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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第8話『スクール・パニック』
65/132

その7『六人』


 今年、ディバーナ・ロウからは2名がデビルバスター試験を受験する。

 また、彼らのサポート役としてディバーナ・ロウ、ミューティレイク家から4人が同行し、合計6人が試験会場である帝都ヴォルテストへ向かうことになっていた。

 北方にあるこのネービスから、大陸のほぼ中央に位置する帝都ヴォルテストまでは、主となる街道を馬車で片道およそ20日の行程。さらに試験そのものが半月にも渡って行われるため、再びこのネービスに戻ってくるのは約2ヶ月後だ。


 そしてその6人の中のひとり、ディバーナ・ナイトの隊員でもあるパーシヴァル=ラッセルは言うまでもなく、ティースとともに試験を受験するデビルバスター候補生である。


 人生なんてわからないものだ。

 パーシヴァルは現在16歳で一応大人として認められる年齢ではあるが、まだ人生を振り返るほどの歳ではない。

 しかし、彼は思うのだ。

 人生なんてわからない。この自分がデビルバスター試験を受けることになるなどとは、3年ほど前の知り合いたちはきっと誰ひとりとして想像できなかっただろう、と。

 ……彼はこのネービスの中でもほんのひと握りの貧困層の家に産まれた。

 10ヶ月年上の兄は2歳のときに肺炎で命を落とし(もちろんその記憶は彼にはない)、4つ年下の妹は彼が9歳のとき、自宅そばの古い排水坑に誤って転落して命を落とし。

 そして父親は、そのときのほんのわずかな見舞金を持って姿を消してしまった。

 しかしまぁ不幸中の幸いというべきか。彼の母親には親切な知人が多く、パーシヴァルは彼らの力を借りてどうにか無事に成長していった。

 しかし10歳になったころ。どこでどう間違ったのか、あまり質の良くない友人ができると、それからの3年はズルズルと引きずられるまま悪事に手を染めるようになる。

 ディバーナ・ロウに拾われたのは、本当に後戻りできなくなる一歩手前だった。

 そこから引き返すことができたのは、彼自身の本質が正しい方向を向いていたためだろうが、結果として悪事を行ってきたことは間違いなく、そのことは今でも忘れていない。

 運が良かったのは、彼を拾ったのがこのディバーナ・ロウだったということ。ここには彼と似たような境遇の人間がたくさんいて、まともな素性の人間を探すのに苦労するぐらいで。

 相談できる相手もいたし、彼を理解してくれる人間もたくさんいた。

 だから、彼はここまで来ることができた。

 恩を返したい。

 それが彼の一番の原動力だった。


「……ふぅ」

 朝の涼しい空気がパーシヴァルの全身を満たす。

 緊張するにはまだ早い。試験は1ヶ月近くも先のことだ。

 しかし――やはり緊張する。

「……もうちょっと、やっとくかな」

 パーシヴァルがストレッチを再開したところへ、誰かの気配が近づいてきた。

「パースくん」

「ん? あ、よぅ。フィリス」

 やってきたのは、当主であるファナの侍女のひとりであり、ディバーナ・ロウの仲間でもあるフィリス=ディクターだった。

 子羊を思わせる外見のこの少女は彼より半年ほど年下だが、ミューティレイクでは1ヶ月ほど先輩であり、そして彼が一番最初に打ち解けた相手である。……というより、彼女がいたおかげですんなりここに溶け込めた、そう言った方がより正確だろうか。

 そういう意味でパーシヴァルにとっての彼女は恩人であり、友人であり――そして本人は顔を真っ赤にして否定するが、思い人でもあった。自称『硬派』の彼はまだその想いを伝えてはいないが、知らぬは当事者ばかりなり、という状態である。

「いよいよ明日出発だね。パースくん。体調は万全?」

「完璧に決まってるだろ?」

 パーシヴァルがそう言って力こぶを作って見せると、フィリスは笑顔になった。

「良かった。お母さんにはちゃんと報告した?」

「半年ぐらい前からもう言ってあるよ。あの人は心配性だから早めに言っておく方がいいんだ」

「じゃあ安心だね。……しばらく見ててもいい?」

「ん? ああ……別にいいけど」

 フィリスはスカートをうまくたたんで庭石の上に腰を下ろした。パーシヴァルは彼女に背を向け、ストレッチを続ける。

「……」

「……」

 しばらく無言だった。パーシヴァルはときおり気になって後ろの彼女の様子をうかがってみるのだが、彼女の方は邪魔したくないとの思いからかひとこともしゃべろうとしない。

「……なぁ、フィリス」

 やがてパーシヴァルは振り返って、

「なんか、黙られるとかえって気になる」

「えっ、あ、ごめんなさい……」

 申し訳なさそうなフィリス。

「いや、謝んなくてもいいけど……なんかおもしろい話とかない?」

「お、おもしろい話? ええっと……」

 突然の無茶ぶりにフィリスはあたふたしながら、

「じゃ、じゃあ、詰め所の屋根の下に巣を作ってるスズメの話とか、どう?」

「スズメ? 詰め所ってファントムのか?」

 あまりおもしろくなさそうだとは思ったが、パーシヴァルはストレッチを再開しながら話の先を促すことにした。

「うん。南側の窓のひさしのところに、いつの間にかね、巣を作ってたの」

「へぇ」

 へたしたらそれで会話終了かなとパーシヴァルは思ったが、幸い彼女の話には続きがあった。

「それで私、昨日気付いたら嬉しくなって、すぐにその話をドロシーさんにしたの。そしたら――」

 フィリスの眉間にしわが寄る。

「ドロシーさんったら、いきなりその巣をナイフで打ち落とそうとしたの」

「へ?」

 思わぬ急展開だ。

「だから私、びっくりして必死に止めたの。それで、なんでそんなことするんですかって聞いたら、なんて言ったと思う?」

「なんて言ったんだ?」

 フィリスの眉間のしわが深くなる。

「スズメの味が懐かしくなって、つい。だって」

「……ああ、でも」

 パーシヴァルはまじめな顔で返した。

「スズメってあれで結構美味いんだぜ。サイズ的にちょっと物足りないんだけど味はなかなか――」

 ピタリ、と、パーシヴァルの口が止まる。

「……パースくん」

「あ……いや、別にそのスズメを取って喰おうとかそういうことじゃなくて――っていうか、聞いた話だよ、聞いた話!」

 慌てて弁解する。

「パースくんは食べたことないの?」

「ないよ! あるわけない!」

 ウソである。確かにここネービスでは一般的にスズメを食用とする風習はないが、それはあくまで一般の話。スズメを食べることを規制する法などもちろんないし、彼は何度か野生のスズメを食べたことがあった。

 しかしここはまぁ、とっさに嘘をついた彼の選択はおそらく正解だろう。

 そしてフィリスは言った。

「そうなんだ……私はね、昔、お父さんにだまされて食べたことあるんだ」

「……え。あ、そうなのか」

 ちょっと気の抜けた声を出してしまう。

「うん。それがショックでね。私、今でも鶏肉が食べられないの」

 そう言ってから彼女はホッと息を吐いて、

「でもよかった。そうだよね、スズメは食べるものじゃないよね」

「あ……ああ、うん、そうだよな」

 なんとなく後ろ暗い気持ちながら、パーシヴァルはそう言ってうなずくしかなかったのである。

 午前5時半。

 使用人たちは朝食を含めた1日の準備に忙しくしている。その他の人々もそろそろ起きてくる時間だろうか。

「……じゃあ、邪魔しちゃ悪いからそろそろ行くね」

 フィリスがポンポンとスカートのすそを払いながら立ち上がった。

 普段は屋敷の制服を着ているはずだが、今日は珍しく私服だ。あるいは今日そっちの仕事は休みなのかもしれない。

「もう行くのか?」

 パーシヴァルは少々拍子抜けした。

 明日から2ヶ月も会えなくなるのだし、彼としてはもっと名残惜しむというか、気を付けて、とか、淋しくなるね、とかのひとことを期待していたのである。

 しかし、

「え? なにかあった?」

 などと、不思議そうに返されては、自称『硬派』の彼としてはそれ以上どうすることもできず。

「あ……いや、別に。えっと、なんだ。元気でな」

 そう言うのが精一杯である。

 するとフィリスはきょとんとした顔で、

「元気で、って?」

「いや、ほら……2ヶ月ぐらい戻ってこないから。いや、お前には別に関係ないことだろうけど……」

 ふてくされているのを悟られないようにしながらも微妙に隠しきれていないという、第三者から見るとなんとも微笑ましい態度のパーシヴァルに、フィリスはますます不思議そうになって言った。

「え? でも私も一緒に行くんだよね?」

「……え?」

 パーシヴァルは間抜けな顔をした。

「あ、あれ? 私の聞き間違いじゃないよね? おととい、執事様にそう言われて準備していたんだけど……」

「……」

 完全に初耳だった。いや、確かに同行者が付くことは知っていた。アクアのときは先ほどの話に出てきたドロシーとダリアの双子姉妹が付いていったらしいし、レアスのときもやはり何人か同行したと聞いている。

「いや、そう言われたなら間違いないだろうけど……でも、その間のファントムはどうするんだ? 2ヶ月間も活動停止するわけじゃないだろ?」

「うん。パースくんとティース様の抜ける2ヶ月間は、隊を再編成して当たるんだって。ナイトだってパースくんが抜けたまま活動するわけにはいかないでしょ?」

「あ、言われてみりゃそっか。……」

 パーシヴァルは頭をポリポリと掻きながら、

「ん……まあ、そんじゃよろしくな。準備とかできてるのか? 忘れ物すんなよ?」

「うん、大丈夫。パースくんこそちゃんと荷物チェックしないとダメだからね」

「わかってるよ。ってか、付いてくるのってお前だけじゃないよな? ティースさんもいるんだし……他には誰が来るんだ?」

 パーシヴァルの問いかけに、フィリスはちょっと視線を上に向けて答えた。

「えっとね、確か――」




 1にコンディションの維持、2に身の回りの世話、3に安全のための護衛。

 フィリスがこのうちの1と2を兼ねて選ばれたのだとすれば、パメラ=レーヴィットが選ばれたのは2番目の役割をメインで張るためである。

「パメラちゃん、おめでとーーどんどんひゅーひゅーぱふぱふーーー」

「やめてってば、ヴァレンシア」

 使用人寮で同室の先輩、ヴァレンシア=キッチンの祝福に、パメラは心の底から迷惑そうな表情を浮かべた。

 ご存じの方もいるかと思うが、パメラはミューティレイク邸のハウス・メイドのひとりであり、客室掃除ではティースの部屋の担当もしている。2本の短い三つ編みとそばかすがトレードマークの15歳の少女だ。

「ありゃ。嬉しくないのかぃ?」

 時刻は午前11時。パメラは明日以降の準備のために、今日1日の仕事を免除されていた。

 ちなみにヴァレンシアは先ほど交代制の昼休み(本日一番乗り)を利用して戻ってきたところである。

「なに言ってるの。嬉しいとかじゃなくて大事なお仕事でしょ。浮かれる理由がないじゃない」

「なにをおっしゃるウサギさん」

 荷物を準備するパメラの前、ベッドの上に腰掛けたヴァレンシアはチッチッと人差し指を横に振って、

「2ヶ月も一緒に旅をするのよ? そしたらもう、やることは決まってるっしょ」

「なに?」

 パメラが怪訝そうな顔で聞き返すと、ヴァレンシアはわざとらしく声をひそめた。

「このさい、どっちでもいいからモノにしてきなさい」

「……ヴァレンシア」

「あ、なんかすごい顔。の割に赤くなってるところがパメラちゃん可愛いなあ、もう」

「馬鹿なこと言わないでってば、もう……」

 顔が赤くなっている自覚はあったので、パメラは荷物を詰め込むフリをして顔を伏せた。

 だがヴァレンシアはニヤニヤしながら、

「別に馬鹿なことじゃないと思うけどなー。パースのヤツだってもし受かったらいよいよデビルバスターよ。へたすりゃパーシヴァル様よ。高収入よ。玉の輿よ。悠々自適で豪遊し放題の奥様ライフよ」

「なんだかよくわかんないけど、パースさんはフィリスのことが好きだってもっぱらのうわさじゃない」

 手早く荷物を詰めていく。

「ああ、そっか。ならティース様でいいっしょ」

「……ちょっとヴァレンシア」

 パメラは手を止め、眉をひそめて顔をあげた。

「見た目が頼りなさそうだからみんな色々言うけど、ティース様はとても立派な方なんだから。そういう言い方ってないと思う」

「別にダメだなんてひとことも言ってないじゃん」

「まあ……そうだけど、でも……」

 ヴァレンシアの言うとおり、ティースの評判は決して悪いわけではない。しかし毎日顔を合わせて言葉を交わしているパメラの立場からすると、見た目のせいか態度のせいか、どうにも不当な評価を受けているような気がして、それが常日頃から納得いかないのである。

「でもほら、中身とかはともかくさ。見た目ならパースの方が間違いなく上っしょ」

「そうかなぁ。そりゃパースさんはカッコいいけど……」

 それも納得いかない。いや、確かにパーシヴァルは屋敷でも指折りの美少年だ。単純に比較すれば彼の方がカッコいいに決まっているし、多数決を取れば9割以上は彼に軍配を上げるに違いないだろう。

 残りの1割弱も残念ながら『ティースカッコいい派』ではなく、まるで興味がない者を含めた『どちらともいえない派』であるが、パメラはこの1割弱の住人の中でもかなりティースびいきの評価だ。もちろん毎日顔を合わせていて親しいというひいき目込みで、だが。

「……ともかく」

 ポン、と、最後の荷物を鞄の中にしまい込んで、パメラは目の前の少女を見上げる。

「そんなこと言ってないで。ヴァレンシア。私がいない間、エレンのことお願いね」

「それはもう!」

 ヴァレンシアは力強くうなずいて、

「このヴァレンシアさんにお任せなさい! なんたって同室のカワイイ後輩だもの、徹底的に面倒見てあげちゃうわ!」

「じゃなくて」

 気合の入るヴァレンシアに、パメラはごくごく冷静に返した。

「なにもしなくていいから。……お願いだからなにもしないであげて」

「ええ! な、なぜに!?」

 オーバーリアクションで抗議の意を示すヴァレンシア。

 パメラはため息を吐いて、

「私がいないんだから止める人がいないでしょ。あなたの巻き添えであの子までアマベル様に叱られたら可哀想じゃない」

「むー仕方ないなぁ」

 ヴァレンシアは困った顔で首をひねって、

「あ、でもアレだよね? 寝てる間に顔にラクガキするぐらいはセーフだよね?」

「アウト」

「えー。だったらお下げを引っ張ってお馬さんドウドウごっこは?」

「アウトだってば」

「エエー。じゃあじゃあ顔洗ってるところでタオル隠して水も滴るいい女ごっことか髪飾りをあの子のギリギリ届かないところに置いて高い高いごっことかも――」

「ア・ウ・ト! ……ちょっとアマベル様に言ってくる」

「わ、待って、冗談冗談! ヤだなぁ、パメラちゃんってば、もう!」

 パメラは仕方なさそうに腰に手を当てて振り返る。

「……心配だなぁ。ホント」

「なにをおっしゃるウサギさん」

「それ、2回目」

「大丈夫だいじょーぶ」

 ちっとも大丈夫そうに思えないのが彼女のすごいところだ。

 パメラは呆れ、もう一度ため息を吐きそうになるのをなんとかこらえて、ふと顔をあげた。

「あれ。この足音――」

「パメラ! パメラパメラパメラ~~~~~~ッ!!」

 バタン!

 うわさをすれば影、である。

 勢いよくドアを開けて飛び込んできたのは、この寮部屋のもうひとりの住人であり、パメラと同い年の少女エレン=ライブリだった。

「あっ、パメラッ! ちょっと!」

 と、エレンは『触覚』だとか『手綱』だとかヴァレンシアにからかわれる2本の長いお下げを揺らし、小さな肩で息をしながら一気にパメラに詰め寄ってきた。

「ちょっとちょっと! どうして秘密にしてたの!? ずるいじゃないのぉ!!」

 パメラはすぐに彼女の言わんとしている意味に気付いて、

「別に秘密にしてたわけじゃないってば。それに仕事で行くんだからずるいもなにもないでしょ?」

 なだめるようにパメラはそう言ったが、反論するエレンの口調はさらに勢いを増して、

「し、仕事だったらなおさら、あなたじゃなくて私の方がふさわしいのにぃ! あ、もしかしてアマベル様におねだりしたりしたわけッ!?」

「そんなことできるわけないじゃない」

「じゃ、じゃあ、ティース様だ! ティース様にお願いしたんでしょ!?」

「だからしてないってば!」

 なんとなくこうなることはパメラも予想していた。だからエレンにはギリギリまでわざと知らせなかったのだ。

「ずるい!」

「ずるくない! ……もう、エレン。そんなことよりお仕事は?」

「……お昼休みよ」

 エレンは口を尖らせながらトコトコとベッドに歩み寄り、ボスン! と、ふてくされたように勢いよく腰を下ろす。

 パメラは彼女に気付かれないようにため息を吐いた。

 ……これで常日頃から『格式あるミューティレイク家の使用人』を自負しているというのだから呆れるというか微笑ましいというか。

「……ちょっとヴァレンシアぁ。なに笑ってるのよぉ」

「べっつにー。さて、あたしはそろそろ戻ろうかな。アマベル様に怒られたら大変タイヘンっと」

 恨みがましいエレンの視線を軽く流して、ヴァレンシアはさっさと部屋を出ていった。

「ふん。なんか嫌な感じ。いつもだけど」

 なかば八つ当たりのようにそうこぼすと、

「ともかくパメラ。……選ばれちゃったのはまぁ仕方ないけど責任重大なんだから。いつもヴァレンシアとやってるみたいな恥ずかしい真似だけはしないでよ」

「はいはい」

 パメラは適当にあしらいつつ、さっきまでのあなたみたいな真似もね、と、心の中で付け加えておくことは忘れなかった。

「仕事で行くんだから。いくら帝都で珍しいものがあったって遊んでたらダメなんだからね」

「わかってるわよ。大丈夫」

「……」

 エレンは急に無言になると、やはり恨みがましい目でパメラを見る。

「なに?」

 聞くと、彼女はしばらく真剣な顔で悩んだ後、少々遠慮がちに言った。

「……やっぱりお手当とか出るの? 街の中見て歩いたり出来るの?」

 パメラはすぐに察して苦笑すると、

「わかったわよ。もし時間があればだけど、綺麗な髪留め買ってきてあげるわ」

 エレンの顔が輝いた。

「ホント!?」

「嘘言ってもしょうがないでしょ」

「あ、じゃあ――」

 エレンはベッドサイドにある私物入れの引き出しを開け、ガサゴソと漁り始めて、

「これ。この前のお給金で買ったのだけど、こんな感じのちょっとおとなっぽいのお願い」

 そう言ってパメラに見せたのは、小さな赤いバラの形をあしらった髪飾りだった。

 パメラは眉をひそめて、

「でも、そういうのはこっちでも買えるでしょ?」

「だからこういう感じので、でも向こうにしかないようなのを選んできて」

「……あまり自信ないなぁ。あとで文句言わないでよ?」

 そもそも都会の良家に生まれたエレンと田舎生まれのパメラではそういうセンスにかなりの開きがある。彼女の気に入るようなものを選べる自信はなかった。

 だがエレンはそのことを百も承知のようで、

「別にあなたのセンスに期待してるわけじゃないの。一緒に行く人の中にいるじゃない。とてもセンスのいい殿方が」

「センスのいい殿方?」

 少し考えた。

(ティース様のことじゃないよね、きっと……)

 いくらひいきしているパメラといえど、彼のセンスが一般的に言ってそんなによろしくないことはさすがに理解している。パーシヴァルにしても顔はいいが、そういう小物センスに関してはごくごく普通というか比較的無頓着だ。

 その他、一緒に行く男性といえばひとりしかいない。

「……あ。アレでいいんだ」

「え? パメラ、今なんか言った?」

「ううん」

 パメラはなんとも言えない顔で首を横に振った。

「わかったわ。一応お願いしてみるけど……どうなるかはわからないからね」

「わかってる。あの方だってお忙しいに決まってるんだし。……あ、でもパメラ。言っておくけど仕事で行くんだから。浮かれてあの方にベタベタしたり、抜け駆けしたりしないでよ」

 そんなエレンの言葉に、パメラはキッパリと答えた。

「それは心配ないわ。私には合わない方だと思うから」

「あ、そうよね」

 エレンは思い出したように笑って、

「あなたはどっちかというとスマートな方より泥臭い方が好みなのよね? すっかり忘れてたわ」

「……」

 そんなことはない。だが、そもそもパメラの目には彼女の言う『あの方』がそんなにスマートだとは到底思えないのだ。

 いや、それどころかむしろ――

「ああ……」

 そんなことをパメラが考えているとは露知らず、エレンは浮き浮きした顔で胸の前で手を組んだ。

「楽しみだわ。クリシュナ様が私のためにお土産を選んでくださるなんて……」

「……ちょっとエレン。買ってくるのは私なんだからね」

「わ、わかってるわよぅ。わかってるからちゃんと買ってきてよね」

 パメラはため息を吐いた。

「わかってる。その代わり、私がいない間よろしくね」

「その点は心配ないわよ。あなたのひとりやふたりいなくたって、私がいくらでもカバーできるもの」

 自信ありげ言い放つエレン。

「……ホント、大丈夫かなぁ」

 パメラは彼女の失礼な物言いより、本当に大丈夫なのかということの方が気になって、もう一度ため息を吐くことになったのだった。




 パメラたちの話題に上った『もうひとりの男性』クリシュナ=ガブリエルという青年は、4ヶ月ほど前、今年の1月にディバーナ・ロウに加わったデビルバスター候補生である。

「――あ、クリシュナ様だわ」

「今日もステキね……どこに向かわれるのかしら」

 年齢はティースよりひとつ下、パーシヴァルよりひとつ上の18歳。身長は170センチなかばと、この職業を目指す者としては標準ぐらいだろうか。無駄のない体付きで爽やかな正統派の好青年。

 ただ、出で立ちは膝丈ぐらいの前が開いた装飾付きのコートに半ズボン、ハイソックスといった少々オールドな『貴族風』の衣装で、ミスマッチな古い薄黄色のゴーグルを額に備えている。

 どう見てもハイセンスであるとは言いがたいのだが、個性的であるということと、なにより中身の元値が高いということもあって、逆にセンスがいいという評価になっているようだ。

 そして特に……そう。

 笑顔、だ。

 誰かと向かい合っているときは常に笑顔。それも嫌味のない爽やかな笑顔。これが女性たちの心を捕らえて離さないようだった。

 加えて、パーシヴァルのように特定の誰かとの浮いたうわさがあるわけでもなく。

「ねぇ、聞いた? クリシュナ様、今回の試験に同行するそうよ」

「クリシュナ様なら今年お受けになられてもきっと合格するのに、どうして受けさせてもらえないのかしら……?」

 現在はレアス=ヴォルクス率いるディバーナ・カノンの下に付き、デビルバスターを目指して訓練中。ミューティレイクの使用人たちの間ではディバーナ・ロウ始まって以来の天才という評価が定説となっている。

 それも決して根拠のないうわさなどではない。入隊試験の際にデビルバスターであるレアスをいきなり追いつめたという実績があった。

 有能でハンサム、真面目そうで人当たりもいい。

 これで目立つなという方がどだい無理な話で、女性使用人たちの間における1番人気は(あくまで人数の上では)彼だと言い切って間違いないだろう。

「……クリシュナ様!」

「ん?」

 昼過ぎ。別館1階のホールから外へ出ようとしていたクリシュナを呼び止めたのは、使用人の少女たちだった。ひとりではなく4人、全員が10代前半から中過ぎぐらいだろう。

 クリシュナは足を止めて振り返った。

 4人とも見覚えがある。何度か話したこともあるだろう。名前は覚えていなかった。

 自然と微笑みが浮かぶ。

「どうした?」

「……ほ、ほら。はやく渡して」

「ちょっ、ちょっと待ってよ……」

 4人の中のおそらくもっとも年長と思われる少女が、他の少女たちにせっつかれてふところからなにかを取り出す。

「あの、これ持ってってください」

「?」

 受け取ったそれは、どこかで見たことのあるお守りだった。

(……なんだ。そこの教会で売ってる旅行安全祈願のお守りじゃないか)

 クリシュナはすぐに顔を上げて少女に尋ねる。

「これは?」

「あの、それ、旅行安全祈願のお守りなんです。クリシュナ様が明日から遠出されると聞いて、みんなで買ったんです。ね?」

 彼に見つめられ、年長の少女が後ろの3人に同意を求めると、少女たちは一斉にうなずいた。

「ああ、そうか。旅行安全の……これを俺に?」

「は、はい」

 クリシュナはマジマジとお守りを見つめて、ひと呼吸。

 ニッコリと笑顔を浮かべて、

「嬉しいよ。ありがとう」

「あ、いえ。その、役に立たないかもですけど、でも、もしかしたら……」

「俺、こういうの結構信じる方だから。ホントどうもな」

 もう一度礼を言って、さらに頬を赤くした少女たちと別れた。

 玄関から外に出る。

 少し強くなった日射しの中、緑の芝生の上をしばらく歩いた後、

「……やれやれ」

 クリシュナはそうつぶやいて、手の中のお守りを目の前にぶら下げた。

 空いた左手でポケットを探りなにかを取り出す。

 まったく同じお守りが2つ、目の前にぶら下がった。

 ため息。

 まぁ、少女たちの好意は素直に受け取っておくにしても。

「こういうの、返品したりとかできるのかなあ――」

「クリシュナ様!」

「!」

 お守りをポケットに隠して振り返る。

 やってきたのは先ほどの4人組のうちのひとり、お守りを渡してくれた年長の少女ではなく、後ろにいた3人の中のひとりだった。

 反射的に微笑みが浮かぶ。

「どうした? なにか――」

「これも、もってってください!」

 小声で、しかし勢い良く。耳まで真っ赤にした少女は視線を伏せたまま、手にしたなにかを押しつけるように渡してきた。

「えっと――」

 問いかけるよりも早く。

 少女はアッという間に走り去ってしまった。

 しばらく呆然とした後、なんとなく辺りを見回す。幸い、誰もいなかった。

「……」

 視線を手元に落とすと、そこにあったのはやはり旅行安全祈願のお守りだった。……先ほど少女たちからもらったのと違うのは、ミーカール教で縁起の良いとされる白い鈴と小さな宝石が組み合わされていることだ。

「これは、また……」

 宝石自体はそれほど質の良くない安物だが、値段にすれば先ほどのお守りの軽く10倍、おそらくあの少女たちの月給の何分の1かに相当するものだろう。

 顔を上げた。

 すでに少女の姿はない。

「抜け駆け、ってヤツか……」

 とてつもなくわかりやすい好意の表現。それ自体はもちろん喜ぶべきことだろう。

 だが、しかし。

「やれやれ。俺はこういうの信じてないんだが……」

 扱いに困る高級お守りを見つめながら、もうひとつため息。

「……この高い方はどこかで換金できるかな」

 お守りをポケットに入れて歩き出す。

 と。

「ん?」

 視線の向こうから歩いてくる人影に気付いた。

 知っている人物だった。

「ああ、パメラじゃないか」

 特に接点があるわけではないが、なにかと縁のあるハウス・メイドの少女で、今回も仕事で一緒に帝都ヴォルテストへ赴くことになっている。

 クリシュナは気安く声をかけた。

「ちょうど良かった、パメラ。ちょっと明日のことで聞きたいことが――」

「……」

 スタスタ、と、短いお下げの少女はそのまま横を素通りしていく。

「パメラ? あ、おい……パメラ?」

「?」

 ようやくパメラが立ち止まって振り返った。

「私ですか? すみません、聞こえませんでした」

「ああ、そうか」

 彼の声は比較的低音が強い。その響きにうっとりする女性も多いが、決して聞き取りやすいものではない。

 クリシュナは意識的にはっきり発音するようにし、改めて尋ねた。

「それでな、パメラ。キミに聞いておきたいことが――」

「知りません」

「……」

 一瞬の沈黙。

「え。あ、まだなにも言ってないんだが……」

「なんですか?」

 パメラがまっすぐに見つめてくる。

「あーっと……あ、忙しいのか? だったら後でもいいんだが……」

「ヒマではないですけど。後で、って1ヶ月後とかでもいいんですか?」

「……」

 なにも返せずにいると、パメラはしばらく黙った後、急に表情を緩めた。

「それで、なんです?」

「あ。ああ、実は一緒に行くメンバーのことで――」

 どうにも調子が狂う感じだ。

 もちろん使用人の全部が彼に好意的なわけではない。だが、このパメラに関しては完全に嫌われているというわけでもなく、かといって先ほどの少女たちのように好かれているわけでもなさそう、という、なんとも奇妙な態度なのである。

(ホント、なんなんだか……)

 思い返してみれば、最初に会ったときからなんとも微妙な距離感だった。とてつもなく冷たい態度を取られたかと思えば、ときおり遠くから見つめられている。そこで積極的に話し掛けてみるとさっきのように冷たい態度で返される。

 それが彼女の性格なのかと思えばそうでもなさそうだ。

(なにか嫌われるようなことでもしたか……それにしちゃ時たまこっちを気にしてる素振りを見せたりもするし)

 なんともつかめなかった。

 ――もちろん彼は知らないのだ。以前、サイラス=レヴァインという自分に瓜ふたつの人間がこの屋敷にいて、そしてその人物が彼女と親しかったことなど。

 クリシュナは気を取り直して言葉を続けた。

「ティーサイト=アマルナとパーシヴァル=ラッセルだろ? それにキミとフィリス=ディクター。そして俺」

「はい」

「そこまではわかるんだが、あとひとり誰が行くのか知らない。キミは知ってるか?」

「え、聞いてないんですか?」

「いや、俺が聞き逃したわけじゃない。最初から聞いてないんだ」

 パメラは少し眉をひそめて、

「だから、聞いてないんですよね?」

「あ、ああ……キミが世話担当で、フィリスが医事担当、俺が護衛担当だから――」

「あ」

 話の途中でパメラの目線が横に逸れる。

「シーラ様!」

「あら、パメラ」

 正門のほうからやってきたのはシーラだった。

「今、お帰りですか? 今日はずいぶんと早いですね?」

 打って変わって弾んだパメラの声。

「ええ。ほとんどの講義は去年のうちに習得しているから、あまり必要ないのよ」

「そ、そうなんですか。シーラ様、すごいですね……」

「きちんと学んでいれば当然のことよ。あ、それとパメラ。今晩、少し用意してほしいものがあるのだけれど――」

「なんですか?」

「実は――」

 と。

 そんな2人の会話を眺めながら、

(……やっぱ嫌われてると見るべきかな、これは)

 放置されたクリシュナはなんとも居心地の悪い気分だった。

(いや、別にいいんだが。けど理由もわかんないってのはすっきりしないというか)

 とりあえずその場を離れることにした。

 残りのひとりのことは明日になれば嫌でもわかるだろう。パメラに尋ねたのも、たまたま思い出しただけのことで、特別気にかかっていたわけではない。口うるさいヤツじゃなければいいなと思うぐらいのことだ。

(……しかし、ティーサイト=アマルナとパーシヴァル=ラッセル、か。ほとんど話したことがないな……)

 どっちも自分とタイプが違う、話が合わないだろうという認識はあった。そう考えて同行するメンバーを思い浮かべてみると、気軽にしゃべれそうなのはフィリスぐらいだろうか。

 ひとりでいるのは特別嫌いではなかったが、会話のできない相手と長時間一緒にいるのは間違いなく苦痛だ。

(……やれやれ。勉強になるとはいうが、2ヶ月もってのは正直しんどい……)

「あ、クリシュナ様ー!」

「……ああ。キミは確か――」

 これなら屋敷でキャーキャー言われてた方が何倍も気が楽だな――と、そんなことを考えながら、クリシュナ=ガブリエルはいつもの微笑みを浮かべ、屋敷へと戻っていくのだった。



 


「……ふぅ」

 ティースがすべての支度を終えたころ、外の景色はオレンジ色から薄闇色へと移り始めていた。

 ちょっとした用事で外から帰ってきた後、庭で狼のマルスや番犬たちとたわむれるセシルと少しだけ会話を交わし――ほつれた袖に危うくハートマークのアップリケを付けられそうになるのをどうにか断りながら、屋敷の玄関ホールへと戻ってくる。

 丸テーブルの並ぶ1階ホールは閑散としていたが、食堂へ続く通路からは夕食支度の喧噪が聞こえてきた。

「お帰りなさいませ、ティーサイト様」

「え、あ。ただいま戻りました」

 ちょうど出くわしたのは、屋敷の女性使用人を束ねるハウス・キーパーのアマベル=ウィンスターだった。

 長いブロンドのシニヨンスタイル。眼鏡の奥の顔立ちは20代なかばという実年齢やその職種から受けるイメージよりは幼く可愛らしいものの、女性にしては上背があり、表情は大体の場合において厳格さを保っているため、総合的には取っつきにくいという印象があった。

 たぶんにもれず、ティースも彼女の前ではついつい萎縮してしまううちのひとりで、こういうときの挨拶のやり取りぐらいしか言葉を交わしたことがない。

 しかし。

「あ。ティーサイト様」

「え?」

 今日は珍しく彼女に呼び止められる。

「……はい。なんですか?」

 ちょっと緊張しながら振り返ると、アマベルは思い出したような顔で、

「実は今晩、お嬢様のご意向でささやかながら壮行の催しを行う予定なんです。ですから御夕食は食堂の方でお願いしたいのですが……」

「え? あ。わかりました」

 もちろん支障はない。なにも用事がないときはいつも食堂で夕食を摂っているのだ。

 アマベルはほんのかすかに口元を緩め、軽く会釈して、

「よろしくお願いします。午後7時よりお嬢様も同席いたしますので――」

「アマベル様ぁぁぁっ!」

「!」

 突然の悲鳴にアマベルはビクッとして顔をあげた。

「大変! 大変ですぅぅぅっ!」

「な。な、なにごとですか!」

 真っ青になって駆け寄ってきた10代前半ぐらいの使用人の少女に、アマベルは少々不安げな顔で問いかける。

「じ、じつは、今晩の御夕食のことで――と、とにかく来てくださいぃぃ! わたしもう、どうしたらいいか――!」

 少女は今にも泣き出しそうだ。

「ま、まずは落ち着きなさい。すぐ行きますから。――す、すみません、ティーサイト様。これで失礼しますっ!」

 自身も微妙に平静を失ったままそう言って、アマベルはティースに一礼すると、

「さ、どこ? どこでなにがあったの?」

「じ、じつはヴァレンシアさんが――」

 2人はそのまま早足で食堂へ続く通路へと消えていった。

「……」

 アッという間の出来事に、呆然とそれを見送ったティース。

 とはいえ特別珍しいことではない。このミューティレイク別館はたわいのないトラブルの発生率が多い場所だ。

「でも……そっか。壮行会か」

 その言葉に、まだ少しあいまいだったものが急に輪郭を帯びてきたような気がした。

 明日、出発。

 そこから日にちがあるとはいえ、あとは試験会場へ一直線だ。戻ることはない。

 ピタッと大階段の前で足を止めた。

 少し上を見上げると、ミューティレイク家のシンボルである六剣の紋章がある。

 心が引き締まる感じがした。

 デビルバスター試験。

 大陸の8割以上を占める数々の領地から数千人が受験するが、受かるのはその1パーセント未満と言われる。しかも危険を伴う試験のため、受験するのは皆それなり以上の鍛錬を積んだ者ばかり、冷やかしなどひとりもいない……その中の1パーセント未満なのだ。

 超難関であることは言わずもがな。しかし受ける以上は可能性がないわけではないし、もちろん受かるつもりでいる。

 そしてもし受かれば――

(……っても、突然なにか変わるわけじゃないか)

 受かるのが目的ではない。

 脳裏を過ぎったのは、今までに感じてきた様々な想い。

 そこに一歩近付く――受かることでデビルバスターとして様々な特権も授与されることになるが――個人的にはただそれだけのことだ。

 体が熱くなった。

 進んでいる実感がある。

 一歩ずつ。

 いつか誓った、目標に。

 そしてもう一歩。

 思いっきり踏み出す。

 いや――

「あ……」

 階段を1歩上ったところで、ティースは足を止めた。

 ふと心に引っかかったもの。

「そうだ、シーラのヤツに言っとかなきゃ。まぁ知ってるだろうけど、2ヶ月もいなくなるんだし……」

 ひとりごとをつぶやいて、以前屋敷を空けてしまったときのことを思い出す。

 考えてみればそのときのことが原因で彼女はストレートでは卒業できず、今も学園に通うことになっているのだ。

「今年こそは卒業してもらわなきゃ。それで――」

 思わず言葉が止まって、

「……その後って、どうすんだろ」

 ふとそんなことを考えた。

 まったく抜けてるというか、彼はそれをまったく考えていなかったのである。

 名門サンタニア学園の薬草学科卒となれば、彼女の夢である薬師への道は半分以上開かれたと言ってもいい。基本的にはどこかの薬師に弟子入りするのだろうが、好成績で卒業することが濃厚な彼女の場合、援助さえ受けられるならすぐに店を開く道もあるだろう。

「店かぁ。それってネービスでやるのかな。それとも――」

 そこまで考えて、ティースは再び頭上を見上げた。

 彼女が今日、早くに帰ってきていることは知っていた。

 そして決意する。

「……そういうことって、きちんと話しておかないとダメだよな。そろそろ」




 壮行会とは言っても、特に派手なことがあるわけではなかった。

 いつもより若干多くの人が食堂に集まり、いつもはしないような話をする。

 そこには屋敷のデビルバスター全員がいた。

 アクア=ルビナート。

 レインハルト=シュナイダー。

 レアス=ヴォルクス。

 そして、アルファ=クールラント。

 いつもより少し豪華な食事と、少し高級なお酒。

 アクアはいつもより饒舌に絡んできたし、レイはいつもと変わらぬ態度でときおりティースやパーシヴァルをからかい、レアスは他の面々が手にした酒の杯をどことなく憮然とした顔で眺めていた。……自分のジュースには一度も手を付けず。

 アルファは相も変わらず、どこか一点を見つめたまま動かなかったし、場の雰囲気に呑まれたアオイは早々に酔いつぶれ、主人であるファナに介抱される始末。

 そんな雰囲気の中、

(あ、もうこんな時間か……)

 ティースもまたいつもより飲みすぎた。といっても明日に支障があるほどではなく、ちょうどほろ酔い気分といったところか。

 テーブルの料理は8割方片付けられ、何人かがすでに退席したころ。

「……あれ、ティースさん。もう戻るんスか?」

 パーシヴァルの呼びかけにティースはうなずいて、

「ああ、パース。ちょっと飲みすぎたみたいでね。……アクアさんの相手、よろしくな」

「え!? ちょ、ちょっとティースさん――!」

 抗議の声が最後まで聞こえることはなく。

「パースくぅん……おねーさん、遠くから応援してるから、頑張ってくるのよぉぉぉぉ……」

「えっ、うわっ、ちょ、まっ、アクアさ――うわぁぁぁっ」

「……すまん、パース」

 珍しく他人に厄介ごとを押しつけることに成功し、ティースは食堂を出た。

 時間は午後9時半を過ぎたぐらいだろう。屋敷の中は静かで、食堂以外を担当する使用人たちは今日の反省会も終えて各々寮や自宅へ戻ったようである。

「……ちょっと飲みすぎたかな」

 相変わらず雰囲気に弱い性格だなと少しだけ自嘲して、歩き出す。向かう先はもちろん、彼より15分ほど先に退席したシーラの部屋だ。

 階段に足をかける。

 玄関ホールには誰もいない。

 しん、と。

 にぎやかだった食堂とは雰囲気が一変。

 紅い月と、照明の薄明かりの中、頭上に見える六剣の紋章にチラリと目をやって階段を上った。

 遠くで聞こえる犬の遠吠え。

 階段の途中から見える外の景色は、緑の芝生が春風にそよぎ、桜色の花がはらはらと舞う、雅やかな月夜の情景。

 食堂を出てから階段を上りきるまで、誰にも出会うことなく。

 彼女の部屋の前もまた、静寂の中にあった。

「……」

 少し胸がドキドキしているのは、アルコールのせいだろうか。

(……灯り、消えてるみたいだ)

 ドアの隙間を見てティースはそう思ったが、まだ食堂を出てからそれほど経ってないし、寝ているということはないだろう。

 あるいはどこかに行っているのだろうかと思いつつ、軽く扉をノックする。

「開いてるわ」

「あ……」

 意外にもすぐに反応があって戸惑ったが、

「あ、シーラ。俺だけど……」

「ええ。ノックの音でわかる」

「あ、そっか……」

 納得しながらも、少しいつもと違う空気があった。その理由はドアノブをひねって中に入った瞬間にわかる。

「あれ……」

 部屋の中にかすかに果実の香り。

「なんとなくだけど、来るような気がしてたわ。……ファナの口癖じゃないけど、本当に、なんとなく、ね」

 もしかしたら寝支度をしているかと思っていたが、その予想は見当違いの方向に外れていた。

「お前、それ……」

 彼女は窓ぎわの椅子に腰掛けていた。

 金糸の刺繍が入った黒いベルベットのトップは彼女のお気に入り。お気に入りだが滅多に着ることはない。

 ティースが前にそれを目にしたのはいつだったか――

 そして薄暗い室内の月明かりに浮かぶ、ぞっとするほど美しい彼女の横顔。

 そこにほんの少しだけ紅が差していた。

 もちろん紅い月のせいではない。

「どうしたの? ああ、これ?」

 シーラは彼の表情を見て、そしてすぐに視線を手元のワイングラスに落とし、少しうわずった声で答えた。

「変かしら。でも今日からは私がこうしていても誰も眉をひそめたりはしないのよ」

「今日から……? あ、そうか。今日って――」

 言われてティースは思い出した。

「今日で16歳か……」

 そう。今日は彼女の16歳の誕生日だ。

「そっか、そうだよな……」

 彼がそのことを失念していたのは、決して彼女をないがしろにしていたからではない。

 彼らの本当の故郷であるジェニス領には、誕生日を迎えた本人を祝うという風習がそもそもなく、代わりに親に感謝し親孝行をする日とされてはいるものの、近くに親のいない彼らにとってそれほど重要な日ではなかったためである。

 だが、このネービス領での16歳といえば確かに、完全に大人として認められる年齢であり、彼女の言うようにお酒を飲んでもなんら問題のない年齢でもあった。

「立ってないで中に入ったら? それとも用事もなくノックしたの?」

「……」

 彼女の視線を受けて、ティースの心臓は少しだけ速さを増した。

(うわ、まずい……)

 アルコールでほんのりと赤くなった彼女の顔。その表情が彼に、思い出してはいけないこと――いつかの、不可抗力で彼女とキスしてしまったときのことを思い出させてしまったのだ。

(……あああっ! しっかりしろ、俺!)

 首を振って手綱をギュッと引き絞る。とてつもなく強固な鎖で作られたそれは、わずかに波立った彼の心をなかば強制的に抑え込み、そこに秩序を呼び戻した。

 そして口を開く。

「ああ、いや。実はちょっとお前に話があってさ」

 動揺しないよう、意識的に語気を強めた。

「話?」

 ティースは後ろ手にドアを閉じ、薄暗い足元に注意しながら進んで、彼女から1メートルほど離れたソファに腰を下ろした。

 背の低いソファに座ることでちょうど彼女と目線の高さが同じになる。

「まだ先のことなんだけど……俺、2ヶ月もここを留守にするし、それに大事なことだから早めに決めておいた方がいいと思って」

「大事なこと?」

 シーラは少し不思議そうな顔でワイングラスをガラステーブルの上に置いた。その仕草がいつもより艶やかに見えるのはやはりアルコールのせいだろうか。

 またどきりとして、ティースは慌てて言葉をつなぐ。

「ああ。その、単刀直入に聞くけど……お前、学園を卒業した後のことって考えているのか? どうするつもりなんだ?」

 真剣に尋ねたつもりだった。

 だが、予想に反し、シーラはふっと口元を緩めて微笑する。

「もちろんずっと前から考えているわ。……今まで聞かれなかったから興味がないものとばかり思ってたけれど、違ったのね」

 痛いところを突かれた。

「うっ……いや、俺もだいぶ前から気にはしてたんだけど、ほら、なんとなく聞ける機会がなくて……」

「そう」

 信じたのか信じてないのかなんとも言えない微笑を浮かべたまま、シーラは少しだけワイングラスに口付けた。

「……」

 また少し、動悸が早くなる。

「そ、それで、どうするんだ?」

「どうすると思う?」

「え……」

 珍しく悪戯っぽい口調に戸惑いながら、ティースは彼女の手元に視線を移した。

(……結構、飲んでるのかな)

 ワインのビンに残った量を見ると、どうやらそれが最初の1杯ではない。ワイングラスにして3杯目ぐらいか。無茶な量ではないが、なにしろ初めて口にするアルコールなのだろうし、それなりに酔いが回っているのかもしれない。

 そしてどうしようか、と、迷う。

 大事な話をこんな状態で続けるのは良くないが、今日を逃せば次に話ができるのは2ヶ月後だ。

 少し迷った後、

(……結論は出てるみたいだし、いいのかな……)

 それに、と、ティースは思う。

 ほんの少しだけ、楽しい。

 アルコールのせいだけじゃない、少し浮かれた気分。

 会話もいつもよりスムーズだ。最近ではあまりないことで、そんな状況がもう少し続くならそれも悪くはないと、そう思ったのだ。

「飲まない?」

「え?」

 シーラが空のワイングラスをティースに差し出した。

「え? あれ、なんでグラスが2個……」

「だから言ったでしょう。なんとなくお前が来るような気がしてたのよ」

「……ああ、そっか。でも俺は下で結構飲んだから――」

「そう。だったら、私が全部飲んでもいいかしら?」

「え、全部って……それ全部か?」

 ワインのビンにはまだ7割以上残っている。初心者の彼女にはいくらなんでも無茶な量だ。

「じゃあ……もらうよ」

 仕方なく、ティースは差し出されたワイングラスを手に取った。

「そう。じゃあ……」

 うなずいた彼女は少し嬉しそうに見えた。

「……」

 ワイングラスに注がれる紫水晶の液体を無言で見つめ、ティースはそれに口を付け、のどに流した。

 2口、3口。

 ワイングラスはアッという間に空になる。

 シーラは目を丸くして、

「……意外ね。お前のことだからお酒も弱いと思ってたわ」

「よく言われるよ。でもこれでも案外、普通の人ぐらいには飲めるんだ」

 苦笑し、2杯目を受ける。

 悪い気分ではない。いや、むしろ楽しい。彼女とお酒を飲む機会が訪れるなんて今まで想像したこともなかったが、決して悪いものではなかった。

 そしてティースは先ほどの問いかけに答える。

「たぶん……この近くで店を出すとか、弟子入りするとか……そういうこと考えてるのかなって思ってたけど……」

 少し言葉を切って、それから少しためらいがちに加える。

「あとはカザロスに戻る……とか」

「カザロスに?」

 まったく考えてなかったのか、意外そうな顔だった。

 ティースは視線を落とし、ワイングラスを両手で包みながら、

「ああ。いや。誕生日だからってことじゃないけどさ……でも、お前にはまだ親がいるんだし、そういうことも考えてるのかなって」

「……」

 シーラは少し黙って、窓の外に視線を移した。

 そしてポツリと、

「そうね。来年の今ごろなら、どうしてもここにいなきゃならない理由もなくなってるかもしれない」

「……」

 なにも言葉が思い浮かばず、ティースは黙ったまま手持ちぶさたに3杯目のワインに口を付けた。

「お前は、どう思う?」

 シーラはそう言って彼を見つめる。

「それも悪くないんじゃないか……とは思うよ」

 ティースは手元に視線を落とした。

 ……勢い良く飲みすぎたのだろうか。少し頭の回転が鈍くなっていた。

 そのせいか。

 普段はあまり口にしないようにしている話題が、自然と口をついて出てきた。

「……ちょうど3年だよな。あれは確か、お前の13歳の誕生日だったから」

 思い出す――故郷の情景。

 このネービスより少し南東の方角、大陸全体からみると東の端に位置するジェニス領のカザロスという街。自然が多く雨の多い、少し山側の農業の盛んな街。

 ――目を閉じると今でも鮮明に思い浮かぶ。

 黄土色の緩やかな坂を上ったところに見える、赤い屋根と白い壁、その左右には綺麗な花畑があり、背中には緑の森を背負って、玄関の前には飾り気のない大きな馬車。

 坂を上りきって振り返ると、ポツポツと見える家々と黄金色に輝く広大な穀物畑があって、小さくなった人々が一生懸命に動いている。

 呼びかける声に再び振り返ると、そこには赤と白でできた、カザロスでもっとも大きな建物。玄関の前には姉代わりだった面倒見のよい使用人の女性と、両親を亡くした彼を長い間可愛がってくれた好々爺然とした執事の男性。

 そして――

 ティースはつぶやくように言った。

「……俺、お前をここに連れてきたことは後悔してないよ。いつも遊び回ってるようなことを言ってたから不安に思ったこともあるけど……でも実際は学園でもトップクラスの成績だっていうし、ディアナさんもお前のこと、浮ついたところなんてちっともないって言ってた。だから」

 シーラはじっと彼を見つめていた。

「でも……」

 ティースは視線を上げないまま、続けた。

「同時に悪いことしたなって気持ちもずっとある。だって、そうだろ? ……あなたは――ああ、いや」

 首を振って言い直す。

「お前は、旦那様にとってたったひとりの娘で……優しかった奥様の忘れ形見で……それを俺なんかが連れ出しちゃって。旦那様が、親切にしてくれた他のみんなが、今どんな思いでいるんだろうって。たまに想像して夢に見るんだ」

 一瞬だけ、沈黙。

 シーラは再び視線を窓の外に移して、

「……お前が気にすることではないわ。私が命令して、お前はそれに従っただけだもの」

 だが、ティースは少し笑って答えた。

「違うよ。だって俺はあの前の日の夜、眠れずにひと晩中悩んだんだ。悩んで、悩んで、それで決めたんだ。俺は……どうしてもあなたに幸せになって欲しくて……」

「……」

 美しいまつ毛がかすかに震えて、シーラはそれを抑えるように眉をひそめた。

 なにかを言いかけて、やめる。

「だから……ああ、いや、でも、もし戻ったりしたら、きっとリィナもエルも淋しがるな……」

「そうね。……それにお前はもう戻れないわ。私が戻ったら、もう――」

「……」

「……」


 長い、長い沈黙だった。


「……ティース?」

 彼女が寝息の音に気付いたのは、それから5分近くも経ってからのことだ。見ると、彼はいつの間にかテーブルに頭を乗せてすやすやと眠っていた。

 無理をしたのだろう。彼が飲んでいたのはここに来てから5杯目。ワインのビンはほとんどカラになっている。

「……」

 シーラは少しそんな彼を眺めた後、小さく口を開いてため息をこぼすと窓の外に目を向けた。

「……本当に人がいいんだから」

 残ったワインをグラスに注ぎ、ゆっくりと飲み干す。

 アルコールを口にするのは正真正銘、初めてのこと。だが、両親のどちらから受け継いだものか、彼女は滅法強い体質のようだった。頭が少しぼんやりしてはいるものの、思考は完全にいつもどおりだ。

「お前がそうでも、私はとても後悔してるのよ。……そう、とてもね」

 きしっと椅子が鳴る。

 美しい紅月夜。ワインと同じ色の月が彼女を見下ろしている。

 もうひとつ、深いため息。

「でも……」

 シーラは視線を落とし、ティースの寝顔を見つめた。

 静かに微笑が浮かぶ。

「最近のお前を見てたら、結果的にはこれでよかったのかもしれないとも思う。……お前は私以外に、もっとたくさんの人に必要とされているようだもの……」

 背もたれに体重を預ける。

 そしてシーラはゆっくりと目を閉じ、少し火照った体を冷ますようにしばしの間、ゆっくりと流れる時間に身を任せたのだった。




 翌朝。

 小鳥の囀りが意識を運んでくる。

「ん……んん……?」

 まだ少しどろどろとした意識の中、ゆっくりと身を起こしたティースは自分の体に起きていた異変にすぐ気付いた。

「い、いてて……」

 関節が痛い。

 それもそのはず。彼が目を覚ましたのはいつもの体になじんだベッドの上ではなくソファの上、それも体を前に折り畳んで突っ伏した形だったのだから。

「んー……あ、えっと昨日は……?」

 頭も痛い。

 そこで彼はようやく酒を飲んだことを思い出し、

「あ、そうか。昨日は確か壮行会があったんだっけ――」

 二日酔いのようだがそれほどひどくはない。

「あれ、でもその後、確か……あれ?」

 肩に毛布がかかっているようだ。

 だが、彼はそれを視認できなかった。

「……へ?」

 目の前が暗い。……どうやらなにか布きれ、目隠しのようなものが巻かれているようだ。

「なんだ、これ……いったい誰がこんないたずら――」

 つぶやいて、ほどこうとして、そしてハッとする。

「あれ……昨日って確か――」

 ぼんやりとしていた鼻の粘膜を、特徴ある花の匂いがくすぐる。それはこの屋敷でおそらくひとりしかつけていない香水の薫りだ。

「……あ」

 そしてようやく、昨晩最後にいた場所を思い出した。と同時に、急に背中に冷や汗が浮かぶ。

 目隠しをほどこうとした手をそっと下ろした。

 彼自身は昨日と同じ体勢のまま。あれから移動した形跡はない。

 遠慮がちに、口を開いた。

「シ……シーラ……?」

 間違いない。ここは彼女の部屋だ。昨日酔いつぶれたまま、彼女の部屋でひと晩を明かしてしまったのだ。

「シーラ……?」

 さらに遠慮がちにもう一度。

 今は何時だろうか。まだ寝ているのかもしれない。だとすると起こすのはまずい。といって目隠しを外すと、彼女の寝姿を見ることになってしまう。……それもちょっと気まずい。バレたら恐ろしいし、それはものすごく悪いことのような気がした。

 とすると――

(目隠ししたまま……出るしかないか……)

 室内で人が動いている気配はない。とすると、彼女は寝ているか部屋の外にいるかのどちらかだろう。

 幸い部屋の状況は昨日の記憶がある。出口までたどり着くのはそう難しいことではないように思えた。

(よ、よし……)

 肩に置かれた毛布を畳んでソファの上に置き、ティースはゆっくりと動き出した。

 ゆっくり。

 ゆっくり。

 と。

(……あれ?)

 そしてティースは気付いた。

 部屋の右手から、かすかな水音がする。

(えっと、あっちは確か……)

 部屋の入り口ではない。

 だが、そこにもうひとつ部屋があることは知っている。

「!」

 そしてティースは、この目隠しの本当の意味を理解した。

 そこは1階の大きな浴場とは別に客間に備え付けてある、小さな湯浴場だ。

 つまり、彼女は今――

 それを理解すると同時に、

「うわぁぁぁぁっ! すっ、すまんっっっ!!」

 ティースは目隠しを投げ捨て、勢いよく駆けて部屋から飛び出した。

 バタン!!

「……はあっ、はあっ」

 壁に背を預け、ズルズルとそこにしゃがみ込む。

 心臓がバクバクいって、二日酔いが一瞬で吹っ飛んだようだった。顔が火照ってとてつもない罪悪感が芽生えてくる。

(ま、待て、落ち着け! 俺はなにも見てないし、なにも聞いちゃ――いや音は聞こえたけど、そ、そうだよ。ただ顔を洗ってただけかもしれないじゃ――)

「どしたの、ティース?」

「おわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 急に声をかけられてティースは文字通り飛び上がった。今度こそ本当に心臓麻痺を起こしそうだった。

 動悸を抑えながら振り返った視線の先――

「な、なんだ、エルか……驚かさないでくれよ!」

 そこにいたのはティースやシーラと幼なじみの少女、エルレーン=ファビアスだった。

「お、驚いたのはこっちだよ、もぅ」

 もともと愛らしく大きな目をさらに見開いたエルレーンはそう言って、大きく深呼吸する。

「それよりどうしたの? そこシーラの部屋だよね?」

 いきなり答えにくい質問だった。

「へ? あ、いや。その……えっと、いや、実はほら、あいつにいつもみたいに怒られちゃってさ。そ、それで慌てて出てきたんだ」

「怒られた?」

 エルレーンは不思議そうな顔で小首を傾げる。

「でもシーラ、今は湯浴中でしょ? だって、ほら。ボク、さっきシーラに頼まれて、洗濯終わった着替え持ってきたんだよ?」

「え……あ、いや……」

 ティースの顔は真っ赤になってどこからどう見ても怪しい態度だが、見つけたのが彼女だったことが幸いだった。

 エルレーンは微笑んで言った。

「あ、言いにくいことがあったなら別にいいよ。キミがシーラに悪さするなんてことあるわけないもんね」

「……」

 事実そのとおりだし信頼されていることは嬉しく思うが、なぜだかほんの少しだけ後ろめたい。

「……あ。そうだ、エル」

「うん?」

 ドアノブに手をかけた体勢でエルレーンが振り返る。

 ティースは言った。

「ちょっと前にも言ったと思うけど、俺、今日から2ヶ月ぐらいいなくなるからさ」

「あ、うん。最近、みんなの間でもその話で持ちきりみたい。……大丈夫。難しいっていうのは聞いてるけど、キミならきっと受かると思う。応援してるよ」

「サンキュ」

 彼女の言葉はいつもまっすぐで、聞くだけでホッとする。仕事場ではマスコットのような存在だと聞くが、それもうなずける話だとティースは思った。

 ティースは続けて、

「えっとリィナはもう仕事だよな? いま何時なんだ?」

「6時半。さっきちょうど朝ご飯の準備が終わったとこだから、顔洗って、食堂に行った方がいいよ。リィナは今は忙しい時間じゃないかな? 見送りには行くって言ってたけど」

「あ、そうか……」

 若干遅いが、それでも大寝坊したというわけではないらしい。

「んじゃ、会えるかどうかわからないし、リィナによろしくな。それとシーラにも。あいつ、いつ出てくるかわからないし……」

「え?」

 だが、エルレーンは怪訝そうに首をかしげた。

「よろしくって、どういう意味?」

「え?」

 そんなにわかりにくい言葉だっただろうか、と、ティースの方も怪訝に思いながら、

「だから、ほら。一応あの2人にも言ってあるけど、2ヶ月って結構長いし、まぁ、俺がいなくても特に困ることはないと思うけど……」

「……あれ?」

 エルレーンは不思議そうにシーラの部屋のドアを見つめ、それから再びティースを振り返ると、驚愕の言葉を口にした。

「だってシーラも一緒に行くんだよね?」

「……へ?」

 ティースはびっくりして、

「いや、そんな馬鹿な。そんなわけないだろ。だってあいつには学園の講義があるじゃないか」

「え? でもボクはそう聞いてたけど……」

「どうしたんですか?」

 そこへちょうど、リィナが山のような洗濯物を抱えて通りかかった。

「ねぇ、リィナ。今日だけど、シーラもティースと一緒に行くって言ってたよね?」

「?」

 抱えた洗濯物の奥でリィナは少し首をかしげて、

「ティース様の試験の話ですか?」

「うん、そう」

 リィナは不思議そうにティースの顔を見て、

「ええ。そう言ってましたけど……それがどうかしたんですか?」

「い、言ってたって、誰が?」

 うろたえるティースにリィナは答える。

「シーラ様ですよ。おととい、確かエルさんと一緒にいるときに。ですよね?」

「うん。講義は去年のうちにほとんど終わってるから本当は試験以外行かなくても大丈夫なんだって。ティース、聞いてなかったの?」

「き、聞いてないもなにも……昨日の夜だってそんなこと一言も……」


 それはティースにとって想像外の、まさに晴天の霹靂の話であり。

 そしてそのことはやがて、彼らの関係を動かす大きな事件を引き起こす結果にもなるのだった――。


-了-

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