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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第9話『デビルバスター試験(前編)』
71/132

その4『情景その二』


 ――少年の心にはその情景が焼き付いている。


 カビのにおい薄暗い地下通路。

 カンテラの明かり。

 石造りの四角い部屋。

 死の匂い。

 黒い塊。

 人の成れの果て。

 少女の成れの果て――


 少年の心にはその情景が焼き付いている。






 シーラが戻ってこない。

 パーシヴァルが寝耳に水のそんな話をフィリスから聞いたのは、出発1時間前のことだった。

「戻ってないってどういうことだ? どこかに出掛けてたのか?」

 朝食のトレイをサイドテーブルに置いて、ベッドから足を下ろし靴を履く。紐を結びながら顔を上げて部屋の入り口に立っているフィリスを見た。

 フィリスは普段から困ったように見える顔をさらに困ったようにして、胸の前で右手を握りしめながら、

「パメラちゃんの話だと、2時間ぐらい前に散歩に行くと言って出掛けたみたいなんだけど……」

「2時間か。そりゃ確かに長いな」

 ここはごく普通の宿町で、そんなに時間をかけて見るべきところのある町でもない。

「それでちょっと心配になって……あれ? ティース様はどこへ?」

 キョロキョロと部屋を見回すフィリスだったが、もちろん捜さないと見つからないほど広い部屋ではないし、あの長身が目に入らないということはないだろう。

「ティースさんなら今さっき、朝飯食べてすぐ行ったよ」

「行ったって、あの、ネイリーンさんという方のところへ?」

 さすがのフィリスも少し不審そうな顔だ。実際、彼女はここ2、3日はティースとほとんど言葉を交わしていない。

 もちろんパーシヴァルもそれを感じている。だが、ティースのことだからなにか理由があるのだろうと考えているし、それほど心配はしていなかった。

 今はそれよりシーラのことだ。

 パーシヴァルのイメージからすると、彼女は時間にうるさい人間だ。実際この旅の最中も必ず時間に余裕を持った行動をしていたし、時間に遅れそうなティースを探しに行ったりもしている。

 もちろんまだ1時間もあるからなにかあったと見るには早いかもしれないが、フィリスが心配になる気持ちもわからないではなかった。

「わかったよ。じゃあ俺が外を捜してくるから、パメラと2人で出発の準備をしててくんないか?」

「う、うん。パースくん、お願いね。……あれ? そういえばクリシュナ様もいないの?」

「ん? ああ。あの人も毎朝散歩に行ってるみたいだから」

 パーシヴァルはクリシュナとはそれほど会話をしていなかった。別に嫌いなわけではないのだが、どことなく取っつきにくいイメージがあったのだ。

「んじゃちょっとその辺見てくるから」

「……ん?」

 と。部屋を出ようとしたところで、ちょうど戻ってきたそのクリシュナとはち合わせる。

 クリシュナは一瞬だけパーシヴァルを見て、それからすぐフィリスに視線を向けると、

「なにか……あったのか?」

「あ、はい。実はシーラ様がまだお戻りになられてなくて、それで、パースくんにお願いして探しに行ってもらうところです」

 クリシュナは怪訝そうな顔をして、

「シーラ? 彼女ならさっき戻ってきたと思うが」

「え? ホントですか?」

「いや、後ろ姿をチラッと見ただけだから断言できないけれど、おそらく」

 バタバタバタ!

「フィリス、ごめん! パースさん、もう行っちゃった!? あ。クリシュナ様……すみません」

 慌ただしくやってきたパメラが入り口に立つクリシュナと衝突しそうになる。

「パメラちゃん。シーラ様、戻ったの?」

「うん。ゴメンね、私の早とちりだったみたい。パースさんもすみませんでした」

「いや、それはいいけど」

 どうやらクリシュナの言ったとおりだったらしい。

 クリシュナはなにごともなかったかのように、自分のベッドに戻って出立支度を始めた。

 フィリスとパメラは騒がせて申し訳ないと言いながら、部屋に戻っていく。

 ティースのベッドには誰もいない。

「……」

 パーシヴァルはそのとき、初めてなにか不自然なものを感じたが、それはあまりにも漠然としたもので結局形をなすことはなかった。




 毎日毎日すみません、と、ネイリーンはいつものように申し訳なさそうに言った。

 その日もティースは彼女の馬車の中で揺られている。

 不思議な人だ、と、ティースは思っていた。

 誘い方が強引な割に、こうして馬車に乗ると口数は少ない。世間話的なことを話して、お互い相づちを打つ程度。もちろんティース自身話がうまい人間ではないし、会話が盛り上がるようなことは一度もなかった。

 にも関わらず、居心地は悪くないし、どことなく放っておけない感じがする。それはただ単に、彼女の外見がどこか儚げであるというだけではなく。

 なんだろうか。

 誰かに似ている気がするのだ。

 誰だろう。

 気になっている。それが気になるから、こうして連日のように話に付き合っているのかもしれない、と、ティースは思った。

 相変わらず会話は弾まない。

 視線を馬車の外に向ける。

 町を出て2時間。キャラバンは森を切り開いて作られた少々険しい道に入っていた。

 砂埃が舞い上がっている。

 空はくもり空だ。

 雨が降らなければいいのですが、と、ネイリーンも不安そうに空を見上げていた。

 確かに、雨が降れば移動距離も短くなるし日程も狂ってくる。ある程度は想定に入っているとはいえまだ先の長い旅だ。できることなら降って欲しくない。

 ……と。

「!」

 周りを流れる木々の隙間をなにかが横切った。

(……なんだ?)

 あまりに一瞬のことで、それがなんなのかティースにはわからなかった。

 だが、右手は反射的に愛剣『細波』の柄を握っていた。

 それは正解だ。

 ネービスを出て初めての災厄が、彼らのキャラバンに襲いかかろうとしていたのである。

 



 握った手に使い慣れた柄の感触。

 パーシヴァルは誰よりも早く馬車の外に飛び出していた。

「クリシュナさん! あとはよろしくっす!」

「!? おい――」

「パースくん!?」

 クリシュナとフィリスの声にも彼は少しもためらうことなく、愛用している2本のトンファーを手に走っている馬車から飛び降りた。

 湿った風が全身を包み込む。

 と、同時にパーシヴァルの耳に届いたのは獣のうなり声。

 キャラバンの護衛たちが指示を飛ばしている。突然の事態に少々混乱しているようだったが、守りの方は任せても問題ないだろう。

 自分の役割はわかっている。

 少しでもキャラバンへ到達する敵の数を減らすこと。被害をできる限り最小限に抑えること。

 草木を震わせて迫り来るのは、この地方に多く生息する小型のオオカミの群だ。

 数は10……いやもっと。20以上いるだろう。

 小さく口を開いて鋭く息を吸い込んだ。

 戦闘モードへ。

 ドクン。

 心臓が大きく脈打って、全身に熱い血が巡っていった。

 パーシヴァルの心力は8つの力のうち、持久力を得る『息吹』にかなり特化している。

 愛用の2本のトンファーは右と左で長さが違っており、左が125センチ。右が72センチ。どちらもトンファーというには長すぎるが、パーシヴァルにはそれがちょうどいい長さだった。

 左は長剣であり、盾。

 右は短剣であり、やはり盾である。

 だからパーシヴァルの戦いは常に鉄壁だ。

 草木を割って、地を這うように獣たちが姿を現す。

 鋭い爪、牙。

「1」

 右のトンファーが回転する。

 軽く弾かれ、体勢を崩した獣の顔面に、左のトンファーで正確無比なカウンターの一撃を叩きこむ。

 悲鳴のような獣の声が響き渡った。

 まるでそれが合図だったかのように、獣たちは狂気に駆られたかのように次から次へとパーシヴァルに襲いかかっていく。

「2、3――」

 しかしパーシヴァルは少しも慌てることなく。弾き、流し、フットワークも軽やかに、時には真っ向から打ち砕いていく。

 鋭い爪も、牙も、その身には決して届かない。

「5、6――」 

 キャラバンの方からは護衛たちの怒声が聞こえていた。さすがにパーシヴァルひとりで20匹以上の獣すべてを相手にすることはできない。

 だが、キャラバンを守る護衛たちもそれなりの手練れだし、いざとなればクリシュナとティースもいる。心配はないだろう。

 パーシヴァルはただ目の前の獣たちに集中した。

 もともと野生で小型のオオカミの戦闘力は、デビルバスターを目指そうとする人間にとってさほどの驚異ではない。

 厄介なことがあるとすれば、その数だろう。

 どんな人間であれ、スタミナには限度がある。戦い続ければ動きは鈍ってくるし、つまらないミスを侵すことだってある。

 だが。

「10、11――」

 パーシヴァルの動きは鈍らない。鈍らないどころが徐々に鋭さを増していった。

「14、15――」

 中には一撃でトドメを刺すには至らず、再び起き上がって向かってくる獣もいる。しかしパーシヴァルは一向に気にしない。

「17、18――」

 かすかに汗が飛び散る。

 だが、その顔に疲労の色はほとんどなく、それどころか口元には余裕すら漂っていた。

 それもそのはず。

 鉄壁の防御。

 そして、『息吹』に特化した心力がもたらす無尽蔵のスタミナ。

 それこそがパーシヴァル=ラッセル最大の武器だから。

「20!」

 キリのいい数字で、周囲から獣の声が消え失せた。

「!」

 と、同時に、パーシヴァルは『それ』を発見する。

 木々の奥に、襲ってきたオオカミたちとは明らかに違う、紫色の体毛を持った奇妙な形の獣が2匹。

 パーシヴァルの視線が鋭さを増した。

「やっぱ、いやがったか……!」

 その紫の獣は『幻の六十八族』と呼ばれる獣魔である。

 キツネに似た長いしっぽを持ち、薄紫と白の混ざった体毛が特徴的な彼らは、低脳な獣を自在に操る能力を持つ。数十匹の獣の群を支配下に治め、彼らを利用することによってエサを獲るのだという。

 ただし。

 自らの狩猟能力は著しく低い。

 一閃。

「ぎゅぅぅぅぅぅぅぅぅ~~~~っ!!」

 奇妙な鳴き声を上げ、つがいらしき幻の六十八族はパーシヴァルの一撃によって絶命した。




「……ふぅっ!」

 息を大きく吐くと、心地よい疲労がパーシヴァルの全身を襲った。トンファーについた血を軽く拭い、2本を重ねてパチンと金具で止める。

 これで終わりのようだ。

 茂みをかき分けて元の道へ戻っていくと、キャラバンの方もどうやら片がついたようだった。地面に倒れるオオカミたちの中にはまだ完全に絶命していないものもあるようだが、再び襲ってくる心配はないだろう。

「おい! 平気か!」

 護衛のひとりが馬に乗って近付いてくる。歳はパーシヴァルよりも10歳ほど上だろうか。護衛隊5人の隊長格の男だ。

 パーシヴァルは軽く頭を下げて、

「平気っす。それより、全員の無事を確認したらすぐに移動しましょう。ここじゃまた襲われる可能性もありますんで」

「ああ、……おい!」

 まだ少しざわめいているキャラバンの中に護衛の男たちが散っていく。

 見たところキャラバンに被害が出ている様子はない。馬たちが少し暴れた形跡もあるが暴走までには至らず、今は静まっているようだ。

 しかし、よりにもよって獣魔に襲撃されるとは。

 自分たちのキャラバンで良かった、と、パーシヴァルは思う。でなければ、まったくの無傷とはいかなかっただろう。

 ミューティレイクの馬車はパーシヴァルから見て一番近いところに止まっており、そこからフィリスが少し身を乗り出していた。

「パースくん! だいじょうぶー!?」

「あ。……大丈夫に決まってんだろー!」

 わざとぶっきらぼうに返して、パーシヴァルはやや駆け足に馬車へと戻っていく。

 と、そのときだった。

「――おい! みんな、こっち来てくれ! はやくっ!」

「?」

 パーシヴァルは馬車の眼前で立ち止まって振り返る。

 その緊迫した声は、馬車の群の一番奥から聞こえたようだった。

 護衛たちが声の方へと集まっていく。

 今の位置からでは他の馬車にさえぎられて様子がわからない。

「なにかあったの?」

 フィリスの後ろでシーラが怪訝そうな顔をしていた。

「いえ、ちょっとわからないっすけど……」

 パーシヴァルはそう答えながらもう一度声の方を見た。

 いったいなんだろうか。騒ぎの起きている辺りは襲撃から一番遠いはずだが――

 周りの馬車でも、静まったざわめきが少しずつ戻っている。

「ちょっと見てきます」

 パーシヴァルはそう言って、馬車を離れた。

 一番向こう側にある馬車。

 それは、どうやらあの黒い馬車のようだった。




「……なにかあったみたいだ」

 ティースはパーシヴァルたちよりも騒ぎに近い場所にいた。窓からのぞいた視線のすぐ先には黒い馬車。そこにキャラバンの護衛たちが集まっている。

 視線を戻す。

 そこには不安そうな顔のネイリーンがいた。

「ネイさん。俺、ちょっと見てきます」

「ええ。気を付けてくださいね」

 ティースは愛剣『細波』を手にしてゆっくりと馬車を降りた。

 いったいなんの騒ぎなのだろう。

 獣たちの襲撃があったのは隊列の反対側で、ここはそのポイントからもっとも離れている。実際、黒い馬車の周辺に獣の姿はなく襲撃を受けた様子もない。

 と。

「ティースさん!」

 まだ少しざわめいている馬車の群を縫うようにパーシヴァルが駆け寄ってきた。

「パース。なにがあったんだ?」

「それはこっちの台詞っすよ。こっちの方でなにかあったんスか?」

「いや、俺はずっとそこの馬車にいたし、特におかしなことはなかったけど……」

 と、ティースが言うと、パーシヴァルはネイリーンの馬車に視線を向けた。黒い馬車のすぐ近く。その距離を確認して納得した顔をする。

 そう。なにごとかあれば気付くはずの距離だった。

 そのままパーシヴァルとともに黒い馬車に向かう。

 護衛たちの様子から、なにか不吉なことが起こったのであろうことは察しがついた。

 大きく開かれた黒い馬車の黒い扉。

 さらに近付くと護衛のひとりが気付いて、一瞬『来るな』というようなジェスチャーをしかけたが、それがティースとパーシヴァルであることに気付くと、逆に『来てくれ』というジェスチャーに変わった。

「……」

 相変わらず不気味な馬車だ。

 だが、馬車そのものにやはり損傷はなく、獣に襲われた様子はない。仮に襲われたのだとしても、頑丈な造りの馬車だからそう簡単には破られないだろうし、そこまでの騒ぎになれば近くにいたティースどころか、離れたところにいたミューティレイクの馬車でも、おそらく誰かは気付くはずだろう。

「どうしたんです? その馬車の中でなにか?」

 ティースの問いかけに、護衛たちのリーダーが親指で黒い馬車の中を指し示す。

「死んでるよ」

「え?」

 思わずパーシヴァルと顔を見合わせて、約1秒。

「死んでるって……?」

「この馬車の持ち主、ハービー=スターリングとおそらくその連れが2人、中で殺されてる。……見るか?」

 まさか、と思ったが、彼が嘘をつく理由もない。

 少し考えてティースはうなずき、開け放たれた黒い馬車の中をのぞき込むことにした。

「っ……」

 むっとした空気が鼻を突く。

 外観と同じく黒い内装。

 ……嫌な気分になった。

 頭を振り、目を細めて中を見つめると、まるでモヤがかかったかのように薄暗い馬車内には、確かに3人の男が倒れていた。

 しかし。

 ティースは驚きとともにつぶやいた。

「……これは――獣の仕業じゃない」

「だろうな」

 わざわざ口にせずとも、誰でもわかることだった。馬車の持ち主、ハービーと思われる仰向けに倒れた男性の胸にはナイフが突き刺さったままになっていたのだ。

 パーシヴァルが床の血だまりに指を伸ばした。

「まだ新しいっすよ、これ」

「新しい? じゃあ、まさか――」

「おそらく」

 護衛の男が厳しい表情で言った。

「今の襲撃の最中にやられたんだ。今の混乱の最中に、誰かがこの馬車にやって来て3人を殺していったんだろう」

 まさか。

 いや。

 確かにあの襲撃で辺りは騒ぎになっていた。正面から来る獣の群に気を取られていて、最後尾にある黒い馬車の周辺など誰も気に留めていなかっただろう。

 だとすれば、不可能だとも言い切れない。

 しかし。

 そうだとしていったい誰が? なんのために?

 周囲に神経を張り巡らせる。人の気配はもちろん、遠ざかっていく馬の蹄の音も聞こえない。

 普通の賊なら馬車1台だけ密かに襲って去っていくということはないだろう。

 とすると、最初からこれが目的だったと考えるべきか。

 いや、あるいは。

 その前のオオカミたちの襲撃すら、そのためのものだったという可能性もある。

「ひとまずひとりを先行させて一番近い町の警邏隊に連絡させる。そこからキャラバン協会の方にも連絡することになるだろう。他の連中にはまだこの馬車のことは言わないでおいてくれ」

 護衛たちが慌ただしく動き始めたのを、ティースは呆然と眺めていたのだった。






 やはりおかしい。


 キャラバンはその日の予定を変更し、事件発生現場からもっとも近い小規模な町に立ち寄ると、そこでの2、3日の足止めが確定した。

 ハービーたちが何者かの手で殺されたのが明らかである以上、キャラバン内部の人間がシロであることが判明するまで動けなくなった上、悪いことに、町の近くに大きな都市がないため、キャラバン協会からキャラバン参加者たちの詳細なデータが届くのが明日の夕方以降になるというのだ。

 殺されたハービーの馬車からはいくつかの違法な品が発見され、その中には盗難品と思われる貴重な魔石もあった。

 ネービスを出るときの荷物検査でなぜ引っかからなかったのか。

 ハービーたちを殺したのは誰なのか。

 その目的は?

 わからないこと、おかしいことはいくつもある。

 だが、しかし。

 シーラがそのときにおかしいと感じていたのは、それらとはまったく別のことだった。

 夕暮れに染まる町。あと30分もすれば、彼女のような女性がひとり歩きするには危険な時間帯になるが、心配はない。

 彼女の目的地はすぐ目の前だった。

「いらっしゃい」

 少し陰気な感じのする店主の声。大きな通りから少し外れた目立たない場所に建つその宿は、今晩シーラたちが取った宿に比べて建物も古く、目立たない、お世辞にも繁盛しているとは言いがたいところだった。

「ええっと……」

 店主に声をかけようとして、思い直す。

 階段の奥に、手が見えたのだ。

 何者かが、正面にある階段の2階から手だけを出して手招きしている。

 シーラは迷わずに階段に向かった。店主は怪訝そうに彼女を見たがなにも言わなかった。

 階段に足をかけると驚くほど大きくきしむ。体重の軽い彼女ですらそうなのだから、大柄な男が乱暴に踏みならしでもすれば崩れてしまうのではないかと思った。

 慎重に8段の階段を上り終える。と、先ほどの手の主はそこにはおらず、今度は廊下の一番奥の部屋の扉の中から手招きしていた。

 眉をひそめ、そちらへと向かう。

 そしてドアノブに手を掛けると、

「かつての命の恩人に、こんなことを言うのも気が引けるのだけど――」

 シーラは嫌みを込めて言い放った。

「私、あなたのタチの悪いジョークは大嫌いよ」

「おや」

 扉の向こうにあったのは軽薄な笑み。

「王女様はユーモアにも厳しいな」

 そう言って声の主――レインハルト=シュナイダーは軽く両手を広げてみせた。

「……」

 その仕草をさらに不機嫌そうに一瞥し、シーラは部屋の奥へと視線を移す。

 瞬間、その表情が急に和らいだ。

「シーラ様!」

 奥にいた人物がフードを払うと、その長身には似合わぬ穏和な女性の顔が現れる。

 シーラはホッと息を吐いた。

「リィナ。平気?」

 レイの横を抜けて彼女の元へと向かう。部屋の中には両方の壁際にベッドがひとつずつあって、リィナはその片方に腰を下ろしていた。

 そしてもう片方のベッドでは、30歳を越えた隻眼の男、ディバーナ・ナイトの一員であるギレット=フレイザーが無言で武器の手入れをしている。

 ――彼らがこのグレシット領に入っていることをシーラが知ったのは、今朝のことである。

 リィナはニッコリと微笑んでそっとうなずいてみせると、

「ええ、大丈夫です。もともとティース様を捜して旅をしていたことだってあるんですから、このぐらい」

 だが、シーラは首を横に振って、

「そういうことではなくて。あの人からなにかイヤらしい嫌がらせをされなかった?」

「おいおい」

 ドアを閉めたレイが苦笑いで戻ってくる。やはり両手を広げたジェスチャーをしながら彼女たちとは反対のベッド、ギレットの隣に腰を下ろすと、

「なにかとんでもなくひどい誤解があるようだが、俺は基本的に紳士だぞ? 女性が気分を害するようなことは絶対にしないさ」

 細めたシーラの視線がレイを射抜く。

「よく言うわ。リィナを脅迫してここまで連れてきたくせに」

「だから、それは軽いジョークだって言ってるだろ?」

「だからあなたのジョークは大嫌いだと言ったのよ」

「やれやれ」

「いいんです、シーラ様」

 そこへリィナが口を挟む。

「私も最初は驚きましたけど、レイさんはそもそも私の正体を知ってどうしようというわけでもないようでしたし……」

 レイが当然だと言わんばかりに、

「でなきゃ最初から見て見ぬ振りなどしてないさ。ただ今回は、彼女の――王魔の特別な力がどうしても必要になって、それでな」

「それが、水の精の声を聞く力?」

 シーラはその力のことを、学園での事件のときにリィナ本人から聞いて知っていた。

「ああ。今回リーラッド学園から盗まれた『雫』は偶然にも水の魔石だったからな」

 つまり彼らは『雫』の痕跡をたどるために、水精の声を聞くリィナの力を必要とし、その力を利用してここまでやってきたのだという。

「ま、魔石が盗まれただけならわざわざこんなことしなかったんだが、今回はタナトスが絡んでいる可能性が高いってんでな。……しかし」

 軽薄な声がほんのわずかに憂いを帯びる。

「やられたな」

 ガタン、と、風が窓を鳴らした。

「聞いた話じゃハービー=スターリングの馬車からは『雫』と見られる魔石があっさり見つかっている。どうやらタナトス――クロイライナのヤツには別の目的があったらしい」

 クロイライナ=ソーン=ファヴィニエ。

 シーラがその男の名を聞くのは今朝が初めてだった。だが、そのタナトスという組織がディバーナ・ロウの敵で、ティースも何度か刃を交えていることぐらいは知っている。

 シーラも険しい表情になって、

「別の目的って?」

「ああ。たとえば――俺たちにわざと後を追わせて、ミューティレイクの守りを手薄にする、とかな」

「……」

 シーラは一瞬の思考の後、言った。

「それはおかしいわ。だってあなたの話だと、あなたたちがここまで追ってこられたのはリィナの力のおかげでしょう? だったら、そのタナトスの男はリィナの正体まで知っていなきゃならなくなるじゃない」

 レイはニヤリと笑った。

「あんたはティースのヤツより鋭いな。けど、こういうのはどうだ?」

 そう言って人差し指を立てる。

「確かにヤツはリィナの力のことを知らなかった。だから俺たちがその力で痕跡を追ってくることまではわからない。ただ」

 言いながら、中指、薬指、小指、親指……片手を広げる。

「実は俺たちがたどれる道はひとつじゃなかった、としたら?」

「……わざとほかにも痕跡を残してきてるってこと? 追わせるために」

 レイは満足そうにうなずいた。

「俺はたまたま今回のような方法を使ったが、リィナがいなければ他の方法を捜しただろう。やろうと思えば、結果的にこのキャラバンの存在にたどり着くよう誘導することはできる。ま、到達する時期に1日や2日のズレは生じるだろうがな」

 シーラの胸に不安の影が落ちる。

 屋敷にいるエルや他の人々の顔が頭をよぎった。

「じゃあ、本当にミューティレイクの屋敷を襲撃――?」

「いや、それはジョークだ」

「……だったら?」

 さすがにシーラもあまり動じなくなってきた。

「今はネスティアスもタナトスのネービスへの侵入を認めて警戒を強めている。それに屋敷にはまだアルファもアクアもレアスも残っている。だから――狙うとすれば、むしろこっちかもしれん」

「え?」

 意味がわからなかった。

「おっさんはどう思う?」

 水を向けられてギレットは隻眼をレイの方へと向けた。

「可能性とすりゃあるかもしんねぇな」

「どういうこと?」

 シーラにはいまいちピンと来なかった。

「あんたも知ってのとおり、ハービー=スターリングが殺されたことでキャラバンはここで2、3日の足止めを喰らうことになった。一方、俺たちがクロイライナに誘い出されたのだと仮定すると、最速で今日、遅くとも明日か明後日にはこの町でキャラバンに追いつくことになる」

「どっちにしてもこの町に留まることは予測できる、ということ?」

「この町への滞在は予定通りか?」

「……いえ。あんな事件があったから予定変更して立ち寄ったのよ。予定通りなら今日のうちにもっと南まで進んでいたわ」

「いよいよクサいな」

 レイは窓から外を見た。

 夕日が少しずつ沈んでいく。村に近い規模の小さな町は、この時間ですでに喧噪がなくなっていた。

「安全面からいって、今回のような非常事態でもない限り、キャラバンはこういう小さな町への滞在を極力避ける。こういう町なら、魔が侵入、潜伏するのもたやすいからな」

 ゆっくりと視線を戻すレイ。

「獣魔による襲撃、ハービーの殺害……どちらもキャラバンを、他のどこでもない、この町に足止めするためのものだとする。だが、どう考えてもキャラバンそのものにタナトスが標的にするようなものは見当たらない。とすると……奴らの目的が見えてくる気がしないか?」

「……」

 今度はおそらくジョークじゃない。

「そこで王女様に今一度確認したいんだが」

 レイは言った。

「ハービーを殺したのはクロイライナかその仲間で間違いない。さらに状況からいって、キャラバン外から誰かがやってきて殺していったとも考えにくい。つまり、クロイライナはあのキャラバンの中に紛れこんでいる。……心当たりはないか?」

 シーラは険しい表情で視線を横に流した。

「……わからないわ。今朝、あなたに言われてから注意して見ていたつもりだけれど、特別に怪しい男なんて――」

「男に限定しなくていい。もしかしたら女装しているかもしれないだろ?」

「……」

 レイの言葉は冗談のようだったが、シーラの脳裏には瞬時にひとりの女性の顔が浮かんでいた。

(……ネイリーン=トレビック)

 まさか。

 彼女は違う。彼女はオーウェンの姉だ。オーウェンが嘘を吐く理由はない。

 しかし――。

 あり得ないことではないのかもしれない、と、シーラはすぐに思い直した。

 シーラはリィナやエルから聞いて知っていたのだ。

 魔の中には幻覚という能力の持ち主がいる。たとえば視覚を誤魔化してオーウェンをだまし、姉に成りすましたという可能性はないのか。

 それならオーウェンの姉としてうまくキャラバンに潜り込むことも――。

 いや。

 幻覚能力は『1対1』が基本だとエルから聞いた。同時にひとつの感覚しかごまかせないという。オーウェンとは面と向かって会話していたのだから、視覚と聴覚を同時にごまかしていなければおかしいことになってしまう。

 あるとすれば姿形、あるいは声のどちらかが偶然にもオーウェンの姉と酷似しているという可能性だが、さすがにそれは考えにくい。

 そこまで考えてハッと我に返る。

 可能性の話をすれば、彼女以外にも怪しい人間はいくらでもいる。なにしろシーラはその大半と面識がないのだから。

 それに、そう。

 ネイリーンがハービーを殺せるはずはないのだ。

 なにしろ彼女は今朝、前の町を出発してからあの事件が起きるまで、一度たりともティースから離れていないと聞いている。

 だからどう考えても不可能。

 ――いや。

 ティースの視覚を能力でごまかして――

「……」

 すぐに思考を打ち切った。

 馬鹿馬鹿しい。そんなことをするぐらいなら、最初からティースを馬車に招く必要なんてないのだ。

「……」

 結局シーラは首を横に振った。

 シーラの目からは同じ馬車の6人以外全員が容疑者に見える。それではなんの参考にもならない。

「そうか」

 レイは落胆した風でもなくうなずいた。そして視線を横に動かすと、

「リィナ。あんたは今からあっちと一緒に行動してくれ」

「え?」

「あんたの役目は終わっちまったからな。ま、理由は適当につければいいさ。ティースのヤツが恋しくてはるばるネービスから追いかけてきた、とかな」

「?」

 リィナはいまいち(2つの意味で)理解できてない様子だったが、シーラは彼の意図を理解した。

 彼の周りは危険になる可能性がある。

 王魔とはいえ、朧で力の大半を封じられたリィナは、戦う力は多少残っているもののデビルバスターレベルの戦いでは力不足だ。魔力以外の戦闘技術をほとんど持たないからなおさらである。

 シーラはリィナの肩に手を置いて、それからレイを見た。

「あなたもこちらに合流したらどう? パースもいるし、ティースだってああ見えていざとなれば少しは役に立つ男よ」

「相変わらず素直じゃない言い方だな。ティースのヤツも可哀想に」

 レイは笑って、

「ありがたい話だが、相手が相手だけにな。万全の体勢を敷いているとすれば被害者を増やすだけになっちまう」

 シーラは少し眉を曇らせた。

「……これからどうするの?」

「さて、どうするかな。ま、実際、タナトスは常に統率が取れているような連中じゃないし、大軍勢で待ち伏せてるって可能性は実のところそれほど高くない。とはいえ、なにかしらの罠があると考えて慎重に動くとするかな。……なぁ、おっさん」

「……」

 ギレットはなにも答えず、黙々と武器の手入れを続けている。怯んだ様子はなく、来たら返り討ちにするだけだと言わんばかりである。 

 結局、シーラは彼の言葉に甘えることにした。

「リィナ。行きましょう」

「え、ええ。でも……シーラ様」

「いいのよ。これが彼らの仕事なのだから」

 レイはいつもの調子で、

「ま、そういうことさ。リィナ、なかなか楽しい旅だった。よかったら今度は俺の人生の旅にも付き合ってくれ」

「?」

「リィナ。相手にしなくていいわ」

 ブロンドの髪をなびかせて部屋に背を向ける。

「送ってやりたいとこだが、あまり人目につきたくない。平気か?」

「ええ。まだ明るいわ。……まだ、みんなには話さない方がいいの?」

「揃いも揃って隠し事の下手な奴らばかりだからな。ま、敵さんには気付かれてる気もするが、積極的に話す必要はない」

「わかったわ」

 リィナを連れて部屋を出た。

 レイはああ言ったが、リィナを連れていくとなれば説明せざるを得なくなるかもしれない。

 黙っておいてくれと言わなかったのは、その辺りを考慮してのことなのだろう。

 宿を出る。

 ……それにしても。

 シーラは再び考える。

 先ほどレイが予測した、敵――クロイライナという男の思惑の話は、それなりに筋が通っていてその場ではなるほどと思ったものの、果たしてそこまで予測して思い通りに運べるものなのだろうか。

 確かに不可能ではないと思う。

 だが、可能性としては――。

 いや、違うのか。

 そこまで考えてシーラは思い直した。

 確かにレイがここまで来る可能性は100パーセントではなかっただろう。50パーセントか、それよりもっと低かったかもしれない。

 だが、きっと敵にとってはそれでよかったのだ。

 レイの言葉を思い出す。

 ――たどれる道がひとつじゃなかったとしたら。

 同じ理論だ。

 クロイライナという男が最初からなにひとつ危険を冒していないのなら。学園に麻薬を蔓延させたときも、『雫』をリーラッド学園から盗み出したときも、そしてキャラバンに侵入してハービー=スターリング一行を殺害したときも。

 リスクがないのなら、見返りがなくても一向に構わないと考えるだろう。

 どちらに転んでも決してマイナスにはならない。

 そんな思惑を張り巡らせているのだとしたら――

「……シーラ様。大丈夫ですか?」

「え?」

 よほど難しい顔をしていたのだろうか。リィナが心配そうに彼女を見つめていた。

 少し肩の力を抜く。

 ――考えすぎかもしれない。

 大きく深呼吸すると草の匂いがした。

 リィナに平気だと伝え、頭をクリアにして再び考え直す。

 いくらなんでも敵がまったくリスクを冒していないということはないだろう。少なくとも今回のハービーの一件は、クロイライナという男がキャラバンの中にいるという可能性を高め、その中で襲撃時のアリバイが証明できないものはさらに疑いが濃くなって――

 ――だから。

 脳裏をよぎる可能性。

(つまり……本当にそこまで頭の回る男なのだとしたら)

 ハービーの一件がリスクにならないのだとしたら。その一件で逆に疑いづらくなっている人物が逆に怪しいということにならないだろうか。

 脳裏をよぎる顔。

 自分でもこじつけじゃないかと思ったが、それでもやはり頭から離れない。

(ネイリーン=トレビック……)

 彼女はオーウェンの姉だから、素性が確かだ。

 少なくとも女性である以上、今回の敵の姿には該当しない。

 ハービーの件ではティースと一緒にいてアリバイがはっきりしている。

「……」

 疑う要素がない。

 にも関わらず。

 シーラはいつからか、やはり彼女を疑っている。

 ――いや。

 いつからか、という表現は正しくないかもしれない。

 最初から。

 最初から疑っていた。

 今朝、レイからキャラバンに紛れ込んだタナトスの話を聞く、それよりもさらに前から。

 それは、そう。

 彼女は少なくともひとつは明らかに偽っているのだ。

 ティースに対する態度。まるで彼を恋い慕うかのようなあの態度が、紛れもなく偽りだから。

 それはあのティースという男がそんなにモテるはずがないとか、あるかどうかもわからないシーラ自身の女の勘だとか、そういうあいまいなものではない。

 シーラは確信していた。

 彼女はマーセル=バレットとは違う。ティースに対してこれっぽっちも恋愛感情など抱いていないし、この先、どのような天変地異が起ころうと抱くことはあり得ない。

 ――とすると。

 根拠はないが、考えられなくもない。

 あのネイリーンという女性が、実は――

 と。 

「あれ、シーラさん? え、隣の人は……もしかしてリィナさん? どうしてこんなところに――」

「え? オーウェン……?」

 道の向こうからやってきたのはオーウェンだった。

 ちょうど聞きたいことがあって。

 ちょうど確かめたいことがあった。

 ――思った矢先に、現れた。

 なぜか不安になった。

「こんにちは、オーウェンさん。実は、その、私は――」

「オーウェン。聞いても……いいかしら」

 リィナの言葉をさえぎってシーラは問いかけた。

「え?」

 オーウェンがビックリした顔をする。

「どうしたの、シーラさん? そんな真剣な顔で――」

 得体の知れない不安を感じながらも。

 シーラは問いかけざるを得なかった。

「ネイリーンさんは……あの人は、本当に本人なの?」

「え? いきなり変なこと聞くね。いったい――」

 確かに急にそんなことを尋ねられれば戸惑うだろう。

「答えて、オーウェン。大事なことよ。あなたのお姉さんは、本当にあなたのお姉さんなの?」

「……」

 そのときのオーウェンの表情の動きは、シーラが想像していたどの可能性とも違っていた。

 気圧されるでもなく。

 質問の意図を考えるでもなく。

 ただ。

 ただ、唖然と――

「え? 姉さんって、誰が? 誰の? 俺の、姉さん?」

「――」

 一瞬、呼吸が止まった。

「あれ、俺、シーラさんに姉さんの話をしたことあったかな? 確かに俺の姉さんはネイさんと同じ名前だったけど、俺が小さいころに病気で死んじゃったんだ」

 心臓がかすかに鼓動を早める。

「でもオーウェン、あなた、彼女のこと姉さんって――」

「え? あ……あはははは。違う違う。姉さんじゃなくてネイさんだよ。らしくないなぁ、そんな勘違い――」

「……」

 まさか。

 そんなはずはない。

 そんな馬鹿な勘違いをするはずがない。

「でも確かにネイさんとはこのキャラバンで一緒になる前からの知り合いだったよ。最近ちょっとしたことで知り合って、死んだ姉さんと同じ名前だったからか仲良くなってね――」

「……」

 違う。勘違いではない。

 シーラはオーウェンに姉がいたことも知らなければ、その姉がネイリーンという名前であることも知らなかったのだ。彼女がオーウェンの姉だと思った理由はただひとつ、彼が彼女のことを姉と紹介したからに他ならない。

 ――いや、しかし。

 思い返してみると不自然な点はあった。

 姉弟なのにも関わらず別々の馬車を使っているのも不自然なら、今朝、彼女について質問したときの彼の反応も確かにどこか不自然だった。

 ならば――どういうことだろう。

 今のオーウェンが嘘をついているとは思えない。だが、初対面のとき、彼は確かに彼女のことを『姉』だと言った。彼女の記憶が確かならそれは間違いない。

 じゃあ……そのとき?

 そのときたった一度だけ。なんらかの方法で、オーウェンに自分のことを姉だと勘違いさせたのだとしたら――

 可能なのか。

 いや。

 なんにせよ今はそこまで考える必要もない。あのネイリーンという女性が素性を偽っていたことは紛れもない事実だ。

 じゃあ、彼女はいったい何者なのか?

 それこそ考えるまでもない。シーラはすでにその答えを知っていた。 

 ――レイに知らせなくては。

 と、彼女がそう思い立ったところへ、

「あ、いた! おぉーい、シーラ!」

「え?」

 全員が視線を集中させる。

 道の向こうからやってきたのは長身でどこか頼りない、シーラにとって一番見慣れた男の姿だった。

「ティース?」

 シーラは驚きに目を見開いて見つめた。

 間が悪いときの方が圧倒的に多い男だというのに、今回に限ってはなんというタイミングのよさだろうか、と。

「なかなか戻ってこないから心配して――オーウェンくんと一緒だったのか……それに……って、え、リィナ!?」

 ビックリして足を止めるティース。

 だが、今はそんなことを語っているときではない。

「説明はあとよ。そうね……ティース、せっかくだから私と一緒に来なさい」

「え!? お、おい、シーラ!?」

「リィナ、あなたは先に宿に戻ってて。オーウェン、あなたも宿に帰りなさい。今日は外に出ない方がいいわ」

 シーラは唖然とするティースの手を取って、矢継ぎ早にそう言った。

 事情をほとんど理解しているリィナはともかく、ティースとオーウェンはキツネにつままれたような顔をしている。

「シーラさん? 急にどうしたの?」

「お、おい、シーラ! 説明してくれ! いったいなにが、なんだってリィナがここに――」

「説明はあとだと言っているでしょう」

 そんなティースの手を強引に引っ張って、シーラは早足に今来た道を戻っていく。

 ……出立前、ネービスのキャラバン協会でオーウェンが2人分の登録を済ませたのを、シーラは自分の目で目撃していた。つまりネイリーンは――ネイリーン=トレビックを語るあの人物は、なんらかの方法でオーウェンをだまし、その同行者としてキャラバンに潜り込んだのだ。

 とにかくレイにこのことを伝えなければならない。あの女性こそがタナトスの――クロイライナという男だという可能性も充分あり得る。女性ではなく男性だったのだと考えれば、ティースの特異体質が反応しなかったことも至極当然だ。

 先ほど出てきたばかりの宿が視界に入ってきた。

「おい、シーラ。わかった。わかったから引っ張らないでくれ」

 どうやらティースも観念したらしい。

「それで? あの宿になにかあるのか?」

「ええ。敵の正体がわかったのよ」

「敵? 敵って――?」

 もちろんティースはぜんぜん理解していないようだった。

 今はいい。あとでレイの口から話してもらった方が早いだろう。

 しかし。

 シーラはまだ不気味なものを感じている。

 やはり……まだ、なにかおかしい。

 さっきオーウェンと偶然はち合わせたときに感じた、首筋を襲う悪寒のようなもの。

 再び思考が巡る。

 ネイリーンと初めて顔を合わせたときのこと。

 何度思い出しても、オーウェンは彼女のことを姉だと言ってシーラたちに紹介していた。家業は姉が継ぐとかいう話もしていた。

 おかしい。

 小さいころに死んだ姉が家を継ぐなんて――そんな話、どう勘違いしていても出てくる話ではない。

 どう勘違いしていても――

 宿の中は相変わらず薄暗く、店主は無愛想だった。

 レイはすでにシーラたちの再来訪に気付いているだろう。客は彼らだけのようだった。

 ティースの手を引いて階段を上っていく。

「お、おい、シーラ。手、そろそろ離してくれよ」

「え? あ、ええ、そうね……」

 考え事に夢中で気付かなかった。

 手を離し、2階の短い廊下を進む。

「? ここに誰かいるのか?」

「ええ」

 ドアノブに手をかけて。

 ふと気付いた。

 ――あり得る。その勘違いもあり得る。

 幻の力は大きく3つに分かれると聞いた。

 感情の幻覚。

 五感の幻覚。

 そしてもうひとつは、記憶の幻覚。記憶の錯覚だという。

 死んだはずの姉が生きていた、と――オーウェンがあの瞬間、そう錯覚していたのだとしたら?

 そう簡単に記憶をすり替えることができるのか。

 できるとして、矛盾が生じたりはしないのか。

 その辺りのことは専門家ではないシーラにはわからない。以前エルから、記憶を錯覚させる力は扱いが難しく、使用条件も厳しいという程度のことを聞いてはいたが、ネイリーンを名乗るあの女性は以前からオーウェンに接触していたようだし、素人考えでもチャンスはあったように思える。

 記憶の錯覚。

 ――そう考えた瞬間、また首筋に寒いものを感じた。

 なにか。

 なにかを見落としている。

 だが、それがなんなのか彼女にはわからなかった。

 材料は揃っているのに。気付かない。

 ただ、デビルバスターであるレイならば詳しいだろうと信じ、宿の奥の部屋へ向かった。

 どんなに優秀だろうと、彼女はその道に関して言えば素人も同然であり、なにより考えるために与えられた時間が少なすぎたのだ。

 だから、気付かなかった彼女を責めるのは酷だろう。


 そのチャンスがあったのが、オーウェンだけではなかった、ということに――。


 ゆっくりと、扉が開く。




 

 

 ――少年の心にはその情景が焼き付いている。


 カビのにおう薄暗い地下通路。

 カンテラの明かり。

 石造りの四角い部屋。

 死の匂い。

 黒い塊。

 人の成れの果て。

 少女の慣れの果て――


 気が狂いそうになる。

 叫びそうになるのを必死にこらえた。

 気が狂いそうになる。


 意味がないことなどわかっている。

 そんなことをしても死者は生き返りなどしないのだと。

 しかし、それでも。

 それでも少年はそうするしかなかった。

 それしか生きる道が見つけられなかった。

 なぜなら――少女は少年のすべてだったから。


 だから少年は旅をしている。

 少女の命を奪った、ある男を捜すために。

 ある男を捜して。

 捜して、そして――殺す、ために。


 よみがえる記憶。


 少年の心にはその情景が焼き付いている。






「――え?」

 シーラは言葉を失って立ちつくした。

 ぴっ、と。

 頬に血が跳ねて。

 夕日にきらめく美しい銀色の刃。

 不敵な金髪の男が、床の上に崩れ落ちた。

 なにが起きたのか。

 彼女にはわからなかった。

 ただ、彼女の眼前にあったのは、彼女にとってもっとも信じがたい光景だった。




「思い出した――だから俺は旅をしていた」

 きっと自分は。この日のために。偽って生きてきたのだ。

 なにかを目標にしていた日々も。

 誰かと楽しく暮らした日々も。

 夢も、希望も、喜びも。

 記憶に焼き付いたその情景の前では、すべて偽りでしかない。

 世界には顔のない人々ばかりで。

 太陽も、雲も、星空も、目の前に広がる大地でさえ、白と黒で構成されている。

 内にあるのは色鮮やかな思い出と、あの日の情景。


 手にした愛剣には確かな手応え。

 目の前に崩れ落ちるのは、捜し求めた――仇の顔。


 よみがえる記憶。


 夕日の中に残された髪飾り。

 薄暗い地下通路の死臭。


 大切にしていた少女を無惨に失ったという、偽りの記憶。


 ティースの心にはその情景が焼き付けられていた――。


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