その7『デビルバスターへの道』
それから2ヶ月後――
「ヤバいなぁ……」
夏を思わせる日射しが照らす大通りを、ティースはトボトボと歩いていた。
昼下がり。
大通りの商店街はいつもどおりの活気にあふれていたが、ティースの気分は対照的にどん底にも近い状態だった。
「どうしよう……」
進行方向は北から南。それはつまり、彼が高級住宅地――いや、その先にある学園群から戻ってきたことを意味する。
もちろん学徒ではない彼が学園におもむく理由などそう多くはない。学園生活に極力関わるなとシーラに釘を刺されていた彼がそこへ行って来た理由はただひとつだった。
「そりゃ2ヶ月も学費の支払いが滞れば、文句のひとつも言われるよなぁ」
というわけなのである。
といっても別に忘れていたわけではない。滞納の理由はごくごく単純。
お金がないのだ。
加えて――
「……今日も空振り、と」
斡旋所に行ったところで、仕事の『し』の字も見つかることはなかった。
どうにも最近この業界は不況におちいっているらしく、その底辺の一角を担っているティースに回ってくる仕事は安くて辛い、割に合わないものばかり。
それでも選り好みせずに引き受けることでどうにか生活費程度は稼ぎ出すことが出来ていたが、そんなティースにとって、シーラが通うサンタニア学園の授業料は決して安くはない。
「はぁ……」
このことがシーラに知れたなら、一体なにを言われるか。おそらくは『役立たず』から始まる数えきれないほどの罵倒だと思われるが――そんなわけで、今のところ彼女にはそのことを秘密にしていた。
ただ、このままいつまでも隠し通しておけるわけでもない。
「あいつ、もう帰ってるかな……あ、今日もまたデートだって言ってたか。いい加減、その彼氏を俺に紹介してくれてもいいのにな」
肩を落とし、ひとりつぶやきながら家路を辿るティース。
昨日の雨で増した湿気と夏の暑さが、彼の気分をますます憂うつにさせていた。
「でも、こうなったらもう、やるしかないかなぁ……」
家の前まで来てそうつぶやいたティース。
金欠なこの状況を打破する秘策は、実をいうとずっと彼の胸の中にあった。今まではなかなか決心がつかなかったが、こうなった以上はその秘策を実行に移すときなのかもしれない。
「ただいまー……」
と、誰もいない室内に声をかけ――いや。
「あ……どうも、ティースさん」
「お久しぶりです、ティースさん。ずっとお逢いしたかったですわ」
「あら、ティース? ずいぶんと早かったわね」
「……へ?」
家の中に入るなり、ティースは思いも寄らぬ3人の出迎えを受けることになっていた。
そのうちのひとりはもちろんこの家の同居人、シーラ。
そして後の2人は――
「ファナさん……それにアオイさん?」
いつかのようにベッドに座り、穏やかな微笑みを浮かべる少女。その横に直立する正装の青年。
それは紛れもなく、2ヶ月前にこの家にやってきたミューティレイク家の当主と執事の姿だった。
「え? な、なんで……?」
あまりに非現実的な光景にティースがうろたえていると、ファナが相変わらずの微笑みで言った。
「今日は時間が取れたので遊びに来ましたの。もしかしてお邪魔でしたか?」
「え! あ、いや! 全然そんなことはないです……けど」
だがこの場合はティースの戸惑いが正しいだろう。
いくら面識があるとはいえ、あのミューティレイク家の当主が、こんな貧しい区画の貧しい家に遊びに来るなどと……常識では到底考えられないことなのだから。
「……で?」
シーラから飛んだ声も、相変わらずだった。
「お前はいつまでそこでファナに見とれてるつもり?」
「え? い、いや、別に見とれてたわけじゃ……」
「だったらとっとと中へ入って、お茶のおかわりでも準備なさいな」
「……わ、わかったよ」
ティースが彼女に反論できないのも、もちろん相変わらずだった。
おずおずと家の中に入る途中、苦笑を浮かべるアオイと視線が合ってティースも思わず苦笑を返してしまう。
本当なら情けなく思う状況なのかもしれないが、ティースは彼女に命令されることに慣れて――というよりとっくに染み付いてしまっていて、なかなかそういう気持ちが湧き上がってこないのだ。
「ああ、そういやシーラ。今日ってデートの約束があったんじゃなかったか? そっちはいいのか?」
「……そうだったかしら?」
とぼけたように返すシーラに、ティースは怪訝な顔を向ける。
「そうだったか、って、今朝そう言ってたじゃないか」
「別にいいわ、そんなの」
あまりにもあっさりとシーラは答えた。
「どうせたいした相手でもないし。……なによ」
「いや……たいした相手じゃないって、だってお前、そいつと毎日のようにデートしてたじゃ――」
「誰も毎日同じ相手だなんて言ってないじゃない」
「え……あち――っ!?」
「……なにやってるのよ」
お湯を指にこぼしたティースを見て、あきれ顔をするシーラ。
だが、もちろんティースも反論する。
「だ、だってお前、そんな二股みたいなこと……」
「うるさいわね。お前には関係ないでしょ」
「そりゃそうだけどさ……」
「シーラさん」
そんな2人のやり取りに、ファナが微笑みながら言った。
「あまりそういうことを言っては、ティースさんが無駄に心配なさってしまいますわ」
「え?」
その言葉の意味がわからずにティースが怪訝な顔をすると、ファナはその微笑みを彼の方にも向けて、
「ティースさん。シーラさんは本当は――」
「ちょっ……ちょっと、ファナ。余計なことは言わないで」
シーラが珍しく慌てたようにそれを制止する。
「? なに?」
ティースにはまるで理解できなかった。
わかったことといえば、どうやらファナがティースの知らない『なにか』をシーラから聞いているらしいということだ。
だが、
「ほら、ティース。お茶、早くなさい」
「あ、ああ……」
シーラに急かされて、結局その話題はうやむやのうちに終わってしまう。彼女がその話を嫌がっている以上、これ以上続けることは彼の身の安全にとっても賢いこととは言えなかった。
「そうだ、ファナさん」
お茶を配り終え、テーブルについたところでティースは話を切り出すことにする。
それは先の金策についてのこと。
予想だにしていなかったことではあるが、ファナが今日ここにやってきたことは、そういう意味で彼にとっては最高に都合が良かった。
「だいぶ前の話になるんだけどさ……聞いてもらっていいかな?」
「はい」
一呼吸置いて、ティースは切り出した。
「俺……できればやっぱり、ファナさんのところで働かせてもらえないかと思って」
「はい」
「……」
「……」
「……え?」
「?」
呆気に取られたティースは、思わずファナと見つめ合ってしまっていた。
幸い、今度はシーラから突っ込まれることはなく。
「えっと……え? はい、って?」
「? 私たちのところで働いていただけるのですよね?」
「いや、でもそんなアッサリと……」
「……ティースさん。戸惑うお気持ちはわかりますが」
アオイが苦笑しながら、ティースにその理由を教えた。
「実を言うと、今日私たちがここへ来たのは、その件でティースさんをもう一度お誘いするためでもあったのです」
それにファナも相づちを打った。
「そのことについて、つい先ほどまでシーラさんともお話しさせていただいていました」
「あ……そうなんだ」
それにしても、ずいぶんと見事なタイミングだな――、とティースは思った。
(いや。でも、それって偶然っていうか……)
そしてふと、ミューティレイク家があの学園群の総元締めという立場でもあったことを思い出す。
その疑問をティースは口にした。
「あの……もしかして。それってウチの事情を知ってて、ってこと?」
「……」
問いかけられたアオイは口をつぐんで視線を泳がせてしまったが、ファナは特に隠そうとする素振りもなく、
「その通りですわ。ですから、この先の選択肢のひとつとして考えていただこうかと思いまして」
「……ってことは」
次にティースはおそるおそるシーラの表情をうかがった。
ティースがひたすらに隠してきたこと――この家の経済状況のことを、シーラが知ってしまったかもしれなかったからだ。
そして案の定、
「そんなこと私に隠していたなんてね。馬鹿じゃないの。隠したってどうなるものでもないじゃない」
シーラの鋭い視線を受けて、ティースは思いっきりたじろいだ。
「そ、そりゃそうだけど……その、なんていうか」
「なによ」
「い、いや……」
まるで針のむしろにいる気分だった。
ちょっとだけファナたちのことを恨めしく思ったが、彼女たちとしては当然に知っているものだと思って話したのだろうし、そんな大事なことを秘密にしていたティースにも非があるから仕方ない。
「余計な心配させると……学業にも支障が出るかと思ったし、お金の心配なんてさせたくなかったし……」
「で? そのあげくに2ヶ月も授業料を滞納させてたってわけ?」
「う……」
返す言葉もなかった。
「まったく。半人前のくせに言うことだけは一人前なんだから」
「うう……」
「ですけど、ちょうど良かったのではないですか?」
そこへ、まるで助け船を出すかのようにファナが口を挟んだ。
表情は相変わらず。だが、そこにはどことなく、シーラに対するいたずらっぽい調子が含まれていた。
「シーラさんもティースさんに隠し事をしていたのですから、お互い様ということで」
「ちょっと、ファナ……」
「隠し事?」
ティースは不思議に思ってファナを見る。先ほどの話の続きかとも思ったが、彼女の言い方からして少し違っているようだった。
ファナはうなずいて、
「ティースさんはご存じないようですけど、シーラさんの学費は、実は半額免除になっているのです」
「え?」
ティースにとっては、まさに寝耳に水の話だった。
「いや、だって半額免除ったって、最初からずっと授業料は変わってないはずで――」
「それはそうですわ」
ファナはゆったりとした動きでお茶を口元に運ぶと、一呼吸置いて続けた。
「シーラさんは入学試験から常に成績トップで、ずっと半額免除を受けていらっしゃるのです。半額免除は、定期試験ごとに成績上位者3名に与えられる特権ですから」
「ええっ!?」
ティースは驚きに目を見開いた。
それはそうだ。彼はずっと彼女から違うことを聞かされていたのだから。
「だ、だってお前、ずっと成績ギリギリだって……」
「……ギリギリだなんて言ったことないし、別にいいじゃない。悪いものを良いって言ってたわけじゃないんだから」
シーラは相変わらずの突き放す言い方をしたが、どことなくバツが悪そうだ。
(……けど、言われてみれば)
ティースにも思い当たるフシはある。
たとえば今日、学園の事務と授業料の話をしているときも、『2ヶ月も待ったのは彼女が特別だから』みたいな言い方をされたのだ。そのときはまるで意味がわからなかったのだが、トップの成績を取っていたのだとすれば、確かにその意味するところは明らかだった。
「だけど、そんな嘘なんてつかなくても……」
うろたえたようなティースの言葉に、ファナはニッコリとして、
「きっと照れくさかったのではないですか? ティースさんになるべく負担を掛けないために、がんばってずっとトップの座を維持してきたなんて――」
「ちょっと、ファナ。あることないこと吹き込もうとしないで」
「あら? 違いました?」
シーラは眉間に皺を寄せ、不機嫌そうな顔を形作ると、
「違うに決まってるでしょ。それは私がもともと優秀だからで、別にそのためにがんばってなんかないし……私が毎日のように男と遊び回ってることだってティースが良く知ってるわ」
ファナはクスクスと笑って、
「シーラさん。デートコースがいつも図書館ばかりでは、その男性もさすがに退屈なさっているでしょうね」
「……」
シーラは肩を落とし、諦めたようにため息を吐いた。
「……? あ、でも、すごいよな」
そんな2人の会話がいまいち理解できなかったティースだったが、それでもひとつだけはっきりわかったことがあった。
素直にそれを口に出す。
「ホント、ぜんっぜん勉強してないのに、あのサンタニアでずっと成績トップだなんて。お前って本当に頭良かったんだなぁ」
「……」
「……あらまあ」
なにも言えず黙り込むシーラに、ファナはますますおかしそうに微笑むのだった。
「あの、それで話が戻りますけど……ティースさん」
そこへ、成り行きを見守っていたアオイが、タイミングを見計らって口を開く。
「正式に我々ディバーナ・ロウに参加してくださるということでいいですか?」
と、少し前のめりにそう言った。
彼は2ヶ月前も熱心にティースを誘っており、気が変わらないうちに、という気持ちがあったのかもしれない。
もちろんティースも素直にうなずく。
「ああ……シーラ。構わないか?」
「そんなのはお前の勝手よ。いちいち私に聞かないでちょうだい」
シーラは相変わらずの返答だったが、ふとファナに視線を向けて、
「でも、本当にこいつに務まることなの? 見た目からしてそうだけど、はっきり言って情けない奴よ? 高所恐怖症だし、すぐ風邪ひくし、馬車に乗ればすぐに酔うし……」
「お、おい、そこまで暴露しなくたって……」
「すべて本当のことでしょ。……それで、どうなの?」
「……」
ファナは少し考えるように視線を泳がせた。
そして今度は少し真剣な顔で、シーラ、ティースの順に視線を注ぐ。
「もちろん危険なお仕事ですわ。2ヶ月前のこともございますし、シーラさんもおそらく理解してらっしゃるから、こうして心配なさっているのだと思いますけれど……」
「……」
「ただ、それなりの対価はお支払いするつもりです。それに、極力安全であるようにサポートもさせていただきます。ですから、あとはティースさんのお気持ちひとつですわ」
ファナの返答はシーラの質問の趣旨からは少しズレているようにも思えたが、シーラはなにも言わなかった。
そしてファナはまっすぐにティースを見つめる。
「どうなさいますか、ティースさん?」
「……」
(……俺の気持ち、か)
それはすでに決まっていた。
そしてティースはすぐに答える。
「……役に立てるかどうかはわからないし、たぶん俺の動機って他の人と比べたらものすごく不純なものかもしれないけど……」
彼の夢――シーラを無事に卒業させるという夢。
それを叶えるためにもっとも近い道であるならば。
「それでも認めてくれるのなら、やらせて欲しい。俺なりにがんばらせてもらうつもりだから」
「そうですか」
ファナは正面からティースの視線を受け、すべて理解しているという顔でうなずくと、付け足すように言った。
「不純などではありませんわ。以前にも申しましたけれど、立派なことだと思います」
厳しい表情が崩れて、そこからいつもの柔和な笑顔が現れる。
「本当に……おふたりはまるで本物のご兄妹みたいで、うらやましいですわ」
「あ、はは……って」
照れくさそうに頭を掻いたティースだったが、すぐにその言葉の違和感に気付いた。
「……あれ、ファナさん。いつから俺たちが兄妹じゃないって気づいてたの……?」
「最初から、ですわ」
ファナは再びおかしそうにクスクスと笑って、
「ティースさんは、あまり嘘をつけない方ですわね」
「……」
ティースが唖然としていると、横からシーラがあきれ顔で言った。
「ホント間が抜けてるわね、お前は」
「あ、でも……その、ほら。ファナさんだって本物の兄妹みたいだって――」
「召使いならともかく、お前みたいのが兄だなんて冗談じゃない」
「……」
どうやら――というか、やはりというか。
彼女にとってのティースは結局のところ召使いのようなものでしかないらしい。
(ま、召使いでもなんでもいいんだけどさ……)
そう思ってしまう辺り、やはり彼にも使用人根性が染み付いてしまっているのだろうか。
そして、数日後の昼下がり。
ティースとシーラは2年間暮らしてきた借家を引き払い、ミューティレイクの屋敷へとやってきた。
主要な荷物は屋敷の馬車ですでに運び込んでもらっており、体ひとつの非常に楽な引っ越しである。
「この敷地には本館、別館、迎賓館と3つの館があって、その他にもディバーナ・ロウ各隊の詰め所やいくつかの施設があります」
アオイに言いつけられて広大な敷地内を歩きながらティースとシーラの案内をしているのは、メイド服姿の10代なかばと思われる少女だった。
そしてティースはその少女に見覚えがある。
「あ、そうだ。紹介が遅れてしまいました」
ひと通り建物の案内を終えたあとで、少女はようやく名乗った。
「私、フィリスといいます。フィリス=ディクターです。この屋敷では一応お嬢様……当主様の侍女をやらせていただいています。よろしくお願いします」
「フィリスさんね。うん、よろしく」
ティースの言葉に、フィリスはちょっとビックリした顔をして、
「あ、あの。私のことはどうかフィリスと呼び捨てにしてください。ティース様はデビルバスター候補生ですし、その身内のシーラ様はお客様という扱いになりますから」
「え、でも、初対面の人を呼び捨てるなんて……」
ティースが戸惑っていると、その横からシーラがアッサリと口を挟んだ。
「じゃあフィリスね。よろしく、フィリス」
「はい。よろしくお願いします、シーラ様」
「お、おい、シーラ」
シーラはうるさそうにティースを見て、
「こういう人たちにもそれなりのルールがあるのよ。お前だって知らないわけじゃないでしょう?」
「まあ、そうか……あ、でも、俺はちょっと慣れないし、しばらくはフィリスさんでもいいかな?」
「え……あ、その。ティース様がどうしてもそうしたいとおっしゃるのでしたら」
フィリスは少々困惑した様子だったが、拒否されることはなかった。
「ティース様とシーラ様のお部屋は別館の2階になります。こちらです」
別館というのは正面の門から見て右側、以前ティースがレイやアクアと出会った方の館だ。
「基本的にデビルバスターの方々も、私たち使用人も、普段はこちらの館にいることが多いです。本館はお嬢様のお住まいですが、実はお嬢様もこちらにいらっしゃることが多いので、本館の方は外からのお客様をお迎えするときぐらいにしか使われていないんですよ」
玄関を抜けると、やはり例の丸テーブル群があった。
「……なに、これ?」
初めて見るシーラは案の定、驚いたような呆れたような微妙な表情で眉をひそめる。
「なんかぜんぜん雰囲気合ってないけど、ファナの趣味なの?」
「あ、その、そういうわけではありませんが、みなさまが気楽に過ごすことができるようにと」
「へぇ……ま、らしいといえばらしいかもしれないけど」
それ以上は特に言うこともなかった。
ティースは右から左へと玄関ホールをひととおり見渡して、
「あの夜はゆっくり観察する余裕もなかったけど、こうして見ると、この屋敷って色んな人がいるんだなぁ」
「はい」
ティースの感想に対し、フィリスは満面の笑顔で答えた。
そのホールには現在、4人ほどの人間がいた。
まず目に付いたのは、玄関から一番離れた隅っこのテーブルだ。そこに、妙に分厚い本に読みふけるショートカットの少女がいる。
ただ少女とはいってもシーラのような年齢ではなく、もっと下、おそらくは10歳ぐらいだろうか。この年ごろの少女にしては珍しくスカートではなくパンツルックで、例えるなら『舞台で少年役を演じる子役の少女』という雰囲気だった。
そしてもうひとり、同じテーブルにいたのは、後ろ姿しか見えなかったが、おそらく同席の少女より少し年上ぐらいの、やはり女の子。
彼女は少し髪が長く、栗色でさらさらのセミロング。こちらはいかにも少女らしい可愛い服装をしていて、他にあまり例えようもないが、言うなれば『中流階級のごくごく普通の女の子』といった感じだろうか。
そこからだいぶ離れた席。白衣に眼鏡の男性がコーヒーを飲んでいる。歳はティースよりもおそらくだいぶ上、20代なかばといったところか。
見ただけで頭の良さそうな風貌、その格好から想像するに『医者か研究者』で間違いないだろう。
これに『真面目そうな執事』のアオイや、『見るからに旅人風』なレイの姿を合わせてみると、なにがなんだかわからないごった煮の集団に思えた。
さて。そこにいる最後のひとり。
例えるなら『孤児院で子供に好かれてそうな、いかにも気のいいお姉さん』という感じだろうか。
「あら? フィリスちゃんに……あ、キミたち!」
それはティースはもちろんシーラにも見覚えがあるはずの、頭に2つのお団子を結った女性だった。
ティースたちに気づくなり、勢い良く立ち上がって嬉しそうに駆け寄ってくる。
それに気付いたフィリスが軽く頭を下げた。
「アクア様。こちら、ティース様とシーラ様です」
「知ってる知ってる! へぇ、2人ともひさしぶりねー!」
「や……あの、ちょっとアクアさん……」
今にも抱き付かんばかりの勢いで迫るアクアに、ティースはほんの少し後ずさった。
……例の地下道で彼女に抱きしめられて泣いたことは、今も彼の記憶の中に新しい。改めて思い出すと恥ずかしいということもあったし、違う理由でも今はまずい。
(来た初日に、いきなりあの病気をバラすわけには……)
あのときは気を張っていた、というより、意識する余裕すらなかったから平気だったが、今この場で同じことをやられたら、間違いなく彼の特異体質――女性アレルギーが発動して、この場で気絶してしまうことだろう。
これから世話になる屋敷の面々に、初日からいきなりそんな醜態をさらしてしまうのはなんとしても避けたいところだった。
だが、そのティースの態度をどう勘違いしたのか、
「あら、どうしたのティースくん? あ、わかった! また、あのときみたいにおねーさんに抱きしめて欲しいのね!?」
「い、いえ! それは結構です!!」
慌てて手を振るティース。
もちろん逆だ。それだけはご勘弁願いたいところなのだ。
「あのときみたいにって?」
シーラが怪訝そうな顔をする。
「なに? お前、この人にも不意打ちを受けたの?」
「ふ、不意打ちって……」
だが、その表現はあまりにも的を射すぎている。
基本的に『女性アレルギー』であるティースが自分から女性との接触を受け容れるはずはなく、抱きしめられるとしたら『不意打ち』しかありえないのだ。
(まぁ、あのときはちょっと特殊な状況だったから、別に不意打ちだったわけじゃないけど……)
「あれ? あ、そっか。ごめんごめん、ティースくん」
奇妙な沈黙に、ふと思い出したようにアクアが謝る。
が、ティースにしてみれば、その後に続いた言葉こそ余計だった。
「こんなこと、奥さんの前で言うことじゃなかったか。いいなあ、そんな若いうちから2人きりで同棲なんて、ラブラブじゃないの。おねーさんも10代のころにそういう恋愛してみたかったわー」
「えぇっ!?」
「……奥さん? ラブラブ?」
「あ、あの、アクアさん!!」
ティースは大声を張り上げ、慌てて弁解を始めた。
言葉はアクアに向けていたが、もちろん弁解した相手は別の人物である。
「そ、それ、前に言いそびれたんですけど! それって全然これっぽっちも根も葉もない真っ赤な誤解で――」
「……」
後ろに目のついていないティースには、そのときのシーラの表情をうかがうことはできなかった。
ただ、不穏な空気を察することはできる。
(ヤバイ! たぶんめちゃめちゃ怒ってる!!)
まるで周囲の空気が凍りついているように、ティースには思えた。
だが、アクアはそれを察した様子もなく、
「あ、わかってるわかってる。籍は入れてないんでしょ? そりゃ2人ともまだ若いもんね。でもほら、同棲してたわけだからやっぱラブラブでメロメロだったわけでしょ?」
(……火に油!!)
言ってる意味はよくわからなかったが、とにかく彼女の暴走を止めなければ新天地におけるティースの未来がいきなり地獄に突き落とされるのは明白だった。
「ま、まさか! 一緒に暮らしてたって言っても、俺なんて召使いみたいなもんで! 全然、奥さんとか恋人とかそんなもんとはほど遠い関係なんですよ!!」
「召使い? ……あぁ、ティースくん」
察したと言わんばかりの表情で、アクアは小さくため息をついた。
「結婚する前から尻に敷かれてるのね……可哀想に。でもほら、そういうほうが夫婦仲はうまくいくってうわさもあるから気落ちしないでね」
(だ、だめだ……全然伝わってない……)
「ティース」
「は、はいぃっ!」
「……なによ、その返事」
確認するまでもない。これ以上もなく不機嫌な声だった。
「いや……あ、その、シーラ。これは別に俺がそう言ったわけじゃなくて、アクアさんがそんな、絶対にありえない勘違いを勝手に――」
「……」
深いため息。
そして、
「……ぐぇぇぇっ! シーラ! 足! あし踏んでるッ!」
「アクアさん、だったわよね?」
そのまま、シーラは一歩前に出る。もちろんティースの足は踏みつけたまま。
「え? えぇ、そうだけど……っていうか、ティースくん、ものすごく痛がってるみたいだけど――」
「そんなのはどうでもいいわ。……ひどい誤解があるようだけど、私とティースはそういった関係じゃないの。そういう表現をされるとものすごく不愉快だから、今後一切やめてもらえないかしら?」
「……」
アクアは無言でティースを見た。
「ぎ、ぎぶ、ギブ……!!」
「……そ、そうみたいね」
答えなければティースの命が危ないと察したのか、アクアは少々引きつった笑みでようやくそう言った。後ろでその様子を見守っていたフィリスは、脅えてちょっと泣きそうになっている。
「お願いするわ。……ああ、ティース。いたの」
と、シーラがようやく足を避ける。
「い、いたのって……あのな……」
「悪かったわ。踏みつけてることに気付かなくて」
「……」
アクアは呆然、フィリスは固まってしまい、もはや一言もコメントすることはなく。
「それじゃフィリス。部屋までの案内、お願いできる?」
「あ……は、はい」
「あ、おい、ちょっ、ちょっと待てって……」
そうしてシーラは、まるで下僕を従えるかのように先頭を歩き出したのだった。
……ちなみに、このときのできごとは他の使用人たちにも目撃されていたらしく、新入りである彼らに対する評価は初日にして決定づけられてしまったようだった。
以下、その状態を克明に表した、その晩のアクアとレイの会話である。
「さすがのあたしも思わずうろたえちゃったもんね。あれはたぶん大物だわー……」
「綺麗な花には棘があるもんだ。……あれだけの花だったら棘も相当鋭いんだろ」
「いやー、それにしてもまさかあそこまでとは。こないだティースくんのあんな姿を見た後だけに、なーんか報われない感じしちゃうねぇ」
「どうだか。意外に愛情の裏返しってケースもあるんじゃないのか?」
「おねーさんにはそれ以前の問題に思えて仕方ないわ……っていうか、その前に……ティースくんって、もしかするとああいうので喜んじゃうマゾの人なのかしら……?」
「……かもな」
――合掌。
その翌日の朝。
「ティースさんにはひとまずカノンに所属していただくことになります」
慣れない環境で少々寝不足気味だったが、本館の執務室に呼ばれたティースは、アオイから今後についての説明を受けていた。
ファナの姿はない。
「カノンってのは……第三隊だったっけ?」
「はい」
簡単に説明すると、ディバーナ・ロウは現在4つの隊に分かれている。
第一隊が、ティースにも馴染みの深い女性デビルバスター、アクア=ルビナートを隊長とする『ディバーナ・ファントム』。
第二隊が、2ヶ月前、シーラを助ける際に世話になった少々ワイルドな風貌の男、レインハルト=シュナイダーを隊長とする『ディバーナ・ナイト』。
そして第三隊。ティースが今回所属することになったチームが『ディバーナ・カノン』である。
「レアス=ヴォルクスさん、か」
隊長の名は当然ティースには聞き覚えのないものだった。
「はい。レアスさんにはすでに通達してありますので、とりあえずティースさんはカノンの詰め所に行っていただくだけで結構です。あとは向こうで色々教えてくれると思います」
「わかった」
念のためカノンの詰め所の位置を記したメモを受け取って、
「そういや……第四隊ってのは?」
部屋を出ようとしたところでふと振り返って尋ねる。
確かに第四隊まであると言った割に、アオイの口から説明されたのは第三隊までだった。
「あ、いえ」
だが、別に隠し事というわけではなかったらしい。
「第四隊は少々特殊で……チームといっても現在所属しているのは1名だけなんです」
「ふぅん?」
ティースには良くわからなかったが、つまりまだメンバーが揃ってないということだろうか。
(もしかして、俺は将来そこに配属されるのかな……)
そんなことを考えながらティースは執務室を出た。
いや、出ようとしたところで、
「うわっ……と」
ちょうど部屋に入ろうとしていた人物とぶつかりそうになる。
「わっ……危ないな、もう。気を付けてよ」
そう言って一歩下がった場所からティースを見上げていたのは、
(……子供?)
長身の彼に比べると30センチ以上も背の低い女の子だった。やや長めのショートヘアに、若干つり目ながらも幼さを残した瞳がまっすぐにティースをとらえている。
特徴的なのは、この年ごろの女の子にしては珍しくパンツルックで――
(あ、この子は確か、昨日も見た……)
その手に握られていた『経済と流通』という、少女には似合わないタイトルの分厚い本を見て思いだした。
「ん? どうしたの? ……あ、もしかして」
せいぜい10歳そこそこぐらいに見える少女は、ティースを見上げ、真面目な顔のままで言った。
「あたしが愛らしすぎてムラムラきちゃった? ダメだよ、こんな朝っぱらから」
「……ぶっ!」
「うわ。汚いな、もう」
少女はさらに一歩身を引いて眉をひそめたが、その表情には嫌悪感というより、悪戯が成功して喜んでるような色が見受けられる。
「そ、そんなはずないだろ。大体、君……」
言いかけたティースの言葉をさえぎって、少女は言った。
「リディアだよ。歳はティースさんの想像通り11歳。あと2ヶ月ぐらいで12歳になるけどね」
「リディア? なんで俺の名前――」
「新入りさんの名前ぐらい、もうほとんどの人の耳に入ってるよ」
「そ、そうなのか……ていうか、なんで歳、俺の想像通りだって――」
「だってティースさんの目、いかにも『なんだこのガキ』と言いたそうだもんね。でもよかったよ。期待の新人さんがロリコンじゃなくて」
「……」
淡々と言葉を続ける少女――リディアに、ティースは目を丸くしてしまった。
「とにかく、今後ともよろしくね」
「え? あ……」
ティースは差し出された右手を凝視する。
(えっと……)
情けない話だが、差し出された手を握ることは――このぐらいの年齢なら平気なことも多いのだが――できれば避けたいところだった。
と、そんなところへ。
「リディア? なにをしているんです?」
2人のやり取りに気づいたアオイが後ろからやってくる。
「あ、アオイさん。新人さんへ挨拶してたんだけど」
パッと手を引っ込めたリディアはアオイに向き直って、すぐにチラッと横目でティースを見る。
「意外とまともな人みたいだね。ディバーナ・ロウには似つかわしくないぐらい」
「……」
アオイはなにも答えずに苦笑した。
「まともな、って?」
その言葉に引っ掛かったティースがそう質問すると、リディアは腰に手を当て、まるで大人のような仕草で答える。
「ほら。ウチは上流階級の人間と野蛮人が一緒に暮らしてるような環境だから。ファナさんの人を見る目は確かだけど、中にはやっぱり変なのもいたりするんだ」
「変なの?」
問いかけるティースに、リディアはケロッとした顔で言った。
「いつだったかなあ。夜中に某侍女さんの部屋に忍び込もうとしたデビルバスター志望のお兄さんが、半殺しの目にあって屋敷から叩き出されたりとか」
「は、半殺しって誰に……?」
侍女と言われてティースの頭に真っ先に思い浮かんだのはフィリスのことだったが、まさかあの少女がやったわけではあるまい。
……と思っていたのだが、そんな彼にリディアは少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「気になるんだったらティースさんも試してみたら? あ、ウチは恋愛に関しては自由だから、合意の上だったら特に問題はないけど、まあ自信があるんだったら」
「え、遠慮しとくよ」
怖いというより、彼の性格的にそんなことができるはずもなかった。
「なーんだ。つまんない」
頭の後ろで手を組んで、リディアは本当につまらなさそうだった。大人びた態度を取ってみたり急に子供っぽかったりと、忙しい。
結局、誰が半殺しにしたのかはうやむやのままだった。
「じゃ、ティースさん。そろそろそこ、どいてくれる?」
「え? あ、ああ」
ドアの前に立ちふさがっていたことを思い出して少し横に移動すると、リディアはそのまま執務室の中に足を踏み入れていく。
「そうだアオイさん。先月の月末の支出、用途不明になってるのがいくつかあったんだけど?」
「あ、はい。それについては――あ、ティースさん。それではそろそろ」
「あ、うん」
バタン、と扉が閉まり、アオイとリディアの姿は執務室の中へと消えてしまった。
ティースも自分のやるべきことを思い出し、その前を離れたのだが――
(……あれ? ていうか……)
途中、ふと振り返って疑問に思った。
(あのリディアって子、結局なんだったんだ……?)
結局、その日のうちにその疑問が解消されることはなく。
どうもこの屋敷の面々は見た目だけでなく、中身に関しても少々変わった人々が揃っているようだった。
ディバーナ・ロウの第三隊『ディバーナ・カノン』の詰め所は、敷地の東側の外周の近く、まるでそこからの侵入者を監視するかのような位置に建てられていた。
小型の別館とでも言おうか、この敷地内にあっても決して浮いていることはない。1階建てながら外観から想像するに広さはそれなりにあるだろう。
(ここか……)
さすがにドキドキと緊張しながら、ティースは建物の入り口に立っていた。
(どうすればいいんだろう……呼び鈴みたいなものはないし……ノックするのかな)
だが、ノックしても反応はない。
(そのまま……入っていいのかな)
どうやらそうらしいと判断し、ティースはそっと入り口のドアを開けた。
「お邪魔しま――」
その瞬間、ティースは絶句した。
視線の先……そこにあった光景に。
(……な、なんだ、あれ……?)
そこは武道場のような広い空間になっていた。壁際には木刀や長刀、防具や様々な器具らしきものが並んでおり、詰め所というよりは鍛錬所といった雰囲気だ。
だが、ティースの目を引いたのはそこではない。
その広い空間の中央。
そこにいたひとりの人物の存在だ。
「ラーラー……ラララー……」
歌っている。
いや歌っているだけではない。歌いながら華麗なステップを踏んでいる。
……それはいい。ティースだって踊り子ぐらいは見たことがあるし、それがたとえこの場にそぐわない存在であっても、ここまで呆気に取られることはなかっただろう。
問題は、その踊り子らしき仕草をしている人物が、ウェーブがかった長髪だったということ。
……いや、違う。
踊り子のように踊るその人物が、ウェーブがかった長髪に、全身真っ白な軍服らしきものを着て、口元になんらかの花をくわえるという変わった出で立ちの、大人の男性だったということだ。
「ルールー……ルルルルー……」
くるくると華麗なステップを踏み、男はティースの存在に気付くこともなく踊り続けていた。
ときおり悩ましいため息をもらしながら、
「あぁ……この回る世界のなんと美しいことか……これこそまさにこの世の真理、輪廻転生を表している!」
残念ながらティースには、そのひとりごとの意味がまるで理解できなかった。
(もしかしてあれがここの隊長……なのか……?)
周りを見ても他に人はいない。奥の方に別の部屋へ続く入り口らしきものも見えたが、そこにも人の気配はなさそうだった。
隊長がここで待っているというアオイの言葉が本当なら、どうやら『アレ』が隊長で間違いないらしい。
(……な、なんかものすごく不安になってきたぞ……)
ティースがそう思って天を仰いでしまったのも、無理からぬことであろう。
こうして、ディバーナ・ロウにおけるティースの最初の日は、のっけから波乱含みで幕を開けたのだった――。
-了-