その3『禁断の薬』
サンタニア学園で騒動があった翌々日のミューティレイク邸。
「――以上が、サンタニア学園内で女生徒が突然死した事件の顛末です」
「ご苦労様でした、ミリィさん。なにかありましたら随時報告をお願い致します」
「かしこまりました。お嬢様」
一分の隙もない礼をして部屋を出ていくのは、眼鏡を掛けた侍女長ミリセント=ローヴァーズ。そして彼女を見送ったのは言わずとしれたディバーナ・ロウの総帥であり、このミューティレイク家の当主でもあるファナ=ミューティレイクだ。
昨日、学園でひとりの少女が突然死をとげた事件は、サンタニアを含むネービス学園群の大半を管理する彼女の耳にも当然届いていた。
「……」
ミリセントが出ていった後、ファナは10秒ほど目を閉じ、学園内で命を落とした少女の冥福を祈った。
それからゆっくり目を開くと、その視線を横に移動させて、
「リディアさん。申し訳ありませんが、ティースさんをここに呼んでいただけないでしょうか?」
「ん?」
視線の先にいた執事の少女リディアは、その言葉に顔をあげた。机の上にはどっさりと書類の山が積まれていたが、彼女は平気な顔でそれらをてきぱきとさばきながら、
「ティースさんなら出掛けたみたいだよ。たぶん、今の話の関係じゃないかなぁ」
「あら。そうでしたか」
ファナの口調はいつもどおりのようにも聞こえたが、リディアはそこになにかを感じたらしく、
「なに? 気になることでもあるの? 病死らしいって聞いたけど」
「いえ。ただ、現場に近かったティースさんのお話もうかがってみたいと思っただけですわ」
「ふーん」
リディアは手にしたペンを指先でクルクルともてあそびながら、
「人が死んでるわけだから気持ちはわかるけど、そんなことまで気にかけてちゃ体がもたないよ。ただでさえタナトスだとかなんだとか、活動が活発化してるせいで最近あんま時間取れてないんだし、学園の方だって最近例のうわさ話のことで――あ、そっか。それでか」
リディアは自動的にファナの言葉の真意を理解した。
クルクルとペンの動きが速さを増す。
「でもどうかなぁ。うわさのクスリが関わってるとしても、あれって急に死んだりするやつじゃないって聞いてるけど」
「ええ、存じております。ですが、それに関わるなんらかのトラブルがあったという可能性も考えられますわ」
ピタッとペンの回転が止まった。
「……殺されたってこと? でも医者は病死だって言ってるんでしょ?」
「リディアさんはどう思われます?」
ファナの問いかけに、リディアは腕を組みながらうーんとうなって、
「とりあえず、ダメ元でその死んだ子の周辺を調べてみるのはありかもね。そっちのうわさの真相も明らかにできるかもしんないし」
ファナはゆっくりとうなずいた。
「わかりました。やはりティースさんが戻られましたらご意見をうかがってみることにしましょう」
ここネービス領における信仰は、ごくごく大ざっぱに2つに分けることができる。
この地方に古くから根づく、ネービスの守護剣神を奉るミーカール教と、大陸全土に広がり、この大陸におけるスタンダードとでも言うべきクライン教の2つがそれだ。
どちらも節制と自戒を説く辺りはよく似た宗教であるが、クライン教の方はあらゆる面で寛容であり、ネービスの国教ともいうべきミーカール教はより秩序を重んじ、罪に対して厳格な立場をとっている。
また、死者の行く末についても少々主張が異なっており、死後、再び人に生まれ変わるために現世で徳を積まなければならないというクライン教に対し、ミーカール教には生まれ変わりという考えがなく、現世で信仰篤かった者は死後の世界でミーカール神の元、永遠の命を得ることになっている。
古くはミーカール教しか存在しなかったこのネービス領であるが、暦が大陸歴と変わって320年、大陸各地との交流が活発になり、また学園都市として他領から多くの人間がやってくるようになって、今はおおよそ3割弱の住民が大陸のスタンダードであるクライン教を信仰するようになっている。
幸い、どちらの宗教も他の神の存在に比較的寛容であり、またネービス自体が異文化を受け入れることで成長してきたという土壌もあって、宗教間での争い事はほとんどなかった。
さて、そんなネービスの街にあるミーカール教の教会。
どんよりと曇った青空。……と、そんな矛盾した表現がその場にはふさわしいのかもしれない。
どんなに晴れやかな日差しであろうと、どれほどに心地よい涼風であろうとも、愛する者の死に流した涙を乾かすまでには至らないのだから。
嗚咽。重苦しい沈黙の風。
おととい、サンタニア学園内で倒れたアリエル=リンプシャーは、結局そのまま帰らぬ人となった。学園は一時騒然となったが、彼女の死因がどうやら心臓発作だったらしいことが判明し、それ以上の騒ぎにはならなかったようだ。
そしてその翌々日、つまり今日。
(天の神の御許へ、か)
朝早く、ミーカール教会の火葬場の前には100人近くの人々が集まっていた。彼女の家族、友人、彼女の家で働く使用人たち……今、ティースはそんな人々を後ろから眺める位置に立っていた。
視線は少し上。たち上る煙が風に運ばれていく。
火葬はネービスの国教であるミーカール教特有のもので、大陸全土に広がるクライン教は土葬だし、他の宗教もやはり土葬が圧倒的に多い。
ティースの故郷は9割9分がクライン教を信仰しているため火葬場なるものはひとつもなく、彼が火葬というものを初めて見たのはここネービスにやってきてからのことだ。
他宗派の信者には遺体を燃やすという行為に眉をひそめる者が多いのだが、ティース自身はこの、炎で身を清め、煙となって天に昇っていくという考えには納得できるものがあった。
(でも、いくらなんでも早すぎるよな……)
視線を下ろすと、死んだアリエルの母親だろうか、30代半ばの女性がその場に泣き崩れるところだった。寄り添う父親らしき紳士は50歳ぐらいだろう。
そのすぐそばには同じ顔をした双子らしき20代後半の男性が2人――これは兄か――が神妙な面もちで立っている。
その誰もが予想だにしていなかったのだろう。まだ17歳の娘が、妹が、唐突にこの世を去ってしまうなどとは。
と。
「……先生?」
「え?」
唐突に呼びかけられて振り返ると、そこには見知った男子生徒、オーウェン=トレビックがいた。学校で見るものよりもさらに落ち着いた質素な服装。死人を見送るときに派手な格好をしないのはミーカール教もクライン教も同じだ。
「オーウェンくん? どうしてここに?」
「先生こそ」
周りの人々と同じく、少々疲れた面もちのオーウェンは、ティースの前で少し無理したように微笑んでみせた。
「俺はアリエルとは昔なじみでして。父が美術商で、ちょくちょく彼女の家に出入りしていたんです」
「ああ……そうだったのか」
そういえば以前そんな話をしていたな、と、ティースは思い出した。
そして問いかける。
「前に一度会ったときは元気そうに見えたけど、彼女、心臓悪かったんだ?」
「いえ……どうなんでしょう。少なくとも俺は聞いたことありませんでしたけど、最近は昔ほど話をしなくなってたんで。それに先生も前に見ましたよね。アリエルはシーラさん――えっと、先生の授業を受けているシーラ=スノーフォールですけど――」
「あ、ああ、もちろん知ってるよ」
「彼女と仲が悪かったんです。だから俺とも自然と疎遠になっちゃって……でもたまに会うときは元気だったし、昨日の昼も少し話をしましたけど、とてもどこか悪いようには見えませんでした」
「……」
ティースはオーウェンの視線を追って火葬場の上空を見上げた。集まった人々は火葬場を囲むようにして、死者を弔う祭司の言葉に耳を傾けている。
「だから、彼女が死んだって聞かされたとき、もしかしたら『クゥエルダ』のせいかと思ったぐらいです」
「クゥエルダ?」
「知りませんか?」
オーウェンが視線をティースに戻した。
「最近、ネービスの一部の学生の中で広まってるってうわさの麻薬のことです」
「麻薬?」
声をひそめたのは、その話題がこの場にふさわしくないと考えたからだ。ただ幸いにして、集団から少し離れた後方の彼らに注目している者はひとりもいない。
「麻薬って……そのクスリを彼女が使ってたってこと?」
「いえ、まさか!」
オーウェンはすぐにそれを否定して、
「ただ、ちょうどそういううわさが聞こえてきたのが最近だったもので、ふと頭を過ぎったんです。そうでもしなきゃ説明がつかないぐらい唐突でしたから」
「……」
「あ、じゃあ俺はそろそろ……」
どこか淡々として見えるのは、まだ悲しみよりも戸惑いの方が大きいせいだろうか。
彼自身がそう言ったように、彼女の死は本当に突然だったのだろう、と、ティースは参列者の輪に戻っていくオーウェンを見送りながらそう思った。
(……せめて安らかに眠ってくれよ)
最後にもう一度少女の冥福を祈り、ティースはその場を離れることにする。
(しかし、麻薬か。あの学園でそんなものが……?)
まさか、という思いだったが、オーウェンがわざわざこの場で口に出したところからすると、単なるデマやうわさ話で済む程度のものではなさそうだった。
(……あとでシーラにでも聞いてみるか)
と。
「……先生?」
「え?」
教会を出たところで、ティースはまたもや予期せぬ人物と出くわした。
「先生も来てたんですね」
学園内でいつもシーラと一緒にいる少女、ディアナだった。喪服ではない。だが、その口調からするとただ通りがかっただけというわけでもなさそうだ。
「ディアナさん? もしかして君も……?」
彼女とアリエルとのいがみ合いを何度か目撃していただけに意外だった。
するとディアナは彼女らしくないというべきか、どこか憂いを含んだ眼差しで答えて、
「別に来ようと思って来たわけじゃないんですけど……さっきオーウェンの後ろ姿がチラッと見えたものだから、ああ、ここがそうなんだと思って」
「中には、入らないのかい?」
「嫌いでしたから、あの子のこと。向こうも同じでしょうし。でも」
ポツリ、と、ディアナは言った。
「……今にして思えば、死ななきゃなんないほど悪い子じゃなかった」
神妙な言葉だった。
ティースは小さくうなずいて、
「死ななきゃならない人間なんて、そうそういるもんじゃないよ。生きてるときは気づかないこともあるけどね」
「ですよね」
そう言って中空を見上げるディアナ。
空に昇っていく煙を見つめる彼女の瞳には、紛れもない哀悼の色が浮かんで見えた。
そんな彼女に、ティースはもう一度、
「中に、入ったらどうかな?」
「え?」
驚いたようなディアナ。
ティースは続けて、
「死んだ人がなにを考えるかなんてわからないけど、でも僕だったら自分をしのんでくれることが一番うれしいと思う。今の君だったら、アリエルさんも迷惑だなんて思わないんじゃない?」
「……」
ディアナはしばらくティースを見つめ、それから考える顔をした。
だが、やがて、
「先生?」
「うん?」
「今日はこれからヒマですか?」
「? とりあえず時間はあるけれど――」
いったいなにを――、と、ティースがそう尋ねる前にディアナは言った。
「じゃあ今から私とデートしましょ。ね、そうしましょ!」
「……へ?」
あまりに突拍子もない申し出に、ティースは目をパチクリさせたのだった。
午前11時、シーラは自室で客を待っていた。
(心臓発作、か)
細く白い陶磁器のような彼女の指先が、窓ぎわに飾られた紫色のつぼみをそっと撫でる。
テーブルの上には小さな薬袋。物が多いにも関わらずきっちりと整頓された部屋からは、聡明さと勤勉さの気配が香り立つ。
学園の人間のひとりでもこの部屋に招待したならば、彼女という人間への評価が少なからず変わるのではないかとも思われたが、残念なことに彼女は彼らを一度たりとも――同じくこの屋敷から学園に通うセシルを除いて、招待したことがない。
それは以前住んでいた借家でも同様だった。
コン、コン。
「シーラ様、お客様をお連れしました」
ノックの音に視線を移動させると、知った顔の従僕と彼に案内されたひとりの女性が部屋に入ってくる。
待っていた客人だった。
「あ~らら。相変わらず難しそうな顔してんのねぇ」
女性はシーラの顔を見るなりそう言った。
年のころは20歳を少し過ぎた程度、やや下がり気味の目尻と色香にあふれたいかにも男好きのしそうな、シーラとは正反対なタイプの女性だった。
「なにか悩み事でもあるのかしら? でも残念。あなたの相談には乗ってあーげない」
シーラはかすかに眉をひそめて女性を一瞥すると、すぐその後ろに視線を向けて、
「ご苦労様、マグナス」
「はい。では……」
シーラに一礼して、マグナスは自分が連れてきた女性をチラッと横目で見る。
「ん? なに?」
「あ、い、いえ。どうぞごゆっくり」
慌てて視線を逸らしたマグナスは、そそくさと部屋を出ていった。
すると女性はそれをおかしそうに見送りながら、
「あの子、あたしの太股がやけに気になってたみたい」
「そうね、マーセル。この屋敷であなたほど短いスカートを履く人間はあまりいないわ」
シーラの言葉には冷たい皮肉が混じっていたが、マーセルは気にした様子もなかった。
マーセル=バレットは2ヶ月ほど前、とある温泉街での事件でティースやシーラと知り合った人物である。
元々はネービス領の南東にあるベルンという街の富豪の娘で、心臓の病のため2ヶ月前までロマニーという温泉町で療養していたが、シーラたちと出会った後にネービスに移り住んでいた。
「あたしの父は典型的な成金だから、あたしもそんなお上品な教育は受けてないのよ。それに女ってのは男の視線を集めてナンボでしょ?」
言いながらソファに腰を下ろしたマーセルはこれ見よがしに足を組んでみせる。
「で、ティースくんは元気?」
シーラはそっけなく返して、
「生きてはいるわね。そんなことよりあなたの調子は?」
「悪くないわ。悔しいけどあなたのおかげでね。これ、前回もらった薬よ。使わなかった分」
「そう」
マーセルの差し出した手の平サイズの薬袋を受け取ると、シーラは代わりにテーブルに置いてあった薬袋を彼女に手渡した。
「いつも通り3回分。それと――」
「使用期限、使用量、使用のタイミングを絶対に間違えないこと、でしょ?」
「ええ」
うなずいたシーラは、マーセルから受け取った古い薬をビーカーの少量の水に溶かし、植木鉢の中に流し込んだ。
シーラがマーセルに処方しているその薬は、一般には市販されていない。いや、それどころか著名な薬師ですらも調合法を知らないであろう特殊な薬で、マーセルがわざわざネービスに移り住んだのも、定期的に彼女から薬を処方してもらうためである。
「特に使用量は絶対に守って。どんな薬にも必ず致死量があるわ。特にその薬は――」
言葉を切って、シーラはかすかに視線を泳がせた。
「……マーセル。その薬、どんな味がする?」
「味? 変なこと聞くのね」
不思議そうな顔をしながらもマーセルは口元に指を当て、少し天井を見上げるようにして考える。
「まぁとにかく苦いわねぇ。使うときは味なんて気にしてらんないときが多いけど」
「そう。……そうよね」
マーセルの感想にシーラはうなずいた。
実のところ、その薬がとてつもなく苦いことはシーラも知っていた。マーセルに飲ませる前に自分で試したことがあるからだ。
そのときのことを思い出す。
全身から血の気が引き、平衡感覚を失い、心拍数は異常に速くなって、頭の中は真っ白に。血圧を操作するその薬は、健常な人間が服用すると当然に体調を崩してしまうのだ。
「マーセル。何度も言うけれど、その薬は決して他人に渡してはダメよ」
「ふふふ、わかってるって。よく知らないけど、真っ当な素性の薬じゃないんでしょ? こんなの勝手に処方してたことがバレたら面倒なことになるのよね?」
「それもあるけれど。万一、なにも知らない人間が口にすれば大変なことになるわ」
「わかってる」
マーセルは真顔になってうなずいた。
「ネービスの守護神たるミーカールの名に誓って、あなたに迷惑をかけることは絶対にしない。いくら気に入らない生意気な小娘でも、命の恩人は命の恩人だもの」
シーラはそんな彼女にほんの少しだけ苦笑して、
「私も同じよ。あなたのことは気に入らないけど、絶対に見捨てたりはしないわ。薬師見習いのプライドにかけてね」
マーセルは赤いルージュの唇をかすかに歪ませてクスクス笑うと、ゆっくり足を組み替えた。
「ところで話は変わるけど……実はここに来る途中、街でティースくんらしき人を見かけたの」
意味ありげに語りだしたマーセルに、シーラはまるで無関心な口調で、
「そう」
「それがねぇ。彼、実は女の子と一緒だったのよ」
「それで?」
「あら。あたしのときと比べてずいぶん淡泊な反応ね」
シーラはため息を吐いて、
「本当かどうかもわからない話にいったいどんな反応をしろというの? それにあのときは、ただ単にあなたのことが気に入らなかっただけのことだわ」
「じゃあ、興味ないのね?」
「興味ないわ」
即答する。
それでもマーセルは口元を緩めたまま、
「じゃあ、あたしはちょっと興味本位で聞いてみていいかしら? ……ティースくんって、もしかして副業とかやってたりする?」
「? ……どういうこと?」
意図のわからない問いかけに、シーラがさすがに気になって問いかけると、マーセルは人差し指を口元にあて、思い出すようにしながら言った。
「だってその女の子が呼んでたのよ。彼のこと『先生』って」
「……先生?」
喜ばしくないことに、シーラには心当たりがあった。
「……ねぇ、先生。先生はどういう経緯でウチの学園に来ることになったんですか?」
「え? あ、ええっと、知り合いのツテでね」
「知り合いってウチの学園の先生とか?」
「ん、あ、いや、まぁそんなとこかな……」
まずいことになった、と、ティースは困り果てていた。
気分転換にという名目でお願いされ、結局断りきれずディアナに付き合わされることになったのだが、街中を2人で歩き出した途端、彼女による猛烈な質問責めが始まってしまったのである。
なにしろ彼女はシーラの友人だ。うっかり余計なことでも口走れば後が恐ろしい。
(まいったなぁ……)
と、そんな困り果てた彼の心情とは裏腹に、休日の大通りは春らしい絶好の日和も手伝って盛況だった。
平日の何倍もの露店が辺りに並び、少し先では大道芸人がちょっとした人垣を作っている。
「あ、すごいすごい。先生、見て、アレ」
「ん?」
ディアナが指し示したのはその大道芸人の一団である。
どうやら一輪車を使ったパフォーマンスのようだ。
(……一輪車かぁ。懐かしいなぁ。アクアさんに練習させられたっけ)
結局まともに進むことすらできなかったことも、今となってはいい思い出だった。
立ち止まってしばし鑑賞の後、
「……あ、先生、ごめんなさい。あたし、お金ぜんぜん持ってきてなくて」
「ああ、いいよいいよ」
そう言って幾ばくかの鑑賞料を支払ったティースたちは、その場を離れることにする。
「ところで先生? 先生はどの辺に住んでるんですか?」
それから再びディアナの質問責めが始まった。
「あー、えっと……東地区の11ブロックだよ」
機転を利かせ、以前住んでいた借家の場所を答えておく。
「先生、独身ですよね? 家族とかは?」
「あー、えっと。故郷は田舎の方でね。名前を言ってもわからないぐらい小さな村なんだけど」
「じゃあ――」
延々と続く質問にも少しずつ慣れてきて、どうにか大過なく答えていたティース。
この調子なら問題なく乗り切れるかな――と、そう思った矢先のことだった。
「ところで先生?」
「ん?」
「先生は、もしかしてシーラとお知り合いなんですか?」
「あー、えっと……えっ!?」
びっくりして立ち止まり、ディアナの顔を見つめる。と、同時に冷や汗が背中に浮かんだ。
(なんだ!? なんか俺、マズイこと言ったっけ!?)
慌ててここまでの会話を思い返してみるが、どう考えても心当たりがない。今日はシーラについての話題すらひとつも出ていなかったのだから当然である。
もちろんティースは取りつくろうことを試みた。
「突然どうしたんだい? そんな突拍子もないこと――」
「昨日のあの騒ぎのとき、先生、シーラのこと呼び捨てにしてたでしょ? あとから思い出して、アレっと思って」
平常を装おうとして見事に失敗しているティースに対し、ディアナは的確にそう指摘してきた。
「え……そ、そうだっけ?」
さすがにあの状況でどう呼びかけたかまでは記憶になかったが、言われてみるとそうだった気もしてくる。
(……ま、まずいなぁ)
もしそれが理由だとすれば完全に彼のミスである。シーラにバレたらなにを言われるかわかったものではない。
「いや、その前からもなーんか変だと思ってたんですよね。シーラってば先生がいるときに限っていつもしないような反応するんです。思い出してみると、先生が初めて来たときもなんか変だったし」
「それは……」
(というかこの子、意外とよく見てるなぁ……)
と、ティースはこんな状況にもかかわらず感心してしまった。どちらかというと大ざっぱなタイプだと思っていたが、どうやら印象以上に聡明な少女のようだ。
「あー、えっと……」
さぁ、困った。
証拠などないのだからしらばっくれればいいだけの話なのだが、とっさにできない辺りが彼らしいというべきだろう。そもそも嘘をつくのが上手な男ではないのだ。
そのうちにディアナは自信をさらに深めたらしく、
「あ、無理しなくてもいいですよ。あの子がプライベートなことを隠そうとするのはいつものことですし、まぁ、深くは追求はしません」
「……」
なんともありがたい申し出だったが、バレてしまったことに変わりはない。
(……やれやれ。今日は小言を覚悟しなきゃな……)
「えと。でもひとつだけいいですか?」
「ん?」
ディアナは少し心配そうな顔をして、
「シーラと先生って、恋人とか、実はとっくに夫婦とかってわけじゃないんですよね?」
そんな彼女の突拍子もない質問に、ティースは思わず笑った。
「あはは、それはないよ。というか、彼女にはちゃんと恋人がいるだろ? 君の方がよく知ってるじゃないか」
「んー、そうなんですけどー」
ディアナはなんともあいまいな顔をして、
「あの2人、ぜんぜん恋人らしくないんですよねー」
「そうなのかい?」
ティースはそう尋ねたが、実のところそれは彼も感じていたことだった。
「ええ、そうなんです。まぁシーラはああいう性格だし、どっちかというとオーウェンの方が熱を上げてる感じだから仕方ないんですけど……それにしたって信じられます? 理由もなく触れたら絶交だって言うんですよ」
「え……触れたら絶交って、オーウェンくんがシーラに、ってこと?」
これにはティースもあぜんとした。普段から男に対して厳しい発言のある彼女ではあったが、そこまで男嫌いという話は聞いたことがない。
それに、
「でもあいつ休日とか、恋人とデートだってよく出掛けてたけどなぁ……」
「デート? まさかぁ。あたし、オーウェンが断られた話しか聞いたことないですよ。だから、なにかあるのかなぁと思って」
「……」
それがもし本当だとすれば、彼女はいつもどこに行っていたのだろうか――と、ティースは疑問に思ったが、よく思い返してみると、シーラはミューティレイク邸に来てからデートと称して出かけることは極端に少なくなっていた。
狭い家に2人きりじゃなくなったことで、そもそも行き先を尋ねることがほとんどなくなったせいもあるが、休日には外ではなく、ミューティレイク本館の書庫によくいるという話も耳にしたことがある。
(……じゃあ、あのころデートに行くって言ってたのも、もしかして)
そんなことまで詮索すべきではないとは思うものの、やはり気にはなった。
「でもよかった」
と、ディアナ。
「ん? なにが?」
うわの空で答えるティース。
「だって」
そこはあるいは警戒してしかるべき場面だったかもしれない。だが、ただでさえ容量の少ない頭がシーラの行動に対する疑問でいっぱいになっていた今は、そんなところにまで気が回らなかった。
「先生はまだ独身で、シーラともそういう関係じゃないってことでしょ?」
「へ?」
弾んだ声と同時に左腕にグッと柔らかな重み。
「せっかくの機会だし、もっと先生のこと聞かせてください。ね、いいでしょ、先生?」
「……」
視線を左ななめ下に向け。
ほぼ疑いようのない、その(彼にとっては)暴挙を認識して。
――血液が突然、重力に従順になる。
「え! せ、先生ッ!?」
そしてティースの意識は、アッという間に闇の中へと落ちてしまったのだった。
その日の夕方、シーラの部屋。
「――つまり」
「……」
情状酌量の余地さえない凶悪事件の容疑者が死刑判決を受けるときというのは、まさにこんな感じなのかもしれない、と、ティースは思っていた。
「あれだけ釘を刺したにも関わらず、よりにもよって私と一番親しい子に捕まって余計なことをペラペラしゃべった挙げ句、デートだとかおだてられていい気になって良からぬ妄想をしている間に腕を取られて気絶した、と……そういうことなのね?」
「誤解だ!」
この期に及んでティースは悪あがきを試みた。いや、シーラの言葉も9割は的を射ているものだったが、しかし。
「俺はいい気になんてなってないし、良からぬ妄想なんてしちゃいない!」
そこだけははっきり主張しておきたいところであった。
「そう? だったら、どうしてそんな簡単に腕を取られたの?」
「それは……」
勢いは一瞬だけだった。
まぁ、客観的に言えば完全に彼のミスだろう。ディアナの本心がどうであれデートという名目で誘われたのは事実だし、ああして触れられる可能性も考慮してしかるべきだった。
さらには、
「ちょっと、ボーっとしてて……」
その理由が、シーラがデートと称して本当はどこに行っていたのか気になっていたから、なんて言おうものなら、どんなむごい仕打ちが待ち受けているかわかったものではない。
「そう。いつもどおり、お前らしいミスね」
「うっ……」
反論の余地はなかった。
なにしろ彼の失態は気絶しただけではないのだ。あの後、偶然その場を通りかかったセシルとアルファに屋敷まで運ばれて――それはまぁよかったのだが、あろうことかディアナが最後までついてきてしまい、ティースとの関係どころかシーラがこのミューティレイク邸に住んでいることまでバレてしまったのである。
これを致命的と言わずしてなんと言うべきか。
「お前が学園に来てから今日で何日目だったかしら?」
天井に吊された灯りが、シーラの瞳の中でユラユラ揺れる。部屋の中に伸びた影には悪魔の尻尾が生えているようにティースには思えた。
「きょ、今日でまだ5日目……かな?」
「そう。私がディアナと初めて会ったのは3年以上前よ。3年以上、彼女が私の住む家を訪ねてくることはなかったわ」
「……すまん」
ここはとにかく平謝りするしかないティースであった。
「まったく」
とはいえ。
シーラの方も、いまさらどうこう言っても仕方ないことはわかっているようで、
「お前のミスはともかく、どうしていきなりディアナとデートだなんて状況になったのかしら」
「言っとくけど、俺が誘ったとかじゃないからな。……なんかアリエルさんのことでショック受けてたみたいでさ。たぶん気分転換がしたいんだと思って付き合ったんだよ」
「……アリエルのことで? そうなの」
シーラは少し目を伏せ、考えるような表情をする。
彼女もあるいは、アリエルの死を悲しんでいるのだろうか――と、そんなことを考えながらティースは言った。
「じゃあ俺、そろそろ……この後、リディアに呼ばれてるんだ。たぶんファナさんの用事だと思うんだけど」
シーラは顔を上げて、
「リディアに? もしかしてアリエルの件かしら」
「え? さぁ、でもタイミングからするとそうかも――あ、そういや」
ティースは昼間のことを思い出して、
「シーラ。お前、クゥエルダって聞いたことあるか?」
「あるわ」
まるで予期していたかのような即答だった。
シーラはテーブルの上の辞典らしきものを左手でパラパラと無造作にめくっていくと、
「クゥエルダは服用することで一時的に強い開放感や高揚感を得られる薬よ。おそらくお前が聞いたであろう学園でのうわさ話も知ってるわ。……これよ」
「どれどれ……?」
身を乗り出してシーラの手元をのぞくと、彼女の示した辞典のページには、確かにクゥエルダという薬についての詳細が書かれていた。
「……比較的強い中毒性と、常用することでまれに幻覚などの症状を引き起こす場合があるため、大陸の8割強を占めるヴォルテスト条約加盟国では全面的に服用が禁止されている――こんなものがあの学園で、本当に?」
パタン、と、シーラが辞典を閉じる。
「あくまでうわさ、ということよ。断定ならとっくに警邏隊が動いているはずでしょう」
「それもそうか……」
「ただ、うわさ話としてならファナだって把握してるはずだし、それなりに調査にも動いていると思うわ」
「じゃあ。昨日のアリエルさんの死因にそれが絡んでるってことは――」
「それはないわね」
シーラは即座に断言した。
「クゥエルダという麻薬は確かに体に悪影響を及ぼす恐れがあるけど、それが原因で心臓発作のような症状を起こすなんて報告はない。もちろんとんでもなく大量に摂取すれば死ぬでしょうけど、それを心臓発作で片付ける医者がいるとは思えないわ」
「ってことは、彼女はやっぱり病死ってことか」
そうつぶやいたティースに、シーラは言った。
「だと、いいんだけど」
「え?」
怪訝そうなティースに、シーラは机の上に置いてあった小さな薬袋を手に取ると、
「今日マーセルが来たの。この薬、覚えている?」
「ああ。マーセルさんの心臓の薬だろ?」
「そう。この薬は血圧――簡単にいえば血の流れを調整して心臓の負担をやわらげる効用があるのだけれど……」
さらさらさらと、彼女の細い手の平に薄紫色の粉末がこぼれ落ちる。彼女はそれをティースの眼前に差し出した。
「?」
思わず顔を近付けて匂いを嗅いでみると、いかにも薬草くさい香りがした。かすかに芳しい花の香りが混じっていたのは、薬ではなくシーラが身に付けている香水のものだろう。
ティースが顔をあげると、シーラは言葉を続けた。
「たとえばこの薬、この手の5倍の量を飲んだとしたらきっと死ぬでしょうね。もしかしたら心臓発作のような症状で、かもしれない」
「え?」
驚くティースをしり目に、窓ぎわの鉢にその粉末を流し込むシーラ。
「毒であろうと薬であろうと、人体になんらかの作用をする以上、必ず致死量があるわ。お前も知っての通りこれは医者も薬師も知らない薬。もしこの薬の誤使用で死んだとしたら、医者は心臓発作と診断するかもしれないわね」
「じゃあ誰かがその薬を――」
「早とちりしないで。この薬は苦みが強いしさっきお前が嗅いだような匂いもある。致死量を本人に気付かれないように飲ませるのは難しいわ。でも、そのように見せかける毒、あるいは薬が他に存在していても不思議はないということよ」
ティースは少し考えた。
「……でも、医者や薬師でもわからない薬だったとしたらお手上げじゃないか」
「そうね。でも……」
シーラはチラリとティースを見て、
「仮に未解明の毒薬が使われたとしたら、それはそこいらの一般人に入手できるものじゃないわ。プロの殺し屋か、薬草学に造詣の深い人間の仕業。どちらにしても必ず理由があるはずだし、そこからたどっていくのは充分可能よ」
「理由……」
ティースの頭上にようやく閃きが灯った。
「麻薬――クゥエルダのうわさ、か」
「なんとも言えないわね。確かに彼女の死は唐突だったけれど、自ら麻薬に関わるような子には思えないし、普段なら疑問もなく病死で処理されていたケースよ。ファナがお前になにか聞きたいというのも、たまたまそのうわさの件と時期が重なったためでしょうし、ただの偶然の可能性だってある」
「……」
シーラの言うことももっともだ。
しかしもし。もし彼女の死が自然死ではなく、誰かの意志によるものであったなら。誰かの思惑によって理不尽に奪われたものだとしたら。
なんともいえない気持ちが胸にこみ上げる。晴天の下で泣き崩れる彼女の家族の姿が脳裏によみがえる。
もしそうだとしたら、その行為を許すわけにはいかない。
「……なぁ、シーラ。ちょっと頼みがあるんだけど」
今日は失態を見せているだけに、少々遠慮がちにティースはそう切り出した。
「なに?」
「俺、学園のこととか薬のこととかぜんぜんわからないだろ? だからお前の知恵を貸して欲しいんだ」
「調べるつもり?」
「ああ。……ダメかな?」
「……」
シーラはじっとティースを見つめた。
彼女にしてみれば、ティースが学園内をウロチョロするのは歓迎ではないはずで、あるいは拒否されるかとも思っていたが、
「……いいわ」
シーラはうなずいてそう言った。
「でも、私との約束は守ってもらうわよ。ディアナにバレてしまったことはともかく、他の子に絶対にバレないように気を付けること。それが条件」
「ああ、それはもちろん。今度こそは気を付けるよ」
それは言われなくてもわかっていた。なによりティースの危惧が事実だったとすれば、危険が及ぶ可能性も考えなければならない。シーラの安全のためにも2人の関係は隠しておくべきだろう。
「ディアナには私の方から釘を刺しておくわ。今日のことは絶対に他言無用だとね」
「……なぁ、シーラ」
そんな彼女に、ティースはふと疑問に思って尋ねてみた。
「お前がディアナさんにまで自分のこと隠してたのって、もしかして『追っ手』が来るかもしれないって考えてるからか?」
後半は少し声をひそめて。
シーラの肩がピクリと動き、続いて彼女は不可解そうな顔でティースを見つめた。
「なに、突然?」
「いや。ただ……今日、ディアナさんが言ってたんだ。お前は絶対にプライベートのことを話そうとしないんだって。深く追及はしないって言ってたけど、ちょっと寂しそうにも見えたからさ」
「ディアナが? そう……」
視線がななめ下に落ちる。かすかな罪悪感のようなものがその表情に過ぎった。
(やっぱり、そうか……)
それはそうだろう。3年以上も付き合っている友人に必要以上の隠しごとをすることが、いくらなんでも彼女の本意であるはずがない。
それを確認して、ティースは続ける。
「……なぁ。もうあれから何年も経つし、なんにもないのはたぶん向こうがお前を完全に見失った証拠じゃないかな。もうそこまで徹底しなくても――」
だが、シーラは硬い表情で首を横に振った。
「ダメよ。万が一なにかあればファナにも迷惑がかかるわ」
「でも、そんなんじゃさ。いつまで経ってもちゃんとした友達とか、恋人だって――」
言ってから、ティースはしまった、と思った。
シーラは探るような目でティースを見る。
「……ディアナにオーウェンとのことでも聞いたの?」
「え! あ、いや……」
ティースは慌てて言い訳を探そうとしたが、すぐに不可能だと悟って、
「いや、その。ディアナさんがお前たちの心配してて……」
「ふぅん。じゃあ、お前から詮索したわけではないのね?」
「あ、ああ。それはもちろん」
責任転嫁するようで少々気は引けたが事実である。
もちろんティース自身、彼女とオーウェンとの関係が気になっていたことも確かだが、そんな余計なことは言わない方が吉だろう。
「そう」
シーラは自分の眼前に右手の爪先を広げ、なにごとか考えながら、
「心配しなくとも平気よ。恋人なんてどうせ……私に群がってくる男なんて、自分から探さなくてもごまんといるもの」
「お、お前なぁ……そういうのは友達とか恋人とかって言わないんだぞ?」
シーラは彼を一瞥し、どこか挑発的な口調で答えた。
「だったらどうするの? お前がそういう連中を追い払ってくれる?」
「……そりゃ、必要があるならするけど、あのオーウェンって子はそんな感じじゃないだろ?」
「お前がなにを期待しているのかはわからないけど、私は今のままで満足してるのよ。だったら問題ないでしょう」
そこでようやく、ティースは彼女の口調がいつもの棘をまといつつあることに気付いたが、そのときはすでに遅かった。
「話は終わりよ。そろそろ出て行って」
そう言い放って机に向かったシーラは、もうティースの方を振り返ろうとはしなかった。
「あ、ああ……」
ティースはゆっくりと立ち上がる。
一時期よりいくらかマシになったとはいえ、こうなってはもう取り付く島もない。
パタン。
後ろ手にドアを閉じる。
ため息。
天井を見上げる。
(群がってくる男なんて……男なんて、か。だから俺にも冷たくなったのかな……)
昼間にディアナから聞いた話と合わせ、ティースはそんなことを考えて深く嘆息するのだった。
翌日、なにごともなく過ぎた放課後のこと。
「わかってるって。昨日のことは絶対に他言しない。約束する」
昨日とは打って変わってどんよりと曇ったどす黒い灰色の空。まだ太陽が高い場所にいるにも関わらず辺りは薄暗く、いつ雨が降り出してもおかしくない空模様だった。
実際、街の通りも人通りは少なく静かで、シーラの視界にいるのは同じように学園群から下校する生徒たち数人だけだ。
「でも、昨日のって確かミューティレイクのお屋敷よねぇ。あんな超豪華なところに住んでるなんて、あんたってますますミステリアスガールだわ」
と、ディアナは昨日の出来事を少々興奮気味に語っていたが、対するシーラはあくまで淡々と答えて、
「単なる居候よ。私自身はただの一般人」
「ふーん。まぁ、あんたの場合、嘘でもホントでもそう言いそうだけど。……そうそう。そういえばシーラ、あんた聞いた?」
「なに?」
「シェーマス先生が今月から戻ってきてるんだって」
「シェーマス先生? ……ああ、シェーマス=フランシスね」
二回生のころ、薬草学を教えていた若い講師の顔を思い出してシーラは興味なさそうにつぶやいた。
ディアナはちょっと意地の悪い笑みを浮かべて、
「大丈夫よ。今度はあの先生も学習して、きっとあんたには触れないようにするだろうからさ。……おっと。それじゃ、あたしはこっちだから」
「……あ、ディアナ」
「ん?」
珍しく呼び止められたディアナは不思議そうな顔でシーラを振り返った。
「そういえば聞きそびれてたけれど、あなた、昨日のことはどういうつもりなの?」
「へ? ああ。昨日のってティース先生のこと?」
ディアナはあっけらかんとした口調で、
「いやぁ、どういうつもりってほどのこともないんだけど、どんな人なのかちょっと興味があっただけ。試しに誘っても危険はなさそうだったし」
「そう」
確かに、彼ほど安全な男性もそうそういないだろう。もちろんその時点ではディアナは彼の特異体質のことなど知らなかったはずだが、それを抜きにしても人畜無害が服を着て歩いているような人物である。
「それに、ちょっと話してみたら想像通りの人で。あの人ってホント、裏がなさそうっていうか、正直者っていうか」
「悪知恵に回す頭がないだけよ」
相変わらずシーラの批評は辛辣だった。
ディアナは笑って、
「そうかもしんないけどね。でもだからこそ、たまに馬鹿正直な言葉が心に響いちゃったりするんじゃない?」
「どうかしら」
視線を流して、
「まぁ、いいわ。ちょっと確認したかっただけだから」
そんなシーラに対し、ディアナはちょっと冗談交じりの口調で、
「昨日のはただの興味本位だったけどね。でもさ。もしあたしが本気になったら協力してよね、シーラ」
と、少し探るような目をする。
シーラは小さく首を振って、
「……それは無理よ」
「どうして?」
「他に……応援したい子がいるから」
「え? ……あー、そっかぁ。あの先生、ああ見えてモテるのかなぁ」
「……」
それは誤解だとシーラは思ったが、あえてなにも言わなかった。ディアナの方もそれ以上は追求することもなく。
「じゃー、また明日ー」
「ええ。気を付けて」
ディアナと別れ、シーラは歩き出した。
(……嫌な天気だわ)
ミステリアスと評される仮面の下で、シーラは普通の人々と同じように憂鬱を小さなため息に変えて吐き出す。
(あら。あの店、新しくできるのね……)
あまり目立たない通りに建築中の建物を見て、シーラは少し口元を緩めた。近場だし、もし洋服店なら今度のぞいてみようか、と、そんなことを考えながら歩みを進めていく。
彼女の出で立ちは紺を基調にした長袖の服と深緑色のロングスカート、茶色のブーツ。それらの部分部分に刺繍が入っているところに彼女のお洒落に対する意識がかすかに見えるが、全体的にいえば割と地味な装いといえるだろう。
ただしそれでも、彼女は目立つ。街を歩いていれば通り過ぎる人々の大半が彼女に視線を送るし、彼女自身もそれを感じていた。
だが、しかし。
(……変ね)
そこからさらに進んだところで、シーラは不穏な気配を感じていた。雨が降り始める前のじっとりとした空気に混じって、さらに嫌な雰囲気。
「……」
シーラは何度もこの感覚を覚えたことがある。彼女はそういったことに比較的敏感で、そして過去には一度、その直後に2人組の暴漢に襲われたことがある。
用心するに越したことはない。
彼女の外見は、望むと望まざるとに関わらず憧憬と嫉妬、打算と欲望を勝手に集め、それらはときに牙を剥くのだ。
彼女はこの街に来てから、それらを理解する機会に充分すぎるほど恵まれた。
辺りをうかがう。
それなりに大きめの通りだったが天気のせいもあって辺りに人は少ない。人の多い大通りまではまだ距離がある。
(……まずいわね)
さっきまで潜めていた足音が背後から近付いてきているのがわかった。
ポツ、ポツと雨が落ち始める。
「……」
振り返らずに少し歩みを速めた。
背後の足音も速くなる。
辺りに人がいなくなるのを見計らっていたのか。絶妙のタイミングだった。
もう、疑う余地はない。
スカートの中に潜ませた暴漢撃退用のアイテムを右手の平で確認する。今日持ってきていたのはいつかの朝ティースを実験台にして試した薬で、目に入ると痛みとともにしばらく涙が止まらなくなる薬だ。
だが、
「――!?」
前方の路地から男が2人、同時に出てきた。
足を止める。
と、同時に背後から声がした。
「叫ばない方がいい。へたをすれば命がなくなるぞ」
「……」
背後から響いた声はシーラの背筋をかすかに震わせた。
(声が据わってる。ただのゴロツキじゃない……)
全部で4人。そのうちの2人はただのチンピラのように見えたが、残る2人はもっと地に足のついた雰囲気を漂わせていた。
待ち伏せされていたところをみると、最初から狙われていたらしい。
「……私になんの用?」
少なくともただの暴漢ではないことを悟ってそう詰問する。心当たりはなかった。
だが、
「時間がない」
リーダー格らしき男は質問に答えず、親指で、ついてこい、とジェスチャーをした。
「おとなしくしてりゃ命は助かる。騒ぎ立てれば命はない。それに、誰か通りかかったらそいつも巻き添えになるぞ」
「……」
男たちが全員ふところに刃物を忍ばせていることはすぐにわかった。男たちがどうやら本気であることも。
それを確認して、
「……わかったわ」
肩を落としたシーラに、前方と背後にいた男がひとりずつ彼女に近付いていく。
「物わかりいいじゃねぇか。好きだぜ、そういう女――」
手を伸ばす。
と。
「――っ」
がしっ。
背後から肩に手をかけようとした男の体が一回転した。
「なっ!!?」
「気安く触れるな、下種が」
「っ……!」
背中からまともに地面に叩きつけられた男が、さらに股間を全力で踏み付けられて悶絶する。
「てめぇっ……!」
「……!」
飛びかかってきたもうひとりの男に対し、体をかわしながらすれ違いざま、忍ばせていた薬袋を顔面に投げつける。
「な、なんだこりゃ……っ……ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
男はあまりの激痛に、顔面を抑えて地面をのたうち回った。
「見くびらないで」
2人を撃退するまでの間はほんの5秒ほどの出来事。それは彼女がもともと身につけていた護身術と、恐怖に屈しない意志の強さのたまものだった。
「お前たちのような下衆に、簡単にいいようにされたりしないわ」
だが、しかし。
(あと2人……)
不意打ちと奥の手。カードはどちらも切った。しかも残る2人は明らかに最初の2人よりも手練れに見える。
だが、シーラは臆することなく視線を上げ、そのリーダー格の男に鋭い視線を合わせた。
「……後悔するぞ」
そんな男に対し、シーラは強い言葉を返す。
「やってごらんなさい。下等なお前たちと違って、私には死ぬより恐ろしいものがたくさんあるわ。それを守るためなら死なんて怖くない」
それは虚勢だ。だが、本心でもあった。
「……」
そんな彼女の気迫に、少しだけ男たちが気圧されたようにも見えたが、それは一瞬のこと。
――動く。
「っ……」
身のこなしは明らかに武術を身につけた者の動き。護身術には多少の覚えがあるとはいえ、しょせん一般人の領域を出ない彼女にはさすがに荷が重い相手に思えた。
それはほんの1分にも満たない出来事。
そのときまだサンタニア学園にいたティースに、それを察することなどできようはずもなく――。
雨を裂くように、甲高い鳥の鳴き声が灰色の空に響き渡った。