その5『心構え』
コートニーが捕まった日から3日後。
「ん?」
護身術の講義のため、昼ごろにサンタニア学園にやってきたティースは、そこで敷地の一角を歩くシーラの後ろ姿を見つけていた。
ちょうどランチタイムに入ったばかりだろうか。
彼女は同じ学園の生徒らしき少年と一緒に歩いていたが、どうやらオーウェンではないようだ。
不思議に思って少しの間立ち止まって眺めていると、
「あ、せんせ。なにしてんの?」
「え?」
後ろから声を掛けてきたのはディアナだった。
「ああ、ディアナさんか」
ティースは彼女の姿を認めると、左右に視線を動かして辺りを見回した。それから彼女に視線を戻して、
「いや、ちょっとね……」
少し口ごもったが、ディアナはすぐティースの視線の先にいるシーラに気づいたらしく、納得顔になると、
「ああ、アレ? 見てたらすぐわかるよ、きっと」
「?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、一緒に歩いていた男子生徒が立ち止まり、シーラはそれを振り返りもせずに歩いていってしまった。
「たぶん今月の初撃墜。まあ5月になったばかりだけど」
「撃墜? ああ……そういうことか」
つまり一緒に歩いていたわけではなく、男子生徒がシーラの気を引こうと話しかけていただけなのだろう。
話ではよく聞くものの、実際そういう場面を目撃するのは初めてのことで、なんとも変な気持ちだった。
ディアナは苦笑して、
「あの子ってば入学当初からああいうのは全部無視なの。どっか来てくれって言われても絶対行かないし、ゲリラ戦じゃないと告白すらできないみたい。それでも玉砕する子が後を絶たないっていうからすごいんだけど」
「なるほどね。でも、オーウェンくんはどうして?」
と、かねてから気になっていた疑問をぶつけてみる。
「オーウェン? 最初は相手にされてなかったなぁ、確か」
「ふーん」
なんてうなずいたところで、
「ティースさーん」
「え?」
遠くから覚えのある声。
視線を真横に向けると、並木を挟んだ向こうの道から春色のワンピースに身を包んだセシルが手を振っていた。栗色の髪からのぞく水色のヘアバンドが可愛らしい。
(あ、そっか。あの子もここの生徒だったなぁ)
ティースの仕事場である屋外競技施設が薬草学科の校舎と少し離れているとはいえ、今まで一度も顔を合わさなかったのが不思議なぐらいだった。
ティースが小さく手を振り返してやると、セシルは満面の笑顔になって、
「講義、頑張ってくださいねー」
彼女は友人と一緒だったらしく、そのまま手を振りながら通り過ぎていった。
ディアナはそれを見ながら不思議そうに、
「あの子も先生の知り合い?」
「ん? 知ってるの?」
「薬草学科の子だよね。後輩と同じ講義を受けることもあるから、名前は知らないけど顔は見たことある。ふーん」
「え、なに?」
するとディアナは少し意地の悪い笑みでティースを見て、
「先生って意外と面食いなんだなーと思って」
「へ? あ、ああ。いや、そんなんじゃないよ。あの子は僕の仕事仲間の身内なんだ。だからそういうんじゃ――」
「あはは、冗談だから。でも、そういう巡り合わせってたぶん、先生の天運っていうか、そういうものだと思うなぁ」
「天運?」
「そう。可愛い女の子に振り回されたあげく不幸になる、女難の運命、みたいな?」
「……」
完全には否定できない。
ティースが情けない顔をしていると、ディアナはおかしそうに笑いながら言った。
「でも先生、女難ってゆーのは、女の子に好かれない人には起こらないんだよ。だから喜んでいいんじゃないかなぁ」
「好かれるのは嬉しいけど、災難はゴメンだよ……」
そもそもモテないしね、と、心の中で付け足す。
「あはは。じゃ、行こっか。せっかくだし、お昼一緒に食べようよ」
「あ、いや。僕はもう食べてきたんだ」
「じゃあ一緒にいるだけでいいからさぁ。授業まではまだ時間あるでしょ?」
ディアナはいつもより楽しそうだ。
「……そうだね」
考え、少し視線を泳がせた後、ティースはそう言ってうなずいたのだった。
はっ、やぁっ、というかけ声が教室の中に響いている。
「みなさん、だいぶ慣れてきたみたいですね」
目の前にタオルが差し出され、ティースは顔を上げた。
リィナだった。
「ああ。やることなくてヒマなぐらいだよ」
そう答えて笑う。
「そっちは大丈夫? 君だって初心者だから大変だろ?」
「ええ」
正直にそう答えながらもリィナは微笑みを浮かべて、
「でも、私もみなさんと一緒に学んでいるみたいで楽しいです。向こうにはこういう風習はありませんでしたから」
「そっか」
その様子にティースはホッとしながら、視線を生徒たちの方に戻した。
14人――いや、オゥムが薬の影響で休学したため13人に減った生徒たち。
結局彼は麻薬クゥエルダの常用者だったらしく、彼の証言から、どうやらこのサンタニアと、その他のいくつかの学園ですでに何人かの生徒が捕まったらしい。
麻薬が学園群に広まっているといううわさは、やはりただのうわさではなかったということで、おそらくは今後もたくさんの生徒が捕まるだろう。
その麻薬の進入経路に関しては、ネービスの警邏隊が必死になって調べて始めているところで、学園の責任者たちはおそらく多忙な日々を送っていることだろう。
とはいえ。
それらは大半の生徒にとってはあまり関係もないことで、学園は今日もだいたい通常通りに動いていた。
「……せんせー」
「ん?」
講義も終盤に差し掛かったころ。
全員で同時に休憩を取っていると、女生徒のひとりが手を挙げた。
「先生って、護身術の他にも色々武道みたいのやってるんですよね?」
「え? いやまぁ、そりゃあね」
むしろ護身術は本職ではなく、剣術の他に基本的な体術はもちろん習得している。
女生徒は言った。
「護身術とはちょっと離れるかもしれないんですけど、いっぺん誰かと実戦みたいのってやってみてもらえませんか? そういうの、間近で見てみたくて」
「実戦? 組み手のことかい?」
戸惑った。興味本位のようだが、確かに時間も少し余っている。
ティースは軽い気持ちで答えて、
「それは構わないけど……でも誰かって、誰と?」
「そりゃ私たちじゃ絶対敵わないし、男子の誰かで」
なんとも無責任な発言に男子生徒からいくつか非難の声があがった。だが、発言した女生徒は平然として、
「馬鹿ねぇ、あんたたち。せっかくいいとこ見せるチャンスをあげてるのに」
しぃん、と男子生徒たちが静まった。
一瞬なんの話なのかティースにはわからなかったが、男子生徒たちの一瞬の視線の動きを見てなんとなく事情を察した。
(……いいとこ見せるって、そういうことか)
この授業も残すところあと数回。それが終わればここに集まっている他学科の生徒とはほぼ接点がなくなってしまう。
もちろん同じ学園内なのだからやろうと思えばいつでも会えるだろうが、簡単に自分をアピールする機会はそうそう訪れないだろう。
(……みんな勉強ひとすじなのかと思ったら、案外そうでもないんだなぁ)
と、まあ。もちろん不真面目だなどと怒るようなことはなく、むしろ微笑ましいとさえ感じるのであった。
(よし。じゃあ少し手加減して協力してあげようかな)
などと妙な親切心まで発揮してしまったのだが、しかし。
いくらティースが頼りない外見をしているといっても本気で勝てると思っている者はまずいないだろうし、大半が本当の初心者だ。
なかなか決まらない。遊び半分ならまだしも、女生徒の発言によってどうしても無様な姿は見せられないという空気が広まってしまったようだ。
結局、女生徒の提案はそのまま立ち消えになるかと思われたそのとき、
「じゃあ、俺がやります」
ひとりの男子生徒が手をあげた。
「え?」
ティースは面食らって立ち上がった男子生徒を見つめた。
「……オーウェンくんか。無理しなくてもいいけど、大丈夫?」
「はい」
意外、とはいえない。この講義において、彼は間違いなく男子生徒の中でもっとも優秀だった。そんな空気もあって、押し出されるように手をあげたのだろう。
ただ、ティースにとっては一番やりにくい相手だった。
「……」
シーラの視線を感じる。いや、そこに特別な意味などないのかもしれないが、どうしても彼女の目を意識してしまう。
しかし、一度やると言ってしまった以上は仕方がない。
(……まいったなあ)
オーウェンと対峙すると、周りの生徒たちから歓声が飛んだ。
ティースは言った。
「えっとまず、絶対にムリはしないこと。怪我でもしたら大変だからね」
オーウェンは少しだけ緊張した面もちで、
「大丈夫です。子供のころから徒手の武道場に通ってますから、だいたいの雰囲気はわかります」
「……なるほどね」
経験者だったというわけだ。それなら他の生徒たちと動きが違っていたのもうなずける。
(……とはいえ、さて。怪我なんてさせたら絶交されかねないしな……)
手加減をするのは当然として。あえて負けてみせるという手もあるが、それはさすがにわざとらしい気がした。
勝つにしてもどのぐらい苦戦するか、そのさじ加減がどうにも難しい。
(うーん、悩ましいなぁ……)
「ティース様! もう始まってますよ!」
「へ?」
気付いたときにはもう遅かった。
クルッと視界が回転して――
……どすん!!
「いてててて……」
「大丈夫ですか?」
情けないにもほどがある。ティースは生徒に軽く投げ飛ばされ、満足に受け身も取れずに腰をしたたかに打ち付けてしまったのだ。
講義終了後、オーウェンは責任を感じたのか残って心配そうにしていた。
「すみません。緊張してたせいか、先生の準備が終わってないことに気付かなくて……」
「ああ、いや……はじめの声に気づかなかったこっちが悪いよ。心配させて悪かった」
ティースはそう言ってオーウェンをなぐさめたが、そこへ冷たい言葉が突き刺さる。
「そうよ。あんなときにボーっとしてる方が悪いわ」
そう言ったのはもちろんシーラだった。そんな彼女はいま、すりむいてしまったティースの左腕の手当てをしている。
「う、うん。彼女の言うとおりだ……」
ティースとしても引きつった笑顔でそう答えるしかない。
「あはは、でもいいじゃない。その後に仕切り直して、腰をかばいながらでも汚名返上できたんだし」
そう言ったのはディアナだ。
「ちょっと本気っぽくてカッコ良かったよ、せんせ。なんかいつもと別人みたいだった」
「いや、はは……」
ストレートな物言いにティースが照れていると、
「当たり前じゃない。講師が生徒より弱かったら困るわよ」
「……」
まったくそのとおりである。そのとおりではあるのだが、もっと言い方ってものがあるんじゃないかと、ティースは主張した。
あくまで心の中で、だが。
「ほら、これでもう大丈夫でしょ。じゃ、私は帰るわね」
そう言ってシーラは鞄を手に――一瞬だけティースとディアナを見て、さっさと行ってしまった。
「あ、シーラさん。……すみません、先生。じゃあ俺もこれで」
オーウェンもそう言って鞄を手に取る。
「あ。ああ、悪いね。わざわざ残ってもらっちゃって」
「いえ。また明日……は休みですから、あさってですね」
手を振ってオーウェンはシーラの後を追いかけていった。
そこに残ったのはディアナだけである。今日はリィナも先に出て、途中でシーラと合流して一緒に帰ることにしているようだ。
ディアナは2人が出ていったのを見届けると、ティースのそばにかがみ込んで言った。
「先生、どう? そろそろ薬効いてきた? あ、シーラのじゃなくて、あたしが腰に貼ったほう」
「え。あ、ああ。なんだかすーっとしてきたよ」
ディアナは嬉しそうに、
「その湿布用の薬液、あたしが午前中の授業で作ったんだ。あ、もちろんちゃんと使用許可もらったから」
「ああ、そうなのか。なんか市販の物とは違うなと思ったけど……」
「長く貼ってると肌に悪いから、夜にはちゃんと取り換えてね……って、たぶんシーラがちゃんとしてくれると思うけど。あ、お屋敷だもんね。お医者さんもいるんだっけ?」
「ああ。でもとにかく楽になったよ。ホントの薬屋さんみたいだ」
「いちお、3年以上勉強してますから」
そう言ってディアナは笑った。そして視線を横――シーラたちが出ていった方に向けると、
「オーウェン、今日こそシーラと一緒に帰れるかなぁ……って、無理か。なんか色々深い事情があるっぽいもんね。シーラって」
「……」
ティースはゆっくりと立ち上がった。腰が痛むといってもそんな大げさなものではない。
「さて、じゃあ今日も一緒に帰ろうか?」
「え、いいんですか?」
「そりゃもちろん」
「やった!」
ディアナはぴょんと飛び跳ねて、鞄を手に取ると、
「じゃあ行こ行こ。寄り道とかアリ?」
「あまり遅くならないぐらいなら、ね」
ティースはそう言ってうなずいた。
そして帰り道。
「オーウェンねぇ、先生のこと意識してるみたいよ」
「え?」
ティースが買ってあげた薄焼きのパンケーキを頬張りながら、ディアナが急にそんなことを言い出した。
「たぶん薄々気付いてるんじゃないのかな。シーラが先生と知り合いだってこと」
「え、ホントに?」
ぜんぜん気付かなかった。
マジマジ、と、ディアナはうなずいて、
「シーラの反応、先生に対してはやっぱちょっと特別なんだよね。今日だって先生が投げられた途端、一瞬だけど唖然とした顔してたしさ。なんだかんだ言いながら最後まで残って手当してたし」
「はは……さすがのあいつでも、俺がそこまで間抜けだとは思わなかったんじゃないかな」
「先生、あのときはやっぱシーラを気にしてたの?」
「そりゃあね。あいつの恋人に怪我でもさせたら大変だと思って」
「それで自分が怪我してちゃ世話ないなぁ」
おかしそうに笑うディアナに、ティースは頭をかいて、もっともだ、と思った。
見上げる空は曇っている。あまりのんびりしていると雨が降り出すかもしれない。
「……」
ティースは立ち止まって後ろを振り返った。
「? どしたの、先生?」
「いや、なんでもないよ」
ネコが通りを横切っていく。
「あ、ブチだ」
「ブチ?」
「うん。行き帰りにたまに見掛けるネコ」
「ネコ、好きなんだ?」
「そんなこともないんだけど。どっちかというと犬の方が好きかなぁ。……パンケーキ、ごちそうさまでした」
ペコリと礼儀正しく頭を下げるディアナ。
「ああ、いや。なんでもないよ、そのくらい」
手を振ってそう言うと、
「先生、シーラにもこうやっておごってあげたりするの?」
「え? あ、いや、最近はないなぁ。こうやって一緒に歩くこともあんまりないしね」
「ふーん。まぁ、確かにシーラのそういうとこ、想像できないかも。……そういや先生、コートニーのこと聞いた?」
矢継ぎ早に次の話題へと。
「……ああ。聞いたよ」
ティースは少し表情をこわばらせてうなずいた。
それはコートニーが捕まった件のことではない。彼女が警邏隊に捕まった翌日、大量の麻薬を飲んで自殺してしまったらしいという話のことだ。
とはいえ、本当にただの自殺だったと思っている者はおそらくいないだろう。警邏に捕まっていた彼女が大量の麻薬など入手できるはずもなく、自殺だったとしても誰かが警邏隊の目を盗んで彼女に接触したことになる。
「でも、どうしてそんなこと?」
ティースが尋ねると、ディアナは少し黙った。
神妙な顔で、言葉を選ぶように口を開く。
「……ねぇ、先生。先生は前、死ななきゃならない人間なんてそうそういないよって言ったでしょ?」
「ん? うん」
「あの子のことはどう思う?」
「コートニーさんかい? ……さぁ、それはなんとも言えないな。でも、かわいそうだとは思う」
「そっか。……ね、先生」
「ん?」
もう一度、空気が動く。
「もう気付いてるかもしんないけど……あたしのうちって、かなり貧乏なんだ」
目まぐるしく変わる話題は、彼女の心が不安定になっている証だろうか。ティースは追求せず、黙って先を促すように彼女を見つめた。
「ほら、いっつも先生におごってもらっちゃってるし、先生なら話してもいいかなと思って。……もともとはそうでもなかったんだけど、2年ぐらい前に父さんが事故で死んで、母さんも最近は病気で自由に動けなくなってね。だからあたしが卒業して働いて、弟が2人いるんだけど、あいつらが大きくなるまであたしが頑張らなきゃなんなかったんだ」
「……そうなのか」
ティースは少し考え込んで、そしてポツリと言った。
「それじゃあ……大変だろうね」
「ホントは今年の3月で卒業だったんだけど、プレッシャーに負けて卒業試験に落ちちゃって。あのとき受かっていればなぁ」
「……」
ティースはピタリと立ち止まった。
ここはディアナの家に続く帰り道。その中でもっとも人気のなくなる場所。
ディアナはグッと口元を引き絞った。
「……先生。送ってもらえるのはうれしいけど、お屋敷って、こっちのほうじゃないよね。もう、だいぶ通り過ぎてるよね」
「今日も、家まで送っていくよ」
ティースはうなずいて、
「受かっていれば、か。……そうだね」
感慨深げにつぶやいて、ティースはゆっくりと腰の剣に手をかけた。
「君がそのとき卒業していれば、少なくとも、こうしてシーラを悲しませるようなことはなかったのかもね」
「!」
ディアナも『それ』に気付いたようだ。
雨が落ち始めるのを待っていたかのように。
「……おそらく、こうなるんじゃないかと思っていたよ」
言葉は厳しく、どこか哀愁をまとって。
男が3人、武器を片手に路地から現れたのを見て、ティースは腰の細波を抜きはなったのだった――。
「……降ってきたわ」
帰り道、リィナと合流したシーラが屋敷に戻ってきたのとほぼ同時に、雨がポツリポツリと空から落ち始めていた。
「雨。嫌ね、雨が多いと」
部屋の窓から雨に煙る庭を眺める。外にいた使用人たちが慌てて戻ってくる姿が見えた。
「シーラ様」
そばにいたのはリィナだ。彼女の本職であるハウス・メイドの仕事着に着替え、手にはティーセットを持っていたが、これはシーラが彼女と話したいときによく使う口実だ。
「カザロスの街も雨が多かったですね」
「ええ……そうね。雨が降るたびに思い出すわ」
「私にとってあのころの記憶は、掛け替えのないものです」
「……」
「シーラ様は、どうですか?」
視線を外に向けたまま、シーラは答えた。
「あなたと同じよ、リィナ。あなたやエルは、私の掛け替えのない友人だもの」
微笑むリィナ。
だが、その表情はすぐに憂いをともなって、視線はななめに落ちる。
「ディアナさんも……そうですよね?」
「あなたたちほどではないわ」
視線を動かさず、シーラは抑揚のない声でそう答えた。
「……」
リィナは同じように窓の外へ視線を向け。
ポツリと、
「ティース様、遅いですね」
「そうね……きっとそろそろ、なんでしょうね」
得も言われぬ重い空気。
シーラはゆっくりと目を閉じた。
「馬鹿な子だわ。本当に――」
ゴッ!!
「くはっ……!」
剣の柄があごを直撃して男の体が宙に浮く。
「このっ……!」
「ふぅ……ッ!」
同時に斬りかかってきた男の太刀を円の動きで捌き、細波を絡ませて相手の剣を弾き飛ばすと、右足を振り上げた。
「ぐぅっ……!」
突っ込んできた自らの勢いで、ティースのひざがみぞおちにめり込んでいく。反吐を吐きながら倒れ込んだ男を一瞥すると、ティースは細波の切っ先を残るもうひとりの男に向けた。
残ったひとりは、覆面の上からでも人魔の証である尖った耳が見える。
「悪いけど、この子には指一本触れさせない」
ディアナを背に、細波を相手に向け、ティースは鋭い視線でそう言い放った。
「貴様……ただの護身術の講師じゃないな」
人魔の男が緊張感のあふれるくぐもった声でそう言った。
ピシャッ。
返事を待たず、水たまりを弾いて人魔が地面を蹴る。
――普通の人間とは明らかに違う、超人的な速度。
「先生! 危ないッ!!」
背後にディアナの悲痛な叫び声が聞こえた。
だが、
(……大丈夫だ。見える)
集中すると、超人的な敵の動きさえもスローに見えた。
風の下位魔だ。今まで彼が対峙してきたタナトスの人魔たちに比べれば、なんのことはない。
余裕を持って、牽制に放たれた風弾――空気の固まりを細波で弾き、迎え撃つ。
体がカッと熱くなった。
――動く。
「え……っ!?」
おそらくそれなりに実戦を経験してる下位魔が、なんとも間抜けな驚きの声をあげた。
そしてハッとした顔をする。
「お前……まさかデビルバス――」
言い終わらないうちに、細波の一撃が下位魔の意識を寸断した。
ザァァァァァァァ。
雨脚がさらに強くなっていた。
カチリ、と、鞘に戻した細波が音を立て、ティースは背後を振り返る。
「先生……」
塀を背に、カバンを両腕で抱えるようにして、ディアナは放心した様子でティースを見つめていた。驚きに目を見開いたまま、表情が見つからず引きつったような笑み。
「先生って……すごい人だったんだ……」
「そんなことはないよ」
ティースはそう答え、地面に倒れ伏す3人を見下ろした。
先ほど、そばを通りかかった者に通報を頼んだ。おそらくもう何分もしないうちに警邏隊が駆けつけるだろう。
「コートニーさんを死なせてしまった。最初からこういう可能性を考えていれば、彼女は死ななくて済んだかもしれないのに」
「……」
ディアナは泣き笑いのような顔をした。
「それは先生の責任じゃないですよ……お金に目がくらんだあの子が悪いんだもん。……ねえ、先生」
雨で額に張り付いた髪を横に流しながら、ディアナはおずおずと言った。
「ここ数日一緒に帰ってくれてたのは、あたしを守るため? じゃあ……最初からわかってたってことだよね。あたしがこうやって『口封じのために』襲われるってこと」
その口調はどこか達観しているようにも聞こえた。
ティースは小さくうなずいて、
「うん。確信があったわけじゃないけど、こうなるんじゃないかって気はしてた」
「……先生は、優しいなぁ」
ディアナは雨を気にした様子もなく、ゆっくりと塀から離れた。
「いつ気付いたの? 私がコートニーの仲間だって」
ティースはため息を吐くと、剣の柄から手を離し、ディアナに歩み寄っていく。
「前にアドーラさんと話してた内容が頭に引っかかってたんだよ。一回生のころ、彼女と君とコートニーさんが仲良かったって話」
「……」
ディアナはやっぱり、という顔をしていた。
「アドーラさんはそれからあまり接点がなくてって言ってたけど、君とコートニーさんは違ったよね。シーラとアリエルさんを挟んで、きっとしょっちゅう顔を合わせてた。でも、その割にどっちも知り合いみたいな素振りをまったく見せなかった。そこに違和感があってね。……ケガはないかい?」
そう尋ねると、ディアナは黙って小さくうなずく。
ティースは続けた。
「コートニーさんは、どうやら俺がミューティレイクの人間だって知って、それで慌てて殺そうとしたらしいんだけど、それをどうやって知ったのかなって考えたときに、君のことを思い出したんだ。シーラが暴漢に襲われたのも、君が屋敷に来た翌日のことだった」
頭を掻いてディアナは笑った。
「アドーラの話はなにげないフリでごまかせたつもりだったんだけどね。昔コートニーと仲が良かったなんて知ってるの、あの子ぐらいだったのに……ツイてないなぁ」
すぐに手を止め、硬い表情になると視線を落とす。
「……コートニーにはただ、シーラや先生がミューティレイクの人らしいって話しただけなの。念のため気を付けてって言っただけのつもりだったのに、あの子、疑心暗鬼になっちゃって。それで私に相談もなしに上に掛け合って、シーラをさらわせようとしたみたい」
ティースは問いかける。
「いま『上』って言ったけど、君たちはどういう風に麻薬の流通に関わっていたんだ?」
もう逃げられないと悟ったためか、ディアナは素直だった。
「最初はコートニーが始めたことで、そこの経緯はわからない。あたしはちょっと知恵を貸して報酬をもらってただけだったんだけど、規模が大きくなると分け前とか売り方とかも考えるようになって、いつの間にか一目置かれるようになって『上』とも直接つながるようになって。でも、実際に麻薬に触れるわけじゃないから罪悪感はなかった。アリエルがあんな風になるまでは……」
「コートニーさんが元締めで、君が参謀役ってこと? ほかには?」
ティースの問いかけに、ディアナはその質問の意図を正確に見抜いたらしく、
「『上』と直接つながってたのはあたしとコートニーだけ。だから、たぶん他に口封じされそうな子はいないと思う」
「そうか」
ティースは少しほっとした。
それから少し間を置いて、
「アリエルさんは、どうしてあんなことに?」
「……」
ディアナは悲痛な面もちでうなだれ、そしてつぶやくように答えた。
「アリエルはコートニーがなにか悪いことをしてるって気付いたらしくて。どこでどうやって、どこまで知ってたのか、それもあたしにはわからない。でもあの子、とにかくシーラに対抗心燃やしてて、どうしてもたくさん仲間が欲しかったらしくて。それをネタにあの子たちを無理やり従わせていたみたい。あたしはコートニーと他人のフリをしてたから大丈夫だったけど……」
「状況からして、直接やったのは君でもコートニーさんでもなく、誰かに依頼したんだね?」
「……詳しいことはわからない。私の考えでもなかった……けど、コートニーが暴発しそうなことには気づいてたから、止めようと思えば止められたかもしれない」
「そうか」
あの日、アリエルの葬儀にやってきたディアナの表情が脳裏によみがえる。
おそらくは後悔が彼女に足を運ばせたのだろう。
「……こんな大事になるなんて思ってなかった」
ぽつりと、ディアナがつぶやくように言った。
「麻薬っていってもクゥエルダは害も少なくて、嗜好品みたいなものだって。ほんの2、3人が楽しむ分を仲介してお小遣いもらってるだけのつもりだった。でも、気づいたらいつの間にか話が大きくなって、死人まで出ちゃって……」
ディアナの唇が震えた。
ティースは大きく息を吐く。
「じゃあ……最後に確認するけど、シーラや俺を襲わせたのは本当に君の考えではなかったのかい?」
「!」
ディアナはハッと顔を上げた。反射的になにごとか言いそうになったが、考え直したように口を閉じ、それから力無く視線を落として、
「……それは本当に知らなかった。知ってればそんな馬鹿なことさせなかったし、それにシーラは……友達だもん」
「わかった。……それは信じるよ」
実際にどうだったのかはわからない。だが、その点については信じてもよさそうだとティースは思っていた。
コートニーが捕まった後、おそらくディアナは自分に疑いの目が向くことをまっさきに恐れただろう。そうして自分に対するティースたちの態度が不自然なことにもすぐに気づいたに違いない。
ただ、それでもこの3日間、彼女はそれについてなにも対策しようとはしなかった。もちろんなすすべがなかっただけかもしれないが、ティースやシーラを傷つける意思がなかったからだとも考えられる。
いずれにしても――
ティースは言った。
「君のしたことは悪いことだ。直接じゃなかったかもしれないけど、それが原因で人が死んでもいる。当然だけど、君はそれを償わなきゃならない。……でも、君はそれが悪いことだったと理解してるし、それならやり直す機会もきっとあると思う」
「……先生」
涙顔でディアナはティースを見た。
「だから、君の知ってることを全部証言してほしい。今後、君のように軽い気持ちで泥沼にはまってしまう生徒が出ないように、膿をここで全部出しきって欲しいんだ。ここから先は俺も部外者だけど、できることがあったら協力させてもらうから」
まっすぐ見つめてそう言うと、ディアナは小さく息を吐いて、
「……先生はホントに優しいね。……わかった、約束する」
ディアナはそう言ってゆっくりとティースに近づき、その頬に口を寄せ、ささやくように言った。
「それと……先生。シーラに、ごめんって伝えておいてくれる?」
ティースは小さくうなずいて、
「言っておくよ。落ち着いたらあいつのほうから君に会いに行くかもしれないけど」
「……あの子、そんな面倒なことしてくれるかなぁ」
ディアナはそう言って涙顔で苦笑した。
どうだろうか――と、ティースにもそれはわからなかったが、なんとなく彼女はそうするんじゃないかという気がしていた。
「――と、いうわけで」
時は流れ。
というほど時間が経ったわけではないが、半月に渡った全13回の護身術の講義もついに最終回。
途中で生徒が2人減るというアクシデントはあったが、講義自体はすべて無事に終了していた。
「しつこいようだけど、君たちに教えたのは戦う手段じゃなく、いかに身を守り、いかに危険を回避するかということ。その最低限の技術だ」
12人の生徒の視線がティースに集中している。だが、それにもだいぶ慣れ、最初に比べれば口ごもる回数も目に見えて少なくなっていた。
「忘れちゃいけないのは、危険はいつも危険だとわかる形でそこにあるわけじゃないということ。それは身近にもあって、ときには誘惑という形で近付いてくる。誰もが欲しがる強い誘惑には多くの危険が付いて回る」
いつもはメモを手元に置いてしゃべるのだが、今日は用意していない。
どうやらその必要もないようだった。
「護身術に一番大切なのは心構えだ。技術があっても強い心がなければ使いこなせない。危険を察知しても誘惑に負けて自ら近付くようじゃ意味がない。心を強く持って、危険な好奇心や誘惑を断ち切ること。……これは君たちだけじゃなく僕自身の課題でもあるし、目標でもある」
ティースは室内の生徒たちを見渡した。
ひと呼吸。
そして締めの言葉を口にする。
「短い間でしたが、僕の教えたことが君たちの未来の糧になれば幸いです。――以上で、講義を終わります」
一拍置いて。
拍手がパラパラと沸き起こった。
「……ふぅっ」
講義の終了を学園長に報告し、外に出て大きく息を吐くと、なんともいえない充足感が胸に残った。
最初はどうなることかと思った特別講師の任もこれで終わりだ。慣れないことで最初は戸惑ったが、案外自分にはこういう仕事も向いているのかもしれないな、などと、ちょっと甘いことを考えながら歩いていると、
「ご苦労様」
「え? あれ、シーラ――シーラさん?」
学園の中心から出口に伸びる一番大きな並木道の途中で、シーラが彼を待っていた。
「ど、どうしたんだ?」
周囲には下校する生徒たちの姿もちらほらと見える。こんなところで立ち話をしていいのかと思ったが、その疑問の答えは彼女の口から語られた。
「生徒代表よ。偶然私が選ばれただけ」
そう言った彼女の手には小さな花束とメッセージカード。
「本当は講義の終わりに渡す予定だったらしいんだけど、都合でギリギリ間に合わなくてね」
「……」
シーラの手からそれを受け取る。
小さな花束と、メッセージカードには生徒全員からひと言ずつのコメントが寄せられていた。……意外なことに、ちゃんと14人分の名前がある。
都合というのは、おそらくそういうことなのだろう。
「ありがとう」
晴れ晴れとした気持ちでティースはそう言った。
それに釣られたのか。
シーラの顔にも微笑みが浮かぶ。
「よくやったと思うわ。お前には案外向いているのかもしれないわね」
そんな彼女の言葉を真に受けて、ティースは笑いながら、
「俺も一瞬そう思ったよ。でも、みんなだってこれから護身術の道を目指すわけじゃないからなぁ。みんなにはみんなの、俺には俺の目指す道があるわけだし」
そう言って視線を遠くに向ける。
視線の先に、講義を終えた生徒たちが校門に向かって歩いていくのが見えた。
「……そんなこと考えてたらさ。やっぱり今年のデビルバスター試験を受けてみようって気になったよ。時間はいつまでも待ってはくれないし、今やれることをやらないで後悔しても遅いんだよなって。まぁ、受かる受からないは別にして」
シーラは苦笑して、
「ホント、学校の先生みたいなこと言うのね」
「『まだ』先生だよ。学園の門を出るまではね」
そう言ってティースも笑う。
こうして、彼の講師生活は無事に幕を下ろし。
そしてついに本来の道――デビルバスターへの道、その入口へ立つ決意をティースは固めたのだった。