その7『賽は投げられた』
約2週間後。
ネービス領から数えて5つの領土を横断し、間に横たわるグリゴラ山脈を南に迂回して回ったところにそれはある。
ヴォルテスト領――大陸の中心からほんのわずか西に位置するその領地には多くの文化が集まり、多くの富が集まる。大陸一の宗教であるクライン教の総本部もこの帝都ヴォルテストの中にある。
そんな帝都にあって、デビルバスター試験は重要な催し物のうちのひとつだ。
年に一度、5月の末から6月の中旬までおよそ半月渡って行われるこの試験のために、毎年2、3千の受験者が訪れ、その関係者を含めれば5千人以上もの人間が半月もの間、この帝都に滞在することになる。
これに加え、人魔に対抗しうる優秀なデビルバスターを確保しようと各領主から命を受けて訪れるスカウトたちまで数えれば、帝都が一種のお祭り騒ぎになることも容易に想像できよう。
さて、そのデビルバスター試験は大きく分けて4つの科目から構成される。
体力、聖力など最低限必要な基礎能力を計る『測定』。
魔に関する知識を問う『筆記』。
仕掛けの施された広大なフィールドで状況判断力や戦闘技能を試す『サバイバル』。
そして1対1における純粋な戦闘技術を競う『トーナメント』である。
このうち最後の科目であるトーナメントは一般公開されて毎年大いに盛り上がる。この最終科目までたどり着けばだいたい3人に1人は合格すると言われているが、全体の合格率が1パーセント未満であることを考えれば、そこまでたどり着くことの難しさは自ずとわかるだろう。
トーナメントまでたどり着けるのは3パーセント弱。ここに集まった手練れ2千数百人のうちのほんの60人ほどである。
「半分以上は最初の『測定』で落ちるらしいっすよ」
パーシヴァルの言葉にティースは寝起きの顔を向けた。
いい天気だ。
あと3日で5月も終わる。これからは少しずつ暑くなってくるだろう。
ティースはねぼけ眼でベッドの上に上半身を起こした体勢のまま、ほんの数分早く起きたらしいパーシヴァルの背中に視線を向けて、
「測定? っていうと、あの最初にやる体力測定みたいなやつのことか?」
「ええ、そうです」
「……クリシュナは?」
もうひとつのベッドに目を向けると、そこの主はすでに姿がなかった。
「さあ。どこ行ったんスかね?」
試験前日。もちろん彼らが泊まっているのはデビルバスター試験の開催される帝都ヴォルテスト内の宿だ。
護衛役としてやってきたクリシュナの役目はこれで半分終わったようなものだし、あるいは朝早くから帝都見物にでも出掛けたのかもしれない。
ティースは再びパーシヴァルに視線を戻して、
「でも俺、試験は2つ目の筆記から本番だって聞いてたけどなぁ」
「ティースさんにとってはそうかもしれませんね。『測定』といっても、みんなが落ちるのはその中の『聖力測定』らしいっす」
「ああ……」
聖力はデビルバスターとしてもっとも大事な要素のひとつだ。どれだけ戦闘技術があっても、魔力の壁を破れないのではなんの意味もない。
「こればっかりは生まれつきですしね。ま、みんな一点集中でどうにか基準値以上を叩き出そうとするわけですけど、ここが最難関だって言う連中もいるぐらいっすから」
そういう意味でいうと、生まれつき聖力に恵まれているティースなんかは一次試験を免除されたようなものである。
「パース。君は大丈夫なのか?」
一瞬、間があった。
だが、
「大丈夫っすよ。全身を巡る聖力をどこまで一点集中させられるか、要はそこっす」
「集中、かぁ……」
その理屈についてはティースも理解しているし、実際に扱うこともできている。だが、はっきりと見えたり感じたりできるものではないため、いまいち実感のないものだ。できていると思っても実際にはうまくいってなくて、そのまま測定し不合格――なんて流れも容易に想像できた。
「ま、実際の戦闘では命にかかわることですしね。一瞬の好機をそれで逃すこともあり得るわけで」
もっともな話だ。
ティースもようやくノロノロと着替え始める。
「ところでティースさん、今日はどうします?」
「へ? どうするって?」
見るとパーシヴァルはすっかり普段着に着替えていた。
「試験の受付も無事終わりましたし、今日1日空いてますよね?」
「ああ、それはそうだけど……筆記の勉強でもしてようかなって」
「筆記、ヤバいんスか?」
「いや、大丈夫だと思うけど、一応……」
パーシヴァルは少し笑って、
「あまり根を詰めすぎるのもよくないっすよ。それこそ筆記なんて普通にやってれば滅多に落ちるもんじゃないし、コンディションを維持する方に集中した方がいいっすよ」
「うーん」
あまりに正論すぎて返す言葉がなかった。事実、筆記に自信がないというよりは、試験に臨む緊張感を紛らわせるために勉強でもしようか、と、そう考えていたわけだから。
「そういう君はどうするつもりなんだ?」
「え? あ、俺は、その――」
パーシヴァルは急に口ごもって、バツが悪そうに視線を逸らした。
「帝都を見て回りたいって言うから、人も多いし、一緒に行ってやんなきゃならないかなって――まあ俺はあんま気が進まないんスけど……」
「へ? 見て回りたいって、誰が?」
おそらくこんな気の回らない反応をするのは彼ぐらいのものだろう。
「いや……」
案の定、パーシヴァルは言葉に詰まってしまった。
と、そこへ控えめにノックの音がして、
「パースくん。準備、いいかな?」
「あ……」
顔を出したのはフィリスだった。
パーシヴァルがティースの視線をさえぎるように慌てて彼女のところまで駆け寄っていく。
小声になって、
「あ、ああ、こっちはいつでもオッケーだけど……」
「本当に大丈夫なの? 明日から試験なのに」
「え、あ、いや、気にすんなって。前日ってのはかえってなにもしない方がいいんだ。だからほら――あ、ティースさん。俺、仕方ないからちょっと行ってきます」
「え? パースくん、仕方ないって――」
「あ、いや、こっちの話。いいからいいから。ほら、行こうぜ」
フィリスの背中を押して忙しなく出ていこうとするパーシヴァル。
(……あ、なるほどね)
鈍感なティースもようやく気付いた。
パタン、と閉じたドアの向こうから無邪気なフィリスの声が聞こえた。
「せっかくだからパメラちゃんも誘ったの。3人で一緒に行こ?」
「……え? あ、ああ、べ、別にいいけど……」
しかし、前途は多難のようだ。
(頑張れよ、パース……)
さて。
ベッドのサイドテーブルには昨晩少し開いた筆記試験用のノートが置いたままになっている。だが、先ほどのパーシヴァルの言葉を聞いた後だとそれを開く気にはなれなかった。
快晴の青空。
見たことのない町並み。
少しだけ好奇心が疼く。
年寄り臭い、とか、枯れている、とか、散々なことを言われる彼も、一応まだ10代の青年である。大陸一と言われる都会にまったく興味が湧かないはずもない。
しかしながら。買い物がしたいとか名所を見るだとかの目的があれば、えいやっと外に出ることもできるのだろうが、いかんせん考えてもなにも出掛ける理由が思い浮かばない。別に欲しいものもないし、見たいところも――まあ彼が知らないだけなのだろうが、特にはない。
目的もなくブラブラするぐらいなら、やはり勉強していた方がいいのではないだろうか。
そんなことを考えて椅子に着き、窓からのぞく景色に席を立って、いやいやと考え直して再び椅子に腰を下ろす。ノートを1ページ開いてみたが頭に入ってくる気がしないのでまた閉じた。
なんというか。
こうしてみると無趣味な人間なのである。
じっとしていると、今度は明日から始まる試験のことで頭がいっぱいになった。
緊張感が押し寄せてきて、胃がきゅぅっと締め付けられる。
――ダメだ。
やはりじっとしているのはよくない。
ようやくそこに思い至って椅子から立ち上がる。
なにも目的がなくたっていい。とにかく街を見てこよう、と。
そこへ、
「ティース。いる?」
ノックの音とともに聞きなれた声が聞こえてきた。
「いるよ。どうぞ」
「相変わらず暇そうにしてるわね」
入ってくるなりそんな憎まれ口を叩いたのはシーラである。いつものように全身隙なく整えていて、寝癖の残っているティースとはまるで正反対の装いだ。
「別に暇そうになんかしてないだろ。ほら、今勉強してたんだよ」
ちょっと反論してみると、彼女はチラッとテーブルの上のノートに目をやって、
「あら。そんなに最初のページに執着があるの?」
「うぐ……」
あっさりと見抜かれてしまっては返す言葉もない。
「他の2人はどこか行ったのね」
と、シーラはティースの眼前を通り抜け、さっきまで彼が座っていた椅子に腰を下ろしてノートを手に取る。
「パースはフィリスやパメラと一緒に街に出たよ。クリシュナは起きたときもういなかった」
「それでお前はひとり、いい子でお留守番?」
バカにしたような物言いに、ティースは少しムッとして、
「そういうお前はどうなんだよ。フィリスたちと一緒に行かなかったのか?」
シーラは当たり前でしょ、と言わんばかりにため息を吐いて、
「本当はパメラも遠慮してたんだけど。……あそこまで鈍感だと、さすがにパーシヴァルが可哀想になってくるわね」
「あ」
なるほど、と、思った。
「じゃあ、やっぱりパースのヤツ、フィリスのこと――」
「周知の事実よ。知らないのは本人だけ」
だが、ティースはそれを微笑ましく思って、
「はは、ま、そういうのって案外気付かなかったりするからなぁ」
「……お前が偉そうに言えることじゃないと思うけど」
「ん?」
「なんでもないわ」
なんとなく馬鹿にされているであろうことは想像できたが、わざわざ追求して情けない思いをすることもないだろう。
かなり消極的な理由でティースは話題を変えることにした。
「ところでなにか用か? お前の方から訪ねてくるなんて」
シーラは少し不思議そうな顔をした。
「用があったように見える?」
「……いや。だから来たんじゃないのか?」
「そう……そうよね」
と、納得した顔をする。
なんだかよくわからなかったが、いつもとちょっと違う感じはした。
……いや、実を言えばここ数日、彼女はだいたいこんな調子である。最初は旅の疲れかとも思ったが単純に元気がないというわけではない。先ほどのようにきちんと(?)痛いところを的確に突いても来る。
ただ、たまに。
ふ、と。
なにごとか考え込むような顔をするのだ。
(変だなぁ……)
そして実を言うと、彼自身もなにか変だ。
最近、妙に昔の夢を見る。それも決まって3、4年前の、彼が故郷を出る直前の夢ばかり。
試験が近付いて緊張しているのかと思っていたりもするのだが――
やはりパーシヴァルの言うとおり、気分転換が必要なのかもしれない。
そう考えて、目の前の少女を見つめた。
ふと、先日久々に2人で買い物に行ったことを思い出す。
(……そっか。シーラと一緒に行くのもいいかもな)
ただ、それを言い出すにはほんの少しだけ勇気が必要だった。
「なぁ――」
しかし、彼が言うより早く、彼女が言った。
「ティース。お前、帝都は初めて?」
「あ、ああ……」
出鼻をくじかれて、せっかくの決意が萎んでいく。
しかし。
「そう。暇だったら、気分転換に少し歩いてみる?」
「え?」
やや戸惑いながらも少し考えて。
「あ。いや、俺もそう思ってたんだけど、ひとりで目的もなく歩くのもどうかなぁって」
「ええ、そうね。だから誘っているんじゃない」
再び、少し考える。
そして、
「……え。一緒に、ってことか?」
「それ以外にどう聞こえたの?」
呆れた顔だった。もっともな話である。即座に伝わらなかったのは単にティースが被害妄想的な思考――一緒にとは言ってない――そんなこと言うはずがない――という風にたどってしまっただけのことである。
それでもティースは言い訳して、
「いや、だってほら。お前いっつも俺と一緒に歩くの嫌がってたじゃないか」
「ネービスだと知り合いに見られたときに説明が面倒だったからでしょ。正直に言えば変に勘ぐられるし、かといってそのたびにいちいち嘘を吐くのもね」
「え? それだけか?」
シーラは少し肩をすくめて、
「一緒に歩くのも嫌な男と、2年も暮らせるはずがないじゃない」
「……ま、まあ、それは」
もっともな話だった。
「それで? 行く? 行かない?」
「……」
顔を上げて少女を見る。
事実であれ勘違いであれ、今、こうして誘われていることは間違いのないことで。
もちろんティースにそれを断る理由はなかった。
結い上げた髪に白いカチューシャ。
角度を変えて、私は何度も鏡の中の自分をチェックする。
大丈夫。
少し旅の疲れは出ているけど及第点だ。
窓を開け放つと早朝のさわやかな空気が流れ込んでくる。
まだ太陽が顔をのぞかせ始めたばかりで薄暗いが、今日はいい天気になりそうだ。
ベッドから聞こえる寝息。
まだもう少し寝ていても大丈夫な時間なのだけれど、小さいころから身に染みついた習慣はそう簡単に変えられない。この時間に起きて、掃除して、食事を作って……なにか体を動かしていないとどうにも手持ちぶさたでいけなかった。
もちろんここは屋敷でもなければ自宅でもないから、そんなことは不可能なのだけれど。
そんな自分の性質に苦笑しつつ、私は町並みに目を移した。
帝都と呼ばれるだけのことはある。きちんと整備された町並み、建物。もう少し時間が経てば通りには人がたくさんあふれ出すだろう。
でも、個人的な話をすれば少し苦手だ。
もっとのどかな環境がいい。
もちろん遊びに来たわけではないから、文句なんて言ってられないのだけれど。
そうして私はベッドの中の夫が目を覚ますまで、帝都の町並みを眺めていた。
おはよう――と、挨拶を交わして1日が始まる。
5歳年上の夫は領主様に仕えていて、色々な領地を飛び回ることが多い。といっても別にスパイとかではなく――まあ単純で嘘のつけない人だからそんな仕事はできないと思うけれど――本人いわく『雑用係』とのこと。ただ、歳の割に領主様の信頼は厚いようだ。
今回の仕事は明日から始まるデビルバスター試験で、将来有望な新米デビルバスターをスカウトしてくること。大事な任務だ。別に妻のひいき目というわけではないけれど、やはり領主様の信頼は厚いのだと思う。
結婚してちょうど1年ぐらい。
家にいる日はその4分の1ぐらいだろうか。
もちろんそうなることは結婚する前からわかっていたことで充分に理解しているつもりだ。夫はそのことでいつも気を遣ってくれるし、私自身、なんの不満があるわけでもない。
ただ……今回は行き先が帝都だということだったし、滞在中に結婚記念日を迎えるということもあって、少し無理を言ってついてくることにしたのだ。
朝食が終わると、夫はすぐに外に出る。なにか私にも手伝えることがあるといいのだけれど、今のところは宿で帰りを待つだけだ。記念日に向けてコッソリ編んでいた冬用のマフラーも昨日で完成してしまった。
1週間近くお世話になっている宿の部屋を掃除して、夫の洗濯物を片付けてしまうといよいよすることがなくなってしまう。
掃除がしたい。
洗濯がしたい。
宿の仕事を手伝おうなんて言うとかえって気を遣わせてしまうので断念した。
女将さんは昼寝でもしたらなんて冗談交じりに言うけども、私にはそれができない。横になっていても動きたくて体がウズウズしてしまう。
仕方がない。
窓の外に目を移す。
予想通りいい天気のようだし――人混みは少し苦手だけれど――外を歩いてみよう。せっかく帝都に来ているのだし、そういう体験をするのも貴重な機会だ。
もしかしたら親とはぐれて泣いている子供がいるかもしれないし、親が恋しくて鳴いている子猫に出会えるかもしれない。
拾ったりしたらまた夫に呆れられるかもしれないけど――
よし。
決心して再び鏡の前へ。
大丈夫。
ステキな出会いがありますように――
そう願って、私は部屋を出た。
昔の夢をたくさん見たからだろうか、ティースはここ数日、これまでの自分を振り返ることが多くなった。
隣には彼が大事にしている少女がいる。
薬師になるという彼女の夢を叶えるため、2人でネービスに着いてから3年。
最初の1年は暮らしと学費を確保することに夢中でいつの間にか過ぎていた。
2年目を迎えようとしていたころ、少女はいつの間にか彼に対して冷たい態度を取るようになっていた。きっかけは彼にはわからない。
そして3年目。
デビルバスターになるという決意をしてからちょうど1年。彼女の態度はいつの間にか変化しているように思えた。
この『いつの間にか』という言葉は、ものすごく情けないことなのかもしれない、と、ティースは今さらながら反省している。
いくらシーラがしっかり者だとはいえ、まだ16歳になったばかりだ。心の中にはまだまだ余白がたくさん残っていることだろう。新しい環境になり、新しい人々に触れれば変化していくのも当然だ。
彼はその変化にまるで付いていけなかった。
だから、その変化に少しでも付いていけるように、もっと彼女を視ていなければならない。いつの間にか変わっていた――そんな情けない言葉が出てこなくなるように。
幸い――そう、幸いにして、今、彼女との関係は1年前と比べて格段に良くなっているのだから。
「なぁ、シーラ。もしも。もしもだぞ」
ティースはそう切り出した。
彼女が視線を動かしたのがわかった。
足を止めて振り返る。
「もしも俺が今回の試験に受かったら、一日だけ。一日だけでいいから付き合ってくれないか?」
視線が怪訝そうな色を含んだ。
「……急に変なこと言い出すのね。どういう意味?」
「今日みたいにさ。歩いてみたいんだ。ネービスの街を」
視てなかった時間を少しでも取り戻すために――と、その言葉は呑み込んだ。そんなことをいえばいっそう変な顔をされるに決まっている。
「ネービスを?」
シーラは目を細めて言った。
「さっき、あまり気が進まないと言ったと思うけど?」
予想通りの返答だった。
「だから頼んでるんだ。1日だけ……ダメか?」
「……」
戸惑ったように見えた。
やっぱりダメか――と、ティースがそう思った直後、
「……いいわ。試験に受かったら、ね」
「ホントか?」
「自分で言って不思議そうな顔しないで」
少し不機嫌そうにシーラは言ったが、照れ隠しのようでもあった。
さらに彼女は付け加えた。
「ま、私もお前にひとつ願いを叶えてもらうことになっているしね」
ティースは目を丸くして、
「え?」
「え、じゃないわ。まさか忘れたわけじゃないでしょうね」
と、ちょっと怖い目になる。
「……あ」
少し考えてようやく思い出した。
1年ほど前、彼が初めて仲間の死に直面した直後の約束。
『1年以内にある願い事をする――』
確かに彼女はそう言った。
そしてティースはそれを了承したはずだ。
「それとこれとでおあいこよ。その方が私も遠慮なく言えていいわ」
「う、それは――」
なにか嫌な予感がしたが、いまさら引き下がれる流れではない。
そんな彼の心境を悟ったのか、シーラは少し意地悪な微笑みを浮かべた。
「でも、受からなかったらお前だけ損をすることになるわ。せいぜい頑張りなさい」
少し楽しそうに彼女が歩みを再開する。
やぶ蛇――そんな言葉を頭に思い浮かべながらティースも歩き出した。
ただ、嫌な気分はなかった。
むしろ清々しい――長年の心の支えが少し取れたような、そんな気分だ。
変わるかもしれない。
そんな予感があった。
ティースは少し早足になってシーラの隣に並び、一歩だけ前に出た。
隣の空気が、ふ、と和んだ気がする。
またあのころの空気だ。
彼女がまだ『お嬢様』――『シーラお嬢様』だったころの。
あのころと同じ――
(……あれ?)
妙な違和感。
一瞬だけ、頭を過ぎった。
髪飾り。
髪。
(……シーラ……お嬢様……?)
後ろ姿が、ダブついて見えた。
「!」
キャン、キャンという鳴き声が聞こえて我に返る。
違和感は四散した。
そして聞こえたのは、女性の声。
「ああ、よしよし。いい仔ですねー。飼い主さんは? 迷子になったの?」
見ると、道ばたに白い子犬とその前にかがみ込む若い女性の姿があった。
少し歩調を緩めて注視すると、その子犬の頭には赤いリボンがついていて、どうもどこかの家で飼われている様子だ。
帝都では動物をペットに飼っている家の割合も結構多いと聞くから、迷い犬というのも珍しいことではないのかもしれない。
女性は困った様子でなにごとかつぶやいている。
「どうしましょう。私、この町の人間じゃないからあまり詳しくないの。ああ、困ったわ。誰か――」
と、子犬を抱きかかえて振り返る。
「!」
ちょうど真後ろにいたティースをぶつかりそうになった。
「きゃっ……」
「あ、すいません」
慌てて一歩後ろに下がった。激突はどうにか避けられたようだ。
「ちょっとティース。なにやってるの」
シーラがそう言ってティースの袖を引く。
別に彼が悪いわけではなかったが、少しボーっとしていたことも確かだ。謝ろうかと思ったところで、子犬を抱えた女性が先に口を開いた。
「あ、ごめんなさい。私が急に動き出してしまったんです。本当にごめんなさい」
と、頭を下げる。
白いカチューシャが印象的な女性だった。
慌ててティースも応える。
「いえ、僕は大丈夫です。だからそんなに謝らないで――」
女性が顔を上げて。
――ピタリ。と。
「……あれ」
「……え?」
止まったのは同時だった。
ティースは女性をまっすぐに見つめたまま。
目の色が変わっていく。
女性も怪訝そうにティースを見つめたまま。
少しずつ見開いていく。
脳裏の奥で、無数の目を持つ賽が転がった――
「まさか――」
キャン、と、腕の中の子犬が鳴いた。
「ティース……あなた、ティース、くん――?」
女性の声を耳に反響させながら、ティースはなかば放心していた。
それは――ネービスのキャラバン協会でオーウェンにバッタリ出会ったときとは桁の違う確率。
この広い大陸の中で、その人物に出会う確率は――
「……ルナ、姉さん……」
昔の夢の中でしか会うことのない――なかば夢の世界の住人となりつつあった女性が今、彼の目の前に立っていた。
結い上げた髪に白いカチューシャ。
穏和で優しい声。
3年ぶり。けれど、昔とほとんど変わらない。
違っているところといえば、着ているものが使用人服ではないことぐらいか――
ルナリア=ローレッツ。
ティースが生まれ育った屋敷で姉代わりだった女性。
昔の彼を知る者――
「……」
言葉が出ない。
彼にとって彼女はかけがえのない人間のひとりだった。その顔を見て、その声を聞いて、泣きたくなるほどのなつかしさがこみ上げてくる。
しかし。
素直に喜ぶことはできない。
なぜなら――
「ティースくん……じゃあ、後ろのあなたは、まさか――」
ルナリアの視線がゆっくりと彼の背後に伸びる。
「……ルナ、リア」
こわばった――青ざめた表情でそうつぶやいたのは。
彼とともにネービスに来た少女。
3年前――屋敷のすべての人間を欺いて、飛び出してきた。
だから――
「っ……!」
シーラがとっさにティースの服の袖をつかんできびすを返す。
「待って、ティースくん! それに、シ――」
一瞬のためらい。
そして、ルナリアが叫んだ。
「シルメリア……シルメリアお嬢様ッ!」
「――え?」
駆け出そうとしていたティースの足が止まる。
「……シルメリア? シルメリアって――?」
「ティース! 走りなさいッ!」
シーラがヒステリックな声を張り上げて、彼の袖を強く引っ張った。
「え、あ――」
慌てて走り出す。
「ティースくん! 待って! ――お嬢様!!」
遠ざかっていくルナの声と子犬の声が混じり合って頭の中で反響する。
少し追いかけてきたようだったが、もともと運動の得意な女性ではないし、子犬を抱えている。ティースたちとの距離はみるみるうちに開いて、両者の間にはすぐに人の壁が出来た。
「……」
それでもシーラは速度を緩めず、息を切らせて走り続けた。
前を向いたまま。表情は見えない。
そしてティースは混乱している。
なつかしい人に再会した喜び。
ついに見つかってしまったという不安。
だが、それよりもなによりも――
(シルメリア……シルメリア――?)
ひどく聞き覚えのあるその名前。
反芻すると目の奥に熱いものがこみ上げる。
(……知ってる。俺、その人を、知ってる――)
やがて息を切らしたシーラがようやく速度を緩める。それでも早足で、一度も振り返らずに肩を上下させていた。
「……」
逃げたのは当然だ。
しかし――
「……もう大丈夫。ルナ姉さんは追いかけて来てないよ」
また少し歩みを緩める。
シーラは前を向いたまま。声を掛けづらい雰囲気だ。
流れていく人々が少し怪訝そうに2人を見ている。
ティースは気を遣って、ひとりごとのようにつぶやいた。
「ま……まさかこんなとこでルナ姉さんに会うなんて……ビックリしたよ」
「……」
「会ったのは偶然だと思うけど、もしかしたらお前を連れ戻そうとするかな……この広い街だからそう簡単に見つからないとは思うけど――」
「……ティース」
「え……」
立ち止まった少女の声が別人のように聞こえた。
(あれ……?)
ポニーテイルの後ろ姿に違う人物のシルエットが重なる。
ゆっくりと振り返った少女は努めて冷静を装おうとしているように見えた。だが、その表情はティースの知っているどの表情とも違っている。
――いや。
昔に見た記憶がある。
そして彼女は、言った。
「ティース。私が誰か、わかる?」
「え……?」
流れる人々が。
街の建物が。
真っ黒いシルエットになった。
心臓の鼓動が乱れた。
ティースは答えた。
「シーラ……突然、どうしたんだ?」
「……」
少女がホッと息を漏らした。
「――なんでもないわ」
こわばりがなくなって、緊張の糸が緩む。
音が、景色がよみがえって。
「そうね。私も少し気が動転していたみたい。気にしないでちょうだい」
まだ少し無理のある、それでも気を取り直した様子で前向きに微笑んで。
「ひとまず宿に戻るわ。ルナリアのことは……それから考えましょう」
くるりと背を向けて、ポニーテイルが眼前で踊る。
そして、ティースの胸に今日一番の強い違和感が生まれた。
「あれ、シーラ――」
思わず、口が開く。
「その髪……いつからポニーテイルにしたんだっけ?」
そして再び、町並みが黒いシルエットに変わった。
-了-