1戦は良く覚えておる。ヤツは元気か? お主たちは確かネスティアスの同僚であったと記憶しておるが」
「はい。今は共に部隊長として配下を率いる立場です」
「ふむ。ネスティアスのディグリーズは相変わらずの逸材揃いだの。うらやましい限りだ」
そう言って小さく笑った後、少し黙り込んで、クリストフはゆっくりとクインシーを見つめた。
「お主らのその力、いずれ借りるときが来るかもしれん」
「と、いうと?」
クインシーが眉をひそめる。
デビルバスター協会はあくまでデビルバスターの資質を持つ者を選別し、その称号を与えるだけの機関である。その後の管理は基本的には行わないし、彼らを統率したり命令したりという権限も一切持っていない。
クインシーがこうして審査員として出向いているのも、いわば恩返しのボランティアのようなものであり、それ以外、協会との接点は無きに等しかった。特にネスティアスという組織に属しているクインシーにとって、奉公すべき相手はネービス公であり、デビルバスター協会ではないのである。
クリストフとて、そんなことは百も承知のはずだ。
にもかかわらず――
……と。
そんなクインシーの反応は予測済みだったらしく、クリストフはすぐに言葉を続けた。
「お主、『ベルリオーズ』という連中の話は当然聞いておるな?」
「はい。最近、ネービスでも警戒を強めている魔の組織のひとつです。今のところ表立った動きはないようですが、力の強い魔が集結しつつあるとの情報も聞いております」
「さすが、ネスティアスも耳が早いな」
クリストフはゆっくりとうなずいて、
「こちらでも帝都のデビルバスターたちと協力して情報を集めているが、お主の言うとおり表立った動きがないゆえ、ぼんやりとした情報しか得られておらぬ。ただ、連中のトップはどうも、王魔族のようでな」
その言葉は、クインシーの表情を瞬時に険しくさせた。
「王魔? 王魔族が、こちらの世界に?」
「『魔王』級の輩が2名以上、しかも、退屈した王魔の気まぐれではなく、こちらを侵略する意思がある輩、と私は見ておる」
「……もしそれが事実であれば由々しきことです。もちろん、我々ネスティアスも協力を惜しまないでしょう」
さらに表情を厳しくして、クインシーはそう言った。
王魔は魔界の支配者層で、本来好戦的な存在ではなく、人間界に姿を現すこともほとんどない。ただ、そんな彼らがひとたび牙を剥くと、その脅威は大陸中を震撼させる。
王魔自体、基本的には人間の手に負える相手ではないのだ。完全に孤立させた状態で、選りすぐりのデビルバスターたちが複数名で相手をし、ようやく打ち倒すことができるかどうか、という存在なのである。
それが、人間界にいる将魔や上位、下位魔たちを集め、集団となって侵略してくるというのであれば、その危険性については改めて説明するまでもないだろう。
過去、そういった事態に、国境を越え、大陸中のデビルバスターたちが協力して対処したという記録は100年に1度ぐらいの頻度で、いくつか残っている。
クリストフが言っているのは、つまりそういう事態に発展する可能性がある、ということなのだろう。
「まだ推測の段階だがな。年寄りの杞憂で終われば良いのだが」
「なるほど。しかし、それで得心がいきました」
クインシーはそう言って目の前の老人を見つめた。
「今回、再試験の実施を決められたのはクリストフ先生だと伺いました。近い将来、ひとりでも多く、優秀なデビルバスターが必要になるかもしれない、と、そう見込まれてのことなのですね?」
「ま、それだけではないが。……ところでクインシーよ。お主はあの2人、どう見る?」
クリストフは少し口調を変え、口元を緩めてクインシーの顔をまっすぐに見た。
「……」
試されている気がしてクインシーはわずかに緊張した。だが、この老人の前で取りつくろうのは無駄な気がして、結局彼自身が感じているままの感想を口にする。
「パーシヴァル=ラッセルは『息吹』に特化した性質を持っています。あの2本のトンファーを攻撃に、防御に、と、常に動かし続けられるのは無尽蔵なスタミナを有している証でしょう。……将来、有望な少年だと思います」
「ふむ、同感だ」
クリストフは大きくうなずいた。
「『剛力』に優れるイストヴァン=フォーリーもそうだが、特化型の心力を持つ者は自らの戦術を定めやすいというメリットがある。その点、バランス型のステルシア=ブライトンは、優秀だが、この先、しばらくの間は苦労するかもしれんな」
クインシーは少し考えて、
「集団の中では、どちらも使い方次第だと思います、が、1対1の試合形式では、特化型が優位であることは否めません」
そう言ったクインシーに対し、クリストフは細い目を少し大きめに開いて、
「ならば、再試験はパーシヴァル=ラッセルが優位と見るか?」
「いえ」
クインシーは即座に首を横に振った。
「ティーサイト=アマルナも特化型です。あの力の特化型は客観的に見ることができない分、非常にわかりづらいですが、おそらく間違いないでしょう」
「お主も、気付いていたか」
クリストフは満足そうだった。
どうやらクインシーは『見る目』について合格点を与えられたようだ。
「再試験はおそらく互角でしょう。……そういう試合になれば、私は双方合格とすることを主張しようと考えています。彼らはすでに、それに値するだけの力を見せています」
と、クインシーは言った。
だが、
「ふむ。まあ、仮に良い試合になったとすれば、それも検討するとしようか」
クリストフはその件についてはあまり肯定的ではないようだった。
試験当日。
その日は曇り空だった。風上の空には黒に近いグレーの雲が広がり、雨が降り出すのは時間の問題だ。
ただ、もちろん天候に関係なく再試験は実施される。
再試験は本戦と同じ会場で行われるが、本戦と違うのは無観客で実施されることだ。正確に言うと、受験生の関係者や各国から訪れているスカウトなどは観戦可能だが、それ以外の一般人は基本的に入場禁止となっている。
試合開始予定は正午ちょうど。
その、30分ほど前のことである。
「あら?」
観客席の最前列に姿を現した女性は、そこに見覚えのある男が座っているのを見つけ、ためらうことなく近付いていった。
「イストさん。あなたも来られてましたか」
「……ステルシアか?」
呼びかけにゆっくりと首を動かしたイストヴァンは、その声の主が昨日の決勝戦の相手であることを知って、少しだけ目を大きく見開いた。
ステルシアの服装は試験のときとは打って変わり、胸元に蒼い宝石をあしらったワンピース姿で、パイナップルのように束ねていた髪もすべて下ろしていた。
昨日とはまるで別人の令嬢の装いで、イストヴァンが少し戸惑ったのも無理はない。
「怪我はもう、平気なのか?」
「ええ。打ち込まれたアザが上半身に集中していて助かりました。腕の怪我は長袖で容易に隠せますが、足の怪我を隠すのはなかなか苦労するのです」
「驚いたな。……」
そう言ってなにか言葉を続けようとしたイストヴァンだったが、結局なにも言わずに口を閉ざした。
どうやら、もともと口数の多いほうではないようだ。
ステルシアも特に追求することなく、彼の隣に腰を下ろして試合場に視線を送った。
「イストさんもこの再試験に興味がおありでしたか」
「実力の近い人間の戦いは色々と参考になる。君も、同じだろう?」
イストヴァンの言葉に、ステルシアは微笑みながら首を横に振った。
「いいえ。私は単純に、あの2人のどっちが強いのか、興味本位です。あなたやパーシヴァルさんの戦い方は、私にはあまり参考にはならないのです。真似できそうにないですから」
「ん? 君は、パーシヴァルやティーサイトと知り合いなのか?」
ステルシアはうなずいて、
「はい。この試験の直前に話をさせていただきました」
そう答えると、イストヴァンは理解できない顔をした。
どうやら彼が言った、知り合いの定義とは違っていたようだ。
だが、それも特に口にすることはなく。
ステルシアが観客席をぐるりと見渡して、
「スカウトの方々も、何人か見に来ておられるようですね。あそこにいるのは、身内の方でしょうか」
と、2時の方角を見てそう言ったが、イストヴァンはあまり興味がなかったのか軽く一瞥しただけだった。
「イストさんはこの後、どちらへ?」
「この後? ……ああ。フィンレー領で活動する予定だ」
「フィンレー? 今年はスカウトの方を見かけませんでしたけど、フリーですか?」
「ああ。集団で行動するのはあまり得意じゃなくてな」
「そうでしたか」
ステルシアはそれについては特にコメントすることなく、
「いずれにしてもフィンレーであればお隣様ですね。私はヴィスカイン領で騎士となる予定です。またお会いする機会があるかもしれません。……そうそう。今日、再試験を受ける御二方はネービスのようですから、皆、比較的近所ということになりますね」
「……」
イストヴァンはなにか言葉を返そうとして、結局なにも思いつかなかったらしく口を開かなかった。
少し強い風が試合場の中に吹き込んでくる。
無言が少し長く続いた後。
今度はイストヴァンのほうから口を開いた。
「君は、どちらが勝つと思う?」
「パーシヴァルさんが勝つと思います」
即座に答えたステルシアに、イストヴァンは少し驚いた顔をした。
「……理由は?」
ステルシアはそんな彼を横目に見て、
「根拠はありません。実は私、あなたとティーサイトさんの試合を見ていないのです。ですから、正直にいえば予想はできません。ただ、心情的に、私と戦ったパーシヴァルさんに勝って欲しいと思っているだけです。……あなたは?」
イストヴァンは少しの間、黙り込む。
やがて、つぶやくように言った。
「……わからん」
そんな彼に、ステルシアは少し吹き出すように笑って、
「それでは予想にならないではありませんか。ずるいです」
「ああ、いや。そういう意味ではなく。いや」
と、イストヴァンは意外にもうろたえたような様子で、
「言葉足らずですまない。わからないのは試合の結果ではなく、あのティーサイトという男のことだ。……いや、だからこそ試合の結果もわからないということになるのだが、つまり、私と戦ったとき、あの男は前半と後半でまったく違う戦い方を見せた。その、どちらが出るかで、再試験の結果も正反対になる、と、そう思っている」
「まったく違う戦い方……?」
「戦い方、というのも正確ではないか。まるで別人になった、というべきかもしれないな」
そういってイストヴァンは試合場を遠い目で見つめた。
……その目には、あるいはそのときの試合の光景が映っているのだろうか。
ステルシアはそんなことを思いながら小さくうなずいて、同じように試合場を見る。
「あなたにそこまで言わせるのであれば、なにか持っておられるのかもしれませんね。私もティーサイトさんと戦ってみたくなりました。……意外、ですか?」
イストヴァンの視線に気づき、ステルシアがそう尋ねると、
「ああ、いや、すまない。そういうことに興味がありそうには見えなかった」
「私だってこの世界で生きている人間ですから」
ステルシアはさも当然のようにそう言ったが、今日のお嬢様然とした彼女の装いでは、イストヴァンの戸惑いのほうが正解だろう。
やがて、彼らから見て反対側の通路から審査員たちが1人、2人と姿を現し始めた。
そろそろ時間だ。
審査員たちの大半が席についた辺りで、選手入場口から再試験を行う2人、ティースとパーシヴァルが姿を見せる。本試験と違い、紹介のアナウンスもなければ観客の歓声もない。淡々と、静かに試合の準備が整えられつつあった。
「どちらもリラックスしているようですね」
そこから見える2人の表情を見て、ステルシアがそう言った。
どちらも本戦第1試合以来、十分な休養を取っている。おそらくは力を出し切れる状態だろう。
武器は、ティースが標準サイズの中剣。
パーシヴァルが標準よりかなり長い2本のトンファー。
試合場の中央で、2人が向き合う。
イストヴァンは特に意味もなく上空を見上げた。
頂点にあるはずの太陽は、雲に隠れて見えない。
そうして彼が試合場に視線を戻した、ちょうどそのとき。
前振りもなく、審判員の声が響いた。
「――はじめ!」
その場にもし、人の心を読むことのできる人間がいたとするならば、その試合場の2人の心をのぞいて、おそらくその頬に苦笑を浮かべたことだろう。
……相手は自分より格上だ、と。
滑稽なことに、その場にいる2人はどちらもが目の前の相手にそんな印象を持っていたからだ。
ティースはこれまで何度も稽古で剣を交えてきたその結果を思い返して、勝率で大きく上回るパーシヴァルを格上の相手と見ていたし、パーシヴァルはパーシヴァルで、ティースが自分より上だと感じる理由があって、結果、どちらもが『今までの稽古と同じように戦っては勝つのは難しい』という結論に達していた。
パーシヴァルはひと晩考えた。
今まで培ってきた自分の戦い方を完全に捨てて戦うことなんてできるはずもない。
だからパーシヴァルは、稽古のときよりもよりシビアに勝ちを求めることにした。
彼の持つ2本のトンファーは攻防一体の武器だ。その両方の武器に攻・防をどのぐらいの比率で乗せるかで、戦い方はがらりと変わる。
そしてパーシヴァルは戦士としての自らの長所もよく知っていた。それは無尽蔵の――といってしまうと語弊があるが、他人よりも圧倒的に優れた持久力だ。
2本の武器を振り回すパーシヴァルは、普通に考えればティースに比べてスタミナの消耗も激しい。だが、彼はそれを補って余りあるだけの持久力をその体の中に宿していた。その証拠に、稽古の結果を見ても、試合が長引けば長引くほどパーシヴァルの勝率は良くなっている。
ただ。
これまでパーシヴァルは意図的に試合を長引かせようとしたことはなかった。
理由は簡単だ。実戦では試合のように1対1になる状況のほうが珍しく、無闇に戦いを長引かせて得をすることはあまりないからである。実戦に向けての稽古という意味では、試合を長引かせて勝つことのメリットがなにもないのだ。
だが、しかし。
今日、この再試験という場においては、違う。
勝つこと。
勝ってデビルバスターの称号を手にすることが、パーシヴァルにとって唯一、最大のメリットなのである。
もともと、格上の人間を相手にするとき、序盤は防御重視で始めることが多い。だが、それでも攻・防の比率はせいぜい3対7ぐらいだった。
しかし。
今日、この試合は可能な限り、防御に徹しようと決めていた。
1時間戦おうが、2時間戦おうが構わない。
ティースに一撃も決めさせることなく、スタミナ勝負に持ち込んで、勝つ。
それがパーシヴァルの考えた、必勝の作戦だった。
一方――
ティースの考えはもっとシンプルだった。
今までどおりやっても、勝てる可能性はよくて2、3割。その2、3割に賭けるのも悪くはないな、なんて少し考えてしまったのはティースらしいといえばらしいが、今の彼はその2、3割よりもっと大きな誘惑に心を揺さぶられていた。
『あの感覚』である。
それが先のイストヴァンとの試合、あの一度きりのものであったなら、こんなにも心を揺さぶられることはなかっただろう。
だいたいティースは一か八かとか、当たって砕けろとか、そういう博打みたいな考え方は基本的には好まない。どうしようもなくなって賭けに出ることはあるが、そうでない選択肢があるのなら、そちらを選ぶ。
当然だ。砕けなくて済むのならそのほうがいいに決まっている。
ただ。
今、ティースの中の『あの感覚』は、一か八かの世界ではなくなりつつあった。イストヴァンに敗北した後、すべての試合を見つめてきて、そして『それ』が気のせいなんかではないことを確信していたのだ。
今にして思い返せば、その感覚はずっと彼の中にあったのかもしれない。
実戦ではいつも必死になっていて一瞬一瞬のことを思い返すだけの余裕がなかったし、稽古では今日は調子がいいとか、相手の調子が悪いんだろうとか安易に考えて、真剣にその感覚を追求することはなかった。
イストヴァンとの一戦でそれに気づけたのはただの偶然。
最初に圧倒的な実力差を見せ付けられた。にもかかわらず、あとでそれをひっくり返せそうな戦いができた。
その最大の要因となったのが『あの感覚』。
それをはっきりと認識し、常に念頭において他の試合を見つめていると、それは思った以上に頻繁に自分の身に訪れていることがわかった。
気のせいなどではない。
それは紛れもなく、彼の中にある『力』だ。
次にティースは、その感覚を操ろうと試みた。
ずっと見えているわけではない。じゃあ、その見える瞬間を自分の好きなようにコントロールすることはできないだろうか、と。
それについては、可能かどうかの結論は出ていない。正確にいうと、うまくできているかどうかを試す機会が得られていなかった。それはやはり、自ら戦いの場に身を置いていなくては、はっきりと体感することができないものだったのだ。
そしてあれ以来、初の実戦。
ティースはこの場でそれを確かめようと考えていた。昨日までの試合を見つめてきた中で、それが一か八かの範囲を超えた、という手ごたえがあったから。
それがティースの、パーシヴァルに五分以上の確率で勝つための作戦だったのである。
「ティースさん」
「……!」
集中しすぎていたせいだろうか。
一瞬、それが誰の声かわからなかった。
ただ、試合場の中心にいる人間は2人だけ。その声の主が誰であったかなど、改めて確認するまでもなく。
パーシヴァルの視線がティースを捉えていた。
頬にはかすかに笑みが浮かんでいる。
それが余裕の笑みか緊張の笑みか、はたまたまったく別の意図が込められているのか、ティースには判断できなかった。
「もちろん、勝たせてくださいなんて言うつもりはありません。でも、今日は俺が勝ちます」
まだ試合は始まっていない。しかし、パーシヴァルはもう構えていた。
腕から肘を覆うようにトンファーを握り、両手を胸の前に持ち上げる構えはまるで空手のよう。あのまま盾のように斬撃を受けることもできるし、長い柄を回転させて殴りつけることも、短いほうの柄で突きを放つこともできる。滅多にやらないが、握りを長い柄の部分に持ち替えて槍のように使うことも、握りの部分を刃に見立てた長柄の鎌のように使うこともできる。
ティースはそんなパーシヴァルに対し、同じような笑みを返して、
「俺だって負けるつもりはないよ。パース。たとえ君が相手でもね」
不思議と――と、いうべきか。新しいことを試そうとしている割に緊張しないのは、相手が戦い慣れたパーシヴァルだからかもしれない。
この光景は、ネービスで幾度となく繰り返してきた光景。
観客がほとんどいないこともティースにとっては幸いだった。
緊張せず、全力を出せる。
自然と、ティースも剣を構えた。
焦点を目の前の少年に合わせる。
(長引けば、俺が不利になる……)
双方ともそれを理解していて、互いがそれを理解していることまで理解している。
だからパーシヴァルが守り主体で来るだろうことも、ティースは予測していた。
少年が携える2本のトンファーは頑丈な盾だ。ただし油断してはいけない。その盾はときおり、思わぬところで剣や槍に化ける。
そんな彼に勝つためには――
(やるしか、ない)
その力が自分のものであることを、信じて。
2人が構えて向かいあったまま、5分ほどが経過しただろうか。
少し遅れていた最後の審査員が姿を現して、すべての準備が整うと、審判が2人の間に近づき、試合は始まった。
「――はじめ!」
その声が響いて、試合場の空気が瞬時に重くなる。
強い風がティースの髪をなびかせた。
いや、風が吹いたのではない。
ティースが動いたのだ。
「はぁっ!!」
2人の距離が瞬時に縮まる。
先に仕掛けるのがティースであることは、わかりきっていたことだった。その動きを予測していたパーシヴァルはほんのわずかに後ろにステップする。
一撃の重さ、速さは、両手で武器を扱えるティースのほうが上だ。パーシヴァルの動きは、自分にとって一番有利な距離、つまりはティースの攻撃が最大の力を発揮できない距離を保つためのものだった。
ただ――
「――?」
パーシヴァルは少し怪訝そうな表情を浮かべ、
「!?」
次に、そこに驚きの色を浮かべる。
ティースの突進を牽制するために、左のトンファーをわずかに動かした。それは攻撃するためのものではなく、あくまで牽制。攻撃が来ると思わせて、突進をためらわせるための動きだった。
だが――
ティースの突進はまるで鈍らなかった。
「っ!」
パーシヴァルはとっさに両方のトンファーを体の前で交差させた。
直後。
ティースの初撃が、交差したトンファーの上からパーシヴァルの体を薙ぐ。
「っ……!!」
重い。
ためらいのない一撃だった。
(一か八か……!? それとも牽制だと見抜いた……?)
その初撃はどうにか防ぎきったが、ティースに万全の体勢で撃たれては、パーシヴァルも片手で受けきることができず、2本の武器を活かすことができない。
基本、パーシヴァルの長所は相手を戸惑わせるトリッキーな戦い方にある。
そのまま3合ほど打ち合って、再び距離を取った。
パーシヴァルの脳裏に迷いが生まれる。
(どうする。ティースさんが捨て身で来るのなら……!)
それは同時に、打ち込む隙があるということでもある。
事実、さっきの牽制をもし本気で放っていたなら、その一撃は間違いなくティースの体を捉えていただろう。
なら――
いや、それがティースの作戦なのかもしれない。
パーシヴァルの頭がぐるぐると回り始める。
――どうする。
初心を貫き、防御に徹するか。
ひるがえって、攻撃に転ずるべきか。
パーシヴァルの選択は前者だった。いや、正確にいうと、もう一度ティースの出方を見る、という選択だ。
これは実戦ではなく試合だ。仮にもう一度様子を見て、たとえわずかな点数を失うことになったとしても、まだ挽回のチャンスはある。攻撃に転じて隙を突かれ、致命的な一撃をもらうよりマシだ、と、そう考えたゆえである。
(もう一度、確認したい……)
パーシヴァルの頭はまだ冷静だった。
距離を空けていたのはほんのわずかな時間でしかない。短期決戦を望むティースと、長期戦を望むパーシヴァル。その構図に依然として変化はないのだから当然のことだ。
動いたのはやはりティース。
パーシヴァルが迎え撃つ。
今度はパーシヴァルも踏み込んだ。
踏み込んで、右のトンファーを動かす。
だが、それも牽制だ。攻撃的な体勢になりつつも、実際には2本ともティースの攻撃に備えている。ただ、体勢が違えば今度こそティースも警戒するだろう、と、そう考えたのだった。
しかし――
(……ティースさん――!?)
やはり、飛び込んでくる動きに迷いがない。
「どうして――ッ!」
思わず、声に出た。
鋭い一撃がパーシヴァルを襲う。備えていたため、すぐに防御の体勢を取ることはできたが、完全ではなかった。
力強い横薙ぎに、右の壁がほんのわずかに崩れる。
ティースはそれを見逃さなかった。
「はぁ――ッ!」
「くっ……!」
立て続けに繰り出された突き。
パーシヴァルが後ろにステップを踏む。
「おぉぉぉぉ――ッ!!」
ティースが追って、さらに剣を突き出す。
パーシヴァルは左のトンファーでその剣の側面を打とうと試みたが、それは間に合わなかった。
とっさに体をひねる。
「ッ……!」
ティースの剣の切っ先はパーシヴァルの右脇腹にかすかにめり込んでから、防具の表面を滑るようにして外に流れた。
カン、カン――!!
すぐに、有効打を示す鐘の音が2回鳴り響く。
20点。
パーシヴァルにとっては、その程度で済んで良かった、と思える点数だった。
大きく距離を取る。
ティースも決めるつもりの突きだったのか、体勢が崩れていたため追ってこなかった。
そのタイミングで、審判の判断でいったん試合が止まる。
有効打があったときに試合を続行するかいったん止めるかは審判の判断だ。基本的に大きな有利不利がないときに限り試合を止めるが、これは、ラッキーな一撃からなし崩しに試合が決まってしまうことを極力防ぐためのルールである。
ただ、体力を回復するほどの間はない。
すぐに2人は中央で向かい合った。
構える。
パーシヴァルは点を失いはしたものの、防具の上からの一撃だったので痛みはない。
だが、
(……まさか、ティースさん。俺が牽制を多く使うのを見越して、本当に一か八かの飛び込みを――?)
ここにきて、パーシヴァルは少なからず動揺していた。
今まで、稽古の中でティースが捨て身になったことなんて――最初のころ、少しムキになっていた時期に何回かあった程度で、それ以外はほとんど見たことがない。
――いや。
考え直す。
よく考えてみれば、これはいつもの稽古ではない。試験だ。だからこそパーシヴァルはいつもよりも防御を固めて望もうと考えた。
ならば、ティースが同じように、いつもと違う戦法を取ったとしても、それは不思議なことではないだろう。
――どうする。
2度目の自問。
牽制が通じないのであれば、防御に徹しても、いずれ先ほどのように崩されることになるだろう。
……そう考えさせることが作戦だろうか。
再び、頭がぐるぐると回る。
きりがない。
もう一度仕切りなおして、同じ失敗をしたら、また同じところに戻ってくるだけだろう。ただし、今度はもっと大きな点を失っているかもしれない。
なら――
攻撃に転ずるしかない。
パーシヴァルは決断した。
他に選択肢はなかった。軽くてもいい。こちらに攻撃の意思があることを示さないと、相手の攻撃を防ぐ手がなくなってしまう。長期戦を考えるのは、そうしてからでも遅くはない。
試合が再開される。
3度目も、最初に動いたのはティースだ。
これはたぶん、10回やれば9回は同じ結果になるだろう。互いの戦いのスタンスを知っているがゆえの必然である。
ただ、今回は前の2回とは違う。
トンファーを握る手に力が入る。
今度は牽制ではない。
右のトンファーは防御用に力を込めて。
左のトンファーはかすかに握りを緩める。手首を返せば回転したトンファーが瞬時にティースに襲い掛かるだろう。
(3度も、同じ手は通じない――!)
そして3度目。
2人の影は、試合場の中心で交差した。
「……イストさん」
ステルシアの言葉はイストヴァンの耳には届いていたが、視線は試合場の上に釘付けになったままだ。
かすかな風が円状の観客席を渦巻いて2人の髪をなびかせる。
もしもこれが本戦であったなら、熱を帯びた歓声が試合場に送られていたことだろう。
ステルシアの言葉にも、それに近い熱が籠もっていた。
「あのティーサイトさんは……『どちらの』ティーサイトさんですか?」
「……どちらも、なにも」
イストヴァンは視線を動かさないまま、答えた。
「あれが、あの男の本当の力なのだろう」
その声は冷静だ。イストヴァンはそれを一度目の前で体験している。驚きも戸惑いもなかった。
「そうですか」
一方のステルシアの言葉には明らかな驚きと、興奮が含まれている。
その証拠に。
そうしてイストヴァンに話しかけるステルシアの視線は、ずっと試合場に釘付けになったままだった。
「……どうやって、見切っていると思います?」
「『見えて』いる。ただ、それだけだろう」
「それは……わかりやすいですね」
そう言いながらも、ステルシアの声には、賛同しがたい、という色が多分に含まれていた。
実際にパーシヴァルと戦った彼女にしてみれば、それも当然のことだろう。試合結果を見ればわかるように、彼女はパーシヴァルとの幾度かの駆け引きの結果、最終的に勝ちを手にしたという、ただそれだけのことだった。
今のティースがやっているように、それらをすべて見切った上で戦っていたわけではない。
ステルシアはさらに問いかけた。
「ティーサイトさんは、あなたのときも、そうだったのですか?」
「……」
イストヴァンは無言のままでうなずく。
『見えて』いる。
その結論に達して、イストヴァンは納得した。
彼と戦ったときもそうだったのだ。別に動きが速くなったとか、斬撃が急に鋭くなったとか、そういうことはまったくなかった。
ただ――いうなれば、的確に動くようになった。
細かいフェイントに動じなくなって、攻撃をまるで先読みできているかのように動くようになった。
それはたぶん、時間にしてコンマ数秒の優勢。
しかしその時間は、彼らの戦いの世界では圧倒的優位に立つのに十分すぎるほどの時間だ。
「あの男はおそらく、その『時間』を自分のものにしたのだろう」
イストヴァンがそう言うと、ステルシアは初めて視線を試合場の上から彼に移し、そして言った。
「イストさんは、もう一度やっても彼に勝てますか?」
「……」
「……すみません。意味のない、失礼な質問でしたね」
ステルシアはすぐにそう言って謝罪すると、付け足すように言った。
「私はきっと、今のままでは彼に勝てないでしょう。……合格に浮かれていてはいけませんね。この世界にいる限り、上は果てしなく遠い。……私はもう戻ります。あなたは?」
「俺は最後まで」
「そうですか」
そう言ってステルシアは立ち上がる。
言葉は少し落ち着いていた。
「ヴィスカインに寄られた際には、是非ブライトン家をお訪ねください。粗酒粗餐ではありますが、宿を御用意させていただきますので。機会があれば、あの御二方にもお伝えください。……では」
「……ああ」
彼女が立ち去る際も、イストヴァンは終始、試合場を見つめたままだった。
ティースは手ごたえを感じていた。
それは、今までと違う感覚だ。
はっきりと、今までとは違う。
違う世界が見えていた。
トンファーの動きに気を取られ、今まで見えていなかった手の動き、足の捌き、力の入り具合、それによる次の行動の予測――
とっさに左のトンファーに攻撃を合わせると、それは甲高い音を立ててあっさりとパーシヴァルの手を離れた。
(ここだ――!)
パーシヴァルの表情がこわばったのがわかった。
彼を守る盾はあと1枚。
しかもティースの予想外の攻撃に体勢は崩れている。
夢中で、ティースは畳み掛けた。
パーシヴァルもとっさに右のトンファーで――防御を諦め、相打ち狙いの一撃を放ってくる。
それも『見えて』いた。
「はぁぁぁぁぁ――ッ!!」
そのトンファーを、柄の余った部分――剣首で弾く。
「ッ!?」
パーシヴァルの表情がゆがんだ。
2枚目の盾も崩れ落ちた。
あとはもう、打ち込むだけ。
袈裟懸けに、振り下して――。
ティースの勝利を告げる鐘の音は、彼の剣がパーシヴァルの体に届く前に鳴り響いていた。