その4『ツバサ』
――雨の中、鳥の鳴き声が響き渡る。
距離が詰まる一瞬に、シーラの頭には様々な思考が過ぎった。
前後から同時に迫る男たちの足は素早く静かだ。その身のこなしは常人のものではなく、明らかに戦うことを目的として鍛えられたもの。手にした刃物を使う素振りがないのは、おそらく殺す気がないからだろう。
だが、だからといっておとなしく付いて行ったとしても命の保証はない。いったん虜になれば非力な彼女がそこを抜け出すことは難しいのだから。
では、どうすればいいのか。
彼女の手にあって武器になりそうなものは鞄と傘。傘は突き出すことで牽制には使えるだろうが、この2人の男たちを撃退するにはあまりにも頼りなさすぎる。悲鳴を上げたところで他人が駆けつけるには時間がなさすぎるし、この降り出した雨の中でどこまで届くだろうか。
それに相手の力量を考えると、ヘタに人を呼べば犠牲者を増やしてしまうことにもなりかねなかった。悲鳴を聞きつけたのが偶然通りがかった腕利きの剣士だなんて、そんな都合のいいことがそうそうあるはずもないのだから。
(……ダメ、か)
最初の2人を撃退したことで、あるいは相手が警戒して少しは時間を稼げるかとも考えたが、そう甘くなかった。
八方塞がりだ。
こうなった以上は無理に抵抗せず、おとなしくした方が上策だろうか。あるいはなにか抜け道が見出せるかもしれない。
と。
シーラがそこまで考えたときだった。
甲高い鳥の鳴き声が、灰色の空に響き渡る。
(……?)
これで3度目だった。雨の中、不自然とも思える鳥の鳴き声。
それはまるでなにかの合図のように。
「……!」
そして遠くから聞こえてきた、軽快な足音。
「……? なんだ?」
男たちも気付いた。
遠くから聞こえる足音。
いや。
すでに遠くない。
「!」
雨を切り裂いたのは、遠吠え。
雨粒を弾きながら疾走する、銀色の影。
銀色の獣。
「なんだ……!? 狼……!?」
男はとっさに腰の短剣を抜き放った。
だが、銀の体毛を持つ大柄な狼は速度をまったく緩めることなく、首をグッと下げ地を這うように男に迫ると、振り下ろされた短剣をかいくぐり男の下腹部に激突した。
「ぐへっ……!!」
鈍い音とともに決して軽くはないだろう男の体が宙を舞い、数メートル後方に吹き飛ぶ。すると、狼は男に追い打ちをかけるでもなく、そのままシーラの足元に駆け寄るとそこでピタリと足を止めた。
「お前……」
シーラは目を見開いて足元の狼を見つめる。低い唸り声をあげるその姿には見覚えがあった。
「確かいつもセシルと一緒にいる……マルス?」
ミューティレイクの庭でいつも見掛ける狼。それがなぜここに――当然の疑問だったが、今はそんなことを考えている状況ではない。
「……」
男の動きは止まっていた。吹っ飛ばされた男も左手を下腹に置いて脂汗を浮かべながらよろりと立ち上がる。
目配せ。
彼らもそこいらのチンピラとは違う。おそらくマルスの動きがよく訓練された獣のものであると悟ったのだろう。
一瞬の間の後、
(! 逃げる……!?)
一言も発さずに背を向けて退散する男たち。シーラに撃退され地面を転がっていた2人も足をもつれさせながら一目散に逃げていく。
鮮やかな引きぎわだ。
やがて、パシャッと水たまりの弾ける音がしてシーラは我に返った。
「大丈夫ですか、シーラさん!」
「……セシル」
やってきた少女に視線を合わせ、ようやく緊張の糸が緩んだ。ホッと息を吐いてその場にしゃがみ込む。
「助かったわ……ありがとう、マルス」
マルスの濡れた背中にそっと手を置くと、狼はチラッと彼女を見て、なんでもないというようにすぐそっぽを向く。まるで言葉が通じているかのようだった。
彼らが駆けつけていなかったらどうなっていたことか。そう考えると少しだけ体が震えた。
ただ、シーラは気持ちをすぐに切り替えて、心配そうに駆け寄ってきたセシルを見上げて微笑む。
「セシル。あなたがマルスを連れてきてくれたの?」
「あ、いえ。マルスは私を迎えに来てくれただけだったんです。ただ、セレスが危ないって教えてくれて」
「セレス?」
「はい」
セシルがゆっくりと上空を見上げる。
と、同時に、
「!」
ばさっ、と、黒い影が視界を横切って空から舞い降り、セシルの肩へと降り立った。
「それが……セレス?」
鷹だ。黒い、まるで女性の髪のように艶のある漆黒の翼を持つ鷹。
そういえば、先ほどの不自然な鳥の鳴き声。どうやらこのセレスという鷹が発した声だったらしい。
「セレスははじめましてですか? じゃあご挨拶。ね、セレス」
セシルがそう言ってくちばしを撫でると、セレスはじっとシーラを見つめ、のどをかすかに鳴らした。
やはり言葉が通じているかのようだ。
「……不思議な子ね」
その様に、シーラは思わず笑みをこぼす。
「まるで猛獣使いのようだわ。でもおかげで助かった。本当にありがとう」
「え? あ、いえ、それなら私ではなくー……」
セシルは小さく手を振って、肩に乗った黒い鷹――セレスの背を撫でた。
「マルスとセレスがとてもお利口さんなのです。誉めてあげてくださいね」
「ええ。あとでなにかおいしいものでもプレゼントさせてもらうわ」
ピクリとマルスの耳が動く。……喜んでいるようだ。
シーラはゆっくりと腰を上げた。傘を開き、雨に濡れてしまった髪をかき上げて小さく整える。そういえば服もびしょ濡れだ。ピッタリと肌に貼り付く感触が気持ち悪い。
「寒くありませんか? お屋敷まで、大丈夫ですか? もしよかったら私の上着を――」
「いいわ。ありがとう、セシル。……それより早くここを離れましょう。もしかしたらさっきの連中が仲間を連れてくるかもしれないわ」
一瞬見せた疲れや安堵の色はすぐに消えて。そう言った彼女の表情はいつもの様子に戻っていた。
シーラがそんな危険な目に遭っていたことなど露ほども知らないティースはそのころ、放課後の学園で情報収集に励んでいた。
「あの日のアリエルさんの行動ですか?」
「そう。急な心臓発作だって聞いたから、もしかしたら激しい運動でもしたのかなって」
そのコートニーという名の短いお下げの少女は、アリエルにいつも付き従っていた少女だ。おとといも彼女が倒れる直前まで一緒にいたらしく、話を聞きに来たのである。
コートニーはうーん、と考えながら、
「あの日は確か、授業を終わってお昼を食べようとしたら、アリエルさんと仲の悪い子とはち合わせて……その後、オーウェンっていう男の子と一緒にお昼を食べたみたいです」
「みたい、ってことは、君はその場にいなかった?」
「はい。アリエルさんが別のところで食べてくれって言ったので……でも、どうしてそんなこと?」
「あ、いや、ごめん。その、なんか気になることがあると放っておけないタチで」
真っ赤な嘘である。放っておけないどころか、本来は触らぬ神に祟りなしが信条なのだ。
「彼女、なにかおかしいところはなかった? 体調が悪そうだったとか……」
「うーん。そういえばいつもと比べてまだマシ……じゃなかった。いつもほどは元気じゃなかった気もしますけど、でも私、彼女とはそんなに付き合いが長いわけじゃなかったので、よくはわかりません」
「そうなんだ? でも君はいつもアリエルさんと一緒だったって聞いたけど?」
「最近の話ですよ。あの子、強引だったから」
「……なるほど」
そっけない口調から、この少女もアリエルのことはそれほどよく思ってなかったらしいことがわかる。
(それでも一緒にいたってことは、嫌々でも付き合わざるを得なかったってことかな……)
その辺の事情はティースにはいまいち理解できない。
そんなティースに、コートニーが逆に質問してくる。
「あの。アリエルさん、もしかして病気じゃなかったんですか?」
「ああ、いや! ぜんぜんそんなんじゃないよ!」
ティースは慌てて否定し、話を切り上げることにした。
「それじゃ、君はその後はアリエルさんには会ってないんだよね? どうもありがとう」
「いえ」
コートニーという少女はペコッと礼儀正しく頭を下げて去っていった。
(……うーん。ってことは、最後に一緒にいたのはオーウェンくんか。そういやお昼にアリエルさんと話をしたって言ってたっけ)
いまさらそんなことを思い出しながら、どんより曇った空の下、ティースは学園の敷地内を歩く。今日の授業はほとんど終わったらしく、敷地内に残っている生徒は半分ぐらいになっていた。
(雨、降ってくるかなぁ)
空を見上げる。傘は持ってきていたが、降らないのであれば降らない方がいい。
と、彼がそんなことを思った矢先。
ポツ、ポツ。
(……あーあ)
降り始めた。だが幸い雨足は遅い。
(今日はもう引き上げるか……)
なんて心の中でつぶやいたとき、雨とともに人の足音が聞こえて振り返る。
「ティース様。待ちましたか?」
「ああ、リィナ。いや、そうでもないよ」
やってきたのは、今日も彼の護身術の授業を手伝ってくれたリィナだ。
「降ってきましたね」
「降ってきたなぁ」
リィナの口調がどこか弾んでいるように聞こえたのは、彼女が水魔だからだろうか。晴れの日よりも雨の日の方が元気になるようだ。
「ところで、どう? なにかわかった?」
ティースの問いかけに、リィナは小さく首を振って、
「いいえ。みなさん、そのクゥエルダという薬のうわさは知っててもそれ以上のことは知らないそうです」
「そっか。……そりゃそうだよな」
なにしろ麻薬の話である。たとえそれ以上を知っていたとしても、いきなり尋ねて正直に話してくれるはずもない。
「ただ、その薬のこととは関係ないんですけど、亡くなったアリエルさんという方のことで……」
「ん?」
「彼女、以前はそれほど目立たない方だったらしいです。それが1年ほど前から急にたくさんの友人を連れて歩くようになったらしいですよ」
「1年前から急に?」
それは確かに不思議な話だ。
アリエルは確かに裕福な家の娘だったようだが、この学園には色々な出自の人間が集まっている。それだけでそんな横暴な振る舞いができるはずはない。
人望があって人が勝手に付いてまわるというのならともかく、1年前まで目立たない程度の存在だったというのなら、なおさら不自然な話だった。
(……そういやさっきのコートニーって子も、ムリヤリ連れ回されてたみたいな言い方してたけど……まさか麻薬の力で?)
とっさに思考が飛躍したが、いや待てと考え直す。
(シーラもオーウェンくんも、彼女はそんなことするような人間じゃないって言ってたなぁ……)
ないとは言い切れない、が、腑に落ちない。
(ひとまず、オーウェンくんにもう一度話を聞いてみたいんだけど……)
ポツ、ポツポツ……
「うわ、強くなってきたか」
思考をいったん中断し、傘を広げる。そして同じように傘を広げたリィナを振り返って、
「生徒もほとんど帰ったみたいだし、今日はこのくらいにしておこうか」
「はい」
もちろん今日だけでなにかつかめると考えていたわけではないし、あまり派手に動き回って警戒されるのもよくないだろう。
と、そこへ。
「せんせー」
「え? ああ、オゥムくん。これから帰りかい?」
背後からやってきた小柄な少年はティースの教え子の男子生徒だった。ちなみに今日、ようやく全員の顔と名前を完全に覚えたところである。
オゥムはチラッとリィナの方を見て、
「せんせーはこれからリィナさんとデートですか?」
「へ? ばっ……そんなわけないだろ!」
「あはは。せんせー、さよーなら」
慌てて否定するティースをおかしそうにからかいながら、オゥムは逃げるように去っていった。
「……まったく。今どきの子供は」
などと、3つか4つしか違わないのに妙に年寄りくさいことをつぶやいてしまう。
しかしリィナはといえば不思議そうな顔で、
「ティース様? デートというのはなんのことですか?」
「あ、いや。うん……」
嘘を教えるわけにもいかず、かといって正直に答えるのもなにやら気まずかったので、
「デートするってのは、つまり遊びに行くってことかな」
嘘ではない。大事な部分を省略しているだけである。
リィナはますます不思議そうに、
「遊びに行くことをデートともいうんですか。難しいんですね、こちらの専門用語は」
「……」
なにやら微妙に間違えた知識を与えてしまったようだったが、今さら訂正するわけにもいかず。
(まぁ……きっとそのうち誰かが詳しく教えてくれるさ。うん。別に間違ってるわけでもないし)
とまあ、そんな彼の心中などもちろん知る由もなく。リィナは柔らかに微笑んで言った。
「今度休みが重なったときには、ぜひシーラ様とエルさんと4人でデートしましょうね」
「……」
やはり早いうちに訂正した方がいいのかもしれない――と、ティースは思った。とはいえまあ、彼ら4人の休日が重なるなんて、どれだけ先のことになるかわからないが。
リィナと並んで学園から出るころには、雨がさらに強くなっていた。
雨に濡れた斑色の猫が前を横切って路地に駆けていく。
(チェリンの花も終わりかな……来週には暑くなってきそうだ)
雨にしおれた桃色の花びらを見上げて、そんなことを思った。ネービスではこの花が散るころから、徐々に太陽の日射しが強くなってくるのだ。
(そのころにはデビルバスター試験……か)
どうなることやら。どうにも自分が成長しているという実感がなく、受験するかどうかさえいまだに悩んでいるのだが、いずれは通らなければならない道でもある。
と。
ガラガラガラガラ……
「?」
顔を上げる。
雨に煙る通りの向こうからやってきたのは、なにやら急いだ様子の馬車だった。それは特別珍しい光景ではなかったのだが、ティースは横を通り過ぎていくその馬車を目で追いながら、
「あれ、リィナ? あの馬車ってどっかで見たような――」
「あ、いたっ!!」
突然女性の声がしたかと思うと、馬車が急停止する。
「ティース様。あの馬車はお屋敷のものでは……」
リィナが言い終わらないうちに、馬車の中から見覚えのある少女がひょこっと顔を出した。
「ティース様! リィナ!」
「あれ? 君は確か――」
見覚えはあるのだが――しばらくの空白。
「ヴァレンシアさん?」
そう言ったのはリィナだった。
「あ、そうだ。ヴァレンシアだ」
少女はミューティレイク邸のハウス・メイドだった。ティースの部屋を担当するパメラという少女と仲が良く、そのつながりでティースも顔と名前は知っていたのだ。
「どうしたんだ? 馬車なんか使って――」
問いかけるティースに、ヴァレンシアは馬車から飛び降りるなり雨も気にせず駆け寄ってきて言った。
「迎えに来たんですってば! ティース様! リィナも、急いで急いで! シーラ様が大変なんです!!」
「え?」
「ヴァレンシアさん! なにがあったんですか!?」
「説明はあとあと! ほら、乗った乗った!」
ヴァレンシアは慌てた様子でとにかく2人を促す。
「あ、ああ……」
戸惑いながら馬車に乗り込んだティースたちは、そこで初めて、シーラが暴漢に襲われたらしい話を耳にしたのであった。
「……シーラ!」
バァンッ!
乱暴に開け放たれたドアに、室内にいた全員の視線が振り返る。だが、入っていった本人はそんなことこれっぽっちも気にした様子もなく、一直線に部屋の奥まで進むと、
「ど、どこをケガしたんだ! 大丈夫なのかッ!? ま、まさか取り返しのつかないような大ケガじゃ――!」
「ちょっと、ティース……」
シーラが困惑の表情を浮かべる。
「そ、そうだ、医者! 医者を呼ばなきゃ! 医者を――」
「医者ならここにいるよ、ティースくん」
「マ、マイルズさん!」
シーラのすぐ横にいるのが屋敷の主治医マイルズであることに気付いて、
「マイルズさん! シーラのケガは……いや、いったいなにがあったんですか! ケガはちゃんと治るんですかッ!?」
マイルズは答えた。
「いやぁ、治すってのはちょっと難しいかもねぇ」
その言葉に心臓の鼓動が跳ね上がる。
「そ、それってどういう――」
マイルズは両手を広げて、
「だってケガしてないからね。治療のしようがない」
「へ?」
シーラの両腕をつかんだまま、ティースは固まった。そしてゆっくりと視線を彼女の方へ向ける。
「……馬鹿」
呆れたような声。
そこでティースはようやく彼女の様子を観察するに至った。
装いはまったくの普段着。顔――ティースの行動に若干驚いたようだったが、それ以外はいつもと変わらない。髪が若干湿って乱れているが、泥などが付いていないところをみるとあるいは風呂上がりなのだろうか。
もちろんどこかに包帯を巻いているというようなことはないし、そもそもケガをしていたらこんなにも普通に椅子に腰掛けていたりはしないだろう。
「ぶ、無事なのか……? じゃあ、暴漢に襲われたっていうのは……」
マイルズは苦笑して、
「どうやらヴァレンシアがちゃんと話さなかったらしいね。見ればわかるように、どこもケガはしてないよ。危なかったことに変わりはないけど、彼女のおかげでね」
「え?」
ティースはそこで初めて、室内にもうひとりいることに気付く。
「セシル? 君がシーラを……?」
この可憐でいかにも非力そうな少女が暴漢を追い払ったのだろうか――などと、どう考えても有り得ないことを一瞬考えてしまったティースだったが、もちろんそんなことはなく、
「あ、いえ、私ではなく」
セシルはそう言って足もとに視線を移す。
正確にいうと、そこにいたのはひとりと2匹だった。
「マルスとセレスのおかげです。セレスが鳴き声で教えてくれて、マルスが駆けつけてくれたんですよ」
膝の中には体を丸めた銀毛の狼。
右肩には女性の髪のような黒羽を濡らした一羽の鷹。
「マルス……と、セレス?」
その銀毛の狼がマルスという名で、庭でよく彼女と遊んでいることはティースも知っていたが、セレスという鷹を見るのは初めてだった。
確認するようにシーラを見ると、彼女はうなずいて、
「セシルの言うとおりよ。それより」
すっと目を細めた。
「腕、そろそろ離してもらってもいいかしら」
「へ? うわ、ごめん!」
慌てて手を離し、さらに一歩後ずさった。
それを見ていたマイルズの眼鏡がキラリと光る。
「なるほど。シーラくんに触れても平気ってのは本当だったか」
バァンッ!
「シーラ様! ケガは!? 起き上がったりして平気なんですか!?」
「……はぁ」
まるで先ほどのリプレイかのように、血相を変えて飛び込んできたリィナに、シーラは深いため息を吐いたのだった。
それから10分ほどして。
「……に、しても」
リィナが状況を把握し、マイルズとセシルたちが部屋を去ったころ、ティースはようやく冷静に事情を聞くに至っていた。
「どうしてこんなことになったんだ? お前を襲った4人組ってのは何者なんだ?」
「わからないわ」
カチャ、と、ティーポットがシーラの手元で乾いた音を立てる。その手付きを見る限りいつもと変わったところはなく、襲撃のショックも今はほとんど残ってないようだ。
答える声もまた冷静で、
「アオイさんにも話したけど、待ち伏せされていたらしいことは確かよ」
「じゃあ人さらいとか?」
治安の良いネービスの街では珍しい。だが、そういった犯罪組織がまったくの皆無というわけではないし、彼女ほどの容姿であれば商品価値も高いだろう。と、ティースはそう考えたのだが、シーラは否定的だった。
「どうかしら。ああいう連中はもっと狡猾よ。たいした理由もなく今回ほどリスクの高いことをするとは思えないわ。リィナ、砂糖は何杯?」
「あ、すみません。10杯お願いします」
「10――……わかったわ」
シーラは一瞬手を止めつつ、少し呆れたようにしながらカップに砂糖を流し込んでいく。
彼女も一般的な女性と同程度には甘い物が好きだし、好物の林檎にハチミツをかけて食べるのが好きだったりもするが、さすがにリィナの味覚には困惑せざるを得ないようだった。
「はい、リィナ」
「ありがとうございます」
リィナにそれを渡した後、自分の紅茶には砂糖1杯半と少量のミルク、もう片方には砂糖1杯を入れて軽くかき混ぜ、なにも言わずティースの前に置く。
「あ、すまん。……あちち、それじゃあ――」
少し口を付けてのどを湿らせ、ティースは話を続けた。
「なにかちょっとしたことでも、心当たりはないのか?」
「恨みならそこそこ買ってるでしょうけど。ここまでのことをされる覚えはないわね」
紅茶のセットを脇へ寄せながら、シーラはそのときのことを少し思い出したような、眉間に少ししわを寄せた。
「連中はたぶん、ああいうことを生業にしてるヤツらだと思う。あのまま連れ去られていたら、命の保証はなかったと思うわ」
「……」
その言葉にティースは1年前、彼女が人魔にさらわれたときのことを思い出し、いまさらながらに肝を冷やした。
もちろん今回のことは予測のしようもなく、運が悪いとしか言いようがないのだが。
(……運? いや、待てよ――)
少し考え直して、
「なぁ、シーラ」
「なに?」
「今回のこと、例の件が絡んでるって可能性はないかな?」
「え?」
ティーカップを持つシーラの手が止まった。意外そうな顔だった。だが、視線を泳がせ思考を巡らせた後、
「それはないと思うわ。私は例のうわさ以上のことなんて知らないし、もちろん関わったこともないのよ」
「でも、相手が勘違いしたって可能性は? アリエルさんがもし麻薬のことでなにか知っていて殺されたんだとしたら、彼女とよく一緒にいたお前のことを狙ってもおかしくないんじゃないか?」
「まさか。考えられない」
シーラはティースの推測を完全に否定した。
「アリエルが私を嫌っていたことは学園内でも有名だったわ。その考えで行くなら、私より先に彼女の友達を狙うはずでしょう?」
「でも、アリエルさんって友達とか少なかったらしいじゃないか」
「あら、それは初耳ね。でも、だからって私があの子と親しかったなんて勘違いをする人間はいないと思う。それなら、たとえばオーウェンの方がよっぽど危険じゃないかしら」
「オーウェンくん? ああ、そういや彼は――」
つぶやくように言った後、ふいにシーラと視線が重なる。
「え、えっと……そっか、オーウェンくんの方が危険だよな。うん、そうだよな」
「……」
急にどもりだしたティースにシーラは不審そうな目を向けたが、すぐに視線を逸らしてなにも言わなかった。
そこへリィナが、
「オーウェンさんというと、ティース様の授業を受けている男の方ですか? シーラ様と仲良しの方ですよね」
「あ、ああ、そう。彼はシーラの友達でね。亡くなったアリエルさんとも仲が良かったらしいんだ」
そう答えるティースに、シーラは淡々と言い放った。
「友達じゃないわ。恋人よ」
「あ、そ、そうか。ま、まあとにかく仲がいいんだ」
「恋人?」
一方、そんな微妙な空気を察した様子もないリィナは不思議顔で、
「シーラ様にはティース様以外にも恋人がいらっしゃったんですか?」
「え?」
これにはシーラが怪訝な顔になる。
(……あ。リィナは『恋人』の意味を勘違いしてるんだっけ)
そのことを思い出したが、彼がそれを口にするより早く、
「なにを言ってるの、リィナ? 私とティースは恋人なんかじゃないわ」
「え? でも、恋人というのは確か大事な人という意味では?」
「……ああ」
それでシーラもようやく理解したようだ。
苦笑して、
「それは少し違うわ、リィナ。恋人というのは……そうね。家族以外で、一番大事な異性のこと。それもお互いにそう思い合っている人のことよ」
だが、リィナはますます不思議そうな顔になった。
「それならなおさら、シーラ様の恋人はティース様ではないのですか?」
「……リィナ」
シーラは深いため息を吐くと、
「それはきっと昔のイメージよ。もう思い出せないぐらい昔の話」
さらりとそう答えた。
(……昔の話、か)
それは単に恋人ではないということを主張したいだけなのか、あるいは今はもう大事な人間ではなくなったということを言いたいのか。
前者であればもちろんその通りだからいいのだが、後者であればティースにとって少々酷なことである。
(はぁ……俺は今も昔も変わらないつもりなんだけどなぁ)
「とにかく話を戻すわ。……ティース?」
「え? あ、ああ、そうだな」
ティースは気を取り直して、
「じゃあ、今回のこととはまったく関係ないって考えていいのかな」
「断言はできないけれど……少なくとも私が狙われる理由は今のところ思い当たらないわね」
ティースは納得して、
「そっか。それならいいんだけど……でも気を付けてくれよ。また同じことが起こらないとも限らないんだし」
「ええ。さっきアオイさんと話したのだけれど、しばらくは誰かが送り迎えしてくれることになったわ。……お前こそ、わかってると思うけど、しばらくは学園での行動に気をつけなければダメよ。昼食とか、口に入れるものにも注意して」
「ああ、それは大丈夫。授業はだいたい午後からだし、ほとんどここで食べてからだから」
「ならいいけど……リィナ、あなたもよ。食べ物だけじゃなく飲み物もね」
リィナはニッコリと微笑んで、
「飲み物に関しては心配ありません。液体に危険物が混入されていれば水の精が教えてくれますから」
シーラは驚いた顔をして、
「今でもそんなことができるの?」
もともと強大な魔力を持つリィナだが、今は人の姿と代償に大半の魔力を失っているはずだった。
リィナはうなずいて、
「はい。これは神気といって、自然に宿る力を借りる能力なんです。ティース様の口にするものは私がすべてチェックしますので安心してください」
ティースは感嘆の声をあげた。
「さすがは魔王の一族だなぁ……水の精だなんて」
「そんなたいしたことでは……」
と、はにかんだ笑顔を浮かべると、
「その気になればティース様にもできることですよ」
「え? まさか」
ティースは笑ったが、リィナは真顔で、
「水の精は心の優しい人が大好きなんです。だからティース様なら大丈夫だと思います」
「でもそれって、水魔だからできることだろ?」
「ええ。でも――」
リィナはそっとティースに手を伸ばす。一瞬緊張して身構えてしまったが、彼女の手はティースの体ではなく、その脇に置いてあった彼の武器に伸びていった。
「ティース様にはこれがありますから」
「え?」
それは彼の愛剣『細波』だ。
「彼らはいつもティース様に呼びかけているんですよ。もっとあなたの力になりたい。もっとあなたを助けてあげたい、って。きっと風の精たち――私には聞こえませんが、同じ気持ちのはずです」
「……」
ティースは愛剣『細波』を手に取り、柄の部分に填め込まれた宝石を耳に当ててみた。
「……なにも聞こえない」
「そうですか……」
リィナは少し残念そうだったが、すぐに気を取り直した様子で、
「でも意識してあげてください。そうすればいつかきっと」
「うぅーん」
うなってマジマジと細波を見つめるティース。
どう眺めてもそんなものが聞こえるような気はしなかった。
今日はいっそう夜の闇が濃い。
――もう一刻の猶予も許されない。
まさか。まさかこんなことになるなんて。
できる限り不自然じゃないように。平静を装って歩く。
しかしなんにせよもう後戻りはできない。
少しずつ歩みが早くなる。
あの講師はきっと、そう。最初からそういう目的でやってきたに違いないのだ。
なぜ最初から気付かなかったのか。クゥエルダのうわさが表面化したこの時期に、ミューティレイクの関係者が講師を装って来るなんて偶然のはずがないのに。
冷や汗が背中に浮かぶ。
悪くない。
私は悪くない。
悪いのはアリエルだ。
彼女が私を脅したりするから。私はただ、欲しがる人に薬を斡旋してあげていただけなのに。彼女が私を脅したりするから。だから私は――
いや。いやいや。今はそんなことを考えるより、どうするかだ。
いや、違う。
どうやって、あの男を黙らせるか、だ。
「……」
ピタリ、と、足を止める。
……やるしかない。
どうにかして、あの男を殺すしかない。
だが、どうやって。
殺し屋とはもう連絡が取れない。新しい殺し屋を探すにしてもそれでは時間がなさすぎる。なにより、これ以上『オーナー』の手をわずらわすようなことがあれば今度は自分が切られかねない。
……ああ。ようやく。ようやく憂いが消えたと思ったのに。ようやく自由になれたと思ったのに。
こんなことなら殺さなければ良かった。アリエルだって決定的な証拠をつかんでいたわけじゃなかった。言うことを黙って聞いて辛抱していれば。
でも、もう遅い。
こうなったらやるしかない。
手の中の小さな袋を握りしめる。
「やるしか……ない」
泥沼にハマろうとしているのは自分でも感じていた。
だが、もう後戻りはできない――
翌日は快晴だった。
この日の午後も、ティースはサンタニア学園で護身術の講義を行っている。
「あれ? オゥムくんは今日は休み?」
講義開始とともに欠席者がいることに気付いてティースはそう尋ねてみたが、生徒たちからは口々に知らないという言葉が返ってきた。
色々な学科から生徒が集まるこの特別講義では、ここで初めて顔を合わせるという生徒たちも少なくない。資料によるとオゥムという生徒は声楽科の所属で、その学科から来ているのは彼だけのようだった。他の生徒たちがその所在を知らないのも仕方ない。
ひとりの男子生徒が手を挙げた。
「朝だけど、あいつ見掛けましたよ。サボりじゃないっすか?」
「ん、そうか……」
あいまいにうなずきながら、昨日彼と会ったときの様子を思い出す。
確かにまじめな生徒というイメージではないが、これまでは楽しそうに講義を受けていただけに少し意外だった。
とはいえ、もともとこの講義自体、彼らが普段学びに来ているものとはかけ離れた内容の授業だ。突然受ける気がなくなったとしても不思議ではないし、あるいはなんらかの事情で遅れてくるのかもしれない。
「それじゃ今日の講義を始めようか」
ともかく、いつものように講義を始めることにした。
今日は休みを挟んで6回目の講義。実技演習は今日が4回目で生徒たちもそれなりに慣れてきたらしく、ティースが最初にやり方を教えると、後はそれぞれ生徒だけで色々工夫しながら練習するようになっていた。
(やっぱみんな頭いいんだなぁ。俺とは大違いだ)
などと、部屋の端っこに座って微妙に退屈を持て余し、大きなあくびなんかしていると、
「せんせー。ちょっと、ちょっと」
「?」
顔を上げると女生徒グループの方で、ディアナが手招きをしている。
「どうかした?」
なにかトラブルかと思ったが、女生徒たちはリィナを中心に和気あいあいと練習を続けていたし、特に問題があったようには見えなかった。
「ちょっと、ちょっと」
ニコニコしながら手招きするディアナ。少し嫌な予感がしつつも無視するわけにはいかずティースは腰を上げた。
「どうかした? 練習は?」
「今は休憩。みんなで相談して交代で休むことにしてるの」
「ああ、なるほど」
適度に休むようにとは言ったものの、細かい指示を出したわけではないから、おそらく彼女たちの中で自由に順番を決めたのだろう。
見るとディアナの他にも休んでいる女生徒がいるようだった。
「ほら、座って座って。先生だってヒマそうにしてたじゃない」
「い、いや。僕はちゃんとみんなが怪我しないように見守ってて……」
「あくびしてたくせに」
ハッと口を押さえる。
「それはたまたまだよ。人間、あくびのひとつやふたつするもんだ」
なんて苦しい言い訳しながらも、促されるままディアナの隣に腰を下ろした。
するとそれを見て、休んでいたもうひとりの女生徒が、
「あ、なに? どしたの、ディアナ?」
興味津々といった表情でやってくる。
彼女はアドーラという名の生物学科所属の女生徒だ。年齢は確かディアナと同じ16歳。今回講義を受けている生徒の中では一番大柄で見るからにボーイッシュな少女だった。
「先生がおもしろい話をしてくれるんだってさ」
「へぇ、そりゃ楽しみ」
「ちょっ……そんなこと言ってないよ」
2人の少女に挟まれて、ティースはなんとも落ち着かない気分になった。
(まいったなぁ……)
困惑しながら視線をさまよわせていると、ふと練習に励むシーラと目が合ってしまう。すぐに彼女の方から視線を逸らしたが、どうやら彼が余計なことを言わないか気になっているらしい。
(大丈夫だよ……たぶん)
なんだかんだと失態を見せているだけに強気になれないのが悲しいところである。
「あ、先生、またシーラさんの方ジッと見てた。今日これで4回目」
「え。あ、いや」
指摘してきたのはディアナではなくアドーラの方だった。
ティースが慌てて視線を戻すと、ディアナが口元をかすかに緩ませて、
「気を付けた方がいいよ、先生。この子、他人を観察するの得意なんだから」
「そ、そうなんだ? ……生物学科だからかな?」
「あはは、それ、あんま関係ないです」
アドーラはケラケラと笑って、
「でも、先生。あの子はやめた方がいいんじゃないですか。うわさじゃあの子にフラれて学園止めた講師もたくさんいるって話ですよ」
そこにディアナが口を挟んで、
「あ、アドーラ。それ、もうあたしがだいぶ前に言ったよ」
「え? ……あ、そっか。あんたってそういやあの子と仲良しだったっけ」
「先生はシーラには興味ないんだってさ」
ディアナがそう言うと、アドーラは驚いた顔をして、
「え、ホントに?」
「うんうん。ね、先生?」
ディアナに同意を求められ、ティースは苦笑しながら、
「え? ああ、そりゃまぁ。なんていうか、講師だからね。生徒をそんな目で見たりしないよ」
「へぇぇ」
アドーラは感心した顔をして、
「あたしの彼氏なんか、一緒に歩いているときでもあの子とすれ違うとずっと目で追ってますよ。そのたびに足踏んづけてやるんですけど」
「……そ、そっか」
なんとも反応に困ってしまう話だったが、アドーラの表情を見ると、あるいは笑うところだったのかもしれない。
ディアナはうんうんとうなずきながら、
「でもまあ、目で追うくらいならまだマシじゃない? あたしもシーラのそばで色々見てきたけど、中には自分の彼女ほっぽって話し掛けてくるヤツとかいるもん」
「ああ、それはさすがにアウトだわ。ま、あいつみたいな冴えない男、あの子に相手にされるわけないけど」
「あはは。聞いたら泣くよ、彼」
ティースを挟んでおかしそうに笑う2人。
あまりに息の合ったやり取りに、ティースはふと疑問に思って尋ねてみた。
「君たちって、もしかして前から仲良しなのかい?」
「え? あ、はい」
答えたのはアドーラだった。
「実は一回生のとき、今回みたいな学科ごちゃ混ぜの講義で私とディアナと、あとコートニーっていう社交学科の子が同じ班になって、すぐ仲良しになったんです」
「そのあと今までずっと音沙汰なかったくせに」
ディアナがすぐに突っ込むと、アドーラはケラケラと笑って、
「ごめんごめん。勉強が忙しくて、なかなか他の学科までは顔出せないのよ。今年三回生に上がれたのだってギリギリだったんだから」
「そんなこといって、彼氏と遊ぶのに忙しかったんじゃないのぉ?」
「そんな余裕ないってば。ウチの店も最近雲行き怪しいからあんま親に負担かけらんないしさ……って、それならあなたみたいに頑張って学費免除受けろよって話なんだけど」
「あはは、あたしは別に家のために頑張ったりなんてしてないけどねー」
「でも、あんたのとこもお母さんひとりでいろいろ大変なんでしょ?」
「いやぁ、あの母はあたしに似て、なんとなーくどうにかしちゃうタイプだからさぁ」
楽しそうに会話を続ける2人の間で、結局なんのために呼ばれたのかわからないティースはしばらく黙っていた。
視線の先ではちょうどリィナがシーラとなにやら言葉を交わしており、そのさらに向こうでは男子生徒たちが練習を続けている。
だが、ティースはそのときまったく別のことを考えていた。
(社交学科のコートニーって、あのアリエルさんと一緒にいた子のことかな……)
社交学科といえばアリエルが通っていた学科でもある。つまりあの2人は同じ学科で――まあそのこと自体は特に不思議でもなんでもないのだが。
「……」
なにか拭いきれない違和感が残った。
(コートニー=シッドル、か……)
目立たない地味な印象の少女。だが、よくよく考えると彼女はアリエルともっとも関係の深い人間のひとりで、かつその関係にはどうにも不自然な点がある。
(あの子にもう一度話を聞いてみないとな……)
そう決意したところで、ちょうど授業の終わりを告げる鐘が鳴ったのだった。
――静かな、静かな道を少年は歩いている。
ここはどこだろう。なにをしていたんだろう。
なにも聞こえない、白く明るく静かな道。
だけどやるべきことはわかっていた。
『殺すんだ』
あいつはそう言った。あいつがそう言ったならやらなきゃならない。大丈夫、僕ならできる。今の僕ならできる。
少年は自分のふところの中にズシッと重たい感触があるのを知っていた。
大丈夫。今の僕はなんでもできる。勉強だって、運動だって、その気になれば空だって飛べる。
人を殺すぐらいのことがなんだっていうんだ?
『大丈夫だから』
あいつがそう言った。だから大丈夫。大丈夫。
そっとふところに手を置く。服の上から堅い感触に触れる。
ナイフ。鉄さえも切り裂く鋭いナイフ。
あいつの言葉と、あいつのくれたこのナイフがある限り。
僕は無敵だ。
たとえ100人がかりでも僕を止めることはできない。誰も僕を邪魔できない。僕を見下す気にくわない同級生も、僕を無能呼ばわりするウザったい学園の講師も。
そうとも。今の僕ならあんな男のひとりぐらい、赤ん坊の手をひねるより簡単だ。
白く明るく静かな道の向こうに、標的の姿が見えてくる。
殺せ。
殺せ、殺せ、殺せ、殺せ!
「あれ?」
相手が僕に気付いた。
今さら気付いてももう遅い。
「オゥムくん? どうしたんだ、こんなところで。今日の講義は?」
そんなこと決まってる。
お前を殺しに来たんだ。
いや、いやいや違う。
ああ、なぜ今まで気付かなかったんだろう。
僕はお前を殺すために産まれたんだ。お前を殺すために今まで生きてきたんだ。
お前を殺せばきっと、これまでにない快感を得られるに違いない。
あの薬なんて及びも付かないほどの、空の果てまで昇り詰めるほどの――
ふところにある堅い感触。
「!」
僕の取り出したものを見て、相手は驚愕に目を見開いた。
「オゥムくん、なにを――」
もう、遅い!
ためらううことなくそれを突き出した。
ああ、これで。
これで――
「!?」
突如、右腕に激痛が走る。
ナイフが腕からこぼれ落ちた。
直後、全身の力が抜けていく。
……ああ。待って。
待ってくれ。
ナイフを拾い上げようとした手が闇に溶けていく。
待ってくれ。待ってくれ、僕のツバサ。
僕の。
僕の――
意識は突然に途切れた。
重いため息が昼の陽光に溶けていく。
「……」
ティースはその建物を振り返って、もう一度深くため息を吐いた。
そこは通常であればあまりお世話になりたくない場所――ネービスの治安を守る警邏隊の詰め所。
「ティース様。オゥムさん……でしたっけ。どうだったんですか?」
姿を認めて駆け寄ってきたリィナに、ティースは横を向いたまま答えた。
「……怪しい薬を飲んでたんじゃないかって。その効果で錯乱していたか、あるいは誰かの言われた通りに行動していたのか。とにかくすぐに事情を聞ける状態じゃないらしい」
そんなティースの回答にリィナは眉をひそめ、それから彼の左上腕に巻かれた包帯を心配そうに見る。
「かすり傷だよ」
相手が顔見知り――自分の講義の生徒だったことで反応が若干遅れた。それでも完全に不意打ちだったことを考えれば、かすり傷で済んだのは不幸中の幸いというべきか。
「じゃあ、今回のもやはりクゥエルダという薬の?」
「いや」
ティースはゆっくりと歩き出した。
学園までは歩いて5分ほどの距離。
「今回のは別で、もっと強力な――通称『ツバサ』とか呼ばれてる薬じゃないかって言ってた」
「ツバサ、ですか……」
「羽根が生えた気分になって、どんなことでもできてしまうような錯覚におちいるそうだよ」
リィナはその穏やかな顔立ちに嫌悪感を浮かべた。
「まるで幻魔の操る力のようですね」
「ああ。おそらくそれに近い効果があるんじゃないかな」
この大陸に無数にあふれる麻薬の中には、魔界由来のものもかなり多い。今回使われたのがそういうものだとすると、魔がどこかでひと役買っている可能性も充分に考えられた。
(ツバサ、クゥエルダ……魔が絡んでいる可能性、か)
今回彼が襲われたのは、それに関する調査を始めたことと無関係ではないだろう。彼を襲ったオゥムという生徒から個人的に恨みを買っていたということは考えられないし、今回のことはおそらく別の誰かの意志だ。
別の誰か。
(アリエルさんはやっぱり殺されたんだ……)
ティースはその推測に、確信に近いものを得た。
病死ではなく犯人がいる。そしてそれを疑い調べ始めたティースを邪魔に思い、やはり殺そうとした。
この推論には少しも無理がないし、タイミング的にそうである可能性が高いだろう。
ただ――そうだとすると、少し違和感も残る。
まず、犯人は学園に自由に出入りできる人間と見て間違いないだろう。学園には一応それなりの警備が敷かれている。まったく外部の人間が単にティースのことを邪魔だと思ったなら、わざわざ学園の中で狙う必要はない。アリエルのことに関しても同様だ。
そして、そこに違和感がある。
「なぁ、リィナ。あまりに稚拙すぎる気がしないか?」
「稚拙、ですか?」
「ああ」
ティースは今回の襲撃がどうにも腑に落ちないのだ。
「アリエルさんのときは、ちゃんと病死か他殺かわからないように偽装されてたんだ。なのに、今回のはあまりに危険で確実性がなさすぎるよ。短絡的だし、犯人が学園の関係者だとすると自分の首を絞めるような行為だ」
アリエルのことを調べ始めたとはいっても、実際のところはまだなにもわかってない状況だ。にも関わらず、相手はいきなりティースの命を狙ってきた。それもあまりに不確実な方法で。
失敗するとは考えなかったのだろうか。確かにティースが普通の人間であれば、オゥムのナイフを避けられずに命を落としていたかもしれない。だが、それにしたって博打みたいなものだ。
(どうなってんだ……?)
知らないうちに真相に近付いていた、あるいは相手がなんらかの理由でそう勘違いしていて、相当焦っていたのだろうか。わざと捕まろうとしているのでなければ、そうとしか考えられない。
「オゥムさんの目が覚めればなにかわかるかもしれませんね」
「いや」
リィナの言葉に、ティースは首を横に振って答えた。
「医者の話だと、たぶん前後の記憶はないんじゃないかってさ。実際目覚めてみないとわからないらしいけど……いや、待てよ」
ティースは足を止める。
(……理由はわからない。だけど、もし相手が焦ってこんなことをしたんだとしたら……)
そして閃いた。
「リィナ」
「はい?」
ティースは振り返って真剣な顔で言った。
「頼みがあるんだ。もしかすると、犯人を見つけられるかもしれない」
「え?」
リィナは驚いた顔をした。
――失敗した。
もう終わりだ。なにもかも。
コートニー=シッドルは周りから不自然に見えないよう気を付けながら、しかし焦る気持ちを抑えきれずに早足で歩いていた。
おそらくあの講師はもう見当を付けているだろう。いや、素人でもわかる。アリエルの死に疑問を持って、本腰を入れて調べていれば自分にたどり着くのは当たり前のことだ。
しかしまだ諦めるわけにはいかない。万が一警邏隊に捕まるようなことがあれば、上が放っておかないだろう。
――間違いなく殺される。
動悸と冷や汗が止まらなかった。
……やめておけば良かった。いや、最初からこんなことに手を出さなければよかったのだ。
そもそもそこまでお金に困っていたわけじゃない。勉強ばかりの日々に嫌気が差して、ほんの少し遊ぶお金が欲しかっただけなのだ。
とにかく。とにかく今は最善を尽くすことを考えよう。
向かった先は学園からそれほど離れていない診療所。
周りは意外にも静かだった。使ったモノがモノだっただけに、警邏隊の人間が出入りしているかと思ったが、幸いそんなこともなかったようだ。あるいはまだあの薬の正体に気付いていないのかもしれない。
今のうちだ。
しんと静まり返った診療所の裏側へと回り込む。隣の家の塀が高いおかげでこうしていても目立たずに済んだ。
まだ運がある、と、コートニーは思った。
……いた。
小さな診療所で入院用の部屋は2つしかない。そのうちのひとつは空っぽ。もう片方には患者がひとり。医者は外来の客の相手をしている。
汗ばんだ手の平で、薬包紙がかさっと音を立てた。
やるしかない。
あのオゥムという男子生徒にはなんの恨みもない、それどころかお得意様とでもいうべき少年だった。あの薬の影響下では記憶が残ってない可能性も高いが、それでも絶対とは言いきれない。彼の口から事がもれれば今度こそ確実に破滅だろう。
薬包紙の中にあるのは致死量の麻薬だ。これだけ飲ませれば確実に死ぬ。彼はもともとクゥエルダの常習者だ。うまく行けば自殺だと思わせることができるかもしれない。
手が震えた。
アリエルのときの彼女はあくまで補助的役割だった。だが、今回は間違いなく自分の手で直接人を殺すことになるのだ。
窓は開いていた。不用心というべきか。いや、医者が薬の正体に気付いていないのなら不思議はない。そうに違いない。
足跡が残らないよう靴を脱ぎ、音を立てないように窓から中へ入り込む。奥の方から医者らしき人間の声がまだ聞こえていた。外来の客と話し込んでいるようで、こっちに来る気配はない。
急がないと。
1メートルほどの間隔を空けて並べられた2つのベッド。空っぽのベッドの横を素通りして近付いていく。震える手の中の薬包紙をギュッと握りしめると、ふっと震えが止まった。
意外だった。震えが止まらなくなると思っていたのに。
そして同時に、今度こそ後に引けないことを悟った。
……学園を卒業したらこんなことは止めて普通の生活に戻るつもりだったのに。ほんの軽い気持ちで始めたことだったのに。なのにもう、自分はこんなところまで来ている。
脳裏に親の顔が浮かぶ。きっと悲しむだろう。
だが、もうやるしかない。でなければ自分のみならず、家族にまで被害が及ぶかもしれない。
薬包紙を開き、中の白い粉を口に含む。舌に感じるかすかな刺激。呑み込まないよう注意しながら口の中に溜めていた唾液で溶かす。
よし。これなら大丈夫。
そしてコートニーは布団に手を掛けた。
と。
「!」
違う――オゥムじゃない!
ベッドの中にいたのは女性だった。
その女性が目を開いてコートニーを見据える。そしてなにごとかつぶやいた途端、異変が起きた。
「なっ……!」
ベッドのわきにあった水差しから水の塊が飛び出し、かすかに開いたコートニーの口の中に飛び込んでいく。
「んむぅっ……!」
それはまるで自分の意志を持っているかのように、口の中に溜めていた『ツバサ』の溶液と溶け合うと、次の瞬間、彼女の口の中から飛び出していった。
びちゃっ、と、吐き出した水が床の上に落ちる。
「っ……げほっ、げほっ……!」
ベッドに寝ていた女性――リィナは身を起こし咳き込むコートニーを見て言った。
「すみません。そのまま呑み込んでは大変でしたから」
「っ……!」
とっさに窓に向かって駆けだすコートニーだったが、
「おっと。逃げられないよ。……よいしょっと」
あらかじめ待機していたティースが窓から入ってくる。
「……」
コートニーは後ずさった。
ティースは小さく息を吐いて彼女に視線を合わせると、
「……君だったか。じゃあ、俺がアリエルさんのことを尋ねたのがきっかけでこんなことを?」
「な、なんの――」
「言い逃れようとしても無駄だよ。その床に零れたものを調べれば、君がなにをしようとしていたのかはすぐにわかる。もし君がアリエルさんの死にもかかわっていたのなら、そのことも明らかになるだろうね」
「……」
コートニーは青ざめている。
と同時に、隠れて待機していた警邏隊の男が2人、部屋に入ってくると、彼女はもう抵抗しようとはせず、がっくりとひざを落として泣き崩れたのだった。
そうして一連の作戦が思った以上にうまくいって、コートニーが警邏隊に連れられていった後。
リィナが理解できない様子でつぶやいた。
「アリエルさんも、やはりあの子が殺したのでしょうか? 普通の女生徒のように見えましたが……」
「さあ……それはこれから警邏の方で調べてくれるんじゃないかな」
だが、リィナの疑問はティースにも理解できた。
どう見ても普通の女の子だった。とても人殺しをするようには見えない。
「たぶん、あの子も最初は思ってなかったんじゃないかな。自分が、まさか人殺しまでしなきゃならなくなるなんて。だってそうだろ? あんな女の子がひとりで麻薬なんて扱えるわけがない」
「そうですね……」
これですべてが終わったわけじゃない。背後になんらかの犯罪組織があるのは間違いなかった。
ただ、さすがにそこまではティースの領分ではない。
今回のことでそれらが明らかになり、生徒たちが安心して学園に通えるようになってくれれば――。
ティースはただ、そう願うだけだった。