幕間『ジェニス・レディ』
午前10時。
ミューティレイク家のハウス・メイドたちにとってもっとも忙しいと思われるのが、この午前中、朝食を終えてから昼までの時間である。
掃除、洗濯、客室の準備等々……いわゆる家事と呼ばれるものの大半を受け持つ彼女たちの仕事は、屋敷の女性使用人たちの中でもっとも身体を動かす仕事であり、他の使用人たちに比べ圧倒的に体力を必要とするものだ。
そんな体力自慢なハウス・メイドたちの中にあって、ひときわ目立って大柄な女性がいる。
「ジョエッタさん。このシーツはどこに置けばいいですか?」
「ああ、そっちの、ほら。カドんとこにでっかいケースがあるだろ。そこに放り込んで――ああ、畳まなくていいからね。あとは向こうで勝手にやるからさ」
答えたのは30代前半だろう、かなりクセの強いショートカットの女性で、両手には山盛りの洗濯物を抱えている。身長は平均程度だろうが、幅が普通の女性の2人分ほどもあるため、山盛りであるはずの洗濯物が少々物足りなく思えてしまうほどだった。
だが、そんな彼女――ジョエッタの後方にいる女性はさらにすごかった。
「よいしょ……」
声質は柔らかく、抱えたシーツの奥からときおりのぞく顔はいかにも優しげで清楚。長く伸びた黒髪とおっとりとした雰囲気は、深窓の令嬢かあるいは聖職者かと思わせるほどに淑やかだ。
しかし、である。
「ここでいいですか?」
「ああ、リィナちゃん、もうちょっと右、右……はい、おっけー」
どすん!
綿で出来ているとは思えない重い音を立て、カゴの中にどっさりと積まれた白いシーツ。……いや、カゴがシーツの山に埋もれたと表現した方が正しいかもしれない。シーツを取りにやってきた洗濯担当のハウス・メイドが目を丸くするのも当然だった。
さて。
見ての通り、この2人の女性はミューティレイク邸のハウス・メイドである。
今年33歳になるジョエッタは、同い年の夫と3人の子を持つ通いの使用人だ。この屋敷にやってきたのは2年ほど前だが、それ以前にも別の屋敷で同じ仕事をしており、この道に関していえばそれなりのベテランであるといえるだろう。
一方、彼女と一緒に仕事をしているリィナは16歳。ここに来てまだ2ヶ月程度の新米であり、まだまだ仕事を学んでいる真っ最中だ。
にも関わらず。
「いやぁ、ホント助かるよ。リィナちゃんがいなきゃ何回も何回も往復しなきゃならんとこだからねぇ」
などと、リィナがジョエッタに感謝されることは1日に
1回や2回ではない。いやジョエッタに限らず、彼女の手が空いていると見るや否や、実に様々なところから彼女に依頼の声がかかるのだ。
「お役に立てて嬉しいです」
そう言って微笑むリィナは、自分が役に立てたことを喜ぶごくごく普通の少女に見える。
だが、しかし。
そんな彼女には『普通の少女』であるとは言えない部分がいくつかあった。
「ホント、リィナちゃんがいなかったらと思うと……って、前はそれなりにやってたはずなんだけどねぇ。やっぱ人間楽することを覚えるとダメだわ」
あはは、と笑いながらも賞賛の言葉を止めないジョエッタの視線は常にななめ上を向いている。……と言ってもあらぬ方向を見つめながらしゃべっているわけではない。
「でも私も早く仕事を覚えて、ジョエッタさんに迷惑をかけないようにしないと」
標準的なジョエッタの身長に対し、このリィナという少女の身長は実に182センチもあった。身長差は約20センチ以上……ともなると、顔を見て話そうとすると視線が斜め上を向いてしまうのは当然である。
これが、彼女が普通ではない理由のひとつめ。
そしてふたつめは――
「うっきゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「!」
ジョエッタとリィナがひと息つきながら1階のホールまで戻ってきたときのこと。
屋敷に響いた奇声はまだ幼い少女の悲鳴だった。
「だっ、誰か! 誰か助けてぇぇぇぇぇッ!!」
「……」
一瞬顔を見合わせるジョエッタとリィナ。
彼女ら2人がそれほど慌てなかったのは、その声が彼女らにとって聞き覚えのある人物のものであったことと、
「……またあいつらかい」
ジョエッタが呆れた表情でそうつぶやいたように、その悲鳴があまり珍しいものではなかったからである。
「私、行ってみますね」
「ああ、すまんね。きっとまたヴァレンシア辺りがちょっかい出したんじゃないかと思うけど」
ジョエッタの声に小さくうなずいてみせてから、リィナは1階ホールから悲鳴の聞こえた書庫へと続く通路に足を運んだ。
「エレンさーん、大丈夫ですか?」
悲鳴が聞こえた辺りで声をかけながら進む。
すると案の定。
「えっ? あ、リィナ! リィナ、ちょっとこれ、なんとかしてよぉっ!!」
「な、なにをしているんですか?」
リィナはとてつもなく不思議な顔をする。
さもあらん。
通路の途中。エレンという、彼女と同じハウス・メイドで少し年下の少女が、うつ伏せの状態で通路にうずくまっていたのである。
そこまではまだいい。
だが、このエレンという少女、ほどけば腰よりも長い髪を頭のてっぺん近くで左右に分けているのだが、なぜかその片方が通路の途中に置いてある騎士の銅像に踏み付けられる形になっていたのである。
エレンは涙目になりながら、
「わ、わからないわよぉ! ここの床を拭いててようやく終わったから立ち上がろうと思ったら……いだだだだッ!!」
「あ、動かないで、エレンさん……」
軽く200キロはあろうかという銅像だ。無理やり引き抜こうとして抜けるものではない。
「おやおや、ちょっとなにやってるんだい……」
と、後からやってきたジョエッタもその惨状を見て眉をひそめた。
「だ、だから知らないってばぁ! ……きっとまたヴァレンシアだわ! ヴァレンシアがなにか仕掛けていったに違いないのよぉぉぉッ!!」
などと、エレンは彼女の天敵でもある少女の名を上げて訴えたが、ジョエッタはバカバカしいという顔をして、
「あの子じゃその銅像を持ち上げるのはさすがに無理でしょ……ちょっと待ってな、誰かにハサミ借りてくるから」
そんなジョエッタの言葉に、涙目になっていたエレンの表情がさぁっと青ざめた。
「ハサミ!? もしかして切るのッ!?」
「もしかしてもなにも、それしかないだろう?」
腰に手を当てて答えるジョエッタの言葉はもっともである。
だが、エレンは必死な形相で、
「いやよ! いやいや!! 切るのはいやッ!! ひ、ひどいよぉ! あたし、なにも悪いことしてないのにぃっ!」
とうとう本当に泣き出してしまった。
その声になにごとかと少しずつ人が集まってくる。
「ったって、切らなきゃいつまでもそのまま――」
と、そこへ。
なにごとか考えていたリィナが、ゆっくりと銅像へ歩み寄っていった。
そして、
「エレンさん」
「え?」
「3、2、1で起き上がってくださいね」
「へ?」
そのリィナの行動にジョエッタが目を丸くする。
「ちょっ、ちょっとリィナちゃん。あんたいったいなにをするつもり――」
だが、ジョエッタが言い終わるよりも先に、リィナはその銅像に両手を掛けると、
「いきますよ。……3、2、1!」
ずず……。
「……え?」
どすん。
「……へっ?」
身を起こしたエレンが目を丸くする。さっきまで挟まっていた左の髪を手に取り、わけがわからないという顔で銅像を見て、そして次にリィナを見上げた。
いったいなにが起こったの、と、問いかけるように。
銅像は動いていない。いや、動いていないように見える。
だが、しかし。
「……」
ぽかんと口を開けるジョエッタの表情が、そこでなにが起こったのかを明確に示しており――
「大丈夫でしたか?」
ニッコリと聖女のように微笑むリィナの額には、うっすらと汗が浮かんでいるようにも見えた。
「あ、あ……ありがと、リィナ……」
大事な髪を失わずに済んで、本来ならば大喜びするはずのエレンも、あまりに信じがたい出来事にただただ呆然とするばかりであった。
……と、まぁ。
そういった感じで、いくつか普通ではない特徴を持つリィナであるが、屋敷にいる人々からの評判はすこぶる良い。
ハウス・メイドの仕事は決して楽なものではないが、仕事そのものを楽しんでいるのが傍から見ててもわかるし、なにごとにも一生懸命で思いやりもある。なにかと目立つ部分もあるが、だからといっておごるようなこともなく。
そしてなにより慎み深い。相手が年下であっても礼儀正しく、年上であればなおのこと、相手を立てて出しゃばることがない。
屋敷の人々はいつしかそんな彼女を表す言葉として、とある単語を使用するようになった。
彼女はまるで――の、ようだ、と。
「むかーしむかし、大陸東方にあるジェニス領には、女性から男性に愛を伝えてはならないという厳格な決まりがありました。なぜなら、女性が自分をアピールすることには慎みがなく、また男性に恥をかかせる行為でもあると広く認識されていたからで、記録によれば過去、その罪で死刑になった者さえたくさんいたということです」
その日の昼下がり。
膨大な蔵書量を誇るミューティレイク邸の薄暗い書庫の入り口には、きちんと採光された読書用の席がいくつか配置されている。
そのうちのひとつのテーブルに、2人の少女が座っていた。
片方がパタン、と、トレードマークともいえる分厚い本を閉じる。となれば、その声の主も大体想像がつくだろう。
弱冠13歳のミューティレイク家執事、リディア=シュナイダーである。
「その法が姿を消した現在もなお、一部の上流階級ではその法に準ずる厳格な教育を施す家もある。これが『ジェニス・レディ』っていう言葉の起源。……とはいっても、一般市民レベルではやっぱり過去のもので、その言葉も恋愛に限らず、単に『慎み深い女性』や『引っ込み思案の女性』を指すことが多くなってきたみたいだね」
「それってほめ言葉だと思っていいのかな?」
と、そんなリディアの説明に聴き入っていたのは、屋敷の制服に身を包んだ少女だった。
リィナの着ていたものと若干デザインの異なるそれは、厨房にかかわる仕事を主とするキッチン・メイドの制服だ。
その少女――エルレーン=ファビアスは『まるで妖精のよう』などと表現され、彼女の正体を知るティース辺りが微妙に引きつった笑みを浮かべてしまうような、小柄で細身の少女である。
そんなエルの問いかけに、リディアはうなずいて、
「うん。ジェニス・レディは歌劇とか物語の世界では割と一般的な題材で、そのヒロインをイメージさせる言葉でもあるから、少なくとも悪い意味では使われることはほとんどないと思うよ」
「そっか。うん。ありがとね、リディア」
エルがホッと胸をなで下ろすと、やや内側にカールしたセミロングの髪が小さく揺れた。
「いえいえ、どういたしまして。授業料はちゃんとティースさんに請求しておくから」
リディアの返しにエルは苦笑して、
「ティースに怒られたりしないかなぁ」
「エルさんなら大丈夫大丈夫。ティースさんはああ見えてロリコ――じゃなくて心が広いから」
「リディア、ボクより3つも年下のクセに」
と、エルは不満そうに、だけどどこか冗談っぽく口を尖らせてみせる。
「あはは、まぁね。……ちなみに余談だけど、本当の意味で使われるジェニス・レディは、どっちかっていうとあんまいい意味じゃないんだ。基本的に悲劇のヒロインだからね」
「悲劇のヒロイン?」
「うん。ジェニス・レディが好きな男にアピールする方法ってすごく限られてるっしょ? あからさまにならないよう微妙に手を変え品を変え、でも気付いてもらえないまま……なんて。いかにも悲恋物語のヒロインじゃない」
「あ、なるほどねー。なるほどなるほど」
と、エルは真顔でしみじみとうなずく。
「やっぱ難しいものなんだね、人間の恋愛って」
「ま、色恋が思い通りにいかないのは、なにも昔のジェニスに限ったことじゃないだろうけど」
そんなリディアに、エルは不思議そうな顔をして、
「リディアはそんな経験があるの?」
「あたし? あはは、あるわけないじゃん」
リディアは即座に否定した。
「あたしは望みが低いから。莫大な遺産さえ残してくれれば後はどうでもいいし」
「またそんなこと言って」
苦笑する。
だが、あながち完全に冗談であるとも言い切れないのが、このリディアという少女である。
「ジェニス・レディかぁ」
リディアと別れたエルは、書庫から彼女の主な仕事場である厨房へ抜ける廊下を歩いていた。
なんとも興味深げなつぶやき。
ジェニス・レディ。そのままジェニス領の女性を指すその言葉は、リディアの説明した通りの言葉であり、今の世では恋愛性を強く想起させる単語である。
しかし、だからこそエルは思うのだ。
「リィナを表現するにはちょっと遠い、かなぁ……」
「――エルさーん」
顔を上げると、ちょうど廊下の向こうからやってくるリィナの姿が見えた。
小さく手を挙げて応える。
「リィナ。今からお昼?」
「はい。エルさんもですか?」
歩み寄ってきたリィナは袖をまくっていて、いかにも掃除をやってきた、というような格好だった。
「ううん。ボクは終わってこれから戻るとこだよ」
「そうですか……」
リィナは少し残念そうに視線を落として、
「久しぶりにゆっくりお話をしたかったのですが……」
「そうだね。リィナ、夜は寮に戻ってすぐ寝ちゃうもんね」
エルの言葉にリィナはうなずいて、
「ええ。こんなにも忙しなく動くことなんて今までなかったですし、覚えることもいっぱいで体より頭の方が先に疲れてしまうみたいです」
それでもどこか充実した顔つきのリィナを見て、エルは満足そうに目を細めた。
「あはは、ボクも同じだよ」
そう答えながら、先ほどのリディアの言葉を思い出す。
(慎み深い女性や、引っ込み思案の女性、かぁ……)
引っ込み思案、という表現はもちろん似合わないだろう。
彼女はこう見えて自分の考えはきちんと主張するし、エルなんかよりもよっぽど頑固な性格である。
「それでリィナ。最近変わったこととかはない?」
「変わったことですか?」
「うん。人間の生活ってちょっと勝手が違うでしょ? 戸惑ったり、他の子に変な顔されたりとか」
そんなエルの心配に、リィナはニッコリと微笑んで、
「それはもう大丈夫だと思います。夜は寝る前に少しでも人の書いた書物を読むようにしていますし、エルさんの忠告通り『家族』とか『恋愛』とかそういう話にはできるだけ参加しないようにしていますから」
「うん、そっか」
それなら大丈夫だろう、と、エルはうなずいた。
……王魔である彼女たちと人間との間に存在する感覚の違い。その中でもなかなかに理解しがたい感情のうちのひとつ。
恋愛感情。
エルの方は幼いころから人間界に興味を持ち、それに詳しい知り合いもいたから、多少なりともそういったものを理解できているのだが、それでも先ほどのように恋愛事にかかわる様々な模様を耳にするたび、その複雑さに感心してしまうことも多かった。
エルですら、そうなのだ。
「でも、聞けば聞くほどわからなくなるんです。皆さん、好きな人の話をするときに、多くがその理由としてカッコイイからと言うのですが……」
リィナの方はかつて、2年ほどティースたちと一緒に過ごしたことで人間的な感性を持つようになったとはいえ、それでも王魔としての感覚のほうが圧倒的に濃い。
そんな彼女がジェニス・レディ――悲恋を象徴するヒロインにたとえられるのは、エルの目からするととてつもなくミスマッチに思えて仕方なかったのだった。
「カッコイイから好き、というのは、どういうことなんでしょう? 美しいものを愛する気持ちは私にも理解できますが、皆さんの言うことはそれとは違うようで……中にはほとんどまともに話をしたことがないのに好きだという人もいるようで、もうなにがなにやら……」
「あ、うーん……」
もちろん、同じ王魔であるエルにはそんなリィナの疑問もよく理解できる。
王魔にも愛情という概念は存在する。だが、それは男女のそれでも家族のそれでもなく、純粋な個体そのものに向ける愛情であり、ほぼそれしか存在しない。
だから王魔が誰かを愛するというのは、その存在すべてを認めるということであり、当然、相手をよく知らずに好きになる、なんてことはまず考えられないのである。
「人間は、きっとボクらより直感的に他人を愛することができるんじゃないかな」
結局、エルはそんな風に答えた。
「直感的、ですか?」
「うん、本に書いてたんだ。愛とは、愛するに値する相手かどうかを考える前に愛してしまうことだ、って。それはきっと良い面も悪い面もあると思うんだけどね」
リィナは困り顔で、
「なんだか難しいですね……」
「うん。ボクも実はよくわかってない」
正直にそう言ってエルはクスクスと笑った。
「でも、もしボクやリィナにそれが必要なんだとしたら、自然にわかってくることだと思うよ。運命を司る花信風のお導きでね」
「あ」
昼下がりの青空を白い鳥が飛ぶ。白い鳥から落ちた白い半液体状の物体はベチャリと音を立てて黒い布地の上に落ちた。
「ふーふふふふーん。ああ、俺はなんて幸せ者なんだろう。こんなうららかな春の日に、麗しのあの方にお会いできるなんて!」
「……」
ルーベンは白い日傘の奥から、前を歩く鼻歌混じりの背中をじっと見つめていた。
妄想爆発真っ盛りのためか、前を歩く男は自らの背中を汚した白い物体の存在にも気付いていないようである。
「見よ、この清々しい青空を。ああ、愛しのファナさん! 今日こそはこの燃え上がる思いの丈をあなたに伝えてみせます!」
「……鳥のフン付きだけどな」
「ん? なにか言ったか、ルーベン?」
「いえなにも。ラドフォードさん、前見て歩かないと危ないですよ」
振り返ったライオン頭の大男の問いに、ルーベンは涼やかな顔でそう答えた。
「ん? おお、そうかそうか。こんな大事な日につまづいて怪我でもしたら大変だ」
「そうですよ。もう手遅れですけど」
「ん? どういう意味だ?」
「ああ、その。ラドフォードさんの熱い思いはもう誰にも止められませんね、と」
即座にそう返したルーベンの言葉に、ラドフォードは満面の得意顔をした。
「ふっ、なにを今さら! 海より高く山より深いこの俺の愛が止められるわけないではないかっ!!」
「ええまったくそのとおり」
隣を走っていく馬車に視線を送りながら、明らかに心のこもってないルーベンの返答であった。
ネービスが誇るデビルバスター部隊『ネスティアス』トップ10のうちの2人、ラドフォード=マティスとルーベン=バンクロフトは現在、徒歩でミューティレイクの屋敷へと向かっている。
徒歩である理由はただひとつ。
「ああ、こうして一歩、また一歩と愛しい人の元へ近付いているかと思うと、なんともいえない高揚感があるじゃないか! なぁルーベン!」
「そうですね。これで太陽が出てなければもっといいですね」
そう言いながら日傘の奥から憎らしげに上空の太陽を見上げるルーベン。
「ついでにウザいライオン頭もいなければ、もっとよかったですね」
「なに、ライオン?」
ラドフォードは不思議そうにキョロキョロと辺りを見回して、
「なんだ? どこにもいないじゃないか」
「比喩ですよ、比喩」
「ああ、そうか比喩か」
なんとも頭が悪そうなやり取りである。この会話を聞いて、彼らがネービスの誇るエリートデビルバスターたちだなどと思う人間はおそらくひとりもいないだろう。
と。
そうこうしているうちに、やっと彼らの目的地である屋敷が見えてきた。
「ああ、あと言い忘れてましたけど」
そう言ってルーベンは日傘を深く傾ける。
「ファナさん、今日不在らしいですよ」
「……な、なにぃぃぃぃぃぃぃっ!!!?」
「どうも。情報提供、感謝します」
「いえ。どうかお役立てください」
ミューティレイク本館の応接室。
誠実そうな柔らかな声質の持ち主は屋敷の執事、イングヴェイ=イグレシウス――通称、アオイである。
そんな彼の正面、クッションの利いたソファの先っちょに腰掛けたルーベンは、受け取ったばかりの紙の束に軽く目を通し、それを封筒のようなものに入れた。
アオイが少し遠慮がちに問いかける。
「やはり気になっていますか? 先日のネアンスフィアの事件……」
ルーベンは小さくうなずいて、
「ええ、まぁ。公にはあまり言ってませんけどかなり異常でしたから。下位魔ばかりとはいえ約30体の人魔に加え、風の二十七族ウィルヴェント。それもゲリラ的に各個撃破した形跡はなく、ほぼ1ヶ所に死体が固まっていました」
「ウィルヴェント……? 風の二十七族まで混ざっていたのですか?」
ひそめた声ながら、アオイは驚きの表情を隠せずにそう聞き返していた。
「そちらの2名は運良く遭遇しなかったようですね。ともかく、普通に考えれば少なくとも20名近い戦力は必要でしょう。10名未満でやったとすれば全員がデビルバスタークラス、2、3名ならその中でも選りすぐりの手練れ、ひとりでやったとすれば――」
「人間じゃ、ない。ですか」
「あるいは人類最強クラスかのどちらかですね」
「……」
無言で考え込むアオイ。もちろんなにかを推測するには材料が少なすぎる。だが、その異常さは思わず考えさせられてしまうほどのものではあった。
それを見つめていたルーベン。
「ところで」
やがてトンと、手にした封筒の端で軽くテーブルを叩いて、
「アオイさん。『マリアヴェル』という名に聞き覚えはありませんか?」
「え? あ、ああ、確かこの事件で行方不明になったデビルバスターだと聞いていますが、それがどうかしましたか?」
「いまだに遺体が出ていないんです。まぁ、もともとよその領地で活躍していた人らしいんでどっかで元気にやってるのかもしれませんけど。……いえ、知らないならいいんです。なんとなく気になっただけですから」
そう言って、ルーベンはなにごともなかったかのように室内を見渡した。
やや高めの天井。このミューティレイク本館は別館と違い内装や調度品も豪華で、もちろん別館で見られるような騒々しさは微塵もない。
「ところでルゥさん。今日はラドフォード様も一緒にいらっしゃると聞いてましたが……」
「ああ、アレなら外でたそがれてます。まぁいつものことです。……じゃ、今日はこの辺で」
「あ、ルゥさん」
資料を手に立ち上がったルーベンをアオイは引き留めて、
「せっかく来たんですから皆さんに会っていかれてはどうです? アクアさんなんかは前回いらっしゃったとき会えなかったのを悔しがっておられましたよ」
「……」
ルーベンの顔に珍しく困ったような笑みが浮かんだ。
「遠慮しておきます。アクア隊長の十八番を喰らうと3日は行動不能になってしまいそうですから」
「……そうですか。ではアクアさんには秘密にしておきましょう」
「そうしてもらえるとものすごく助かります。特に私の背骨の辺りが」
笑い返すアオイに、ルーベンは小さく一礼した。
「頑張ってください、ルゥさん」
「……」
もう一度頭を下げると、見送りを固持してルーベンは応接室を出た。
応接室からはひとりの使用人に案内されて玄関ホールへ。
別館のような質素な丸テーブル群などはもちろんなく、そこはおごそかで気品にあふれた内装に支配されている。
別館へと続く目立たない通路。
そこへ一瞬だけ視線を送り、ルーベンは出口へと進んでいった。
夕焼けが射し込んでくる。だいぶ日差しは弱くなっていたが、それでもルーベンは目を細めながら歩いていた。
と。
「……?」
彼が一瞬そこに視線を奪われたのは、特に大きな理由があったわけではない。
ただ特徴的だった。それだけのこと。
そしてたまたま視線が合った。
長い黒髪。柔和な表情。
思わずつぶやいてしまったのは、ルーベンにとって圧倒的な失点だったろう。
「フラニー……?」
「?」
足を止めた女性は彼より10センチほども背が高い。だがその割に威圧感は少しもなく、どこか心なごませる雰囲気の女性だった。
「私のことですか?」
「あ、いや」
不思議そうな女性に対し、ルーベンはすぐにいつもの調子に戻って否定しようとする。
だが、それより先に女性は言った。
「私はリィナといいます。リィナ=クライストです。フラニーさんという方は……すみません、私、まだ全員の名前を覚えていないんです」
「……」
ルーベンは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに切り返す。
「背、大きいですね」
「え?」
「知ってますか? 水属性を持つ魔の女性はとても大柄な人が多いんです」
「……え?」
「ってことでサヨウナラ」
「……???」
びっくりした顔のリィナを残したまま、ルーベンはさっとその場を離れた。
……その態度はいつもの彼を知る者からすればかなり不自然で、自らの失言をごまかすためのものだということはすぐにわかったはずだが、もちろん初対面のリィナがそんなことを知るはずもなく。
「……はぁ」
外に出て日傘を広げ、もれたため息。
なんとも言えない気持ちでルーベンは日傘を傾けた。
「ぜんぜん似てなかった」
誰にも聞こえない独白。
「背高いとこだけ。雰囲気と」
そもそも見間違えたというわけではないのだ。彼が失言を口にしたのはリィナのシルエットに対してであって、顔を見て言ったわけではないのだから。
場所も悪かった。
彼の意識が少なからず過去をさかのぼっていたことも影響しただろう。
とはいえ、この出来事によってなにか重大な損害があったわけでもなく。その失言が産み出したものといえば、彼がリィナ=クライストという少女の名を知り、彼女が――後々まで覚えているかどうかはともかく、このルーベンの顔をひとまず記憶したということ、ただそれだけだろう。
「……さて。ライオン頭でもからかって帰るとすっかな」
春の風。開花を知らせる風が吹く。
夕日に染まったネービスの街はなにごともなく静かに夜を迎えようとしていた。