その6『トーナメント~決勝~』
夜、ミューティレイク本館の1階ホールには、いつものようにだらしない格好で足を投げ出し、麦酒の杯を傾けているレイの姿があった。
「あ、いたいた! レイくん!」
そんな彼に声をかけてきた人物の正体は、振り返るまでもなくわかった。使用人たちの多くはすでに使用人寮へ戻っている時間だったし、そもそもこの屋敷の中で彼のことをそんな風に呼ぶのはひとりしかいない。
「アクアか。相変わらず騒がしい――」
ところが、振り返ったレイは少しだけ意外な顔をする。
「っと、珍しいじゃないか」
その視界に入ってきたのはアクアだけではなかったのだ。
「……」
アクアの後ろに見える、別に不機嫌でもないはずなのに不機嫌そうな顔をしている少年は、やはりディバーナ・ロウのデビルバスターであるレアス=ヴォルクスだった。
11歳という歴代最年少の若さでデビルバスターの称号を手に入れたその少年は、お世辞にも社交性が高いとはいえない性格だ。主にコミュニケーションを取ることが目的のこのホールに姿を現すことは、レイの言うとおり比較的珍しいことである。
「あー、疲れた! あ、そこのワイン、もらおうかな」
アクアがレイの向かいの席に腰を下ろし、テーブルの上にあった赤ワインのビンを指差す。
「好きにしな。レアス、お前も飲むか?」
「いらん」
レアスはやはり不機嫌そうに断って、アクアと同じように席に着く。
2人はつい先ほど、揃って任務から帰ってきたばかりだった。
午後10時を知らせる時計の鐘が鳴る。人が少ないせいか、その音はいつも以上に大きく聞こえた。
アクアが自分で持ってきたワイングラスに赤紫の液体を注ぎ、レイは手にしていた杯の麦酒を飲み干す。
レアスはそんな2人を退屈そうに見つめて。
言葉を切り出したのはアクアだった。
「で?」
「で、とは?」
言葉を向けられたのはレイ。わかっている口調で、わからないと聞き返す。
続けたのはレアスだった。
「連中の結果は?」
「ああ。試験の話か」
わざとらしく思い出したようにつぶやくレイ。それが彼のいつもの言い回しであることを知っている2人は特にそのことを突っ込むでもなく、ただ彼の言葉を待った。
レイは少しからかうような口調をレアスに向ける。
「なんだ。アクアはともかく、お前まで気にしてたとは意外だな」
「そんなんじゃねぇよ。ただ、事実の確認をしたいだけだ」
無関心を装いながら話の先を促そうとするレアスに、レイは小さく笑って、
「ついさっき、ちょうど決勝の結果が入ってきたところだ。ちなみに決勝の組み合わせは――」
「……じゃ、なくてさー」
と、少し焦れたのかアクアが不満そうに口を尖らせる。
「あたしたちはまず、ティースくんとパースくんの1回戦の結果が知りたいの。ちょうど仕事だったからまだなにも聞いてないのよ。意地悪しないで早く教えなさいよー」
「やつら、1回戦は通ったのか?」
と、レアス。
その言葉はもちろん、合格のボーダーが1回戦通過であることを意識した上でのものだ。
レイはそんな2人の言葉を聞き流すようにして言った。
「決勝の組み合わせは、ステルシア=ブライトンとイストヴァン=フォーリーだ」
「だから、決勝の組み合わせじゃなくってぇ――」
「……ってことは」
再び不満声を上げようとしたアクアをさえぎって、レアスが眉間に皺を寄せる。
「え? ……あ」
不思議そうな顔をしたアクアは、そんなレアスの表情を見て、それからようやくレイの言葉の意味を悟ったようだった。
「ステルシアとイストヴァン、って、それって確か、ティースくんとパースくんの……」
「1回戦の相手だな」
「ってことは――」
つぶやいて、レアスが小さなため息を漏らす。
「ああ、そういうことだ」
レイはそんな2人を交互に見て、それから淡々とした口調で答えた。
「どっちも1回戦敗退だ。残念ながら、な」
ヴォルテストの突き抜けるような青空の下、試合の決着を告げる西の鐘が盛大に鳴り響く。
最終試験の決勝、イストヴァン=フォーリーとステルシア=ブライトンの試合は、スタジアムに集まった大観衆が期待したどおりの熱戦――とはいかず、試合は時間にして5分も経たずに決着を迎えていた。
勝ったのはイストヴァン。
結果は100対0。
つまりは一方的な試合だった。
「……」
優勝者を祝福する大歓声。
地鳴りのようなその歓声の中、ティースは無言のまま、じっとその試合場の中心を見つめていた。
「結局、イストくんは決勝戦も完封か。彼は5年、いや10年に一度の逸材かもしれないね」
「……パウロスさん?」
そんな彼の背後に現れたのはルナリアの夫、パウロスだった。
よくこの大観衆の中で――と、思ったが、よくよく考えればティースほど長身の人間はそう多くない。客席が偶然近ければ、彼を見つけるのはそんなに困難なことではなかっただろう。
「そうですね。……強いです」
ティースは視線をスタジアムの中央へと戻した。
イストヴァン=フォーリーが勝利したことを告げるアナウンスが場内に響き、再び大歓声が上がる。
パウロスはちょうど途中退席で空席となっていたティースの隣に腰を下ろし、ティースと同じように試合場の中心を見つめながら、
「ステルシア=ブライトンに運が無かったことも確かだね。パーシヴァル=ラッセルとの初戦は、近年でも屈指の熱戦だった。あれだけ消耗して、そのあとの2戦を無難に勝ち上がったことだけでも、彼女の実力が近年の合格者の水準を上回っていることはわかる。けど……どうだろうね。彼女が万全だったとしても、おそらくイストくんには歯が立たなかったんじゃないだろうか。ティースくん、君はどう思う?」
相変わらず早口なのに聞き取りやすい口調で、パウロスは一気にそこまで言った。
ティースは試合場を見つめたままで答える。
「どうでしょう……俺はステルシアさんとは戦ったことがないので」
「でも、君はパーシヴァルくんとは同輩だし、イストくんとは実際に剣を交えている。パーシヴァルくんとステルシアくんとの試合は見ていたのだから、想像はできるんじゃないかい?」
再度の問いかけに、ティースは少しだけ考えて、
「……パウロスさんの言うとおりだと思います」
と、素直に答えた。
ティースは1回戦でイストヴァンに敗北した後、観客席からその後のすべての試合を見てきた。
もちろん自分なんかに他の受験生を評価する資格なんかはない、と思う。ただ、イストヴァンが今回の受験生の中で抜けた実力を持っていることは素人目にもわかることだ。
「そうか。やはりそうだろうね」
それはパウロスたち各国のスカウトたちの目も同じだった。
結局、今年の試験の評価は、イストヴァン=フォーリーが頭2つほど抜きん出て、ステルシア=ブライトンが水準以上、その他の4名の合格者たち――といっても正式な発表がされたわけではないので、あくまで1回戦を勝ち上がった受験生という意味だが――は、例年ならば合格ラインに達していない、との見方が大勢となっていた。
ティースは逆にパウロスに問いかける。
「お仕事のほうは、どうなんですか?」
「ん? ああ、スカウトかい?」
ジェニスからデビルバスターのスカウトに来ている彼は、当然イストヴァンやステルシアの他、合格が濃厚な受験生たちに接触しているはずで、おそらくはすでに交渉も進めているはずだった。
パウロスは苦笑いを浮かべて頭をかく。
「いやぁ~、正直今回は厳しいねぇ。イストくんほどハッキリとした実力を示されてしまうと、どうしても条件が釣り上がってしまう。そうなると貧乏な我が国には厳しいよ」
「ステルシアさんは?」
「もっと無理だろうね。彼女はもともとヴィスカイン領の貴族で、祖国に貢献するためにデビルバスターを目指していた娘だ。一応話をすることはできたが、一番最初に、どこかの国に仕えるつもりはない、と断りを入れられたよ」
そういえばそうだった、と、ティースは彼女自身から聞かされたその話を思い出した。
(そっか。ってことは、彼女はその目的を達したわけか)
ステルシアとは一度言葉を交わしたきりの関係だったが、それでも自然と祝福の言葉が胸に浮かんだ。
パウロスは続ける。
「他の4名は……こう言っては彼らには悪いが、正直惹かれるものがなかったなぁ。もちろん彼らにはこの先成長する可能性も十分にあるのだが……私だったら、そうだね。1年後に期待してパーシヴァルくんを先物買いするほうが上策だと思うね。1回戦を見る限り、現時点でも彼の実力はステルシアくんにもそう劣らないだろう」
と、パウロスは言った。
それはもちろん、パーシヴァルがティースの同僚で、同じようにスカウトするのが不可能であることを承知の上での、なかば冗談交じりの発言だ。
ジェニス領はもともと抱えているデビルバスターがいなくて、今は即戦力を求めている。いつデビルバスターになれるかわからない人間を気長に育てる余裕はないはずだった。
「そういや、パーシヴァルくんは一緒じゃないのかい?」
「ええ」
パーシヴァルは初戦敗退後、この会場には一度も来ていなかった。1回戦での敗退にやはりショックを受けているようで、ティースたちの前では元気に振舞っているものの、あれ以来宿から外に出ようとはせず、夜になると宿の小さな庭で延々と素振りを繰り返しているようだ。
間近で試合を見ていたティースには、そのパーシヴァルの気持ちがよくわかった。
どうしても勝てない試合ではなかったのだ。
パウロスは『ステルシアにもそう劣らない』と言ったが、ティースの目からすれば、パーシヴァルとステルシアの実力はほぼ互角だった。
試合の結果は100対90。
序盤にいきなり奪われた50点を少しずつ詰めて、詰めて、長期戦になったこともあって、中盤から終盤にかけてはスタミナに優れるパーシヴァルがずっと優勢に進めていて、結局ギリギリ届かなかったという、そういう試合だった。
油断していたわけではないが、気持ちが入る前に奪われてしまった序盤の50点。
パーシヴァルの後悔はそこに集約されていることだろう。実戦なら最初の一撃で勝負が決まっていたかもしれないのだから、未熟といえば未熟。その後を50対90で進めたからといって、本当はパーシヴァルのほうが上だった、なんてことは言えない。
ただ――やはり考えてしまうのだ。
「あの50点が無ければ、なぁ……」
「それを言うなら、君も同じじゃないのかい?」
と、パウロスは言った。
「え? あ、いや、俺は……」
自分が声に出していたことにも気付かず、突然の問いかけにティースはモゴモゴと口ごもった。
だが、パウロスは続けた。
もしかすると、最初からそのことを話題にするつもりだったのかもしれない。
「イストくんほどの相手に、開始数秒で80点。パーシヴァルくんよりもよっぽど厳しかったんじゃないかな」
「……俺は、パースと違って惜しかったわけでもないですから」
「ま、結果を見たらそうかもしれないね。でも――」
パウロスはそう言っていったん言葉を止め、視線をティースから試合場のほうへと戻した。
「……ずいぶんと真剣に試合を見ていたようだね。実を言うと試合中にも2、3度声をかけさせてもらっていたんだが、それにも気付かないほど集中していたのかい?」
「え! そ、それはすみません!」
まったく気付いていなかった。
パウロスは手を振って、
「いやいや、いいんだよ。君にしてみれば、こうして試合を見ることも修行のうちなんだろうからね。……それで、なにか『見えた』のかい?」
「え?」
不思議そうな顔のティースに向けられた視線は、よく口の回る、いかにも人の良さそうな男の目ではなく、受験生たちの素質を見抜き、その実力を計ろうとする厳格なスカウトの目だった。
パウロスはその目でティースを見つめたまま、続けた。
「イストくんと君の試合は、実に不思議な試合だったよ。開始数秒でイストくんが80点取った。その後も君は防戦一方。やがて試合場の端に追い詰められ、万事休す。その展開はイストくんの2戦目、そして今の決勝戦と、彼が完封した2つの試合とまったく同じだった。……『そのとき』まではね」
「……」
「あのとき、君にはなにが『見えた』んだい?」
ティースは沈黙を返した。
脳裏に、フラッシュバックする。
その――感覚。
「……止まった、ような気がしたんです」
「止まった?」
「ああ、いえ!」
パウロスの真顔の問いかけに、ティースは慌てて首を横に振った。
「たぶん気のせいです。ただ……止まったような気がした、そのときに、イストさんの体の向き、腕の筋肉の張り具合、両足の位置、視線の方向……そのすべてが頭に入ってきて、それで次の太刀筋が予測できたというか、なんかそんな感じがしたんです」
そのときのことを思い出し、しどろもどろになりながらティースはそう説明する。
実のところ、その一瞬の感覚はティースにとって初めての経験ではない。以前にも何度か、それが訪れたことがある。
たとえば――そう。
タナトスの将魔、ネイル=メドラ=クルティウスと戦ったときもそうだった。降り注ぐ幾筋もの炎の矢が、一瞬停止したように見えて、そこにギリギリ体ひとつ分、避ける隙間を見つけることができた。
あの、感覚。
だからティースはあの試合以降、ずっとこの試合場に足を運んでいたのだ。
その感覚がもう一度呼び起こせないかと、そう思って。
「……それであんな、素人目にみても無謀としか思えない突進を?」
「あのときは、それしかないと思って……」
やはり誰の目にも無謀だったのか、と、ティースは少し恥ずかしくなって頭をかいた。
だが、パウロスは真剣な顔のままだった。
「……なるほどね。けど、結果的にはそのおかげでイストくんの剣は空を切った。いや、正確には君の左肩をかすめただけで、鳴った鐘の音は1回だった。それで90対0。……その後も『見えて』いたのかい?」
「どうでしょう……」
正直に言うと、よくわからない。その一瞬ほどはっきり見えていたわけじゃないが、それまでより相手の太刀筋は見えていたと思う。
「そうか」
パウロスは満足そうにうなずいて、それから腕を組んでなにごとか考え込んでいた。
そしてしばらく。
次に口を開いたとき、パウロスの目はいつもの人の良さそうな温厚な視線に戻っていた。
「なんにしても相手が悪かったね。前のときは一般論でそう言ったつもりだったけど、今は本当に、心からそう思うよ。初戦の相手がイストくんでさえなければ、君は間違いなく合格していたと思う。妻の弟分だというひいき目は一切なしでね」
「はは……ありがとうございます」
それが社交辞令なのかそうではないのか、そんなことは考えるつもりもなかった。なんであろうとティースは初戦で敗退した。そしてパウロスはそれに気を遣って、実力を認めるコメントを送ってくれたのだ。
それだけで今のティースにとっては十分だった。
その気持ちを和らげるには十分だった。
そして、
(……あ、そっか)
その言葉が妙に心に沁みた、その理由をティースはようやく思い知る。
――後悔していたのだ。
出会い頭に致命的な一撃を受けて、きっと悔いがあるだろうなと、ティースが先ほどそう考えたのは、パーシヴァルの心を推察したからではない。
ティース自身の思いだった。
パーシヴァルのように接戦だったわけじゃない。
それは確かにそのとおりだ。
だけど――
モヤモヤしたものが胸の中に渦巻いている。
できることなら――やり直したい。
もう1戦して、ボロ負けするならそれでもいい。それはそれで納得できるし、来年に向けてまた努力するだけのことだ。
ただ、今はどうしても考えてしまう。
あの最初の80点がなければ、勝てた可能性があったんじゃないか、と。
たぶん、それを確かめたくてティースはこの試合場に通っていたのだ。イストヴァンの太刀筋が止まって見えた、あの一瞬の出来事が気のせいではないことを確認するために。
「……さて、ティースくん」
そんなパウロスの呼びかけでティースは我に返る。
辺りに目を向けると、観客たちもすでに帰路に付き始めていた。
「決勝戦も終わったことだし、そろそろ協会の会場に向かったほうがいいんじゃないかな。合否の発表があるはずだよね」
「あ、はい。そうですね」
ティースはうなずいて、立ち上がった。
ティースたちの不合格も、1回戦を突破した受験生たちの合格も、まだ正式に決まったわけじゃない。
そうしてティースはパウロスに別れを告げ、スタジアムを出てデビルバスター協会の試験会場へと移動した。
――そこで、本当に予想と異なる事態が訪れようとは、その時点では思いもよらずに。
「で? そのイストヴァンってヤツはサン・サラスになったのかよ」
レアスが厨房から水差しを手に戻ってくる。
珍しく長いこと話をしていてのどが渇いたらしい。
「あー、もうもう、レアスくんったらぁ。その人のことなんてどうでもいいわよぉ。……あたしホント、ガッカリしすぎて、もう吐きそう……」
「それはお前が空きっ腹に大量のアルコールを投入したせいだろ」
テーブルにぐったりと突っ伏したアクアに、レイが的確な突っ込みを入れる。
3人がここに集まって、はや2時間余りが経過していた。話題はいったん、直前までアクアとレアスがついていた任務の話に移ったが、ここに来て再びデビルバスター試験の話題へと戻っている。
「……おい。アクアのヤツ、大丈夫なのか?」
レアスが眉間に皺を寄せる。
レイは軽く手を振ってそれに答え、
「ああ、気にするな、いつものことだ。本当に吐きそうになったら自分でどっか行く。その辺に撒き散らかして、あとでアマベルに叱られたくはないだろうからな」
「そうか……」
自分で酒を飲まないからか、レアスはアクアの様子が少し気になるようだったが、やがて気にしないことに決めたのか、水差しを手にしたまま椅子に腰を下ろし、自分のコップに水を注いで一気に飲み干した。
そんなレアスに対し、レイは先ほどの質問に答える。
「イストヴァン=フォーリーはサン・サラスにはなれなかったようだな」
「どうしてだ? 決勝がそんだけ一方的な試合だったなら、なってもおかしくないんじゃねぇのか?」
「全体的にレベルが低いと見られている、ってのはある」
「それだけか?」
「いや。もちろん違うな」
「だったら――」
さらに問いかけようとしたところで、レアスが急に言葉を切り、視線を横――ホールの暗がりへと向けた。
レイの視線も同時に動いている。
それはほんのわずかな、常人では気付くことはないであろう微妙な空気の動き。それでもその場にいた面々は――酔って突っ伏しているアクアを除き、このホールに入ってきた誰かの気配を感じ取っていた。
ちょうど日が変わろうとしている時間であり、屋敷の大半の人間はすでに寝静まっている。
と。
そんな風に警戒したのはほんの一瞬のこと。
「……」
その正体に気付いて、レアスは息を吐く。
特に忍ぼうとしていない割に、そこにいるデビルバスターたちでさえ、ほんのわずかな気配しか読み取れない人物。
その人物の正体に、レイもレアスも十分すぎるほどに心当たりがあった。
「……なんだなんだ? 今日はずいぶん珍しいのが集まってくるじゃないか」
レイが茶化したような口調でホールの暗がりに声をかける。
「……」
無言のまま、採光用の窓から差し込む月明かりの中にゆっくりと浮かび上がった人影は、彼らと同じデビルバスター、アルファ=クールラントだった。
これで、ディバーナ・ロウのデビルバスター全員がここに集まったことになる。
レアスが声をかけた。
「アルファ。お前も試験の結果が気になって来たのか?」
「試験? いいや」
短く答えた。
じゃあなぜ、と、続けて問いかけるまでもなく彼の目的はすぐにわかった。
「ああ……風呂か」
彼が脇に抱えているのはタオル、それに着替えと思しき布切れだった。
彼が夜中、誰もいなくなった時間に風呂に入っているのは屋敷の誰もが知っている。屋敷ではそんな彼のために、日付が変わってから太陽が昇るまでは風呂場に入ってはいけない、という暗黙のルールまであった。
と。
必要最低限の返事をしてそこを素通りするかと思われたアルファは、彼らのテーブルを通り過ぎようとしたところで足を止め、そしてテーブルの3人に向かって言った。
「……試験というのは、ティースの?」
無機質で無感情なその問いかけに、レイが答える。
「ああ。ま、パースのヤツも一緒だけどな。……なんだ? やっぱり気になるのか?」
するとアルファは、肯定も否定もせずに言った。
「セシリアが、聞きたがっていた」
なるほど、と、レイは納得し、アルファに対し、目の前の空席をあごで示す。
「なら、たまにはそこに座って聞いていったらどうだ? 風呂なんざ、30分や1時間でどっかに逃げてったりするもんでもないだろ?」
「……」
少し考えるような間があったものの、アルファは結局レイの提案を受け入れ、唯一空いていた席に腰を下ろした。
その音に、テーブルに突っ伏していたアクアが顔を上げる。
「……あらぁ? アルファくんみたいな人があたしの目の前に座ってる……」
どうやらまだ夢と現実の狭間をさまよっているらしい。
急に声を張り上げて、
「……アルファくん! ちょうどいい機会だわ! いい加減白状なさい!」
「?」
ゆっくりと視線を向けたアルファに対し、アクアは完全に座りきった目を向けて、
「あなた、本当は女の子なんでしょ! じゃないと説明できないわよぅ! その綺麗な肌! どうなってんのよ、それ! 女の子じゃないなら女の子になりなさい! いえ、あたしと交換しなさいッ!」
無茶苦茶なことを言い出した。
「私はセシリアの兄だ。だから女の子じゃない」
「嘘おっしゃい!!」
「嘘ではない」
完全に酔っ払ってタガが外れたアクアと、そんな彼女にいつもどおりの言葉を淡々と返すアルファの組み合わせは、かみ合ってなさすぎて少々滑稽だった。
レアスがそんなアルファを見て、ぽつりとつぶやく。
「ったく。相変わらず無愛想なヤツだ」
「お前が言えることか。……っと、今年のサン・サラスの話だったな。3年前のサン・サラスも来たことだし、ちょうどいいか」
レイはそう言って、わーわー騒いでいるアクアを放ったまま話題を元に戻す。
「イストヴァン=フォーリーがサン・サラスになれなかったのは、単純な理由だな。全体のレベルが低かったこともそうだが、重要な最終試験で圧倒的な成績を残せなかったのが一番の原因だ」
「……なに? おい、言ってることが違うじゃねぇか。そいつ、全試合パーフェクトだったんじゃないのか?」
怪訝そうに眉間に皺を寄せたレアスに、レイは小さく笑って、
「決勝と、その前の試合が完封だったって言っただけだろ。イストヴァンはそのもうひとつ前の試合で60点を失っている」
「そのひとつ前?」
レアスは自問するようにつぶやいて、そしてその言葉の意味に気付いたようだ。
「……ティースが、60点取ったのか? その、イストヴァンってヤロウから」
「ああ、そうだ。で、意外にも、いや当然、というべきか。デビルバスター協会は再試験が必要だと判断したらしい」
「……再試験?」
その言葉に真っ先に反応したのはアクアだ。少し正気を取り戻したのかアルファに絡むのをやめ、充血した目を今度はレイに向ける。
「再試験ってティースくんの? ってことはもしかして、まだ合格の可能性がある?」
「ってことになるな」
うなずいたレイに、今度はレアスが問いかける。
「再試験ってのは、イストヴァンってのと再戦か?」
「いや、違うな」
レイはやはり愉快そうに続けた。
「実は偶然にも、この試験には似たような境遇のヤツがもうひとりいてな。これまたそこそこの実力の準優勝者と1回戦で当たって、そこでほぼ互角の戦いをしながら負けちまったっていう、なんとも運の悪いヤツなんだが――」
「……」
レアスもアクアも、そこでようやくレイのもったいぶった態度の理由を悟った。
「じゃあ、レイくん。その再試験って――」
アクアの言葉に、レイは皮肉な笑みを浮かべて言った。
「運が良いのか悪いのか、どうやら我がディバーナ・ロウに新たなデビルバスターが誕生するのは、ほぼ間違いなさそうだ」
その言葉に、アクアとレアスはなんとも微妙な表情で顔を見合わせたのだった。
リィィ……リィィ……
甲高い、細かく震えるような虫の声。
「……なんの虫かな」
と、パーシヴァルは小さくつぶやく。
故郷のネービスでは耳にしたことのない音だった。
このヴォルテスト領の北方には、北西のブリュリーズ領から東のヒンゲンドルフ領にかけてグリゴラ山脈が横たわっており、その北と南では気候や生態系が大きく異なっていると聞いたことがある。
ネービス生まれ、ネービス育ちのパーシヴァルが見たことのない生き物もたくさんいるのだろう。
夜の風は同時期のネービスに比べ、どこか生ぬるい。湿気も多い。
そして、ふと。
宿の中から明かりが漏れてきていることに気付いた。
顔を上げる。
「パースくん、どうしたの?」
宿から出てきたのはフィリスだった。と同時に、宿の中のかすかな話し声が外までもれてくる。
「あぁ。少し涼んでいたんだ」
そういってパーシヴァルは座っていた大きな石の後ろに両手を付き、体をそらすようにして夜空を見上げた。
夜空の星がネービスよりも少し遠い気がするのは――これは気のせいだろうか。
パタン、と、扉の閉じた音。
見上げていた視線を下ろすと、近付いてくるフィリスの姿が視界に入った。
それを見て、パーシヴァルは口を開く。
「……しっかし、皮肉な話だよなー」
フィリスがなにを言い出すかはわかっていた。
「再試験がよりにもよってティースさんとだなんて。ティースさんのことだから、きっと気を遣ってやりにくいんじゃないかな」
「……それってパースくんもでしょ?」
パーシヴァルは笑って、
「なに言ってんだよ。俺は意外とそういうの、気にしないほうだぜ?」
「嘘ばっかり」
フィリスは小さく笑って足を止めると、さっきパーシヴァルがしていたように夜空を見上げる。
「……」
パーシヴァルはそんな彼女をしばらく無言で見つめていたが、やがて我に返ったように視線を逸らした。
ただ、少々不自然なその動きはフィリスに気付かれてしまったようだ。
「うん?」
「ああ、いや……」
パーシヴァルは視線を泳がせながら、適当にごまかした。
「なんだ、その。そういや、俺が屋敷に来てからもう4年にもなるんだなー……って」
「?」
フィリスは突然の話題の転換に少し不思議そうな顔をしたが、素直に答えて、
「4年と、半年ぐらいかな? 11月だったよね、パースくんが来たのって」
「……だったかな。よく覚えてないや」
パーシヴァルがそう言うと、フィリスはころころと笑って、
「私が屋敷に来たちょうど1ヶ月後だったからよく覚えてるよ。なつかしいなぁ。初めて会ったとき、すごくにらまれて怖かったんだっけ」
「そ、そうだったか?」
初対面の記憶は、パーシヴァルの中にはない。実際、そのときは眼中に入っていなかったのだろうと思う。
「うん。あのころはまだアクア様とレインハルト様しかいなかったんだよね。レアス様もいたけど、デビルバスターにはなってなかったから。……あ、あのころはまだ『レアスくん』だったんだっけ。まだ8歳だったもんね」
パーシヴァルは首をかしげて、
「んー、俺、最初のころのことはあんま覚えてないんだよな。右も左もわからなかったし、これからどうなるのかとか、どうすればいいのかとか、そんなことばっか考えてたから」
ただ、そんな状況の中で、同い年の少女がそこにいたことにとてつもなく安堵したことはよく覚えている。
パーシヴァルがミューティレイクに来た当時、屋敷にいた面々で歳が近かったのはフィリスの他に、ひとつ年上のドロシー、ダリア姉妹がいたが、年上の女性がどうも苦手――というより、接し方を知らなかったパーシヴァルは、結局フィリスと一番最初に仲良くなった。
歳はぜんぜん違ったが、小さいころに事故で亡くした妹と重ねた部分もあったように思う。
だからパーシヴァルにとって、フィリスは今でも、屋敷で一番身近に感じている存在だった。
「4年半、か……」
5年目にして、初めてたどりついたデビルバスター試験。
パーシヴァルはフィリスに問いかけた。
「ティースさんは、どうしてる?」
「え? えっと、確か、ちょっとジョギングしてくるって言って出て行ったみたい」
パーシヴァルは怪訝そうに眉をひそめて、
「あれ。さっき外を走って戻ってきたばかりじゃなかったっけ」
「そういえば……そうかも」
そう言ったフィリスとしばし顔を見合わせ、それからおかしくなって笑った。
仲間同士での、再試験。
当然ティースにも、色々と思うところはあるのだろうと推測できた。
……厳密に言えば、ティースとパーシヴァルは2人でひとつの椅子を争うわけではない。
試験官いわく、これはあくまで再審査をするための再試合であり、どちらかを必ず合格させるわけではない、両方不合格の可能性もあれば、両方が合格することだってある。
だから双方とも全力を尽くしなさい、と。
その試験官はクインシー=フォーチュンというネスティアスのデビルバスターで、ティースとパーシヴァルがディバーナ・ロウの一員であることを知っている。
つまり仲間同士で良い試合を『演じる』ことのないように、と、釘を刺されたわけだ。
もちろんパーシヴァルにそんなつもりはない。というより、ティースもパーシヴァルもそんなことができるほど器用な人間ではなかった。
お互い、相手のことは気にせず、全力を尽くす。
再試合が告げられた直後に、ティースとパーシヴァルはそんな約束も交わしていた。
だからもう、とにかくやるしかないのだ。
ただ――
「……なぁ、フィリス。お前は、どっちが勝つと思う?」
「え」
その問いかけにフィリスはびっくりしたような顔をした。その言葉の意味を考えて、理解して、それから眉を曇らせて悲しそうな顔になる。
衝動的にその質問を口にしたパーシヴァルは、すぐにそれを後悔した。
「あ、いや、すまん。……いやさ。ティースさんは、まだディバーナ・ロウに来て1年なんだよな。俺のほうが3年半も先輩でさ」
「……うん」
「でも俺、ティースさんのことを新入りだとか、格下だとか、そんな風に思ったことはほとんどないんだ。……どうしてか、わかるか?」
「……年上、だから?」
フィリスの問いかけに、パーシヴァルは首を横に振った。
「あの人と1対1の稽古をしていると、ときおり違和感があったんだ。……なんだか手加減して戦ってるような、そんな感じがして仕方がなかった」
「え?」
「もちろん実際には違う。あの人はそんなことをする性格じゃないだろ? あの人は全力なんだ。全力だけど、全力で戦えていない。それが俺の印象だった」
「……」
フィリスは黙って聞いていた。
パーシヴァルは続ける。
「それだけなら俺の勘違いだって、そう考えることもできるんだけど……でも違うんだ。印象だけじゃない。稽古で俺が10回中9回勝てていたころも、残りの1回は、急にまったく手も足も出せなくなって負けたりする。俺が油断してるわけじゃない。あの人が、ふと、急に強くなるんだ」
パーシヴァルが視線を地面に落とす。
「だから、俺は思ってる。あの人が1年でここまで来たのは、ものすごいスピードで成長したわけじゃなくて、もともと持ってる力を使いこなせるようになったからなんじゃないか、って。力をつけたんじゃなくて、力の引き出し方を身に付けてきただけなんじゃないか、って。あの人は、最初から俺より強かったんじゃないか、って。……そしてあの人がもともと持っている力ってのは――」
そこまで言って、パーシヴァルはハッとしてフィリスを見上げる。
「……悪い。お前にこんな話をしても、わかんないよな」
「あ、ううん。わかんないけど、でも……パースくん、あの、もしかして……」
フィリスはそこで口ごもった。
言いにくそうにしている。
「つまり――」
パーシヴァルは目を閉じて、おそらくはフィリスがためらったのであろう言葉を自ら口にした。
「……自信がないんだ。俺は」
ポツリ、と。
「……パースくん」
フィリスはそんなパーシヴァルの姿に、少なからず動揺した。
どちらに勝って欲しいか、と聞かれれば、フィリスには答えられない。彼女にとってティースとパーシヴァルはどちらも屋敷の仲間であり、特にフィリスは優しいお兄さんのようなティースの性格に好感を持っていたから。
ただ、それでも。
「パースくん……」
心の奥底では、パーシヴァルを応援したい気持ちのほうがわずかに強かった。
彼の4年間を知っている。
訓練の過酷さに挫折しそうになったことも。
壁に当たって苦悩したことも。
任務で多くの人の死に触れ、涙を流したことも。
それでもなお、デビルバスターを目指し、ようやくここまでたどりついたことも。
「……」
思わず、フィリスは拳を握り締めて、言った。
「大丈夫だよ。……きっと勝てるよ」
「……え?」
「パースくんなら、ティース様にも勝てるよ。だって……」
そこまで言って、フィリスは再び口ごもる。
続く言葉をまったく用意していなかった。もともとが根拠のある主張ではない。ただ、パーシヴァルを元気付けようとしただけの言葉だ。
「あ、えっと……」
なにか続けようとして、眉をひそめ、口ごもり、それから困ったような顔になる。
結局は、無言。
口下手な彼女らしいといえばらしい。彼女のことをよく知らない人間であれば、彼女がなにを思い、なにを言おうとしたのかすら気付かないかもしれない。
ただ。
パーシヴァルには伝わったようだった。
「……悪い。なんだか無理やり言わせちゃったみたいだな」
「あ、べ、別に無理に言ったわけじゃ――」
「いや、いいんだ」
反論しようとするフィリスを制して、パーシヴァルは勢い良く立ち上がった。
「でも、そうだよな。やる前から自信がないとか、そんなこと言ってちゃダメだよな。サンキュー、フィリス。ちょっと気が軽くなった」
そう言って笑いながらズボンのほこりを払う。
「負けらんない。来年もあるったって、早いほうがいいに決まってる。ティースさんには悪いけど――」
そう言ってポケットに両手を突っ込み、夜空を見上げる。
我ながら単純なものだ、と、パーシヴァルは思った。だが、それでも心は本当に、嘘のように軽くなっていた。
これなら全力を尽くせる。
そんな確信がパーシヴァルの胸の中には生まれていて、
「明日は絶対に勝たせてもらう。絶対に、な」
そう宣言して、パーシヴァルは満面の笑顔をフィリスに向けた。
「……」
そんな彼に、フィリスは少しだけ複雑な胸中――どちらも合格すればいいのに――なんてことを思いながら、笑顔を返したのだった。