その1『波乱含みの講師生活』
「お前とは、今日から赤の他人よ」
真っ赤な夕暮れの中、2つの長い影がたたずむネービス中央広場。
休日の朝などにはカップルの待ち合わせ場所としてもよく利用されるこの場所で、今、ひとつの関係が終わりを告げようとしていた。
青ざめた男が必死に言い訳する。
「そ、そんな! そりゃ今回のことは悪かったと思ってるよ。でも、仕方なくて――」
「余計なことは言わなくていいわ。私が今のお前に望むことは、ただひとつだけよ」
片方はひょろっとした長身の人の良さそうな青年。
もう片方はブロンドのポニーテイルを持つ美しい少女。
青年の表情は情けなく歪み、言葉を探すように視線がさまよっていた。
対する少女の方が、硬い表情で念を押す。
「絶対に私に話し掛けないこと。可能なら視線も向けないようにして」
精巧な人形のように整った顔立ちが、その言葉に鋭さを加える。
「そんな無茶な!」
当然、青年は反論しようとした……が、彼らの力関係を考えれば少女がその言葉に聞く耳を持つはずもなく。
「とにかく、そういうことよ」
「そんなぁ……」
そんな2人。
青年のほう――ティーサイト=アマルナ、通称ティースは、ここ学園都市ネービスでデビルバスターを目指す18歳の青年である。
180センチを越えるひょろっとした長身、やや猫背、童顔であること以外に取り立てて語ることもないルックス、それなりに清潔だが凡庸としか言いようのない服装、髪型、その他諸々の美的センス。
一応物語の主人公であるからどうにかして誉め言葉を並べたいところなのだが、誉めるとすれば『誠実』あるいは『心優しい』という言葉ぐらいしか思い浮かばない、善人ではあるがそれ以外に特徴のない平々凡々な男である。
しかしながらもう一方。
彼と一緒にいる少女、シーラ=スノーフォールはそれとまったく正反対だった。
なにひとつ欠点の見当たらないおとなびた容姿。隙のない凛とした姿勢で歩く姿は、常に人々の羨望と憧憬の視線を集めている。
その性格を一言で表すことは難しいが、ひとまずティースに接するときの彼女は、強気で高圧的、という表現でそれほど間違ってはいないだろう。
そんないかにもミスマッチな2人であるが、ここまでおよそ16年弱の付き合いである。シーラの年齢が現在15歳と11ヶ月であることを付け加えれば、彼らの関係の深さについてこれ以上言及する必要はないはずだ。
しかしそんな彼らの関係も決して永遠のものではない。
「シーラ……」
「わかった? わかったなら――」
姿を変え、形を変え、紆余曲折ありながらもこれまでどうにか続いてきた2人の関係は、この日、あまりにも一方的な絶交宣言によって終わりを告げた。
――のだとしたら、おそらくこの物語自体にとってもただ事ではないのだが、もちろんそんなことはなく。
「なにボーっとしてるの。ほら、帰るわよ、ティース」
「へ? でも、今日から他人だって……」
わけがわからないという顔のティースに、シーラは呆れたようにため息を吐く。
「なに言ってるのよ。あの学園の中では、ってことに決まってるでしょ」
「……あ、なぁんだ。そ、そりゃそうだよな」
泣いたカラスがもう笑った、とでもいうのだろうか。ティースは照れたように笑いながら頭をかいて、
「ビックリさせないでくれよ。てっきり絶交されるぐらい怒らせちゃったのかと思ったじゃないか」
「……」
そんな彼の安心した態度が気に入らなかったのだろうか、シーラは目を細めて間髪入れずに言った。
「そうね。そうしたほうが確実だったかしら」
飴色の髪が不機嫌そうに夕日の中に躍る。
「え!? うわ、そんな! 待ってくれよ! シーラ!」
再び暗転。
しかしまあ、今回に関しては彼女が不機嫌になる理由もわからないではない。
デビルバスター試験を約1ヶ月後に控えたティースが、なぜかシーラの通うサンタニア学園に護身術の特別講師として招かれることになったこの日。
シーラにとってそのことが愉快であるか不愉快であるかということを語る以前に、彼女がその事実を知ったのは、偶然にも彼の授業を選択した彼女が授業を受けようとしたその瞬間であり、まずそこまで秘密にされていて結果的に驚かされたということが気にいらない。
それに加えて――彼が学園にやってくるということ自体も、やはり彼女にとっては歓迎すべきことではなかった。
「……」
「お、おぉい、シーラ! 待ってくれって!」
そして慌てて追いかけてくるティースを振り返ることもなく、シーラは不機嫌そうに沈みゆく夕日を見つめながらミューティレイクへの帰路をたどっていく。
……さて。
そんな、いつもの調子の2人を少しだけ先回りしてみることにしよう。
彼ら2人が向かっている先。
ネービス有数の大貴族ミューティレイク家。その屋敷の別館1階玄関ホールには、その雰囲気に似合わない質素な丸テーブル群がある。
「――にしても」
そこに籍を置く弱冠12歳の執事リディア=シュナイダーは、夕日に焼ける窓の向こうに、屋敷へと向かって歩いてくる青年と美しい少女――『美女と野獣』ならぬ『美女と草食動物』の組み合わせを見つけ、1割ほどの憐憫と2割ほどの好奇の混じった息を漏らした。
「偶然って意地悪だよね。まさかシーラさんが、よりにもよってティースさんの授業を受けに来るだなんて」
パタン、と、彼女のトレードマークである分厚く難解な図書が、質素な丸テーブルの上で乾いた音を立てる。
ひとりごとかと思いきや、そうではない。
「ね、そう思わない。兄さん」
「ん?」
彼女の正面には、後頭部で両手を組み天井を見上げる格好で座っている青年がいた。
リディアとまったく同じ濃い色の金髪を持つ青年――レインハルト=シュナイダーは、9つ歳の離れた妹の言葉に小さく笑みを返してみせて、
「偶然なんてもんは、結局は必然の積み重ねさ。ことに男と女の出逢いに関してはな」
「いや。兄さんのナンパ論になんてこれっぽっちも興味ないから」
レイは小さく肩をすくめると、
「淋しい発言だな。お前もそろそろ少しぐらい色気づいていい年ごろだってのに」
「そりゃどうも。でも、恋愛事に夢を見れなくなっちゃったのはだいたい兄さんのせいだからね」
「ああ……いや、それはいいことだぞ。色恋沙汰に夢なんか見ても、いいことなんてひとつもありゃしない」
似たもの兄妹と言うべきか。
夕日に照らされたホールには、彼らと、動き回っている数名の使用人の他には誰もいない。ここに姿をよく見せる面々は大半が任務かなにかで屋敷を出ているようだった。
やがて、玄関の扉が重々しい音を立てながら開く。
「よぅ、おふたりさん」
入ってきたティースとシーラに対し、レイがさっそく声をかけた。
「初めての学園デートの感想はどうだった? 相変わらず仲が良さそうでうらやましい限りだ」
シーラはチラッとレイを一瞥して、
「おかげさまで。学園生活史上最悪の1日だったわ」
抑揚のない声でそう答えた。
もちろんレイの方もその不機嫌な返答を予想していたのだろう。彼女の後ろからやってきたティースに笑いながら視線を向けて、
「と、王女様はおおせだが?」
「……」
話を振られたティースはなにも答えず、それ以上刺激しないでくれ、とでも言わんばかりにレイを見つめた。
それ以上は会話もなく、2人はそのまま立ち去っていく。
「不機嫌だったね、シーラさん」
そんな2人の後ろ姿を見送りながらリディアがそう言うと、
「ま、色々不都合があるんだろうな。女ってのは隠し事の好きな生き物だ」
「えー」
リディアは納得できない顔で、
「どっちかっていうと男の方が隠しごと多いんじゃないの? 浮気とかだって大抵は男の方がするじゃん」
「そりゃ違う。男の方が浮気してるように見えるのは、単にバレる確率が高いってだけのことだ」
「あー、そうなんだ。そっかー。世の中、兄さんみたいにこずるい男ばかりじゃないもんね」
「お前、少しぐらいは自分の兄に対する敬愛の感情とかないのか?」
「そう思うなら、敬愛されるような行動取ってよ」
そんな妹の言葉に苦笑だけを返して、
「ま、なんにせよ、ティースのヤツにとっていい気分転換になればいいが」
「さっきのあれ見ると、とてもそんな感じになるとは思えないなあ」
微妙な表情で首を傾げるリディアの意見は、彼らのことをそれなりに知る者としてはしごくもっともな意見であった。
サンタニア学園。
シーラの通うこの学園はネービスに住む、主に中流階層の人々にとっての上を目指すための登竜門的存在である。
ネービスに数多く存在する名門学園は上流階層、いわゆる貴族や金持ちをターゲットとしたものが多く、能力以前の問題で入学できないことは日常茶飯事だが、このサンタニア学園だけは一般層にも広くその門戸を開放しており、しかも様々な分野で数多くの成功者を出していた。
ただ、それだけに能力に関する敷居は非常に高い。
高難度の入学試験をパスし晴れて入学を果たした者でも、最短の3年で卒業できるものはそのうちの5パーセントにも満たない。
半分は卒業できずに中途退学。
30パーセントは卒業までに倍の6年以上を費やし。
15パーセントは4年から5年で卒業する。
残った5パーセントがストレート、つまり留年せずに3年で卒業していくことになるのである。
さて、そんなサンタニア学園の昼休み。
「でも意外だなぁ、シーラさんがあの授業を取ってるなんて」
「そうかしら」
桃色の花が満開の並木道を歩く3人組の中に、昼食を終えて次の授業へと向かうシーラの姿があった。
午後の授業開始まであと10分ほど。ほとんどの生徒たちが昼食を終えて教室移動など次の授業の準備に取りかかっており、そこかしこに急いで、あるいはのんびりと授業道具を片手に並木道を歩いていく姿が見られる。
そしてシーラとともに歩いている2人も、もちろん彼らと同じこのサンタニア学園の生徒だった。
「わかってないわねぇ、オーウェン。この子ぐらいになると護身術のひとつやふたつ身につけてないと、すぐ通りすがりの悪党にさらわれちゃうんだから」
そう言った少女はディアナ=リー。シーラと同じサンタニア学園薬草学科の4年目三回生の16歳であり、彼女の学園における数少ない友人のひとりだ。
やや丸みを帯びた顔立ちと、短い髪を頭のてっぺんで結んだ特徴的なヘアスタイルが愛嬌のある少女である。
そしてもうひとり。
「そうなの、シーラさん?」
「そんなはずないでしょ」
「あはは、そうだよね」
笑いながらそう言ったのは柔和で穏やかな表情の青年だ。
スラッとした長身、飾り気はないが清潔感のあるスマートな服装で、なかなかのハンサム。
そんな彼、オーウェン=トレビックはシーラたちと同じく薬草学科三回生の17歳で、今年で3度目の三回生を迎える。
前述の通り、なかなか顔立ちの整った好青年なのだが、性格的におとなしくそこまで目立つタイプではない。
だが、しかし。そんな彼もこのサンタニア学園においてはちょっとした有名人であった。
「でもオーウェン、実際のところどういう感じなの? こんな子の彼氏としては」
そう。彼はシーラの恋人としてうわさされている人物なのである。
うわさされる、というはっきりしない表現になってしまったのは、別に当人たちがそれを否定しているわけではなく、ただ周りがそれを信じなかったり、あるいは認めなかったりしているからだ。
「どう、ってなにが? 俺はシーラさんが美人なのはうれしいし、別にケチを付ける気もないけど?」
「じゃなくて」
どこかとぼけたオーウェンの反応に、ディアナはやれやれと首を振って、
「やっかみとかなんだとか、色々と心配ごともあるでしょ。そういう意味でどうなのよって話」
「どうなの、って言われても困るなあ」
オーウェンは言葉通り困ったような笑みを浮かべて、
「しょうがないと思うけど。だってシーラさん美人だし」
「あんた、なにかというとすぐそれじゃないの」
「いや、でも事実だしね」
ディアナはため息を吐いた。
「ま、あんたも結局は信者のひとりだもんね。その辺どうなってるの、シーラ?」
「なに?」
話を聞いていたのかいなかったのか――興味があったのかなかったのかと言うべきか、シーラの反応はなんともそっけないものだった。
再びディアナはため息を吐く。
「なに、じゃなくてさ……はぁ。あんたたちってば、もう1年半も付き合ってるんでしょ?」
「1年と10ヶ月かな」
と、オーウェンが答える。
「でしょう? なのにまったく、あんたたちったら、たまにお昼を一緒に食べるだけで手をつないでるのすら見たことないし。友人としてはちゃんとうまくやってるのかなって心配になるのは当たり前じゃない」
腰に手を当ててそう主張するディアナに、シーラは苦笑しながら、
「あなたのは単なる野次馬根性でしょう?」
「う……そんなことないわよぉ」
オーウェンが笑いながら答える。
「付き合い始めるときに釘を刺されてるんだよ。手でもどこでも、許可なく体に触れたら絶交だって」
「はぁ?」
これにはディアナも眉をひそめて、
「ちょっと本当なの、シーラ?」
「本当だと思う?」
そんなシーラのやや冗談っぽい口調に、ディアナは少し考えて、
「普通じゃ考えられないけどさぁ。あんたってば二回生のころの実地授業で――あー、なんていったかな、あのスケベそうな顔した先生」
「シェーマス=フランシス?」
「あ、そうそう、フランシス先生。今はもういないけどさ、確かその授業のとき、あの先生に向かって『私に触るな!』ってものっすごい剣幕で怒鳴ったことあったじゃない?」
「あったかしらね、そんなこと」
とぼけたわけではない。そっけないのはただ興味がなかっただけだ。
「あったのよ。まああの先生にはみんな困ってたからいい気味だとは思ったけど、あまりにも辛辣だったから、あんたってば男嫌いなんじゃないかってうわさも――」
と、まあ。
そんな思春期の少年少女にふさわしい恋愛話(?)に花を咲かせていた3人だったが、ふと。
「シーラ?」
ピタッ、と。
先頭を歩いていたシーラが足を止めたのに合わせて、ディアナとオーウェンも同じように歩みを止める。
「どうしたの、シーラ?」
「……」
シーラはそれには答えず、黙って視線を正面に向けていた。
頭上の枝から落ちた桃色の花びらが、ひらひらと彼女の周囲を舞う。すれ違う他学科の生徒たちはそんな彼女に、明らかに他のものとは異質な視線を向けた。
憧憬、軽蔑、羨望、敵意――強く、両極端な感情の数々。望むと望まざるとに関わらず、それらはいつでも彼女の周囲を覆い尽くしている。
それに対する彼女の視線はいつでも無関心で、その渦の中を彼女はいつも隙のない姿勢で歩いていた。……いや、そうでなかったなら、彼女が引き寄せたそれらの潮流は、とっくの昔に彼女自身をどこかへ押し流してしまっていたことだろう。
自分という存在を保つために、彼女は鉄壁である必要があったのだ。
だが、しかし。
「シーラさん?」
「いえ……」
オーウェンに不思議そうな問いかけに、シーラは小さく首を振って再び歩き出す。
このとき彼女の顔に浮かんでいた困惑の表情は、この学園内においては非常に珍しいものだった。
その理由をディアナとオーウェンの2人は理解できなかったが、彼女のことをもう少し知る者ならばおそらく理解できるだろう。
「あれ。……あ、先生ー。こんにちはー」
なにごとかに気付いてディアナが張り上げた声。
向けられた視線の先には、並木道を横切ろうとするひとりの青年がいた。
「え? あ……」
そのいかにも情けないというか、頼りないシルエットを見間違うはずもなく。
タイミングがいいのか悪いのか。彼女らの前にフラフラとやってきたのはティースである。
「こんにちは、ええっと確か……ディアナさん、だっけ?」
手にしたメモ帳を開きながら、ぎこちなく確認するティース。
長身で細身、いかにも人の良さそうな童顔とどこか頼りなさそうな雰囲気が逆に取っつきやすかったのか、ティースは初日から生徒たちにはそれなりに受け入れられており、特にこのディアナとは昨日の帰りぎわにもいくつか言葉を交わした間柄だった。
慣れない場所での、多少とはいえ顔見知りの少女との出会い。ティースの顔は一瞬、笑顔を作ろうとする。
だが、その表情は一瞬で固まった。
……原因は、言うまでもないだろう。いつもより鋭さを増したシーラの視線が、彼をその空間にはりつけにしていたのである。
「あ、もう名前覚えてくれたんですか? って、先生、どうしたんです? 急にそっぽを向いちゃって」
「え、ええっと……」
ティースの額にはうっすらと冷や汗が浮かんでいた。
「そ、その。ほら、た、太陽がまぶしいなぁと思って――」
「はあ」
その言葉につられて空を見上げるディアナ。だが、タイミングの悪いことに太陽はまばらな雲に隠れたところだった。
「太陽、出てませんけど?」
「え!? あ。ははは、いや、そうじゃなくて、太陽っていうか青空、青空だよ、うん。空がまぶしいなぁって」
「……馬鹿。もっと自然に……」
「ん? シーラさん、今なにか言った?」
「なんでもないわ。行きましょう」
平然と受け流しながらシーラは歩き出した。隣のオーウェンもティースに軽く一礼してその後を追う。
だが、ディアナは不思議そうな顔をして、
「え? ちょっとシーラ。どうせこれから先生の授業だもの一緒に行けばいいじゃない。……先生も教室に向かうところなんでしょ?」
「え!? ええっと……」
「……」
無言で彼らを振り返るシーラ。
それは彼女にとって明らかに好ましくない提案である。ティースが嘘をつくのを不得手としているのは周知の事実であり、一緒にいる時間が増えれば増えるほど、彼女たちの関係がおおやけになるリスクも飛躍的に増えるだろう。
だが、ここはその提案を自然に断る方法も思い浮かばず。
「……ええ、それもそうね」
かえってボロが出ることをおそれ、シーラは仕方なくディアナの提案を受け入れたのだった。
そんなこんなで。
(……これはとんでもないことになったぞ)
ティースは今、下着が背中に貼り付くほどの冷や汗をかきながら、針のむしろの上をそろりそろりと歩いているかのような気分を味わっていた。
「先生って、普段はどんな仕事してるんですか?」
「え? ええっと……」
昨日、話し掛けるどころか視線も向けるなと釘を刺されたその翌日である。
これは困ったことになったぞ、と、思いつつ、ティースはとにかくボロを出さないようにと必死だった。
「傭兵っぽい仕事、かな」
「傭兵ですか? へぇ、見えませんね」
そう言ったのはディアナの向こう、シーラとディアナの間に挟まって歩くオーウェンだった。
「そ、そうかい?」
ディアナがうなずいて、
「うん、ぜんぜん見えない。先生ってなんか争い事とかできなさそう」
「はは……って、もしかして誉められてなかったりする?」
「どうだろ? あたしはそっちの方が好ましいと思いますけど。ねぇ、シーラ。あんたはどう思う?」
そんなディアナの振りに、ティースは恐る恐るシーラの方を見る。
「……」
一瞬の間。
だが、シーラの返答はティースが予測していたようなそっけないものではなく、ごくごく普通だった。
「まあ、そうね。腕力を誇示して威嚇するだけの野蛮人よりはマシだと思うわ」
「だって。先生良かったですね、学園一の美女のお墨付きがもらえて」
「……」
シーラの返答が素直に喜べるような誉め言葉だったかどうかはともかく、それとは別の意味でホッと胸をなで下ろしたティース。
(よかった……そんなに怒ってはいないみたいだ)
ともかく彼女は、自分とティースの関係について知られたくない、もっと広げていえばプライベートの話を学園の中に持ち込みたくない、と、いうことらしい。
普通の人と比較すればかなり特殊な環境にいる彼女のことだ。その気持ちはティースにも理解できていた。
(要するに、知り合いだってバレなきゃいいってことなんだよな。だったら――)
と、なにやら妙な自信を持ったティースは、止せばいいのに、今度は自ら口を開いていくことにした。
「へぇ、シーラさんは学園一の美女なんだ。すごいんだね」
「……」
シーラがピクッと肩を揺らす。だが、ひとまず反応はなし。
(よし。今のはいかにも初対面って感じの反応だよな)
傍から見れば多少ぎこちない芝居がかった口調ではあったが、それでもディアナやオーウェンは特に疑問を抱かなかったようだ。
ディアナは笑いながら、
「しらじらしいなあ。先生だってさっきからシーラのことチラチラ見てたくせに」
「え? いや……それは気のせいだよ。じゃなくて……あ、いや。そう。シーラ、さんがあまりに美人なものだから、つい……あはははは」
「そんな焦らなくてもいいですよ、先生。この子の場合はよくあることなんですから。チラチラ見るぐらいで怒ったりしませんし」
「あ、そ、そうなんだ」
不幸中の幸いと言うべきか、ディアナはシーラの様子をうかがうティースの視線を、別の意味で受け取っていたようだ。
ティースはとりあえずホッとしつつ、
(いつものこと、か……)
思わず、少し前に出たシーラの後ろ姿を見つめてしまった。
もちろん彼も、付き合いの長いこの少女が美人であることぐらいは知っている。
怖いほどに整った顔立ち。金糸のような美しい髪。
小さいころからの彼女を知っているティースは、他の男たちに比べればその魔力に対して強い免疫を持っているといえよう。だが、そんな彼であっても、改めて見つめてドキリとすることがある。
それほどに彼女は美しく。特に最近はその傾向がほんの少しだけ顕著になっていて――
(う……)
おりしも吹いた春風に乗って、香水とは違う甘い香りが漂ってくる。頭の奥が少しだけ刺激されて、いつかの映像がフラッシュバックした。
「……!」
反射的に口元を押さえる。
(……あぁぁぁぁっ!)
ポカッ。
「いてっ」
「? 先生?」
自分で自分の頭を殴りつけたティースを、ディアナとオーウェンは当然のように不思議な顔で見ていた。
さて。
そんな一行が、目的地の競技施設まであと20メートルほどのところまでやってきたときのことである。
「あら? 誰かと思えばシーラさんじゃありませんか?」
「?」
ティースの耳に聞こえてきたのは、おっとりとしておとなっぽい口調の少女の声。
そして、
「げ」
足を止め、真っ先に『否』歓迎の音を発したのはディアナである。
並木道の向こうからやってきたのは2人組の少女だ。
その片方、シーラたちに声をかけてきたのは、このサンタニア学園ではそれほど多く見掛けない、いかにもお嬢様然とした巻き毛の少女。服装も明らかに他の生徒たちとは違っていて、おそらくは本当に良家の娘なのだろう。
この学園にやってきて2日目のティースにはもちろん見覚えがなかった。
(シーラの友達かな……?)
ニッコリと友好的な笑顔を浮かべる少女に、ティースはとっさにそんなことを考えたが、
「驚きました」
少女は彼らの目の前に立ち止まると、いったんチラッとティースを見た後、すぐにシーラに視線を止めた。
「シーラさんのことですから、てっきり昨年度で卒業なさったものと思ってましたのに。やはり最終試験は運や偶然でどうにかなるものではないということでしょうか」
表面上はにこやかに。だが、薄皮1枚へだてた向こうに明らかな毒を秘めている。
(……友達じゃ、ないみたいだ)
それは鈍感なティースですら気付けるほどで、彼女も最初から隠すつもりはなさそうだった。
だが、シーラはそんなあからさまな嫌味に対しても淡々と答える。
「ええ、残念ながらうまくいかなかったわ。努力が足りなかったのかしらね」
「そうですか。では、これからはもっと努力しなくてはいけませんわね、色々と」
「ええ、そうね」
巻き毛の少女はフッと鼻で笑って、それから再びティースへと視線を移動させる。
「あ……」
臨時とはいえ講師という立場上、ティースはなにか挨拶でもしようかと口を開きかけたが、それよりも先に、
「それで、こちらのなにも考えてなさそうなみすぼらしい男は何者ですか? いくら自由な校風がウリのこの学園でも、部外者を勝手に入れるのは問題ではありません?」
「み、みすぼらしい……?」
思わず自分の服装を見下ろしてしまう。
こういうとき、怒るよりも先に自分の落ち度を探そうとしてしまうのが、このティースという男である。
それからちょっと情けない顔をして、
「み、みすぼらしいのかな、俺……」
そんな彼のひとりごとは完全に無視されたまま、ディアナが反論した。
「ちょっと! この人は部外者なんかじゃないわよ! 特別講義の先生なんだから!」
「特別講義? ああ、あの落第者のお遊びのこと?」
少女は再び鼻で笑って、
「なるほど、受けなくて正解でしたわ。そのいかにも主体性のなさそうな男を見るだけで、内容などだいたい想像できてしまいますもの」
「なっ……先生に失礼じゃないの!」
ディアナが当事者たちを差し置いて真っ先に激昂する。
どうやら彼女はなかなかに感情的な性格の持ち主らしい。
「なぜ?」
だが、巻き毛の少女は対照的に冷静に受け流していた。
「私は思ったことを正直に口にしただけですもの。……失望しましたわ、シーラさん。いくら最終試験に落ちたからといって、今度は講義の先生を丸め込んでいい点をもらおうだなんて。私だけは、シーラさんがそのようなことをする方ではないと信じてましたのに」
「む……むっかぁぁぁ! ちょっと! ちょっとシーラ!」
さらに顔を真っ赤にしたディアナは、口では勝てないと思ったのか、今度はシーラに対してまくし立てる。
「悔しくないの! 悔しいでしょ!? ほら、なにか言い返してやってよ!」
(……ディアナさん、いい子だなぁ)
割と当事者のはずのティースは、どこか他人事のようにそんなやり取りを眺めていた。
(いい友達を持ったよ、シーラは。うん)
その目線は完全に保護者のそれである。
「あらあら、ディアナさん。そうやって顔を真っ赤にしていると、ますますお猿さんのように見えますわよ」
「む……むっきぃぃぃぃぃぃっ!!」
と、そんな圧倒的に形勢不利な情勢の中。
「もう、やめなよ」
「……オーウェン」
2人の言い合いに口を挟んだのは、シーラではなくオーウェンだった。
巻き毛の少女は彼とも顔見知りなのか、今度はわずかにためらったような態度を見せながら、
「オーウェン。あなた、またその子の味方をするつもりですの?」
「当たり前じゃないか」
言葉通りなんのためらいもなくそう答えるオーウェン。
「……」
少女は少し表情を歪めて憎々しげにシーラをにらみ付けたが、オーウェンはそんな彼女をなだめるように、
「シーラさんに色々と悪いうわさがあることは俺だって知ってるよ。でも、それって全部根拠のない話だろ。俺はシーラさんがそんな人じゃないって知ってるし」
(悪いうわさ? なんだろ……)
もちろんこの学園に来たばかりのティースにはわからないことである。だが、この巻き毛の少女の物言いといい、シーラの学園生活が決して順風満帆でないらしいことはティースにも理解できた。
(もしかしてイジメとか受けてるのかなぁ……)
そんな彼をよそに、オーウェンと少女のやり取りは続く。
「なにを言ってますの? 根拠のない話でしたらこんなにも広がるはずありませんわ」
「でも、君だってその根拠を知ってて言ってるわけじゃないんだろ?」
「それはそうです。私は探偵ではありませんし、そこまで労力を費やす気にもなりませんもの」
「だったら、気軽にそういうことを言うもんじゃ――」
「もういいわ、オーウェン」
「え?」
オーウェンを手で制してシーラが前に出ると、巻き毛の少女が一歩だけ下がって身構えるようにした。
シーラは静かにため息を吐いて、
「いくら言い合ったところで、なにが本当かなんてどうせわからないんだもの。そうでしょう?」
「え、でもシーラさん……」
「いいのよ」
そう言ったシーラの口元に浮かんだのは、魔力を秘めた魔性の笑みだ。
「確かに私にはそれだけの魅力がある。この子の言うようなこともあるいは可能かもしれないわ。ねぇ?」
「っ……」
不敵にさえ思えるシーラの問いかけに、巻き毛の少女は気圧された様子だった。
だが、すぐに強気な口調を取り戻して、
「よくもまあ……臆面もなくそのようなことを。育ちが知れますわ」
「あら、残念ね。負け惜しみにしか聞こえないわ」
「負け惜しみですって!?」
少女の頬が怒りで上気する。その様は先ほどまでのディアナとのやり取りを逆さに見ているかのようで、どうやら彼女も本質的には熱くなりやすい性格のようだった。
「私の、どこがあなたに負けているというのです!」
怒りの言葉に応えたのは、薄い微笑み。
「逆に、どこが勝ってる思う?」
「っ……!」
それはひどく屈辱的な言葉だったが、少女の口からはすぐに反論が出てこない。
それもそのはず。このシーラという少女には弱点らしい弱点がない。……いや、実際にはそんなことはないのだが、少なくともこの学園の生徒たちはそれをひとつとして知らなかった。
完璧で、かつミステリアス。
それがこの学園におけるの彼女の評価なのだ。反論など、そう簡単に思い浮かぶはずもない。
「ああ、それと」
じっくり20秒ほど、少女の口から反論の言葉が出てこないのを見て、シーラは思い出したように言った。
「もう知ってるようだけど、私はシーラ。シーラ=スノーフォールよ」
少女が怪訝な顔をする。
「それは、どういう意味ですの?」
シーラは取り澄まして答えた。
「そろそろ、あなたの名前を教えてもらえないかしら? 見覚えはあるのだけど、誰だったのかどうしても思い出せなくて」
「~~~~~~~!!」
さらに屈辱的なひとことに、少女はついに顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。
「アリエル! アリエル=リンプシャーよ!」
「……ああ。そういえばそうだったわね」
思い当たった顔のシーラ。本当に知らなかったのか、あるいは演技なのか、なんとも判断がつかない。
ただ、どちらにしてもこの時点で勝負あったようだ。
(……容赦ないなぁ)
そんなやり取りに、余計なことだと自覚しつつも、ティースはほんの少しアリエルに同情してしまった。
普段シーラの容赦ない『口撃』にさらされている彼ならではの、妙な親近感ゆえの反応である。
カラン、カラーン。
そこに鳴り響いたのは、午後の授業開始を予告する鐘の音。
なにか言い返そうとしていたアリエルも、結局怒りのやり場を見つけられないまま、
「なにをボサっとしているの!? 行きますよ!」
「え、あ、はい……」
最後は後ろに引き連れていたひとりの少女を怒鳴りつけて、腹立たしげにその場を立ち去っていった。
(……うーん)
そんな彼らの一連のやり取りを眺めてティースは思う。
(やっぱ同年代の子たちと比べても、シーラはちょっと浮いて見えるなぁ……)
「まったく! あの子ったらいっつも突っかかってきて!」
怒り収まらぬディアナに、オーウェンは苦笑いで、
「ごめん。アイツ昔っから負けず嫌いで……」
「そういう問題じゃないでしょ! ……あ、そっか。あんたは前からあの子のこと知ってるんだっけ」
と、ディアナは少し口調をやわらげる。
「うん。昔から性格のキツいところはあって。ただ、あんなにひどいこと言うやつじゃなかったんだけど……」
「さ、行きましょう」
そんな2人の会話を背に、まるで意に介した様子もなくシーラが再び歩き出す。
「あ、待ってよ、シーラ。……もう、あんたも少しは怒るとかなんとかないの? ほんっとクールなんだから」
「あはは……」
オーウェンの苦笑いが、この光景が決して珍しいものではないことを表していた。
「でも、ホッとしたよ、オーウェン。あんたがすぐシーラの肩持ってくれたからさ」
アリエルの出現で少しピリピリしていた空気もすぐに消え、ディアナもさっきまでの怒りなど忘れたかのようななごやかな調子で言った。
「いや、当たり前なのかもしんないけど、この子ってばなにかと敵が多いから。彼氏のあんたがしっかり守ってくれるならあたしも安心だよ」
と。
なにげなく言ったディアナのその言葉が、思わぬ事態を引き起こした。
「え。シーラの彼氏?」
まず最初にティースが失言を口にする。それはシーラとの関係を疑われかねない明らかな失言だったが、幸いにしてその言葉は誰の耳にも届いていなかった。
というのも、ティースがそうつぶやくとほぼ同時に、その場にいた他の面々も驚いていたからだ。
「ちょっ……」
ディアナの言葉の直後。
おそらく思考の入る余地もない反射に近い速度で発したシーラの言葉――その反応に対して、である。
「ちょっとディアナ! 余計なこと――!」
「え?」
ハッとして途中で言葉を止めたシーラを、ディアナとオーウェンはびっくりした顔で見つめていた。
それもそのはず。
やや慌てたような彼女のその叫びは、少なくともこの学園内では一度も見せたことのないものだった。
そして実際、大きな起伏があったのはそのほんの一瞬のことだけで、
「……余計な話をしてないで急ぎましょう。授業が始まっちゃうから」
そこまで言ったとき、彼女の態度はいつもの通りに戻っていた。
だが、しかし。
「あ、う……うん」
「……」
驚いたままのディアナとオーウェンの表情を見れば、ごまかしきれていないのは明白である。
「……」
そんな2人の顔を見たシーラはかすかに後悔の色を見せながら正面に向き直り、その後はなにごともなかったかのように歩き出した。
後ろで怪訝そうに視線を交わし合うディアナとオーウェン。
そしてティースはといえば、そんな3人の不自然なやり取りにはまったく気付かぬまま、
(そっか。この男の子がシーラの恋人――)
今まで何度か話に聞いていたとはいえ。
突然目の前に現れた彼女の恋人の存在に、なんとも言えぬ落ち着かない気持ちになってしまったのだった。