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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第7話『デビルバスター・ハンターズ』
55/132

その6『回収、後始末』


 ネアンスフィアたちに滅ぼされた山奥の村からもっとも近い、ふもとの街コッサール。

 ベルン、ルナジェールという2つの大都市を結ぶ街道の中間地点からわずか2キロほど。旅人が体を休めるのに良い条件が整っているにも関わらずどこか寂れた田舎臭が漂っているのは、雨が降るとすぐに土砂災害が起こってしまう土壌の悪さとともに、ベルンとルナジェールを結ぶ街道が整備されるに従って1日の移動距離が伸び、立ち寄る人の数が年々減り続けているためである。

 とはいえ、まあ。

 この日の天気は文句のつけようがないほどの快晴で、おとといの夕方に降っていた雨もすぐに上がり、とりあえず本日に関していえば土砂災害が発生する確率はかなり低いと言えるだろう。

 さて。

 そんなコッサールの街の一角にある宿屋。

「……た、頼む。見逃してくれぇ」

 死に行くものの断末魔の叫びとしてはあまりにも情けなく。また、死を覚悟した勇者のものとしてもやっぱり情けない。

 三流の悪役が正義の味方に許しを請う、そんな場面にピッタリなつぶやきとでも言うべきか。

 だが、それもそのはず。

 彼――ティーサイト=アマルナがその言葉を発したのはなんの危険もないベッドの上であり、そもそも彼の意識は今、夢の中にあったのだ。

「た、頼むから触らないで……気絶するぅぅ……」

 しかも、どうやら彼が見ているのは敵に襲われる悪夢などではなく、それとはまったく別の彼特有の悪夢らしい。そんな彼のふびんな境遇には同情も禁じ得ないが、まあそれはともかくとして。

 今は彼が、必死とも思えたあの山奥から無事に生還したらしいことを素直に喜ぶとしよう。


 ……さて、そんなこんなでティースがようやく目を覚ましたのは、この日の昼過ぎだった。


「リゼット=ガントレットです。はじめまして」

「……はへ?」

 暖かな日の光。

 さわやかな空気。

 息づいた人々の喧噪。

「……へ?」

 目を閉じる以前の暗闇はどこにもなく、その身に迫っていた死の匂いも、狩猟者たちの魔の手も、すべてが跡形ない。

 そこにあったのは色付いた街の風景だった。

 生きている街の空気。

 夢か、幻か。モヤのかかった彼の頭はそれすらすぐに判別できなかった。

 だが、

「な、なにが……いっ――っ!!」

 脇腹に走った痛みが、彼に答えを示した。

 首筋に浮かんだ脂汗を感じながら、しかめた顔で自分の手のひらを、体を、布団に隠れた足の先を見つめる。

「俺、生きて――?」

「は・じ・め・ま・し・て」

「え? え、うわぁ!!」

 もう一度、今度は耳元でささやくような声に、ティースは跳ね上がった。

「い……ぎゃぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 当然のように全身を襲う激痛。

「あ、ゴメンゴメン。そんなに驚くと思わなかった」

「ぐ、ぎぎぎぎぎ……」

 だが、その痛みは確かに生きていることの証だ。

(……俺、生きてるのか……)

 その状況を認識することで心に少し余裕が生まれ、包帯の巻かれた脇腹を押さえながらティースは涙目で辺りを小さく見回した。

 木造の小さい部屋だ。内装は質素で脇のサイドテーブルには一輪挿しの花が飾られている。窓から見える風景を見ると、どうやら2階のようだった。

 部屋にいるのはベッドに横たわるティースともうひとり。

 ティースはようやく目前の人物に視線を戻して、

「あ、ええっと……」

「リゼット。リゼット=ガントレットです」

「リゼット、さん? ……あなたは――?」

 言いかけて、ティースは思い直すように口をつぐんだ。

 リゼットと名乗った青年の着ている軍服風の黒い制服。

 袖に刻まれた『玖』の文字。

 見覚えがあった。

「リゼット……ガントレット……?」

 その名前にもわずかに記憶が刺激されて。

「……まさか、ディグリーズの?」

「そう」

 リゼットはニッコリと微笑んで、足を組み直した。

「ディグリーズの玖、リゼット=ガントレットです。以後、お見知り置きを、ティーサイト=アマルナくん」

「……」

 驚愕。

 と、同時に状況を理解した。

「じゃあ、あなた方が俺たちを助けてくれたんですね……」

 そう言って大きく息を吐く。

 確かに、あれだけの窮地からティースたちを救出できるのは、彼らぐらいのものだろう。

 ……と、思ったのだが、しかし。

「うーん。僕らが助けたっていうのは半分正解だけど、半分違ってるね」

 リゼットは小さく首を傾けて言った。

「君を助けたのは君の仲間。僕らはそれを保護しただけ」

「え?」

「アルファ=クールラントはディバーナ・ロウで一番の使い手だって聞くけど、うわさは間違ってなかったようだね」

「!」

 その言葉にティースはハッとして思い出す。

「そ、そうだ! アルファは――そ、それにセレナスさんやマリアさんは!? ネアンスフィアは――……いッ!」

「興奮しない方がいいよ」

 リゼットはそう言ってなだめようとしたが、ティースは脇腹を押さえ、額に脂汗を浮かべながらもさらにリゼットに詰め寄った。

「っぅ……みんなは……どうなったん……ですか……!?」

「……」

 小さなため息。

 どうやらなだめても無駄だと悟ったようだ。

「あとで、と思ったけど、その様子じゃすぐに話した方がよさそうだね」

「っ……」

 その言葉に、ティースの胸に暗い影が落ちた。……言い方からして、少なくとも手放しで喜べる結果ではないことがわかる。

「まず――」

 リゼットは足を再び組み替えると、軽く前髪を掻き上げながらやや上目遣いの視線を向け、ゆっくりと切り出す。

「君を背負って山を降りてきたアルファくんは無事です。なぜか診察を拒否されてしまったので詳しい状態までわからないけど、君よりは重傷で、でも動いているところを見る限りでは命に別状はないといったところかな」

「……」

 少し安堵する。

 だが、リゼットはすぐに容赦なく続けた。

「セレナス=カンファイスは残念ながら遺体で見つかりました。辺りには無数の獣魔の死骸が転がっていたそうです」

「ッ……」

 その瞬間、ティースの唇が小刻みに震えた。

 ゆっくりと視線が落ちる。

(……セレナスさん――)

 仕方のない結果、ある程度予測できていた結末だったからといって、こみ上げる感情を完璧に制御することは不可能だった。

 ティースは声を振り絞るように、

「じゃあ……マリアさんは?」

「マリアヴェル=ソーヴレーは行方不明です」

「……行方、不明?」

 最悪の結果を想像していたティースにとって、それは少々拍子抜けしてしまう返答だった。

「行方不明……ですか」

 落胆と安堵、2つの感情が入り交じって胸に渦を巻く。

 もちろん広くて深い山中のこと、遺体が見つからないといって無事だと考えるのはかなり無理がある。だが、それでも生き残りの可能性がわずかにでも残ったのは確かだ。

 ……彼女が生きていたなら、どれだけ救われることか。

「ところで、ティースくん」

 そんなティースに、リゼットは唐突に問いかけた。

 その視線が一瞬だけ鋭い光をまとったが、ティースは気付かず、

「なんですか?」

「君と一緒にいたのは、それだけで間違いない? 他に仲間は?」

「え、あ……はい。ジンさんという方が――」

「それだけ?」

「?」

 ティースにはその問いの意味がわからず、眉間に皺を寄せ、うかがうようにリゼットの顔を見つめ返して、

「それだけ……ですけど、それがなにか?」

「ううん、間違いないならいいんだ」

 意外にあっさりとリゼットは引き下がった。

 そして片方の足を、タン、と鳴らすと、組んでいた足をほどいて、

「それと、ネアンスフィア『キラーアント』は全滅したから安心して。もし危地を脱していたなら、そのマリアヴェルさんも必ずどこかで生きているはずだ」

「え、あ……はい」

 いまいち腑に落ちないティースの目の前でリゼットがゆっくりと立ち上がる。

「とにかく、もうしばらくしたらこの街を出発するから、それまではゆっくりしてるといいよ。馬車の揺れが傷に響くかもしれないけど、男の子ならそのぐらいは我慢できるよね?」

「あ……は、はい」

「では、お大事に」

 パチンとウインクして部屋を出ていくリゼット。

 ティースはあっけに取られたような表情だった。

 だが、やがて。

「……」

 無言で視線を布団の上に落とす。

 誰もいなくなった部屋は静けさに包まれた。

「……」

 痛み。

 光。

 喧噪。

 ……生き延びた。

 運が良かった、と言うべきだろう。あのとき彼が追い込まれていた場面は、実力や気力だけではどうにもならない状況だった。

 もし30余名のネアンスフィア主力部隊が彼を襲っていたら。

 あるいはウィルヴェントが彼の目の前に現れていたら。

 確実に死んでいた。それは努力だとか決意だとか、そういったものが及ばない領域のものだ。

 今の彼には決して左右できない、運命の力。

 そして――

「セレナスさん……」

 それもまた、彼にはどうしようもできない結末だっただろう。

 勇敢であり、人情家であったがゆえに失われた尊い命。

 だからこそ、悲しい。善き命であったからこそ、ティースにはその死がどうしようもなく悲しかった。

「――……っ」

 目尻からあふれた涙が、頬に一筋流れる。

 そして、祈る。

 もうひとり。

 わずかな可能性に賭けて。

「マリアさん、どうか生き延びててくれ……」


 ――一方。


「リゼットさん」

「ああ、ルーベン」

 そんなティースのいる民家から出たリゼットは、道の向こうから歩いてくるルーベンの姿を目に留めて立ち止まっていた。

 そして問いかける。

「どうだったの?」

 歩いてきたルーベンはつばの広い日除け帽を深くかぶり、ゆらゆらと近付いてくると、

「毎度のことながら、太陽ってホント、ウザいですよね」

「……え?」

 意表を突かれた顔で、それでもリゼットはまじめに答えて、

「でも、その太陽があるおかげで僕らは生きていられるんだろう?」

「だってほら。太陽ってなんかラドフォードさんに似てるっしょ」

「……」

 無言で空を見上げるリゼット。

「……確かに似てるかも」

「ウザいですよね」

 なんのためらいもなく言い切ったルーベンに、リゼットは苦笑しつつ、改めて質問する。

「それで? マリアヴェル=ソーヴレーのことはなにかわかったかい?」

「ええ。ぜんぜん」

「どっち?」

「なにもわからないということがわかりました」

「なるほどね」

 得心がいったという表情でリゼットがうなずくと、ルーベンは憎らしそうに青空を見上げながら、

「もっと調べればなんか出てくるかもしんないですけど、まぁ、今のところは特におかしなところもないですね」

「でも、そうすると、キラーアントを全滅させたのは誰なんだろう?」

 腕を組み、思案するリゼット。

 思い出すと、かすかな戦慄が体を駆け抜ける。

 ……それは壮絶な光景だった。

 薄明かりの森に飛び散る無数の肉塊。木の枝に、幹に、茂みのあちこちに、足の踏み場もないほどに散乱した生命の成れの果ては、おそらくそのほとんどがネアンスフィア『キラーアント』のものだろう。

 全滅。

 おそらくそう判断して差し支えのない、それほどに徹底的な、言うなれば殺戮だった。

 リゼットは言った。

「生き延びたディバーナ・ロウの2人の証言からして、全滅させるまでそれほど長い時間はかかってないだろうね。でも大勢でやったにしては、僕らがまったく存在に気づかなかったのも腑に落ちない。あまりに鮮やかすぎる」

「少数、それも3人以内でしょうね」

 そんなルーベンの言葉に、リゼットは賛同しながらもやはり腑に落ちない表情で、

「だとすると相当な実力の持ち主だ。それにやるだけやって姿を消した理由もわからない」

「ま、人にはそれぞれ事情があるってもんです。……あー、いい加減消えてくれませんかね、あのラドフォードさんみたいな太陽」

「……」

 リゼットは仕方なさそうに苦笑して、

「ま、僕らの仕事はここまでだものね。ディバーナ・ロウの2人も無事助けられたことだし……ほら、これで君も少しは恩返しができたんじゃない?」

「……」

 その言葉にルーベンは視線を一瞬だけリゼットに向け、そしてただ小さく首を横に振ったのだった。






 その山の頂上付近は周囲がすべて急な崖となっており、普通の人間には決して踏み込めない領域だ。

 訪れるのは一部の鳥、獣、虫。

 だから、そこにある綺麗な天然の花畑を知る者はほぼ皆無と言っていいだろう。

 だが、しかし。

 今、そんな未踏の領域に2人の人物がいる。

「やれやれ」

 吹き抜けるのは、地上よりも少しだけ涼やかな心地よい風。

「リューゼットさんやネイルさんの自分勝手ぶりにも驚かされますが、あなたのそれも負けず劣らずですね」

 ひとつは青年。穏やかで知的。だが、どこか捕らえどころのない、得体の知れなさを感じさせる声だった。

 そしてその声が向けられた先には、花畑を背に、崖っぷちに腰を下ろしたひとりの女性。

 長い耳。

 それは彼女が人魔であることの証だ。

 そして、

「ふふ。でも、君がわざわざ助けに来るなんて予想外だったよ」

 答えた声は、まるで琴を奏でたような美しい音色。

 神秘的。

 青年は答えた。

「クロイライナさんがどうしても、と言うので。ま、結局はその必要もなかったようですけれど」

 女性の背後、5、6メートルほど後方で大きめの岩に腰掛けた青年は、頭に白いターバンのようなものを巻いている。

 左右には、鋭い爪を持つ巨大な鳥――いや、鳥型の獣魔が2匹控えており、手には1本の管楽器。

 その甲に浮かび上がるのは、涙型のアザだった。

 女性はクスッと笑って、

「いい風だね、ザヴィア」

「ニューバルドさん。何度も言いますが、私に自然とやらの善し悪しは理解できませんよ」

「そ」

 特に気分を害した様子もなく、ニューバルド――かつて大陸にあった古い宗教の神の名で呼ばれた女性は、再び小さく微笑んだ。

「ああ、いえ」

 ザヴィアは目を閉じ、わざとらしく思い出したような顔をして言った。

「今はまだ、マリアさん、とでもお呼びした方が良いですか?」

 ちりん。

 風に揺れて、鈴が音色を奏でる。

「どちらでも」

 返った答えには少しの揺らめきもない。

「そうですか」

 ちりん。

「今は……夢と現の狭間。白と黒のちょうど中間。そうだ、ね。あの太陽が完全に姿を現すまで、かな」

「狭間、ですか」

 ザヴィアは昇りかけの太陽をチラッと見て、小さく肩をすくめた。

「理解できませんね。タナトスなんて素晴らしく無秩序な組織を作ったあなたが、どうしてそんなに人間としての自分にもこだわろうとするのか」

「ふふ、だろうね。私にもわからないもの」

 マリアヴェルはおかしそうに目を細め、いまだ半円型の太陽を見つめた。

「なんでだろう。なんでだろう、ね……でも」

「なにか?」

 マリアヴェルは首を横に振ると、

「ううん、なんでもないよ。……そうそう。今回の『封魔』はなんだか前のより効果が短かった気がするね」

「クロイライナさんが心配して密かに調節したのでしょう。あなたがもし誰かに負けるとしたら、気まぐれに人の姿でいる、そのときぐらいでしょうから」

「ふふ、そうかも」

 ゆっくりと、太陽が昇っていく。

「……そういえば」

 ザヴィアはやはりわざとらしく、たった今思い出したかのような表情をして言った。

「今回のお仲間にはディバーナ・ロウが混じっていたそうですね。それもどうやら、私と縁のある方も一緒だったようで」

 一瞬、空白。

「ティースさん、か」

「どうでした? なかなか見どころのある方でしょう?」

「……」

 どこか意味ありげなザヴィアの問いかけに、マリアヴェルは遠くに広がる水平線を眺めて、

「生き延びてくれて良かった」

 つぶやくように言って、ゆっくりとザヴィアを振り返った。

 朝日を背にした彼女の瞳には一点の曇りもなく――

「彼の言葉を聞いて思ったんだよ、ザヴィア。この人はあんな連中に殺されてはいけない人だって、ね」

「……」

 ザヴィアの口元が歪んだ。

「あなたは本当に不幸な人だ、マリアヴェル」

 沈痛な言葉とは裏腹に。心の底から楽しそうな笑みを浮かべるザヴィア。

「でも、だからこそ私はあなたに協力するんです。あなたのたどり着く先に、どれだけ皮肉でどれだけ不幸な結末が待ち受けているのか……それが今から楽しみで楽しみで仕方ありません」

「そう。だったらザヴィア。あなたの好きにするといいよ」

「……」

 少しも揺らぐことなく平然と返したマリアヴェルの微笑みに、ザヴィアの背中にはかすかな緊張が走った。

 ――変化。

 まぎれもない。

「私はなにも強要しないし、なにを与えもしない。私はただ、私の道を進むだけ」

 瞳に宿る光の質。

 身にまとう空気。

 ――あるいは元に戻りつつあった、という方が正しいのか。

「理由なんて忘れちゃった。でも私は、ディバーナ・ロウが憎くて憎くて仕方ない」

「……」

 ザヴィアは大いなる興味と、そしてかすかな戦慄を胸にそんな彼女を見つめた。

(ニューバルド――報恩と復讐の女神、か……)

「……ふふ」

 風に乗った、笑い声。

 神秘的な装いはそのままに、ただ彼女を彩っていた色だけが剥がれ落ち、少しずつ狂気という名の汚泥をその身にまとい始めていた。

 太陽が、その姿を完全にさらけ出す。

「……」

 ザヴィアは手の平ににじんだ汗を隠すように、手にした管楽器を口元に運んだ。

「ふふふ……あは……」

 日が昇り、女神は地に堕ちる。地に堕ちて、いつか地獄の悪魔すらも従えて人々を恐怖の渦におとしいれるだろう。

 その日が来るのが、待ち遠しくて仕方がなかった。

「はは……あははは――」

 いつか――必ず。






「どうぞ、ティース様」

「あ、どうも。すみません」

 ティースたちがディグリーズとともにネービスの街へ帰還したのは、その次の日の昼過ぎのことだった。

 自分より20歳近くは年上であろう御者の男性にペコリと頭を下げ、ティースは細波を片手に馬車を降りる。

「っ……!」

 まぶしい太陽に目を細めた。

 光の中から浮かび上がったのは、綺麗に刈り揃えられた芝生と目の前にそびえる屋敷。

(……アルファのヤツも、たまにはこっちまで来ればいいのになぁ)

 いつも第四隊の詰め所で生活している彼は、正門を抜けたところでひと足先に馬車を降りてしまった。よって、この別館までやってきたのはティースひとりである。

 馬車が去っていく。

 と、それと入れ替わるように、

(……あれ?)

 屋敷の別館から出てくる3つの人影が、ティースの視界に入ってくる。

(あれは――)

「……ティース様!」

 そのうちのひとりはティースの姿を見つけるなり声を張り上げ、スカートの裾をつかんで彼に駆け寄ってきた。

「リィナ?」

 ハウス・メイドの清楚な衣装と、他の女性よりも頭ひとつ分以上抜けた身長が非常に目立つティースの昔馴染みの少女、リィナである。

 もちろん、彼女がこうしてティースを出迎えたこと自体は特に不思議なことでもない。

 ただ、リィナは明らかにいつもよりも取り乱した様子で、

「ケガはッ!? 歩いて大丈夫なんですか!?」

「へ?」

 その突然の慌てように、ティースは少々面食らってしまった。

「え、あ、ちょっと、リィナ? ……うわっ」

 彼女の手が伸びてきたのを見てとっさに身を引いてしまうティース。女性アレルギーであるがゆえの、悲しい条件反射である。

 だが、一方のリィナはそんな彼の動きも気にすることなく、それどころか胸元からグルグル巻きの包帯がのぞいていることに気づくと、さぁっと青ざめてさらに慌てた。

「シーラ様! ティース様が、やっぱりひどいケガを!」

「リィナ。少し落ち着きなさい」

 そんな彼女に対し、後からやってきた2人。

「見なさい。ああやってひとりで立っているし、両腕も両足もきちんと付いてるでしょう」

「そうだよ、リィナ。ほら、ティースだって困ってる」

 シーラの言葉に同意してエル。

 ティースにとっては幸いというべきか、この2人はリィナと違って冷静だった。

「で、でも万が一ということもありますし……そうです! こういうときは確か人工呼吸とかいうものをすれば良いと聞いたことがあります!」

「えぇ……」

 不穏な発言に思わず後ずさってしまうティース。

 シーラはため息とともに肩をすくめて、

「そうね。こいつの状態を悪化させたいのなら止めはしないけど」

「いや、止めてくれよ!」

 ティースは思わず突っ込んでしまった。

 それでもリィナのオロオロは止まらず、

「で、でもそうなるといったいどうすれば……ティース様がこんな瀕死の重傷を負っているというのに――」

「ずいぶん元気な瀕死もいたものね」

「シーラ様! どうしてそんなに平気そうなんですか!」

「……いったい、なにがあったんだ?」

 わけがわからず、ティースはとりあえず一番頼りになりそうなエルにそう尋ねてみた。

 エルは仕方なさそうに笑って、

「昨日、キミの近況について先に知らされちゃったの。敵がものすごく危険な相手だって聞いたら、リィナがもう青ざめちゃって」

「……あ、そういうことか」

 それでようやく合点がいった。

 実際、ティースが生還できたのは運がよかったからだ。その途中の状況を知らされていたのであれば、こうして心配するのも仕方ないといえば仕方のないことである。

 エルは続けて言った。

「もちろんボクらも心配してたんだよ。でも、リィナがあんな感じだもの、ボクらまで大騒ぎするわけにはいかないでしょ?」

 と、幼い外見とは裏腹におとなびたセリフで、悪戯っぽくウインクしてみせる。

「そっか……ありがとな、エル」

 結果的には大げさに騒ぎすぎ、とはいえ、そうやって心配してくれること自体は素直に嬉しいことだった。

 そして、ふと。

 ティースの脳裏にひとつの会話がよみがえる。

(そういやマリアさんが言ってたっけ。俺が苦しむことで、周りも苦しむことがあるんだ、って)

 今の状況。

 彼女が言っていたのは、まさにそういうことなのかもしれない、と思った。

「でも、本当に無事でよかったです……」

 祈るように手を組み、空を見上げて安堵の息をもらすリィナ。

「本当だったらこの手でティース様の鼓動に触れて無事を確認したいのですが、残念です」

「……リィナ」

 そんな彼女の姿にティースは少しの気恥ずかしさと、やはりほんの少しの罪悪感を覚えた。

 そして心に誓う。

(……少しでも心配させないようにしなくちゃ。もっと強くなって……)

 ――と。

 まあ。

 それはひとまずの感動シーンであり、これがティースという男の成長だけを記録した物語であれば、この辺りでパッと場面を変えてしまうのが正解だろう。

 だが、しかし。

「……」

 蛇足であることを承知の上で、今回はあえてその先のささいな顛末についても語っておこうと思う。


 ――トン。


「きゃっ」

「へ?」

 前者はリィナのあげた小さな悲鳴。

 後者は、意表を突かれたようなティースの声。

 そのときリィナが急によろめいてしまったのは、急なめまいが彼女を襲ったわけでなければ、安堵のあまり脱力しすぎてしまった……というわけでもない。

 その理由はもっと単純で、彼女の背中を不意に襲った軽い衝撃が、単純な物理法則に従って彼女を前方へとよろめかせた、ただそれだけのことである。

 前方。

 その時点でリィナが見つめていた相手は言うまでもなくティースであり、彼女の両目が前方についている以上、そのよろめいた先に彼が立っていたのは当然のことであろう。

 距離は、どうだろうか。

 人と人との親しさは、日常会話をするときの距離でおおよそ計れるというが、そういう点で言うと彼らはかなり親しい間柄だと言ってもいい。

 ……と、まあ、非常に回りくどい言い方になってしまったが。

 要するになにが起こったのかというと、

「――」

 くらっ……

「ティース様!?」

 リィナの口から悲鳴が上がる。

 突然よろめいた彼女に抱きつかれる格好となったティースは、3秒と保たずに意識を失ってしまったのだった。

「ティース様!? ティース様! すみません! しっかりしてください!」

 青ざめたリィナは慌てて彼の体を支え起こす。

 だが、もちろん特異体質『女性アレルギー』を発症した彼がそんなことで目覚めるはずもなく――というか、目覚めたとしても、今の状況だとおそらくまた即座に気を失ってしまうだろう。

 リィナはそれを悟ると、彼の体を支えたまま後ろを振り返って、

「シーラ様! な、なんてことをするんですかッ!」

 そこにいるシーラに向かって糾弾の声を挙げた。

 ちなみにその言葉は正当である。不意をつかれたリィナが自らを支えきれなかったのは仕方のないことで、なにより彼女の背を押したシーラの行動は、明らかにそれを狙ってやったに違いないのだから。

 だが、

「心配することないわ」

 シーラは涼やかな口調で視線を流し、やはり涼しげな声で答えた。

「その症状は別に体に悪影響を及ぼすわけではないし、疲労した体を休めるのにちょうど良いぐらいだから。……ああ、でも失敗ね。ここだと運ぶのに大変だから、部屋に戻ってからにすればよかったわ」

 明らかに論点をすり替えた回答だった。

 もちろんリィナもそんな言葉に納得するはずはなく、

「だ、だからと言ってこんな――」

「リィナ」

 さらに問い詰めようとする彼女に、シーラはゆっくりと視線を戻して言った。

「生きてるでしょう?」

「……え?」

 あっけに取られるリィナ。

 そんな彼女の腕の中に収まったティース。

「……」

 シーラはそんな2人の姿に、急に優しげな目をして表情を緩めた。

「あなたは普段触れられないのだから、この機会に思う存分触って無事を確かめておくといいわ。この男だって、そのぐらいのことはきっと許してくれるでしょ」

「え? シーラ様?」

 怪訝そうなリィナに背を向けるシーラ。

 水飴のような金色のポニーテイルが宙に躍り、ふわっと香水が漂う。

 と。

(……あ)

 リィナはその香りにかすかな違和感を覚えた。

(この前のとは違う……? でも、どこかで――)

 刺激されたのはもっと遠い過去の記憶。

 だが、彼女がそのことを具体的に思い出すより先に、

「ティースには後で私が謝っておくわ。でも、屋敷まで運ぶのはあなたに任せるわね」

「あ、シーラ様……」

 背筋を伸ばしたその後ろ姿は一部の隙もなく、そのままシーラは一度も振り返ることなく屋敷へと戻っていく。

 そんな彼女を、リィナは不思議そうに、エルはなにごとか思案する表情で見送って。

 そして、先に口を開いたのはリィナだった。

「シーラ様、いったいどういうつもりなのでしょう?」

「……さあ」

 エルは少し考えてから答えた。

「たぶん言った通りなんじゃないかな。シーラはきっと、キミとティースの距離をもっと近付けてあげたいと思ってるんだよ」

「近付ける?」

 リィナは不思議そうな顔をして自分の両手を見つめ、腕の中で寝息を立てるティースを見つめ、それからやはりわからない顔で首をかしげた。

「近付けるというのは、どういうことですか?」

 そんな彼女に、エルは少し困ったような顔をして、

「そうだよね。リィナはわからないよね」

 と、言った。

 理解できないのは、決して彼女の考えが足りないからではなく。

「難しいよね、色々と」

 もう一度、エルはひとりごとのようにそうつぶやいたのだった。




 そして、快晴だったネービスの空が急にその様相を変えたのは、その日の夕方のこと。

 急激に空を覆った雲は徐々にその重さを増し、日が沈むころ、雷鳴を合図にネービスの街は強い雨に包まれた。

 雨。

 雷鳴。

 ――それは彼女にとって、大いなる不吉の象徴だった。

「マリアヴェル、ソーヴレー……」

 そして本日、彼女の心をさらに惑わせるひとつの報告が、無事に帰還したディバーナ・ロウの第四隊によってもたらされていた。

 広いミューティレイクの庭はすっかり暗闇に包まれ、ときどき鳴り響く雷鳴が木々の陰をそこに映し出す。

 窓は流れ落ちる幾筋もの雨に覆われ、薄明かりの中にたたずむ彼女――ファナ=ミューティレイクをそこに映し出していた。

 いつもの微笑みはそこになく。

 目に浮かぶのはただ、憂いと、哀しみ。

 その唇が、ゆっくりと言葉を刻んだ。

「……マリア姉様」

「お嬢様」

 その部屋にはもうひとりいた。

 だが、それはいつも彼女のそばでサポートをする2人の執事ではなく。

「……ミリィさん。あなたは、どう思われます?」

 ゆっくりと振り返ったファナの視線の先。

 そこにいたのは前髪を少し横に流した、それほど長くはない黒髪の女性。

 生真面目そうな眼鏡が印象的な彼女は、この館の主人であるファナの世話をする侍女……その頂点に立つ侍女長、ミリセント=ローヴァーズだった。

 ミリセントは答える。

「ティーサイト様の出会われたその女性が、大罪人マリアヴェル=リグノルドである可能性は否定できないと思います」

 ファナはうなずいて、

「ええ……私もティースさんの報告を聞いて、かなりの共通点があるように感じましたわ」

「目的、意図、その他、納得できない部分は多々ありますが、そういう可能性があることは考慮しておくべきかと」

「ええ……」

「……お嬢様」

 ミリセントの声がわずかに起伏した。

 それはいつになくはっきりしないファナの態度をたしなめるような、そんな口調。

 そしてミリセントは言った。

「あの者は大恩ある先代様を裏切り、お嬢様の姉君の命を語るもおぞましい方法で奪い去り、あまつさえ4年前の襲撃では先代様と、この屋敷に関わりのあった多くの者の命さえ奪いました。……あの者は」

 あえてそこで言葉を止め、眼鏡の奥からあまり感情の見えない事務的な視線をファナへ投げかける。

「……」

 ファナは再び窓の外へと視線を流した。

 ミリセントの口から出た出来事は、もちろん彼女にとっても特別なもの。

 ――父と姉。

 どちらもすでにこの世の者ではなく、そして2人の命を奪ったのはいずれも同じ相手だった。

 しかし、

「マリア……姉様」

 その人物の名もまた、彼女にとっては特別なもの。

「……」

 外は雨。

 窓の縁をゆっくりとなぞる。


 ――ややあって。


「……わかってます」

 背中を向けたまま、ファナはそう答えた。

 今度は強い意志。

「わかってますわ、ミリィさん」

 穏やかでのんびりとした性格とは裏腹に、このミューティレイクを確実に支えてきた当主としての強い意志で、彼女はもう一度そう答えたのだった。


 訣別は、はるか遠い昔のこと。

 そんな彼らの再会の日は、それほど遠い未来の話ではない。


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