その3『情景その一』
少年の心にはその情景が焼き付いている。
黄土色の緩やかな坂。
赤い屋根と白い壁。
綺麗な花畑。
緑の森。
黄金色の穀物畑。
そして――灰色の空と雨。
のどかな情景。
日常の情景。
幸せな情景。
そして。
そして――今は亡き、大切なものの影。
大切にしていたものは少女だった。
恩人から託された宝物。
美しい少女だった。
少年の脳裏にはいつでも鮮やかによみがえる。
太陽の光のような髪。
太陽の結晶のような瞳。
あまりにも大切すぎて、少年はそれを宝石箱の中から出すことさえ恐れていた。
万が一、汚れてしまったら。
万が一、傷付けてしまったら。
万が一、なくしてしまったら――
――どこでどう誤ったのだろう。
少女は死んでしまった。
だから少年は旅をしている。
少女は少年のすべてだった。
すべてをなくしてしまった。
だから。
少年は旅をしている。
少年のすべてだった少女を奪った、ある男を捜すために。
ある男を捜して。
捜して、そして――
よみがえる記憶。
少年の心にはその情景が焼き付いている。
ネービスを出て6日目の午前中。
一行のキャラバンはネービス領の南に接するグレシット領へと入った。
グレシット領――かつてはその南に接するエヴラール領の一部であったが、大陸歴以前に内戦によって分裂・独立し、大陸歴元年のヴォルテスト条約によって初めて国家として認められた領土である。
エヴラール領時代には北に接するネービス領およびその同盟国だった北西のモンフィドレル領とは犬猿の仲であったが、分裂後から現在に至っては比較的良好な関係を築いており、現在は主にネービスから、あるいはネービスへと向かう旅行者に対し遊行や宿泊、観光などの資源を提供することによって栄えていた。
「そういえば、さ」
地図を眺めていたパーシヴァルが不思議そうな顔を上げる。
「予定からすると、この後はフィンレー領を抜けてさらに南のヴィスカイン領に入るんだっけ?」
誰に向かって問いかけたわけでもないが、その問いにはフィリスがうなずいて答えた。
「うん。そこからさらに南にグリゴラ山脈を迂回してヒンゲンドルフ領側から帝都ヴォルテストに入る予定だよ」
ネービスから帝都ヴォルテストまでは直線距離にすると実はそれほど遠くはない。だが、その間に存在する、このグレシット領内にも横たる大山脈の存在により、大きく迂回しなければたどり着けない地形になっているのである。
「ああ、それはわかるんだけどさ。これ、見てみろってば」
言いながらパーシヴァルがフィリスの前に地図を広げてみせる。
フィリスと一緒に隣のパメラも興味深そうにそれをのぞき込んだ。
「これ、ほら。いま俺たちがいるグレシット領ってのは真南にエヴラール領、南東にフィンレー領とくっついてるわけだけど、最終的に俺たちが向かうヴォルテスト領はグリゴラ山脈を南に迂回してから西の方だろ。ってことは、南東のフィンレー領を通るより真南のエヴラール領を通っていく方がどう考えても近いじゃないか」
「あ、そういえばそうだよね……」
フィリスが小首をかしげる。パメラも不思議そうな顔でうなずいていた。
彼らが不思議に思ったのは当然だろう。距離にすればそれほど大きな違いがあるわけではないが、直線で進めるところをわざわざ斜めに迂回して移動するのだから。
そんな彼ら3人に、シーラが本から顔を上げて言った。
「それはね。昔、エヴラールとネービスの仲が悪かったころの名残なのよ」
透き通るような凛とした声に、3人の視線が同時に動いてシーラへと集中する。
「エヴラール領の人は、ネービスからの旅行者をあまり歓迎しないの。だから余計なトラブルを避けるために、少し遠回りだけどフィンレー領を通っていくのが定石なのよ」
3人にそれぞれ宝石のような瞳を向けた後、真正面のパーシヴァルを見つめて、
「納得できた? パーシヴァル」
「あ、はい。……シーラさん、物知りっすよね。やっぱ頭いい人は違うなぁ」
腕を組んで感心したようにうなずくパーシヴァル。
シーラは苦笑して、
「そんなたいしたことじゃないわ。歴史か旅行術のどちらかをかじっていれば常識よ」
そう答えたが、気付くとフィリスやパメラからも尊敬の眼差しらしきものが浴びせられている。
シーラは小さく肩をすくめて、窓の外に視線を向けた。
西の方角から少しずつ迫っていた灰色の雲は、そろそろ彼女たちの頭上にもさしかかろうとしている。この様子だと明日には雨が降り出すかもしれない。
ここまでの道程はほぼ当初の予定通りで、よほどのことがない限り試験に間に合わないということはないはずだが、それでも雨は歓迎すべきものではなかった。
視線を動かす。
正面にパーシヴァル。その隣ではクリシュナが優雅に足を組んだ格好でシーラと同じように本を読んでいる。
そしてその隣――
「……」
パメラがその視線の動きに気付いた。
なにか言いかけて、やめる。
そこにいるはずのティースの姿はない。
シーラはパメラの困ったような視線に気付いていたが、気付かない振りをして窓の外に視線を戻した。
そうしながら今朝のことを思い出す。
今朝――ネービス領とグレシット領の国境に一番近い小さな宿場町での朝のことだ。
『ティースさん。支度の方はできまして?』
昨日と同じ台詞で彼女たちの泊まる宿を訪れたネイリーンが、やってくるなりティースの手を引いて自分の馬車へと連れていってしまったのである。
どうやら昨日、フォックスレアの町で彼女に付き合った際、移動中も色々話を聞かせてほしいとせがまれ、約束してしまったらしい。
あの男にしては軽率な話だ、と、シーラは思う。他人の頼みを断れないのはいつものことだが、相手が女性でしかもネイリーンは弟のオーウェンと別々の馬車で移動しているらしく、馬車の中は2人きり――となれば、いつもならもっとしり込みしているはずだ。
そしてあのネイリーンというのも、また不思議な女性だった。
それは彼女に対してティースのアレルギーが反応しないというだけの意味ではなく――今さら言うまでもなく、あのティースという男はたいしたハンサムでもなければ話がおもしろいわけでもない。
初対面の女性が興味を持つとすれば、せいぜいその頼りない外見とデビルバスター候補生という肩書きとのギャップぐらいであろう。
にも関わらず、彼女はティースにかなりの興味を見せている。
確かに、以前もマーセルという女性が同じように彼に興味を持ち、色々な話をせがんだという例があるが、あれは初対面の時点で、彼女が自殺志願者であり彼がそれを思い止まらせた命の恩人、という特殊なケースだった。
今回は出会いだって特別インパクトがあったわけではない。
にも関わらず――
あるいは。
彼女がよほど特異な価値観の持ち主で、よりにもよってあのティースがその嗜好のど真ん中だったというのか。
――いや。
シーラは心の中でその可能性を即座に否定した。
それはない。その可能性だけは明らかにない。
彼女がティースに向けているのは男女の恋愛感情などひと欠片も絡まない、純粋な興味、好奇心である……はずだ。
だからこそシーラは余計に不自然だと感じる。
そんなティースに対し、まるで好意を寄せているかのように振る舞う、あのネイリーンという女性のことを。
「そういえばシーラ様、お聞きになられましたか? あの黒い馬車のこと」
「?」
突然のパメラの言葉に、シーラは怪訝な視線を返した。
もちろん同じキャラバンでひときわ目を引く黒い馬車のことは彼女も知っている。とても人が乗るようには見えない堅牢で不気味な馬車のことだ。
「あくまでうわさですけど」
シーラの興味を引いたことを確認して、パメラは前置きしながら言葉を続けた。
「あの馬車にはヴォルテストの凶悪な政治犯が乗っているそうなんです」
「政治犯?」
シーラは思わず窓の外に視線を移した。だが、そこからあの黒い馬車は見えない。
すぐに視線を戻して、
「そんな凶悪犯がネービスの検問を抜けたということ?」
ネービスや1日目の宿を取ったルナジェールなど、大きな街の中心部では出入りの際に必ず身分チェックがある。
キャラバンの場合は出立時に厳しいチェックがあるので道中ではそれほど厳しく検分されないが、そもそもその出立の時点でよほどうまくやらない限り、そんな凶悪犯がすんなりネービスから出てこれるはずもないのだ。
だが、パメラは違いますと首を横に振った。
「逆なんです。あの馬車はネービスで捕まったその凶悪犯をヴォルテストまで護送していて、カモフラージュのためにこのキャラバンに紛れたんだとか」
「ああ、そういうこと」
であれば、出立前、あの馬車の周りにいたゴツい男たちは実のところ憲兵かなにかで、そうだとすればすんなり検問を通っているのもうなずけた。
だが、しかし。
「でも本当かしら」
とても信じられない。
キャラバンに紛れたのが、その凶悪犯の奪還を目論む敵勢力の目を欺くためなのだとしても、他の協会員を巻き込む可能性があるようなことに、キャラバン協会が果たして協力するだろうか。
「どうなんでしょう。でもよく考えたら私の耳に入ってるぐらいだから、ちょっとウソっぽいですよね」
まさにそのとおりで、そう言ったパメラ自身もそれほど信じていない様子だった。どうもシーラが考え込んでいるのを見て、気を遣って無理に話題を振ってきたというのが本当のところらしい。
(でも……確かに不思議ね)
少し気にはなった。
そのうわさが根も葉もないものだとして、いったい誰がそんなうわさを口にしたのだろうか。
冗談がたまたま尾ひれをつけて広がったのか。
それとも――
「……妙なうわさが流れている。本当に大丈夫なのだろうな、クロイライナ」
「なにがです?」
ガラガラという音に、ときおり混じる上下の揺れ。
昼間にも関わらずそこは薄暗い闇の中だった。鉄の板で塞がれた窓の隙間からほんのかすかに射し込む太陽の光が唯一の明かりだ。
中には4人の男がいる。
その中のひとり、馬車の持ち主であるハービー=スターリングは、鋭利な刃物を思わせる切れた細い目を正面に向けた。
「確かにお前のおかげでネービスでの商売はうまくいった。事が露見するタイミングもお前の読み通り。事前準備の甲斐もあってこうして無傷で脱出することもできた。だが――」
「それでなにが不満なのです?」
少し甲高い声だった。
「俺はいまだ、お前を完全に信用することができんのだ。クロイライナ」
「それは私が人魔だから、でしょうか」
「そうかもな。……いや、違うかもしれない」
あいまいな返事だ。
ハービーの座席がきしむ。
正面にいる男――クロイライナ=ソーン=ファヴィニエはそんな彼に問いかけた。
「いったいなにを恐れているのです、ハービー」
「……」
少しのためらいの後、こめかみ付近に指を当てながらハービーはつぶやくように言った。
「このキャラバンに、あのディバーナ・ロウがまぎれているというではないか」
――やはりか。
予想通りの返答にクロイライナは口元をゆがめた。だが、その仕草は闇に飲まれ目の前の男たちの目には届かない。
「心配ありません。前にも言ったとおり、彼らはヴォルテストのデビルバスター試験を受験しに行くだけ。ただの偶然です」
「お前はそう簡単に言うが、もし俺たちのことがバレているのだとしたらどうする? いや、たとえ気付いていなかったとしても、妙なうわさも流れている。そのうち気付くかもしれない」
ハービーは少し考えて、
「いっそのこと強引にキャラバンを離れてしまってはどうだ? ネービス領を抜けた今が絶好の機会ではないか?」
「……」
クロイライナは視線に侮蔑の色を込める。
しょせんこの程度。くだらない小さなことに気を取られてその裏で動く大きな流れにも気付けない愚かな小心者。
もちろんそれは最初からわかっていたことで、だからこそ利用しやすい人間だったのだが。
「今動くのはかえって危険です」
クロイライナは口調をやわらげて言った。
「心配ありません、ハービー。あなたの身とあなたの築いた財産、それと――」
馬車の室内におかれた不自然な衝立の奥。
「その貴重な魔石の安全は、このクロイライナが保証します。今までどおり、私に任せてもらえれば、必ず」
「……」
ハービーの視線が衝立の奥に動く。
小さく頑丈な鋼製の箱。
その中に入っている青色の宝石は『雫』と名付けられた魔力のこもった石だ。ネービスのとある学園に保管されていたもので、ネービス脱出の直前に麻薬中毒になっていた学園関係者を利用して盗み出したものだった。
ハービーの視線が揺れた。
貴重なものだ。うまくいけば麻薬で稼いだ以上の財を産み出すだろう。
そして、しばしの逡巡の後、
「本当に、大丈夫なのか?」
クロイライナは再び口元を緩める。
「信用できませんか? でも、あなたのことが露見すれば私も無傷ではいられません。ならば私があなたを裏切るはずがない、と、そうは考えられませんか?」
「確かにそれはそうだが……」
もちろんそんなはずはないのだが、このクロイライナという男の目的そのものを誤解している彼に、その嘘を見抜くことは難しいだろう。
ネービスの学園における麻薬の売買――それで稼いだ金銭の何割か――そんなものは、もとより彼の眼中にはなかったのだから。
その日の夕方、ネービスの西空には雨雲が迫っていた。
隙間からかろうじてのぞく夕日の光を浴びて、ファナ=ミューティレイクはタラップに足をかけゆっくりと馬車から降り立つ。
「ご苦労様です、リードさん」
肩越しに振り返って御者に声をかける。
正面に向きなおるとひとりの男性がうやうやしく彼女の手を引いた。
「姫、お疲れ様でした」
彼女の執事兼ボディガード、イングヴェイ=イグレシウス――アオイだ。
ファナはそんなアオイに微笑み返して、
「アオイさんの方こそお疲れではありませんの?」
「は……?」
「先ほどの会談の最中は、とても眠そうに見えましたけれども」
「そ、そんなことは――」
そこまで言いかけて、声がしぼんでしまう。
どうやら図星のようだ。
ファナはクスクスとおかしそうに笑って、
「構いませんわ、アオイさん。昨日から忙しくてずっとお休みになってないのでしょう?」
「い、いえ。執事たるもの、そういうことは関係なく常にしっかりしてなければ――」
「まいりましょうか」
意図的に言い訳をさえぎって歩き出した。
近くの使用人たちの最敬礼に、主としては少々丁寧すぎる挨拶を返しながら、その足で屋敷の本館ではなく別館の方へと向かう。
今日の公務はすべて終わり、あとはプライベートの時間となる。今日は久々に屋敷で時間通りの夕食を摂ることができそうだった。
その別館の入り口ではひとりの使用人が待機している。
「お疲れ様です、お嬢様」
「ミリィさんもご苦労様です」
侍女長のミリセント=ローヴァーズだ。その後ろから、ほんの少し急いだ様子でハウス・キーパーのアマベル=ウィンスターもやってくる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。本日の御夕食はいかがいたしましょう?」
「今日はこちらでいただきます。よろしくお願いしますわ、アマベルさん」
「かしこまりました。……ヴァレンシア!」
「はいはーい」
脳天気な声とともに駆け足でやってきた少女は、アマベルににらみ付けられて、急にしずしずとファナの前までやってきた。
「厨房へ伝えてもらえる? 今日のお嬢様の御夕食は別館の食堂の方へ、と」
「イエッサ!」
ビシッと軍隊式の敬礼をした彼女に、再びアマベルの視線が突き刺さる。
「……ハイ。了解デス」
そう言ってヴァレンシアはそそくさと逃げていった。
別館はいつもにぎやかだ。
その後ろ姿を見送ったアマベルが、苦虫をかみつぶしたような顔で、
「申し訳ありません、お嬢様。あの子ったらいつまで経っても……」
「構いませんわ。いつでも元気なところがヴァレンシアさんの長所ですもの」
「それはそうかもしれませんが、限度というものもございます。あの子はたまにハメを外すところが――」
「アマベル。そんなことより……」
侍女長ミリセントの言葉に、アマベルはハッとして少し慌てた。
「あ、申し訳ございません。お疲れのところお引き留めしてしまいまして」
「いいえ。久々の夕食、楽しみにしておりますとプレスリーさんに伝えてください」
「はい。それでは――」
ガッシャーンッ!!
「きゃぁぁぁぁぁぁぁッ! ア、アマベル様ぁ――ッ!!」
「な、なにごとですかッ!? ……お嬢様、失礼します!」
なんとも慌ただしく、アマベルは先ほどのヴァレンシア以上の速度でアッという間に消えてしまった。
それを見送ったミリセントが淡々と、
「……アマベルがいつ過労で倒れるか、と、私は心配でなりません」
「ええ。アマベルさんにはそろそろ休暇が必要かもしれませんわ。少し検討してみることにいたしましょうか」
「あの子は休暇の使い方も下手ですから、いっそのこと歌劇のチケットでも強引に渡してしまうのが良いかもしれません。ちょうどウィンチェスター劇場であの子の好きな恋愛物の上演が始まるそうですから」
ファナはクスッと笑って、
「では、すべてミリィさんにお任せします。その間の代役はまたローズさんにお願いすることにしましょう」
「ローズはローズで心配ですが、他に適役がいませんし仕方ないですね。……いったんお部屋に戻られますか?」
ミリセントの言葉に、ファナはすぐに答えた。
「いいえ、執務室へ向かいます。アオイさん、昨日の例の件、詳しく報告をお願いしますわ」
アオイはびっくりした様子で、
「ですが姫、少しは休まれてから――」
「大丈夫です。ミリィさん。先日のカノンからの報告書は今日中に目を通しておきます。それと、リディアさんを執務室まで呼んでいただけますか?」
「かしこまりました」
素早く動き出すミリセント。
ファナはひとつうなずいて、言葉通り別館の執務室へと向けて歩き出した。
……先ほど、ここからはプライベートの時間と言ったが、ミューティレイクとディバーナ・ロウは表面上、あくまで経済的援助のみの関係であり、ファナにとって、ディバーナ・ロウに関する仕事の大半は公務ではなくあくまでプライベートなのである。
執務室に入ってすぐにアオイは言った。
「リーラッド学園から盗まれた魔石『雫』に関することです」
ファナはうなずいて、そのまま少しの音も立てずにふわりと執務椅子に腰を下ろす。その所作はまるで体重が無いかのようだった。
「報告によると『雫』は――」
「待って。そこからはあたしがやるよ、アオイさん」
そこへやってきたのは弱冠12歳の執事、リディア=シュナイダーだ。
男物の執事服に身を包んだ少女は濃い金髪の先を右手でクルクルともてあびながら定位置に腰掛けると、少し呆れたような顔でファナを見た。
「もぅ。帰ってきて少しぐらいは余裕あるかと思ってたらすぐ召集だもんなぁ。あたしにも心の準備ってものがあるってのにさ」
「あらあら、そうでしたか」
ファナは少し意外そうな顔をした後、ニコリと言った。
「それでは次回はアオイさんではなく、リディアさんに付き添いをお願いすることにいたしましょう。それでしたら心の準備も必要ありませんものね」
「あたし、心の準備だけは人一倍早いんだ」
コロリと態度を変えてしまった少女に、ファナとアオイは苦笑する。
リディアはいつもの調子で口を開いた。
「ま、そんなこんなで……まずは学園調査班からの報告だけど、やっぱ例の麻薬事件と今回の『雫』強奪が関係があるのは間違いなさそうだよ。最初から『雫』の強奪が目的だったのか、ついでだったのかはわかんないけど」
アオイが口を挟む。
「例の麻薬事件と関わりがあるということは、確かその、以前ネスティアスの――ルーベンさんがおっしゃってたように、タナトスの一員が絡んでいる可能性があるということですよね。とすると、やはり最初から『雫』が目的だったと考えるべきではないかと――」
「不思議、ですわ」
「え?」
いつもどおりのんびりとした口調のファナに、アオイが怪訝そうな視線を向ける。
「姫。なにが不思議ですか?」
アオイがそう問いかけたタイミングでノックの音がして、背の高い侍女が紅茶を運んできた。
ひと呼吸。
侍女が出ていった後、ファナは紅茶をひと口含んでからゆっくりと顔を上げると、
「ルゥさんからの情報が確かであれば、ネービスに潜入していたのはクロイライナ=ソーン=ファヴィニエ――タナトスの中で最も正体の知れない者、のようです」
「それのどこが不思議なのですか?」
アオイはますますわからなくなって――紅茶で舌を火傷しそうになりながら、そう問いかけた。
代わりにリディアが答える。
「『雫』は確かに貴重なものだけど、魔石の中では特別強力なものでもないしね。タナトスが今さらそんなもの必要とするのかなぁ、ってこと。だよね、ファナさん?」
「ええ、そのとおりですわ」
「なるほど……ですが、リディア。それは単に活動資金の足しにするためではないのですか?」
リディアは羽根の付いたペンを人差し指と中指でもてあそびながら、
「そりゃその可能性もあるよ。でもリスク的にどうかなぁ。結果的にあたしたちは『雫』からたどって犯人の行方に見当をつけたわけだし」
「え? 見当を……つけた?」
「そ。――実は今日ね。2人がいない間にもう1個、犯人を追ってる方から報告が来たんだ」
言って、リディアはピラッと1枚の紙を2人に示した。
「本命はこの男。ハービー=スターリング、36歳。8年前に死んだ親の小売業を継いだけど他の商売に手を広げようとして失敗。最近は立て直した様子だけど商売自体に不透明なところがあって、キャラバン協会でも会員資格の一時停止を検討してたみたい」
「その者がタナトスの?」
「ううん。この人はキャラバン協会でも要注意者としてマークしててね。念のため今回の出発前に同行者の使用人2人と半日がかりの人魔判定チェックをやってる。だからタナトスが化けてるってことはないんだけど、どうもこれが怪しいみたい」
「なるほど。……いえ。ちょっと待ってください、リディア」
アオイがなにごとか気付いた顔をした。
「そのキャラバンは、もしや6日前に出立したキャラバンではないですか? つまり――」
リディアはうなずいた。
「たぶん、ね。ほら例の――『雫』の反応を追う方法で。痕跡がピッタリあのキャラバンの通り道と重なってるみたいだから」
ファナの表情にかすかな憂いが浮かぶ。
「ティースさんたちの無事は――確認できてますの?」
「うん。……ひとまずフォックスレアまでは、ね」
「……」
西空から雲が迫っている。
キャラバンは今ごろ、ネービス領を出てグレシット領にまで入っているだろう。
なにか悪いことが起こっているような、そんな予感がした。
――昔の夢を見た。
彼女がまだ周りから『お嬢様』と呼ばれていたころ。
父は忙しい人だった。
母の顔はぼんやりとしか覚えていない。
乳母は優しかったが、優しいだけの人だった。周りもみんな優しかったが、やはりただ優しいだけだった。
甘やかされ当然のようにわがままに育った彼女は、その一方で周りが自分に無関心であることも幼心にぼんやりと理解していた。結局のところ彼らは、彼女が本当に困っているときに限って見て見ぬ振りをするのだ、と。
とはいえ、別にそれが腹立たしかったわけではない。彼らが彼女に接することはあくまで仕事で、彼ら自身の生活のためであり、自らが職を失う危険を侵してまで彼女のわがままに付き合う理由などこれっぽっちもないのだから。
まして。
そのために命を賭けることなど、あろうはずもない――
――茶色の土をどす黒く染めた血の色。
――徐々に薄れていく呼吸。
脇腹の激痛。
それが気にならなくなるほどの吐き気。
頭の中がガンガンしてグルグル回る。
あのときの気持ちを彼女は一生忘れることはないだろう。
いつもなら誰かが助けてくれるのに。
どうしたのですか、と、誰かが手を差し伸べてくれるのに。
――いつも手を差し伸べてくれた人は、今、眼前で血まみれになっていて――
産まれて初めて触れた、死の感触。
そうして――彼女は薬師を目指すようになったのだ。
忘れもしない。
7歳の年の初春――
グレシット領での最初の朝。
どうにも頭が重い。
少し本の解読に根を詰めすぎたか、あるいは風邪でもひいてしまったか、と考えながらシーラはベッドの上に身を起こした。
ズキ。
「っ……」
右の脇腹に鈍い痛みが走る。……いや、走ったような気がしただけだ。気のせいだということはわかっていた。
左右に視線を動かす。同じ部屋の2つの寝息はまだ静かだ。外の明るさからするとまだ太陽が頭を少しのぞかせた程度の時間だろう。
起こさないようにベッドから下りて鏡台に向かった。
――ひどい顔だ。このまま学園に行けば半数ぐらいは幻滅するんじゃないだろうか、と、そんなことを考えながらシーラは洗面台へと向かう。
水音を極力抑えて顔を洗った。
宿の中もまだ静かだ。隣の男性陣もまだ目覚めていないのだろう。
そういえば、と、シーラは昨晩、その男性陣の中のひとり――ティースの姿を結局見ていなかったことを思い出す。
この町に到着した後もなんだかんだでネイリーンに連れ回されたらしく、シーラはシーラで部屋にこもりっきりだったため顔を合わせる機会がなかったのだ。
足音からすると部屋には戻っているようだったが――
髪を整え、寝間着から着替えると部屋を出て1階に下りた。
「あら。おはようございます」
1階は飲食店を兼ねている。少しおしゃれな作りの店で、カウンターの中では30歳ぐらいの女性が準備をしており、シーラが丁寧に挨拶を返すと紅茶を煎れてくれた。
「ネービスから来られたんですってね。じゃあこの後はフィンレーの方へ?」
「ええ。……朝、早いんですね」
紅茶をひと口。ミューティレイクのものに比べるとさすがに劣るがなかなかのものだ。
「そりゃあもう。お客様より遅く起きるわけにはいかないでしょう?」
女性は気さくな感じで笑って、なにかあったら声をかけてください、と、そう言い残して奥の方へ消えていった。
また静かになる。
外は曇り空なのだろうか、なかなか明るくなる気配がない。
と。
2階の方で扉の開く音がした。
ぎしっと廊下を歩く音はやがて階段の方へと移動して――
「シーラさん? もう起きてたんだ?」
「あら……おはよう。オーウェン」
やってきたのは昨晩、たまたま同じ宿に入ったオーウェンだった。
こんな早朝にも関わらず緩んだところなくしゃきっとしている。早朝の彼に会うのはもちろん初めてのことで、そんな彼の姿にシーラはなぜか違和感を覚えた。
その理由を考えて、すぐ思い当たる。
彼女が人生の中でもっとも多く見てきた男は――特別朝に弱いというわけではないとはいえ、どちらかというとスロースターターだったからだ。
「シーラさんも朝早いんだ。らしいね」
「そう?」
そう答えながらシーラはオーウェンの後ろに視線を向けて、
「ネイリーンさんは?」
「え?」
オーウェンは意表を突かれたような顔をした。だが、それからすぐ思い出したように、
「ああ、姉さんならまだ寝てるんじゃないかな。……でもよく知ってたね。姉さんが俺の隣の部屋だって」
「? 普通そうじゃないかしら。そんなに広い宿でもないもの」
「そうかな。……ちょっと外を散歩しようと思ってたんだけど、せっかくだから隣、いいかい?」
「ええ。構わないわ」
オーウェンは隣の椅子に腰を下ろした。
それを視界の隅にとらえながらゆっくりとティーカップを揺らす。琥珀色の液体に薄く自分の顔が映っている。
しばらく沈黙が続いた後、シーラは横にいるオーウェンを見て言った。
「なにか私に聞きたいことがあるんじゃないの?」
「え?」
オーウェンは少し言葉に詰まる。
「まぁ、そりゃあね。でもなにも聞かないって約束だから」
「そう」
律儀な男だと思う。だが、シーラはこういう馬鹿正直というか生真面目な人間が嫌いではないし、だからこそ疑似とはいえ恋人関係にあることが苦痛ではないのだろう。
「それともこういうときって、少し強引にでも聞いてみた方がいいのかな?」
「少なくとも本人に尋ねることではないわね」
苦笑してそう答えると、オーウェンは少し考えた後に、
「じゃあ……」
結局質問を口にした。
「この6日間色々考えてたんだけど……シーラさんってもしかしてミューティレイク家の使用人なのかい? 将来有望な使用人に学問を学ばせることって結構あるみたいだし」
どうやら彼も馬車に刻まれたミューティレイクの紋章には気付いていたようだ。
シーラは紅茶をひと口含んで、
「違うわ。いくらミューティレイクでもただの使用人に3年も4年もかけて薬草学を学ばせたりしないわよ」
「じゃあもしかして……ミューティレイクの親類とか?」
「いいえ。ただの居候よ」
「居候? あそこの居候ってだけでも結構すごいけど……」
オーウェンはそのまま信じたわけではなさそうだが、シーラにしてみれば限りなく事実に近い返答をしたつもりだった。
結局、オーウェンはそれ以上のことは聞いてこなかった。
本当に律儀で生真面目な人間なのだ。
だからこそシーラはこの青年のことを嫌いになれなかったし、もしかしたら――まるで同じ年ごろの少女たちがするように、過去の色々なことを忘れて彼に恋をすることができるかもしれないと考えたのだ。
実際のところ、それはいまだに実現していないわけだが。
いや。
シーラは自戒する。
――実現などするはずもないのだ。それは他の誰のせいでもなく、彼女自身がまだそのスタートラインに立とうとしていないのだから。
「……そういえばオーウェン」
会話が途切れたところで、今度はシーラの方から質問を向けた。
「ネイリーンさんのこと、少し聞いてもいいかしら?」
「え? 姉さんのこと? あ……もしかしてティースさんのことが気になってるとか?」
どうやらオーウェンも、ここ数日の彼らのことを知っているようだ。
「ええ、少しね」
「……」
オーウェンは少し不思議な目でシーラを見た。
「あまり深くは聞かないって約束だったけど……シーラさん。もしかしてティースさんって、君の――」
「え? あ、ああ。いえ、そういう意味じゃないわ」
どうやら別の方向に誤解されたようだった。
「ただ、あんな男を好きこのんで連れ回す彼女のことが不思議だっただけよ」
「そうかな? 結構女の人に好かれそうだけど……って、男の俺が言ってもあまり説得力ないけどね」
「……」
絶対に間違っているとは言い切れない。確かに彼は好かれることは好かれるのだ。ただ深い関係になることがないだけのことで。
「姉さんは見てのとおりマイペースな感じの人だよ。それでいて実は頭良さそう――っていうのが俺のイメージかな」
「独身なの?」
「え?」
オーウェンは意表を突かれた顔をして、
「そりゃ……独身じゃないとああやってティースさんを誘ったりしないんじゃない?」
「……変なこと聞くようだけど」
シーラは真顔で問いかけた。
「彼女、普通の男性を愛せる人なの?」
「え……え?」
ますます混乱したようだ。
「それってどういう――」
「……ごめんなさい。忘れて、今のは」
シーラはごまかすように視線を逸らし、ティーカップに口をつけた。
オーウェンが混乱するのも当然だろう。それに――どうやら今の反応を見ると、事実がどうであれ、少なくとも彼はなにも知らないらしい。
外が少し明るくなっている。そろそろみんな起き出すころだろう。
「じゃあ、そろそろ支度があるから部屋に戻るわ」
「あ、そっか。じゃあ俺も散歩に行ってくるかな」
そうしてシーラはオーウェンと別れた。
「行ってらっしゃいませー」
先ほどの宿の女性の声が背中に聞こえる。
そのまま部屋に戻ると、パメラがすでに起きていた。
「あ、シーラ様。おはようございます」
「寝癖ついてるわよ、パメラ」
「え? あ、ホントだ……」
鏡をのぞき込むパメラの後ろを抜けて、自分のベッドへ腰を下ろす。
フィリスの方はまだ少しまどろんでいるようだ。
そのまま身をかがめて、足下にある荷物の確認を始める。
そうしながら考えた。
(今日は……来るのかしら、あの人)
たぶん来るような気がする。来て、おそらくまたティースを連れていくのだろう。
ひどく気にはなるが、気にしていることは表面に出さないようにしている。出せばきっとパメラ辺りが勘違いしてますます気を遣うだろうから。
違うのだ。パメラが心配しているようなことやオーウェンが勘違いしそうになったようなことは、シーラはこれっぽっちも心配していない。
彼女が気にしていることはもっと別のことだ。
不自然。
そんなことはないはずなのに、そのように見える。
それが不自然。
しかしなぜなのだろう。
それがわからなくて気になるのだ。
そもそもの発端は出立のあの日の出来事で、それがすべての不自然さの原因となっているのは間違いない。
それさえなければその後のことは――趣向が人それぞれ千差万別であるということを考慮にいれるのであれば、不自然でもなんでもないのだ。
であればパメラの心配は決して的はずれでもないだろうし、シーラ自身、もっと別のことに対して気をもんでいたかもしれない。
(ネイリーン=トレビック……)
疑問が拭い去れない。
なぜ彼女はあんなにもティースに興味を示すのだろうか。彼に恋をしているわけでもないというのに――
頭を振って、シーラはベッドから立ち上がった。
日中、ずっと馬車に揺られているからだろうか、思考が堂々巡りばかりしている。
少し気晴らしが必要かもしれない。
「パメラ。私、ちょっと外を散歩してくるわね」
洗面台のパメラに声をかけると、
「え? あ、気を付けてください。あまり離れたところには行かないでくださいね。ネービスほど治安が良いわけではないですから」
「わかってるわ。ありがとう」
外からは少しずつ人の声が聞こえてきている。人のいるところを歩けばさすがに危険はないだろう。
そのまま部屋を出て、階段を下り、店の女性に挨拶をして外に出た。
やはり曇り空。
まばらな人々の視線を頬の辺りに感じながら、ゆっくりと歩いていく。空気は少し湿っていて道ばたにはいくつか水たまりも出来ていた。気付かなかったが、昨晩は少し雨が降っていたらしい。
(そういえば……リィナたちはうまくやっているかしら)
水たまりを見て水の王魔である彼女のことを思い出す。そんな自分の思考の単純さに自嘲しつつ、改めて屋敷にいる2人の幼なじみのことを脳裏に思い浮かべた。
エルの方は順応性の高い少女でなんの心配もない。問題はリィナの方だ。だいぶこっちの世界にも慣れてきているが、今もたまに非常識な言動で周りを驚かせているらしい。
ティースと2人で出てきて、フォローできる人間が少なくなっているだけに少々心配ではあった。
(とはいっても……あの子たちのことだから、正体がバレるようなことは絶対にしないでしょうけど――)
「――シーラ=スノーフォール」
突然。
「!」
低い男の声にシーラは反射的に振り返った。
声は通りの路地の奥からだった。
「声を出すな。妙な素振りも見せるな。でなければ――お前の友人、リィナ=グレイグ=クライストが大変な目に遭うことになるぞ」
「!?」
声を上げそうになって、ギリギリのところでこらえた。
リィナ=グレイグ=クライスト――それはリィナの『本当の』フルネームだ。真ん中に種族名が挟まっていることは、その人物が人魔であることを表している。
それはつまり、声の主がその事実を知っているということでもあった。
辺りを観察する。
人はまばらにいる。いざとなれば助けを呼ぶことはできるだろう。
だが、しかし――
「わかったらそのまま、自然に路地の中に入ってこい」
男の声。
「……」
少しためらった後、シーラは路地の中に足を踏み入れた。
普通に考えれば不用心だといえるだろう。だが、それでも彼女が路地に足を向けたのは、もちろんリィナのことが大事だったということもあるが、その声が彼女にとって、確かに聞き覚えのあるものだったからだ。
男は袋小路の路地に、深いフードをかぶった姿でレンガの残骸の上に腰掛けていた。
5メートルほどの距離をあけてシーラは足を止める。
右手を腰に当てて。
シーラはまっすぐにフードの男を見つめた。……いや、にらみ付けた。
「これはいったいなんの冗談かしら? ……レインハルト=シュナイダーさん?」
フードの中から、見覚えのある皮肉な笑みが返ってきた。
少年の心にはその情景が焼き付いている。
夕日の残光。
古びた髪飾り。
反射する鈍い光。
路上に乾いてこびりついた血の色。
胸を蝕んでいく――絶望。
大切にしていた少女は少年の前から突然姿を消した。
その気持ちをなんと表現すればいいのだろう。
世界そのものが足下から崩れていく。
決して地上にたどり着くことはない、永遠の落下。
なぜなら――少女は少年のすべてだったから。
だから少年は旅をしている。
少女の命を奪った、ある男を捜すために。
ある男を捜して。
捜して、そして――
よみがえる記憶。
少年の心にはその情景が焼き付いている。




