その6『"お嬢様"』
「お嬢様の、仇――」
誰が見ても明白である。
今は緊急事態だ。
剣を振り上げるティースの表情は尋常ではなく、肩から血を流して膝をつくレイの表情にはいつもの余裕がない。
――止めなくては。
――怪我の治療を。
瞬時に脳裏を駆け巡る選択肢。
しかしそれらはただ駆け巡るだけ。
シーラは動けなかった。
「シルメリアお嬢様の仇を――!」
「!」
足がその場に縫い止められた。
ガキン、と、宙に火花が散る。
動けないレイに向かって振り下ろされたティースの剣は、とっさに事態を把握したギレットによって防がれていた。
「くっ……!」
ティースが後ずさる。
「記憶の幻覚かよ。厄介なもんに捕まりやがって」
「オッサン……」
ギレットはチラッとレイを振り返って言い放つ。
「おめぇにしちゃずいぶんと油断したもんだな。浅くねぇだろ。下がってな」
ピッケルのような武器を片手で構え、隻眼を鋭くティースに向けた。
「おい、ティース。タナトスの連中になにを吹き込まれたか知らねぇが、早いとこ目ぇ覚ましな。でないと――」
「っ……邪魔を……しないでくれッ! 俺は、そいつを、その男を――!!」
ガキン!
再び火花が散って近距離でにらみ合う。
「おめぇ……ここで死ぬことになるぞ」
ギレットの殺気がティースを射抜いた。
「っ……」
反射的に剣を振り払おうとするティースだが、ギレットの腕はピクリとも動かない。
かなりの実力差がある。ただ一度武器を合わせただけだが、傍目にもそう思えた。
だが。
「死んだって……構うものか」
歯ぎしりの音。
「! ……」
ギレットが眉をひそめた。
ギリギリ、と、刃先がこすれ合う。
少しずつ。少しずつ。
ティースの剣がギレットのピッケルを押し始めた。
やがて。
「――構うものかぁぁぁぁぁッ!!」
ガンッ!!
ギレットの上体がのけぞる。明らかな驚きがその表情に映っていた。
「……」
目を細め、ギレットが自ら動く。
ティースが応じる。
「ぉぉぉぉぉ――ッ!!」
1合、2合、3合――
思うように動きの取れない狭い室内で、足を止めたまま打ち合う。だが、その打ち合いは決して一方的にならない。数秒前までそこにあった力量差が、ほんの一瞬のうちに縮まってしまったように思えた。
「……」
ギレットは少し不可解そうにしながらも、油断なく武器を繰り出す。
「……! ……!!」
ティースが断片的な単語を叫びながら応じる。
夕日、髪飾り、地下室、死臭――
憎しみを込めて。
「なるほど、な」
壁際まで下がったレイが、額に脂汗を浮かべながらつぶやく。
ティースの叫ぶいくつかの単語は、すぐにひとつの情景を思い起こさせた。それはおよそ1年ほど前、彼がデビルバスターを目指す最初のきっかけとなったある事件だ。
「あのときの記憶を都合のいいようにイジられたか……とすると、シルメリアとかってのは――」
ちらり、とシーラを見る。
だが、シーラはそれに気付かず、その端正な顔をかすかにこわばらせて、打ち合う2人を見つめていた。
「……! ……!!」
声が少しずつ大きくなって、タガが外れていく。そのたびにティースの剣筋は鋭さを増した。
ギレットの顔が歪む。
そして、
「邪魔するな! 邪魔をしないでくれ! 俺は仇を! この命に代えても仇をッ!!」
ぎぃ……ん!!
ひときわ大きな音が鳴る。
「あの人は俺のすべてだった――あの人は俺のすべてだったのに、それを、それを――!」
「……おい、シーラ」
「!」
シーラはハッと我に返ってレイを見た。
流れ落ちた彼の血が床の上にまで滴っている。ギレットの言ったとおり決して軽傷ではない。
それでもレイはいつもの口調で言った。
「事情はわかるか? いや、わからなくても詳しく説明してるヒマはない。お前が止めろ」
「……私が?」
意外な言葉ではなかった。だが、シーラは思わず聞き返していた。
「記憶の幻覚を解くには、イジられた記憶に矛盾を作ってやるのが一番だ。あいつを死なせたくないならお前が止めるしかない」
「……」
シーラは打ち合う2人を見つめる。
事情はだいたい理解していた。
ティースがオーウェンと同じように記憶になんらかの細工をされたのであろうこと。彼は、彼の大事ななにかがレイの手で奪われてしまったと思いこんでいるのだ。
それはわかる。
だが――
「今のあいつはなぜか、お前が誰なのかを認識できていない。だが、お前がお前だってことをあいつに認識させることができれば、それが決定的な矛盾になる。……わかるか? あいつを助けたいなら、それしかない」
「……」
そうかもしれない。それは考えた。
しかし――
ためらった。
そうじゃないかも――しれない。
レイはさらに言った。
「記憶をイジられたって人が変わるわけじゃないんだ。なら、あいつを止めることは難しいことじゃない。早くしないと手遅れになるぞ。――あの様子じゃ、オッサンもそろそろ手加減しきれなくなる」
「……」
打ち合う2人を見つめる。
ギレットの目には真剣の炎が揺らいでいた。その間にあった差はもうほとんど見えなくなっている。
「なにも、なにもなくなっちまって、俺は、俺は――!!」
耳が痛くなるほどの、金属音。
複雑な感情が胸の中を渦巻く。
――いや、今は考え込んでいる場合ではない。
レイの言うとおりだ。
止めなくては、どちらかが大怪我を、あるいは命を落とすことになる。
止めなくては。考えるのはあとだ。
シーラはそう決意すると拳を握りしめ、剣戟の衝撃に逆らうように爪先に力を込めて叫んだ。
「やめなさい、ティース!!」
「!」
一瞬、2人の動きが止まった。
ティースの視線がシーラを捕らえる。
その目は真っ赤に腫れ上がっていて、その顔を見た途端、シーラは無性に悲しい気分になった。
それを思い切り振り払い、拳をさらに強く握りしめて近付いていく。
「この――」
無造作に近付く彼女に、ギレットの制止の声が飛んだ。
「おい、待て! そいつは、今――!」
「……」
正気は戻っていない。シーラを見つめる目は見知らぬ誰かを見る目だ。剣を握る手にもまだ力がこもっている。
だが――それは無用な心配だ。
レイの言ったとおり。彼は、たとえ赤の他人だったとしても――偽りの記憶で心が憎しみに染まっているのだとしても、丸腰の少女を問答無用で切り伏せるような男ではない。
無造作の方が、かえって安全。
彼の性格はこの世の誰よりもよく知っている。
「な――」
案の定。
彼は無造作に近付く『見知らぬ少女』に、ただ驚くだけだった。
そして、
「この……馬鹿ティースッ!!」
ゴッ!
「っ……!!?」
握りしめた拳が見事に彼の顔面をとらえ、よろめいたティースは壁に尻もちをついた。
「な――」
呆然としている。
大丈夫。
記憶がどう改竄されていようとも、彼は彼だ。
それならどうにかできる。
まずは後ろのギレットに言った。
「ギレットさん。ちょっと下がってて」
「おめぇ――」
「手を出さないで。私が彼に殺されるまで」
「……」
ギレットはティースの反応をうかがった後、チラッと背後のレイと視線を合わせ、なにごとか納得した顔で後ろに下がった。
シーラはゆっくりとした動作でティースに向き直る。
「君……君も、俺の邪魔をするのか――」
「少し黙って」
「――」
凛、と。
条件反射というべきか。まるで魔法をかけられたようにティースの動きが止まる。
シーラは腰に片手を当て、尻もちをついたままの彼を見下ろした。
「邪魔だと思うのなら口を開く必要などないでしょう? その剣で私を斬り殺せばいいだけだわ。そうでしょう、ティース?」
「な――」
正気は戻っていない。
にも関わらず、動揺している。
「斬らないの? お嬢様とやらの仇を討つのではなかったの?」
「――」
瞳の奥に黒い炎が灯った。
ほとばしる殺意。
――大丈夫。怖くない。
殺意はシーラを体をすり抜けて、後ろにいる2人にまで届いた。
「……」
ピクリとギレットが肩を揺らす。
「待て、おっさん……」
レイが制止した。
少し外が騒がしくなってきた。宿の主が事態に気付いてなんらかのアクションを起こしたのかもしれない。
騒ぎの中には覚えのある声も混ざっていた。
この状況。
あまり騒ぎを大きくしてしまうとマズいことになる。
再び意を決し。
聞きなさい――と、シーラは語尾を強めた。
「そんなことをする必要はないのよ、ティース。命に代えてもだなんて、誰もそんなことは望んでないわ」
「な……」
明らかに動揺が大きくなる。
「そんなこと、君にわかるはずないじゃないか! 君なんかに――」
「わかるはずがない、ですって? ……」
シーラはほんの一瞬だけためらって、意を決し、右手で自らの美しいブロンドのポニーテイルに触れる。
「――?」
怪訝そうに見つめるティースの眼前で、シーラはそれを束ねていた地味なデザインの髪飾りを外した。
「それは本気で言っているの? 本当に――」
ふわり、と、飴色の髪が広がる。
薄暗い部屋に光が射したようだった。
「本当に、私が誰なのかわからない? ティーサイト=アマルナ」
「!」
ただそれだけのこと。
ただそれだけのことであるにもかかわらず、ティースは大きく揺らいだ。
「あ……あなたは……お嬢様――シーラお嬢様、どうしてここに――……」
目の色が変わる。
見知らぬ誰かから、彼にとってよく見知った人間へ。
もうひと押し。
「お前は勘違いしてる。誰も地下通路でなど死んでないわ。お前が勘違いしただけ。誰も死んだりはしていないのよ、ティース」
「で、でも、シルメリアお嬢様は、確かに死んで――」
「……違う」
近付く。
「あの地下にいたのは私。でも私はこうして生きているわ。そうでしょう?」
「え……でもそんなはず……違う……違……確かに……確かに、お嬢様は死んでしまって――それで、それで俺は――」
「……」
混乱している。
もう少し。もうひと押し、彼の記憶を刺激するなにかが欲しい。
思いを巡らせる。
方法はすぐに思い当たった。
――だけど。
いや――
ためらっている場合でないことはわかっていた。
ティースの眼前にかがみ込み、少し体を伸ばして彼の肩に手をかける。
抵抗はなかった。
「思い出して――」
――なにを?
湧いた自問の言葉になんとも言えない気持ちになりながら、シーラは彼と唇を合わせた。
「――!!?」
わずか数センチの距離で、ティースが目を白黒させたのが――目を閉じていたので見えはしなかったが、頬に添えた手の平からそれが伝わってきた。
さすがに頭が熱い。
そして。
それから――
少し途方に暮れた。
離れるタイミングがつかめない。
前回のときのように、彼がわかりやすく我に返って飛び上がってくれればわかりやすいのだが、残念なことに彼はいまだ石像のように固まったままだった。
――もう、いいだろうか。
いや、焦って失敗してもつまらない。どうせだったらなにか反応があるまで――
あと、30秒? 1分? それとも――そもそも、今、どのぐらいの時間が経っているのか――
きっかけは、階段を駆け上がってくる覚えのある声だった。
バン! と、扉が開く。
おそらく異変に気付いて戻ってきたのだろう。
「シーラ様! ティース様! 大丈夫ですかッ!?」
そうして飛び込んできた長身の少女を横目で見ながら、シーラはほんの少しだけ絶望的な気持ちになった。
ああ、なにも。なにもこのタイミングで、向こうの宿で待っている全員を連れてこなくてもいいのに――と。
「――やはり、失敗ですね」
「失敗? どのように?」
「幻術が解除されてしまったようです」
クロイライナは淡々と言った。
可能性はゼロではなかったから残念でなかったといえば嘘になる。だが、ひとまずネービスに潜入した当初の目的は達していたし、それ以外の出来事は結果がどうであろうと長期的には支障はない。
しかしザヴィアは少し興味深げだった。
「おや。記憶の幻覚というのはそれほど簡単に解けるものなのですか?」
「先ほども言ったとおり、それほど強制力のある力ではありませんもの。それに……彼の場合、解けやすい要素がありましたから」
「それは?」
「一番大きいのは、記憶に深くかかわる人物がすぐ近くにいたことでしょう」
「なるほど。ニセの記憶に矛盾が生じやすくなる状況だったということですか」
「ええ」
思い通りの行動を取らせようと思えば、影響力の強い人物にかかわる記憶を改竄する必要があるが、影響力の強い人物は大抵の場合においてターゲットとの接触が多く、それによって偽りの記憶に矛盾が生じやすい。
今回のケースはその典型だ。
「よくわかりました。とりあえずティースさんは無事だということですね」
クロイライナはチラッと彼を見て、
「嬉しそうですわね、ザヴィア」
「ええ。もしあなたの目論見が成功していたとしたら、私は最高の見せ物を見逃してしまったことになる。そういう意味ではホッとしていますよ」
クロイライナは彼に向けた軽蔑の視線を、沈んでいく太陽の方へ移動させた。
話題を変える。
「ところで……サモンがネービスで命を落としたというのは本当なのですか?」
するとザヴィアは一転、今度はそれほど興味のなさそうな顔になって、
「ええ、私は意味のない嘘は言いませんよ。こちらへ来る前にネービス領をウロウロしてましてね。たまたまその近くに居合わせたものですから」
「それで、仲間を見殺しにしたのですか?」
クロイライナの言葉は問いつめるものではない。だが、ザヴィアはわざとらしく怯えたような顔をしてみせて、
「ウチの女神様やリューゼットさんならともかく、私ごときにどうにかできる相手ではありませんでしたよ。あのネスティアスのカレルとかいう人は、ね」
「……」
サモン=グリット=メッツァーという男――いや、少年は、タナトスの一員だった雷の将魔だ。総帥であるニューバルドに忠誠を誓っていたわけでもないし、その目的に賛同していたわけでもない、力を持て余し、遊び感覚で参加していただけの子供である。
ただ、子供とはいっても将族であることに変わりはなく、未熟な面があったとはいえ魔力はタナトスの他の幹部たちと比べて劣っていたわけではない。
「ディグリーズの肆、カレル=ストレンジ……やはりネスティアスの壁は相当厚いようですね」
「おやおや。あなたの方こそ、大事な仲間の死をそれほど悲しんでおられないように見えますよ、クロイライナさん」
わかっているのにわざわざ尋ねてくる。
だからわざと能面のような口調で答えてやった。
「仲間であればすべて同じというわけではありません。分けて考えてますもの」
「なるほど。では、私が彼と同じ枠の中に入っていないことを祈るとしましょうか」
「私が考えるのは、ニューバルド様の役に立つかどうか、ただその一点のみです。それなら、あなたが私にとってどういう存在であるかなんてわざわざ尋ねる必要もないでしょう」
「ごもっとも」
ザヴィアはうやうやしく頭を下げてみせる。
慇懃無礼という言葉はまさにこの男のためにある言葉だ、と、そんなことを思いながら、クロイライナは夕焼け空を見上げたのだった。
「ん……ぅぅ……朝か……?」
覚醒する。どうにもまぶたが重い。体もいつもより疲れているようだった。
ネービスを出てから1週間以上経っている。少し疲労が溜まっているのかもしれない――いや。
そういえば昨日はなにかあった。
……そう。確か昼間、獣魔の襲撃があって――そう。キャラバンのメンバーが犠牲になったのだ。
それで――
頭が重い。
まだ寝ぼけているのか、思い出すのは断片的な記憶だけだった。
そう――確か犠牲になったのは黒い馬車の持ち主で――それでしばらくこの小さな町に逗留しなければならなくなったのだ。
それで疲れているのかもしれない。
ゆっくりと目を開く。
見覚えのない天井だ。
「あれ……こんな宿だったかな――」
「覚えがなくて当然よ。お前は気を失ったまま運ばれたのだから」
少女の声がそれに答えた。
「え? むぐ……っ……」
ビックリして上半身を起こしたところへ、あんぐりと空いた口に果物らしきものが突っ込まれる。
歯に当たったところから甘酸っぱい果汁が染み出した。
「林檎……?」
「パースとクリシュナに感謝なさい。お前をここまで運んでくれたのよ」
「え。あれ……シーラ?」
「それに今は朝じゃないわ。昼もだいぶ回ってる。お前、昨日の夕方から1日近く寝ていたのよ」
まるで病人を看病するかのように、果物ナイフを片手にベッドサイドの椅子に座っている見慣れた少女。
「あ、えっと――」
いまいち状況が理解できない。
だが、言われてみれば確かに、昨日は宿に入った記憶がなかった。町に着いて馬車を降りて、それから、それから――
ゴクリ、と、口の中の林檎を飲み込んだ。
「あれ。俺、まだ寝ぼけてるのかな……」
「ボケてるのは普段からでしょ」
「あ、あのなぁ……」
とっさに反論しようとしたが、その先は出てこなかった。
「でも……なんか、ものすごく懐かしい夢を見ていたような気がする」
故郷の屋敷。
懐かしい光景。
懐かしい人々。
カザロスの町。
レビナス家の屋敷。
遠い昔に病気で亡くなった恩人の顔。
そして――
「あれ。でも、やっぱり夕方からの記憶が――」
そこで、にぶい彼もようやく異常事態に気付いた。
懐かしい夢の感触。――その裏に確かに残っている、どす黒い感情の燃えカス。
「悪い夢を見ていたのよ」
「悪い夢?」
シーラの顔を見ようとすると、窓から射し込む太陽が逆光になる。
まぶしさに視線を上方にずらした。
(あれ……)
彼女のポニーテイルを留める髪飾りを見た瞬間、なにかが脳裏を過ぎった。
ノックの音がしてドアが開く。
「あ、ティース様。お目覚めになられたんですね」
洗面器を両手に入ってきたのは、子羊のようなふわふわの髪の少女、フィリス=ディクターだった。
「よかった。なかなか目覚めないから心配していたんです。体の調子はどうですか?」
「体?」
言われて、首や肩を回したり膝を曲げたり伸ばしたりしてみる。だが、特におかしなところはない。少し右肩の辺りに疲労が溜まっているぐらいか。
「いや、特に悪いところはないよ。……よくわからないけど心配かけたみたいですまないね。ありがとう」
状況はまだ理解できていなかったが、とりあえず迷惑をかけたのは間違いがないようだ――と、そう考えて礼を言うと、フィリスはとんでもないという風に手を振って、
「お礼なら私なんかよりシーラ様に言ってください。ずっとティース様のことを見ていてくださってましたし、それに昨日なんかは身を挺してティース様を――」
と、そこまで言って、なぜか急に顔を真っ赤にして口ごもった。
「その、か、体を張って、ティース様のことを元に戻したというか……」
「へ?」
「フィリス。余計なこと言わなくていいわ」
シーラはあまり触れて欲しくなさそうな顔だった。もちろんティースにはなんのことだかさっぱりである。
「す、すみません。ですが、あれは、その、お、乙女にとっては重大な出来事で、ば、場合によってはティース様に責任を取っていただかないと――」
「平気よ。私はあなたほど純粋ではないの」
「え、責任? それってどういう――」
いったいなにをしでかしてしまったんだろうかと、ティースがそのことに思い悩み始めたところで、ようやくシーラが彼に向かって言った。
「深く考えることないわ。それより体が平気なら少し付き合って」
「付き合う?」
立ち上がった彼女のポニーテイルが妙に気になった。
「買い物よ。昨日のことも簡単に説明してあげるわ」
「買い物――」
買い物のお供――
またなつかしい匂いがした。
ティースは道すがら、おおまかに昨日の出来事を聞いた。
自分が幻覚に囚われていたこと。
ネイリーンがその犯人で、彼女はすでに町から姿を消していたこと。
リィナやレイ、ギレットがこの町にやってきていること。
自分がレイを襲ったらしいと聞いたときにはなんとも情けなく申し訳ない気持ちになったが、大事には至らなかったということでひとまずホッと胸をなで下ろした。
「あとでレイさんのとこに謝りにいかなきゃ……」
一歩ななめ前を歩くシーラが答える。
「明日までは町にいるそうよ。リィナは彼らと一緒に戻ることにしたみたい。結局『魔石』とかいう目的のものは取り戻せたようね」
「なんか……お前にも迷惑かけちゃったみたいだな」
素直に謝ると、シーラは正面を向いたままでそっけなく、
「そうね。二度とこんなことがないようにしてもらいたいわ」
「わ、わかってる」
もちろんティースも猛省している。
町の表通りはにぎやかだった。ほこりっぽい風が路地から路地へと吹き抜けて、通りに並ぶ屋台ののれんを揺らしている。まぶしい太陽。青空の上を綿のような雲が東の方へ向けて滑っていく。
視線を感じた。
すれ違う人々。
店先の売り子。
あふれるいくつもの視線の、そのうちのかなりの数が自分の動きに合わせて動く。
それを集めているのはもちろん彼ではない。
あのころと変わらないな――と、ティースは思った。
あのころ。
――ああ、そうか、と、ようやく納得する。
なつかしい空気。
自分はきっとあのころの夢を見ていたんだ、と。
「シーラ、お前――」
反射的に口が動いた。
「あのときの髪留め、まだ使ってたんだな」
「……」
ピタッとシーラの足が止まる。
美しい髪に隠れて目立たない髪飾り。
『俺はいつでもお嬢様の味方、ですから――』
どうして今まで気付かなかったのだろうか。
その美しい髪と不釣り合いな地味なデザインの髪飾りは、紛れもなく昔、彼が彼女に贈ったものだ。
古い記憶が急に鮮やかによみがってくる。
赤と白の屋敷。
色とりどりの花畑。
『――捜したわ。それはもう、屋敷中捜したのよ』
黄金色の景色。
隣町の風景。
『私がどこか他の領地に行きたいと言ったら……付いてきてくれる?』
夏の太陽のような少女のまばゆいばかりの笑顔。
雨夜の涙。
『……私を連れて、逃げなさい――』
彼女は覚えているのだろうか。
気分が高揚する。
だが、すぐに思い直した。
もう……忘れてしまったのかもしれない、と。
「シーラ、その髪飾り――」
「……」
立ち止まったシーラは右手を動かして、自分の髪に、髪飾りに1度、2度、触れた。
そして、
「あまり覚えてないわ」
「……」
やはり、と、落胆しかけたティースだったが、シーラは肩越しに振り返って言う。
「いえ。そうね……お前にもらったものだということはわかっているけれど、それ以外のことはあまり覚えていない。そういうことよ」
「え?」
それ以外というのは、贈ったときの状況ということだろうか。しかしティースはもともとそこまで求めていたわけでもない。
「あ、いや、別にそんな深い意味で言ったわけじゃ。ただ付けていてくれたんだなって少し嬉しかっただけだよ」
ほんの少し。
シーラは不思議な感情の目でティースを見た。
「そう。だったらいいの」
喧噪が戻ってきて2人の両脇を駆け抜けた。
「それより……ティース」
「へ?」
急に手が触れた。
「へ、じゃないでしょ」
シーラは足を止めて振り返り、にらむようにティースを見上げて言った。
「気付くまで黙っていようと思ったけど……お前、最近後ろを歩くようになったのね」
「え、あ……」
自分の位置。
彼女の位置。
そういえば――あのころと逆だ。
「小さいころに教わらなかったかしら? 女性と町を歩くときは――」
「す、すまん」
ティースは慌ててななめ一歩前に出た。
――故郷の教えだ。ななめ一歩前に出て女性を護る。
故郷は大陸でも指折りの男権社会だが、同時に大陸一の女性尊重社会でもあり、女性を大切にしない男はそれだけで周囲から蔑まれ、人間失格の烙印さえ押されかねないのだ。
とはいえ。
ティースだって別にその教えを忘れていたわけではない。
ただ、最近の彼女の性格からして、むしろ自分から前を歩く方がいいんじゃないかと、そう思って身を引いていただけのことだ。
そう。そもそも仕事以外のことでこうして2人で町を歩くことだって、いつ以来のことか――
入れ替わるとシーラは満足そうに言った。
「さ、行きましょう」
きっと機嫌がいいのだろう、と、ティースはそう思った。
歩き出すと、その位置が不思議にすぐ馴染む。
姿が見えない分、かえって斜め後ろにいる彼女の存在が強く感じられる。
気配。
息づかい。
あのころの空気。
高揚感を感じた。
人の波にぶつからないように、周りの人々の邪魔にならないように、気を遣いながら、ななめ、一歩前を歩いていく。
時間が止まって、記憶が巻き戻る。
鼓動が少し早くなって。
思い出す。
あのときのこと。
一生、この人を守っていくのだ――と、そう誓ったときのことを。
キィッと古びた木の扉がきしみながら開く。少し照明の暗い店内には客がひとりしかいなかった。
その客が彼女の姿を確認するなり口を開く。
「……美男美女の組み合わせはもちろんだが、美女と野獣ですら状況次第ではそれなりに絵になるってのに――」
剥き出しの左肩に血のにじんだ包帯。出血量の割に軽傷だったとはいえ、もうしばらく安静にしている必要があるはずなのだが、シーラがレイを訪ねたとき、彼はベッドから抜け出して宿の近くにある食堂で遅めの昼食を摂っているところだった。
「あいつじゃまるで絵にならないな。つくづく不似合いなヤツらだ」
彼が言っているのはもちろん、シーラがティースを正気に戻すときに使った『方法』のことである。
「ギレットさんは?」
無視してシーラが問いかけると、レイは右手だけで手を広げるジェスチャーをして、
「宿の部屋で武器の手入れさ。年寄りはヘンに神経質になっていかんな」
確かにギレットはシーラの父親と同じぐらいの年齢だが、まだ年寄りというほどではないだろう。
正面に腰を下ろす。注文する気はなかったが店員がやってきたので紅茶を頼むと、店員は変な顔をした。
ここで紅茶を注文する人間があまりいないためだろう、と、その時点で嫌な予感はしていたが、ほどなくして出てきた紅茶の味は予想以上に渋かった。
唇を濡らす程度に口をつけて放っておく。
レイがおもむろに口を開いた。
「どうだった、ティースの様子は?」
「あなたの言ったとおり、昨日のことはほとんど忘れているみたい。あとで謝りに来るって言ってたわ」
「なるほど。ってことは王女様のキスの味も忘れちまったってことか。そいつはもったいない」
軽蔑の視線がレイを射抜く。
「下品ね、あなた」
「お嬢様のように育ちがよくないものでね」
「そうでしょうね。でも、だからなにを言っても許される、とは思わないことよ」
レイは素直に手を挙げた。
「悪かった。……ま、しかし予想通りだったな」
「なにが?」
「あんたとティースのことさ」
そう言いながら、片手で器用にナイフを使って固そうな肉を切り分ける。
「どこぞのお嬢様と使用人、か。別に踏み入るつもりはないがな。偽の籍を使ってるぐらいだから家の許可を得ているわけじゃないだろうし、かといって詩人の語るロマンティックな駆け落ちって風にも見えない」
「ご想像にお任せするわ」
シーラもなんとなくこの青年の扱い方がわかってきた。
おそらく口止めをする必要はないだろう。口止めしなくとも必要がなければその情報を悪用することはないだろうし、逆に彼にとって必要であれば口止めしてもきっと無意味だ。
ならば必死に口止めしようとすれば、からかわれるだけ損である。
「なるほど」
レイは明るく笑った。
そのときばかりはまったく悪気のない口調だった。
そして、うやうやしく一礼する。
「だったら勝手に想像させてもらうといたしましょう。シルメリアお嬢様」
「……」
その言葉は意外ではなかった。昨日、ティースがシルメリアの名を口にしたし、その後のことを考えても彼がそこに思い至るのは当然のことだ。
「シルメリアをもじってシーラ、か。愛称にしちゃ少し変わってるな」
果物をひと切れ放り込んで、楽しそうに。
おそらく本当に悪気はないのだろう。それは話を弾ませるための彼なりの話術で、それを悪用しようなんてことはまるで考えていない。
たぶんそうだろうと思った。
だから。
それだけに――
「レイさん」
言っておかなければならない、と、シーラはそう思った。
「ひとつ、お願いしてもいいかしら」
「? なんだ?」
彼は敏感だ。おそらく空気が変わったのを察したのだろう。
なぜかのどが急に乾いて、二度と口にするまいと思った紅茶に再び口を付けることになった。
「そのシルメリアという名前、ティースの前では口にしないで欲しいの」
見つめると、レイはほんのわずかに戸惑った顔をした。彼にしては珍しく、彼女の言葉の真意がまるでつかめなかったらしい。
それはそうだろう。
普通であれば、そう思う。
彼女が彼の立場であってもそう思う。
そう『勘違い』するだろう。
――しかし。
普通じゃない。
今の彼と、彼女の関係は――
「シーラというのは私の本名よ。ファミリーネームは架空のものだけど、それだけは本当の名前。偽名でも愛称でもないわ」
「……なんだと?」
レイが目を見開いた。
自分の勘違いに気付いたのだろう。
同時に変な顔をする。
それも必然。
普通であれば。あのときのティースの反応、あのときのティースの言葉を聞けば、そう思って当然なのだから。
彼の推測はおかしくない。
おかしいのは――
「シルメリアは――」
シーラは目を伏せた。――それは目の前の男に対してではなく。過去の出来事から目をそらすように。
「シルメリアは彼が――ティースがとても大切にしていた女の子。昨日あなたも見たとおり、命に代えても護ろうとした子の名前よ。でも、それは私のことじゃない。私は……シルメリアじゃないわ」
「……」
レイは考える顔をした。昨日の記憶をたどったらしい。
「……双子、か?」
早い。
「なるほど。あのとき、あんたがティースに向かって髪をほどいてみせたのはどういう理由かと少し疑問に思っていたんだが――双子を見分けるのに髪型を変えるというのはよくあることだ」
さすが、というべきか。
彼の頭は一瞬で真実に近いところまでたどり着いていた。
「しかし……そうすると、もっと大きな疑問が生じるな」
そこで話が終わればシーラとしてはどれほど気が楽だったことか。
しかしレイは当然のように納得できない顔で続けた。
「あのときのティースは『髪をほどいた』あんたを見て『シーラお嬢様』だと言った。だったら本来、髪をほどいたのがシーラで、髪を束ねているのがシルメリアだったってことになる」
「……そうね。そうなるわね」
「なのに、今、俺の目の前で髪を束ねているあんたはシルメリアじゃなくシーラ、か? それにあのとき、ティースのヤツは地下通路で死んだのがシルメリアだと思いこんでいたな。あの地下通路にいたのは間違いなくあんたで、どうやっても勘違いのしようがないのに……変じゃないか? まるで――そうだな」
あごに手を当て、視線をななめ下に流して考える。
「そう。まるであいつの中で、シーラとシルメリアの区別がついていないかのような、そんな不自然さがある」
「……」
シーラはただ黙っていた。
彼の鋭さ、頭の回転の早さは充分に理解している。この状況ではたとえごまかそうとしてもすぐに見抜かれるだろう。
ただひたすら表情を動かさないように、それでも気丈に目を逸らさず見つめる。
しばらく。
「……色々考えられるが、ひとつだけ、確認しておくか」
おそらく彼の中ではすでにいくつかの仮説が完成しているのだろう。しかし彼はそれらの仮説についてはいっさい口にせず、言った。
「シルメリアってのは――」
「死んでいるわ。3年以上も前に」
短くシーラが答えると、レイはうなずいて両手を広げた。
「オーケー。それ以上は聞かない。あんたに悪意があるとは思えないし、俺としちゃあいつの働きに影響がないならなんの問題もない。――それになにより」
ほんの少しだけ困った顔で頭を掻いて、言った。
「女を泣かすのは、俺の主義じゃなくてな」
「……え?」
「だから見なかったことにしてやる。ほらよ」
テーブルの上にハンカチを放ってレイが席を立つ。
「なにを言っているの? 泣いてなんか――」
本当に、そう思っていた。
だが、
「……あ」
すぐに、それが自分の勘違いだと気付く。
ほんの少しだけ、目尻に涙が溜まっていた。
理由はわからない。
緊張のあまりか。
あるいは――
「そういやリィナが言ってたな。あんた、昔は割とおとなしくて引っ込み思案だったそうじゃないか」
レイはシーラの視界を出たところでピタリと足を止めた。
少しの空白。
無意識に、右手が髪飾りに触れた。
「その髪型――もしかして性格も『そう』なのか?」
「……」
「まさかな。それに――仮にそうだったとしても、そこまで演じればもう本物、か」
バタン、と。
扉の閉じる音がひどく遠くに聞こえた。
「……ああ、そうだ。聞くのを忘れていました、クロイライナさん」
と、ザヴィアは言った。
「なんでしょう?」
「ティースさんの幻覚が解けやすくなっていた原因で『一番大きかったのは』記憶に深くかかわる人物がそばにいたからだ、と、確かそうおっしゃいましたね?」
「ええ」
「私は自分の興味のあることに関しては、たとえ細かいことであっても気になって気になって仕方がなくなる性分なんです。……その他の原因というのも、よろしければ教えていただけないでしょうか」
クロイライナは特に興味もなさそうに答える。
「彼の記憶の一部に強固な鍵がかかっているために、あまり深くまで潜り込むことができなかったのです」
「鍵」
逆にザヴィアは興味深そうに目を細めた。
「あなたより先に、何者かが彼の記憶に幻覚を?」
「幻覚であれば、どちらか一方しかかかりません。だから幻覚ではなく呪いの類でしょう。放っておけば半永久的に消えない――我々が人に化ける、あの『朧』のような強力な呪縛のアイテムを使用したのでしょうね」
「強力な呪縛、ですか……」
「ですからきっと、彼の体にはなんらかの副作用が出ているのではないでしょうか。朧が魔力の大半を封じてしまうような」
「副作用? ……なるほど……それは興味深い」
ザヴィアは笑った。
無邪気な笑みだった。
そして、言った。
「クロイライナさん。本当にあなたの目論見が失敗してよかった。彼はやはりとても面白い存在のようです。色々な意味で、ね――」