その2『人間模様は多角形』
『春だからね』
と、誰かがこういう言葉を口にした場合、そのときの光景をどのように想像するだろうか。
仮に、ひと組の仲のよい恋人たちを想像したとしよう。
今まさに花開かんとするうららかな並木道。暖かな陽気と、心地よい小鳥のさえずりと、肌をくすぐるそよ風。そんな仲むつまじい2人にはおそらく夢と希望に満ちあふれた未来が待っている――。
……と、まあ、こんな感じであれば幸せなことで、この情景に吐き気を催す人間がいるとすれば、それはかなりのひねくれものか、往生際の悪い横恋慕者ぐらいのものであろう。
しかしながら。
「……春だからねぇ」
心躍るうららかな春の陽気の中、華やかなミューティレイク邸の別館でリディアの視線の先にあった光景は、前述のように希望に満ちあふれたものとはあまりにかけ離れていた。
「つまり、ティースさんの持つ細波を含め神具にはそれぞれ特徴があり、それを知り生かすことが戦いをより有利に――ティースさん? ……ティースさん!」
「ほへ?」
鼻ちょうちんが割れた音でも聞こえてきそうな、すっとぼけた反応。
「え。あ、アオイさん……?」
ミューティレイク別館1階ホール。その丸テーブル群のひとつに腰を下ろしたティースは、縦に長い背中をこれ以上ないほどに丸め、両肘をテーブルに立て、重ね合わせた手の甲にあごを乗せる形でボーっとあらぬ方向を見つめていた。
ぼんやりとしていた焦点が徐々に合っていく。
たっぷりと5秒ほど間があって、ティースはハッと姿勢を正すと、
「え! あ、ごめん! なんの話だったっけ!?」
「……大丈夫ですか?」
そんなティースの正面に腰掛けるのは、眼鏡と優男風の外見が特徴的なミューティレイク家の執事、アオイであった。
アオイは眉をひそめて心配そうにティースを見つめると、
「慣れない仕事で疲れているのでは? もし調子が悪いのでしたらマイルズ先生に診てもらって――」
「あ、いや。そういうわけでもないんだ。ほら。その、春だからついボーっとして」
慌てて言い訳するティース。それはもちろん口から出まかせだったのだが、
「ああ」
アオイは納得顔をして、
「それはよくわかります! 実は私も今朝、陽気があまりに心地よくてついつい寝坊をしてしまいまして」
「……いつもじゃん」
離れた席でそう突っ込むリディアの言葉は、どうやら2人の耳には届かなかったようだ。
さて、ミューティレイクでは一番忙しい午前中の喧噪も少し落ち着いてくる午前11時過ぎ。早い時間から動き出していた人々の中には、ひと息ついてこのホールに顔を見せる者もちらほら出てくるころだ。
その中のひとり――ではないのだが。
「おはよー……ティースくぅぅぅん……」
このミューティレイク家が抱えるデビルバスター部隊ディバーナ・ロウの第一隊隊長、アクア=ルビナートが間延びした声を発しながらその場に姿を現した。
トレードマークであるお団子頭の後ろに右手を当て、少し斜めになりながら階段を下りてくる。足取りはどことなく重苦しい。
「おはようございます、アクアさん。もしかしていま起きたんですか?」
そう問いかけたティースに、アクアは小さく何度か首を振って、
「んー、昨日はちょっと飲み過ぎちゃってぇ。あぁぁぁ、頭痛い……。ねえ、まだ朝御飯残ってるぅ? あ、そんじゃ、またあとでねぇぇぇぇぇ……」
フラフラとした千鳥足で、食堂のほうへと消えてしまった。
「……」
ティースとアオイは顔を見合わせながらそんな彼女を見送ったのだが、その後すぐ入れ替わるようにして、
「おぃ、ティース」
「ん?」
「紅茶2人分、持ってきてやったぜ」
彼らの前に姿を現したのは、トレイにティーカップを2つ乗せた褐色肌のパーラー・メイド、ダリア=キャロルだった。
「ああ、忙しいのにありがとう、ダリア」
「ま、仕事だからな。なんならチップを受け取ってやってもいいんだぜ?」
ニヤリと笑いながら、そんな蓮っ葉な口調からは意外に思えるほど丁寧に紅茶をテーブルに配していく。
竹を割ったような性格でいかにもガサツな印象のダリアだが、普段は接客担当のパーラー・メイドとして働いているだけあって、技術そのものはきちんとしているようだった。
「ところで、今フラフラ歩いてったのアクア姉か?」
ダリアが食堂に通じる廊下を振り返りながら尋ねてくる。
ティースは入れ立てのティーカップに手を伸ばしながら、
「ああ。なんか飲みすぎたって言ってたけど、昨日はまたレイさんと飲んでたのかい? ……あちっ!」
「さぁ、あたしは知らないけど。つか、気をつけろよ。ほい、アオイさん」
「あ、すいません」
2つの紅茶を配り終えたダリアは、空のトレイを器用にクルクル回しながら、
「最近はお得意の失恋話も聞かされてないしな。いつものヤケ酒ってわけでもないと思うが、どうだか」
「はは……」
笑っていいものかどうか迷って、噛みつぶしたように苦笑するティース。
アオイが横から口を挟む。
「昨日は外へ飲みに行ったようですよ。誰が一緒だったかはわかりませんが」
「あれ、珍しいなぁ。アクアさん、いつもここで飲んでるイメージだけど」
意外そうなティースに、ダリアは悪戯っぽい口調になって、
「よくわからんけど気を付けろよ。あと3ヶ月で25歳。アレもいよいよ本気で焦ってるみたいだし、油断してると突然牙剥いて襲いかかってくるかもしれないぞ」
「はは、まさか。でも、アクアさん、そんなに焦らなくたって大丈夫だと思うんだけどなぁ。美人だし、すごくいい人だし」
そんなティースのフォローもダリアは一笑に付して、
「それなのに今も独り身だって事実の方に注目すべきだと思うがな、あたしは。ま、どうでもいいか、そんなこと」
どうでもいい、で済まされてしまったことを彼女が知れば、また年甲斐もなく拗ねてしまいそうだが、周囲を見回す限りその心配はなさそうである。
ダリアが話題を変えた。
「そういやティース。昨日、おとといぐらいからだっけ? お前、学校に護身術を教えに行ってるんだってな」
「ん。ああ、一応ね」
「一応、か」
素直なティースの反応にダリアは笑う。
「どんな感じなんだ? ってか。大丈夫なのかよ、お前」
「え? なにが?」
「ほら、例の病気さ。教える相手も男ばっかりってわけじゃないだろ? 護身術ってことは実技指導もしなきゃいけないんじゃないのか?」
「あ、ああ……」
ティースの表情が少しくもる。
例の病気とはもちろん、彼の持つ特異体質、女性アレルギーのことである。妙齢の女性に触れると気が遠くなって気絶してしまうというその体質のことを考えれば、ダリアが疑問を持ったのは当然だろう。
「今はまだね。昨日とおとといは実技やらなかったから」
「今日は?」
「一応、対策は考えてあるよ」
「そっか」
そんな彼に、ダリアは視線を横に流しながら、
「できれば手伝いに行ってやりたいんだけどさ。あたしらもあさってから任務だからそういうわけにもいかなくてな」
「え? ああ。いいよ、そんな」
思わぬ言葉にティースは笑いながら手を振って、
「でも、ありがとう。嬉しいよ、気を遣ってくれて」
素直にそう言うと、ダリアは少し戸惑ったような顔で、
「まあ……一応、同じチームの一員だった仲だしな。見てると相変わらず頼りねーしさ」
「う……確かにそうだけど、そんなはっきり言わなくても」
不満げな顔をするティースに、ダリアはふっ、と頬を緩めて、
「ま、なんでもいいけどしっかりやれよ」
バンッ!
「いでっ!」
トレイで背中を叩かれたティースが悲鳴をあげると、ダリアは悪戯っぽい笑みを浮かべ、そのまま去っていった。
「いてて……なんだよ、もう……」
顔をしかめながら恨めしそうにつぶやくティース。
アオイが笑いながら、
「おそらく照れ隠しではないですか?」
「照れ隠し?」
「ええ。……さぁ、それはともかく。先ほどの続きをやるとしましょうか」
「え、ああ――ん?」
よくわからないままうなずきかけたところに、さらにもうひとりの来訪者があった。
「ティースさーん」
「……セシル?」
ティースが振り返った先では、ちょうど外から戻ってきたらしい栗色の髪の少女――『屋敷の(番犬たちの)アイドル』セシリア=レイルーンが玄関から手を振っていた。
「学校はどうしたんだ? 今日は早すぎないか?」
彼女はシーラと同じサンタニア学園薬草学科の一回生だ。まだ午前中で、この時間に帰ってくるのは早すぎる。
「今日は午前の実習が早く終わったのでー! いったん帰ってきてしまったのでーす!」
元気の良い声が返ってくる。
「あ、なるほど」
と、ティースが納得するかしないかのうちに、外からは聞き慣れた犬の大合唱が聞こえてきた。
「あ、みんな、いま行くから待っててー。じゃあティースさん! 私、マルスたちと外で遊んできますのでー!」
「ああ、気を付けてなー」
結局なんのために中に戻ってきたのか。セシルはブンブンと音が聞こえそうなほど大きく手を振ると、長めのスカートを軽くなびかせて、アッという間に外へと出ていってしまったのだった。
「……元気だなぁ」
ポツリとつぶやいたティースの言葉にアオイもうなずいて、
「ですね。番犬のアイドルだなんて言われますけど、彼女にはむしろ人間の方がファンが多いかもしれません」
「はは、確かに。あの子なら学園でも人気者なんだろうなぁ」
そんな彼女の話題で頬を緩めるこの2人にも、充分にファンの資格はありそうだ。
同時に紅茶を口に運ぶ2人。
短い沈黙。
ポツリ、と。
「学園でも人気者、かぁ……」
「? ええ、セシルならきっとそうだと思いますよ。さて」
ティースのつぶやきにアオイはなにげなくそう答えて、
「それでは続きをやりましょうか」
と、気を入れ直した。
だが、
「そりゃそうだよなぁ……」
「ティースさん?」
物憂げなため息が落ちる。
続いたのは、とりとめのないひとりごと。
「あいつのことだからきっと大丈夫だろうけど……いやいや待てよ、頭のいい女性ほど変な男に引っかかりやすいって誰か言ってたような……うーん……うーん……」
「……」
再びあらぬ方向を見つめてブツブツつぶやき始めたティースに、アオイはいぶかしげな顔で首をかしげる。
もちろん彼にティースのつぶやきの本当の意味などわかるはずもなく。
「……」
と、遠くでそんな2人を眺めていたリディアは、やがて軽く肩をすくめ、もう一度つぶやいたのだった。
「……春だから、ねぇ」
「春だってのに、ねぇ」
場面は変わって、ここはサンタニア学園薬草学科の実習室である。
部屋に入った途端に漂ってくるカビのような匂いは、授業で使っている薬草が発するものだろうか。
「なに、ディアナ?」
友人のつぶやきに、白い頭巾とマスクを装着したシーラがそう聞き返した。
頭巾は髪の毛の混入を防ぐ目的で全員が身につけていたが、マスクは彼女のオリジナル装備で、おそらくはこの悪臭から少しでも逃れるためのものだろう。室内でそれを装備しているのはどうやら彼女だけらしい。
「いやさ。世間は春の陽気だってのに、あたしはどうしてこんな薄暗い実習室でこんな悪臭にまみれてなきゃならないのかな、と思って」
そう言いながらディアナは彼女のマスクを少し恨めしそうに見やって、
「あんたってば、ホント準備いいわねぇ。あたしだって今日の実習がこんなもんだと知ってればちゃんとマスク用意してきてたのにさ」
「あら。先生はちゃんとヴュルフェールの花を使った調合実習だと言ってたわ」
平気な顔でそう答えたシーラに、ディアナは不満そうに頬を膨らませて、
「そんなマイナーなもの予習してきてるのはあんたぐらいよ。去年の実習でだって一度も使わなかったんだから」
「苦みがかなり強くて敬遠されがちだけど、内服鎮痛剤としての効果は非常に優秀よ。手に入りにくくてコストも高いから、一般に市販される薬には適さないけれども」
「つまり、フツーの薬屋を目指してるあたしには必要ないってことね」
「かもね。でも、知っておいて損をすることはないわ」
会話しながらも、シーラは小鉢の中ですりつぶした紫色の花に、あらかじめ用意してあった黄色の粉末と少量の水を加え、軽くかき混ぜて火にかけた。
ディアナは少し肩をすくめて、
「3年連続学科トップは伊達じゃないってことか」
「あら。あなただって何度も学費の免除を受けているじゃないの」
少し空いた時間で机の上を片づけながら、シーラはそう言った。
学費の半額免除は、このサンタニア学園の全学科において実施されている措置で、定期試験ごと上位3名の生徒に与えられる特権だ。つまり学費の免除を受けている(受けたことがある)というのは、少なくとも学科内でトップ3を争えるだけの優等生ということであり、このディアナも印象に似合わぬ好成績の持ち主だということでもある。
だが、ディアナは小さく首を振って、
「どっちかというと学費免除より素敵な出逢いが欲しい16歳と9ヶ月の春。あーあ、あたしにもあんたみたいな美貌があればなぁ」
「あれば?」
「もちろん。それを生かして素敵な彼をゲットするのよ」
シーラはチラッと横目でそんな彼女を見て、
「素敵な彼って、誰のこと?」
「……」
視線が右、左、もう一度右へ。
空白の時間はたっぷり10秒ほどあっただろうか。
「……そう言われると急には思い浮かばないけどさぁ」
シーラは苦笑して、
「現実なんてそんなものよ」
そう言いながら、視線を手元の小鉢へと移動させる。
火にかけた薄紫の液体はコポコポと音を立て始めていた。
「おとぎ話みたいな素敵な彼より、現実的な将来を約束してくれる男を探した方がよっぽど有意義だと思うわ」
「そうかもしれないけどさ。素敵で優しくて、かつ将来を保証してくれる甲斐性があればいいわけじゃなぁい?」
「でも16年生きてきて、一度もそういう人に出会えてないんでしょ? 次の16年をかけたとしても出会えるかしら」
あくまで冷めた物言い。その言葉を聞くと、なるほど、確かに彼女は恋愛にそれほど興味がなさそうに聞こえる。
もちろんその目の前にいるディアナもそう感じていて、それでもなお反論するのだ。
「あ、ひっどい言い方。あたしだって別におとぎ話の王子様に迎えに来てほしいって言ってるわけじゃないんだから。そうね、たとえば――」
コポコポコポ。
火傷をしないようやや厚めの布を両手に持ち、シーラは小鉢に手を伸ばした。
「たとえば、ほら。あの護身術の先生みたいな人とか」
「……」
コポコポコポコポ。
「?」
コポコポコポコポコポコポ。
薄紫のドロッとした液体が振動を速くする。
「どしたの、シーラ?」
ディアナの問いかけに、ようやく彼女の長いまつ毛が少しだけ動いた。
「素敵な彼? ……あの男が?」
「え。いや、たとえばの話で、そんな驚いたような顔しなくても――って、シーラ! 小鉢、小鉢!」
「え……ああ。そうね」
コポッ……
沸騰寸前までいった薄紫の液体だったが、ディアナの指摘のおかげでどうにか爆発を免れたようだ。
火から下ろし、軽くかき混ぜて黄色の粉末が溶け残ってないことを確認すると、小さな団扇を手に取って今度は冷まし始める。
パタパタ、パタパタ、と。
「危ないなぁ、ボーっとしちゃって。あんたらしくもない」
一瞬、空白。
「いえ。あなたの趣味の悪さに、ちょっと驚いちゃって」
シーラがそう言うと、ディアナは首をかしげて、
「そうかな? だってなんか可愛いじゃない、あの先生。緊張してるのバレバレで、でも一生懸命な感じが」
「単に度胸がないだけじゃないの?」
「いやでも、ほら。いかにも優しそうじゃない」
「そうかしら。それ以上に優柔不断そうだけど」
「頼りなさそうなのに護身術の先生っていうギャップもいいんだよね。なんかこう、ちょっとだけミステリアスな過去があったりとか――」
「見たままの男よ、きっと」
「……」
ここまで来て、ディアナはようやく怪訝な顔で上目遣いに彼女をうかがうと、
「あんたって……もしかしてあの先生嫌いなの?」
「……嫌いになるほど知らないわ。ただ、感じたことを素直に言ってるだけよ」
「むぅぅ……まぁ、あんたの言うこともわからないではないけどさぁ」
ディアナは納得できない表情だ。ただ、もちろん彼らが実は知り合いだというところまで推理が及ぶはずもなく。
「でもほら、なんかあの先生って、外見よりも中身を見てくれそうな感じしない? いわゆる性格美人のあたしとしてはそっちの方が勝算が――……って、シーラ?」
「そうね」
ほんの一瞬だけ動きを止めたシーラは短くそう答えた。
「そうかもしれないわね」
初めての肯定の言葉は今まで以上にそっけなく。右手がそっと髪飾りを撫でる。
表情には別段の変化もなく。
そして次に口をついた言葉も、彼女らしい冷静な指摘の言葉だった。
「ディアナ。……その薬、そろそろ仕上げないと間に合わなくなるんじゃない?」
「え? あ!」
ハッとするディアナ。
話に夢中で、彼女の手は数分前から止まったままだったようだ。
「あぁぁぁーっ! あと5分しかないじゃない!」
彼女の調合はまだ小鉢を火に掛けるところまでも進んでいない。間に合うかどうか、とてつもなく微妙な判断となりそうだ。
「だから、そう言ってるじゃない」
「言うの遅い! 今年こそ卒業しなきゃなのにー!」
もちろん文句を言われる筋合いはないのだが、シーラは苦笑して肩をすくめただけだった。
そうして授業も終わって昼休み。
「シーラさん!」
実習室を出たシーラたちに、オーウェンが駆け寄ってきた。
「今日の昼はどうする? もし決まってなければ、クッションで今日から新作を売り始めるらしいから、ちょっと行ってみない?」
「え、ホント!?」
シーラよりも先に隣のディアナが反応する。
ここネービスの学園群では昼時になると、学園の許可を受けたいくつかの店が校門の前で露店を開く。『クッション』とは、このサンタニア学園の前で商売をしている人気のパン屋のことだ。
その新作ともなれば、初日は売り切れ必死である。
「行こう行こう! シーラ! ほら、早く行かないと売り切れちゃう!」
ディアナは目を輝かせてシーラの袖を引っ張ったが、
「あ、いえ。私は――」
「って、そっか。あんた昼はいっつも手作りだっけ」
その言葉通り、シーラの手には小さなバスケットがあった。
「手作りと言っても、私が作ったわけじゃないけどね」
「お母さん?」
「小人さんが作ってくれるのよ」
と、シーラは少し笑いながら答えた。
彼女がプライベートなことを言いたがらないのはいつものことで、ディアナもオーウェンも苦笑するだけだったが、もしその言葉を小人さん――彼女の幼なじみである小柄な少女が聞いていたら、おそらく頬を膨らませて不機嫌そうなフリをしていたことだろう。
「でもとりあえず2人に付き合うわ。行きましょう」
そんなシーラの言葉に、3人は露店のある校門前に向かって歩き出した。
外は心地よい陽気だ。先に歩き出したディアナ。シーラの動きを確認しながらゆっくりと歩いていくオーウェン。
敷地内の芝生は、早くもそこに陣取った生徒たちの楽しそうな声であふれていた。こういった光景は当たり前のようにも思えるが、実は庶民が多く通うこのサンタニア学園ならではのものだ。
貴族子女が多く通う他の学園では芝生の上に直に座って昼食を摂るなどということはほとんどなく、屋外で昼食を摂る場合にも必ずテーブルに着く。ここサンタニアでも同じような屋外テーブルがいくつか設置されてはいるが、他の学園に比べ需要はそれほど多くなかった。
とはいえ、
「あら、シーラさんではありませんか」
もちろん生徒たちの中にはそういった、いわゆる庶民的な雰囲気に馴染めないグループもいて。
まるで計ったかのようにバッタリと遭遇したアリエル=リンプシャーもその中のひとりだろう。
「げ。また出た……」
先頭で足を止めたディアナが、嫌そうな顔でシーラたちを振り返る。
「ごきげんよう。これからランチですの?」
アリエルはいつものように同い年ぐらいの少女をひとり引き連れていた。
見るからに上質な洋服に身を包み、優雅で余裕の笑みを刻みつつも、その瞳の奥には明らかな敵愾心が見える。
対するシーラはいつものように平然として、
「アリエル=リンプシャーね。私たちになにか用?」
「名前を思い出していただけたようでなによりです」
先日の屈辱を思い出したのか、アリエルはやや口元を引きつらせ、地毛なのかあるいは付け毛なのか、妙にボリュームのある巻き毛をかすかに揺らしながら、さらに威圧的な視線をシーラに向けた。
ただ、それもいつものことなのでシーラは特に気にした様子もなく、
「それで? 私になにか用?」
「今日はあなたに用があるわけではありませんわ」
そう言って、シーラの隣で成り行きを見守るオーウェンへと視線を向けた。
「え? 俺に?」
「ええ、オーウェン」
シーラに向けるものよりは若干柔らかい口調でアリエルは言った。
「今日は少しお話したいことがありますの。せっかくですから、お昼でもご一緒してくださらない?」
「話? 話だったら別にここでも――」
「ここでは少し……」
そう言ってアリエルはチラッとシーラを見た。盗み見るというよりも、意味ありげな視線をわざと見せつけているといった様子だ。
「ちょっとアリエル!」
そこへディアナが、やはり敵対心をむき出しに口を挟む。
「そんなこと言って、どうせまたあることないこと、シーラの悪口を吹き込むつもりなんでしょ! そうはいかないんだから!」
「……」
アリエルは一瞬だけディアナに視線を送ったが、すぐにオーウェンへと戻して、
「どう? オーウェン」
「ちょっと! 無視しないでよッ!」
「……相変わらずキィキィとうるさい方ですわね、ディアナさんは」
「キィキィって……ちょっとシーラ! あんたもなにか言ってやってッ!」
やはりディアナはアリエルと少々相性が悪いようだ。
ただ、シーラは小さく首を振って、
「いえ、今のはあなたが悪いわ、ディアナ。彼女はただオーウェンを昼食に誘っただけだし、今日のところはなにも礼を失してはいない。……ねぇ、アリエル?」
そう言うと、アリエルは意外そうな顔でシーラを見た後、少し視線を横にそらして、
「も、もちろんです。他人にどうこう言われる筋合いはありません」
「わかったよ、アリエル」
そんな彼女らのやり取りがまた険悪になることを恐れたのだろうか。オーウェンがゆっくりうなずいて言った。
「俺も君とは話しておきたいことがあったんだ。ありがたくお誘いを受けることにするよ」
そう言って確認するようにシーラのほうを見る。
シーラはそんなオーウェンに小さくうなずいてみせた後、少し目を細めてアリエルを見た。
……その表情に、わずかに懸念の色が走る。
ただ、アリエルはそんな2人の小さなやり取りには気づいた様子もなく、
「それが賢明ですわ、オーウェン」
サッと表情を明るくする。
「今日はあなたの分のランチも用意してますの。あなたの好みが昔から変わってなければ良いのですけれど……とにかく、善は急げといいますわ。さ、行きましょう」
ひと息にそこまで言って、後ろに控えていた同級生らしき少女に向かって言った。
「コートニー。あなた、今日はよそでランチにしてくださる? 用があればまた後で呼びますわ」
「あ、はい」
コートニーという少女は少し戸惑ったようだが、特に疑問を挟むこともなく。
アリエルはオーウェンの手を取ると、
「行きましょ、オーウェン」
弾んだ声と笑顔は、シーラに向けているものとはまるで別人のようだ。
彼らが以前からの知り合いであることはシーラもオーウェンから聞いて知っていた。その詳しい関係まで立ち入ったことはないが、この様子を見る限りだとそれなりに親しい間柄だったのだろう。
いや、あるいは――
「……」
シーラは誰にも気づかれないような小さなため息を吐いて、去っていく2人の後ろ姿を見送った。その目には葛藤のような後悔のような色が浮かんでいたが、その場にいる人間には特に気づかれなかったようだ。
「……あー。なんか、スッキリしない!」
アリエルたちと別れた後。
予定通り校門前の露店パン屋『クッション』に向かってみたものの、お目当ての新作は売り切れた後だった。
とはいえ。もちろんディアナがスッキリしなかったのはそれが原因ではない。
「あの子、今ごろ絶対あんたの悪口を言ってるんだから!」
先ほどのアリエルとのやり取りが、腹に据えかねていたようである。
シーラはちょうど空いていたベンチに腰掛け、バスケットを太股の上に乗せた。風に泳いだ金糸の前髪を指先で軽くとかし、視線をわずか上空に向ける。
「真っ向から言い合っても敵わないからって、今度はオーウェンを使って嫌がらせなんて! ほんとイヤらしいったらありゃしない!」
「……そうじゃないわ、きっと」
「え? ……なんて?」
シーラの小さなつぶやきはディアナの耳には届かなかったらしく、不思議そうな顔をする。
「いえ」
シーラは言いなおそうとせず、ひとつ息を吐いて、
「もしそうだとしても構わないわ。誰に言われずとも、自分が性悪だってことは私が一番良くわかっているもの」
「またそんなこと言って……」
ディアナの口調はやや勢いを弱めたが、その代わりに口を尖らせ、本音を見透かそうとするかのようにシーラを見た。
「少なくともあたしは、あんたがおもしろ半分で男を誘惑したり、媚びたり、だましたりするのを一度も見たことない。相手が勝手に玉砕していくのは何度も見たけどさ」
「……」
シーラはなにも言わず、ただそんなディアナを見て少しだけ微笑む。
「それどころか……さ」
ディアナは少しためらった様子で視線を流した。
そして自信なさげに、
「あんたって、もしかすると自分のそういう見た目があんま好きじゃないのかな、って思うこともあるよ。さっきだって、ほら。護身術の先生のことで、外見より中身を――なんて言ったときも、考え込むような顔してたし」
「……そうかしら」
シーラは少し意表を突かれたような顔をしていた。
身に覚えがなかったからか、あるいはそこまで観察されていたことが意外だったのか。
だが、ディアナはすぐに笑いながら、
「って……んなわけないか。ってか、そんなぜいたくな悩み、同じ女としてちょっと許せないわ」
「……」
シーラはなにも答えず、ただ苦笑するだけだった。
その後はアリエルやオーウェンの話題から離れ、新作パンの形態予想から午前中に行われた授業の話とたどって、午後の授業の話題へと移っていく。
「今日から実技だって言ってたよね、そういや」
ディアナが口にしたのは、午後の最初に控える護身術の特別授業の話題であった。
「そうらしいわね」
答えたシーラの口に、サンドイッチの最後のひと欠片が消えていく。
ディアナはちょっと楽しそうな声で、
「どんなことやるのかちょっとワクワクしてきちゃった。手取り足取り教えてもらううちに、先生と恋が芽生えちゃったらどうしよう」
バスケットのフタを閉じながら、シーラは短く言った。
「絶対ないわね」
「即答!? ……夢がないなぁ、もう」
「夢っていうほど素敵なこととも思えないけど」
ディアナは不満そうに口を尖らせていたが、シーラの言う『絶対ない』は、恋が芽生える云々の部分ではなく、もちろん『手取り足取り』の部分である。
(そうよね。あいつ触れないのよね……)
太股の上に乗せた空のバスケットに右手を置き、風でわずかに乱れたスカートのすそを直しながら、シーラの視線は中空を見上げた。
(実技どうするつもりかしら……)
彼の授業を受ける生徒14名中6名は女生徒で、その中で直接触れることのできる相手はシーラだけだ。
もちろん触れずに口頭と手本を見せるだけの指導も可能だろうが、生徒がわからないと言えば直接の指導が必要になる場面も出てくるだろう。
(……私をアテにしてるって可能性もあるけど)
たとえばシーラを女生徒のリーダーに指名し、そちらはすべて彼女を介して指導を行うという手段だ。
可能性としてはありそうだったが、普段の彼の態度を考えると、断られたり怒られたりするのをおそれて言い出せないかもしれない。
もちろんシーラは、その程度のことなら普通に協力するつもりでいたが――
「そろそろ時間だわ、ディアナ」
そう言ってベンチから腰を上げる。
そうしてシーラが視線を正面に向けると、
(……?)
授業が行われる屋内競技施設までまっすぐに続く並木道。そのずっと奥、距離にして100メートル以上先に、見覚えのある特徴的な後ろ姿が見えた。
「? シーラ、どうしたの?」
ディアナが怪訝そうな顔をしたが、
「いえ、なんでもないわ」
シーラはただそう答え、納得顔をして歩き出す。
(なるほどね。私の出番はなさそう……だけど)
見覚えのある2つの後ろ姿は、ひと足先に屋内競技施設へ入っていったようだった。
胸を過ぎる一抹の不安。
(……ちゃんとうまくやれるかしら、あの2人)
「えっと、えー、つまり何度も言うように、護身術とは一般的な武術と違って戦うための技術ではありません」
「……」
「えっと……」
世の中には人の視線がまったく気にならないという人間が一定数いるらしいが、それはティースにとっては信じられないようなうらやましいようなそんな気持ちだった。
「あー、えー、そのー……」
手元を見たり視線を宙にさまよわせたり。せわしない動きを繰り返し、どもりながらもかろうじて講師としての体裁を保ちつつ授業を進めていく。
そんな彼がここで教鞭をとり始めて今日が3日目だ。
生徒は総勢14名だが、今日は男子がひとり姿を見せていないために、男子7名、女子6名の13名で、このサンタニア学園の男女比率から考えると女生徒の割合がかなり多い授業だといえよう。
「つまり護身術の基本は、えー、まずなによりも、危険を事前に回避するということであります。その、まず危険な場所を歩かない、あと、えっと……日が落ちてからは外を出歩かない、など――」
ティースの授業は実を言うと今のところ好評だった。
生徒たちにとっては歳が近くて親しみやすいということもあるし、授業の題材がこの学園の生徒たちにとっては割と新鮮味があったということもある。また、このティースという男の持つ優しげな雰囲気が貢献している部分もあるだろう。
と、まあそんなこんなで。
今日も生徒たちは当初から興味津々で授業を聞いてくれていたのだが――
「それでも、えー、なお、身に危険が及んだ場合には、身近なものを使って撃退することになります」
しかし。よくよく彼らの様子を観察してみると、どうも今日に限っては昨日までと雰囲気が異なっている。
少々騒がしい。といっても授業に支障が出るほど騒いでいるというわけではなく、そこかしこでなにやらひそひそ話が聞こえてくるのだ。
今日から始まるという実技演習にワクワクしているのかと思えば、どうやらそんな風でもなく、
「ねぇ……かしら、あの……」
「たぶん……の……じゃない……?」
「……にしても……すごい……」
「いったい……と……だろ……」
そんな彼らの視線が向けられている先は、もちろん教壇に立つティース――ではなく。
「というわけで、昨日も言ったとおり今日は実際にやってみることにしましょう」
生徒たちの間にざわめきが走る。その視線が向けられた先はティースの右ななめ後ろ、約60センチ。
ここ2日間は誰もいなかったその場所に、今日は人が立っていた。それだけでも多少の興味が湧いてくることと思うが、生徒たちが注目したのはそれだけが理由ではない。
そこに立っている人物が、否応なしに人目を引く外見をしていたからだ。
「えっと……それじゃあその前に、今日からの実技演習を手伝ってくれる人を紹介します」
ティースの言葉に従い、柔らかい歩調で一歩前に踏み出した女性。
聖女を思わせる飾り気のない淡色の衣装、そのイメージをまったく損なうことのない容姿、長い黒髪、淑やかな物腰。
そしてなにより――その身長。
女性がゆっくりと口を開く。
「リィナ=クライストです」
生徒たちの間に、再びざわめきが波のように走った。
あくまで柔らかく、優しげな声。イメージ通りとも言えるし、その長身からすれば思った以上に可愛らしい声だったと言うこともできるだろう。
リィナの視線はゆっくりと生徒を見回し、そのうちの一点で止まった。
そこにいた顔見知りの少女と一瞬だけ視線を交わし、頬を少し緩める。
そして彼女――その容貌に似合わず、おそらくこの場所にいるどの男子生徒よりも長身であろう彼女は続けて口を開いた。
「みなさん、どうぞよろしくお願いします」
ほー、とか、おー、とかいう声が少しもれて、生徒たちから歓迎の拍手が贈られる。
その反応を見る限り、彼女の第一印象は生徒たちに好意的に受け止めてもらえたようだ。
その様子を見ながら、ティースが支持を出す。
「では、男性と女性に分かれてください。基本的に女性の指導は彼女にやってもらいますので、わからないことがあれば彼女に聞くようにお願いします」
と。
これがティースの用意した女性アレルギー対策(というほどに大げさなものではない)である。
リィナには事前に今日の授業内容を教えてあり、指導の仕方も含めて準備はバッチリだ。
もちろん彼女に正当な護身術の知識などはないが、ここで教える内容はごくごく簡単な初歩の護身術である。彼女が素人であっても数回の練習でそれなりにはこなせるようになっていた。
生徒たちが2グループに分かれていくのを満足げに眺めながら、ティースはそっとリィナに耳打ちした。
「リィナ、悪い。屋敷の仕事も大変なのに、急に無茶なお願いしちゃって」
だが、リィナは気にした様子もなく、
「いいえ、この程度のこと。私はティース様のためでしたら、どんなことでも」
「どんなことでもって、そんな大げさな……」
思わず照れてしまってティースは頭をかいたが、リィナはさらに続けて、
「大げさではありません。ティース様とシーラ様は、色のない私の生に命を吹き込んでくれた恩人ですから。たくさん恩返しをさせてください」
「あ、あはは……」
「あのー……先生。皆、準備終わってます」
「え!」
その声に慌てて視線を向けると、すでに2グループに分かれた生徒たちがなんとも不審そうな顔で2人を見ていた。
確かに。リィナとヒソヒソ話しながら照れて頭をかくティースの姿は、生徒たちの目にはなんとも怪しげに映ったに違いない。
(……まずいまずい!)
生徒を見回すと、その中のひとつと視線がぶつかった。
(すまん、シーラ……助かった)
警告してくれたのはどうやら彼女だったようだ。
心の中で感謝の言葉をつぶやきつつ、授業を再開する。
授業の最初は相手に体の一部をつかまれたときの対処法、手をつかまれたとき、背後から急に羽交い締めにされたときの対処法など。
最終的に相手を倒すための術ではなく、いかに相手を振り払い、逃げ延びるかに重点を置いた内容である。
ティースは男子生徒に実演を交えながら授業を進めていった。ときおりリィナの様子をうかがっていたが、授業と離れた質問をいくつかぶつけられている以外は特に問題はなさそうだ。
(もしリィナが困っていれば、きっとシーラもフォローしてくれるだろうし……)
最初からそこまで計算に入れていたわけではないが、それはおそらく事実だろう。
思ったよりもスムーズに終わりそうだ――と、ティースが少しこの先の展開を楽観視しはじめた、そのときだった。
「すみません!」
急に室内に響いた大声に、ティースはビックリして飛び上がる。振り返ってみると、ちょうどひとりの男子生徒が室内に飛び込んできたところだった。
「え? あ、ええっと……」
そういえば、と。今日、男子生徒がひとり少なかったことを思い出す。
生徒の名簿に視線を落とす。
「えっと、オーウェンくん……か」
そうつぶやきながら反射的にシーラの方を見てしまい、にらまれて慌てて視線を戻す。
オーウェンは額に汗を浮かべながら、
「すみません……遅れてしまって……」
息が切れて苦しそうなところを見るとかなり急いできたようだが、授業開始からはすでに10分以上が経過している。うっかりというよりは、なにか事情があって遅れたと見るべきだろう。
(昼寝でもして寝過ごしたのかな……)
などと、シーラに聞かれたら『お前じゃあるまいし』とか言われそうなことを考えながら、
「あ、いや、今始まったところだから大丈夫だよ。でも、次からは気をつけて」
「はい、すみません」
恐縮しながら2度、3度と頭を下げるオーウェン。見る限り本当に反省している様子で、これならあまりきつく言う必要もないだろうと、ティースは判断した。
「……ちょっとオーウェン、どうしたのよ」
「あ、ああ、ちょっとね……」
女生徒といくつか言葉を交わし、男子生徒の輪の中に入っていくオーウェン。
シーラとは言葉を交わさなかったようだ。
ティースはそんな彼らの様子を不自然にならないように眺めながら、
(……付き合ってるんだよなぁ、あの2人?)
少し不自然な感じを覚えた。
もちろんシーラのことだから、普段からベタベタされるのが嫌いなだけなのかもしれない――、と、そんな風にも思いつつ。
「あ、あれ、えっと、こっちからこうつかんで――」
「違う違う。そうじゃなくてこっちから、こう――あれ? 違った?」
それから授業はそこそこスムーズに進んだ。
このサンタニアは他の学園に比べて一般市民層の生徒が多い、というのはこれまでに何度か述べてきたことであるが、そうは言っても、そのほとんどがそれなりに安定した収入を持つ家庭の子供たちであり、どちらかといえば荒事を経験したことのない者の割合が多い。
授業も終盤に差し掛かり、現在、生徒たちが練習しているのは、簡単な打撃と手首や肩の関節技だ。これも相手を倒すためというよりは一時的に相手の行動力を奪い、うまく逃げおおせるための技である。
それはごくごく簡易なものだったが、生徒たちはそれなりに戸惑い、苦戦しているようだった。
そんな中、
「え……うわぁ!」
「ほら、こうやると簡単に振りほどけるんだ」
「へぇぇ、なるほどなぁ」
「おーい、オーウェン。こっちもちょっと教えてくれー」
男子生徒8名の中、ひとり慣れた手付きで練習相手を務めるオーウェンはもともと心得があるのか、あるいはよほどに筋がいいのか。
遅れてきたハンデなど感じさせず、いつの間にか講師役であるティース以上にリーダーシップを発揮しているようだった。
シーラのことは別にして、人間的にはオーウェンにどことなく好感を抱いているティースとしては、なんとも喜ばしいことである。
そんな彼の活躍をひとしきり眺めた後、今度は女生徒の集団の方へ視線を移した。
そこでは、どうやらこういったものが苦手らしいディアナが、リィナとの会話に花を咲かせていて、
「ええーーーーッ! リィナさんって私と同い年なんですかぁぁぁーー!?」
「見えませんか?」
ディアナの驚きの声に不思議そうな顔のリィナだったが、確かに彼女は背の高さや落ち着いた雰囲気から実年齢よりも少しおとなびて見える。
対するディアナが実年齢よりも若干幼く見えるからなおさらである。
「20歳ぐらいだと思ってました! いいなぁ、あたしもリィナさんみたいにスラッと背が高ければ、もうちょっとおとなびて見えるのになぁ」
「いえ……私は少し大きすぎるので、逆にディアナさんがうらやましいです。背が小さい方が女性らしいとよく耳にしますから」
「そんなことないですって! そりゃ、うわ、デカイ! って感じだったらちょっとアレですけど、リィナさんは背高いのに可憐で可愛らしいですもん!」
「可愛らしい、ですか?」
リィナは意外そうな顔をして、それから少しうれしそうに微笑むと、
「あまり言われたことないですけど……ありがとうございます、ディアナさん」
「いえいえ。ってゆーか、あまり言われたことないってのが不思議だなぁ。誰がどう見たってリィナさん可愛いのに」
そんなディアナの言葉に、ティースは心の中で密かに同意しつつ、さらに視線を横へ移動させる。
「そうじゃなくて。ここでこう、相手の右足を思いっきり踏みつけたまま、こっちの右手を回して相手の手首をつかむのよ。そこから両腕の力で思いっきりこっちにひねる。簡単でしょ? テコの原理で簡単に相手の腕が折れるわ」
こっちでは、ディアナや他の生徒で手の塞がっているリィナをサポートするように、シーラが他の女生徒たちにやり方を実演して見せていた。
(……あれ。結構なじんでるじゃないか)
ティースは昨日、他の女生徒とのトラブルを目の当たりにしたことで、シーラの学園での立場に一抹の不安を感じていたのだが、この様子を見ると険悪な状態なのはどうやら一部の生徒だけらしい。
ホッと胸をなで下ろす。
「大事なのはためらわないこと。腕力では男に絶対に敵わないのだから、相手が油断しているうちに確実に機能を奪っておかないとダメよ。殺す気でやりなさい」
(でも……シーラ。俺、そんなことまで教えてないぞ……)
彼女の護身術講座は、どうやらティースのものより何倍も過激なようである。
と、そんな感じで。
一見波乱含みかと思われた実技演習初日は和気あいあいとした雰囲気の中でなんの問題もなく進んでいった。
途中、女生徒のひとりが失敗して思いっきり尻もちをついてしまったり、悪乗りした男子生徒同士で一瞬ケンカになりそうな場面もあったが、結果的には大きな怪我も騒動もなく。
拍子抜けするほど平穏無事。
……しかしながら。
平穏無事であったのはあくまでこの講義、この建物内部での話であり。
――波乱を告げる大騒動はこのとき、建物の外ですでに起こっていたのだった。
「では、今日の講義はここまでです。えっと、明日は休みですので。あさってからは今日練習した技にさらに応用を加えたものを――」
そこまで言ったティースは、建物の外が騒がしいことに気付いて言葉を止めた。
「……なんだぁ?」
「え、なにかしら?」
同じく気づいた生徒たちがいぶかしげな声を発する。
外から聞こえてきたのは慌ただしい喧騒だった。扉を閉め切っている建物内でさえはっきりわかるほどのボリューム。
しかも騒ぎは徐々に大きくなっていて、生徒たちの間にも不安そうな顔をする者が現れ始めた。
「……」
シーラがそっと視線をティースに向ける。
(……言われなくてもわかってるよ)
と、小さくうなずいて、
「みんな静かに。僕が様子を見てくるからここから動かないで。リィナ、みんなを見ててくれ」
そう言って出口へと足を向ける。
だが。
「!」
彼が外に出て行くより早く、扉が向こうから開いてそこからひとりの男子生徒が飛び込んできた。
ティースには見覚えのない男子生徒だ。
「オーウェン!」
入ってきた男子生徒は飛び込んでくるなり、室内を見回してオーウェンの名を呼んだ。
室内がさらに騒然とする。
「……どうしたんだ?」
どうやら顔見知りらしい。オーウェンが立ち上がってそう問いかける。
男子生徒は彼の姿を見つけるなり歩み寄っていくと、青ざめた形相と震える声で、
「大変だ! アリエルが……!」
「アリエル? ……あいつが、どうかしたのか?」
その形相からただ事でないことを悟ったのだろう。オーウェンの言葉はかすかに焦りの色を帯び、それを周りで見つめる生徒たちも固唾を呑んで見守っている。
「……」
ティースは外へ視線を向けた。
騒ぎはさらに大きく。かすかに悲鳴のような叫び声も混じっていて。
肌にピリピリと響くその空気。
ティースはその空気を何度も感じたことがある。
(まさか……)
それは紛れもない『死の空気』だった。
「中庭で……倒れてて……」
その男子生徒は彼女とどのような間柄だったのか。ティースにはそれを知る術はなかったが、その後に続いた声は悲痛な重みを持っていた。
「呼吸してないって……なんか死んでるみたいだって――」
「!」
「あ、オーウェン!!」
言葉を最後まで聞くことなく、オーウェンは血相を変えて飛び出していった。
ティースもすぐに行動する。
「リィナ! ここを頼む! 生徒たちは指示があるまで外に出さないようにしてくれ!」
そう言って即座に外に飛び出した。
「は、はい! ……って、あ! シーラ様ッ!」
「シーラ!?」
後を追いかけてきたシーラに驚くティースだったが、結局は制止することもなく。……こういうときの彼女になにを言っても無駄なことはよくわかっているのだ。
「……」
無言でティースの後を走る彼女がなにを思っているのか。
厳しいその表情からはうかがい知ることもできず。
平穏無事かと思われた講師生活3日目は、こうして最悪の形で波乱の幕を開けることになったのだった。