その1『不条理』
不条理だ。
と、彼はいつもそう思うのだ。
たとえば手の中に立方体の賽があったと仮定しよう。
6面であるから1回振って1の目が出る確率は6分の1だ。2回振って2回とも1の目が出る確率は36分の1である。3回振って3回とも……となれば216分の1。
その辺りの計算――いわゆる数学というその理論の詳細は無学な彼にはよくわからない。ただ、説明されればなるほどと思う程度の脳みそはあるし、その理論が理解できなかったにしても、1回や2回程度ならともかく、3回、4回と立て続けに出る確率が高くないことだけはわかる。
そう。確率なのだ。
ティーサイト=アマルナは食後のぼんやりとした頭の中で、さっきからずっとそのことを考えているのである。
魔を狩る者――デビルバスターの見習いである彼が、デビルバスター試験のために本拠地であるネービスのミューティレイク邸を離れたのは、この日の太陽が顔を出して3時間ぐらい後のことだ。
今は太陽が空の真ん中を通過してからちょうど1時間ぐらい。とすると、屋敷を出発して5時間ほど経ったことになるだろうか。
試験の行われるヴォルテスト領――帝都ヴォルテストまでは約20日ほどの行程だからまだまだ先は長い。
その5時間を費やした一行がどこまで進んだのかというと、実はたった今、ようやくネービスの街を出たところだった。
道先案内をするかのように、1匹の鷹が青空を飛んだ。
ガラガラガラガラ。
造りのしっかりした馬車は、こうして街道を走っている分には揺れが小さい。乗り物酔いしやすいティースにとっては喜ばしいことのはずであったが、それすらも今は仕組まれたことのような気がしていた。
――具合が悪ければ余計なことを考える余裕もなくなるのに、と。
ネービスの大貴族ミューティレイク家の紋章が刻まれたその中型の馬車には、6人用の比較的ゆったりとした座席が向かい合うように配置されている。6つの席にはティースを含めてちょうど6人の人間が座っており、彼が座っているのは進行方向と逆に向いた座席のちょうど真ん中で、外の景色を眺めるには最悪の席だった。
しかし、ネービスの街からすぐ南の都市ルナジェールへと続く街道は彼にとって見慣れた道だ。無理に見たい景色でもないし、どうしても見たければ誰かに場所を変わってもらえばいい。それはたいした問題ではない。
いや、違う。
ティースは首を振って満腹感がもたらす頭のもやを振り払った。
それこそが問題なのだ。
景色は確かにどうでもいい。
問題は、気まずい雰囲気になったときに視線をごまかせる場所がない、ということなのである。
右を向けばそこには、ともにデビルバスター試験を受ける仲間、パーシヴァル=ラッセルという2歳と3ヶ月ほど年下の少年がいる。
左を向けばそこには、この旅の護衛役であり、デビルバスター見習いとしては後輩にあたるクリシュナ=ガブリエルという10ヶ月年下の青年がいる。
別にそんな彼らとの仲が悪いわけではない。そうではないのだが、気まずくなったからと言って彼らの方に視線を逸らしてしまえば、向こうは怪訝に思うだろう。まさかじっと眺めているわけにもいかないし、まさか後ろを向くわけにもいくまい。そうなれば完全に変な人である。
さて。
馬車に乗る6人は性別で分けるとちょうど3対3である。とすると、ティースの両脇にいるのがどちらも男性なのだから、彼の視界の中心を占める向かい側の3人はもちろん全員女性となる。
向かって左がパメラ=レーヴィット、15歳5ヶ月。
正面にいるのがフィリス=ディクター、16歳5ヶ月。
そして右にいるのがシーラ=スノーフォール、昨日16歳の誕生日を迎えたばかり。
19歳となって2ヶ月ほどのティースから見れば、いずれも3つか4つほど年下の少女であり、そうやって改めて考えてみると、この6人の中では彼が1番の年長者であった。
年齢順でいうとティース、クリシュナ、パーシヴァルの男性陣が上に来て、その後にフィリス、シーラ、パメラと続く。一番年上のティースでさえ19歳になったばかり、一番下のパメラが15歳だから、ややもするとネービスの裕福な家の子女が小旅行を楽しんでいるようにも見えるかもしれない。
それは年齢のせいばかりではなく。なにしろティースをはじめ、クリシュナもパーシヴァルも、およそ戦う人間のようには見えないのだ。
ティースは言わずとしれた、ボーっとして頼りなさげな、とりあえず人だけは良さそうという外見だし、クリシュナは額の黄色いゴーグルこそ異色を放っているが、基本的には気品があって理知的な美青年、パーシヴァルはどう見ても誠実で裏表のなさそうな美少年だ。
顔の造形でいうとティースだけが平凡なのだが、まぁ、ネービスの名門学園に通う由緒正しい家柄の仲良し3人組、のようにも見えなくもない。
一方の女性陣はというと、これはひとことで足りる。
どこぞの高貴な家柄の御息女と侍女2人、である。
……いや、実際のところフィリスは屋敷で兼業侍女(?)をやっているし、パメラは侍女でこそないが使用人のひとりである。だからこの場合、事実と乖離しているのは『御息女』の扱いだけで、それも彼女ほどの美貌の持ち主であればやむを得まい。
そして。
ティースにとって一番の問題は言わずとしれた、その高貴な家柄の御息女に例えられたシーラの動向なのである。いや、動向というか表情というか――まぁ要するに機嫌なのだ。
機嫌が良くないのである。
なんだか最近こんなのばっかだなと思って記憶の糸をたどってみると、そう。つい最近、彼女の通うサンタニア学園に臨時講師として赴いたときもこんな感じで始まったのではなかったか。
もちろん彼女の機嫌が悪いという点のみを取ってそう思ったわけではない。そんなことを言っていたら彼の場合は毎日がデジャビュだ。
最大の理由は、不機嫌の元となった原因が似ていたことだ。いや、似ていたというより繰り返しだったと言った方が正しいのかもしれない。
違うところといえば、前回は彼に少なからず非があって謝り通すしかなかった――謝ることができたのだが、今回は彼にはなんの非もないために謝ることすらできないということである。
最悪だ。
だからそれは『不幸な確率』であり、やはり『不条理』なのである。
「不思議だよね。シーラ様と似てるわけでもないのに……」
と、フィリスが言った。
子羊を思わせるふわふわの髪を持つ少女は、屋敷にいるといつも年上の女性たちにいじられてしまう役回りであるが、この中の女性陣では最年長ということもあって今日は積極的に会話をリードしようと頑張っている。
「でも、フィリス」
そう言ったのはミューティレイク家のハウス・メイドの少女、パメラだ。
「もともとそういう例外はあったんだし、私は特別不思議なことだとは思わないな」
そばかすと短い2本の三つ編みがいかにも素朴な印象で、年齢相応の幼いところもあるが、基本は真面目でしっかり者――ティースの認識はそんなところで、それはおそらく実態とほぼ相違ない。
「あ、うん、私もそう思うけど、でも実際にはずっとシーラ様だけだったから、えぇっと……パースくんはどう思う?」
「え?」
パーシヴァルはとぼけた顔をした。それから少々困った顔でチラッと隣を見ると、
「本人に聞けばいいじゃないか。ねぇ、ティースさん」
「へ?」
急に振られてティースは間抜けな声を発した。
ちなみに、現在ここで語られている話題は実のところ『確率』も『不条理』も関係ない。いや、ある意味確かに不条理ではあるのだが、彼がさっきまで呪っていた不幸とはまったく別の話。
まったく別の不幸だ。
「いや、どうかなぁ。自分のことながらなにがなにやら。そりゃ、その、元々女の子と話すのは得意じゃない――緊張しちゃうタチだったけど……こうなる前は普通だったし、こうして話している分にはなんの問題もないしなぁ」
言わずもがな。彼の特殊体質――妙齢の女性に触れると気絶してしまうという女性アレルギーについての話題だった。
この体質そのものも不幸なら、その秘密がすでに屋敷の大勢の知るところとなっているのもまた不幸なことなのであるが、こっちの不幸についてはすでに慣れっこであまり不幸であるとも感じなくなっていたりもする。
そんなティースに対し、パメラは少しだけ年相応の好奇心をのぞかせた。
「ダメだと知ってるからみなさん触れないようにしてるのだと思いますけど、でも、意外と大丈夫な人が他にもいるのかもしれませんよ? たとえば私も――あ、いえ、別に試してみたいと思っているわけではないのですが」
「いや、たぶんダメだよ。セシルぐらいの歳ならまだわからないけど、君はどこからどう見たって立派な女の子だから」
ティースがそう言うと、パメラは少し恥ずかしそうな顔をした。彼がその反応に気付いていたなら自らの言葉の意味を考えた後、少なからず顔を赤くして『深い意味はない』などと弁解するのだろうが、彼は幸い気付かなかった。
ティースは考えていたのだ。
この特殊体質については彼自身わからないことだらけである。女性にだけ反応することは確かで、それも厳密にいえば歳の近い女性であり、赤ん坊だとかお婆さんが平気なことから、自身が女性を意識してしまう相手にのみ反応するのではないか、というようなことを一応は推測できる。
とすると、たとえ女性であってもそれを意識しない相手なら大丈夫ということになるのだが、それもどうやらおかしい。
例外的存在――シーラがいるためである。
チラッと彼女を盗み見た。
彼女は会話に参加せず、いまだ不機嫌なのか、あるいはなにか考え込んでいるのか、黙って外を眺めていた。
その横顔は微動だにしなければ彫刻と錯覚してしまうほどに整っている。あまりに整いすぎていて現実味がないほどだ。
考えようによっては――極めて原始的な女性としての魅力――性的魅力という点でいうと、彼女はそれほど優れているわけではないのかもしれない。
彼女を見る者にほんのわずかでも神秘を崇める心があったなら、彼らは意図するしないに関わらず、自らの邪な想いに自戒の鎖を巻き付けざるを得なくなるだろう。
それほどに彼女の美しさは神がかっている。
しかしながら。だからといって彼女を女性でないと思いこむのはいくらなんでも難しい。たとえ彼女が侵しがたい神々しさをその身に備えていたとしても、それは男神でなければ両性具有神でもない、紛うことなく女神のそれである。
彼女は女性だ。彼女はどうあがいても彼女だ。
それは当然、ティース自身の認識とも大きく離れてはいない。不可抗力で顔が近付けば頭に血が上るし、心臓は馬鹿みたいに早鐘を打つ。
いつかの温泉街での出来事以来それは顕著になっていて、アレルギーの症状でなくとも距離が詰まれば平常心は保てなくなる。彼はそのたびに自己嫌悪におちいって、不届者と、自分の頭をぽかりと殴りつけるのだから。
にも関わらず。
触れて気絶することだけはないのだ。
頭が真っ白になったとしても、それは極めて正常な範囲の反応で、つまりティースは彼女が女性であることを認識した上で触れて、それにも関わらず彼の体は彼女を拒絶しないのである。
だから、この体質はそれほど単純なものではない。
ティースはそう認識していた。
とにかく、これまで――極度の緊張状態だったりという例外を除くと、アレルギーが起きなかったのは50、60歳を過ぎたようなお婆さんや、あるいは10歳にも満たない幼い少女、そして今、視界の右隅で外を眺めている美しい少女しかいなかったのである。
いなかった、のだ。
つまり――そう。単純なものではなく、理解できないものでもあるからこそ、未知の部分が眠っていたとしてもそれは決して不思議なことではなくて――
「でもそれじゃあ――」
パメラが言った。
「『あの人』は、どうして大丈夫だったんでしょう」
一瞬だけシーラの視線が動き、横目でティースの顔を捉えた。だが、それはすぐ戻って彫刻になる。
不機嫌なのか、考え事をしているのか。
――いや、両方だろう。
不機嫌なのは確かだが、彼女もまた不思議に思っているのだ。
彼女以外で初めて、平常状態のティースがアレルギー反応を起こさなかった、その女性のことが。
少し、時間を巻き戻すことにしよう。
その女性のことと、冒頭でティースがぼやいた『不幸な確率』の出来事は、ほぼ同時に発生したものなのである――
キャラバン協会というのはひとことで言って、旅の安全を斡旋する組織である。
街道が整備され、治安部隊がその安全を確保すべく懸命に働いているとはいえ、街から街へ移動するには相応の危険が伴う。盗賊による金品目当ての襲撃はもちろんのこと、獣魔などの襲撃もそう珍しいことではなく、この広い大陸の中、そのすべてを公的部隊の力によって防止することはほぼ不可能だ。
自分の身は自分で守る。その目的を効率よく達成するためには、同じ目的地を目指す者たちが一緒に移動するのがもっとも手っ取り早い。
至極単純な話である。
キャラバン制度は暦が大陸歴となる以前から大陸各地で自然発生的に存在していたものであり、暦が代わった後、その有効性に着目し、長距離移動の利便性や安全性向上を目的として大陸全土に設立されたのがキャラバン協会だ。
その役割は簡単にいうと、仲介と調整と斡旋である。
同じ方向に向かう者たち(基本的には登録のある協会員からの申請による)を集め、日程などを調整し、護衛を生業とする傭兵等の斡旋を行う。
こういった共通の経費についてはそれぞれの人数や規模、目的地までの距離などを計算して按分し出資する。だから最終目的地が一緒でなくとも、途中まで一緒であればキャラバンには参加できるし、途中で参加したり、道中で2つや3つに分岐したりする場合もある。
さらに大事なのは、このキャラバンに参加するには協会員としての登録が必要であるため、その身分が保障されるということだろう。キャラバンメンバーによる盗難や強盗などのリスクが低いのだ。
ミューティレイク家はもちろんこのキャラバン協会に登録している。帝都ヴォルテストまでの移動に際し、この制度を利用することになったのも自然なことだろう。
そして――
「え?」
「……え?」
この短く、しかし予測外の出来事に対する驚きの表現としては充分すぎるニュアンスをもった男女のつぶやきこそが、冒頭でティースが嘆いた『不幸な確率』の正体であった。
「シーラさん? それに……ティース、先生?」
キャラバン協会ネービス支部の玄関付近。
何枚かの書類を手に外から入ってきた少年の姿に、建物の中にいたティースとシーラは同時にその動きを止めたのだ。
そしてとっさに思いだしたのが確率の話。
たぶんこの偶然は、1の目が3回連続で出る確率よりも低いんじゃないかと、ティースはそう思ったのである。
「君は、オーウェン……くん」
昼も近くなったころ。
必要な手続きをすべて終え、キャラバン協会ネービス支部の建物から出てきたティースたちの前に現れたのは、2人にとって非常に見知った少年、オーウェン=トレビックだったのである。
ご存じのとおり、彼はシーラと同じサンタニア学園薬草学科に通う学徒で、ティースが特別講師を勤めた際には彼の生徒でもあったし、そしてなによりシーラとは恋人同士の間柄だった。
それがどれだけ予想の範囲外の出来事だったか。
それはティースの隣にいるシーラでさえ、驚きに立ち止まったまま二の句が継げないでいる姿からも充分に推察できるだろう。
普通に考えて、彼がこんなところにいるはずがないのだ。この時間であれば学園に行っているはずだというのはもちろんのこと、ここにいるのは、ヴォルテスト方面に向けて1時間後に出発を予定しているキャラバンのメンバーだけだったのだから。
驚きのまま見つめ合う3人の中で、もっとも早くそこから脱却したのはオーウェンだった。
「……えぇと。あの、なんていうか」
見開いていた目をゆっくりと元に戻し、温厚そうな目元をかすかに緩め、手にした書類を顔の前でパタパタと揺らすと、先んじるように言った。
「実は俺、先生とシーラさんはたぶん、最初から知り合いなんだろうなって思ってたんです。わざわざ明かすことでもないと思うし、だから、その」
「え……あ、えっと」
ティースはまだこの不測の事態に対応できないでいる。
「だから気にしないでください。あ、いや、なんか俺、勝手によくわからないこと言ってますね……」
オーウェンは少し笑って頭をかいた。それから横に視線を動かす。
「シーラさん。しばらく休学するって、こういうことだったんだ。病気にでもなったのかと心配したよ」
「……ええ」
シーラの方は平常を取り戻しつつあった。
「仕事なの。詳しいことは聞かないでもらえると助かるわ」
「聞かないよ。ずっとそうしてきたし」
「ありがとう」
シーラはいつもの調子でそう言ったが、どことなく後ろめたさの残る口振りだった。
「ところでオーウェン、あなた――」
「オーウェンくん。なんでこんなところに……?」
「……」
ティースの横顔に冷たい視線が刺さった。
ただひとり平常心を取り戻せていない彼の仕草は明らかに挙動不審で、これでは無事に収まるものも収まらなくなってしまう。
だが、オーウェンは気にした風もなく屈託なく答えた。
「家の用事なんです。ウチは美術商なんで遠方との取引があると、普段は親父が行くんですけど、今回はちょっと事情があって」
「え……美術商? でも君、薬草の勉強してるんじゃ?」
「あ、いえ、俺は単なる付き添いです。みんな俺が後を継ぐと勘違いしてるんですけど、後を継ぐのは――」
と。
「オーウェン? どうしたの?」
そんな彼の後ろから別の声がした。
オーウェンは振り返って、
「ああ、姉さん」
「……姉さん?」
ティースとシーラの視線が同時に注目する。
逆光を浴びて建物に入ってきたのは、華奢な体躯の女性だった。
あと一歩間違えたら不健康、というほどに細く白い肌。それと対比的に濃黒のまつ毛が非常に印象的で、大きな瞳のせいかティースより年下のように見えるが、オーウェンの姉ということであればおそらく彼と同じか年上だろう。
袖と服が別々になった珍しいデザインのワンピースを身に纏い、袖と同じ黒のハイソックスを履いている。
背は170センチ近くあるように見えたが、どうやらかかとの高い靴を履いているらしい。実際は160センチそこそこというところか。
オーウェンが再び向き直る。
「姉さん、この2人は――シーラさんのことは話したことあったよね? 隣の人はティースさん。少し前まで俺の受けてた講義の講師をしてくれてた人」
「この方がシーラさん……聞いたとおりの綺麗な人」
女性は少しまぶしそうに目を細め、それからニッコリと微笑み頭を下げた。
「ネイリーン=トレビックといいます」
いかにも女性っぽい女性、だとティースは思った。色っぽいというわけではなく、少女のように華奢で可憐なところが思わず守ってあげたくなるようなタイプである。
シーラが軽く礼をした。
「はじめまして。シーラ=スノーフォールです」
「えっと、ティーサイト=アマルナです。よろしく……」
釣られて挨拶はしたもののどこか上の空だ。というのは別に彼女――ネイリーンに見とれていたわけではなく、いまだ最初の衝撃から立ち直りきっていなかったためである。
すっかり平常を取り戻したシーラが、そんな彼に呆れた視線を向けたのも仕方あるまい。
「ということは、あなたはお姉さんの付き添いで、つまり同行者ということね? ……奇遇ね、本当に」
最後はなかば諦めたような口調だった。
不本意なのは当然の話で、彼女は学園とそれ以外の日常を3年以上も切り離して生活してきたのだ。それが望みもしないのにここにきて一気に暴露されつつある。
しかし――前回はともかく、今回に関しては誰が悪いわけでもない。ただ、あまりにも運が悪かっただけで、聡明な彼女をもってしてもティースと同じように不幸な確率を呪うしか手段はなかった。
「じゃあ俺はちょっと手続きしてくるから。姉さんはそこで待ってて」
「ええ。頼むわね、オーウェン」
オーウェンが建物の奥に入っていくのを見送って、ネイリーンは入り口付近の椅子にふわりと腰を下ろした。
つ……とあげた視線がティースを捉える。
そして微笑んだ。
「恥ずかしい話ですが、ひとりではなにもできないもので。弟にいつもこうして世話を焼いてもらってます」
「あ、はぁ……」
生返事のまま、ようやく現在の状況を把握しきったティースはちらっと隣の少女を見た。
憮然とした表情だ。……それはそうだろう。しかし何度も言うように、今回に限ってはティースが悪いわけではない。完全に不可抗力だ。どうしようもない。
ネイリーンはその微妙な空気を察した様子もなく会話を続けた。
「ティースさん、と呼んでいいのかしら。ティースさんはディバーナ・ロウの方なんですか?」
「……え?」
完全に虚を突かれた。
なぜわかったのか、と、問いかける前に彼女の方から答える。
「先ほど、六剣の紋章の馬車から出てくるのが目に入ったもので。キャラバンの終点はヴォルテストですし、今月はデビルバスター試験のある月です。それならばもしやと」
「あ、ああ……」
6つの剣を組み合わせた形の紋章がミューティレイク家のものであることは当たり前に知られている。そのミューティレイクがディバーナ・ロウに対して支援を行っていることもそれなりに知られているから、なるほど、彼女がそう推測できたことは不思議でもなんでもなかった。
ネイリーンはティースの表情からそれが正解だと悟ったらしい。
「では心強いですね。旅はやはり危険が付き物ですから」
「いや、といっても俺は、そんなに頼りにされるほどのものじゃ……」
本心である。だが、現実にいえば彼とパーシヴァル、それにクリシュナの3人は護衛役としても充分すぎる戦力だろう。共に行く人間からしてみればこの上なく心強い。
す……と、ネイリーンは視線を横に動かした。
「とすると、シーラさんもディバーナ・ロウの? 弟の学友だと聞いていましたけれど……」
「副業です。3月で卒業できなかったものですから、新たに学費を稼ぐ必要ができてしまって」
シーラは淀みなく答えた。
よくこうも自然に嘘を吐けるものだ、と、ティースなどは感心してしまう。
「副業というと――」
言いかけてネイリーンはシーラとティースを見比べる。
そしてクスッと笑った。
「ごめんなさい。なんだか逆に見えますね」
「逆?」
シーラが怪訝な顔をすると、
「いえ。まるでティースさんの方が付き添いのようで」
言って、ネイリーンはおかしそうにクスクス笑い出してしまった。
それはよくよく考えると結構失礼な物言いだったかもしれないが、確かに、シーラの隣にいればどんな人間でも従者のように見えてしまうのかもしれない。
もちろんティースは気を悪くしたりはしなかった。
……ブゥゥゥン、と、大きな羽虫の飛ぶ音に、ティースは視線を動かす。
いつの間にか外がにぎやかになっていた。
開け放たれた建物の入り口から外を見ると、同じキャラバンの同行者たちがどんどん集まっている。商人風の男たちばかりだが、もともとキャラバン協会の会員は商人が圧倒的に多いからそれも当然だろう。積み荷やスケジュールの確認を行っている様子だ。
ここに集まるのは8組、護衛として雇った5人の傭兵を加えて総勢50名あまりと聞いている。もちろんそれはあくまでここを出発する段階の人数であり、この先大きな街に立ち寄るたびに増減はあるだろうが、そこまで詳しいことは聞かされていなかった。
なんとなしに眺めていると、その中にひときわ頑丈そうな造りの馬車が止まっていることに気付く。
(……なんだ、あれ?)
目を引いた。
通常、人が乗ることを前提として作られた馬車には窓がついている。当然だ。そうでなければ中に乗る人間は外も見られずに昼も夜も暗闇の中で過ごすことになってしまう。
それが当たり前である。
しかし。
(なんだろ、あの馬車……)
黒っぽい色の無骨で無機質な馬車には、どう見ても窓らしきものがついていなかった。ティースが見ているのは右側だけだから、あるいは左側についているのかもしれないが、なんとなくそうは思えない。
入り口とおぼしきところには大きなかんぬきがついていた。
「……」
馬車の傍らに立っているのは屈強そうな2人の男。護衛のようだが、共同で雇った傭兵とは別だ。おそらく馬車の持ち主が個人的に雇ったものだろう。
怪訝に思いながら眺めていると、その護衛に男がひとり歩み寄っていくのが見えた。
どこか鋭利な刃物を思わせる細長い目の男。30歳前後だろうか。髪は短く背は高いが体は細めで、短めの袖からのぞく腕もそれほど筋肉質ではない。
護衛仲間という感じではないし、おそらくあの黒い馬車の所有者か関係者だろうか。
なにごとか話しているが、もちろん声は聞こえなかった。
「ティース?」
怪訝そうなシーラの呼びかけに我に返る。
「あ、いや。なんでもないよ」
奇妙な馬車のことはすぐに頭の隅に消えた。
振り返ったところで、オーウェンが受付から戻ってくる。
「お待たせ、姉さん」
「ありがと。ごめんなさいね、面倒なこと全部任せてしまって」
「オーウェン。あなたたちはどこまで?」
「終点――ヴォルテストまでだけど、シーラさんは?」
「同じよ。そう。最後まで一緒なのね」
まあ、こうなってしまえばどこまでだろうとたいして変わらない、というなかば投げやりな感じの言葉だった。
だが、それとは裏腹にオーウェンは笑顔で、
「シーラさんはどうかわからないけど、俺は素直に嬉しいよ。ヴォルテストまで3週間、顔を合わせる機会があるのとないのとじゃ天と地ほど違うからね」
「あら」
驚いたような声を出したのはネイリーンだった。
「オーウェン、あなた、彼女とはそういう関係なの?」
「ああ、いや違う、姉さん。俺の一方的な思い込みだよ」
(……?)
ティースはその言葉に引っかかって、チラッと隣のシーラを見る。
「なに?」
「あ、いや」
盗み見たつもりが、あっさり気付かれてしまった。慌てて目を逸らす。
だが、やはり気になった。
(……恋人同士なのに『一方的』なんて)
そういえば、と。やはり似たようなことを言っていた彼女の友人――ディアナ=リーのことを思い出す。
ティースは逸らした視線で、今度はオーウェンの顔を捉えた。
(……うぅん)
ひとめで見て、好青年である。決して派手ではないし特別優雅でもないが、穏やかで和やかな印象。そういう意味ではティースと雰囲気が似ているが、彼と違うのはハンサムで優柔不断でもなさそうなところか。……要するにベクトルは同じだが、判定は圧倒的大差の敗北である。
(シーラのやつ、この子のどこが気に入らないんだろう)
疑問だ。
いや、本当に気に入らなければ彼女のことだ、まるで路傍の石ころを相手にするかのように視線すらも合わせないに違いない。そんな彼女が、実態はどうであれ公式に恋人として認める存在なのだから、もちろん好意は持っているのだろう。
しかし、彼女の友人である少女の言葉を借りれば、彼らはちっとも恋人らしくないのであり、先ほどの発言からすると当事者であるオーウェンにも自覚があるらしい。
ティースが疑問に思うのは、なぜ、好意を持っていて、なおかつどう見ても非の打ちどころのない青年に対し、恋人であるとしながらも恋人らしいことをなにひとつしようとしないのだろうか、と、そういうことなのである。
その気がないなら付き合わなければいいだけなのだ。まさかムリヤリ付き合わされているというわけでもないだろう。
(……なんて。女の子と付き合ったこともない俺が偉そうに考えることでもないか)
もしかしたら、そういうカップルも世の中には意外とたくさんいるのかもしれない、なんて、ひとまずはそういう結論で収めることにした。
「じゃあ、シーラさん。ティース先生――っていうのも変ですね。ティースさんも、また後ほど」
「ああ、また……」
相変わらずの生返事である。
「姉さん。行こうか」
声をかけてオーウェンが外に出ていく。
「ええ」
ネイリーンはゆっくりと彼の後を追う――追おうとして、ふと思い直したようにティースの眼前で立ち止まると、正面に向き直ってそっと手を差し出した。
「旅の間、よろしくお願いしますね」
「あ……」
自分に向けてまっすぐに差し出された手。
焦った。――もちろん女性アレルギーである彼はその手を握り返すことはできない。
と。
「よろしく」
「……」
隣のシーラが差し出した手に、ネイリーンは戸惑ったような顔でティースを見た。だが、すぐ思い直したように体の向きを変え彼女と握手を交わす。
(……サンキュ、シーラ)
思わぬ助け船だった。
「私たちも行きましょう。みんな待ってるわ」
握手を終えると、シーラは間髪入れずそういってきびすを返した。
ふわり、と、目の前で金糸の髪が踊る。
「あ、ああ。そうだな」
ティースも慌ててその後を追う。
追おうとして、
「……」
立ち止まってネイリーンを振り返った。
……こういうところが彼の悪いところである。止むに止まれぬ事情があったとはいえ握手を無視してしまったのだから、せめてなにかひとことフォローを入れなくては、と考えてしまったのだ。
ティースは少しどもりながらも言った。
「あ、えっと……長旅は慣れてないもんで、色々迷惑をかけたりするかもしれないけど……こちらこそよろしく」
「……」
ネイリーンは少し不思議そうに見てきたが、やがてニコリと微笑んで、
「ええ。旅は道連れと言いますから」
そう言った。
すでに握手を交わすほどの距離ではなく、そのまま別れれば心に引っかかるものもなく万事解決である。
……で、あったのだが。
ブゥゥゥゥン、と。
「?」
大きな羽虫が飛んだ。
先ほど外で飛んでいた虫だろう。固い殻を持つ体長7、8センチほどの黒い虫が顔の横を通り抜け、飛んでいった。
「うわ」
あまりにも顔に近かったので、ティースは少し顔を背けた。……いくら頼りないだの情けないだの散々な言われようであろうとも彼は一応男である。小さいころには虫を素手で捕まえたこともあるし、その程度で過剰に驚くようなことはない。
が、しかし――
「え……きゃっ」
ネイリーンは過剰に驚いた。華奢で可憐な彼女らしく控えめな悲鳴で、甲虫を避けようとした体はバランスを崩し、その手は支えを求め宙をさまよって――
「――へ?」
放っておけば転倒していたであろう彼女に、思わず手を差し伸べてしまったのは彼の性だろう。別に自分の体質を忘れてしまったわけではなく、ただそれを考えるより先に手が出てしまったというだけのことだ。
その瞬間、しまった、と考えはしたものの、だからといって今さら手を引っ込めることができるわけでもない。
こうなった以上は受け止めて、なるべく早く離れるしかない、と。
しかし。
その思惑は、想像もしていなかった方向に大きく外れることとなった。
先ほどの『へ?』は、そういう意味のつぶやきだったのである。
「ご、ごめんなさい。私、昆虫がものすごく苦手で……」
支える腕をつかんだまま、ネイリーンは少し青ざめた顔でティースを見上げていた。
1秒、2秒……5秒、10秒……
「……」
ティースはほうけた顔でネイリーンを見つめる。
おかしい。
すでに接触から10秒以上は経っている。にもかかわらず、彼の意識はまだ現実に留まっていた。
留まっているどころか、いたって正常だ。
具合が悪くなることも、気が遠くなることもなく――
「……ティースさん?」
ネイリーンは不思議そうに。
「……」
ティースは驚きに目を見開いたまま。
2人はそれからたっぷり30秒ほど――外から彼を呼ぶシーラの声が聞こえてくるまで、無言で見つめ合っていたのだった。
「あの、怒らないでくださいね。実は私、ちょっと浮き浮きしてるんです」
「?」
髪にそっとクシを通しながらシーラは振り返った。
1日目の目的地、ネービスのすぐ南にあるルナジェールという街はネービス10大都市のうちのひとつである。その昔は国防の要所として、現在は交易の要所として変わらずに栄えている街だ。
初日の宿は2階建て、3人部屋だが小さな湯浴場のついた部屋だった。旅の宿として一般人が泊まるものとしてはかなり良質のものである。
宿に入って色々と仕事――シーラとフィリスは同行者の健康チェックが今回の任務のひとつである――を終えた後、フィリスとパメラに勧められるまま、シーラは一番最初に湯浴みを済ませた。今はパメラが使っていて、最年長のはずのフィリスが遠慮して最後である。
シーラはベッドの上にちょこんと腰掛けたフィリスに聞き返した。
「どうしたの、突然?」
正直なところ、シーラと彼女は特に仲良しというわけではない。別に嫌っているわけではないが、接点がないので会話したこともそんなにないのだ。またフィリスはフィリスでどことなくシーラのことを怖がっているようなフシもあった。
「あ、いえ。というのもですね」
改めて見ると、やはり子羊のような印象の少女である。身長だってシーラはもちろんのこと、さらに年下のパメラより小さくおそらく150センチほどしかない。以降、逆転することはおそらくないだろう。
「私、お屋敷ではずっとひとり部屋なんです。ですから、その、こうやって同年代の方と一緒の夜という機会がなかなかなくて……」
「ああ、あなたは侍女だものね」
シーラは納得してうなずく。
同じ使用人でも役割によってやはり格の違いはある。パメラたちハウス・メイドは女性使用人寮での3人部屋だが、当主であるファナ=ミューティレイクの3人の侍女たちはすべて屋敷別館のひとり部屋で過ごしている。つまりシーラやティースといった客人扱いの者たちに近い待遇なのだ。
「でも、あなたは確か第一隊の隊員でもあるのよね? その任務でこういうことはよくあるんじゃないの?」
「あ、ええ。確かにそうなんですけど、でも、ファントムの皆さんは年上の方ばかりですので、どうしても……」
「話しにくい?」
フィリスは慌てて手を振って、
「いえ! 皆さんとても優しくて、その、それはそれでとても楽しいんですけど、なんというか……」
もじもじしているフィリスを見て、シーラは小さくうなずく。
「なるほどね。わかるわ」
「わ、わかりますか?」
「ええ」
ただでさえ控えめな彼女のことだ。いくら仲が良くても目上の人間には話しづらいようなこともあるのだろう。
髪を梳かしていた櫛をおいてゆっくりと自分のベッドへ移動する。シーラのベッドは入り口から一番遠い窓側、フィリスは一番入り口に近い方だ。
ベッドに腰を下ろすと、その動きをフィリスがずっと追っていたようだ。
「どうしたの?」
「シーラ様、髪を下ろすと……その、ますますおとなっぽく見えます」
「そう?」
それはあまり言われたことがなかった。……当然か。人前で髪を下ろすことなんてほとんどない。
手にした髪飾りをサイドテーブルの上に置く。
外は真っ暗だ。少し風が強い。雲も出てきたようだ。
明日は雨だろうか、なんてことを考えていると、フィリスがやはり遠慮がちに言った。
「シーラ様は、パメラちゃんと仲がいいんですよね」
「そうね。屋敷の中ではよく話す方よ」
「じゃあ、エレンちゃんとかヴァレンシアさんのことも知ってます?」
「ああ……パメラの同室の子だって聞いたことあるし、顔ぐらいはわかるけれど、それ以上のことは知らないわ」
「そ、そうですか」
少しの間、沈黙。
「あ、シーラ様はもう赤ちゃん見ましたか?」
「赤ちゃん?」
「はい。ラナさんの――あ、ラナ=パークスさんっていうキッチンの方の……えっと、その、知りませんか?」
「ラナ……ええ、わからないわ。でも赤ん坊の話は確か――前にセシルがそんなこと言ってた気がするわね。先月の話だったかしら?」
「あ、それです! ラナさんの赤ちゃんなんです! ラナさんは住み込みの方で、旦那さんもお屋敷の方なので、家族寮に行くと赤ちゃんに会えるんですよ!」
シーラはじっとフィリスを見つめて、
「なるほどね」
「あ……」
フィリスは少し落ち込んだ顔をした。
「すみません。ぜんぜん興味なかったですか……?」
だが、シーラは笑みを零した。
「そんなことないわ。戻ったらぜひ会ってみたい。そのときは一緒に行ってもらえる?」
「……」
ホッと安堵の息を吐くフィリス。
また少し沈黙。
話題を探そうとしているのがわかる。
そしてフィリスは考えた挙げ句、先ほどまでとは少し違う表情で上目遣いにシーラを見ると、言った。
「シーラ様は……好きな男の人っていますか?」
「え?」
少し意表を突かれた。が、すぐに取りつくろって、
「どうしたの、急に?」
「あ、いえ……」
フィリスは自分から赤くなった。
「同い年ぐらいの子だとやっぱりみんなそういう話をするんです。でも私、そういう機会ってあまりないですし……それに、その、シーラ様って少し特別な感じですし、どうなのかなってふと……ご、ごめんなさい。聞かなかったことにしてください」
「……ということは、あなたにはいるのね?」
ズルいなと自覚しながらも話の焦点をすり替える。
「もしかしてパーシヴァルのこと?」
「え……」
フィリスはさらに顔を真っ赤にしたが、どうやらそれは外れだったようだ。
「パ、パースくんはそんなんじゃないです」
「そうなの? とても仲が良さそうに見えるけれど」
シーラがそう言ってじっと見つめると、フィリスは膝の上で指先をもてあそばせながら少し頬を緩ませて答えた。
「パースくんはお屋敷の同期なんです。私が来て1ヶ月後ぐらいだったかな……優しいから色々助けてくれます」
「そう」
確かにそういうものと恋愛感情は必ずしもイコールではない。脈がまったくない場合もあるし、別の感情で覆われて気付かない場合もある。
「じゃあ……」
シーラはそこまで言って止めた。自分のことを話すつもりがないのにあまり突っ込んで聞き出すのもフェアではないと思ったからだ。
ただ、フィリスは耳まで真っ赤になっている。もしかすると、聞いて欲しくて話を切り出したのかもしれない。
(……叶わぬ恋、かしらね)
それを見てなんとなく、そう思った。
彼女の性格もあるのかもしれないが、そこには最初から諦めているような雰囲気も感じ取れた。だからこそ、せめて口の堅い誰かに聞いて欲しいと思ったのだろうか。
「……様が……」
「? ……」
ほとんど聞き取れない声だった。だが、口の動きでシーラは察した。
少し考えた後、
「……そう」
と、だけ言った。
彼女が口にしたのはディバーナ・ロウのデビルバスターの名だ。シーラにとってはどちらかというと嫌いなタイプの人間だったが、ポテンシャルが高いのは間違いないし、理解不能ということはない。
しかしそれに対してなんらかの助言をすることは不可能だった。しようとすればきっと、否定的な言葉が口をついてしまうに違いないのだから。
「あの……それで、シーラ様は……?」
おずおずとフィリスが視線をあげる。今度は少し好奇心の色が混じっている。
「あ、あの、まさか――」
「心配ないわ。あなたと同じということはないから」
そういうとフィリスはホッと息を吐く。
同時にパメラがちょうど湯浴場から出てきて、話はそこで打ち切りとなった。フィリスもしつこく聞いてくるようなことはなく。
(……なるほどね)
消灯して布団に身を沈める。
シーラはまぶたの裏にその男の顔を思い浮かべた。
――わからないことはない。切れ者でどこかアウトローな雰囲気を漂わせた男。単純にそれをカッコイイと思う場合もあるだろうし、あるいはシーラの知らない一面を知っているのかもしれない。
が、しかし。
(あの男は――)
好きになれない。
実のところ、その男は彼女にとって命の恩人でもある。ティースがディバーナ・ロウに参加する前の事件で救われたことがある。そのときのいきさつを考えても、決して悪人ではないのだろう。
ただ、それでも好きにはなれない。軟派者であるとかそういう表面的な理由ではなく、もっと根本的な部分。
その理由を考えて、すぐに思い当たった。
信用できない、のだ。
常になにか別のことを考えている。常に表面とは別の考えがあって、見た目の行動とは別に裏の目的がある。
そんな風に思えて仕方なかったのだ。
あるいは偏見なのかもしれない。少なくとも彼は見た目以上のなにかをたくさん秘めていて、その本質を自分が完璧に見抜けているともシーラは思っていなかったから。
ただ、現時点においては、それが彼に対するシーラの正直な印象だった。
視線を横に動かす。
――窓の外は夜闇。
そうして彼女たちの1日目は暮れていった。
「――よぉ、悪いな、こんな時間に呼びつけたりして」
リィナ=クライストは戸惑っていた。
外は夜闇の中。屋敷は静まり返っている。
それもそのはず。今は夜の11時。ほとんどの人間が寝静まっている時間。他人を部屋に呼びつけるにはあまりにも非常識な時間だ。
「しかしま、こいつはあんたにとってもあんま他の連中に聞かれたくない話だ。俺なりに気を遣ったってわけさ」
男は薄く笑う。
そして言った。
「だろ? 水の王女様。水の王魔でクライストならグレイグ族だ。リィナ。リィナ=グレイグ=クライストが、正式なフルネームか」
「――」
それは驚くべきことではなかった。
この男には一度本当の姿を見られていたし、気づかれていないと考えるほうが不自然だろう。
だが、なぜ、今になって?
彼女がこの屋敷に来てからもう3ヶ月以上が経っている。まるで――ティースとシーラの2人が屋敷からいなくなるのを見計らっていたかのようなタイミングだ。
リィナにはその意図がまるでつかめなかった。
「わかりません。レインハルト様。私になんの用です?」
そう言ったリィナに対し、レインハルト=シュナイダーは頭に巻いたバンダナの上から軽く頭をかいて、ふっと笑みを漏らした。
「とりあえずなにを言われてもしらを切り通す。どちらにしろ客観的な証拠はどこにもないんだから、って感じで示し合わせてたんだろ。ティースのヤツと」
「……」
まったくの図星だ。
「けど、甘いな。確かに朧による人化を見極めるのは不可能だというが、それはあくまで通常の方法ではって話だ」
「……」
リィナはなにも言わなかった。彼女とてこの男が切れ者であることはわかっている。へたなことを言えばそこから突き崩されかねない。
レイはそれすらも予測通りといった顔で続けた。
「確認する方法は皆無じゃない。非人道的な方法でなら、いくらでもある。たとえば、朧ってのは必ず契約を交わす人間が必要になる。その人間が誰だかわかっていれば話は簡単だ。なにせ、その人間が死ねば自動的に解けるんだからな」
ざわ、と。
リィナの黒髪が夜闇に溶け込んだ。
「あなたは……」
レイは笑いながら両手を前に出して、
「まあ待て、早合点するな。前にも言ったが、あんたみたいな若くて綺麗な女を敵に回すのは趣味じゃないんだ」
「……」
言葉通り殺気はない。正体を暴いて始末しようと考えている、というわけではないらしい。
そんなリィナの反応を――心の中の動きすらも見透かした目で、レイは少し楽しそうに眺めていた。
「エルレーン=ファビアスもそうか? とすると、身請けをしたのはさしずめ、あの――人間の方の王女様ってとこか」
「……」
「ま、そっちはあくまで推測でしかないがな。……さて」
ゆっくりと椅子から立ち上がる。
口元にはいつもの酷薄な笑みを浮かべたまま。
「話は簡単だ、リィナ=クライスト。ただ――そう」
近付いてくる男をリィナは微動だにせず見据えた。
「悪役風に言えば、本当のことをバラされたくなきゃ、俺の言うとおりにしろ、って、ただそれだけのことだ」
「……」
リィナは動かなかった。
ただ――逃げる術がないことだけはハッキリとしていた。