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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第9話『デビルバスター試験(前編)』
69/132

その2『逢い引き』


「あれ? エルのやつ今日は寝坊か?」

 ミューティレイクの厨房に男の声が響くと、辺りは好意的な失笑の渦に包まれた。

 厨房に入ってきたのは白いコック衣装に身を包んだ青年。まだ若くおそらくは10代だろう。白い帽子に包まれた頭髪は短く少し赤みがかっている。どちらかといえば童顔だ。

 このシュー=タルトという名の青年は18歳にしてミューティレイクの菓子作り全般を任されている菓子職人である。

 少しおちゃらけて不真面目に見えるところもあるが、仕事に関しては誠実そのもので、その才能はコック長のプレスリー=ウッズワースも認めるところであった。

 そんなシューが厨房に入ってくるなり、辺りをきょろきょろ見回しながら口にしたのが冒頭のセリフなのである。

 そして、

「ちょっと、シュー?」

 そんな彼の言葉に返ってきた、不満そうな少女の声。

 聞こえたのは彼の真っ正面。ただし彼がきょろきょろやっている辺りからはほんの――いや、かなり下の方からだった。

「ボクならここにいるけど?」

 視線がゆっくりと下へ。

「おぉ、いたのか、エル! すまん、小さすぎて見えなかった!」

「……」

 見上げる少女――エルレーン=ファビアスはクルクルとした大きな瞳を今はわずかに細め、不満そうに目の前の菓子職人の少年を見つめると、

「いくらなんでもそんなに小さくないよ。相変わらず失礼だね、キミって人は」

「まぁまぁ、そう膨れるなって。ああ、ほら。アメ玉やるから」

 そんなシューの言葉に、むぅ、と不満そうな声を漏らしてはみるものの、本当に怒っていたわけでもないので結局苦笑しながらアメ玉を受け取ることにした。

 仕方ないだろう、と、彼女は自分でも思うのだ。

 先月16歳になったばかりのエルは、身長が140センチほどしかない。それほど大柄ではない目の前の少年と見比べても頭ひとつ以上は違うし、同じ屋敷にいる2つ3つ年下の少女たちと比べてもやはり5~10センチは小柄だ。

 だからキッチン・メイドである彼女の仕事場――このミューティレイクの厨房ではそのことがよく話題に上り、そのたびに彼女は不満そうな顔をしてみせるのだが、実のところそれほど気にしているわけでもない。周りの人間たちのその言葉には悪意がほとんどないのだから怒る理由もないのである。

 午前5時。そんないつもの朝の風景とともに、朝食の準備に向けて厨房が動き出す。

 キッチン・メイドの名のとおり、彼女たちの仕事は厨房や台所でのコックたちの手伝いがメインである。

「おーい、水! 水持ってきてくれー!」

「そっち片付けといてくれ! すぐ使うから速攻で!」

「邪魔だーどけどけー! ぼーっとしてっと危ねぇぞっ!」

「ふっ、料理とは過程すらも美しくなくてはならない。この私のように――」

「水! 水はどうしたぁっ!!」

 火加減の管理や洗い物、その他雑用などなど。

 屋敷では基本的に男性使用人と女性使用人で明確に命令系統が分かれているが、ここ厨房は唯一それがあいまいな場所であり、彼女たちは実質的に本来の上司であるハウス・キーパーではなく、厨房の主であるコック長の配下だと言っていい。

 それが理由なのかどうかは定かではないものの、他のハウス・メイドやパーラー・メイドたちと比べ、この屋敷におけるキッチン・メイドは使用人同士での恋愛・結婚に至る割合が高いらしかった。言われてみればなるほど、先日赤ん坊の産まれたラナという女性はキッチン・メイドであり、旦那もやはりここの使用人だ。

 エル自身はそういう話には疎い。屋敷に来てまだ3ヶ月しか経っていないということもそうだが、それ以上に彼女はそもそも人間ではなく、そういった男女間特有の愛情という文化が存在しない王魔の少女だからだ。

 まぁ、それでも。

 彼女は例外的に、ある程度は人間の恋愛感情を理解してもいるのだが――

「おぅ、エル! 忙しいとこ悪ぃ!」

「はーい」

 火の番をしていた彼女を呼んだのは、コック長のプレスリー=ウッズワースだ。プレスリーは口ひげを生やした40歳過ぎの粗野な口調の男性だが、その印象とは裏腹に料理の味付けは華麗で繊細との評価を得ている人物である。

 火の番を別のメイドに頼み、コック長の元へ向かう。

 40歳を過ぎているとは思えない細身で筋肉質のコック長は、うっすら額に汗を浮かべながら鍋と格闘しつつ、エルの方を見もせず、

「ハーブが何種類か切れそうでよ。そこの紙に書いてあっから、ちょっくら行ってもらってきてくんねぇか? わかんなきゃガードナーかマグナス辺りに聞きゃわかる。頼んだ」

 早口にそれだけ言った。

 料理台の上のメモ書きに視線を落とすと、そこには何種類かのハーブの名が書かれている。いずれも屋敷の中で栽培されているものだ。彼の言うとおり敷地内で栽培されているものばかりだから行けばすぐに手に入るだろう。

 5時半を過ぎた。これからが一番忙しくなる時間だ。

 紙を手にして足早に厨房を出ると、屋敷の中はハウス・メイドたちが忙しなく動いている。使用人以外の人々――いわゆる客人扱いの者もそろそろ目覚め始めるころだろう。

 エルはこの喧噪が好きだ。他人と関わっている自分を強く自覚できる。集団の中にいる自分を強く認識できる。彼女が人間の世界に憧れたのは、それが一番の理由だった。

 つまり彼女はなんでもいいから集団の一員となりたかったのである。

 彼女たち王魔の社会というのは基本的に『個』しか存在しない。彼女たちの社会には全個体の欲望を満たしても有り余るほどの資源の供給があり、個体が好き勝手に暮らしても社会はなんら破綻することはない。

 義務といえば子孫を絶やさぬようにという程度のもので、それとて明確に子を何人産んで育てろとかそういう決まりがあるわけでもなく、ただ年ごろになればなんとなく、面倒だけどそろそろ子供産まなきゃな、ぐらいのもので、当然、その義務を放棄する者もたくさんいた。

 結果、彼女たちの個体数は現在、少しずつ減少している。

 エルは小さいころからそんな仲間たちのあり方が正しくないものだと感じていた。それは徐々に、自分たちとは違う価値観を持つ人間への憧れとなり、やがてあるきっかけ――偶然人間界に流され、そこでティースやシーラと過ごした2年間を経て、確実なものとなった。

 別に人間の思想を持ち帰って仲間たちに伝えようなどとは思っていない。

 ただ、彼女は人間のように生きたかった。

 小さいころから憧れていた人間たちの仲間になりたかったのだ。

 その点、彼女はリィナとは少し違う。リィナの憧れは人間全体ではなく、ティースやシーラという限定的な個人に向けられたものだから。

(あれ? そういえば……)

 そんなことを考えていて、彼女はふと気が付いた。

(今日の朝会、リィナの姿が見えなかったな――)

「おはよ。エル」

 そこへタイミング良く、見知ったハウス・メイドの姿が視界に現れる。

「あ、おはよ、ジョエッタさん。リィナは?」

「ん? リィナ?」

 両手いっぱいに洗濯物を抱えた30代の恰幅のいい女性は、いつもリィナと一緒に仕事をしている女性だった。その両手の荷物もいつもはリィナが抱えているはずのものである。

 ジョエッタは不思議そうな顔をして、

「あんた、聞いてないのかい? あの子、今日からしばらく暇をもらったんだろ?」

「え? お休み?」

「ああ。あたしも急な話だったからなにかあったのかって聞いたんだけどさ。あんたも聞いてないってことは、なにか急な家庭の事情でもあったのかねぇ?」

「……」

 完全に初耳だった。

 リィナはハウス・メイドだから使用人寮の部屋もまったく別で、毎日顔を合わせたり話をする機会があるわけではない。

 だが、だからといって彼女がなにも言わずに休みを取るなんて明らかに奇妙である。

 そもそも王魔である彼女たちにはこちらの世界に帰るべき実家があるわけでもなく、知り合いが多いわけでもない。急に体調を崩したというなら別だが、他に突然休みを取らなければならない理由など思い浮かばかった。

「それとも男でもできたのかねぇ?」

 ジョエッタは笑いながらそう言った。

「ま、どっちにしろ心配はいらないよ。あの子、しっかりもんだからさ」

「うん」

 エルはひとまず笑顔を返して屋敷の外へ出た。

(どうしたんだろう、リィナ……)

 ジョエッタはああ言ったが、やはりどう考えても腑に落ちない。

 なにかあったのだろうか。

 なにか。

 ――彼女に起こりうる『なにか』といっても、思い当たるフシはそう多くない。

 少し気になったエルは、いったん仕事に集中することに決め、それがひと段落した頃合いを見計らって他のメイドたちに聞いてみることにした。

「……リィナ? そういえば昨日、夜中に長い時間部屋を出てたっけ」

「そうそう。屋敷の中に男でも出来たんじゃないって話してたんだけどね。ほら、あの子ってちょっとおとなびてるし」

 リィナと寮で同室の少女たちの話を聞いて、エルの不安はさらに強くなった。

 もちろん彼女が夜中に部屋を出た理由は、少女たちが話すような色恋沙汰ではないだろう。それがありえないことはよくわかっている。

(そういえば……)

 ピタリと足を止めた。

(今朝の食事、あの人の分がなかったな……)

 ふと頭を過ぎったのは、リィナがティースと再会したときの出来事だった。

 そのときのことは話に聞いただけだったが、ずっと頭には引っかかっていたのだ。

 リィナが唯一人魔としての姿を見せている相手、レインハルト=シュナイダーという男のこと。

「……」

 歩みを再開する。

 急な休みを取ったリィナと、いなくなったレイ。いや、レイの方は仕事で屋敷から出ていくこと自体は珍しいことでもないが、この符合はやはり気になった。

 彼に正体を知られているという認識は、リィナもティースも当然持っていた。だが、聞くところによるとレイはそのときにリィナたちを窮地から逃がしてくれたらしく、ティースがリィナやエルを連れて屋敷に戻ってきたときもなにも言わなかったらしい。

 だから大丈夫なのだと安心していたところもあるし、やぶ蛇になることを恐れたというのもある。

 しかし――いや。

 予断でしかない。リィナとてなにかまったく他の理由で休みを取ったのかもしれないのだ。

 それでも万が一を考えておくに越したことはない。

 だったら――

 昼の休憩時間。エルは食事も摂らずに別館を出た。

 実際のところかなり迷った。相談しようにもティースもシーラもいない。屋敷の人間は基本的に好人物ばかりだと思っているが、それでも気安く相談できる内容ではない。

 結局、彼女の頭に最後に浮かんだのはひとりの青年の顔だった。

 その青年についてエルはそれほど多くを知っているわけではない。周りから話を聞かされ、1、2度会ったことがあるぐらいだ。親しく話をしたことはない。

 だが、ひとめ見た瞬間に感じた強烈な印象があった。

 『裏のない』人物。――彼にその表現を使えば、おそらくほとんどの人間が呆気に取られた顔をするだろう。むしろ彼はどこか得体の知れない人物としての評価が大勢を占めているからだ。

 しかしエルはそう思わなかった。

 彼はただ思いを外に見せないだけ――だから中身が見えづらいだけで、その本質はおそらく『純粋』であると。

 それも予断ではあるが、自信はあった。さりげなく情報を引き出すだけならおそらく与し易い相手のはずだ。

 外は快晴だった。この天気が南の方まで続いているなら、ティースたちの旅もさぞ快適になっていることだろう。

 出逢いと別れを象徴する桃色の花が散り始めて、少しずつ夏の息吹が聞こえてくる。

 暖かな日射し。

 虫の声。

 緑の風。

 そして――

 その建物はそれらのすべてを拒絶するかのような金属色をしていた。

「エルレーン」

 青年――青年と呼ぶのがはばかられるほど女性的な顔をしたその青年は視線を動かさず、つぶやくように彼女の名を口にする。

 一度しか名乗っていなかったが覚えていたらしい。

 建物の中は薄暗い。金属の床、天井、壁、飾り気のない部屋の片隅に飾り気のないベッドがあり、南側に配置された窓のそばに一輪の花。

 そしてベッドの上に座ったままじっと花を見つめるのはディバーナ・ロウのデビルバスター、アルファ=クールラントだった。

「私になにか用なのか?」

 抑揚のない、一見突き放しているようにも聞こえる言葉。

 だが、エルは即座にうなずいて、

「うん。そうだよ」

「セシリアなら学園だ」

「ううん。キミに話があって来たの」

 まともに会話をするのは初めて。つながりといえば、彼の妹であるセシリア=レイルーンと仲良くしていて、その中で2、3度言葉を交わしたという程度だった。

 アルファの視線がゆっくり動いて、エルの顔を捉える。

 雪女を思わせる儚げな容姿、銀色の髪、冷たい眼差し。雪のような肌は妖精と形容されるエルよりもさらに白く、まるで彼の周りだけ時が凍っているかのような錯覚さえ覚えてしまう。

 しかし決して気後れすることなく、エルは単刀直入に問いかけた。

「レイさんがドコに行ったのか知らない?」

 アルファは無言の瞳で彼女を見つめ返す。

「レイなら今朝出掛けた。そして――」

 まるでビー玉のような瞳。澄んでいるのか、あるいは死んでいるのか――3メートル弱のこの距離では判断がつかなかった。

「出掛ける前にここに来て、そうだろう、と言っていった」

「? ……!」

 最初はなんのことかわからなかった。だが、エルはすぐにその意味を理解して、

「そうだろうって、まさか――」

「君がここに来て、私にそのことを聞くだろうと、レイがそう言っていった」

「……」

 エルは愕然とした。

 まさか。そんなことを予測するなんてできるはずが――

 いや。

 実際はそうでもないかもしれない。

 少し冷静になって考え直す。

 レイがリィナの正体を知っているなら、同時期に同じ経緯でやってきたエルの正体も当然疑っていたはずだ。そしてそこまで疑っていたなら、リィナが突然いなくなったときに彼女がどういった反応、行動をするかといった予測も決して不可能ではない。

 難しいとすれば話を持ちかける相手がアルファだったという部分だが、彼女の交際範囲や性格からある程度絞り込むことはできるだろうし、絞り込めたならその何人かの人間に同じことを言っておけばいいだけのことだ。

 あるいは7、8割の確率でアルファ、ぐらいまでは予測できたのかもしれない。

 だから、それ自体はたいした問題ではない。

 問題は、彼がなぜ、そんな言葉を残していったのかということだ。

 つまり。

 彼が伝言役としたアルファに対し。

 あるいはエルに対して。

 次にどのような行動を望んでいるのかということ――。

 エルはうなずいて問いかけた。

「他にはなにか言ってた? もちろん言ってたよね?」

「ああ」

 アルファは淡々とうなずいた。

 おそらく彼にはなんの思惑もないのだろう。リィナやエルの正体に気付いているかどうかはともかく、彼女たちに対しなんらかの意図を持っているようには見えない。

 しかし、どちらにしろ――

 気づかれぬよう、密かに深呼吸する。

 リィナの失踪にレイが絡んでいることが、これでほぼ確実になった。

 慎重にならなければ。

 言い聞かせる。

 レイがなにを考えているのか。その行動が彼個人の意志なのか、あるいは組織的な――つまりディバーナ・ロウ、ミューティレイクの意志なのかそれはわからない。

 悪いことではないと信じたい。

 強く願いながらエルはまっすぐに目の前の青年を見た。

 そして言った。

「じゃあ……聞かせて。彼が残していった言葉を」


 

 



 時と場所は移って、それから2日後。

 つまりティースたちが屋敷を出発してから4日目の朝。


 キャラバンが昨晩の宿を取ったのはネービス領の南端、南に接するグレシット領との境からいくらも離れていない場所にある小さな宿場町フォックスレアだった。

 ティースは以前ディバーナ・ロウの一員として任務で訪れたこともあり、なかなかに思い出深い街である。

 今日はキャラバンに新たな1組が合流することになっており、出発は午後からの予定になっていた。午後から数時間でネービス領最南端の町に到達し、明日にはいよいよ南に接するグレシット領へと足を踏み入れることになる。

 午前中。

 ティースを含めたミューティレイクの6人は、この余った時間をどう使おうかと協議しているところだった。

 フォックスレアの町はただの宿場町で観光町ではない。特に見るべきところがあるわけではないが、それでも普段ネービスの町から出ることのない人間にとってはなかなかに興味をそそる場所ではあるらしく。

「お買い物とかどうでしょう?」

 パメラは使用人らしく控えめながら、いつになくわくわくした様子でそう言った。

 彼女の言う買い物はどうやらなにか買いに行くというわけではなく、どんなものがあるかと店先を回る、いわゆるウィンドウショッピングのことであるらしい。

 それに対して異議を唱えたのは、ディバーナ・ロウきっての色男として知られるクリシュナである。

「でもさ、パメラ。買い物ったって、ここだったらネービスの方がよっぽど物が揃っているんじゃ――」

「どうでしょう、ティース様」

「え? 俺?」

 びっくりしてパメラを凝視し、それからちらっとクリシュナの方を見ると、なんともいえない不可解そうな顔をしていた。

 まあ当然だろう。ほとんど無視された格好なのだから。

(パメラって……もしかしてクリシュナと仲悪いのかな?)

 鈍感なティースもこの3日、4日でなんとなくここにいるメンバーの関係性というものを察し始めていたが、まぁティースとてこのクリシュナという後輩のことはまだよく知らない。

 屋敷の女の子たちに絶大な人気であることと、ひと昔前の貴族みたいな変わった格好、それとミスマッチなゴーグルが印象的な青年ではあったが、中身についてはなにひとつわからないのである。

 第一印象ではそれほど悪いイメージはなかったが――

 結局、クリシュナはなにも言わずに視線をあらぬ方向へ向けてしまった。

「えっと、俺は、そうだなぁ……」

 ティースも返答に困って視線を動かす。

 正直言って、パメラの提案にはあまり興味がなかった。どちらかというと買い物は買うべきものを買ってとっとと終わらせるというのが彼の考え方であり、つまりウィンドウショッピングなるものは彼の行動原理の中にはないのである。

 とはいえ、みんなが行くなら一緒に行こうかな、なんて相変わらず主体性のないことを考えてもいたりするわけで、結局、彼の視線は他の意見を求めて部屋の中をさまようことになった。

 そして入り口の一番に近くにいた子羊のような少女に視線を止める。

「フィリス。君はどうしたい?」

「え? あ、はい。私もパメラちゃんと一緒に行きます。ここにいてもすることもないですし……」

 確かにすることはない。

 とすると、おそらくシーラも一緒に行くのだろう……なんてことを疑いもせず考えて彼女を見ると、その視線にすぐ気付いたのか、

「私は行かないわ」

「シーラ様、今日もお勉強ですか?」

 パメラが少し残念そうに言った。

「勉強って?」

 ティースが尋ねると、パメラが困り顔で彼を見る。

「ティース様。ティース様からも言ってあげてください。シーラ様、昨晩もその前の晩もヒマさえあればずっと部屋で勉強なさっているんです」

 シーラはネービスの誇るサンタニア学園の学徒であり、その本分は学業であるからそれは本来感心すべきことである。

 だが、パメラは別に、勉強せずに遊べと言っているわけではないらしく、

「まだ先は長いですし、少しは息を抜かないと体を壊してしまいます」

 と、心配そうに言った。

 それも一理ある。ほとんどの時間を馬車に揺られているだけとはいえ、それはそれで体力を消耗するものだ。勉強するなとはもちろん言えないが、こういうときぐらいはちょっと外に出てもいいんじゃないかとティースも思った。

 だが、シーラは事も無げに、

「別に無理をしているわけではないし、それにへたに外に出るよりはずっと落ち着くのよ」

 そんなやりとりに、こそっとパーシヴァルが耳打ちしてくる。

「……シーラさんって意外と出不精なんスか?」

「ん、いや。そんなことはなかったはずだけど……」

 反射的にそう返したが、考えてみると積極的に外を歩き回る方ではないようにも思えた。

 用があれば外に出るのは当たり前だが、それ以外では家の中にいることの方が多く、出不精とまでは言えないが、どちらかといえばインドア派といえるかもしれない。

「クリシュナはどうする?」

「ん?」

 クリシュナは少し意表をつかれた顔をした。話しかけられたこと自体が意外だったのか。

「ああ、俺は――悪いけど行けない。ちょっと野暮用があって」

「パースは?」

「え? 俺? 俺は別になにも決めてないっすけど……」

「じゃあ一緒に行こうよ、パースくん」

「ん……」

 フィリスの誘いにパーシヴァルは視線をさまよわせ、少し考える顔をした。

「あ、そうね。パースさんも来てくれるとちょっと心強いかも。一応知らない街だし」

 と、パメラが後押しすると、

「まぁ……別にいいけどさ。ここにいてもやることないし」

 パーシヴァルはさっきのフィリスみたいなことを言ってうなずいた。

 どうやら決まったらしい。

「それで、ティース様はどうなさるんですか?」

「へ?」

 再度、パメラから質問される。最初に話を振られたにも関わらず返事が最後になってしまう辺り、いかにも優柔不断の彼らしい。

「えっと……」

 さて、どうしようか、と悩む。

 結局、買い物に行くのはパメラ、パーシヴァル、フィリスの3人で、シーラは宿に残って時間まで勉強、クリシュナは別口で外には出るらしい。

 みんなが買い物に行くなら付いていこうかと考えていた彼にとって、なんとも中途半端な状況である。

 シーラをひとりにするのもなんだし残るべきか、いやしかし、勉強するのであればかえって邪魔になるのかもしれない。どっちにしろ彼女は女性陣の泊まった部屋に戻って勉強するのだろうし、なら彼が残っていようといまいとなんの関係もないのかも……などと、思考を一転二転させていると、そのうち見かねてシーラが言った。

「一緒に行ったら?」

 それは気を遣ったというより、どちらかというと邪魔だから行ってくれというようなニュアンスだったかもしれない。

 さらに続けて、

「パーシヴァルが一緒なら平気だと思うけど、宿場町だし色々な人が来ているわ。虫除けは多いに越したことはないでしょう?」

 言ってることはもっともだが、後付のようにも聞こえる。

 だが、そういうことであれば、ティースとしても意地を張ってここに残るつもりはなかった。

「そっか。それじゃあ――」

 一緒に行こうかな、と、言おうとしたところへ。

 コン、コン、と。

 控えめにノックの音がし、続いて女性のものらしき声が聞こえてきた。

「すみません。こちら、ティーサイト=アマルナ様のお部屋でしょうか」

「え?」

 聞き覚えのある声だった。

 シーラがティースを見る。どうやら彼女にもその声の主が誰なのかわかったらしい。

「ネイリーン=トレビックです。あの――」

「あ、はい。ちょっと待ってください」

 パメラたちが顔を見合わせる気配を背中に感じながら、不審そうなシーラの視線を横切るようにして扉へと向かう。

(……なんで彼女が?)

 同じキャラバンとはいえ宿はそれぞれ別である。彼女がたまたまティースたちと同じ宿に泊まったというような偶然があったわけでもなく、みんなが不審に思うのは当然だしそれはティースも同様であった。

「おはようございます、ティースさん」

 扉を開けると、ネイリーンは微笑みながら言った。

「それで、支度の方はできまして?」

「へ?」

 ティースは目を丸くした。

「支度って、なにが……?」

「あら?」

 ネイリーンは少し不安そうな顔をした。その視線が一度部屋の中をさまよい、再びティースの顔で止まる。

「ティースさん。あの日の約束、もしかして忘れてしまいましたか?」

「え? 約束?」

 背中にいくつかの視線が集まるのを感じながら、ティースは少し前の記憶をたどってみた。

 そういえばそんなことがあったようななかったような――いや。

 いやいや。

「あ、そっか。約束」

 そう。言われてようやく思い出した。

 ティースは初めて彼女に会ったあの日、別れぎわに約束をしたのだ。

「ティース? どうしたの?」

 不審そうなシーラの声に振り返って、

「うん。実は俺、前にこの町に来たことあってさ。その話をしたら彼女が町を案内してほしいって言って、それで……」

「案内する約束をしてたの?」

 シーラは少し眉をひそめた。

 その表情にティースはたじろいでしまって、

「あ、いや。その、ここで半日余裕があるのはわかっていたし、それでその……」

「私がどうしてもとお願いしました。あの、ご迷惑だったでしょうか?」

 と、ネイリーンが助け船を出してくれる。

「……」

 シーラは彼女に視線を止め、しばらくの間無言で見つめた。友好的ではない。だが、敵意があるというわけでもない。

 ただ、彼女の意図を探ろうとするかのような視線だった。

 確かに。顔を合わせて間もない男性に――それが弟の顔見知りであるとはいえ、いきなり2人きりでの案内を頼むというのはあまり常識的ではない。

 いつまでも黙っているシーラに、ネイリーンは一度ティースの方を見てから、改めて彼女の方に向き直って、

「あの、もしご迷惑だったのであれば――」

「いいえ」

 だがシーラはすぐに頭を振る。

「その男もちょうど暇を持て余していたようです。どうぞ、好きなように使ってください。……パメラ。そういうことのようだから、フィリスとパーシヴァルと3人で行ってらっしゃい」

 あっさりとそう言った。

 ティースは少し眉をひそめて、

「使ってくれって、おい。そんな人を物みたいにさ――」

「もっとも芸のない男ですから、虫除けぐらいしか使い道がないと思いますけれど」

 冷たくそう言い放つシーラは、抗議する隙さえも与えてはくれないようだった。

 ……結局、ティースは簡単に身支度を整えてネイリーンとともに部屋を出て、それを追うようにクリシュナも出掛け、部屋に残ったのはシーラを含め4人。

「い、いいんですか、シーラ様」

 ずっと成り行きを見守っていたパメラが、ちょっと困り顔でシーラに問いかけた。

「いいって、なにが?」

「いえ、その……さっきの方のことです」

 シーラはなにごともなかったかのように彼女を見て、

「約束したのなら果たすべきよ。あいつにしてはずいぶんと軽はずみな約束をしたものだとは思うけれど」

「でも……」

 なにか思うところがあるのか、パメラは少しもじもじしながら言い淀んでいる。

「なに? どうしても連れていきたかったの? ……まさかと思うけれど、あなた、あの男のこと――」

 パメラは真っ赤になって手を振った。

「ち、違います! ティース様は立派な方で尊敬してますけど、それだけで、そういうことはぜんぜんありません!」

「ごめんなさい。冗談よ」

 その慌てぶりを見てシーラは少しおかしそうにしながら、

「でも、だったらなにも問題ないでしょう?」

「はぁ……」

 パメラは拍子抜けしたような声を漏らし、それ以上はなにも言わず、意見を求めるように後ろの2人を見た。

 その2人――パーシヴァルとフィリスも、パメラが言いたかったことはなんとなくわかっていたようだ。

 この目の前の完璧すぎる美少女と、なんだか頼りないノッポの青年が屋敷にやってきて1年弱。屋敷の大半はまだこの2人の本当の関係性を正確に計りきれずにいた。

 特異な容姿を持つ少女絡みであるがゆえに、色々安っぽいうわさ話もあふれているが、いくつかの与太話は論外としても、彼らが実は恋愛関係にあるんじゃないかという話は、それなりに真実味のある話として口の端に上ってくる。

 フィリスなどは、普段のシーラの態度からそれはないんじゃないかと思っているが、パメラはどちらかというとその可能性を信じているクチであった。

 だからパメラは聞いたのだ。

 特にあのネイリーンという女性は、シーラと同じ――つまりティースに触れることができる女性だったから。

 しかし。

「そろそろ行かないと時間がなくなるわ。ここを出たら……そうね。ヴィスカイン領までこういう機会はないはずよ」

 シーラはそう言って席を立った。どうやら部屋に戻って勉強を始めるらしい。

 やはりまったく気にも留めていない。

 パメラはわからなくなった。

 あのネイリーンという女性がティースに興味を持っているのは間違いない。でなければ、いくら観光に興味があったとしても、あえて2人きりで出歩こうとは思わないだろう。

 もしもパメラがシーラの立場で、ティースに恋愛感情を抱いていたとするなら、それは気にならないはずがない。

 以前彼女が慕っていた男性も好青年で、ティースよりもよほど女性に縁のある人物だったから、これは実体験に基づいた信頼性の高い推測である。

(シーラ様は気にしない性格なのかな……それともティース様を信頼しているのかな)

 そのどちらでもないという可能性もある。

 パメラは部屋を出ていくシーラを見送りながらため息を吐き、心でそっとつぶやくのだった。

(ティース様とシーラ様、とてもお似合いなのに……)

 しかし残念ながら、それは極めて少数派の意見であった。






 ――カチリ。

 奇妙な穴に指輪を填める。 

 指輪はその小箱の鍵になっている。中には黒い表紙の本が入っていた。

 窓の外からおっとりとしたフィリスの声が聞こえる。あの3人もどうやら出掛けたようだ。

 シーラは扉の施錠を目で確認して、再び黒い本に向き直りそこに手をかけた。

 乾いた紙のこすれる音。

 ページをひとつひとつめくっていく。

 そうしていると、ふと脳裏に浮かぶ。先ほどティースを迎えに来た女性の姿。

 たおやかで、いかにも女性らしい人物だ、と、シーラは思っていた。

 ページをめくる。

 左手に小さな辞書。右手にペンを持つ。

 読み解く。

 しばらくはその作業に没頭する。 

 そうしていて、ふと――誕生日のことを思い出した。

 ……といってもつい先日、赤い月夜の晩にティースと2人でワインを飲んだ日のことではない。

 彼女が故郷を飛び出した、3年前の誕生日のことでもなかった。

 彼女が思い出したのは、そのさらに1年前。それも彼女自身の誕生日ではなく、ティースの誕生日のことだ。

 その出来事が誕生日だったことに意味はない。それは偶然といってもいいだろう。

 しかし。

 それは忘れられない出来事。忘れられない記憶だった。

 ページをめくる。

 おそらく彼は忘れているだろう。

 しかし彼女は覚えている。

 あのときから、彼と彼女の関係は圧倒的にややこしくなってしまったのだ。

 いや――『あのときから』というのはやや正確さに欠けるだろうか。正しくは『あのときの出来事があったから』と言うべきで、ややこしくなったのはもう少し後のことだ。

 それがなければ話は簡単だった。

 それがなければもっと早くに――彼女は、彼と別れることができたはずなのだ。

 ページをめくる。

 いや、それでも悪いことばかりではない。

 それがあったから彼と彼女は今も一緒にいて、一緒にいたからこそ彼はデビルバスターへの道を志すことになり、それがあったからこそリィナたちと再会できた。ミューティレイクの人々と出会うこともできた。

 悪いことばかりではない。

 悪いのは。

 悪いのは――

 ……ハッとする。

 右手が知らず知らずに髪飾りをもてあそんでいたことに気付き、少し憂鬱になった。

 手を戻してページをめくる。そして、そもそも自分はどうしてこの旅に付いてきたのだったか、と、考えた。

 依頼されたのは出発の4日前のことだったろうか。学業に支障がないからというのは本当のことだが、もちろん断ることもできた。

 しかし。

 たぶん、ここがひとつの区切りだと、心のどこかで感じていたのだろう。

 このデビルバスター試験。

 受かるかどうかはわからない。もしも受かれば彼はもはや見習いではない。

 受かれば――

 それがなにを意味するのか。

 簡単だ。

 彼は『デビルバスター』になる。

 今まで『デビルバスター見習い』だったそれは、彼を構成する要素のいくつかを後ろに追いやって『デビルバスター』として上書きされるのだ。

 それは別に悪いことではない。当たり前のことだ。

 ただ、区切りである。

 いい加減に区切らなくてはならない。

 区切るためには――やはり調べなければならない。

 頭を振って思考を明晰にする。

 再び熱中した。

 ――そうしてどれくらい時間が経っただろうか。

 廊下を歩く複数の足音に我に返った。

 時計を見るといつの間にか3時間以上が経っている。出発までは1時間を切っていた。

 思いのほか没頭していたようで、だとすると、あの足音はパメラたちが戻ってきたものだろう。

 出発の準備はあらかじめ整えてある。荷物の大半は隣の部屋に集めてあった。

 もう少ししたら隣に顔を出そうと決めて、再び解読作業を開始する。

 そうして……さらに20分ほど経っただろうか。

 突然、廊下をバタバタと駆ける音が聞こえてきた。

 そして、

「シーラ様」

 コンコンと、心なしか早いリズムのノック。

「パメラ?」

 時間を見ると出発まであと30分を切っている。

 本を箱に戻し鍵をかけ、シーラはゆっくりと立ち上がって扉に向かった。

「どうしたの?」

 扉の向こうのパメラは少し慌てて見えた。

「あ、いえ……」

 そういってパメラはシーラごしに部屋の中を見回すと、再び視線を戻して、

「シーラ様。ティース様はこちらにお戻りになられてないですか?」

「え?」

 思わず振り返って部屋を見回したが、もちろんこっちにいるはずもない。

「まだ戻ってないの?」

「はい……確か1時間前には戻るとおっしゃっていたと思うのですが、まだ」

「……」

 どこで道草を食っているのだろうか。まさか出立時刻を忘れているということはないだろうし、この街に時間を忘れて見とれてしまうようなものもないだろうに。

 少し考えて、シーラはすぐに決断した。

「パメラ、あなたは出発の準備をしてて。私は少しその辺りを見てくるわ」

「あっ、シーラ様――」

 そのまま部屋を出る。

「うわっと! あ、シーラさん」

 出たところでパーシヴァルとぶつかりそうになった。

「ティースさんを探しに行くんスか? じゃあ俺も――」

「いえ、いいわ。すぐ近くを見てくるだけだから」

 もちろん町中を探し回るだけの時間はない。その辺りを見回ったところでたいした意味がないことは承知しているが、帰りぎわ、その辺で話し込んでいるという可能性もないわけではない。

 こんな大事な旅の最中に――、と思わなくもなかったが、その一方、あの男のことだからなにかやっかいなことに巻き込まれたんじゃないだろうか、とも思う。

 だいたいあの男は人が好すぎるのだ。

 トラブルはゴメンだと言いながら見知らぬ人間が困っていると見て見ぬ振りをすることができないし、押しにも弱い。ネイリーンの頼みを断れなかったのもどうせそれが一番の理由だろうし、お願いされれば時間ぎりぎりまで案内を続けてしまうことだろう。

 宿を出て、そこに横たわる大通りの両方を眺め、あのとぼけた男の顔を探してみる。

 見当たらない。背が高いのでいればすぐにわかるはずだ。

 少しそこで粘ってみようとも思ったが、宿の裏にも通りがあるのを思い出し、そちらに回ってみることにした。

 人間3人分ぐらいの幅の路地を抜けて裏の通りへ。表に比べれば少ないものの、人影はちらほら見える。

 3軒ほど隣の店先では、路上に土産物らしきものを広げている若い男がいた。ところどころ閉まっている店は、近くの旅館に泊まる者をターゲットにした居酒屋だろうか。

 その居酒屋の向こうに――

(……いた)

 見覚えのある後ろ姿が見えた。

 その長身でなで肩の後ろ姿は何年も見続けてきたものだ。見間違えるはずもない。

 しかし。

(なにをボーっとしてるのかしら……)

 ティースはこちらに背を向ける形で、ひとりぽつんと突っ立っていた。あるいはそこでネイリーンと別れ、それを見送っているのかとも思ったが、その先にそれらしき人影はない。

 なんにしても――みんな心配して待っているというのに。

 ため息ひとつ。

 ゆっくりと歩み寄っていく。

「ティース。お前、そこで一体なにを――」

 言おうとした言葉は尻すぼみになった。

「――?」

 最初は彼が右腕にタオルのようなものを巻いているのかと思った。

 しかしそれはよく見てみると人の手だった。

 風が吹く。

 見慣れた後ろ姿の陰から、濃黒の髪がなびいて見えた。

 シーラの位置から全身が見えなかったのは、ティースが相手よりかなり長身であったことよりも、その2人の距離が限りなく近かったことが原因だろう。 

 抱き合っている。

 はっきりとは断言できないが、彼女の位置からはそんな感じに見えた。そうでなかったとしても、かなり接近しているのは確かだろう。

「……」

 近づくでもなく、離れるでもなく、ましてや隠れるでもなく。シーラは動きを止め、そこでしばらくその光景を眺めていた。

 5、10……30秒ぐらいはそうしていただろうか。

 2人が離れる。

 ようやくネイリーンの全身がシーラの視界に映った。向こうからは死角になっているようで、彼らがシーラに気付いた様子はない。

 なにごとか言って、ネイリーンが去っていく。ティースはしばらく動かずにそれを見送っていた。

 そのまま、やはり30秒ぐらいそうしていただろうか。

 ようやくティースがきびすを返して、シーラのほうにやってきた。

 そして気付く。

「え……あ、シーラ?」

 予想に反し、彼の態度はいたって普通だった。見られていたとは思わなかったのだろうか。

「どうしたんだ、こんなところで――あ」

 そう言いかけてから、ようやく可能性に気付いたのかハッとして、

「み、見てたのか、今の……」

「見えただけよ」

 即答すると、ティースは慌てたようだった。

 身振り手振りを加えて弁解しようとする。

「ち、違うんだ、今のは。今のはただ、目にゴミが入って取れないっていうから俺が――」

「……ちょっと。みっともないからやめて」

 この男は慌てるとすぐ声が大きくなる。傍から見れば、浮気の言い訳をしてるようにしか見えないだろう。

 ……いや、実際、それほどかけ離れてもいないだろうか。

 そう考えてシーラは密かに苦笑した。

 彼が慌てた理由はわかる。おそらく彼は以前、マーセル=バレットという女性との絡みで、シーラが機嫌を損ねたことを覚えているのだ。だから今回も怒られると思ったのだろう。

 もちろんそんなことはない。あのときのことは彼女にとって思い出したくないほどの失態の記憶だ。彼女はその件を反省してすでに軌道修正を終えていたし、今回に関しては特に怒る理由もない。

「そんなことより行くわよ。もうみんな待ってるわ」

 きびすを返して右足を一歩、前に出す。

 そしてピタリ、とその動きを止めた。

「ねえ……ティース」

「?」

 振り返ると、彼は突っ立ったままだった。

「お前――その体質、どうしても治したい?」

「へ?」

 あっけにとられた顔。

 だが、すぐに我に返って、

「アレルギーのことか? そりゃ治したいに決まってるだろ。そんな当たり前のこと聞かないでくれよ」

「それもそうね。……じゃあ質問を変えるわ」

 シーラは意識的に目を細めた。

 威圧の意志を込める。

 逃げられないように。

 嘘をつけないように、と。

「今、好きな女の子はいる?」

「……へ?」

 いつもの2倍ぐらい間抜けな顔になる。

 別にそんな変な話ではないはずだった。パメラにはいたし、パーシヴァルにもいる。そういうのに縁遠そうなフィリスにもいると聞かされた。ほかにも、そういう話はいくつも耳に入ってくる。たぶん、あの年ごろならそういう相手がいて当然なのだろう。

 もちろんその中には目の前の男も含まれている。含まれているはずだ。

 だが、ティースは不審そうに、ほんの少し顔を赤くしながらも答えた。

「い、いないよ」

「リィナは?」

 ティースはさらに赤くなった。

「そ、それは前も言ったけど――そりゃいい子だし、大事な友達だけど、でもそんなんじゃ……」

「そう」

 ごまかしているわけではないのだろう。可能性はあったとしても、まだはっきり自覚しているわけではない――そんな段階だろうか。

「誰かを好きになったことはないの?」

「……」

 その辺りでティースは怪訝そうな顔になった。

「いったいどうしたんだ? そんな質問ばっかり。お前らしくもない」

「らしくない? そうかしら……」

 そうかもしれない。いや、ここしばらくはそう思われて仕方ないような態度を取ってきたし、野次馬的な意味でいうとあまり興味がないのも確かだ。

「でも、私にだって好きな人ぐらいいるのよ」

 そう言うと、ティースは目を丸くした。

「え……あ、でも、そうだよな。だってお前、オーウェンくんと付き合って――」

「オーウェンは違うわ」

「え?」

 少し迷った。

 だが、偶然とはいえ彼らがここまで顔を合わせることになった以上、隠しておく必要もないだろうと考え、シーラは話を続ける。

「彼は恋人のフリをしてくれているだけよ。虫除けにね」

 案の定、ティースの目はさらにまん丸になった。

「ふ、フリ? フリって――でもオーウェンくんはどう見たってお前のこと……」

「それも知ってるわ」

 オーウェンもすべて理解している。

 ――2年前の夏のことだったろうか。

 言い出したのは彼の方で、普通に告白され、おそらくそれまでの彼女の人生の上でもっとも丁寧にその申し出を断った後のことだ。

 卒業まで恋人のフリをする。オーウェンはそうすることで自分のことをもっとよく知ってもらいたい、それでダメなら諦める、と申し出たのである。

 馬鹿げた話だった。普通に考えてありえない話だし、もちろん最初は断った。

 だが、最終的にはその話を受けることにしたのである。

 理由は簡単だ。

 そのとき、彼女は思ったのだ。

 彼の言うとおり、もしかしたら自分の気が変わることもあるかもしれない、と。

「そういうことよ。さあ、私のことを話したのだから、お前も正直に答えなさい」

 気持ちを切り替えてもう一度。

「誰かを好きになったことはないの?」

「……」

 目が泳ぐ。と言ってもごまかそうとしているわけではないのだろう。

 本気で考えているのだ。

「……ないよ」

「……」

「ほ、ホントだってば。そりゃホントに小さいころの話をすれば……いたけどさ」

 そういって視線を横に向ける。

 別に意識したわけではないだろうが、彼が顔を向けたのは太陽の昇る方角――彼らの故郷のある方向だった。

 シーラはそれを察して、

「誰? ルナリア?」

 故郷にいたころの、彼らより少し年上の女性の名を出すと、ティースは小さく首を振った。

「ルナ姉さんもまだいないころだよ。奥様――だから」

「……母様?」

 彼女の記憶にはない女性だ。とすると、本当に小さい――彼が4つとか5つぐらいときの話で、結局のところ男女の恋慕とは違うものだろう。

 少し拍子抜けした。

 おそらく嘘を言っているわけではないのだろう。本当にいないのか、あるいは彼自身に自覚がないかのどちらかだ。

「そう……」

 しかし、たとえそうだとしても。

 いずれは誰かを好きになるだろう。

 いずれは恋愛をして結婚するのだろう。なんとなく――彼は情熱的な大恋愛をするタイプのように思えた。

 そう。きっと……厄介なあの体質さえなければ。

「……わかったわ。行きましょう」

 戸惑うティースをしり目に、シーラはそう言って歩き出した。

 その右手は――無意識に髪飾りをもてあそんでいた。


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