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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第1話『デビルバスターへの道』
7/132

その6『惨劇の地下通路』


 そこは薄暗い石造りの部屋だった。

 壁に据え付けられた照明はわずかひとつのみで、10メートル四方ほどの部屋を照らすにはあまりにも弱々しい。

 周りはすべて壁。扉らしきものはどこにも見当たらず、出口のない部屋のようにも思えるその場所で『そいつ』は待ち続けていた。

 いや、待ち焦がれていた。

 『そのとき』が訪れる瞬間を。

 冷たい石の床に腰を下ろし、果たして何時間待っただろうか。時間の感覚はほとんどなかったが、まだ半日は経っていないだろう。

 そして、ついに。

「っ……ここ、は……?」

 女が目を覚ましたのを知って、そいつは歓喜に打ち震えた。

 照明が暗すぎて、女の動きはその大半が薄暗い闇の中に隠れていたが、それで充分だった。近付いたときに女の表情さえ確認できればそれで良かったのだ。

 数名の仲間たちはすでにその場を去っている。もうここに用はないと踏んだようだったが、そいつにとってそれは理解できない行動だった。

 せっかくこれほど大規模な人間の街に侵入し、これほど便利な隠れ家を見つけたというのに。

 そもそもそいつにとっては、例の作戦の結果などどうでも良かったのだ。もともと、自らの欲求を満たしてくれる狩場を探していて、そのために都合がよかったから彼らの仲間になっただけだった。

 ゆっくりと立ち上がり、手にした剣で石の床をこする。

「っ……!?」

 その音に、女はようやくそいつの存在に気付いた。

 透き通るほどに美しいブロンドの髪が揺れる。

「お目覚めか」

「お前は……っ」

 女はそいつの顔に覚えがあるようだった。

 当然だろう。今まで意識を失っていた女にしてみれば、つい先ほど出会ったばかりという感覚のはずだ。

「なんのつもりで……こんなことを……」

 まだみぞおちに痛みが残っているのか、女はときおり顔をしかめる仕草を見せた。

 だが、その目には強い輝きが宿ったままだ。恐怖を隠し切れずにはいても、屈服し命乞いしようという意思は微塵も感じられなかった。

「いいな、その表情……」

 それを見たそいつは舌なめずりをした。

 空腹にも似た感覚。目の前のご馳走にすぐさま手を伸ばしそうになるが、すんでのところでその欲求をこらえる。

 ――まだ。まだ早い。もう少しの味付けが必要だ、と。

「ああ、先に言っておくが……」

 女が懐を探ったのを見て、そいつは言った。

「そこに忍ばせていた小さなナイフらしきものは捨てさせてもらった。あってもどうにもならんとは思うが、一応、物騒だからな」

「……」

 女は意外に慌てた様子はなかった。右手を懐に入れたまま、壁に寄りかかるようにして、左手は偶然近くに落ちていた木の棒を拾う。

 そしてそのまま、視線は油断なく辺りをうかがった。だが、どこにも出口が見当たらないのに気づいて、形の良い眉をくもらせる。

 そんな女の心の動きは、そいつには手に取るようにわかっていた。これまで何人もの女が同じ状況で色々なリアクションをしてきたが、多少の個人差こそあれ、基本的に思考のパターンはそう大差ない。

 最初に状況に戸惑い、そいつの存在に恐怖を覚えて。あとは絶望にすべてを諦めるか、少しでも突破口を探してあがくかの2パターンに分かれる。

 この女は明らかに後者だった。しかも、その中でも圧倒的に強い意志の輝きを放っている。

 そいつの背筋は言いしれぬ期待感にぞくぞくと震えた。

 そのほうが、そいつにとって望ましいことだったのだ。

「さぁ、2人きりのショーの始まりだ」

 カリカリと剣先が石にこすれて心地よい響きを奏でる。

「っ……」

 その距離が5メートルを切った辺りで、女が動いた。

 女が手にしている木の棒は、そいつが自ら用意したものだ。抵抗する相手を追いつめていく方が楽しいから、という単純な理由によって。

 今までの女たちの行動には2通りあって、木の棒の存在にも気付かず、あるいは気付いてても拾わずにそのまま殺されるか、あるいは木の棒を手にして無謀にも殴りかかってくるか。

 ただ、今回は少し違った。

「なに……?」

 女の手を離れ、正確に顔面目がけて飛んできた木の棒を、そいつは少し驚きながらも右手の剣で叩き落とす。

 なんのためらいもなく、唯一の武器を手放した女はこれまでで初めてだった。

「!?」

 直後、その向こう側からこぶし大の塊が飛んでくる。

 ――石か。

 驚きから一瞬体が固まったものの、人間よりもはるかに強靱な肉体を持つそいつの体は即座に反応し、返した刃でその塊を叩き切った。

 だが、

「っ……!!」

 その瞬間、そいつは自らの失敗を悟った。

 石だと思った塊は小さな革袋で、中に詰まっていた粉末がまともにそいつの顔に降りかかったのである。

「っ……ゲホッ、ゴホッ!!」

 香辛料のようなものだろうか。目から鼻からのどの奥にまで侵入した刺激物が、そいつの視界を奪う。

 だが、

 ――こざかしい。

 一瞬の混乱から、そいつはすぐに冷静な思考を取り戻した。

 目が見えなくとも、女の動きは気配で読みとれる。

 逃げ場がないことを悟っていたのか、女はかく乱するように大きく弧を描く動きで接近してきていた。途中、かすかに石床をこする音がしたところをみると、先ほど叩き落とした木の棒を再び拾ったようだ。

 ――おもしろい。

 背筋が震えた。今までに感じたことのない興奮だ。

 かつて、ここまでの抵抗を見せた相手はいなかった。大抵は最初から絶望しているか、あるいは木の棒を叩き落とされて戦意を喪失するかのどちらかだった。

 抵抗すればするほど、追いつめ甲斐がある――

 女のささやかな抵抗など、そいつにとってなんのリスクでもない。だから女が知恵の限りを尽くして反撃してくるこの状況は、喜び以外のなにものでもなかった。

 女はためらうことなく殴りかかってくる。

 かすかに光を戻し始めたそいつの視界には、女の美しいブロンドの髪、意志の強い瞳、これ以上ないほどに整った美しい顔が映る。

「ははっ……はははははっ!!!」

「っ!?」

 女の顔が歪んだ。

 甲高い音。

 その手に握られた木の棒が大きく宙を舞い、壁に備え付けられた照明の下に落ちた。

 一瞬、女の顔に浮かんだ怯えの表情。

 ――それがまた、心地よい。

「ぐっ!!」

 振り上げた足が女の脇腹をとらえ、女は苦痛に顔を歪ませて石床の上に転がった。

「げほっ……げほっ……!!」

 脇腹を押さえ、痛みに必死に耐える女。

 そいつは感情を抑えきれなくなって、愉悦の笑みをそこに浮かべた。

 剣先が再び石床をこすって綺麗な音色を奏でる。

 今までにないほど――視界がグラグラと揺れるほどに――そいつは興奮した。

「最高だよ、お前……今までで最高に強い。今までで最高に美しい……もっと! もっと抵抗してみせろよ……はは……ははは……はははははぁっ!!」

 そいつは大笑いした。

「っ……」

 女の手元にはすでに武器もなく、おそらくこの場から逃れる術はひとつもないだろう。

 だが、女はそれでも変わらぬ瞳でそいつをにらみ付けていた。

「お前……異常だわ……」

 女に残された抵抗は、言葉しかなかったようだ。

「なにを言う。お前たちだって同じだろ?」

 愉快。

 女の侮蔑の言葉でさえも、今はそいつをただただ愉快にさせるだけだった。

「お前たちだって子供のころ、逃げまどうトンボを網で捕らえ、その羽をむしって遊んだだろう? それが本能ってやつだ。俺たちはジタバタする弱者の姿を見て悦びを感じるようにできているのさ。標本になったトンボの羽など、誰がおもしろがってむしるものか」

「それは違うわ」

 女は反論した。

「それはまだ子供で、命というものをちゃんと理解できていないからよ。お前は違う。お前は命を理解しながら、それをもてあそぼうとしてる。生きるためでもなく、楽しみのためだけにそれを奪おうとしてる。そんなの本能でもなんでもないわ」

 薄暗いこの部屋には似つかわしくない、太陽のような瞳がそいつを見据えた。

「お前は、ただの異常者よ」

「ふっ……ふふっ……」

 興奮がそいつの体を突き抜ける。

 ――この状況にあってさえ、強さを失わない女の美しい瞳。そしてそれとは対照的に、隠しようもなく恐怖に震えているその華奢な体。

 なにもかもが、そいつを興奮させた。

 またとない美しい獲物。それは長いこと追い求めていた、至上の快楽だった。一瞬、意識が遠くなるほどに。産まれてこの方感じたこともないような異常な衝動。

 それをこれ以上抑えておくことは、もはや不可能だった。

 背筋をゾクゾク震わせながら、そいつの右手がゆっくりと動く。

 そして、口元を大きく歪ませながら死の宣告をした。

「よくがんばった。ほんの数分間だけ生き長らえた、キミの強い意志とその瞳に乾杯――」

「!!」

 にび色のきらめきが女の肩口に吸い込まれた瞬間、一瞬だけ時が止まった。

 そいつは少なくともそう感じていた。

「――ぁぁぁぁぁっ!!」

 女の口からあふれ出たのは、言葉では表現することが難しいほどの苦痛の叫び。

 その声に、そいつの頭の中は真っ白に染まった。

 断続的な快感。

 緊張を失った頬はだらしなく歪み、引きつった笑みが止まらない。

 赤黒い液体が周囲に飛び散る。右手に力を込めると、ゴリッという感触があって、直後に抵抗がなくなった。

「ぁ……ぁ……っ!!」

 ボトリと石の床に転がったのは、先ほどまで女の右肩から生えていたモノ。

 激痛にのたうち回る女の顔は、これ以上ないほどに醜く歪んでいた。それはおそらく、彼女が産まれてこの方一度も見せたことのない表情だろう。

 美しい金髪が、自らの出した赤黒い液体によって赤銅色へと染まっていく。

 それを見て、再びそいつの頭の奥は真っ白になった。

 ――まるで芋虫だ。

 そいつはそう思った。

 つい先ほどまで、あふれんばかりの生命とまばゆい輝きを放っていた女は、今や1匹の芋虫のようだった。

 そして、そいつは考える。

 ――芋虫ならば、左肩から生えているモノも必要ないはずだ、と。

 もはや止まらなくなったヨダレを拭おうともせず、女に歩み寄っていく。

「はっ……はっ……っ!!!」

 絶え絶えになりながらも止まることのない女の呼吸は、懸命に生きようとする意志の現れだろうか。

 それを見て、そいつの興奮は何度目かの絶頂を迎えた。

「はぁ……はははっ……はははははっ!!!」

 鈍色の輝きが左肩へと吸い込まれる。

「――――!!」

 声にならない絶叫。

 飛び散る飛沫。

 歪む顔。

「あはははははははぁっ――――!!」


 ――狂宴は続いた。

 そいつの耳に、女の絶叫が届かなくなる瞬間まで――




 ヒタ、ヒタ。

 ヒタ、ヒタ。

 なるべく足音を立てないように、ティースは真っ暗な通路を慎重に歩いていた。

 古ぼけた石の通路は、大きな地震でもあれば簡単に崩れてしまうのではないかというほどあちこちヒビ割れている。

 ところどころに生えている白っぽいカビは『陽カビ』と呼ばれる特殊なカビで、一説によれば魔が自分たちの住む世界からこちらに持ち込んだものらしい。

 その名の通り、日中にはほんのかすかに発光する性質を持っており、ネービスの地下道にはほとんどの場所にこのカビが生えているようだったが、もちろん夜の今は光を発していなかった。

 それに代わる唯一の光源であるカンテラで作られた丸い視界は、通路の奥のほうまでを見通せるほどには強くなく、歩くたびに前方の闇が徐々に押し迫ってくるかのような感覚に襲われる。

「ティースくん。そこまで足音を気にしなくていいわよ」

 ティースの斜め後ろを歩くアクアがそう言った。

「この真っ暗な中でカンテラ持って歩いてるんだから。近くまで行ったらどうせ気付かれるんだし。そりゃ大声をあげるとかってのは論外だけどね」

「え、ええ……」

 とはいえ、ティースの声は緊張にこわばっていた。

 当然だろう。暗闇の先からいきなりなにが飛んでくるかもわからないのである。緊張するなという方が無理だった。

 既に鞘から抜きはなった剣を握るティースの手は、汗でベトベトに湿っている。それでも彼の歩むペースが落ちないのは、もちろんシーラを助けたい一心によるものだった。

「特に気配はないが、息を潜めてる可能性もあるからな」

 アクアの隣を歩くレイは、ティースとは対照的に剣も鞘に収めたまま。さすがに慣れているのか気を張っている様子もそれほどなかった。

 それからしばらく歩いたところで。

 アクアが首をかしげながらつぶやく。

「おっかしいな……もうそろそろのはずなんだけど、ずいぶんと静かね」

 レイがちらっと横目でアクアを見る。

「もう逃げたか? もしファナを狙った連中と同じなら、昨日の襲撃失敗後、すぐに撤収していてもおかしくはないが」

「でもそうすると、ティースくんの奥さんをさらってったのは別の奴ってことになるんじゃない?」

「さぁな。そうなら……いいやら悪いやら。人買いにでもさらわれたんなら、命だけは無事の可能性が高くなるか」

「……」

 後ろで繰り広げられる会話――しかもアクアの言葉の一部には多大な誤解が含まれていた――にも、ティースはなにも答えなかった。

 答えられる余裕がなかったのと、事実がどうであれ、今はただ彼女の無事を願って前に進むしかないのだと、そう理解していたからだ。

 そうして歩いていたティースの眼前に、急に壁が現れる。

「……?」

 立ち止まって後ろを振り返ると、

「右。そこに通路があるから」

「あ……」

 てっきり行き止まりだと思ったティースは、右手にあった1メートル程度の段差と、その先に続いている通路の存在に気付いた。

「気をつけろよ。気配は感じないが、上がろうとして両手をついた瞬間にドン! って可能性もあるからな」

「ああ……わかりました」

 レイの言葉にうなずいて、その通路の先を慎重にうかがったあと、素早く上がってすぐに体勢を整える。

 特に変わったことは起こらなかった。

「いよいよおかしいな」

 後ろから上がってきたレイが首をひねる。

「え?」

 不思議そうな顔で振り返ったティースに、潜めた声でアクアが続けた。

「すぐそこ……右に曲がったところに部屋があるはずよ。そう、そこ」

「……」

 カンテラで照らすと、通路の先はすぐ行き止まりになっていて、確かに右手に入り口のようなものがある。ただ、扉があるわけでもなく、もしその中に誰かいるなら、こちらの明かりにはとっくに気が付いているはずだった。

 もちろん息を潜めているという可能性がないでもない。

 ゴクリとのどを鳴らし、ティースはゆっくりとその部屋へと向かった。

「待て」

 いや。

 そんなティースの行動を、レイが止めた。

「え?」

 怪訝そうなティースに、レイはアクアに目配せして、

「その先は俺が行く。予備のカンテラに明かりを灯せ」

「え……どうしてですか?」

 突然の言葉にティースが理解できない顔をすると、アクアは少しだけ視線を泳がせながら答えた。

「おそらくその部屋には誰もいないわ。気配を消しているにしても……たぶん間違いない」

「じゃあなんで――」

「死臭がする」

「……!」

 レイの言葉を聞いて、ティースは初めて自らの鼻を襲う異常な匂いに気付いた。

 視覚と聴覚に意識を集中する余り、嗅覚の方がその機能を麻痺させていたのだ。

「たぶん、キミは行かない方がいいと思う」

「それって……」

 アクアの言葉の意味は、ティースにも理解することができた。

 人の気配がない。

 その理由が、否応なしに彼の頭の中で形を結び始める。

「……」

 視線を落とし、口元を震わせて手元を見つめるティースに、アクアは無言を返した。

 その間に、もうひとつのカンテラを手にしたレイが無造作に部屋の中へと入っていく。

 さすがに背中の剣に片手をかけていたが、どうやら彼はそこに誰もいないことを確信しているようだった。

「ティースくん……」

 レイの姿を放心したように見送るティースの肩に、アクアはそっと手を添えた。

「いい? もしどうしても我慢できなかったら、あたしの胸を貸してあげる。思いっきり泣いてもいいから……だから、落ち着いて現実を受けいれるのよ?」

「……」

 ティースはただ黙ってうなずいた。

 半分、放心したような状態だった。

 ――ただよってくる死臭は強烈だ。そこで奪われた命は明らかにひとつやふたつではないだろう。

(……こんな……)

 深い絶望感。

 その奥から、言いしれぬ怒りが湧き上がってくる。

(こんな馬鹿なことがあるかよ……)

 レイが部屋に入っていってから数秒。

 中からはなんの反応もない。

 ティースのいる場所から見る限り、それほど広い部屋だとは思えなかった。そこに少しでも動くものがあったなら、すでに反応があってもいいはずだ。

 それはつまり――

(……こんな……っ!)

 ティースの握り締めた拳から、わずかに血が伝った。

「……ティースくん」

 肩をつかむアクアの手に力が入る。

(許せない……許せない……ッ!!)

 手が震えて、抑えきれない怒りが込み上げる。

「レイくん? どう?」

 2分ほど経ってレイが部屋から顔をのぞかせた。その表情は予想通りの嫌悪感に染まっている。

「ひどいな。まるでハイエナが食い散らかした後だ。いや、それよりお行儀が悪いか」

 一瞬だけティースを気遣うような仕草も見せたが、レイは結局言葉を続けた。

「あちこちに色んなパーツが飛び散っている。あれじゃ犠牲者の数を数えるのも大変だ。……それと」

 レイがそっと手を差し出す。

 そこに握られたモノは、カンテラの光に照らされてかすかに金と鈍色の輝きを放った。

「!?」

 それを見たティースの目が大きく見開かれ、顔が見る見るうちに青くなる。

 その反応でレイはすぐに察したようだった。

「そうか。……落ちてた物の中じゃ一番汚れてないように見えたんで、もしかしたらと思ってな」

「それは……あいつの……」

「……」

 無言でそれを差し出すレイ。

 ティースは絶望を顔ににじませながら、受け取ったそれをカンテラの明かりに照らした。

 金の装飾が施された小さなナイフだった。

 過剰な装飾を見ればわかるようにそれは実用品ではない。刃もついていないし、思いっきり力を込めれば突き刺すぐらいはできるだろうが、実際のところは護身用にも役不足のアクセサリーだ。

「あいつのだ……あいつが昔から持ってた……!」

 間違えようもなかった。

 ティースはよく知っている。それはシーラが昔から――彼らの故郷にいたころから、ずっと身に付けていたものだったから。

「っ……!」

 あふれてくる涙に全身の力が抜け、ティースはその場に崩れ落ちた。

「……っ……うっ……!」

 間違いなく彼女はここにいたのだ。

 それがどういうことかなんて、考えなくてもわかることだった。

「……レイくん。やっぱり生存者はいないの?」

 耐えきれないという様子でアクアがそう問いかけたが、レイは鼻を鳴らした。

「あれで生きてるヤツがいるなら、あまりお近づきにはなりたくないな。……アクア、そいつを頼む。俺はもう少し状況を把握してくる」

 そう言うと、レイは再び部屋の中へ戻っていった。

「……」

 掛ける言葉もなく立ち尽くしたアクアは、黙ってティースを見つめる。

「……なんで……!」

「うん……」

 頭を振って、泣き叫ぶようにティースは言った。

「なんで……なんでこんなことが! なんでこんなことが起きるんだよっ! どうして……っ!!」

「……それが、この世界の現状だから」

 アクアは淡々とそう答えた。

 ……いや、その表情を見れば、彼女もまた辛い気持ちなのは明らかだろう。ただ、感情を爆発させようとしているティースの前で、彼女が先に感情を露わにするわけにはいかなかっただけのことだ。

「だからあたしたちみたいな存在が必要なの。全部を防ぐことは無理だけど、でも出来るだけこういうことをなくそうと努力してるわ」

「でもこんなの……こんなのひどすぎる……っ!!」

 ティースの拳が力なく、冷たい石床にうち下ろされる。

 アクアはそれでも努めて冷静に答えた。

「あたしもこれまで何回もこういう状況に接してきた。正直、そのたびにくじけそうになったわ。……でも、目を背けちゃダメだと思ったから。背けたらヤツらの思うつぼだと思ったから」

「……」

「キミも……お願いだから自暴自棄にならないで。辛いのはわかるけど――」

「でも……俺は……どうすればいいんだよ……」

「……」

 アクアを見上げたティースは、もうなにがなんだかわからないといった様子だった。

 焦点が合っていない。

 錯乱したような、放心したような、そんな状態だった。

「大げさなんかじゃない……あいつは本当に俺のすべてだった。うとまれたり、邪魔者扱いされたりもしたけど……でも! それでも俺は……っ!!」

「……ティースくん」

 そっと、アクアの体温がティースを包み込んだ。

「っ……!」

 同時に、行き場を見つけた悲しみが彼の中からあふれ出す。

「なにもなくなったんだ……夢も、目標も……俺が目指してきたものが、なにもかもなくなっちまったんだ……ッ!!」

「……」

「なぁ、アクアさん……俺はどうすればいい? どうやって生きていけばいい? 俺は……俺はどうすれば、この先を生きていける……?」

「……キミが……もし望むなら」

 抱く腕に力を込めて、アクアは答える。

「あたしたちの後を……追うのもいいわ。それがキミの傷を癒してくれるかはわからないけど、でも」

 ティースの首筋に暖かいしずくが落ちてきた。

 それがアクアの涙であることはすぐにわかった。

「そうすれば、キミのような思いをする人はきっと減っていく。彼女のような犠牲者も必ず減るはずから……だから」

「……」

 それはきっと、安っぽい同情の涙なんかじゃない。

 漠然と、朦朧とした意識の隅でティースはそんなことを感じていた。

 たぶん、彼女もこれまでにいくつもの辛い経験をして、真にティースの気持ちを理解できている。だからこそこうして一緒に泣いてくれているのだ、と。

 そしてティースはようやく、彼女の言葉の意味を考え始めた。

(……アクアさんの……この人たちの後を追う……)

 後を追う――それはつまり、デビルバスターになるということだ。

 ……ティースが失ったものはあまりにも大きい。これまでのすべても、この先の目標も、なにもかもがなくなってしまったのだから。

 そしてアクアに示されたその新しい目標は、彼が失ってしまったものを埋めるには足りなかった。犠牲者を減らすということも、自分のような思いをする人を減らすということも、すべてを埋めるにはあまりにも物足りない動機だった。

 だが……それでも。

 あるいはそれは、彼が『かろうじて』この先を生きていくための目標にはなるかもしれなかった。

 少なくとも今のティースにはそう思えた。

 アクアの言うように、傷を癒すことは不可能かもしれなくても。

(俺が、デビルバスターに――)

「……ティースくん?」

 ティースの体に力が戻ったのを感じたのか、アクアは怪訝そうにしながらもゆっくりとその体を離した。

 だが、すぐに、

「……ちょっと! ティースくん、どうするつもり!?」

 ティースが部屋へ向かって歩き出したのを見ると、驚いてそれを制止する。

「見ない方がいいわ! それこそ――!」

「大丈夫……」

 グッと拳を握り締めて、ティースはまっすぐにアクアを見つめ返した。

「……!」

 そこに灯っていた瞳の色――それはまだ複雑な悲しみの色を残していたが――それを見て、アクアは息を呑んだ。

 それは悲壮な、決意――

「見なきゃ、俺は先に進めない。……アクアさんも言っただろ。目を背けたら思うツボだって」

「そりゃそうだけど……でもそれは――」

「……それに」

 ティースは小さく微笑みを浮かべた。

「たとえどんな風になってもシーラは……あいつはあいつだから。俺は、あいつを連れて帰ってやらなきゃならない。そうでしょ?」

「……!」

 アクアは再び息を呑んだ。

「ティースくん……」

「ちゃんとお墓を作って……謝らなきゃ。守ってやれなくてゴメンって……」

「……」

 アクアは唇をギュッと結んで天井を見上げた。

 ――制止の声はもうなかった。

「だから俺は……行きます」

 そうする道しか、今のティースには残されていなかった。

 ――たぶん、現実は彼の心に壮絶な傷を残すだろう。

 それは彼自身にも良くわかっていた。だが、今の彼はそうすることでしか次の目標に向かって進めない気がしたのだ。刻みつけられた痛みを動力にしなければ、前に進むことすらできない。

 アクアもそれを理解していた。だからこそ、それ以上彼を止めることができなかった。

 ティースは歩みを進める。

 過去と訣別するために。

 そして――未来へと進むために。

「……ん?」

 途中、ティースは再び部屋から出てきたレイとはち合わせた。

「なんだ? ……おい、アクア?」

 ティースの手首をつかんでその動きを止め、レイは状況が飲み込めていない様子でアクアに問いかけた。

 アクアは答える。

「……行かせてあげて、レイくん」

「なに? ……おい、どういうことだ?」

 今度はティース本人にそう問いかける。

 そんなレイをティースはまっすぐに見つめ返して、

「俺、自分であいつの遺体を持って帰りますから。だって、俺が行かなきゃわかんないでしょ……?」

「……そりゃまた、立派な決心だな」

 レイは納得したようだったが、それでもティースの手首を離そうとはせず、付け加えるように言った。

「けど、お前が行ったところでそいつの死体を探すのは無理だろうよ」

 ティースは反論した。

「そんなことはない。どんな姿になったって、あいつのことぐらいわかるはず――」

「無理だ」

「無理じゃない!」

 決め付けるレイの言葉に、ティースがわずかに声を荒げる。

「レイくん!」

 そこにアクアの声が飛んだ。

「いいから行かせてあげなさい! 彼だって、ちゃんとそれなりの覚悟をしてるんだから!」

「……」

 レイはアクアを見て、それからため息を吐いた。

「そりゃ行かせてやる分には構わねぇが……さっきも言ったように、お前の大事な人間の死体を探すのは不可能だぞ」

「なんで……そんなの……」

 ティースはそこで言葉に詰まった。

 それは確かに、本当に原型を留めないほどにひどい状態であればわからないかもしれない。だが、まさかそこまでは、という思いもある。だからこそ、最後まで言葉にすることはできなかった。

 その様子を見てレイはもう一度息を吐くと、

「いいか、よく聞け」

「うっ……!」

 ぐいっと、まるで気合を入れるかのようにティースの胸元を引き寄せ、レイはその鋭い瞳を近付けた。

「調べた結果、この部屋には新しくとも『数日前の』死体しかない」

「……え?」

 ティースは驚愕の表情で顔を上げた。

「え? ……なにそれ? ちょっとレイくん、どういうことなの?」

 駆け寄ってきたアクアの問いかけに、レイは視線を動かしてパッとティースを離すと、

「そのままの意味だ。……お前の大事な彼女とやらは、少なくとも朝までは生きてたんだろ。だったらここにそいつの死体はない。そういうことだ」

「じゃ……じゃあ探すのが無理ってのは……」

 ティースの問いに、レイは馬鹿馬鹿しいといった表情で答える。

「無理に決まってるだろ。お前はここに無い物を作り出す超能力でも持ってるのか?」

「で、でも、その彼女がここにいたのは間違いないんじゃなかったの?」

 アクアが納得できない顔をする。

「ああ。……勘違いするなよ。別にそいつが生きてるって言ってるんじゃない。ただ、万が一があるかもしれないってことだ。……アクア、来てくれ。お前も……バラバラ死体が怖くないならついてこい」

 そう言って、レイは再び部屋の中へ姿を消す。

 呆然としたままのティースは、後ろからやってきたアクアに肩を叩かれてようやく正気を取り戻した。

「……」

 うなずいて、そのまま部屋に足を踏み入れる。

 その途端、

「……うっ」

 想像していたとはいえ、その光景はティースに目を背けさせるに充分すぎるものだった。

 まず、外にいたときの何倍にも濃縮された死臭。まるで空気の密度が違うかのように、一瞬だけ息が出来なくなった。

 カンテラの明かりに照らされた室内は、壁際に赤黒いものがひしめいている。すぐに視線を逸らしたために詳細は把握できなかったが、それが人の成れの果てであることは想像に難くない。

「ひどい……うわっ!」

 グニュッという感触に、ティースは慌てて足を退ける。

 ……足下を見る気にはなれなかった。

「壁際には死体が山になってるだろ。……けど」

 そう言って、レイは四方の壁の一角、入り口から見て左手一番奥の隅を指し示す。

「ここだけ妙に綺麗だと思わないか?」

「……隠し部屋、か」

 すぐにアクアが気づく。

「ああ。お前、こういうの得意だろ?」

「ええ、任せといて。……ティースくん。カンテラを貸してもらえる?」

「あ、はい……」

 まるで人形のような返事をして、ティースはカンテラを手渡した。

(……)

 実際、彼の心は複雑なままだった。

 完全に死んだと思っていたのに死体が見つからない。かといって生きているのかといえばその可能性は低い。

 一体どうすればいいのかわからない、その感情はまさに宙ぶらりんな状態であった。

 だから、まるで他人事のようにアクアの背中をただ見つめていた。

「……」

 最初は慎重に動き回っていたアクアだが、どうやら罠がないと確信したのか壁を探り始める。

「……これね」

 スイッチか取っ手のようなものを見つけたらしい。

 振り返って、ティースとレイを見た。

「中に潜んでるかもしれない。気を付けて」

「ああ。……おい、ティース。大丈夫か」

「あ、ああ……」

 放心状態にあったティースも、ようやく我に返って剣に手をかける。

「行くわよ」

 ガコンという音がして、どういう仕掛けかその一角の石壁が自動的に横にスライドしていった。

「……」

 剣にかけたティースの手が汗を掻く。

 扉が開くまでの時間はほんの一瞬。

 一瞬の沈黙。

 一瞬の――

「ぁ……」

 まず最初、ティースの視界に入ったのは壁の照明だった。

 たったひとつだけ備えられた照明が、10メートル四方ほどの部屋を薄暗く照らしている。

 次に視界に入ったのはその照明の下に転がる木の棒だった。まるで刃物で真っ二つにしたかのような折れ方をしている。

 そして次に視界に入ったのは――見覚えのあるブロンドの髪の後ろ姿。

 そしてそれを持つ、美しい少女の姿――

「シーラ……?」

 それが――太陽のような強い輝きを持つ瞳が、驚いたように振り返って彼を見つめていた。

「……ティース?」

 その人物は紛れもなく彼の同居人、シーラ=スノーフォールだった。

 顔も、声も、なにもかも。

 間違いない。

 間違えるはずがない。

「……」

 見つめあっていた時間はほんの2秒ほどだったはずだが、その時間はティースにとってあまりにも長く感じられた。

 そして、その沈黙の後。

「ちょっ、ちょっと……ティース! なにを……ッ!」

 気が付いたとき、ティースは無言のまま彼女に駆け寄って、その体を思いっきり抱きしめていた。

 周りのことなどまるで目に入らない。ただ、彼女が生きてそこに立っているという事実だけで、頭の中が真っ白になってしまったのだ。

「シーラ……!」

「ちょっ……ティース!」

 ティースは華奢な彼女の体をかき抱き、まるでその存在を確かめるように背中を撫で、それから髪に触れる。

 すべてに確かな質感がある。

 そのすべてが、それが現実であることをティースに教えていた。

「はっ、離しなさい、ティース――」

「シーラ……あぁ……夢じゃない……夢じゃ……ッ!」

「……お前、泣いて――」

 その瞬間、ほんの一瞬だけ。

 シーラはまるで彼に身を預けるような仕草を見せた。

 だが、すぐに我に返って、

「――じゃなくてっ! 離しなさい! ティースっ!!」

「良かった……良かったぁぁぁぁぁっ……!!」

 だが、その声はティースの耳にはこれっぽっちも届いていなかった。

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も何度も美しいブロンドの髪を撫で、しつこいくらいに感激の声を口にする。

 それは彼の気持ちとここまでの経緯を考えれば、決して大げさなものではなかっただろう。

 ただ。

「っ……!」

 シーラは顔を真っ赤にして、叫んだ。

「離しなさいって……言ってるでしょッ!!」

「……ぐぇっ!!」

 ティースのみぞおちの辺りから鈍い音が響いた。

 どうやら彼女の膝が彼の腹部にキマった音らしい。

「な……なんで……」

 お腹を押さえてうずくまるティースに、シーラは腰に手を当てて言い放つ。

「馬鹿! 状況を考えなさいっ!!」

 その叱咤の声に、ティースはようやく少しだけ我を取り戻した。

「え……状況……?」

「どうやら、その王女様の言うことが正しいらしいな」

 後からやってきたレイは皮肉っぽいことを言いながらも、険しい表情で部屋の中央に視線を投げている。その両手にはすでに半楕円型の二刀が握られていた。

 その隣に並んだアクアも手甲を鳴らして、流れるような動きで半身の姿勢を取る。

「そいつが犯人、ってことで間違いなさそうじゃない」

「……」

 無言で2人の視線を追ったティースは、そこに膝をついたひとりの男を見た。

「……なんだ……?」

 そうつぶやいた男は虚ろな目をしている。片手に剣を携えてはいたが、状況を把握していないようだった。

「どうなっている……? どうしてだ……どうしてお前が生きている……?」

 男の視線は、そこに立つシーラの姿に疑問を投げかけていた。

「お前は確か、俺がこの手でバラバラに解体してやったはずなのに……」

「……冗談でしょ」

 シーラは脇腹を押さえ、ほんのわずかに苦痛の表情を見せながらも、男に向かって侮蔑の視線を向けた。

「お前は途中から幻を見てたのよ。私が調合した、幻覚作用の薬でね」

「幻……?」

 理解できない顔をした男だったが、どうやら思い当たるフシがあったらしく、

「なんだと……まさか、あの小袋……」

 と、シーラをにらみ付ける。

「ふん……」

 シーラは怯むことなく、強い視線でまっすぐに男を見つめ返し、答えた。

「お前がいい気になって、考えもなしに思いっきり吸い込んでくれたおかげで、命拾いしたわ」

「くっ……!」

 屈辱からか、男は顔を歪ませる。

「ならば、今からでも!」

「そうは――」

「いくわけないでしょ――」

 そう言って、レイとアクアが同時に前に出ようとした、そのときだった。

「なっ……!?」

「えっ……ティースくんっ!?」

 2人が驚愕の声をあげた。

 その間を駆け抜けるようにして、ティースが男に向かって突進していったのだ。

「人間ごときが……この俺に……っ!!」

 男は口元に笑みを浮かべ、右手にした剣を振り下ろす。

 人外の体から繰り出された剣筋は、あまりに単純な軌道ながらも、達人なみの強さと速さでティースに迫った。

「……ティースッ!!」

 悲鳴のようなその声は、あるいはシーラのものだったかもしれない。

 だが、ティースの頭はすでにそんなことを考えられる状態にはなかった。

「なっ……!?」

 驚愕の声を上げたのは、男の方だ。

 人としては達人の域に迫る剣筋よりも圧倒的に速く。

 常人としては限界に迫るほどの速さで。

 ……ティースの剣は男の胸元に吸い込まれていた。

「かっ……!」

「意識が途切れる前に、懺悔しろ……!」

 ティースの口からこぼれた声は、押さえきれない怒りに充ち満ちていた。

「お前が殺めた人たちに! お前が悲しませた人たちに!! 懺悔して、償えぇぇ――ッ!!」

「ばっ……こんなっ……!」

 男はかすかな抵抗の意志を見せたが、それが無駄なあがきであることはこの場にいる誰の目から見ても明らかだった。

 稲妻のように鋭いティースの剣は、正確に男の心臓を刺し貫いていたのだ。

「がっ……!」

 男の口から赤黒い液体があふれ出し、そして首が力なくガクリとうなだれる。

「……」

 剣を引き抜くと、支えを失った男の体は新たな血を吹き出して地面に崩れ落ちた。

 それで終わりだった。

 男はもう二度と動くことはない。

「はぁ……はぁっ……」

 そしてしばらく。

 その部屋には、ティースの荒い息だけが木霊していた。

「……」

「……」

 レイとアクアは、予想だにしなかったティースの動きに意識を奪われて。そしてシーラは、今までに見たこともないような彼の激情に驚愕して。

 ――剣が乾いた音を立てて、石床に落ちる。

 沈黙が、重苦しい空気をまとっていた。

「ティー……ス……?」

 意を決した様子で、シーラが一歩彼に歩み寄る。

 脇腹に怪我をしているのか、そこをかばうようにして一歩、また一歩と近付いていく。

 ……と。

「すぅぅぅっ……」

「?」

「はぁぁぁぁっ……」

 そしてシーラが立ち止まった瞬間。

「っ……ちょっ……!!」

 彼女の体は、振り返ったティースによって改めて拘束されていた。

「シーラ……ホントに良かった……無事で……無事で良かったぁぁぁぁぁ……!」

「……ティース」

 シーラはしばらく驚いたような表情で固まっていたが、やがて、

「……」

 小さく息を吐くと、今度こそは彼を振りほどくこともなく、されるがままになっていた。

 ……その体がかすかに震えていたことは、おそらくティースにも感じ取れたことだろう。

「……」

 その様を黙って眺めていたレイの肩を、アクアが叩く。

「……良かったじゃない」

 振り返ったレイは、かすかに皮肉っぽい笑みを口元に浮かべて、

「あいつらは良かっただろうが、な」

「いいのよ。……あたしたちの仕事は、ひとりでも多くの人を救うことでしょ。そりゃ犠牲になった子たちは可哀想だけど、ここは素直に喜んでもいいんじゃないの?」

「……ま、そうかも、な」

 そんな2人の会話は、再会を喜んで抱きあう――というより片側が一方的に抱きしめている――ティースとシーラには届いていない様子だった。


 そうして長い夜は明けた。

 数多の惨劇の中に、たったひとつだけの希望を残して――。


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