その5『トーナメント~前日~』
「ティースくん。……久しぶり」
「あ……」
宿泊している宿から徒歩でおよそ20分。
とある食事処に入ってその女性の姿を視界に捉えたとき、あらかじめ頭の中に準備していたいくつかの言葉は一瞬にして霧散し、ティースは感嘆符の先の言葉を紡ぐことがなかなかできなかった。
厳密に言うと会うのは2度目だ。ただ、前回は名前を呼び合い、お互いがお互いであることを確認しただけで、再会というにはあまりにも時間がなさすぎた。
だが、今日は違う。
それぞれの間に流れた3年の歳月を確認し合う程度の時間は用意されていた。
だからこそ。
その第一声をどうするべきか、ティースは迷ってしまったのである。
「えっと……」
「どうしたの? 立ったままではボーイさんも困ってしまうわ」
そんな彼とは対照的に、ルナリアは落ち着いた様子だった。
「あ。そ、そっか」
と、ティースはようやく自分に用意された椅子へと腰を下ろすことができた。
正面に視線を移す。
結い上げた髪に、白いカチューシャ。
――変わらない。
シーラから聞いてはいたものの、ティースはようやくそれを実感するに至る。
正確に言うと外見は、少し変わった。彼女はティースよりも4歳年上だから、最後に別れたときが20歳で今は23歳。日を追うごとに変化するというような年ごろではないにしろ、やはり3年という歳月はそれなりに大きい。
以前は屋敷の使用人服で会うことがほとんどだったから私服姿にも違和感があったし、もともとおとなびた雰囲気ではあったが、そのたたずまいはさらに落ち着きを増したように見えた。
落ち着いて見えるのは、結婚したから、という先入観のせいもあるかもしれない。
「その。結婚おめでとう、姉さん」
ティースはまずそのことから口にした。
するとルナリアはにっこりと微笑んで、
「ありがとう。ティースくん」
と、言った。
その表情だけで、彼女の結婚が幸せなものであることを悟り、ティースはホッと胸を撫で下ろす。
「良かったわ、あなたに知ってもらえて。あなたに報告できないことだけが心残りだったの。――お昼、まだ? どうぞ」
「ありがとう」
メニューを受け取って目についたものを適当に注文すると、ひと息ついてティースは店内を見回した。
食事処は帝都内にもたくさんあるが、この店はその中でも上品な雰囲気の――どちらかといえば上流階級の人々が利用する店だろう。この店を指定したのはティースではなくルナリアのほうで、今日会うことを希望したのも彼女だ。
彼女の旦那がジェニス領主の下で働いているのはシーラから聞いている。デビルバスターのスカウトは重要な仕事だから、おそらく使用人の中でもかなり上の身分だろう。
地方貴族であるルビナス家――シーラの実家で働いていたルナリアと直接の接点はなさそうだから、誰かの紹介で知り合ったのだろうか。
「なにから話したものかしら。話したいことは色々あるけれど――」
「そうだね。そういや俺のこと、シーラからどのぐらい聞いてる?」
ティースがそう尋ねると、ルナリアはちょっとビックリした様子で、
「ティースくん、お嬢様のことそうやって呼ぶようになったのね」
「え? あ、うん。ネービスに来てすぐ……だったかな。周りの目もあったからお嬢様も敬語も禁止されてさ。最初は戸惑ったけど、今はもう慣れたよ」
そう答えるとルナリアは納得した様子でうなずいた。
「今のあなたの事はお嬢様から色々教えていただいたわ。もちろんデビルバスター試験を受けに来たことも」
「そうなんだ。びっくりした?」
「デビルバスターを目指していること? いいえ、別に驚かなかった」
「ホントに?」
逆にティースが驚いた顔をする。
ルナリアは言った。
「だって、お屋敷にいたころのあなたが、お嬢様をお守りするために強くなろうとしていたことを知ってるもの。それが、お嬢様以外の人も守りたいと思うようになっただけ。でしょう?」
なんでもないことのようにルナリアはそう言った。
「……なんか、今でもなんでもお見通しなんだなぁ、ルナ姉さんは」
「大げさね。それに、わかるのはティースくんのことだけよ」
「あんま変わってないってこと?」
「ええ。変わってなくて安心した」
そう言ってルナリアが微笑むと、ティースはなんだか妙に気恥ずかしくなって頭をかいた。
そこへ注文した軽食が運ばれてくる。一緒に紅茶を頼んだつもりだったが、注文が聞こえていなかったのか付いてこなかった。
ティースは表面を軽く焼いた薄手のパンをひと口、口に運んで、
「シーラのほうは? どうだった?」
「お嬢様は――」
すぐに感想が出なかったのか、それとも言葉を選んでいたのか。
ルナリアはほんの少しだけ言葉に詰まって、
「私の記憶にあるお嬢様とは少し違っていたかしら。でもこれは、私の印象のほうが間違っていたみたいね」
「そっか」
彼女がシーラのことをもともとどのように思っていて、それが今どう変化したのか、それはティースにもわからない。
ティースにとっては姉代わりの存在だったルナリアも、あのころのシーラにとっては単なる使用人に過ぎなかった。歳が近いから他の使用人よりは近い立ち位置だったにしても、もともとお互いの内面を深く知り合うような仲ではなかったはずだ。
そこからしばらくは帝都の街の話になった。
ルナリアは帝都に来るのは初めてではないらしく、オススメの店やお土産用の特産品を買える店など、ティースは色々なことを教えてもらった。
それから話題は故郷の話へと移る。
「そういえばジェニスのほうは最近どう?」
大陸の東端に位置していて農業を主な産業とするジェニス領は、古くは大陸でも有数の国力を持った東の雄であったが、近年は他の領地にアピールできるような目立った産業もなく、雨が多くて住みにくい土地であることも手伝って、お世辞にも裕福な地とはいえなくなっていた。
もちろんたった3年でそこに劇的な変化が訪れるはずもなく、
「私は詳しいことはわからないけれど、あまりいい状況ではないみたいよ。古い建物を目玉に人を呼び込もうとしたり、色々考えているみたいね」
と、ルナリアは答えた。
「そんな状況でもこうして毎年わざわざスカウトしに来るぐらいなのだから。デビルバスターという人たちはやっぱりすごいのね」
「強いデビルバスターを集めることは、国力を誇示することにもなるらしいからね。まあ、俺には縁のない話だけど」
ボーイが食器を下げに来る。それとなく紅茶のことを言ってみると、どうやら向こうがうっかり忘れていただけのようで、ティースはホッとした。
やはり飲み物がないと落ち着かない。
「だけどティースくんはそのデビルバスターになるための最終試験に残ったのよ。すごいわ、本当に」
「俺もまだ信じられないよ」
これは本心だった。第3試験だって本当は途中でリタイアしたつもりだったのだ。例外として合格扱いにしてもらったのは単に運が良かっただけに過ぎない。
ただ、ここまで来た以上はなにがなんでも合格したいとも思う。デビルバスターになったからといって自分の中のなにかが変わるわけじゃないが、合格したことは間違いなく自信になるだろう。
と。
ルナリアがチラッと時計を見た。
「そろそろかしら」
「え? あ」
その言葉で、ティースは今日、もうひとり会うべき人物がいたことを思い出す。
ちょうどそのタイミングで、
「あ、いたいた。ルナリアー」
店に入ってきた男性が手を振りながら、ティースたちのほうへとやってきた。
「君がティースくんかい? はじめまして。僕はパウロス。パウロス=マジェットだ。よろしく」
「あ、はじめまして」
慌てて席を立ってその男性に挨拶をする。
その男性はパウロス=マジェット。ルナリアの夫だった。
もちろん会うのは初めてである。
背は男性としては少し低いほうで、160センチなかばというところだろう。眼鏡をかけていて少し丸顔だが体型としてはやや痩せ型だ。お世辞にもハンサムとはいえない顔立ちだったが、真面目で優しそうな印象を受ける。
年齢はルナリアの5つ上ということだから28歳。
その年齢よりは若く見えた。
「うわ、デカいね~。さすがデビルバスターを目指す人は迫力あるなぁ」
「そ、そうですか?」
迫力があるなんてことを言われたのは久しぶりだったので、ティースは少し戸惑ってしまった。
「あなた、お昼は?」
ルナリアがそう言いながら2人に座るよう促す。
「いや、まだなんだ。最終試験に残った受験生たちの情報を集めるのに忙しくてね。何人かは直接話を聞くこともできたんだが、本命のイストくんには会えなかったよ。……って、君にこんなことを話してもしょうがないか。あ、すみませーん」
席に付いてもパウロスは忙しくなくそう言って、再びティースへと視線を向けた。
「でもよかったよ。まさか最終試験に残った受験生の中にルナリアの知り合いがいたなんてね。知り合い特権でこうしてインタビューもできるわけだし」
「ティースくんはそのために呼んだわけじゃありませんよ」
ルナリアがそうたしなめると、
「ああ、わかってるわかってる。今日の僕はあくまでおまけだからね。でもスカウトの材料として彼の人となりを探らせてもらうぐらい文句はないだろう? ま、君が可愛がっていた弟分なら、人間性には太鼓判を押してもらったようなものだけどね。……ティースくん、君、魔についてはどういう見解を持っているんだい? 無条件に敵対する存在、あるいは共存すべき存在、前者が主流だとはいえ、今は色々な意見もある。受け入れがたいと言う人たちもその力を日常生活の中で無意識に利用している場合も少なくない。たとえば照明。これは刺激を与えることで発光する魔界由来の植物を利用したものだが、こちらの世界で栽培できるようになってからすでに長い年月が経っていて大陸の9割で利用されている。あまり広く知られていないが、これはもともとは人間と交流のあったという、とある光の将魔族が持ち込んだものだ。その光の将魔を生涯の友としたのはこの帝都ヴォルテストの12代前の領主でね。ヴォルテストが大陸の盟主たる地位を確立したのは、この出来事があったからに他ならない。それ以外にも、たとえばほら、この店でもおそらく使われているであろう厨房の火の――」
「あなた」
と、ルナリアが少し強い口調でもう一度たしなめる。
「……おっとっと。ちょっと焦りすぎたかな。いや、すぐに答えてくれなくてもいいんだ。僕はその間に腹ごしらえをさせてもらうつもりだからね」
そう言ってパウロスは照れくさそうに笑った。
「あ、えっと……」
そんな彼の勢いに圧倒されていたティースだったが、
「……意外でした。スカウトって実力を見てするものかと思っていましたけど、そんなことを質問したりするんですか?」
「ん? ああ、まあそれは人によるかな。ジェニスはほら、ヴォルテスト領やここの南東のヒンゲンドルフ領、それにネービス領なんかと違って裕福ではないから。スカウトして失敗したから、じゃあ次ってわけにもいかない。だからこそ人間性や考え方を重視するんだ。もちろん実力が伴っていることが最低条件だけどね」
それはわかる話だった。
「でも、ジェニスは確か、お抱えのデビルバスターってほとんどいなかったと思いましたが、今は違うんですか?」
そう尋ねると、パウロスはうなずいて、
「もともとはそうだったんだ。有事にはフリーのデビルバスターに依頼して解決する方針でね。ただ、それだと主に緊急時の対応が難しくて。そういった魔が絡む事件から国を守る方法を模索すべきだという声は内外からずっと上がっていたんだ。かといってお金はない。どうしようもない話でね。結局僕のような使用人が足を使って条件も人柄も良くて実力を備えたデビルバスターを探してくるしかないという結論になったわけだ。まあそんな人は簡単には見つからないんだけど。そんなこんなで新婚からずっと長いこと家を開けっ放しでね。ルナリアにはホント苦労をかけているんだ。君には怒られてしまうかもしれないけれど」
「あ、いえ、そんなことは」
ティースにそんなつもりはないし、弟のような存在だったとはいえ、屋敷を出るときになにも告げずに行ってしまった身だ。そんなことを言う権利があるはずもない。
それに彼女のことだから、そんなことは承知の上で彼と結婚したに違いないのだ。
そう思ってルナリアのほうを見ると、彼女はティースの考えていることを察したのか、彼に向かって小さくうなずいてみせた。
「……そうだ」
ちょうど運ばれてきた食事に手を伸ばしかけたところで、パウロスは思いついたように言った。
「ティースくんはジェニスの出身なんだろう? どうだい? 試験の結果はわからないけど、もし合格したらジェニスに戻ってくる気はない? ああ、いや。別に故郷のために奉仕しろと言っているわけじゃなくてね。もちろんそれなりの待遇で迎えさせてもらうつもりだよ」
「ジェニスに……戻る?」
それはたぶん社交辞令のようなものだろうと思った。ティースはまだ先ほどのパウロスの質問にも答えていないし、まさか本当にルナリアの昔なじみというだけで人間性に合格の判を押したわけでもないだろう。
ただ、いずれにしてもティースは首を縦に振るつもりはなかった。
「すみません。俺にはもうお世話になっているところがありますので」
「ん? ああ、そうなのか。それは残念だなぁ。……ちなみにどこ? ネービスから来たんだったよね? まさかネービス領主のお抱えのネスティアスかい?」
「いえ。ディバーナ・ロウ、っていうところです。ご存知ですか?」
ネスティアスに比べればディバーナ・ロウははるかに小さな集団だ。知らない前提で聞いたのだが、パウロスはあっさりとうなずいて、
「ああ、ディバーナ・ロウか。確かネービスの貴族――ミューティレイク家が支援している組織だね。所属するデビルバスターは4人、構成員は10人程度だったかな」
スラスラと出てきた言葉はティースを驚かせた。
「……よくご存知ですね」
「ディバーナ・ロウはその規模の割には結構有名だよ。ネービスでも有数の大貴族の支援を受けていることと、3年前のサン・サラスが所属していることでね。アルファ=クールラント。君の仲間だろう?」
「あ、はい。そうです」
「彼は近年のデビルバスター試験では一番の有名人だ。あの年――3年前のデビルバスター試験は戦前からハイレベルだとささやかれていてね。そんな中、まったくの無名だった受験生があろうことかサン・サラスの称号までもぎ取っていったんだ。しかもこの年のトーナメント準優勝はあのルーベン=バンクロフトだ。君なら知ってるだろう? 今や泣く子も黙るネスティアスのディグリーズ、その10人の中のひとりだよ。しかもアルファくんは合格後、誰にも気付かれずに風のように姿を消してしまってね。最後まで性別不詳だった、なんて少し神秘的なエピソードも加わって――って、君なら知ってるよね。結局彼は男なの? 女なの?」
「あ、えっと。実は俺もよくわかりません」
正直な回答である。
「ってことは、彼は今もあんな感じなのかぁ。会ってみたいね。ああ、でもウチには来てくれないよね。そんなことしたらティースくんのところだって困るだろうし。見込みがないのにネービスまで旅行なんてさせてもらえないだろうなぁ」
少し肩を落としながらそう言って、パウロスはようやく食事に手を伸ばし始めた。
(よくしゃべる人だなぁ……)
ティースのような人間には、途中で口を挟むことすら難しい。ただ、いい人そうに見えたので、その点については安心した。
「ああ、そうそう」
と。
そんな風にのんびりしていられたのもほんの2分ほど。
驚くほどのスピードで食事を終えたパウロスが再び口を開いた。
「君は明日のトーナメント、初戦にイストくんと当たるんだったね」
「ええ、そうです」
「んー」
パウロスは少し難しい顔をしながら隣のルナリアをチラッと見て、少しうなって、再びティースのほうへと視線を戻した。
「試合前の君にこんなことを言うのが正しいのかどうかはわからないけど、イストヴァン=フォーリーはとても優れた戦士だ」
「それは俺も聞いています。今回の試験の有力候補のひとりだと……」
「そのとおりだよ。いや、もちろん君に勝ち目がないと言っているわけじゃないんだ。実を言うとね。今年は戦前の評価がそれほどでもなかった受験生に、ダイヤの原石が眠っているんじゃないかとも言われている。君もその中のひとりだ。出どころはわからないけど、第3試験でイストくんと同じく有力候補だったルドルフ=ティガーと君の間でいざこざがあって、君が彼を圧倒した、なんてうわさも耳に入ってきてる。いや、それが本当かどうかというところまで詮索する気はないんだ。でもそれがもし本当なら、君はイストくんと十分戦えるだけの力があるということになるかな。それに聖力測定の結果だね。聖力の基礎値は、今残っている受験生の中で君がダントツでトップだ。戦闘技術は今後向上の余地があっても、生まれ持った聖力は基本的には成長のしようがないからね。将来性という意味で君に注目している人は結構多い。……それだけに、くじの結果はちょっと残念だったね」
「えっと……」
あまりにも色々なことを言われて、どんな反応をすべきかティースは戸惑ってしまう。要約すると、相手は強いが健闘を期待している、というような意味になるのだろうか。
「俺は、その、相手が誰とかはあまり関係ないと思ってます」
ティースがそう答えると、パウロスは意外そうな顔をして、
「そうかい? でも今年の試験の合格ラインは1回戦突破だと言われているし、関係ないってことはないんじゃないかな?」
「あ、えっと。そういう意味ではそうですし、ここまで来たら合格したいですから、ぜんぜん気にならないって意味じゃないですけど……」
ティースは少し言葉に詰まる。
目の前のパウロスほどスラスラと言葉が出てくるタチではない。
「つまり、合格することが最終目標ではないですから。くじ運で合格しても意味がないですし、くじ運が悪かったせいで不合格になったからといって、俺の目指している道が潰えるわけでもなくて、その」
「……なるほど」
しどろもどろな説明でも言いたいことは伝わったようで、パウロスは真面目な顔でうなずきながら隣のルナリアを見た。
ルナリアは微笑を浮かべたままなにも言わない。
「デビルバスターになることは最終目標じゃない。いや、確かに君の言うとおりだ。……ちなみに君の目指している道というのは、デビルバスターになって魔を退治することかい?」
「いえ。デビルバスターになって、魔の脅威にさらされる人たちを守ることです」
今度はすんなりと言葉にできた。過去に同じようなことを聞かれた記憶があったが、誰に聞かれたものかすぐには思い出せなかった。
満足そうにうなずくパウロス。
彼がここにきた直後の問いかけといい、彼はもしかすると魔という存在に対して、ある程度理解のある考えの持ち主なのかもしれない。
「……ああ、もうこんな時間か」
そう言ってパウロスは慌しく立ち上がった。
「すまないね、ティースくん。僕はこれから仕事があって、残念だが先に失礼させてもらうよ。いや、しかしさすがはルナリアの弟くんだ。君をスカウトできないことが非常に残念で――ああ、まずいまずい。じゃ、急ぐから失礼するよ」
パウロスはほぼひと息でそこまで言い切ると、こちらこそ――と言い掛けたティースの言葉も待たずに、立った椅子を元の位置に戻すのももどかしそうに、さらには2度、3度と客や店員にぶつかりそうになりながらバタバタと店を出て行ってしまった。
「……」
時計を見る。
パウロスが来てからまだ15分しか経っていなかった。
「……勢いのある人だね」
ティースは正直な感想を口にする。
ほとんどの時間を彼がしゃべっていたからか、15分どころかもっと長い時間話をしていたような気がする。よくよく考えてみると、彼がいる間、ティースはほとんど相づち程度のことしか口にしていなかったし、ルナリアにいたってはほんの2言3言、口を開いただけである。
ホッ、と、自然に吐息が漏れた。
彼の迫力に、知らずに緊張していたのかもしれない。
ティースは言った。
「あの人、姉さんと2人のときもあんな感じなの?」
「ええ、そうよ。ただ、普段は仕事のことはあまりしゃべらないの」
慣れているのか、ルナリアは事も無げにそう言ってから少し気遣うような表情を見せた。
「ティースくん、疲れた?」
「少しね」
と、ティースは苦笑する。
ルナリアのように頭の回転が速い人間にとってはどうということはないのだろうが、ティースのように口下手で会話スキルの低い人間にとっては少々苦手なタイプだ。
ただ、悪い印象はない。いい人そうだったし、仕事もできそうな人、というのが、パウロスに対するティースの感想だった。
「そういえばティースくん。試験が終わった後はすぐネービスへ帰ってしまうの?」
「いや、2日ぐらいは滞在するつもりだよ」
と、ティースは答えた。
2日ほどはゆっくり帝都観光でもしてきてください、と、これは雇い主であるファナから出立直前に言われた言葉である。
そう伝えると、ルナリアは少し安心した様子で、
「じゃあ試験が終わった後、今度はお嬢様と3人で会えないかしら? せっかくこうして再会できたのだから、これでお別れというのは寂しいわ」
と、言った。
もちろんティースにその提案を断る理由はなく、
「聞いてみるよ。たぶんシーラのやつもまた会いたがってると思う」
「期待してるわね。……じゃあ今日は帰りましょうか。明日の試験の準備もあるでしょう?」
「あ、うん」
反射的にうなずくと、ルナリアが先に席を立った。
椅子を戻して、ふと、彼女の視線がまっすぐにティースの顔をとらえる。
一瞬、驚いたような顔。
「?」
なんだろうか――と、疑問に感じた直後に気付く。
座ったままのティースと、立ち上がった彼女の目線の高さがほとんど一緒だったのだ。
同じことを感じたのだろう。
ふ、ルナリアの表情が緩んだ。
「言い忘れてたけど――」
それを見た瞬間、ティースの脳裏に、赤と白の屋敷のある風景が浮かんでくる。
ああ、変わらない――
ティースの胸に郷愁の想いがこみ上げた。
「大きくなったわね、ティースくん。少し頼りなく見えてたころの君が、ちょっとだけなつかしいわ」
「……姉さんは変わってないよ。昔の、優しいままの姉さんだった」
ティースはそう言って少しだけ目線をそらす。
「俺も言い忘れてた。……ゴメン。姉さんに黙って出て行って、本当にゴメン」
視線を逸らしたのは罪悪感ではなく、こみ上げた涙を見せないようにするためだったが、そのときルナリアはすでに背を向けていた。
ティースのほうからも、彼女の表情をうかがうことはできない。
「いいの。無事でいてくれて、それどころかこんなにも立派な夢に向かって進んでいるんだもの。文句なんて言ったら、神様に叱られてしまうわ」
「うん。ありがとう、姉さん」
「……」
なにか言おうとして、ルナリアはそれをやめた。深呼吸の音。しぼり出すように彼女は言った。
「……また」
「うん。また」
そんな短い言葉を交わして、ティースは彼女と別れたのだった。
最終試験はただの通過儀礼である――というのは、数十年前にデビルバスター協会の会長をつとめていた男の言葉である。
デビルバスターとしての素養は第3試験までにすでに証明されていて、最終試験は単なる儀式に過ぎないというのだ。
その言葉はさすがに言いすぎではあるが、20人に1人しか合格しない第3試験と違い、約半数の人間が合格することや、生命の危険がほとんどないことなどから、難易度、過酷さの双方において、第3試験より優しいというのは衆目の意見の一致するところである。
なお、このトーナメントにおいて使用される武器は摸擬刀、あるいはそれに準ずるもので、受験生の希望に応じた形状の武器が提供される。また、急所を保護する防具の着用が義務付けられている。
試合は点数制。試合中の有効打に対し、5名の審査員――いずれも現役あるいは引退したデビルバスターたちが、その場で点数を付け、それが100点を超えた時点で試合終了となる。
実戦的な第3試験と比較すると、やはり競技的な側面が強いのがこの第4試験『トーナメント』である。
そして――
「第1試合――」
場内アナウンスが対戦する受験生の名を読み上げると、その始まりを今か今かと待ちわびていた円環状の観客席からうねるような歓声が起こった。
真上に広がる丸い空は透き通るような蒼色。
太陽の位置は往路のだいたい7合目といったところだろうか。
「ティースさん、どうっすか?」
観客席へ戻ったシーラを出迎えたのはパーシヴァルだった。
「ダメね。ガチガチになってたわ」
と、シーラは答える。
彼女はティースの健康を管理するという職務を果たすため、入場の直前まで付き添っていたのだが、大きな歓声が聞こえるたびに緊張が増しているのが手に取るようにわかる状況だった。
「あれじゃ、試合場に出てくるころにはカチコチの石ころになってるかも」
シーラがそう言うと、パーシヴァルは意外そうな顔をする。
「そうなんすか? 昨日までは結構リラックスしているように見えましたけど」
「昔から本番に弱いのよ。あの男は」
そっけなくそう言って、シーラは自分の席に腰を下ろす。
そこは最前列のいわば特等ともいえる席で、シーラが聞いたところによると、1年前、ティースがディバーナ・ロウに入った少し後ぐらいからミューティレイク家が押さえていた席らしい。
(まさか、そのころからここまで来ることを予想していたわけじゃないでしょうけど……)
波のように押し寄せる歓声に、背中を預けるようにして小さく息を吐く。
熱気。
緊張感。
数万人の観客と、試合場。シーラたちのいる席はちょうどその狭間にあって、さすがの彼女も雰囲気に少し飲まれつつあった。
そんな状況だから、ティースが緊張するのもある程度仕方ないとは思う。
「まあ、ティースさんが本番に弱いのは確かにそうかもしれないっすけど」
また歓声が大きくなる。
シーラたちが試合場へ視線を向けると、ちょうどティースがそこに姿を現したところだった。
パーシヴァルは言った。
「あの人のすごいところは、そこを通り越して本当の土壇場になると逆に強くなることっすよ。……って、これはレイ隊長の言ってたことっすけどね」
改めて、2人の受験番号と名前が場内にアナウンスされる。
シーラは先に試合場に入っていた対戦相手の男を見た。
イストヴァン=フォーリー、という名前は彼女も聞いていた。
大男というわけではないが肩幅が広くがっしりとした体型。ひょろっとして撫で肩、猫背なティースとはまるで逆の、素人が見ても戦うことを生業としていることを想像させるだけの雰囲気があった。外見だけではない。観客の大歓声にも腕を組んだまま微動だにせず。
どことなく不安そうに入場してきたティースとは、まったく正反対の相手である。
「……本当に場違いね」
「え? ……ああ、ティースさんっすか」
シーラのつぶやきに、パーシヴァルは改めて試合場を眺めて、
「確かに性格はデビルバスター向きって感じじゃないっすよね。……そういや俺、ずっと疑問だったんですけど、ティースさんはどうしてデビルバスターに?」
「……」
シーラは一瞬だけ無言を返してから、
「……そういうあなたはどうなの?」
「え? 俺っすか?」
逆に質問されるとは思っていなかったのか、パーシヴァルはびっくりしたような顔をした後、
「俺は……恩返しですかね」
「恩返し? ミューティレイクの人に、ってこと?」
「あ、いえ。それもありますが、なんというか、その……」
パーシヴァルはちょっと照れくさそうな顔をして言った。
「周りのみんな、というか、俺に優しくしてくれた全部の人、というか……」
そう言って頭をかく。
「恩返しね」
そんなパーシヴァルの態度が、見慣れた男の仕草と少しだけ重なる。
シーラは言った。
「もしかして、あなたも本番には弱いタイプなんじゃない?」
「へ? ……どうしてわかったんですか?」
シーラは苦笑して、
「なんとなくね。……ティースの動機もあなたと似たようなものよ。あいつはたぶん、誰かを助けたり、守ったり、そんなことを続けていないと生きていけないんだわ。もしかしたら――」
シーラは試合場を見つめて言った。
「守る相手がとっくにいなくなっていたことに、心のどこかで気付いているのかもね」
「守る相手? それって、シーラさんのことっすか?」
シーラは答えた。
「違うわ。違うから、あいつはあそこに立っているのではないかしら」
「?」
「ところで」
と、シーラは不思議そうな顔のパーシヴァルを見て、
「この試合に勝ったら合格は確実だと聞いたけど、本当?」
「え、あ、そうですね。相手のイストヴァンって人は有力候補ですし、この試合に勝てばほぼ間違いないっすね」
「勝てる可能性はあるの?」
「もちろん」
パーシヴァルは即答した。シーラに気を遣ったという風ではない。
「俺も相手のことはうわさぐらいしか知りませんけど。でもティースさんの実力で勝てる見込みゼロなんて、そんな相手、この試験じゃ30年にひとり出てくるかどうかっすよ」
「……そうなの」
シーラは正直なところ、この試験のレベルも、ティースの実力がどの程度なのかも、正確なことはなにもわかっていない。
わかっているのは、ティースが見た目の印象よりは戦える人間だという、その程度のものだ。
「逆に、楽に勝てる相手なんてのもまずいないでしょうね」
と、パーシヴァルは付け足した。
試合場ではすでにティースとイストヴァンが定位置に付いて対峙している。
手にしているのは両者とも標準的なサイズの両刃の剣。刀身部分の幅や全体の大きさもほぼ同じものに見えた。
試合場の東側と西側には2つの鐘が設置されていて、試合で有効打があるとその点数に応じて鐘が打ち鳴らされることになっている。10点を越えるごとに1回。つまりこの鐘が10回鳴らされた時点で試合終了である。
また、負傷による戦闘不能、あるいは戦意喪失などにより、審判、あるいは本人の申告により試合が決することもある。
試合場は直径約80メートルの円状。故意に場外に出た場合はその時点で失格。不慮の場合であっても5秒以内に試合場に復帰しなければ失格となる。
攻撃禁止部位などの制限は基本的にはない。唯一『必要性の認められない攻撃によって対戦相手を死に至らしめた場合は失格』との規定があるが、このルールが適用されたことは長い歴史の中でもほとんどない。
そして、審判によるルールの説明が終わった。
シーラはふと、隣のパーシヴァルを見て、
「そういえば、パメラたちはどうしたの?」
「パメラとフィリスはクリシュナさんと一緒に来てますよ。だいぶ後ろのほうの席ですけど」
「……あら。珍しいわね」
と、シーラが言うと、パーシヴァルは一瞬不思議そうな顔をした後、
「ああ、クリシュナさんっすか? まあ、ちょっと変わった人っすけど、デビルバスターを目指している以上、観戦することは勉強にもなりますから――」
そう答えた。
その、直後のことだった。
「!」
耳をつんざくような大歓声。
ついに試合が始まったのか、と、シーラは試合場に視線を移そうとしたが――
違う。
カン、カン、カン、カン、カン――!!
「!?」
狂ったように鳴り響く鐘の音。
悲鳴のような観客の大歓声は、開始わずか数秒で決まったその有効打に対しての歓声だった。
鳴ったのは東の鐘。
ただ、それがどちらの有効打を示すものなのか、シーラはすぐに思い出せなかった。
「――まさか」
ほうけたようなパーシヴァルのつぶやき。
シーラはようやく試合場に視線を戻すことができた。
「!」
心臓の鼓動がわずかに早まった。
ティースが試合場の中心でうずくまっていて、審判が2人の選手の間に入っている。
試合が止まっている。
「まさか……終わったの?」
シーラの問いかけに、パーシヴァルは試合場を凝視したまま言った。
「鳴ったのは8回、80点ですから、まだ、終わってはいないっすけど……」
2人の視線の先――ティースがゆっくりと身を起こしていた。
左の脇腹を押さえている。
いったいなにが起こったのか。シーラにはなにもわからなかったが、ただ、
「……あのイストヴァンって人、もしかしたら本当に30年に1度の相手かもしれないっす」
こわばった表情でそう言ったパーシヴァルの言葉が、やけに耳の奥に残った。
『心力』とは人間の持つ基礎的な能力を高める、筋力とは異なる非物理的な力のことである。
男性よりも筋力に劣る女性がデビルバスターとなって魔と互角に渡り合えるのは、この心力が優れているからに他ならず、デビルバスターやデビルバスターを目指す者は、誰もが通常の鍛錬の中でこの能力を無意識に会得し、無意識に活用している。
そして8種類あるとされる心力のうち『剛力』と呼ばれる力は、瞬間的に怪力を発揮できる能力のことだ。重量級の武器を扱うデビルバスターたちは、この『剛力』に優れている者が多いとされ、女性デビルバスターの多くもこの力で筋力不足を補っている。
ティースも同じく、戦いの中で無意識のうちにこの力を振るっている。彼の場合、本質的にいえば『剛力』の才能に恵まれているわけではないが、それでもある程度の底上げはされているし、それでも足りないパワーについては他の技術でカバーして戦っている状態だった。
ただ――
「っ……!」
脂汗がこめかみを流れ落ちる。吐き気を催すほどの動悸。そして左脇腹の激痛。
防具の上からだったにもかかわらず。
いや。
その前に自らの武器をぶつけ、威力を削いでいたにもかかわらず。
イストヴァン=フォーリーのその初撃は、ティースの持っていた武器をまるで木っ端かなにかのようにやすやすと弾き飛ばし、そのまま彼の左脇腹に吸い込まれたのだ。
とっさの判断で飛び退ったため、完全なクリーンヒットではなかった。そうでなければ試合はその時点で終了していただろう。実戦なら胴体を寸断されている。それほどの一撃だった。
試合でなかったら――
落とした剣を拾い上げ、ティースは審判を挟んで再びイストヴァンと対峙した。
(信じられない……なんてパワーだ……)
相手は決して大男というわけではない。身長はティースよりも少し低いぐらいだし、体つきも、筋肉質であることは黒い軽鎧の上からでも想像できるが、全体的な筋肉量が抜群に多いようにも見えなかった。
それでいて、まともに受け止めることすらできなかった、万力のような一撃。
かつて対峙したことがないほどの、『剛力』に特化した才能の持ち主。相手がそういった人物であることは想像にかたくなかった。
――試合はいったん止まっている。
その間、ティースの頭は必死に回転していた。
あの初撃。
油断していたわけではないが、かといってそこまでの威力を想定していたわけでもない。受け止めた後のことを考えながらの防御だった。本当に防ぐことだけを考えれば、止めることはどうにかできるかもしれない。
いや、しかし。相手だってそれが全力だったとは限らない。
もしも受け止めることができなかったら――
全身が緊張に包まれる。
それならば、先手を取るべきなのかもしれない。相手が万全の一撃を放つことができないよう、まずは手数で圧倒すること。
もちろんそうなった場合の相手の実力は未知数だ。
まともに打ち合えば、パワーに優れる相手が有利だろうか。
ただ、スタミナや剣さばきはどうなのだろう。
『剛力』に優れる者は、スタミナに劣る場合が多い。ただ、それはあくまで一般論であって、目の前の相手がそうであるという保証はなかった。
攻めるか。
守るか。
――試合が再開される。
(……攻めるしかない!)
決意を固め、左脇腹の痛みを振り払うように、剣を握った両手に力を込める。
先のイストヴァンの一撃に対しては、別に反応できなかったわけではない。打ち合いになれば、そう一方的に負けるとは思えなかった。
踏み込む。
イストヴァンは最初と違い、いきなり打ち込んでこなかった。
向こうにとってもティースの力は未知数で、同じ戦法を取ることへのためらいがあったのかもしれない。
攻守が逆転する。
1合。
振り下ろし重なり合った剣から、相手が力を込めた感触が伝わってくる。
力比べになることを避け、ティースはすぐに離れて横に動いた。
足を使う。
そのまま、もう一撃。
2合。
「……」
イストヴァンの眉がかすかに動いた。
おそらくはティースの攻撃の意図を悟ったのだろう。
さらに離れて、動く。
3合、4合。
イストヴァンの足が後ろに下がる。
(いける――!)
5合、6合、7合――
さらに打ち合う。
足を止めないように、相手が万全の体勢で打ち込めないように。
8、9、10――
観客の間にどよめきが走った。
11、12、13――
さらに打ち合いの音が響く。
15、17――
打ち合う。
20――
そして、
(え――!)
止まる。
止まったのは――ティースの足だった。
22、25――
「う……ぐっ……」
次々と繰り出される剣撃。
足が止まって、下がる。
30――
いつの間にか、攻守が逆転していた。
(この、人……力だけじゃない――!)
下がって、受ける。
下がって、受ける。
淡々と繰り出される、攻撃。
あの初撃ほどの威力はない。
ただ、速く、そして防ぎにくい箇所を狙った正確な攻撃。
鍛錬された、剣さばき。
下がる。
下がる。
下がる――
横に動くことすら許さない、計算された緻密な連撃に、ティースは防戦一方のまま試合場の端に追い詰められつつあった。
(こ、このままじゃ――!)
場外へ出てしまう。
自ら下がっている以上、この場外は故意とみなされるだろう。その時点で負けが確定する。
かといって――
(……右!)
動こうとしたその方向から攻撃が来る。
どうにか受けて、後ろへ。
(だったら前に――)
足を止めた瞬間、右肩辺りを狙った突きが繰り出される。
「くっ……!」
瞬間的に床を蹴り、飛び退りながら相手の剣を右に弾く。
切っ先が、わずかに右腕をかすめた。
鐘は、鳴らない。
ただ――
(まずい――!)
よろめいた右足が試合場の端を踏んだ。
これ以上は、下がれない。
そして一瞬の空白。
「!!」
眼前にいるイストヴァンの体がふた回りほど大きくなったような、そんな錯覚を感じた。
(来る――!)
あの初撃と同じ。
受けることはできない。
後ろへ下がることも許されない。
脊髄から脳髄へ電流のような緊張が走って――。
歓声。
そして、イストヴァンの有効打を示す東の鐘の音が試合場に響き渡った。