幕間『エリートたちの日常』
「リゼットとクインシーのヤツが私闘を?」
早足で歩く黒服の青年が眉をピクリと動かした。
その後を、同じデザインで深緑色の服を着た少年が駆け足でついていく。
「はい、カレルさん。なんでも訓練所で真剣を抜いて争った、とか」
「原因は?」
「はっきりとはしませんが、どうも……ちょうど手合わせに来ていたディバーナ・ロウの方が原因ではないか、と」
「ちっ」
舌打ちを鳴らして不機嫌そうに廊下を歩いていく。
いや。不機嫌そうに、ではない。カレル=ストレンジはこのとき、実際に不機嫌だった。
……なんてことを言うと、ネービスが誇るデビルバスター部隊『ネスティアス』の隊員たちは一様に怪訝な顔をするだろう。
というのもこのカレルという男、ハンサムではあるものの眼光は獣のように鋭く、細身でいかにも神経質そうな外見をしているものだから、周囲からはいつでも不機嫌なように見られてしまう。つまり不機嫌が標準な状態だと思われているのだ。
しかしもちろんそんなことはない。このカレルにだって普通の気分のときもあれば、機嫌のいいときだって(たまには)ある。
しかし。
今、このとき彼は本当に不機嫌だった。
「だからいつも言ってんだ。ディバーナ・ロウの連中はやっかい事しか持ってこないから中に入れるんじゃねぇって――ああ、いや、お前には関係ないことだな。事情はわかった。戻っていいぞ」
「は、はい!」
少年は過剰なほどきっちりとした敬礼を残して去っていった。
「ったく」
カレルは訓練所の横を通り抜けてネスティアス本部の中心部、ネスティアスのトップを占める10人のデビルバスター『ディグリーズ』たちの隊舎へと向かった。
だが、彼が向かったのは自分の隊である『肆』隊の隊舎ではなく、同じくディグリーズの一員であるリゼット=ガントレットが隊長を務める『玖』隊の隊舎だった。
部隊長室の前に着くと、一度ノックして、
「リゼット。おい、いるんだろ」
返事が戻ってくる前にドアノブに手をかけ、バン! と、蹴破るような勢いでドアを開ける。
「カレル?」
奥の部屋から怪訝そうな声が返ってきた。
男にしては女っぽい。
女にしては男っぽい。
なんとも表現のしがたい中性的でハスキーな声だ。
「どうしたの、急に? ついに若い欲望が爆発して、僕の寝込みを襲うことにしたのかい?」
カレルは不機嫌そうに椅子に腰を下ろして足を組んだ。
「気色ワリィこと言ってねえでとっとと出てこい。話がある」
「気色悪いって……傷つくなぁ。ちょっと待っててよ。汗かいちゃってさ、ようやく身体を拭き終わったところなんだ」
カレルはなにも答えずに部屋を見回した。
調度品を極力排除した内装。金目のものはいっさい見当たらず、壁には使い古された竹刀が3本かかっているのみ。
禁欲的な空気の漂う部屋……にもかかわらず、ひどく散らかっている。
散らかっているのは主に紙の書類だ。必要なのか必要ではないのか、机の上には整頓されていない紙の山ができており、それを見るだけで部屋の主が整理整頓及び事務処理能力に難のある人物であろうことが予測できた。
もちろんカレルは知っている。実際に苦手なのだ、と。
視線を上げるとようやく奥の部屋から、カレルと同じ黒の隊服に身を包んだ男装の令嬢、あるいは女顔の美青年が出てきた。
ディグリーズの一員『月神』リゼット=ガントレットだ。
金色の髪の先がかすかに湿っている。
「お待たせ、カレル。飢えた狼のような目つきが今日もステキだね。ゾクゾクするよ」
と、艶っぽい調子で言ってパチリとウインクをする。
カレルは無視して、
「お前、クインシーのヤツとやり合ったんだって?」
「耳が早いね」
事務机に着いたリゼットは手にしていた愛剣『玉兎』を壁に立て掛け、執務椅子に腰掛けた。
「互いの技術向上のために手合わせしただけだよ。ちゃんとお偉方にも説明に行って来た」
「下の連中がしきりにうわさしてる。派閥争いがエスカレートしたのか、ってな」
「まさか」
そんなカレルの言葉をリゼットは一笑に付した。
「他の人ならともかく、僕とクインシーがそんな理由で争うわけないじゃないか。もっと個人的なことだよ」
「ディバーナ・ロウが来てたそうだな」
「来てたよ。前にネアンスフィア絡みで会ったことある、ティースくんっていう可愛い男の子」
少しだけ、カレルの目尻が鋭くなる。
「またレインハルトのヤロウか」
「どうかな。特に裏はなさそうだったけど……話って、そのことなのかい?」
「……いいや。もっと胸くそ悪い話だ」
「あれ。毛嫌いしてる彼以上にってことはよっぽどだね。じゃあ会議の結果、やっぱり思わしくなかったんだ?」
カレルは悪態をついて、吐き捨てるように言った。
「結局、来月からの戦力配置はオリヴィオ派の意見そのままで決定だ。わかっちゃいたことだが、納得はできねぇ」
「そっか」
リゼットは顔の前で手を組んで、あごを引き、上目遣いにカレルを見つめる。
「でも向こうは最近活躍めざましいから仕方ないよ。オリヴィオさんはもちろん、フェリックスの成長はいちじるしいし、カフィーもそれなりにやってる。クインシーだって、ね。それに比べてこっちは――」
と、軽く肩をすくめた。
「ラドフォードさん、今日は近所の新婚夫婦の引っ越しの手伝いだって」
「……あの、馬鹿」
リゼットは苦笑して、
「いいんじゃないかな。今回の配置の件では結構無茶したみたいだし――それに、ヘンに得点稼ぎに走らないのはあの人のいいところだよ。……お茶、飲む?」
「ふん……」
カレルは相変わらず不機嫌そうだったが、異論はなさそうだった。
射し込んでくる夕日が黒ずんできている。
夜がすぐそこまで迫っていた。
零――『天帝』オリヴィオ=タングラム、31歳。
壱――『獅子王』ラドフォード=マティス、27歳。
弐――『清流』ジャマール=グランジャー、46歳。
参――『聖天使』クインシー=フォーチュン、23歳。
肆――『疾風牙』カレル=ストレンジ、22歳。
伍――『赤薔薇』ナイジェル=ローゼン、29歳。
陸――『白御子』ルーベン=バンクロフト、20歳。
質――『黒貴子』フェリックス=トリート、19歳。
捌――『双頭龍』カフィー=マーシャル、21歳。
玖――『月神』リゼット=ガントレット、22歳。
ディグリーズでは年に一度、功績に応じて入れ替えが行われる。これら10人のディグリーズたちは常々いくつかの派閥に分かれ組織内での発言力を競ってきており、今は4、4、2という3つのグループに分かれている。
ディグリーズのトップであるオリヴィオに組する者――クインシー、フェリックス、カフィー。
ディグリーズのナンバー2であるラドフォードに組する者――カレル、ルーベン、リゼット。
そしてそのどちらにも属さない2人――ジャマール、ナイジェル。
これが現在の状況である。主流は平均席次の高いオリヴィオ派であるが、それでもこれほどに力関係が拮抗しているのはディグリーズの歴史の中でも非常に珍しいことだ。
そしてデビルバスター試験を間近に控えたこの時期は彼らにとっても重要な時期である。将来有望な配下の訓練生たちをひとりでも多くデビルバスターにすることが、結果的に勢力争いにも大きく関わってくるからだ。
だから彼らの身辺も、この時期はにわかに騒がしくなってくるのである。
――と。
そうなるのが常、なのであるが――
「決めた! 俺は決めたぞ、カレルぅぅぅぅッ!!」
「……」
吠えている。獅子のたてがみのようなふさふさとした髪。男くさい彫りの深い顔立ちとゴツい体型。美形とは明らかに対極に位置しているがどこか憎めない、愛嬌さえ感じる男。
そして、顔は心を映す鏡――そんな言葉がよく当てはまる。ラドフォード=マティスというのはそんな感じの男だ、とカレルは思っていた。
「決めたぞ、カレル! 俺は決めた!」
「……」
「決めた! ……決めたぞ、カレル! ……決め……決めたんだぞ~~~おーい、カレル~~~~~」
「……」
書類に落としていた視線をゆっくり持ち上げると、その先にいた獅子のような男の顔がパッと明るくなった。
グッと拳を握りしめ、斜め上を見上げる。
「決めたぁぁぁッ! 俺はもう迷わないぞぉぉぉッ!!」
「先に言っておくが」
カレルは短く言った。
「ミューティレイク公の私設警備隊に捕まっても、今度は助けに行かねえからな」
「右に同じ。僕らもそんなにヒマじゃないしね」
「そうですね。ラドフォードさんヒゲ濃いですし」
リゼット=ガントレットとルーベン=バンクロフト。
デビルバスター試験を間近に控えたこの時期、ラドフォード派のディグリーズ4人は通常任務の終了後、ディグリーズ肆隊隊舎の隊長室、つまりはカレルの執務室に集まっていた。
といっても、別にデビルバスター試験対策の打ち合わせとかでもなんでもなく、単にたむろっているだけである。
「お、おおお前ら……!」
ずずい、と、ラドフォードは拳を握りしめながら3人に詰め寄って、
「ひとつ問おう! お前ら、この俺の熱い決意に激励の言葉はないのかッ!?」
すると3人は答える。
「ねーよ」
「僕もないかな。ミューティレイク公に悪い気がするし」
「ないですね。ラドフォードさんヒゲ濃いですし」
ラドフォードは泣きそうな顔になって、
「な、なんて冷たい後輩たちだ、くぅぅ――……ってか、おい、ルーベン! 危うく聞き逃すとこだったぞ! ヒゲは関係ないだろ!」
ルーベンはいつも通りの物憂げな表情をラドフォードに向け、四つ葉のクローバーを指先でクルクルと回しながら答えた。
「残念。ヒゲがファナさんと釣り合っていません」
「ヒゲが!? ヒゲが釣り合わないってなに!?」
「あと顔も。ぶっちゃけ、全部」
「ヒゲを強調した意味はッ!?」
「……ふぅ」
カレルはため息を吐いた。
デビルバスター試験は間近に迫っている。受験する部下たちに対してやるべきことはやったし今さらアタフタしても仕方がない、とは思うものの。
ネスティアスの誇るディグリーズが4人も集まったとは思えない、いつものことながら緊張感のない集団だ――と、なかば呆れながら右手の紙切れに視線を落とす。
と。
「む? なんだ、カレル。その紙は?」
ラドフォードが目ざとく見つけて顔色を変える。
「まさか恋文ではあるまいな!? ……許さんぞ、カレル! 先輩でかつ5歳年長の上にいまだ独身であるこの俺を差し置いて、結婚を前提にしたお付き合いをしようなどとは!」
「ぜんぜん違うっつの。つか、お前が差し置かれているのは俺のせいじゃねぇだろ」
「む。そ、そうか。恋文ではないのか……ふぅ」
ホッと胸をなで下ろすラドフォードに、リゼットがおかしそうにクスクスと笑いながら口を挟んだ。
「大丈夫だよ、ラドフォードさん。カレルにラブレター渡そうなんて命知らずがこのネービスにいるわけないんだから。ねぇ、カレル?」
「うるせえ」
まあ恋人らしき女性がいないことは事実であるが、そもそもカレルはあまり興味がなかった。歳を重ねて悟ったわけではない。昔からそうだし、これからもそうだろう。
だからそんな風にからかわれてもなにも感じない。
なにも感じない、のだが――
「ちなみに僕は今月4通目、と5通目。差出人は某貴族の末っ子のお嬢様と、前の任務で知り合ったサンタニア学園の女子学生」
ピッ、と、リゼットが人差し指と中指の間に挟んだ封筒をカレルの眼前で見せびらかす。
「……世の中、どうかしてやがる」
「人間というのは美しいものに惹かれる生き物なんだよ、カレル。男女問わずね」
ちゅ、っと投げキッスのポーズで妖艶に微笑んでみせるリゼットに対し、ルーベンが横から口を挟む。
「美しいっていうか、単にエロいだけですよね。リゼットさんは」
「失礼だなぁ、ルーベン。こう見えて僕は純愛派なんだから」
「……そりゃ嘘だろ」
「む」
あきれ顔のカレルにリゼットは不満げだったが、
「まあいいや。それはそうと、カレル。その紙は結局なんなのさ?」
「ああ」
カレルは思い出したようにその紙切れを指先でもてあびながら、
「任務の依頼が来ていたんだが……どうしたもんかと考えていたところだ」
「任務の依頼? なんだそりゃ?」
と、ラドフォードは変な顔をした。通常の任務なら、それに対して『依頼』なんて言葉を使うことはない。
カレルは答えた。
「ユーイングの街まで公女の護衛任務だ」
「公女様だぁ?」
「ああ。ほら」
驚き顔のラドフォードに紙切れを放る。それを手にしたラドフォードの後ろからリゼットとルーベンがのぞき込んだ。
「……へぇ。ネービス公家絡みの任務はだいたいあっちに持ってかれるのに、珍しいね」
「で、カレルさん。一体誰にワイロを贈ったんですか?」
「アホか」
と、カレルは鼻を鳴らして、
「なんでワイロ贈ってまで、んなめんどくせぇ仕事もらってこなきゃなんねーんだ」
「ふむ。しかしまぁ」
ラドフォードはドカッと椅子に腰を下ろすと、偉そうに腕を組んで、
「公女――サイア様の護衛ともなれば大事な任務ではないか。なにしろあの方は以前にも魔の襲撃にさらされたことがある。そんな任務が来るということは、いよいよお前の実力が本当の意味で認められたということだ。いやぁめでたい」
「そうかい」
カレルはそっけなく、
「けどこういうの、俺の性に合わねーんだ。来るかどうかもわかんねー敵をじっと待ってるってのはな」
リゼットが大きなため息を吐いた。
「これだから、もう……。いっそこの機会に色仕掛けで公女様を籠絡するぐらいの気概を見せて欲しいよ」
「テメーみたいな色情狂と一緒にすんな、アホ」
「ちょっ、だから僕は純愛派だって――」
「まぁまぁ、リゼットさん」
ルーベンが間に割って入る。
「どっちにしてもカレルさんには酷な話ですって。こう見えて女慣れしてませんから、この人」
「あ、そっか。じゃあ出立の日までに僕がレクチャーしてあげちゃおうかな」
「……」
勝手に言ってろ、と、カレルは2人を見切り、手元に戻った紙切れを改めて眺めた。
(――公女の護衛、か)
確かに。リゼットとルーベンの言うようなことは論外としても、公女と面識を深めておくのはいいことなのかもしれない。
このカレルという男、本質は一匹狼だが、それでも組織の一員だという自覚は充分にある。部下がいるし仲間もいる。自分のことだけ考えて行動できるわけではないことは充分に理解していた。
(毎回毎回、オリヴィオ派の連中にいいようにされるのもおもしろくねぇしな……)
「……ところで、お前ら」
ふと。カレルは顔を上げて言った。
「公女ってのはどんなヤツなんだ? まだガキなのか?」
ラドフォードは腕を組んだまま驚いた顔をして、
「なんだ、カレル。お前、サイア様のことも知らんのか? 顔もか?」
「ああ。別に興味なかったし、絡む機会もなかったからな」
「絡むだなんてイヤらしい」
リゼットがふっと頬を染め、人差し指を口元に当てる。
「だったら僕のことも絡め取って欲しいな。その艶めかしい細身の肢体で」
「死ね。3秒以内に死ね」
「死ね!? ひどい!」
そんな2人のやり取りに、ラドフォードが大声で笑いながら言った。
「サイア様は今年14、いや15歳だったかな。公子のアシール様とは確か6つ離れておられる」
カレルもさすがに次期ネービス公となる長子アシールのことは知っている。アシールがカレルより2つ半ほど年下だから、サイアは8つ半年下、とすると14歳だろう。
「まだガキだな」
つぶやいたカレルにリゼットがすかさず異論を挟む。
「それは認識が甘いよ、カレル。女の子は早熟なんだから。現に先日、僕にラブレターを持ってきてくれたのはまだ13歳の女の子だったよ」
「そういうことするからガキなんだろ」
にべもなく言い放ったカレルに、リゼットはふう、とため息を吐く。
「ロマンの欠片もないね。わかってたことだけど」
そう言いながら机の端に軽く腰を下ろし、少々心配そうな顔でカレルを見た。
「でも、くれぐれも公女様には失礼のないようにね。ラブレターはともかく、14歳にもなれば立派なレディだよ」
「お前に言われるまでもねーよ」
馬鹿馬鹿しいと言わんばかりにカレルはそう言った。
もちろん礼儀作法は(それなりに)知っている。少なくとも護衛として失礼のない態度ぐらいは心得ているつもりだ。
しかしリゼットは不安そうな顔のまま、
「キミは剣術に関すること以外は不器用だから心配だよ。僕と違ってレディをエスコートすることにも慣れてないだろうし」
「あぁ? エスコートってのはなんだ? 俺は護衛するだけだぞ?」
「……」
真顔のカレルに、無言で顔を見合わせる3人。
やがて、肩をすくめたリゼットがポツリと言った。
「すぐにわかるよ。とにかく、失礼のないように気を付けてね」
「?」
まだ、その言葉の意味はわからなかった。
そして数日後。
公女一行がネービスを出発する前日のことだった。
カレルはネービス公家のことをそれほど知らない。この場合の『それほど』は『必要最低限は知っているが余計なことは知らない』という意味で、現ネービス公が40代なかばで比較的領民の評判がよく、アシールという名の長男とサイアという名の長女がいて、どうやらチェスが好きらしいという、その程度のことは知っている。
ただ、主人ともいうべきネービス公のことですらその程度だから、その息子、娘のことについての予備知識はお察しレベル。先日ラドフォードの前で公女サイアのことをほとんど知らないと言ったのが、嘘偽りのない真実であることもわかっていただけることだろう。
そんなわけで。
カレルの頭の中にあるネービス公女のイメージというのは、いわゆる没個性的な一般市民が抱くお姫様のような、世間知らずのお嬢様的イメージだった。
しかしながら。
当然、世の中の公女たちがすべてそんな性質の持ち主であるはずもなく――
「そなた、名はなんという」
「は。オーデルと申します。公女様におかれましては本日もご機嫌麗しく何よりと存じ上げます」
「うむ。次の者。名は?」
「はっ。イスカと申します。この度は公女様の護衛という大役を仰せつかり身に余る光栄で御座います」
――なんだ、これは、と。
カレルは立ったまま大木に背を預け、やや遠めからその様を眺めていた。
出立の前日、ネービス公家本邸の中庭に集まった護衛は総勢10名。いくら公女といっても出掛けるたびに大名行列を作って歩くわけではないから、少数精鋭、集まった10名はカレルを含め、このネービスでも腕利きの男たちばかりだろう。
それはいい。その方が仕事がしやすい。
それはいいのだが、そこに集まった10名にはおそらく、いや明らかに、ひとつの共通点――しかもカレルにはいかんとも理解のしがたい共通点があった。
「最後のひとり。どうした? こちらに来ぬか」
どうやら他の者たちはすべて挨拶を終えたらしい。
「……」
カレルは組んでいた腕をほどいて大木から離れ、ゆっくりと声のした方へ歩み寄っていく。
両脇からひそひそ声が聞こえた。
「……おい。あいつ、ネスティアスのディグリーズじゃないか」
「カレル=ストレンジか。あのネスティアスでも問題児といわれる――」
チラッと一瞥すると男たちはすぐに黙った。
『疾風の牙』ときには『狂犬』とも揶揄されるカレルの名はネスティアス以外にも知れ渡っている。別に素行が極端に悪いわけではないが、御しがたいという意味であればそれは的を射た二つ名であるということも言えよう。
真っ二つに割れた男たちの間を歩く。軽くあごを上げ、淀みなく、遠慮なく、無造作に歩いていく。
そしてたどり着く先。
「そなた――」
わずかに逆光になってカレルは目を細めた。ただでさえ鋭い視線がさらに凶悪になる。
3段ほど高くなったテラスの上から、ひとりの少女がカレルを見下ろしていた。
(これが公女――サイアか)
ネービス公家に縁のある者は赤みがかった髪を持つ者が多く、本家だけあって公女の髪は遠目でもわかるほどに赤かった。純白のドレスとのコントラストが妙に鮮やかで、その色のドレスでも細身に映るところを見るとかなり華奢な体格をしているのだろう。
その前髪は眉とほぼ平行の角度にV字型に切りそろえられ、横と後ろはストレートに伸ばされている。ややつり目気味なところは父にも兄にも似ておらず、母親譲りなのだろうか。
背丈は年齢を考えると標準、150センチを少し超えたぐらいか。
左右には専属の侍女とおぼしき、同じ顔をした双子の若い女性が控えていた。
そして赤髪の公女――サイア=ネービスが口を開く。
「そなた、名はなんという?」
「カレルです。公女様」
そう答えて軽く頭を下げる程度の会釈をする。
失礼にならない程度の最低限。別に突っ張っているわけではない。彼にとってはなにも意識しないごく自然の行動だ。
サイアは目を細めた。
「では、さっそく問おう、カレルよ。そなた、なぜ私が命じたとおりの服装で来ぬのだ?」
カレルは視線を上げた。
確かに。
先ほど述べた男たちの『共通点』――カレルにだけはその共通点がない。
「正装でと命じられました。俺の正装はこれ以外にありません」
他の男たちは全員、正装だった。憲兵の制服ではない。使用人としての正装でもない。とても護衛の集まりとは思えないパーティー用のタキシードだ。
そんな男たちの中、カレルはひとりだけディグリーズの黒い隊服に身を包んでいる。
「ほぅ」
そんなカレルの返答に、サイアは少し口元を緩めた。別におとなびているようには見えない。外見は年相応の少女だ。
だが、
「明日は着替えてこい。再びは言わぬ。私はそういう粗雑な服が嫌いなのだ」
「……」
なるほど、と、カレルは数日前のリゼットの言葉の意味を理解した。
理解してすぐに、
「わかりました」
意地を張らずに引き下がることにした。
護衛をするのにパーティ用のタキシードなど馬鹿馬鹿しいとは思うが、相手が背伸びしたがるほどのどうしようもない子供であるなら張り合う方がさらに馬鹿げている。ならば素直に引き下がるのが上策だろう。
確かどこかに1度か2度しか着ていないタキシードがあったはずだな――と、そんなことを考えていたカレル。
そこへ、
「それと、髪もだ」
「……は?」
怪訝な顔を上げたカレルの頭に人差し指を突きつけ、サイアは目を細めて矢継ぎ早に言った。
「その無造作な髪をどうにかしろ。それに靴。汚いし艶が足りない。それと全体的に――姿勢はいいが愛想がなさすぎる。まったく、その歳になって身だしなみに気を遣うことも知らんのか」
「……」
一瞬なにを言われたのかわからなかった。こんな年下の少女に面と向かってここまで言われたことも記憶になかった。
「――おい、お前たち」
と、公女は呆然とするカレルのことなど気に留めた様子もなく、双子の侍女を近くに呼び寄せて、
「この男をコーディネイトしてやれ。明日までに少しは見られる格好にしておくのだ。他はもういいぞ。解散だ」
慇懃にかしこまって他の護衛たちが退散していく中。
「……」
カレルはひとり、返す言葉も見つからずその場に立ちつくしていたのだった。
「――ぷっ。あははははははは」
「なにがおかしい」
にらみ付けてやると、リゼットは笑うのをやめようともせずに、
「いや、ふふ……おかしくなんかないよ、カレル。うん。とてもよく似合ってる」
「ふん」
見ているとはらわたが煮えくり返りそうだったので、カレルは憮然とした顔のままリゼットの前を通り抜けて、部屋のドアを開けた。
リゼットの隊長室よりもさらに殺風景、かつそれなりに整頓された(というよりあまり物がない)この部屋は、言うまでもなくカレルの隊長室である。
結局、公女の侍女たちに解放されたのはあれから1時間も後のことで、明らかに不機嫌そうな彼に対し、侍女たちはおっかなびっくりに、しかし容赦なく彼の全身を見事にコーディネートしてくれた。
蝋のように固められた黒髪。大きく開いた金ラメ入りの襟と紫色の蝶ネクタイ、胸に刺さった赤い薔薇。
完全に道化である。
「ほらほら、カレル。ただでさえ怖ろしい顔が魔物みたいになってるよ。そんなんじゃ部下の子たちも怖くて近寄れないんじゃないかな?」
後をついて部屋に入ってきたリゼットが、執務机の端に軽く腰掛ける。
妙に楽しそうなその態度がいつも以上にカンに障る。ついでにいうと、この結果がわかっていたかのように部屋の前で待ち伏せしていたのも気にいらなかった。
「――あの、クソガキ」
机の上に置いた握り拳に自然と力が入る。
「こっちがなにも言わねぇのをいいことに調子に乗りやがって。公女ってのはアレか。まともな教育を受けてねぇガキのことを言うのか」
「うわ。いいのかい、カレル。公女様のことそんな風に言って」
リゼットがわざとらしく大袈裟に驚いてみせる。
――この時点で。普段のカレルであればその態度になんらかの不信感を抱いていたはずだが、このときは冷静さを欠いていたのだろう。立て続けに公女への不満をぶちまけた。
「フン、馬鹿馬鹿しい。公女だかなんだか知らねぇが、壁に耳が生えているわけでもねぇだろ。……たとえ聞こえてたって構うもんかよ。クソ生意気なガキンチョだってことに変わりはねぇ」
ふと視線を下に向けると、金ラメの襟が視界に入ってまた気分が悪くなる。
「……まぁ、いい。とりあえず着替えて――おい、リゼット。てめぇもこんなとこで遊んでられるほど暇じゃねぇんだろ」
「ん、まぁ、そうなんだけど」
「?」
なんとも微妙な物言いを不審には思ったものの、カレルはそのまま着替えを取りに奥の部屋へと向かった。
明日になればどうせまたこの格好にさせられるのだろうが、今は少しでも早く解放されたい。
と。
リゼットが急に言った。
「そうだ、カレル。ゴメンよ」
「あぁ?」
不機嫌なままで振り返ると、リゼットは少し上目遣いになってクスッと微笑んだ。
その表情を見た瞬間、カレルの全身を嫌な予感が駆け巡る。
「言うの忘れてたんだ。キミが戻ってくる少し前から、奥の部屋でお客様がお待ちかねだよ」
「……」
無言で奥の部屋に視線を向けるまでもなく。
そこからひとりの少女が姿を現した。
真っ先に視界に飛び込んできたのは――眉と平行に揃えられたストレートロングの濃赤の髪。
「似合っているではないか、カレル=ストレンジ」
片手を白いドレスの腰に当て、口の端を小生意気に軽く上げて少女はカレルを見上げていた。
「公女……様」
一瞬なにが起きたのかわからず、ポカンと口が開いてしまった。
しかし、すぐに状況を理解するとともに我に返って、
「……てめぇ」
もちろん公女に向けた言葉ではない。後ろでそっぽを向いている確信犯に向けたものだ。
「ふむ」
サイアはまるでバレエを踊るときのようにリズミカルに軽々と近付いてくると、カレルの眼前で立ち止まり腕を組んでカレルの全身を下から上まで眺め回した。
そして再び口の端を緩める。
「それで? 先ほど私のことをなにか言っていたようだが、カレルよ。改めて聞かせてはくれぬか?」
「……」
とっさに返す言葉がない。
ネスティアスで鬼のように恐れられる彼も、さすがに公女相手に簡単に開き直れるほどアウトローではなかった。
「まともな教育も受けていないクソ生意気なガキンチョ様だそうですよ、サイア様」
リゼットが楽しそうに余計なことを言う。
「くっ……リゼット、てめぇ……」
「ほう」
サイアは真っ白なドレスの腰に片手を当て、もう片方の手で赤みがかったストレートの髪をさっとなびかせると、少しあごを上げてまるで見下ろすようにカレルを見上げた。
「うわさには聞いていたが、なかなかのやんちゃ者のようだな。お前は」
「……」
どうやら言い訳のできない状況のようだ。
ならば仕方がない。
すぐにカレルは開き直った。
「……んで? こんなところに一体なんの御用でしょうか、公女様。わざわざこの俺をからかいに来たというわけではないでしょうね?」
そうだ、とでも答えたら本気でげんこつでも喰らわしてやろうかと頭の隅で考えていたカレルだったが、
「もちろんだ」
サイアはゆっくりとカレルの眼前を通り過ぎ、そのまま彼の執務椅子に腰を下ろすとクルッと彼に向き直った。
「カレル=ストレンジという男に少々興味があってな。少し話をしたかった」
おとなびた口調だった。
意図を計りかねた。
「……どういう?」
「額面通りの意味だ、カレル」
サイアはやはりおとなびた目でカレルを見た。
「領地の防衛というカテゴリーにおいて、対魔という視点から見れば、お前たちネスティアス、とりわけ10人のディグリーズたちはその要だ。そんなお前たちの人となりがどのようなものか、気にならぬ方がおかしい。ただ、私はお前たちと関わり合う機会をなかなか作れない。だから今回の護衛にわざわざお前を選んだ。……実を言うとな。こっちのリゼットにも以前、お前と同じ理由で護衛を務めさせたことがある」
「……」
それでリゼットが今回のことを予見できたわけだ。
サイアはさらに続けた。
「お前のことはリゼットから聞かされていたし、どのような男かもだいたいは想像できたのだがな。それでも自分の目で確かめねばわからぬこともある。だから、どんな用で来たかと問われれば、お前個人に対する興味、ということになる」
「……なるほど」
予想外にまっとうな答えが返ってきて、カレルは驚きを表に出さないように驚いた。
どうやら、ただのおとなぶったわがままな子供というわけでもなさそうだ。
ただ――
「では、公女様。今語っていただいた理由と、俺が無理やりさせられたこの格好との間にどのような関連性あるのかってことも、俺にわかるように説明してもらえますかね」
「ふむ」
サイアは表情をひとつも変えずに答えた。
「それは単なる私の趣味だ」
「……このクソガキ」
「なにか言ったか?」
「いいえ。別に」
「そうか」
サイアは気にした様子もなく、ストレートにした髪の先を軽くもてあそびながら、
「まあ公女などという堅苦しい肩書きを持っているとはいえ、私だって年ごろの女子だ。どうせ囲まれるなら紳士的な男たちに囲まれた方が楽しいに決まっている。護衛というとゴツくて無粋な男が多すぎてな。別に話術で楽しませろとまでは言ってはいない。ただ任務に支障のない範囲で、見た目だけでも華やかにしてもらいたいのだ。そういうものだろう?」
「……そりゃごもっとも」
カレルは投げやりに言った。
リゼットが横から口を挟む。
「それで公女様? カレルのことはお気に召しましたか?」
するとサイアは意外にも即座に頷いて、
「うむ。スマートさはお前と比べるべくもないが、こういう御しがたい性格も嫌いではないな。男はただ黙って従っているよりも多少の反骨心があるぐらいの方が良い」
「……そりゃどうも」
もうどうでもいい気分になっていた。
「さて、と」
サイアはキシッと椅子をきしませて立ち上がると、片手を腰に当ててまっすぐにカレルを見上げる。
「では明日から頼むぞ、カレル。働きによっては――そうだな。お前のような男なら、私の婚約者候補に加えることを考えてやってもいいぞ」
(……なんだそりゃ)
冗談にしてもタチが悪い、なんて言葉をどうにか我慢して、部屋から出ていく公女を見送った。
やれやれ、と、さっきまで彼女が腰を下ろしていた執務椅子に座って脱力する。
「モテモテだね、カレル」
「うっせえ、黙れ」
疲れた。
文句を言う気力もない。
リゼットは笑った。
「でもま、歳の割には見識の高い方だよ」
「……」
少なくともただの馬鹿ではない、ということはカレルにもわかった。
「ネスティアスの内情にも詳しいし、最近じゃディグリーズの内部事情についても色々調べてるみたい。……そういう意味じゃ、将来的には僕らの強力な後ろ盾になってくれるかもしれないね。どちらかというと今は僕らに好意的のようだし。まあ、これは僕の功績なんだけど」
「……フン」
リゼットの言いたいことはカレルにもわかっている。
現ネービス公はディグリーズの首席であるオリヴィオ=タングラムに全幅の信頼を置いている。公子のアシールもはっきりどちらの味方ということはないものの、父が信頼を置くオリヴィオをやはり一番頼りにしている。
そんなオリヴィオと対立する次席のラドフォード派――つまり彼らは、どちらかというと日陰者だ。
しかし、あの公女が味方に付くということであれば少しは勢力図も変わってくるだろう。女で次子であるとはいえ、このネービスは他の領地に比べて女性の発言が力が持つ土地柄だ。しかも見識も学もある公女の言葉となれば、今後、歳を重ねる度にその発言は無視できないものとなる。
それはわかっていた。
そのために自分がなにをするべきかも。
しかしカレルは――見てわかるだろうが、おべっかを使うのがとても苦手だ。剣ひと筋に生きてきたから社交性もあまりない。頭は悪くないので最低限の礼儀は身につけているが、過剰に装飾された言葉は持ち合わせていなかった。
「カレル。今回の任務……重要だよ」
リゼットが真面目な顔でそう言った。
一拍置いて。
カレルは答えた。
「わかってる。ガキじゃねーんだ。うまくやるさ」
数日後。
「――愚か者。確かに話術は必要ないと言ったがそれは言葉の綾だ。たとえその技術がなくとも男が女と2人きりになれば気を遣ってなにかしら話題を提供して退屈させないようにするものではないか。まったく。剣に熱心なのも結構なことだが、少しはそういったことも学習せねば男として大成できぬぞ」
「……」
リゼットにはああ言ったものの――なぜ自分はいきなり8つも年下のガキに説教されなければならないのだろうか――と、そう考えるとどうにも納得できず、カレルは愛想などという言葉とはまったく無縁の憮然とした顔で馬車に揺られていた。
だいたい、男として大成できないとかは非常に大きなお世話だし、男と女が2人きりになれば云々の話もこのカレルという男の辞書には存在してしない。
というか、そもそも2人きりではないのだ。この馬車の周りは10人もの護衛が固めているし、それ以前に公女の左右には同じ顔をした双子の侍女が控えている。
楽しい話がしたいなら両脇の連中に言えばいいだろう、なんて言葉はどうにかのどの奥に引っ込めて、カレルはようやく口を開いた。
「あー……あそこに見える山のふもとにあるロマニーという街は温泉で有名だそうで」
「……お前、ネービスの公女である私が、ネービスでもっとも有名な温泉街の存在を知らないとでも思ったのか?」
「知ってましたか。それは失礼」
会話終了。
それからも少し(3秒ほど)話題について考えてはみたもののなにも思い浮かばなかったので、カレルは結局開き直り、公女を無視して外の景色を眺めることにした。
今回の目的地であるユーイングの街はネービス領の南西端、国境付近の大きな街である。ネービスからは馬車で通常3日の距離だが、今回の旅は公女の体を考慮してか余裕を持った5日間の日程となっていた。
なにごともなく1日目が過ぎ、2日目が過ぎ、3日目が過ぎて――そして3日目の宿を取った大都市ブレインスタンを発って2時間。
太陽がちょうど真上を通り過ぎようとしていた。
進行方向の左手、街道の南側には緩い丘陵が続いている。右手はここから少し距離があるものの森が生い茂っていて、その先にはふもとに温泉街を有するラグレオ山が見える。
進行方向は少しずつ上り坂になっており、少しずつ辺りの見通しも悪くなってきて、さらに進めばそこはネービスからユーイングへ向かう道程でもっとも険しい道だ。
つまりもっとも気を引き締めなければならないポイントである。
だが、しかし。
(……ったく。ガキの子守をするために付いてきたんじゃねーぞ)
ネービスを発ってからずっと、カレルはそれ以外の余計なことに気を取られてしまっていた。
もちろんカレルだけが特別扱いというわけではなく、護衛の男たち全員がこうして交代でひとりずつ公女の話し相手を務めている。喜んでやる者もいれば仕方なくやる者もいたようだが、やる気のなさではカレルが群を抜いてトップだろう。
「まったく。変わった男だ」
自分を無視して外を眺め始めたカレルを見て、公女は仕方なさそうに首を振った。
チラッと公女の表情を盗み見る。
さすがに気分を害したのかと思ったが、彼女は不機嫌というよりは興味深げな目でカレルを見つめていた。
「カレル。お前、少しは私の心証を良くしようとは考えないのか? お前たちディグリーズは2つの派閥に分かれて争っているそうではないか。私を味方に付けたいとは思わないのか?」
「……」
なるほど、そのぐらいのことはお見通しらしい。
「父上や兄上の信頼はお前たちの対抗勢力であるオリヴィオ=タングラムの方が厚い。ならばなおのこと、私を味方に付けようと努力すべきではないか? それとも、こんな小娘にはそのような力などないと侮っているのか?」
「これでも心証を良くしようと努力してんですよ、俺は」
カレルがそう答えると、公女は心底呆れた顔をした。
「本当にか? てっきり気にくわないガキだからと、ワザと嫌われるようにしているのかと思っておったぞ」
「……」
半分ぐらいは当たっている。
カレルは両手を広げて、
「なんにせよ。俺の本職はあんたのご機嫌を取ることじゃない。だからうまくできない。ただ、それだけのことです。それに――」
公女をまっすぐに見る。
「見え見えのおべっかに、無邪気に喜ぶような人間には見えないもんでね」
「……なるほど」
公女は納得したようだった。
「ならば問おうか。――カレルよ。お前の本職とは、なんだ?」
「……なに?」
意表を突く問いかけに、口調が思わず素に戻ってしまった。
試されようとしている。
カレルはすぐにそれを感じた。
「お前の本職とはなんだ? お前たちディグリーズは……ネスティアスとはなんのための組織だ?」
「……」
意図を計り損ねて、カレルはひとまず無難な言葉を選んだ。
「ネービスを魔の脅威から守るための組織――でしょう」
「そうだな。では、その『ネービス』とはなんのことだ?」
「意味がわかりません」
いや、わかるような気はした。だが、カレルは思うところがあってあえてそういう答え方をした。
そんなカレルの考えを知ってか知らずか、公女は続ける。
「最近は大きな魔の組織の動きが活発になっていると聞く。それに備え、ネスティアスはネービスの街を中心とした大都市周辺の守りを重点的に固めているそうだ。クレイドウル、ルナジェール、ヴァニィリッツ、ブレインスタン、ホルヴァート――いわゆる戦乱時代、近衛都市と呼ばれた5都市を中心にだ」
「よく御存知で」
もう驚くことはない。確かにこの公女はよく勉強している。
「しかし当然のことながら戦力は有限だ。ネービス近郊の都市にばかり戦力を集中させれば、そこから離れた地域は手薄になる。たとえば今、我々が向かっているユーイングもそのうちのひとつだ」
公女はゆっくりと窓の外に視線を移動させた。
「お前ならば当然知っていよう。ユーイング近隣では同じ魔によるものと思われる被害が1ヵ月も前から多発しているが、いまだ掃討できていない。あれだけ大きな街の近くであるにも関わらずだ。……カレル。この現状を見ても、お前たちはネービスを守っていると胸を張って言えるのか?」
「……お言葉ですが」
カレルはかしこまって答えた。
「そこまで勉強されているのなら御存知だと思いますが、最近ベルリオーズという非常に危険な魔の組織がネービス領近辺で不穏な動きを見せております。ネービスの街を守るには現状ですらまだ完璧ではないと思いますが」
淀みなくスラスラと答えると、公女は初めて不快そうな顔を見せた。
「それと同じ話は父上や兄上から嫌というほど聞かされている。……つまり、お前も首都とその近隣さえ守っていればそれで良いという考えか」
「そこまでは言いませんが、ネービスの街が魔の手によって侵略されるようなことがあってはならない、と、そう考えるのは当然のことかと」
「……そうか」
公女は短くそう言って黙った。違う返答を期待していたのだろう。失望したようにも見えた。
「ならば、今回はお前にとって意味のないことに付き合わせてしまったかもしれんな」
「意味のないこと?」
「……」
公女は答えずに顔をそむけた。
カレルはその横顔をじっと見つめながら、
「なるほど。この旅自体が父上の方針に対する抗議、ということですか」
「……」
なにも答えない。だが、どうやら図星のようだ。
確かに最初から変だとは思っていたのだ。近辺で魔の出没が報告されているこの時期に、わざわざ公女がユーイングへ向かうという話。よほど外せない公用なのかと思いきやどうやらそういう感じでもない。
つまり――
ふてくされたような公女の横顔に、カレルの胸にはこみ上げるものがあった。
「……なにがおかしい」
密かに笑うカレルに気付いたのだろう。
「いや、すまない。しかし、ま、やっぱ子供は子供だと思ってな」
「なに?」
明らかに気分を害した様子で公女は彼をにらみ付ける。初めて見る彼女の不機嫌そうな表情は年相応の子供っぽいものだった。
「なにが子供だというのだ? 私はネービスに住む者たちが等しく、魔に怯えず暮らせるようになってほしいと考えるだけだ。……私はお前たちも同じように考えていると思っていた。だが、どうやら見込み違いだったようだ」
矢継ぎ早にまくし立てる。
西日を浴びて赤みを帯びた髪が、真っ赤に燃えているように見えた。
カレルは笑いをこらえながら、
「そういうことじゃない。そういうことじゃなく、子供ってのは――あとさき考えてないところが、さ、公女様。あんた、この旅の途中、本当にその魔の一味に襲われたらどうするつもりだったんだ?」
馬鹿馬鹿しい、とばかりに公女は鼻を鳴らして、
「そのために腕利きの者たちを連れてきた。連中が姿を現してくれるならいっそ好都合ではないか」
カレルも鼻で笑い飛ばす。
「だからわかってないっていうのさ」
「なに?」
馬車は険しい山道に入っている。
コト、と、カレルは手元に置いた剣に軽く手を置いた。
「公女様。あんた、この辺りに現れた魔のことはちゃんと調べたのか?」
「当然だ。1ヶ月ほど前から旅の者を襲っている。金品が狙いではなく、ただ命を奪っていくだけ。胸の悪くなるような愉快犯だ」
「そうじゃなくてさ」
「なに?」
「その魔が何者かわかってんのか、ってことさ。公女様」
「……何者? だから旅の者を襲う魔の――」
「ああ、それは間違っちゃいねえ。けど、そいつはそれ以外にも別の個性を持っている」
「個性?」
「そいつはただの賊なんかじゃない。タナトスっていう魔の組織の一員なんだ。タナトス幹部のひとり、サモン。サモン=グリット=メッツァー」
「サモン……メッツァー……? タナトスというと――」
タナトスという単語は知っている様子だが、詳細まではさすがに知らないようだ。無理もない。先に出したベルリオーズなどに比べると一般的な知名度はそれほど高くない組織だ。
だが、それは単に組織の規模と目的の問題である。個々の能力に関していえば、彼らが最高クラスの危険度であることをカレルは知っていた。
「なら、こう言った方が公女様にゃわかりやすいか。そいつは雷の将族だ」
「将族……? ……将族だと!?」
瞬時に狼狽の色が走った。
無理もない。通常、人魔といえばほとんどが下位魔と上位魔であり、その上の種族と出くわすことを想定することなど多くはない。公女が魔の一味と聞いて下位魔、最悪でも上位魔だと考えたのは当たり前のことなのだ。
「馬鹿な! もしそうなら、お前以外の者は――!」
冷ややかにカレルは答える。
「誰ひとり、歯が立たないだろうな。今あんたを守っているのはただの紙の兵隊たちさ」
上位魔までなら外を固める腕利きの護衛たちでも戦力になるし、よほどの数でない限りは退けられる。
だが、相手が将魔ともなれば話が違う。デビルバスターか、あるいは一部の特殊な人間以外は何人いようと歯が立たないだろう。
「……」
「……」
公女の左右に座る侍女たちが不安そうな顔をした。
「し、しかし、皆もネスティアスの者も、そのようなことはひとことも――」
「そりゃ知らなかっただけだろうな。こいつは入ってきたばかりの最新情報だ。事情があって今は俺を含めてネスティアスでも数人しか知らない」
「――!」
公女の表情が変わった。先ほどまでとは明らかに違う。自分の身に確実に迫っている危険にようやく気が付いたようだ。
「カ……カレル! お前、そこまでわかっていて、どうしてそのことを黙っていた! 万が一、その者に襲われたらどうするつもりだッ!?」
その反応はカレルの想像通りだった。
だから淡々と答えた。
「実感したか? あんたの父上や兄上がなぜネービス周辺の守りを固めようとしているのか。……あえて自分の身を危険にさらすってのは勇気のいることだ。そういう、できもしない理想を語るのは、子供だってことのなによりの証拠。だろ?」
「……!」
ハッ、と、公女の目が大きく見開かれた。そのまなじりに、少しずつ涙がにじんでくる。
カレルはそんな彼女を再び鼻で笑い飛ばした。
「あんた、味方になって欲しくないのかと、さっき確か俺にそう言ったよな? ……答えはイエスだ。なって欲しくなどない。張りぼての味方なんてのは居てもただ邪魔くさいだけだ。あんたには無理。あんたは俺たちの味方になど、なれやしない」
剣の柄を握る。
――感覚が研ぎ澄まされて、匂ってくる。
万が一、ではない。
必ず来る。
チラッと公女の顔を見る。
混乱した様子だ。まだ状況が整理できていないのだろう。いくら博識だとはいっても子供は子供。無理もない。
無理も――
(……?)
その瞬間、カレルの脳裏に走ったひとつの予感。
(なんだ……?)
戸惑った。
それがどこから生まれたものなのかカレルにはわからない。ただ、目の前にいる取り乱した公女の顔を見た瞬間――カレルは思わず口を開いていた。
「……もうひとつ、教えておいてやる、公女様」
そう言った。
言う必要のない――いや、言うべきことではないと、わかっていたにもかかわらず。
カレルは『事実』を口にした。
「あんたの情報を流させてもらった。タナトスってのは基本的に愉快犯――人間が大混乱に陥るのを喜ぶ連中だ。そういう意味じゃ、あんたのことはヤツをおびき出すのに好都合だったからな」
「な――」
それ以上は公女の言葉を聞こうとせず、カレルは剣の柄を握ってゆっくりと腰を上げる。
「俺たちは魔の手からネービスを守るためにいる。ああ、そうさ。俺が守るネービスはネービス領のすべてだ。だからそのために最善だと思えば、なんだって利用する。ネービス公家の人間だろうと勝手に利用させてもらう。……そういうことだ」
「お前は、私を――」
ついに公女の目から涙があふれ、彼女はその目でカレルをにらみ付けた。
「フン」
カレルは鼻を鳴らして、
「公女様。あんたはおとなしく父上にでも従ってりゃいいのさ。あんたにゃ自分を犠牲にすることなんざ、できねぇよ。この程度のことでビビって取り乱しているあんたには、な」
「ッ――!」
パンッ!!
左の頬に痛みが走った。
「……って」
避けるつもりは最初からなかった。だが、思った以上に痛かった。
横目で見ると、振り抜いたままの公女の右手が怒りに震えている。
そこでカレルはようやく冷静になって、そして後悔した。
(……ちっ。またリゼットのヤツにうるさいこと言われるな)
これで公女まで敵に回してしまった。彼自身にも後々なんらかのお咎めがあるかもしれない。
まあいつものことだが――
――なぜ、余計なことを言ってしまったのだろう。
それは考えてもわからない。カレルには元来そういうところがある。周りからは(一部を除いて)冷静で冷徹な性格だと思われているが、最終的に自らを動かすのは得体の知れない第六感だったりすることが多い。
獣じみているとでも言おうか、そういう意味で『疾風の牙』と名付けられた彼の称号はなかなかに的を射ている。
今回もおそらくはそういうことだ。
ただ、その第六感がうまく働かなかったということか。
仕方ない。
それに、どうせこの公女は本当の意味で彼らの味方になどなれないのだ。だからいい。もともと後ろ盾の有無で行動を決めるつもりなどない。ラドフォードだってきっと同じことを言うだろう。
だから、いいのだ。
変に味方面をされてまとわりつかれるよりもこの方がすっきりしていてわかりやすい。
柄を握る手にさらに力がこもる。
――匂ってくる。
まだ距離はわからない。だが、確かに進む先にいる。強い敵の気配が――。
そのころ、夕焼けに染まるネービスの街。
(カレルたちはそろそろユーイング近辺か……)
落ちていく夕陽を眺めながら。
そのときリゼットはデビルバスターを目指す部隊員たちの指導を終え、訓練場を出て隊舎へ戻るところだった。
と、そこへ、
「リゼット隊長!」
「うん?」
呼び止める声にリゼットはクルリと振り返り、乱れのない姿勢で片手を腰に当てる。ピンと伸びた背筋に凛とした立ち姿は、ウィンチェスター劇場の舞台の上でも映えそうなほどにキマっていた。
「どうしたの?」
駆け寄ってきたのはリゼットの部隊員でデビルバスター志望の少年だった。歳はリゼットの記憶が確かならば14歳。
(14か、若いなぁ……)
14歳といえば件の公女サイアと同い年で、カレルもまだネスティアスに入隊する前の年齢だ。……なんてことを考えながら、リゼットは8つも年下の少年にやや艶っぽく問いかけた。
「あ、デートのお誘いなら、残念。僕の予定はずっと先まで埋まってるんだ」
「あ、いえ、それが……」
「?」
普段なら真っ赤になって否定する純情な少年だったが、今日はどうも反応がおかしい。怪訝に思って再び問いかけようとしたところで、リゼットは気付いた。
顔を上げる。
「よぅ。ここにいたのか。リゼット、さん」
上げた視線の先に、リゼットと同じ黒い隊服に身を包む青年がいた。
「……カフィー」
その黒い袖に刻まれた文字は『捌』。リゼットよりひとつ上のナンバーを持つディグリーズのひとり、カフィー=マーシャルだった。
彼はリゼットよりひとつ年下の21歳だが、その年齢よりは幾分幼い少年のような顔立ちをしている。ネスティアスに入ったのもディグリーズとなったのもリゼットよりちょうど1年遅れであり、同じ部隊に所属していた期間も長く、直接の先輩後輩という間柄だった。
「案内ご苦労だったな。もう行っていいぜ」
「は、はい」
少年は心配そうにチラリとリゼットを見たが、リゼットが微笑んでみせるとうなずいて立ち去っていく。
後には2人だけが残った。
リゼットは部隊員の少年に向けた微笑みを、今度は目の前の童顔の青年に投げた。
「カフィー、どうしたの? 僕に用かい?」
「ああ、ちょっとあんたに聞きたいことがあってな。――っと、その前に」
と、カフィーは笑顔を返した。
「体の調子はどうだい? 無茶してねぇか?」
「? 別に普通だけど。どうしたの、急に」
「いや」
カフィーはさらに笑いを振りまきながら言った。
「直近で降格したディグリーズの最下位ナンバーはよく命を落とすって話だから心配になってな。崖っぷちで功を焦っちまうのかね。はは、あんたも気を付けた方がいいぜ」
「……」
悪気がない――わけではもちろんない。
黙ったリゼットに対し、カフィーは少し顔を近付けた。
「ま、無茶すんなってことだよ、リゼットさん。いくら頑張ったところで、来年にゃディグリーズから外れるに決まってんだからさ。あんたは、しょせん――」
「心配ありがとう、カフィー。でもいらないよ」
リゼットは途中でその言葉をさえぎった。
表には出さない。だが、手の平には自然と力が入っていた。
「それで? 僕に聞きたいことって?」
「……フン」
つまらなさそうに鼻を鳴らしたカフィーは、急に人相の悪い顔つきになり、半身になって軽くあごを上げ、見下ろすようにリゼットを見た。
「新しい部隊配置の話、あんたらも聞いてるはずだよな? にもかかわらず、ルーベンの野郎が勝手に変な動きをしてるって話を聞いたもんでな」
「知らないよ、僕は。それに今後の配置の話は小耳に挟んだ程度で、指令だって正式に届いてないからね。どっちにしても来月以降の話じゃないのかい?」
「……気に入らねぇな。その、抵抗する気マンマンって態度がよ」
カフィーがそう言って目を細めたが、リゼットは微動だにせず淡々と答えた。
「キミが気にすることじゃないでしょ、カフィー。別にキミ個人に対してどうこうするわけじゃないし」
「生意気なこと言うじゃないか」
気分を害したらしいカフィーの顔を見て、リゼットは逆に冷静になった。
「キミも言うようになったよ。昔に比べれば、ね」
「……カレルさんは公女の護衛任務に出てるそうだな。悪あがきでもしようってのか?」
「なんの話?」
「……まあいいさ」
カフィーはリゼットから離れ、黒いズボンのポケットに両手を突っ込んだ。
リゼットは微笑んで言った。
「話はそれで終わり? 良かった。僕にだって一応好き嫌いはあるからね。キミに誘われたらどうしようかと気が気じゃなかったよ」
「……」
余裕の態度が気に触ったのか、カフィーは強烈にリゼットをにらみ付け、そのまま立ち去っていった。
見送って、視界から消えてからさらに数秒。
リゼットはホッ……とようやく肩の力を抜いた。
――嫌いな人間の応対を冷静にしようと思えば気も遣うし、精神的にも疲れる。特にあのカフィーという男は気に触る部分を的確に突いてこようとするからなおさらだった。
(カレル、うまくやってくれればいいけど……)
天井を見上げながらそう願い、半瞬後にはため息が口をいていた。
(って、そんなのムリか。あのカレルだもん……)
うまくやらなくてもいいから、とりあえず公女の機嫌をヘタに損ねないで欲しいな――と。
少しハードルを下げておくことにして、リゼットは自分の隊舎へと戻っていったのだった。
「馬車を――止めろッ!!」
「?」
突然の叫び。
カレルは遠くの敵に馳せていた意識を正面に戻した。
「……なに?」
馬車が急停止して、周囲を走っていた護衛たちがなにごとかと戸惑う。
カレルは目の前の公女を見た。
公女は腰を浮かせ、顔を真っ赤にしていた。
涙はまなじりにうっすらと浮かんだままだ。
カレルは眉をひそめて言った。
「引き返すつもりか? やれやれ。さっきまでの威勢はどこへいったんだ?」
「――」
公女はキッとカレルをにらみ付けた。
「……?」
その表情。
初めてカレルは気付いた。
それがどこか――彼の予想していたものとは違っていたことに。
「誰か! 3人、来い!」
公女が窓の外に向かって叫ぶ。周りにいた護衛たちが近付いてくると、彼女は続けて左右の侍女に言った。
「ララ、シィ。お前たちは彼らの馬に乗れ。それともうひとりは御者を馬の後ろに乗せてやれ」
「なに?」
これにはカレルもさすがに戸惑った。
「おい、あんた。そりゃ一体なんのつもり――」
「2人とも急げ。馬から振り落とされないよう気をつけるのだぞ」
「おい――」
「……」
公女は答えない。侍女も護衛たちも一様に不審そうな顔をしていたが、それでも公女の剣幕に気圧されておとなしくそれに従った。
そして馬車には、カレルと公女の2人だけが残される。
そして最後に、彼女は言った。
「よし。――外の全員に告ぐ! お前たちはこれからすぐにブレインスタンへ引き返せ! 全員そこで待機だ!」
ざわ、と。
当然の困惑が周囲に走った。
困惑したのはもちろんカレルも同じだった。
「おい……公女様。あんた一体――」
キッ、と。
公女は涙の浮かんだ目でカレルをにらみ付け、そして声を張り上げた。
「私を、侮るなッ!!!」
「――!」
まだ幼さの残る声を張り上げ、毅然とカレルを見据える。
その視線に。その威圧感に。
カレルは不本意にも一瞬だけ思考を停止させてしまった。
「……カレルよ」
公女は目を細めて言葉を続ける。
その声は再び理性的になっていた。
「将魔が相手ならば外の者たちはまったく歯が立たぬ。だが、彼らはそれでも私を守ろうとして何人かは犠牲となるだろう。――勘違いするな。私を囮にして魔をおびき出すというのなら、それは私にとっても望むところだ。だが、それが目的ならばお前と私の2人がいれば事足りる。他の者を危険にさらす必要はない」
「――」
カレルは言葉を失った。
「違うか? カレル」
「……」
その強い視線。
カレルはようやく悟った。
肩を震わせ怯えていると思ったのは、侮られたことへの悔しさと怒り。
取り乱したのは、護衛たちが無意味に危険にさらされることを憂えたため。
つまりは――そういうことだろう。
「……は」
かすかに開いていたカレルの口が、知らず知らずのうちに歪んでいく。
「ははっ……」
それが笑みの形を作るまでに、それほどの時間はかからなかった。
この公女――サイアは、どうやら本当の変わり種だ。
剣の柄をさらに強く握りしめる。
口元を野蛮に歪めて、カレルは問いかけた。
「本当にいいのか? 公女様よ」
サイアは両手を真っ白なドレスの膝に置いて、毅然とカレルを見つめた。
濃赤の髪はやはり真っ赤に燃えているように見えた。
「私にも信念がある。私の守りたいネービスもお前と同じ、このネービス領のすべてだ。父上や兄上にそれぞれお考えがあるように、私にも私の考えがある」
「……いい返事だ。悪かったな。俺は確かにあんたを侮っていたようだ」
「もちろん」
サイアは最初に会ったときと同じように口の端を軽く上げ、高慢な表情でカレルを見た。
「お前は私を全力で守ってくれるのだろうな? その命を賭して」
「ふん……」
カレルは悪態を付きながら手を伸ばし、馬に鞭を入れる。
1回大きく上下に揺れ、馬車は戸惑う護衛たちを置き去りにゆっくりと走り出した。
「俺たちゃいつだって命懸けだ。けど、いつだって信じてるのさ。俺たちの力が、確実に俺たちの守りたいモンを守れるってことを」
近付く、気配。
少しずつ、少しずつ。
極限にまで研ぎ澄まされる感覚。
「あんただって例外じゃない。あんたはネービスの一部で、俺の守るべき対象だ。だから守ってやる。この命を賭して、な」
「……」
サイアが満足そうに微笑んだ。
それ以上言葉を交わすことはなく、カレルはすべての意識を迫り来る戦いへ集中させる。
全身に生えた産毛のひとつひとつまでが、まるで触角であるかのように。
そして突如――閃光。
向かう先、悪意を持つ者が放つ稲光。
それと同時に。
カレルは風を巻いて獣のように馬車を飛び出した。
「……」
そして、カレル=ストレンジは今日も不機嫌だ。
「どしたの、カレル?」
ブスッと執務机に着いたカレルに、リゼットは相変わらず机の端に軽く腰掛け、その顔をのぞき込むようにした。
「眉間に皺寄ってる。ね、ルーベン。なにかあったの?」
「さあ」
室内にも関わらず日傘を手にしたルーベンが興味なさそうに答える。
「昨日盗んだ下着の隠し場所でも考えてるんじゃないですかね」
「そうなの? なぁんだ。わざわざそんなことしなくとも、僕の下着だったら快く提供してあげるのに」
「残念です。カレルさんの触角は10歳以下にしか反応しません」
「あ、どーりで。僕がいくら誘惑しても反応しないから、おかしいなぁと思ってたんだよね」
「まあ、リゼットさんの場合はきっとそれ以前の問題ですけど」
「……」
カレルはときおり不思議でたまらなくなる。
自分の部屋はなぜ、こんなにも考え事をするのに不適な環境なのだろうか、と。
「幼なじみとしては責任感じちゃうな。そういう性癖はだいたい幼いころに形成されるっていうし。僕がしっかりカレルを導いてあげていればこんなことには――」
「それだと別の間違った道に迷ってたと思います、たぶん」
「……うっせぇぞ、お前ら。勝手に人を変態扱いしてんじゃねぇ」
バン、と、机を叩く。
まともに相手にするのも馬鹿らしいが、放っておけばいつまで続くかわからない。
リゼットが再びカレルの顔をのぞき込むようにして、
「なぁんだ。聞こえてるんじゃない。で? なにかあったの?」
「なにもねぇよ」
「なにもないって顔じゃ――あれ? なに、この封筒」
書類に埋もれていた封筒をリゼットが目ざとく発見する。そしてカレルの許可もなく勝手に開いてしまった。
「招待状? ネービス公家主催の夜会?」
「……」
無言のカレルを見て、リゼットはわずかな思考の後、
「……へぇ。やるじゃない、カレル」
事情を察したようだ。少し意地の悪い笑みを浮かべてそう言った。
「どうやったのさ? その顔で甘い言葉をささやいたのかな? それともキミらしく力ずくで――」
「刺すぞ、てめぇ」
「うわわっ。カレル、目、目がマジだよ」
「俺はいつだって本気だ。改めて確認してみるか?」
「じょ、冗談だってば。ほ、ほら、カレル、落ち着いて。早まらないで。思い出してみてよ。キミと僕との輝かしい思い出の日々を」
「……」
「うわわわッ! 目がさらに怖くなってるよ!」
のど元に突きつけられた銀色の切っ先に、リゼットが慌てて両手を挙げながら後ずさる。その手から落ちた夜会の招待状をルーベンが空中でキャッチした。
「でもアレですよ。確かあの公女は20人近く婚約者候補がいるって話ですし、色々バリエーションを揃えておきたいだけじゃないんですかね」
「だ、だとしてもすごいことだと思うよ……そ、そっかぁ。ようやく僕以外にもカレルの魅力に気付く人が現れたんだぁ」
「フン」
カレルは鼻を鳴らしてリゼットを一瞥し、パチン、と剣を鞘に収める。
リゼットはホッと両手を下ろして、
「でも実際どうだろ。ネービス公は婿選びを娘に一任する方針みたいだし、ひょっとしたらひょっとするかも?」
「するか、アホ」
馬鹿らしいと言わんばかりに戻ってきた招待状をビリビリと破く。
「あ! あーあ……もったいない」
「タキシードなんざ俺には似合わねぇよ」
紙屑になった招待状をぽいっとゴミ箱に捨てる。
「そうかなぁ。キミが興味持ってないだけでしょ」
リゼットはそれを視線だけで追いながら、
「もしかしたらネービス公家の一員になれるかもしれないんだよ? そうなれば危険な戦いをしなくても生きていけるようになるのに」
と、すでに答えを知っている顔で問いかけた。
「これっぽっちも興味ねえ」
ため息が漏れた。
「ホント、不器用だなぁ。そんなんじゃきっと一生剣を手放すことができないね」
「元からそのつもりだからな」
「そっか」
リゼットはどこか嬉しそうに微笑んだ。
「ね、カレル。久しぶりに僕と手合わせしてみない?」
「はぁ?」
唐突な申し出にカレルは眉をひそめて、
「別に構わんが、少しは上達したんだろうな?」
「うっわ。天下のディグリーズの一員に言う台詞じゃないなぁ、ソレ」
カレルは不機嫌そうに鼻を鳴らして、
「知らねぇよ。なんだろうとテメェはテメェだ。リゼット=ガントレット。俺に一度も勝ったことのないヘタレ剣士だろ」
「む。ウソだよ。何回も勝ったことあるじゃない」
「いつの話だ?」
「もぅ、カレルってば自分に都合の悪いことはすぐ忘れちゃうんだから。……ほら、たとえば11年前の9月の――」
「……もしかして後ろからいきなり脈絡なくブッ叩いてきたときのことか?」
「それと9年前の1月――」
「……風呂場に突然乱入してブッ叩いていったときのことか?」
「それ以外にも確か色々と――」
「……」
すくっと立ち上がってカレルは脇の愛剣を手に取る。
「来い、リゼット。相手になってやる」
「え? あれ? カレル、なんか目がコワいよ?」
「怖かねぇよ。――いいから来いよ、コラ」
「……あ。あれ」
リゼットは助けを求めるようにルーベンを見て、
「あ、ねぇ、ルーベン。僕、もしかしてなんか早まっちゃったかな?」
ルーベンは四つ葉のクローバーを指先でクルクル回しながら答えた。
「ご愁傷様です、リゼットさん」
「……」
リゼットの笑顔が引きつる。
「――早く来いっつてんだろうがッ!!」
「うわわっ、ご、ゴメンよ、カレル! 全身全霊を込めて謝るから、だからどうかお手柔らかに~~!」
リゼットがバタバタとカレルの後を追う。
「お疲れさまです」
ペコリと頭を下げるルーベンの視線の先でドアがバタンと閉じる。
それは特に珍しくもない、ディグリーズでの日常の1コマであった。