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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第8話『スクール・パニック』
66/132

幕間『美しき紅月夜の下で』


 さぁっと春風が緑の芝生に波を立て、桜色の花がはらはらと舞う雅やかな月夜の晩。

 静かに流れる丑三つの夜、そびえ立つ1本の大木の下にひとつの影があった。

「今宵はいい月だな……」

 大木の根元に背を預け、見上げる。

「こんな夜は心が震える。ついつい声を張り上げたくなる」

 どこか遠くで犬の遠吠えが聞こえた。

 そこへもうひとつの声。

「確かに。いい風だ」

 姿は見えない。声の方向は彼の頭上……木の葉の生い茂る枝の上にいるようだった。

「翼を広げればあの月にさえ手が届きそうな気がするよ。たとえそれが叶わぬ幻想だとわかってはいても、そう思えて仕方ない」

 男は意外そうに頭上の女を見上げる。

「あんたでもそんな途方もないことを考えたりするのか?」

 女は答えた。

「私にとって夜の闇はあまりにも深すぎる。だからこそ夜空に輝くあの月は、私の永遠の憧れだ」

「なるほど。わかる気もする」

 男はゆっくりと目を閉じた。耳を立てて風の薫りを感じ取る。

 女は首を斜め上に向け、夜空に浮かぶ月を見つめた。

 今宵の月は赤みがかっている。

 まるで幻想世界のような、神秘の夜。

「ところでセレス。つかぬ事を尋ねるが……」

 そして、男は言ったのだった。

「『ダイエット』というのは、いったいどういう意味なんだ?」

「……ダイエット?」




「決めたよ、マルス。私、今日からダイエットするから」

 目が醒めた。耳をピクピクと動かして現状を確認する。

 いつの間にかウトウトしていたらしい。昨日、悩みすぎて夜更かしをしたせいだろうか。

『ダイエット?』

 顔を上げて頭上を見ると、彼の主がなにやら決意に満ちた表情をしていた。

 そう。それだ。

 マルスはその意味がわからずに昨晩ずっと悩んでいたのだ。

『ダイエットとやらは確か昨日からだったはずでは……』

「あ、今からじゃなくて、今日の午後から、ね。今朝はね。シューさんからとってもおいしいマドレーヌをいただいたの。だから今日の午後からね」

 うれしそうな主の笑顔は、まるで薄紅の花弁を優しく運ぶ春の風のようだ。

 同時に鼻の奥をくすぐる甘い香り。

『はあ』

 これまでの主の発言とそのときの状況から推察するに、ダイエットというのはこの甘いお菓子と関係があり、このお菓子を食べるのがそのダイエットという行動に反することのようだ、と、そこまでは理解していた。

 そして今、主は自分の決意に反する行動を取ろうとしているらしい。

 主は決して意志の弱い人間ではない。しかし甘いお菓子のこととなると話が別だった。

 ここは自分が止めるべきなのだろうか。

 しかしそこまで口を挟んでいいものか。

 などと、マルスが真剣に悩んでいると、 

「おー、セシルちゃーん。ちわーっす」

 やってきたのはひとりの少女。その服装から、この屋敷の使用人であることはすぐにわかる。

「あ、こんにちは、ヴァレンシアさん。休憩時間ですか?」

 ヴァレンシア=キッチンというその少女はマルスもよく知っていた。もちろん主――セシリアの敵ではない。

「そそ。つかセシルちゃん、ずいぶんとおいしそうなの持ってんじゃん? それ、どしたの?」

「あ、これは先ほどシューさんにいただきました。シューさんの作るお菓子はいつもおいしくて100点満点なのです。ヴァレンシアさんもおひとついかがですか?」

「……またか。あのロリコンめ」

「?」

「あ、なんでもないなんでもないよーっつか、純真無垢なセシルちゃんはあんまあの男に近付かない方がいいよー変な病気移されるからねー」

「え? 病気? シューさん病気なんですか?」

「そらもう。病気っつーかあいつ自身が病原体。バイ菌そのもの」

「あ。えっとー……」

 苦笑するセシリア。

 マルスは表面上は興味なさそうに、ただ耳だけをそばだてて2人の会話を聞いていた。

 話の中身はだいたい理解できる。シューというのは今朝方セシリアと話していた若い使用人のことで、彼女の手にしている甘いお菓子を作る人間のことだ。

 と、そこへ、

「あ、いた! ヴァレンシア!」

 もうひとりやってきた使用人の少女。やはり敵ではない。

「おぃっす、パメラー。どーしたのさ、そんなに慌てて」

「どーしたじゃないよ、もう。あ、セシル様。すみません、騒がせてしまって」

 パメラという少女がペコリと頭を下げる。

「いえいえ。それよりなにかあったのでしょうか?」

「あ、いえ、そんなたいしたことでは――ちょっとヴァレンシア! あなた、またエレンになにかイタズラしたんでしょ!」

 腰に手を当てたパメラがヴァレンシアに詰め寄った。

「えぇぇ、身に覚えがないなぁ。うーん、あれかぁ。それともあっちかなぁ……」

「覚えあるんじゃない! もう!」

「ありゃしまった。このヴァレンシアさんともあろう者が」

「わざとらしいんだってば、もぅっ! ほら! さっさと行って謝ってくる!」

「えぇぇ」

「えぇぇ、じゃない!」

 ヴァレンシアはさらに渋って、

「でもなにから謝ればいいのかわかんないしー」

「全部謝んなさいっ!」

 ズルズルとパメラに引っ張られていくヴァレンシア。

 去り際、ペコッともう一度頭を下げるパメラ。

 なんとも騒々しい。

 だが、セシリアはそんな2人のやり取りを楽しそうに眺めていた。

「じゃーまたねー、セシルちゃーん」

「はい。またよろしくです」

 ニッコリと見送るセシリア。

 マルスはそれを見上げて気持ちが暖かくなる。

 ……主の幸せは自分の幸せでもある。だからマルスは、彼女を幸せにしてくれるあの2人のことが嫌いではない。というより、この屋敷の人間はほとんど嫌いではなかった。

 つまりマルスの主である少女は、屋敷の人間にとても大事にされているのだ。

「笑ったらエレンさんに悪いかな。でも本当はすごく仲がいいんだよ。ね、マルスもわかるでしょ?」

『イオタとガンマのようなものでしょうか』

 いつもセシリアの気を引こうと喧嘩している2匹のことを思い浮かべてみると、なるほど、その言葉は正しいような気がした。ただ、あの2匹はたまに度が過ぎて本気になることがあるのが困りものである。今度、よく言って聞かせなければならない。

「うんうん。パメラさんも大変だよね、きっと」

 最後のマドレーヌが彼女の口の中に消える。と、その口から突然ため息が漏れた。

「……うぅ。半分は明日にしようと思ってたのに」

『明日ですか? しかし、明日からは確かダイエットとやらをするはずでは?』

 それともダイエットと甘いお菓子にはなんの関係もないのだろうか、と、マルスが微妙に混乱していると、セシリアはさらにつぶやいた。

「でも大丈夫だよね。うん。ティースさんも前に全然太ってないって言ってくれたし、今食べた分は全部胸の成長に回るはずだもん」

 主は決して妄想癖があるわけではない。しかし、胸の話になるとなぜか現実逃避してしまうようだった。

『しかしセシリア様はもともと戦闘向きではありませんし、胸筋はそれほど必要ないかと思いますが……』

「うぅ、でも私、やっぱり半年前からなにも変わってない気がするよ。ううん、絶対成長してない」

『胸筋が、ですか?』

「あ、そうだ。リディアちゃんなら色々知ってるかも。今度聞いてみようかな」

『はあ』




「――なあ、セレス」

 今宵も紅い月が美しい。

「胸が発達しているかどうかということは、雌――女性にとってそれほどに大切なことなのか?」

「胸?」

 相変わらず枝の上にいるセレスの姿は見えない。

「胸というのは胸筋のことか? それとも乳房のことか?」

「ん?」

 マルスは少し考えて、

「ああ、いや、よくわからない。だが、セシリア様がそのことをしきりに気になさっているのだ」

「なるほど」

 納得したような声だけが頭上から聞こえてくる。

「人間の世界ではそれが女性としての魅力の要素になり得ると聞いたことがある。おそらくはそういうことだろう」

「そうなのか。であれば、セシリア様の悩みは相当深刻だな」

 マルスは真顔で、本人が耳にすれば間違いなくヘコみそうなことをつぶやいた。

 セレスはそんな彼を見下ろして、

「あくまでいくつもの要素のうちのひとつということだ。人間たちの価値観は我々と違って多種多様だからな」

「そうか。難しい」

 夜空を見上げる。

「ああ、見ろ、セレス。今日も綺麗な月だ」

「私はここの月が好きだよ。光が柔らかい」

「柔らかい? ……なるほど、そんな気もするな」

 マルスは少し間をおいて続けた。

「だが、きっとセシリア様の手の方が柔らかい。俺はセシリア様の手があの月よりも好きだ」

 頭上の枝葉が微笑するかのように揺れた。

「お前らしい発想だよ、マルス」

 白い蛾が月に向かって飛ぶ。

 りぃ……ん、という虫の鳴き声が聞こえて。

 そして夜はさらに更けていった。




 マルスの目の前には今、主であるセシリアの他にもうひとりの少女がいる。

「え、マルスにですか?」

「ええ。この前暴漢から助けてくれたお礼。彼の口に合うかどうかわからないけれど」

 シーラ=スノーフォールというその少女は、主のセシリアいわく、すごい人物らしい。昨日まではどこがどうすごいのかマルスにはわからなかったのだが、改めて見てみると、なるほど、確かに胸は主より発達しているようだ。

『しかしそういう意味で言うと、ジョエッタ殿の方がすごいのでは』

 マルスの頭に浮かんだのは恰幅と切符のいい年輩の女性使用人の姿だったが、どうやらそういう単純なことでもないらしく。

 難しい。 

 と。

 まぁ、そんなことに散々悩みつつも、マルスはシーラの持ってきたお礼――鳥の筋胃部を茹でた料理を口にしてご満悦だった。

「ありがとうって言ってます」

「そう。喜んでもらえたのなら嬉しいわ」

 チラッと見上げると、シーラは優しげな微笑みでマルスを眺めていた。

「よかったね、マルス」

 皿はアッという間に空っぽになった。物足りない気はしたが、それを言うのは贅沢というものだろう。

「まだあるわ。食べていいわよ」

『……!』

 至福の時が訪れた。

「ところでシーラさん。あの私、少し悩みがあるのですが、聞いていただいてもよろしいでしょうか」

「悩み? どうしたの?」

 ピク、と耳が動く。

 いくら目の前に大好物があっても主の言葉は聞き逃さない。

 悩み。

 ダイエットのことだろうか。

 あるいは昨日言ってた胸の話だろうか。

「実はその、最近、あのお化粧というものが気になって気になって仕方ないのです」

『……おけしょう?』

 どうやらまた新たな悩みのようだ。

「気になるって? お化粧をしてみたいってこと?」

「はい」

 真顔でうなずくセシリアに対し、シーラは少し考えるような顔をして、

「なにか理由があるの?」

「シーラさんもたまーにお化粧なさってますよね? たまーにですけども」

「え? ああ、そうね」

 一瞬だけ視線が泳いだ。

 人間がああいう仕草をするのはなにか隠したいことがあるときだと知っていたが、セシリアは気付かなかったようだ。

「ぶっちゃけた話をしますと、ですね」

 セシリアは改まってそう言うと、少し不満そうに頬を膨らませる。

「私がお兄ちゃんと並んで外を歩いていると、なぜか道行く男の人がみんなお兄ちゃんの方を見るのです。それはまぁいいのですが、でも誰ひとりとして私の方は見ないのです。うわ、すげぇ美人――あの背の高い方な、とか、それはもぅサクサクッと言われてしまうのです」

「ああ、アルファさんね……確かに、あの人は……えぇ、とても男性とは思えない姿をしているわね」

 その言葉にセシリアはますます不満そうな顔になって、

「確かにお兄ちゃんが綺麗な顔をしているのはホントのことですし、妹としてそんな兄がちょっとだけ自慢だったりするのも確かなのですが、しかしこれは女としてあまりに屈辱的な話であります!」

 主が珍しくヒートアップだ。

 眉間に皺を寄せ、口元を引き締め、右拳を握りしめて空を見上げる。

「だから次回のお出掛けのときにはお化粧でもして見返したいのです! せめて、ああ、でも隣にいるのもなんか女の子みたいだぜ――ぐらいにはっ!」

「……ささやかね」

 シーラの苦笑に、マルスもまた同感であった。




「――なぁ、セレス」

「どうした? また彼女のことか?」

 3日連続で綺麗な月夜だった。

「ああ。俺は、セシリア様以上に素晴らしい人間は――シルヴァーナ様を除いては他にいないと思っているのだが、どうやら人間の世界ではそうでもないようだ」

「人間と私たちでは価値観が違う。当然のことさ。……しかし」

 セレスはあごを上げて中空に浮かぶ月を見つめた。

「お前はまた少し人間じみてきたな、マルス」

「? なんの話だ?」

 意味がわからず問いかけると、セレスは枝の上から彼を見下ろして、

「お前は今、彼女とシルヴァーナ様を天秤に架けた。本来、私たちはそういうことをしないものだ」

「なんのことだ?」

 わからない顔のマルスに対し、セレスは短く問いかけた。

「マルス。お前の主は誰だ?」

 マルスは即答する。 

「それはもちろんシルヴァーナ様だ。だが、シルヴァーナ様からセシリア様のことを任されているのだから、セシリア様も私の主だ。そうじゃないのか?」

 少し間を置いてセレスが答えた。

「それだよ、マルス。私たちの世界に主が2人などという考え方はない。自分の体がひとつしかない以上、必ずどちらかを裏切らなくてはならない事態も起こりうるだろう? 私たちにとって主を裏切ることは死を意味する。生命ではなく、存在の死だ。存在意義の消滅だ。だから本来そういうことは有り得ない」

「……」

 マルスは神妙な顔で視線を落とした。彼女の言いたいことは理解できた。

「だから人間じみてきたと言ったのだよ、マルス。それは人間には珍しくない感情だ」

 枝葉がかすかに揺れる。

 セレスは続けた。

「私だってなにかあれば彼女を護るように言われている。しかし、ただそれだけだ。お前のようにそれ以外のこと――彼女の悩みをどうこうしようなんてことは考えもしない」

「……」

 マルスは神妙な様子で、やはり夜空の月を見上げた。見上げながら、そういうことを諭す彼女もまた、少し人間じみてきているんじゃないかと漠然と思った。

「……2人の主、か」

 月は素知らぬ振りで、ただ柔らかな光を彼らに注ぎ続けていた。




「帝都はやはり人がたくさんいますか? 休日の中央市場よりたくさんですか?」

「ん、ああ、そうだね。特に前回行ったときはちょうどクライン教の神祭の時期だったからものすごい混雑ぶりだったな。ちょっと油断すると隣の人とすぐはぐれるぐらいだったよ。今は――どうだろう。大きなイベントといえばデビルバスター試験ぐらいだし、こことそう変わらないんじゃないかな」

「へぇぇ……」

 通常、秩序に守られたこのネービスの街を、体の大きな狼が人間の付き添いもなく歩いているということは考えられない。犬であってもそれが飼い犬ならば飼い主が付き添うし、野良犬なら運が悪いと捕まって殺処分されてしまう。

 しかしマルスは特別だった。

 首飾りに目立つよう刻まれたミューティレイクの紋章。

 人間はそれを見て安心する。その狼が特別に訓練され、決して人に害を加えることはないものだと理解するからだ。

 セレスと違って翼を持たない彼にとって、これは非常にありがたいことだった。

 朝、主であるセシリアを学園まで送った後、彼はだいたい単独で屋敷まで戻り、夕方になると再び学園まで主を迎えに行く。主や主の周りに迷惑をかけないよう寄り道などは絶対にしないし、できる限り道行く人々を怖がらせないように気も遣う。

 そんな彼の日課。

 この日の朝もマルスは、セシリアを学園まで送っていくところだった。

「じゃ、俺はこの辺で。早く帰って姉さんの出発の手伝いしなきゃならないから」

「はーい。気を付けてくださいね」

 去っていったのはセシリアと同じ学園に通う少し年上の少年だ。友人というよりは顔見知りという程度だが、通学する時間帯が近いためかたまたまこうして会話を交わすことがあった。 

「聞いた? すごいね。私も一度ぐらいは帝都に行ってみたいな……ね、マルス。マルスは――」

 下りてきた視線が少し不思議そうになった。

「どうしたの、マルス? 変な顔して。なにか悩みごと?」

『……?』

 我に返ってマルスは主の顔を見上げた。

 太陽は少しずつ南へ向かって上り始めている。

 少年が去って今はセシリアと2人きりだ。

『変な顔?』

 人間と違って彼らの表情の変化はそう大きくない。もちろんそれに気付く人間も稀にはいるし、彼女がその中のひとりであることも知ってはいたが、それでもマルスは虚を突かれた思いだった。

『悩みごと? 俺が、ですか?』

 悩んでいるという自覚はなかった。

 彼らは人間と比べると単純な世界に生きているため、悩むこと自体がそんなに多くない。しかし言われてみればなるほど、昨日といい、一昨日といい、彼は悩んでいるようだった。

 昨日と一昨日は主の悩みに対して。

 そして今日は、昨晩セレスに言われたことで。

「マルスはどんなことを悩むの? 御飯がおいしくないとか? あ、それともそろそろ恋人が欲しいなぁとか?」

 セシリアは歩きながらそう言った。

『いえ、そんなことは』

「……? 違う?」

『違います、セシリア様』

「……」

 セシリアは少しの間マルスの顔を見つめて、

「違うんだ? じゃあ、うーん……」

『……』

 言葉が通じていないことをマルスは理解している。主は彼の言葉を理解できない。それは当たり前のことだ。

 しかしながら、だいたいの場合において意志は通じる。

 マルスは空を見上げた。

 朝の陽光の中に、彼の戦友の影がチラリと見える。 

「あ」

 セシリアは足を止め、やはり空を見上げて言った。

「セレス? お散歩かな?」

『……そのとおりです、セシリア様』

 とても人間の視力で見える距離ではない。だが、主はセレスの気配を感じることにも長けているようだった。

「手振ったら見えるかなぁ」

 おそらく空を舞う彼女からは簡単に見えるだろう。

 セシリアが空に向かって大きく手を振ると、周りの人々が少し不思議そうな視線を彼女に向けた。

 マルスは確認しなかったが、空からの反応はなかったようだ。

 なにごともなかったかのように再び歩き出す。

「セレスっていつも忙しそうだよね。でもそうだよね。よそ見したら危ないもんね。落ちちゃったらタイヘン」

 マルスはなにごとか考えて。

『セシリア様は――』

 言い切る前にセシリアの方が口を開いた。

「ねぇマルス。今日の帰り、寄り道に付き合ってね」

『あ、はい。それはもちろん』

「香草を買っていくの。でもお料理じゃないよ。この前のお守りをティースさんがとても気に入ってくれたみたいだから、また作ってみようかなって」

『それは良い考えです。帝都までは長い旅になりますから』

「ねぇマルス。喜んでくれると思う?」

『そう思います』

 セシリアは本当に言葉が通じたように、うれしそうに微笑んだ。

 春風が吹いて。

 やはり温かくなる。

 そうこうしているうちに、

「おぉーい、セシルぅーー」

「あ、コレット。シリウスくんも、おはよー」

 主の学友たちがやってきた。

 別にマルスたちだけではない。学園でも屋敷でも、彼女は基本的にいつも人に囲まれている。彼女が与えてくれる安らぎは、おそらく彼だけが感じているものではない。

『……』

 学友たちが横に並んだのを見て、マルスは無言のまま少しだけ後ろに下がった。




「……セレス。やはりセシリア様も俺の主人だ。俺にとって特別だ。シルヴァーナ様と同じように。考えたが、そう思う」

 欠けた月明かりの一部をさえぎって、枝の上から視線が下りてくる。セレスはひと呼吸置いて特に驚いた様子もなく言った。

「そう思うことを咎める者はここにはいない。しかし難解な生き方だよ、マルス」

「それは構わない。俺が恐れるのはあの方の笑顔が永遠に曇ってしまうことだ」

 マルスは月を見上げた。

「きっとあの月が厚い雲に覆われて見られなくなってしまうような、そんな苦しさに違いない」

「ズルいな。そう例えられてしまえば、私もお前の気持ちを理解せざるを得ない」

 セレスの視線も月を追う。

「……ここは一見平穏な場所だ。我々がここに来たのが3年前の夏か。それ以降、少なくともこの敷地内では危険なことはなにひとつ起きていない。しかし……」

 セレスはゆっくりと視線を正面に向け、遠い地平線を見つめた。

「この平穏が永遠に続くことはないだろう。いずれこの場所にも、彼女の身にも危難が降りかかってくる」

「なぜそう思う?」

「直感だよ。……少し冷えてきたな」

 背の黒い翼がゆっくりと華奢な彼女の体を包み込む。

「そうか? 俺は少し鈍感みたいだ」

「いや。私が敏感すぎるだけだよ」

 確かに昨日までよりは少し冷えているようだ。

 風が吹いてマルスは無意識に首をすくめる。そうするほど寒かったわけではないが、どうやら彼女の言葉に影響されたらしい。

 セレスは言った。

「人間の持つあいまいさは時に致命的となる。お前のそれも。だから難解だし、困難なのだ、マルス」

「……」

 叢雲が月を覆った。

 マルスは視線を地上へと降ろした。

 少し考えて、

「危難というのはやはりシルヴァーナ様の――か?」

「とも限らない。ここの人間たちは危険な過去を背負ってきている者が多いのだろう」

「? それも直感か?」

「直感だよ。お前と違って盗み聞きできるほど耳はよくないんだ」

 そこまで言ってセレスは言葉を止め、視線を横に向けると居住まいを正した。マルスはそれを不思議に思ったが、その理由はすぐにわかった。

 気配が彼らの元へと近付いてくる。日が変わってすぐのこの時間に動いている人間はそう多くない。

 マルスも姿勢を正した。

 近付いた影が言った。

「マルス、セレス」

「「はい、我が主」」

 ざぁっと春の風が吹いて夜に照らされた薄紅色の花弁が無数に舞い上がる。さざめく薄緑色の芝生の海の中、夜空を支配する月のごとき冷厳かつ清廉な――彼らの主、シルヴァーナ=イスラフェルはわずかに桜色に染まった姿でそこに現れた。

 マルスの身が引き締まる。

 それはセシリアに接するときとはまったく別の感覚だ。

 しかしよくよく思い出してみれば、それこそが主と接するときの正しい感覚だったような気がする。

(とすると、セシリア様はやはり違うのだろうか……)

 また少し混乱する。

 しかし彼が深く思い悩む前にセレスが枝の上から問いかけた。

「主。また、ここを離れるのですか?」

 シルヴァーナは無言のままうなずいた。

 セレスが言った。

「お供します」

「必要ない。それより、またやってもらいたいことがある」

「はい。なんなりと」

 彼女はセシリアに貼り付いているマルスと違い、主のためになにかと飛び回っている。時には100キロ以上も離れた土地に向かうこともあったが、聡明で冷静な彼女は顔色ひとつ変えずにそれをやってのけるのだ。

 唯一の主。その主の言葉は絶対。それがどんなに難解なことであろうとも。

 そんな彼女の姿こそが本来の彼らの姿である。

「マルス」

「はい」

「彼女の様子は?」

「特に変わりありません」

「そうか」

 シルヴァーナはなんの感慨もなくうなずいた。

 実のところ、その主の真意がマルスにはまだわからない。出来る限り彼女のそばを離れぬように、と言われてはいるものの、それが護衛なのか監視なのかすら定かではない。主の真意についてなにひとつ聞かされていないのだ。

 すべては推測の類。

 ただマルス自身は勝手に護衛であると思いこもうとしている。

 でなければ、彼女が『もうひとりの主』たり得る要因がなにひとつなくなってしまうからだ。

(2人の主……自分の体はひとつか……)

 セレスのその言葉が胸に重石を残していた。

 ――ありうる。それは充分にありうるることだ。

 たとえば今は平穏なこの場所が危険にさらされたならば。

 セレスはきっと迷うことなくこの主を守ろうとするだろう。

 ならば自分は? 自分はどうする? どちらを守る?

 きっとそのとき、自分はセレスの言うとおりに苦しみ迷うことになるだろう。

 守れ、と明確に命令されていたならば、そういう主の真意が確認できていたならば、それが主の意志であり、それがもうひとりの主を守ることにつながるのだから問題ない。

 しかし今のところはそれが確認できない。主の『もうひとりの主』に対する感情も、マルスにはまったく読めない。

 判断のしようがない。

 シルヴァーナがゆっくりと彼らに背を向ける。

 そして、

「マルス」

「はい、我が主」

 視線がゆっくりと振り返る。

 マルスはその瞳に夜空に浮かんでいるはずの紅い月を見た。

 息が詰まる。

 ああ、やはり自分の主は――

 そう思って背筋が緊張で固まる。

 あるいは、セレスがあれほどに月を奉拝するのも、この主の中に月を見ているからなのではないか、と、そんな風にさえ思える。

 絶対なる月の主が、ゆっくりと口を開く。

 そこから放たれた言葉はやはり、冷厳で、清廉で――


「……ダイエット、というのは、どういう意味なんだ?」






「お兄さん、お兄様、お兄ちゃん、兄上、兄者、兄貴――」

「……」

『……』

 淡い栗色の髪の少女は2人――いやひとりと1匹の視線を受けながら、鼻歌を交え、ユラユラと体で怪しげなリズムを取りながらなにやら呪文のような言葉を口にしている。

 よほど機嫌が良いのか――彼女の機嫌が悪いことなどそうそうないのだが――すり鉢を操る手もなにやら浮き浮きしていた。

 部屋中に漂うのは爽やかな香草の香り。

 マルスはくしゃみをこらえた。

「たまにはアルファさん、なんてのもいいと思わない? ね、お兄ちゃん?」

「……なんの話?」

 抑揚のない声が流れる。

 対するは、あどけない少女の明るい声。

「もちろん、今日のお出掛けの話。ちょっと雰囲気変えて呼んでみたらどうかなって」

「ああ」

『……』

 もちろんマルスには彼女――セシリアの意図はわからなかった。ベッドの上に座っているアルファの返答も完全に生返事だ。

 そんな彼らを見つめて。

 セシリアはやおら口を開くと、言った。

「40点!」

 マルスはちょっとビクッとしたが、どうやら劣等生のレッテルは彼ではなくアルファに向けられたものらしい。

「?」

 不思議そうなアルファに対し、セシリアはまるで教師のような口調で言った。

「いくら妹でも女の子なのです。一緒にお出掛けするのですから、もっと楽しそうにして欲しいのです。そんなだからお兄ちゃんは女の子より男の子にモテてしまうのですよ」

「……」

 それとこれとはたぶん話が別だ、と、マルスは思った。

「ね、マルス。マルスもそう思うよね? マルスは女の子に優しい男の子だもんね」

『はあ』

 マルスはチラッとアルファの顔を見てから困って視線を逸らしてしまった。もちろんそんな問いかけに答えられるはずもないのだ。

「……」

 アルファもまたなにも答えられず――あるいは答える気がないのか、セシリアから視線を逸らし、そしてつい先ほど彼女からプレゼントされたばかりの花の刺繍が入ったお守り袋を見つめる。

 セシリアはそれに気付くと、聞かれてもいないのに得意そうに解説を始めた。

「あ、お兄ちゃんのはこの前のを改良してみたの。明日からお仕事でしょ? シーラさんに色々教えてもらって、ちょっとした自信作なのです。兄を想う妹の気持ちが袋いっぱいに詰まっているのです」

「……」

 アルファはなにも反応しなかったのだが、セシリアは勝手に続けた。

「あ、今作っているのはティースさんのだよ。お兄ちゃんも私もたくさんお世話になってるし、とにかく無事にって神様にお願いしておかなきゃ」

 ようやく視線が動く。

「ティース? 私は別になにも――」

「30点! お世話になった人には感謝のキモチを忘れちゃいけません! そんなだからお兄ちゃんはいつまで経ってもおヒゲが生えてこないのです!」

「……」

 そこになんの因果関係もないであろうことは、いくらマルスでもわかる。 

「あ、これじゃ香りが長く保たないかも……うーん、2ヶ月だもんね。なにかいい方法ないのかなぁ。シーラさんなら知ってるかな。知ってるよね、きっと。ね、マルス?」

『は、はぁ』

 もちろんマルスに答えられるはずもなく。

 アルファはまた手元のお守りに視線を落とした。さえぎられた言葉の続きを言うつもりはないようだ。

 そんな兄妹の会話――ほぼ一方的にしゃべっているだけだが――に、マルスはホッとひとつ息を吐いて、そして決して心地よいとはいえない剥き出しの床の上に丸まった。

 そうしながら、あるいは無用な心配なのかもしれない、と思った。

「ねぇ、お兄ちゃん。ここ、そろそろなにか敷いた方がいいと思うよ。だってほら、マルスだって冷たそうだし……」

「でも邪魔――」

「20点。そんなだからお兄ちゃんは私より男の子の視線を集めてしまうのですよ――くすん……」

「……」

 どうあれ今の屋敷は平和そのものだし、しばらくはセレスの直感が現実になることもなさそうなのだ。

 そんなことを思いつつ。

 マルスは暖かな東日を銀色の体いっぱいに浴びながら、ウトウトし始めたのだった。


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