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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第9話『デビルバスター試験(前編)』
72/132

その5『情景その三』


~17年前~


 その地方は大陸でも雨が多い場所としてよく知られていた。


 鬱蒼と茂った森の道。

 追う者と、追われる者。


 追われる者は咎人と罪のない赤子。

 咎人は最初、赤子を連れていくつもりのようだった。

 しかしやがて重荷となり、赤子は見捨てられた。

 

 追う者は主に雇われた者たち。

 咎人を追う。見捨てられた赤子のことなど気にも留めずに。

 それが仕事だった。


 追われる者は奪った宝石を。

 追う者は奪われた宝石を。


 咎人の赤子は見捨てられ、見向きもされずに生涯を終えるはずだった。


 しかし。


『子供を、捨てようというのですか。あなたたちは子供よりも、その色の付いた石ころの方が大切だというのですか』


 赤子は覚えている。

 重い雲に覆われた空。

 雨に煙る森の中。

 

『ならばその宝石は差し上げましょう。ただし、その子だけは無傷でこちらへ渡しなさい。それが――貴方達を見逃す条件です』


 今でも覚えている。

 その、太陽のごとき輝きを持つ女性の姿を。




~4年前~


 今日はいい天気だ。

 タイをきっちりと締め、紺色の上着を身にまとい、鏡の前に立つ。

 大丈夫。乱れはない。

 カーテンの隙間から光の筋が射し込んでくる。

 ちゅん、ちゅん、という小鳥のさえずり。

 太陽のオレンジが目に染みる。

 部屋から廊下に出る。朝独特の清々しい空気の中を歩いていく。

 ふと。

 その途中で足が止まった。

 右手の壁、目線――標準的な身長の人間であれば目線より少し上になるぐらいの高さに、小さな肖像画が飾ってある。

 正面から向き合った。

 美しいブロンドの髪。あまりに現実離れした美しい顔立ち。……にも関わらず、人なつっこい、春の太陽のように暖かな微笑みを浮かべる女性。

 その肖像画を描いた絵師はきっと天才だろうと思った。

 美しく、優しく、暖かい。

 その絵は、生前の彼女のすべてをその平面な画材の上に見事に表現しているように思えた。

 右手を胸に置いて目を閉じ、軽く頭を垂れる。

 毎朝の日課。

 加護を願うわけではない。

 ただ、有り余る愛を与えてくれた彼女へ感謝を伝えるだけの儀式。

『――今日も行って参ります、奥様』


 そうして彼の1日は始まる。


 レビナス家はジェニス領の北の田舎町カザロスに存在する旧家だった。かつては国の中枢にも深く関わった由緒正しい家柄で、300年以上前にその位置から退いてカザロスに移ってきてから国政にはそれほどかかわらなくなったが、ときおり一族から優秀な人材を中央に送ることがあって、地方貴族の中では一目置かれる家系である。


 ただ、もちろん。

 そんなことは屋敷で働くしがない使用人には関係のないことで―― 


『ぅ……ん~~~~~』

 軽く伸びをしてから玄関の扉に手をかける。

 朝の掃除をひと通り終え、今度は屋敷の外だ。

 扉を開くと目の前に黄土色の緩やかな坂。屋敷の背後には緑の森、左右には綺麗に手入れのされた花畑。

 花はまだあまり咲いていない。

『まだ少し寒いなぁ』

 初春の冷たい風に首をすぼませていると、

『おはよう、ティースくん』

『あ』 

 花畑の方から人がやってくるのが見えた。後ろで結い上げた髪に白いヘアバンドを付け、全体的にふわっとした印象の穏和そうな女性だった。

『おはよう。ルナ姉さん』

『昨日の雨が嘘のようね。いい天気だわ』

 そう言って青空を見上げる。

 ルナ――ルナリア=ローレッツはティースの仕事仲間だ。歳は4つ年上の18歳。まだ若いが、この屋敷で10年近く働いていて、住み込んで働いている使用人の中ではもっとも歳が近いこともあり、彼にとっては姉のような存在だった。

 と。

『あれ?』

 いつも屋敷の脇に置いてある馬車がなくなっていることに気付く。

『旦那様が、もうお出かけに?』

『ええ、今朝は日が昇ると同時に。色々とお忙しいみたいよ』

『そうですか……』

 主人が忙しいのはいつものことだが、最近は以前にも増して屋敷にいることが少ないようだ。

『それより』

 ルナが視線を上げる。

 最近、身長が急に伸びて彼女との身長差は15センチほどに広がっていた。

『さっきから、あなたのこと捜していたみたいよ』

『え? 誰が?』

『決まっているじゃない』

 そう言ってルナリアはティースの背後――開け放たれたままの扉の中を指さした。

『シルメリア様が、ほら』

『……』

 振り返る。

 と。

 正面の階段を下りてくる少女の姿が視界に入った。

 ――脳裏に、肖像画の女性がよみがえる。

 透き通る金の髪。

 陶磁器のような滑らかな肌。

 魔性を感じるほどに整った顔立ち。

 似ている。記憶にある女性よりはずっと幼いが、それでも瓜二つ。唯一違うところといえばその瞳が優しい春の太陽ではなく、夏の日射しを彷彿とさせる、宝石のようにキラキラと輝くものだったということか。

 シルメリア=レビナス。それはその名の通り、この屋敷の主人――その一族に名を連ねる少女だった。

『ティース。そこにいたのね』

 シルメリアは玄関の前にいるティースの姿に気付くと、その歩みをほんの少しだけ早めた。

 宝石の瞳がさらに輝きを増し金色の髪が踊って、まるでプリマ・ドンナのように優雅にふわりと階段から降り立つ。

『捜したわ。それはもう、屋敷中捜したのよ』

『は。俺になにか御用ですか?』

 少女の口元がかすかに緩む。

『馬鹿ね、用がなければ捜したりしないわ。おはようルナリア。今日はいい天気ね』

 おとなびた微笑み。

 おとなびた口調。

 おそらく初対面の者は、誰も彼女がまだ弱冠12歳の少女だとは思わないだろう。

『おはようございます、シルメリアお嬢様。確かに良いお天気ですが、まだ風は冷たいのであまり薄着では過ごされませぬよう』

『ええ、大丈夫よ。ありがとう』

『あの、お嬢様。俺に御用というのは……?』

 少し遠慮がちに口を挟むと、シルメリアはクスッと笑い、少々歳不相応な艶のある流し目でティースを見た。

『もう忘れちゃったの? 今日はヴィリオンまで買い物に行くと言ってあったでしょ?』

『え。……あ』

 確かに記憶にあった。

 だが、名誉のために断っておくと、彼は別にそのことを忘れていたわけではない。

『それって、俺も一緒に、ということですか?』

『そういう意味で言ったのだけれど、そう聞こえなかった?』

『す、すみません。てっきり旦那様と行かれるものとばかり』

 しかしどうやらその線はない。先ほどルナが言っていたとおり、屋敷の主人――彼女の父親は朝早くにどこかへ発っている。

『そんなはずないでしょう』

 一瞬だけシルメリアの表情が硬くなる。だが、別にティースの受け答えに気分を害したわけではないらしく、すぐ気を取り直した様子で、

『それなら改めてお願いするわ。ティース。ヴィリオンの町まで私の供をしてちょうだい』

 そう言った。

 断る理由はなかった。

『かしこまりました、お嬢様』

 軽く頭を垂れると、彼女はそのときだけ年相応の笑顔になった。


 少し小高い場所にあるカザロスの町から緑に囲まれた緩やかな坂道を下っていくとヴィリオンの町が見えてくる。

 農業従事者が8割を越えるカザロスの町と違い、こちらはその他の様々な産業が栄えていて、この近辺では一番発展している町だ。

 ティースはここに来るといつも人の多さに圧倒される。もちろん本当の都会に比べれば大したことはないのだろうが、どこを向いても人がいる光景は、カザロスでは滅多に見られないものだ。

『イヴァン。お前はここで待ってて。大丈夫よ。日が傾くころには戻るから』

 馬車を降りたシルメリアは御者の男にそう言った。

 そのままティースを振り返って、

『それじゃ行きましょ、ティース』

『あ、はい』

 さっさと歩き出した少女の後に慌てて付いていく。

 今日付き従うのは彼ひとり。いくら昼間で安全な時間帯とはいえ、彼女の外見は人目を集めやすい。目を離すわけにはいかなかった。

 大きな通り。

 喧噪。

 人の波にぶつからないように、周りの人々の邪魔にならないように、気を遣いながら主人の斜め、一歩前を歩いていく。

 途中、ティースはチラッと振り返って、

『ところでお嬢様。今日のお買い物というのは――』

 途中で言葉を止めた。

 振り返った瞬間、彼を凝視していたシルメリアと目が合ってしまったからだ。

『……え。あの、俺の背中になにか付いてます?』

『いいえ。なにも付いてないわ』

 そう言いつつもシルメリアは目をそらさない。

『はあ』

 もしかして服の選択を誤ったのだろうかと少し不安になったが、彼女はいつも通りの上機嫌だ。別に彼に落ち度があったわけではないらしい。

 シルメリアは少し口元を崩して、

『なにを買いに来たか気になる? それとも早く帰らなければならない用事でもあるのかしら?』

『あ、いえ。そんなことはないですけど……』

 もともと彼の本職は彼女の従者だ。空いた時間を使って他の仕事を手伝いはするが、彼女に付き従うことが何物にも優先する。だからそれ以上の用事などはない。

『ただ、昨日まで1週間も屋敷を離れておられたでしょう? お疲れではないのですか?』

『ええ、そうよ。それで精神的に疲れたから、こうして気分転換をするの』

『はあ』

 ティースはもちろん肉体的な疲れのことを指摘したつもりだったのだが、彼女の言葉を額面通りに受け取るなら、どうもこの1週間の間には精神を酷使するような出来事があったらしい。

『それって俺は聞いてませんけど、どんな御用だったんですか?』

『つまらない用事よ』

 シルメリアは簡潔にそう言ってティースから視線を外した。

 ティースはそんな彼女を見て、本当になにか不本意なことがあったのだろうなと思い、それ以上はなにも言わないようにした。

 そのまま周囲に目を動かす。

『それにしても、今日は一段と人が多いですね』

 シルメリアもそんな彼の視線を追いながら、

『そうね。昨日までしばらく雨だったから、かしら』

 そう言って快晴の青空をまぶしそうに見上げる。

 太陽。

 その姿があまりにも彼女に似合いすぎて、ティースは言った。

『お嬢様はなんとなく、晴れの日が好きそうですよね』

『あら。お前は雨の方が好き?』

 突っ込まれて少し慌てる。

『あ、いえ。そういうわけではないですけど、お嬢様の方がより好きそうというかなんというか……』

『なに、それ』

 シルメリアはおかしそうにクスクスと笑って、

『お世辞を言うつもりならもっとストレートでないとダメよ。それじゃなにがなんだかわからないじゃない』

『え。あ、いや、そういう意味じゃ――』

『あら。だったらなにか悪い意味だった? 皮肉とか?』

『……』

 3つも年下の少女にやり込められてティースは少し情けない気持ちになったが、もともと口のうまい方ではない。いつものことなのである。

『いえ、本当に深い意味はなかったんです。ただなんとなく、お嬢様には薄暗い雨の日より、今日みたいな晴れの日の方が似合うと思っただけで……』

 正直にそう言うと、

『そっか。ありがと、ティース』

 短くそうつぶやいただけだったが、そのときの彼女はとても嬉しそうだった。

 再び2人で歩き出す。

 煉瓦の道。

 どこからか聞こえてくる唱歌。

『ねぇ、ティース』

『はい、お嬢様』

『たまには2人でこうして町を歩くのもいいと思わない?』

 おとなびた少女はときおり年相応の表情をする。

 そのときの顔が一番あの人に似ている、とティースは思っていた。

 そして、そんな彼女を見るたびに誓いを新たにするのだ。

 自分は一生、この人を守っていくのだ、と――。




「――本当に?」

 その人がささやく。

「え?」

「本当に、その女の子は助かったのですか――?」

 そっと触れた指の先からなにかが染み込んでいく。

 浮遊感。今までに感じたことのない感覚。

 太陽のオレンジが目に染みた。




~16年前~


 使用人であるアマルナ夫妻の間に産まれた男の子はティーサイトと名付けられていた。その名は、将来仕えるであろうレビナス家の人々にとって安らげる場所であれ、という意味を込めたのだという。

 その願いが叶ったかどうか定かではないが、ティーサイト――屋敷の人々から『ティー』や『ティース』の愛称で呼ばれていたその赤子は、どちらかといえばおとなしく、素直で、手のかからない子供だった。

 比較的大きく丸っこい顔立ちで可愛らしかったこともあり、両親以外の使用人たちにも可愛がられ、特にレビナス家の『奥様』には、合間を見ては抱き上げ、おしめを変えてくれるほどに気に入られていた。

 それは彼の両親が屋敷の宝石を持って姿をくらました後もなんら変わることなく――現在の彼の性質の大部分は間違いなくこのころに形成されたものだろう。

『ティースくん』

 中でも『奥様』の存在は、彼にとってとても大きいものだった。

 たまに機嫌を損ねて泣き出したときも『奥様』のひとことでピタリと泣きやむほどに。

 おぼろげに……そう、おぼろげに覚えている。

 暖かな布団の中よりも。

 与えられた数少ないオモチャよりも。

 ティースは『奥様』のことが一番大好きだった。


 そして――それは彼が3歳の誕生日を迎えて間もないころのこと。


『……』

 まだ幼かったから、そのときのことはそれほど鮮明に覚えているわけではなかった。だが、そのときのイメージは頭の中に残っている。

 春のうららかな日差しがカーテンの隙間から射し込む中。

 乳母車で寝息を立てる産まれたばかりの赤ん坊。

 ティースは口をぽかんと開けたまま。

 それがあの人――奥様の子供だということは理解していた。

 かすかに生えた髪は奥様と同じ飴色だ。

 好奇心から赤ん坊に話しかけようとするのを、失礼だからと周りの使用人たちに止められた。

 だが、赤ん坊の母親――奥様はそれを許してくれた。

 そして言ったのだ。

『ティースくん。この子のこと、色々と助けてあげてね』

 と。

 そのときの言葉は、今でも耳の奥に残っている。

 優しかった――奥様の言葉。

 そのときの言葉は、今でも――。




~4年前~


『お断りします』

 彼女――シルメリアがその言葉を口にしたのは、このヴィリオンの町に来ていったい何回目になるだろうか。おそらく10回目か11回目だと思うが、ティースは正確な数を数えていない。

 相手は様々だ。貧乏そうな男もいれば裕福そうな男もいる。歳だって10代半ばから30代後半までいただろうか。

『……まったく。うんざりするわ』

 その10回目だか11回目だかの交際の申し込みを断った後、シルメリアはその美しい形の眉をわずらわしそうにひそめてみせた。

『ただ遊びに来ただけだというのに、どうして関係ないことにこんなにも労力を費やさなければならないのかしら』

 ティースは苦笑して、

『それは仕方ありませんよ。だってお嬢様は――』

 そんなにもお美しいのですから、と、そう言おうとして言い淀む。

 それは彼自身の素直で正直な感想だ。事実、彼女は母親譲りの筆舌に尽くしがたいほどの美少女であり、こうして町を歩くだけでも人目を集める存在である。

 だが、彼は昔からそういう言葉をなかなか口に出せない性格だった。それは小さいころから見知っているこの少女が相手でも変わらないのである。

 だが、シルメリアはそんな彼の様子に気付いたらしい。

 少し笑みを浮かべて、

『なに? 続けて、ティース』

 ティースは少々慌てながらも無難に返した。

『あ、いえ。町中ではやはり少々目立ちますから。その格好は』

『……』

 シルメリアは少し拍子抜けした様子だったが、彼女もそんな彼の性格をよく理解しているようで、

『そうね。こんな格好をしていたら誰でも目立つ。……なら普通の格好だと地味すぎて、お前と町中ですれ違っても気付いてもらえないかもしれないわね』

『え、あ。いや、そ、そういうことでは……』

『なんて、ね。冗談よ』

 やはりクスッと笑ってシルメリアは歩き出した。

『だいたいあの男たちは、隣にいるお前の姿が見えないのかしら』

『はは……仕方ないですよ。俺なんてどこからどう見ても従者にしか見えませんから』

『だから私服を着てきなさいと言ったのよ』

 シルメリアは不満そうにそんなことを言ったが、私服を着てても同じだろうとティースは思った。そういう問題ではなく、単純な釣り合いの問題なのだ。

『それにお前は仕方ないと言ったけれど、他の領地ではそう簡単に初対面の女性に交際を求めたりしないと聞くわ。どちらかというとここが特殊なのよ』

『はぁ、そうなんですか?』

 初耳だった。

 確かにここジェニス領において、出会って間もない女性に愛を告白することは珍しいことではない。そしてそれが男の美徳だとする風潮が強い一方で、ジェニスの男たちは一途であるともされる。

 手は早いが二股はかけない。

 それが一般的なジェニスの男たちの評価である。

 シルメリアは悪戯っぽい目でチラッと彼を振り返って、

『きっと他の領地にいるのはお前のような男ばかりなのね』

『へ? どういう意味ですか?』

 シルメリアは答えず、

『……ねえ、ティース』

 そう言って足を止め、振り返った。

 ティースも足を止める。

 黒いベルベットのおとなびたワンピースは彼女のお気に入り。ティースもまた、その彼女が一番美しいと思っていた。

 飴色の髪がふわりと風に踊る。

 天空には初春の太陽。

 そして彼女の瞳の中にも、太陽がある。

 まぶしくて思わず目を細めてしまいそうになる。

 大切な人から預けられた、大切な宝物。

 だからきっと――こんなにも愛おしい。

 彼女は言った。

『私がどこか他の領地に行きたいと言ったら――お前は私に付いてきてくれる?』

 どこか冗談のようにも聞こえる口調。

 ティースは深く考えずに答える。

『もちろん。旦那様のお許しがいただけるのであれば』

『お父様の許しがなかったら?』

『え?』

 予想外の問いかけにティースは言葉に詰まった。

『それは――』

『……なんてね。冗談よ、ティース』

 シルメリアはそう言って表情を崩した。

 簡単には答えられない。そんなことは彼女も承知の上だったのだろう。

 ――ただ。もしも。それでも、どうしても答えて欲しいと言われたのであれば。

 きっと答えは――決まっていた。




「――助かったんだ。だから俺はデビルバスターを目指すようになって、そのためにこうして旅を」

「本当に?」

 車輪の回転する音が頭の奥に留まって響き続ける。

「本当――」

「本当に、そのために旅をしているのですか?」

 頭蓋骨に反響していつまでも消えない、声。

「違う、でしょう?」

「違――」

 遠くにぼんやりと浮かび上がる。

 あれは。

 薄暗い地下通路。

 あれは――

 強烈な腐敗臭。

 泣き崩れる青年。

 あれは。

 あれは自分だ。

 あれは過去の自分だ。

 自分の中にある、確かな過去の記憶だ。

 だったら――

「違う、でしょう?」

「……違――い、ます」 

 そう答えた瞬間、ずっと遠くにあったはずの地下通路の情景が視界いっぱいに迫ってきた。

 



~14年前~


 奥様が急にいなくなった。

 天国に行ったのだ、と言う。

 ティースはそのとき5歳だったから、どうして突然そんなことになったのかわからなかった。もっと大きければ彼女が普段から病弱であったことと関連付けることもできたのだろうが、まだ幼い彼にはその理由なんてわからなかった。

 ただ、わかっていたこともある。

 天国に行くということが、つまり人が死ぬ、ということであること。

 自分に深く関わった人間が死ぬのは、少なくとも彼が死を理解してからは初めてのことで、なにがなんだかわからないままに、ただ時間だけが過ぎていった。

 偉い人なのにも関わらず、自分の面倒を見てくれた人。

『みんなには内緒よ』

 悪戯っぽくそう言って、お菓子を作ってくれたこと。

 そしてあの雨の日――自分を抱き上げてくれた、柔らかい腕の温もり。

 あの瞳。

 大好きだった。

 ……初めて涙があふれたのは、みんながひと通り泣き終わった後のこと。

 屋敷がいつもの雰囲気に戻り始めたとき、そこに彼女の姿がないことに気付いてからのことだった。

『この子のこと、助けてあげてね』

 泣きながら、頭の中でその言葉だけをひたすらに反芻し続けた。

 そのときの赤ん坊は、まだ2歳だった。




~4年前~


『――ええ、構わないわ。すべて買ってくれるのであれば、多少安くとも』

『え。あの、お嬢様』

 ヴィリオンでの買い物は、ティースには理解しがたい展開になっていた。

 2人がやってきたのは仕立屋でもアクセサリーショップでもなく、宝石店だった。それも普段彼らが利用するような格式ある店などではなく、裏通りの薄暗い、何割かは偽物が混じっているのではないかと思えるような――いや、実際に混じっているだろう――胡散くさい店だ。

 こんな店で買い物をするというだけでも疑問だらけだというのに、シルメリアはいきなりふところから宝石類――おそらく彼女の私物の大半だろう――それを店主の前にぶちまけ、買い取りを依頼したのである。

 ティースが理解できなかったのも当然だろう。

『い、いったいなにをするつもりですか? そんなにも高い服を買うんですか?』

『馬鹿ね。そんなはずないでしょ』

 その量に、さすがの店主も最初は驚いた様子だったが、今は必死に鑑定をしている。だが、調べるまでもなくすべて本物なのはわかりきったことだ。

『これは――いざというときのための、準備よ』

『?』

 ティースには彼女の言っていることがまるで理解できなかった。

『……ああ、もうひとつ忘れてたわ』

 くすんだ室内に、飴色の糸が広がる。

 ティースはさらに驚いた。

『お、お嬢様。その髪留めは――』

 シルメリアが店主に差し出したものを見て、ティースは慌てる。

『それは旦那様からの贈り物で――』

『いいの、ティース。なにも言わないで』

 それでもシルメリアの口調は崩れない。ただ、表情はさすがに少し強ばっているように見えた。

 そのときになってようやく気付く。

『お嬢様。もしかしてなにか――』

 言いかけて、問いかけるのをためらう。

 ――きっとなにかあったのだ。鈍い自分には気付けなかったけれども、きっと今日、最初から彼女はなにかを抱えていたのだ、と。

 それはたぶん。

 屋敷を留守にしていた1週間。

 その間に起きたなにかなのだろう、とも。

『……』

 彼女の横顔を見つめる。

 黒いベルベットの上に広がった金糸の髪。

 憂いを帯びた瞳さえ美しい。

 たぶん彼女は、怒っていても、悲しんでいても、変わらずに美しいのだろうと思う。

 ――だけど。

 なにがあったのか、と、そう聞ければどれだけ楽だろう。しかし使用人である彼にはそれなりの領分というものがある。だからしつこく問いただすことはできない。

 ならば――

 視線が室内をさまよった。

 なにを探しているのか自分でもわからない。ただ、そうすることでなにかが見つかるのではないかという根拠のない期待に操られて。

 そして、ふと。

 薄暗い棚の上に、それを見つけた。

 歩いていって、手に取る。

 室内と同じようにくすんだ色の髪留めだった。素人目にも高価には思えない地味なデザイン、地味な鈍色。たぶん、彼女の美しさの前にはかすんでしまって存在感すら感じなくなってしまうのではないかと思えた。

 けれど。

 地味でも。彼女に釣り合わなくとも。

 それがほんの少しでも彼女の役に立つのであれば。

 手持ちと値段を見比べる。

 そして――

『お嬢様』

 宝石店を出たところでシルメリアを呼び止めた。

 太陽は少し西に傾きかけていて。

『どうしたの?』

 振り返ったシルメリアはいつものポニーテイルではなくなっている。

 もちろんそのままでも彼女の美貌が崩れることはない。

 ただ。

『お嬢様の好みではないかもしれませんけど……よかったら、これを使ってください』

『……え?』

 シルメリアは目を丸くしてティースの差し出した髪留めに見とれた。

『どうしたの、これ?』

 ゆっくりと視線が動いて、宝石のような瞳がティースの顔を捕らえる。

 その表情にティースの動悸は少し早まった。

『あ、えっと……センスとか、そういうのはないかもしれません。安物ですし……いらなかったら捨ててくれてもいいですから――ただ、その』

 シルメリアは相変わらず彼を見つめている。

 言葉を止めると間がもたなくなる。

 慌てて言葉を続けた。

『お、お嬢様がなにを悩んでいるのかわかりませんけど、俺は、なんでもいいからお嬢様の力になりたいんです』

 言葉を探す。場を取り持つ言葉を。

 だが、彼の頭は気の利いた言葉などなにひとつ思い付くことはなく、結局思い浮かんだなんの装飾もなされていない言葉を選択した。

『俺はいつでもお嬢様の味方、ですから』

『……』

 ありがとう、と。

 きっと彼女はそうつぶやいたのだと思うが、髪留めを受け取ったときの笑顔があまりに印象的すぎて、それ以外のことはあまり覚えていなかった。

 あまりに印象的すぎて――




「――そう、それはあなたにとってとても大事なものだった。だけど」

「ぅ……」

 何度も何度も声が反響する。

 触れた手のひらから、濁流のようなものが流れ込んでくる。

「だけど女の子は助からなかったのです。あなたはそのときにどう思ったのですか?」

「俺は――」

 涙があふれてくる。

 あんなにも。あんなにも大切だったのに。

 それは二度と戻らない。

 そう思うと、世界がそこで途切れてしまったかのように感じた。

「どうして、あんなことに――」

「……辛かったでしょう。我慢する必要はありません」

 その人の両腕が肩を包み込んだ。――心地よい。

「さあ、思い出してください。女の子を殺めたのは、いったい誰ですか?」

「それは、その奥の部屋にいた人魔が――」

「いいえ。他にも誰かいたでしょう?」

「それは、一緒に助けに行ってくれた――」

「違う、でしょう?」

 染み込んでいく。

 染み込んで、脳裏にシミが残る。

 黒いシミ。

「……違、い、ます」

 その人が、満足げに微笑んだのがわかった。




~3年前~


 その日もカザロスの町は雨だった。


『俺は――いつでもお嬢様の味方です』

 迷った末に、いつか買い物に出掛けたあの町での言葉を繰り返す。

 それは紛れもない彼の本心。

 小さくひそめた、だけどしっかりとした口調でそう答えた。

『あなたのために、なにかしてあげられたらと、俺はいつでも、そう思っています』

 窓を叩く雨の音。

 ゆらゆらと揺れる瞳。 

 お嬢様は泣いていた。いつ以来の涙だろう。最近では記憶にない。

 泣きながら、悲痛な表情で、それでも逸らさずにティースを見つめて問いかけた。

『それは……父様に逆らうことになっても?』

『俺は、お嬢様の味方、ですから……』

『――』

 小さく短く息を呑む。

 そしてひと呼吸。

『そう。――その言葉、取り消すことは許さないわ。ティース』

 涙を拭う。

 決意の表情で、ゆっくりと手を伸ばす。

 指の隙間から揺れる瞳がのぞいた。

 強い口調――だけど、その手はかすかに震えていて。

 かすれた声が、彼をまっすぐに捕らえた。

『私を連れて、逃げなさい。遠くへ……父様の手が届かないところまで――』

 ――お願い。

 最後に、小さな声でそうつぶやいたように聞こえて。

 その細い手をそっと握った。

 すべてを賭けて必ず守り抜くのだと、そう誓って。




「だから俺は、だから――」

 薄暗い宿の部屋。

 射し込む西日。

 手には細波の感触。

「くっ……」

 仇の男が苦悶の表情でうずくまっている。

 その奥に隻眼の男。

 背後にはひとりの少女。

 ――誰だっただろう。

 わからない。

 しかしそれでも構わなかった。

 誰であろうと構わない。

 どうなろうと構わない。

 すべてを賭けた誓いが破れ、彼の世界はそこで終わったのだ。

 なにもない。

 あるのは、ただ、不毛だとわかっている憎しみだけ。

 最初の一撃には確かに手応えがあった。

 もう一撃。

 手にした『細波』を振り下ろすだけ。

 それですべてが終わる。

「――仇を」

 涙が、あふれた。

「お嬢様の、仇を――」

 





「記憶というのは意外に適当なものです」

 クロイライナ=ソーン=ファヴィニエは細い指を眼前に広げ、その先に赤い爪化粧を施しながらそう言った。

「私はただ、過去のある一点にもうひとつの可能性を与えてあげるだけ。そうすれば彼ら自身が矛盾が生じないよう周りの記憶を勝手に作り上げてくれる。あのときこうだったのだから、その後はこうだったはずだ、今はこうなってるはずだ、と」

「なるほど。しかし、クロイライナさん」

 夕日を背負った町が、どんどん小さくなっていく。

 大きな翼が羽ばたいて、怪鳥の背に乗った2人の服が風になびいた。

 ターバンの青年、ザヴィア=フェレイラ=レスターはチラリと後ろを振り返って、

「記憶の幻覚は、幻魔の力の中でもかなりのレアスキルだと聞きますが、せっかくの力をあっさり彼らに明かしてしまってよいのですか?」

「ただ夢を見せるだけの、本来使い物にならない力ですもの」

 赤いルビィのピアスを耳に付けて、指に絡まった髪を風に流す。ザヴィアはその様を苦笑して見ていた。

「こうして暗示をかけるだけでもかなりの時間を必要としますし、記憶をすり替えたところでその後の行動を操れるわけではない。今回はたまたま条件が整ったので使ってみただけのことです」

「そうですか? ですが、行動を操れなくともその後の展開を予測することはできるのではないですか? たとえば今回の――」

 いったん言葉を止め、本当に我々に縁のある人だ――と心でつぶやきながらザヴィアは続けた。

「ティースさんがどうなるのか。あなたの希望どおりにレインハルト=シュナイダーの命を奪ってくることができるのかどうか」

 クロイライナは小さなため息とともに目を閉じて、

「もしそうなればニューバルド様の障害がひとつ減ることになって喜ばしいのですが」

「なるほど」

 確かにレイはそれほど生やさしい相手ではない。いくらうまくやったところで、油断しているところに手傷を負わせる程度が関の山。……と、クロイライナがそう考えたのは当たり前のことで、実際そうなる確率が高いだろう。

 しかし。

 ザヴィアは右の手のひらを見つめた。

 ネービスの北の街で、ティースと対峙したときの記憶が脳裏によみがえる。

 ――たぶん彼は普通ではない。

 ザヴィアはそう思っていた。勘ではない。実際に手を合わせたことによる正直な感想だ。

 火事場の馬鹿力などというものは、実際それほど大したものではない。どれだけ怒ろうとも、どれだけ憎しみを燃やそうとも、どれだけ死ねない理由があろうとも――強大な力差の前にはすべてが無意味だ。事実、ザヴィアはそういう相手を何人もその手にかけてきた。

 誇りをかけた男を。

 家族の復讐に燃える男を。

 最愛の恋人を守ろうとした男を。

 しかし。

「クロイライナさん。あなたが植え付けた偽物の記憶は、彼にとってどれほどの衝撃なのですか?」

「世界を見る目が変わるぐらい、でしょうか」

「ほう」

「それがどうかしました?」

 ザヴィアはおもしろそうに笑みをこぼして、

「だったら意外にやるかもしれませんよ。もしかしたら、あのレインハルト=シュナイダーの命を獲るかもしれない」

 クロイライナは目を細めた。やや怪訝そうではあったが反論しようとはしない。このザヴィアという男が根拠もなくそんなことを言うはずがないとわかっているのだろう。

「あの人のアレは、火事場の馬鹿力などではありませんからね、きっと」

「あなたはずいぶんと彼に肩入れしているのですね」

「肩入れ?」

 意外そうにつぶやいて、ザヴィアはにこやかに答えた。

「ええ、そうですよ。ああいう人が苦しむ姿を見るのが私にとって至上の喜びですから」

「……趣味の悪い」

 言葉だけでなく、クロイライナの表情には確かな嫌悪が浮かんだ。

 だが、ザヴィアは笑って、

「あなたのその力ほど悪趣味ではありませんよ。楽しんでいようがいまいが、相手にとっては同じこと。でしょう?」

「議論するつもりはありません。私があなたのことを快く思っていないということを言いたかっただけです」

「そうでしょうねぇ。あなたはタナトスの中でも最もまともで最も忠誠心の厚い方ですから。私のことを好きであるはずがない」

「……」

「ともかく期待するとしましょう。彼が――予想をはるかに上回る力を発揮してくれることを」

 あのときのようにね、と、ザヴィアは相変わらず楽しそうにそうつぶやくのだった。


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