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デビルバスター日記  作者: 黒雨みつき
第7話『デビルバスター・ハンターズ』
54/132

その5『窮鼠にご注意』


 ネアンスフィア『キラーアント』に所属する人魔の数は、今回のゲームを始める前の時点で52名だった。

 その内訳は下位魔が51人と上位魔がひとり。構成人数の多さは大陸全土に分布するネアンスフィアたちの中でもトップクラスに位置するが、魔力の高い者――つまり単体でデビルバスターを相手にできるような力の持ち主はひとりもいなかった。

 そんな彼らがこれまでに幾人ものデビルバスターたちを仕留めてきたのは、団体のリーダーであるオークデンという男の能力に依るところが大きい。


 なにかおかしい。

 幻の下位魔であるオークデンは現在42歳。

 7歳のころ、望まぬ偶然から人間界に流され親と生き別れた後、途方に暮れていたところをネアンスフィアの参加者に拾われ、その後35年間に渡ってこのゲームに参加してきた。

 これまでに所属した団体で仕留めたデビルバスターの数は軽く30人以上にのぼる。

 彼はこのキラーアントという団体の創設者であり、作戦参謀でもあり、仲間たちのいざこざの調停役でもある有能な人物だった。

 おかしい。

 そんな彼が強くそんなことを感じ始めたのは、太陽が頂点から西に傾き始めて3時間ほどが経過したころのこと。

 ここまではすべてが計画通り。

 最初のひとり、ジン=ファウストは犠牲を出すことなく罠に捕らえ、仕留めた。

 2人目のマリアヴェル=ソーヴレーは、副リーダーである氷の上位魔率いる40人近い主力部隊が追い、3人目のセレナス=カンファイスは風の二十七族『ウィルヴェント』を連れた彼の息子が、それぞれ仕留めているはずだった。

 残るターゲットはあとひとり……それと、それにくっついているオマケのみ。

 それを、彼が直接率いる10人あまりの人魔と多数の獣魔で仕留める。手こずるようならば、主力部隊かウィルヴェントが合流するまでの時間を稼ぎ、獲物を疲労させておけば良い。

 すでに詰めの段階。それでなんの問題もないはずだった。

 ――しかし、やはりおかしい。

 オークデンは順調なはずの計画がどこからか歪み始めたことを感じていた。


 その原因は、計算違い。

 単純な、とても単純な計算違いだった。




 森がざわめき、そこから3匹の獣魔が飛び出してくる。

「くっ……!」

 充満する血の匂い。

 ピンと張り詰めた集中の糸。

 一瞬一瞬の判断が生死を分ける――逆に言うと、今はまだ、集中さえしていれば充分に対処できる状況だった。

 獣魔の爪をかわし、すれ違いざまに致命の一撃を見舞う。細波が宙を滑り、かすかな水しぶきを撒き散らしながら獣魔の体を斜めに切り裂いた。

 そこへアルファの鋭い声が飛ぶ。

「ティース! 右だッ!」

「!」

 思わず右に視線を向ける。

 ――だが、なにもない。

「っ……!」

 ティースはハッとして反射的に身をひるがえした。

 左腕に激痛が走る。

「くそっ……!」

「ティース! 後ろだッ!」

 立て続けに聞こえる、アルファの声。

 背筋に汗が浮かんだ。

「くっ……」

「ティース!」

「くそっ……」

「ティース!」

「……くそっ!!」

 ポタ……ッ、と、赤い血が地面に吸い込まれていく。

 乱される集中力。

 ……わかっている。それは敵の幻覚能力だ。

 だが、頭でわかっていても心が乱れる。そしてその一瞬の乱れが、この圧倒的に不利な状況においては致命的だった。

 羽根のように軽いはずの細波が重く感じる。

 細かい出血が、じわりじわりと体力を奪っていく。

 幻覚による間接的な攻撃は、精神的にも肉体的にもじわじわと、まるで真綿のようにティースの首を締め付けていた。

(くそ、どうする……ッ!)

 相対するのは、3人の下位魔と彼らが使役する10数匹の獣魔たち。

 とはいえ、それでもこの場にいる敵の戦力の5分の1程度に過ぎず、残る敵はすべて、そこから50メートルほど離れた場所でアルファと交戦中だった。

(どうにかして、早く応援に行かなきゃ……!)

 だが、しかし。

「……くっ!」

 視界に現れたアルファが、人魔の姿に変貌する。

 わかっている。

 わかっているはずなのに――ためらいが生じ、一度鈍った剣先は元の勢いを取り戻せず簡単に敵に弾かれた。

(まずい――ッ!)

 がら空きになった胴体に吸い込まれる敵の切っ先。

 人魔の口元に勝利を確信した笑みがもれた。

「っ!」

 体がカッと熱くなる。

 伸びる切っ先。

 白刃。

「ッ――」

 カチリ、と、彼の体の中で歯車がかみ合う。その瞬間、視界が急に鮮明に、目に見えるすべての動きがゆっくりになった。

 心臓に吸い込まれるはずだった一撃が、わずかにそれて脇腹をかすめる。

「!?」

 その予期せぬ動きに、人魔は驚愕の表情を浮かべていた。

 ざんっ!

 ティースの右足が地面を深く抉る。

「こんなところで……死ぬわけにはいかないッ!!」

 速度を増した細波が、今度は人魔の胴体へと吸い込まれていった。

 ――だが。

「!?」

 突如、視界に割り込んできた見覚えのある銀髪のシルエットに、再び切っ先が鈍った。

 そんなはずはない。

 そんなはずがないと、頭ではわかっているのに――

「ッ……!」

 左肩に激痛が走る。

 肩口が裂けて血が噴き出していた。

 辺りに漂う、血の匂い。

「くっ……」

 体勢を崩していた人魔が間合いを取る。ティースの肩口を裂いた獣魔は、素早い動きで離脱していった。

 息が乱れる。

 気持ちも、また。

(っ……どうにか、しないと――)

 責任感が、焦りを生んだ。

 迫る刃。

 迫る敵。

 体勢を立て直そうにも、四方八方逃げ場はない。

(ダメ、なのか……)

 荒い呼吸。

 動悸。

「ヒヒ……ヒヒヒ……そろそろ終わりだナ……」

 周りを囲む人魔と、それに引き連れられた獣魔たちが、徐々に包囲を狭めていく。

(くそッ……せめて、幻覚を破る方法があれば……!)

 敵の輪郭がぼやけてきた。

「ひひひ……ひひ……」

「へへへへへ……」

 頭の中で反響する笑い声。

 意識が朦朧としてくる。

(どうすれば――)

 痛む左肩。

 胸をグッと押さえる。

 動悸が治まらない。

 血の匂い。

 死の匂い。

(こんな、ところで――)




 その現場から80キロほども離れたネービスでは、もちろんティースたちに迫った危機など知る由もなかった。

「……あら?」

 夕方、いつも通り学園から屋敷へ戻ったシーラは、その少女と廊下ですれ違った瞬間、すぐに違和感を覚えて問いかけた。

「覚えのない香りね。セシル?」

 ミューティレイク家の客人には、奇しくも同じ名門サンタニア学園に通い、同じ学問――薬草学を学んでいる2人の少女がいる。

 その片方、シーラはその容姿の完璧さだけが取り沙汰されることが多いが、学業においてもかなり優秀だ。

 なにしろこの学問都市ネービスの中でも特に高名なサンタニア学園で、彼女は入学当初から常にトップの座を保っているのである。

 そんな彼女の知識は、基本である薬――つまり怪我や病気の治療に用いるもの以外に、香草――料理や紅茶の香り付け、あるいは香水の原料になるような植物の類にも及ぶ。実際、先日リィナが指摘したように、彼女が普段のとき身につけている香水は彼女自身の手によって調合されたものだ。

「え。あ、わかりました?」

 一方、そんな彼女の指摘に答えたのは、薬草学を学ぶもうひとりの少女、セシルである。

 サンタニア学園に通っているという事実だけで優秀であることの証明となるが、こちらはシーラに比べれば平凡な成績といえるだろう。ただ、彼女もまた香草の類にはもともと強い興味を持っており、シーラに教わって色々な香水を作ることがあった。

 先日彼女がティースに贈った香り袋も、彼女が自ら作ったものである。

「今回はですね、いつもとちょっと違ったコンセプトなんですよ」

 セシルは栗色のセミロングをかすかに揺らし、誰もが頬を緩めてしまいそうな愛らしい仕草でそう言うと、手にしていた小袋をシーラの方へと差し出した。

「この前の授業で教わったことと、シーラさんに教えていただいたことを私なりにミックスして作ってみたのです。コンセプトはズバリ『瞬間移動』です」

「瞬間移動?」

 香水のテーマとしてはいまいちピンとこない単語に、シーラは首をかしげながら小袋を受け取った。

 手の平にちょこんと乗るサイズの小袋は口がギュッと閉じられていたが、それでも袋を通してはっきりとした香りを発している。

「ハーモナリスの花をベースにしたのね。柔らかい香り。あなたらしいわ」

「ホントですか?」

 そんなシーラの感想に、セシルはますます嬉しそうに頬を紅潮させると、

「あの、実はですね。これはもともと香水にするのではなくて、こうやって小さな袋に閉じこめてプレゼントするために作ったんです」

「プレゼント?」

「はい。香水ではなく、お守りなのです」

 セシルは頬を紅潮させたまま胸の前で手のひらを合わせ、それから想いを馳せるようにゆっくり目を閉じた。

「私の大事な人を護ってくださいって、お願いを一緒に袋の中に閉じ込めて渡すんです。そうしたら香りを感じるたびに、遠くにいる私の想いがその人の近くまでパッと飛んで行って……まあ、飛んで行ったところでなにもできないのですが」

 自分で言って勝手にしょんぼりしてしまう。

 そんなセシルの様子にシーラは苦笑して、

「なにもってことはないと思うわ、セシル。そういう気持ちはちゃんと相手にも伝わるし、それが支えになったりすることもきっとあるんじゃないかしら」

「そ、そうでしょうか。そうだといいのですが……」

 セシルは少し照れくさそうに笑う。

「叶うと思うわ、そのお願い」

「……はい!」

 そう言ったシーラの言葉に、セシルは力強くうなずいた。

 ちょうどそのころ、まさに彼女の願いが成就しようとしていたことなど、もちろん知る由もなく――。




 怒りと恐慌の狭間をティースはさまよっていた。

(こんなところで、死ぬわけには――!)

 死ねない。

 死にたくない。

 なによりも、これほどに非道で許しがたい連中の思惑通りになってしまうことが、許せない。

 ――許せない。

「っ……!」

 怒りの炎がボヤけた意識を覚醒させる。

(どうにかして、幻覚を見破る方法を……!)

 一瞬だけクリアになった思考が、懸命にその方法を探し始める。

 考える。

 考える。

 視覚、聴覚がアテにならないのなら残るは――。

(だけど、犬じゃあるまいし……)

 その単純すぎる結論はここまでにも何度か導き出され、そのたびに否定されてきたものだ。普通に考えて、匂いで相手の真贋を見極めることなど、犬並みの嗅覚でも備えてなければ不可能だろう。

 その人物が、なにかわかりやすく強烈な匂いを発しているというのならばともかく――

(……匂い?)

 いや。

 ピクリとティースの鼻先が動いて――閃きがあった。

(……もしかして)

 胸の奥。いや上着の奥。

 そこに確かに感じた温もり――そこにあった想いは、圧倒的とまではいかないまでも、この現状を打破する光をティースにもたらしていた。

「アルファ――ッ!!」

 ティースは叫ぶ。

 木々や敵の群れに阻まれて姿は確認できないが、おそらく近くで戦っているはずの仲間に向けて。

「袋だ、アルファッ! セシルからもらった袋の口を開けてくれッ!」

 戦っている真っ最中のアルファがその意味を理解できるかどうかはわからない。それどころか、彼がそれを持っているかどうかすら確実ではなかった。

 だが――

(あの子は確か、俺に『も』プレゼントだって言ってた……それにあんなにアルファを慕ってるあの子が、これを渡していないはずはない……!)

 ふところからその小さな袋を取り出す。

 その口を開けると、血の匂いにも負けない強くさわやかな花の香りが広がった。

(これなら――)

 体は消耗しきっていたが、それでも最後の力を振り絞って細波に力を込める。

 目と耳は、相手の動きをとらえるためだけに。

 頼るのは――嗅覚。敵味方を判別するのは、血の匂いと、花の匂い。その違いだけだ。

「……!!」

 怒号が響く。

 罠に捕らわれ、死を待つばかりだった獲物が急に息を吹き返したことに、狩猟者たちは驚愕し、逃すまいとさらに迫ってきた。

「ティース――!」

 何度も聞こえた、偽りの叫び。

 何度も見た、偽りの姿。

 ……だが、そこには血の匂いしかしない。

 それだけで、不思議なほどに迷いが消えた。

「あぁぁぁぁ――ッ!!!」

 手の平に鈍い感触が伝わってくる。

 肉を裂き、骨を断ち、返り血がその身を汚した。

 断末魔の表情を浮かべる、アルファ。

 一瞬だけ、心が臆病になる。

 だが、しかし。

「っ……」

 血を吹き出して『アルファだった者』が、あっけなく地面に崩れ落ちていく。

 ……いや、そもそも恐れる必要など最初からなかったのだ。

 あのアルファがあんな叫び声でティースを呼んだりするはずはないし、この状況で無防備に彼のそばにたたずんだりするはずもない。

 問題は気持ちだけ。どうしても万が一を想像してしまい、自ら切っ先を鈍らせてしまう心の問題だけだったのだ。

「っ!」

 太股の裏に激痛が走る。

 四方八方から迫る攻撃をすべて避けるのは、今のティースの技量では不可能なことで、だから彼は必要最低限、とにかく致命的な一撃を避けることだけに留意した。

 全身に増える傷。奪われていく体力。

 だが、それをはるかに上回る気力。

 それを支える怒り。

「おぉぉぉぉ――ッ!!!」




「……馬鹿な」

 オークデンは、驚愕のつぶやきをもらしていた。

 彼らに襲いかかったネアンスフィアたちは、人魔12名、獣魔が47体。

 戦いが始まってから10分。

「はぁっ! はぁ……っ!」

 ただのオマケであったはずの青年の足元には、すでに4人の人魔と15体の獣魔が倒れていた。

「馬鹿な、これほどに――」

 オークデンは自らの計算違いを認めざるを得なかった。

 彼がデビルバスターにくっついたオマケなどでは決してなく、デビルバスターとともに充分に注意を払うべき敵だった、ということを。

「……」

 オークデンは舌打ちし、そして即座に一時撤退の命令を出すことにした。

 彼が率いる集団は3分の2以上がすでに地に伏している。相手の疲労も考えれば戦いの行方はわからないが、デビルバスターが健在であることを考えれば、逆に全滅させられる危険もある。

 そこまで無理をする必要はない。

 近くには風の二十七族――ウィルヴェントを従えた彼の息子と、主力である30数名の部隊が迫っている。

 合流してからでも遅くはなく、その方がより確実。

 それは統率者にふさわしい、冷静な判断だった。




「はぁっ! はぁっ! ……え……!?」

 敵の波が急激に引いていくのを、ティースは驚きの目で見つめていた。

 その少し前に鳴り響いた笛の音が合図だったのだろう。周りを囲んでいた人魔と獣魔の群が次々に姿を消していく。

「はぁっ! はぁ……っ!」

 追いかけることは不可能だった。そこまでの体力が彼にはもう残されていなかったのだ。

「はぁっ、はぁっ……」

 そうしてティースはゆっくりと視線をさまよわせ、緊張の糸をピンと張ったまま冷静に状況を分析することにした。

「はぁっ……」

 息を整えながら、気配を探る。

 木の陰、辺りの茂み、上空を覆う木の葉の群れ。

 ……がさっ。

「!」

 とっさに振り返ると、そこには。

「……」

 真っ赤に染まった分厚いセーター。

 手にはかすかに光を発する神槍『誘蛾灯』。

 無言のまま、アルファがゆっくりと近付いてきていた。

「……」

 なおも持続する緊張の糸。

 だが――

「……アルファ」

 鼻孔をくすぐったさわやかな花の香りに、ティースはホッと息を吐いた。

 姿と、香り。

 そして、

「ティース」

 声。

 たとえどんな状況であれ、3つの感覚が同時に幻覚の力に侵されることなど有り得ないだろう。

 つまり、目の前の彼は間違いなく本物だ。

「はぁっ……アルファ、無事か……?」

 緊張の糸が切れると急に全身が重くなり、ティースは腰から崩れ落ちて大木に背を預ける格好になった。

 とっくに限界を超えていたのだろう。

 そうしながら、ティースは歩み寄ってきたアルファを見上げた。

「やっぱ持ってたんだな。セシルからのプレゼント……」

「ああ。セシリアはいつも、自分だと思って持っていてくれと言う。だから大事に持っている」

「……」

 荒い息を吐きながら、ティースの口元には思わず笑みが浮かんでいた。

 それは彼の意外な一面――と言ってもいいだろうか。

(……こいつにとっても、セシルは特別なんだな)

 ほんの少し。あくまでほんのわずかのことだが、ティースは初めて彼の人間らしい一面を見たような気がしていた。

 とはいえ、そんな和やかな空気に浸れていたのもほんの一瞬のこと。

「……息を整えたらすぐにここを離れよう。あの敵がこのまま引き下がるとは思えない。……大丈夫か、アルファ?」

「ああ」

 アルファは即座にそう答えたが――

「……本当に大丈夫か?」

 ティースの目にはそんな彼の足取りがどうも頼りないように思えた。その様子は大けがをしているとか、単に疲労しているという感じではない。

(そういや今朝の寝坊といい、今日はあまりこいつらしくないんだよな……)

 ティースはそんなことを思い出しながら、

「本当に大丈夫か? 体調でも悪いんじゃ……?」

 おそらくは先ほどの出来事で、彼に対する親近感が芽生えていたのだろう。特に深いことは考えず、ティースは腰を上げ、彼の体調を気づかって手を伸ばした。

 すると――

「!?」

 触れた瞬間、アルファの体がグラッと揺れる。

「っ……アルファ!? お前、本当に熱が――!」

 いや。

「……れ?」

 違う。

 いや、ある意味でいうと正解か。

「ティース?」

 遠くに、アルファの冷静な声。

「……あれ。揺れてるの……俺の方……?」

 そう。

 揺れていたのは彼の方だった。そしてアルファの額が火のように熱く感じたのは、彼の体から血の気が引いていたせいだろうか。

「くっ……」

 腰から崩れ落ちる。

 立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。いや、膝どころか体全体に力が入らなかった。

 動けない。

「ぅっ……うぅ……っ!」

 しかも寒い。寒いのに、左肩と、左腕と、切り裂かれた太股の裏と、脇腹だけが熱かった。

 思った以上に出血が多かったのだろうか。

 まるで生命力が全身から抜け落ちていくように、ティースはその場に崩れ落ちていく。

「ティース――?」

 ほんのわずかに怪訝そうなアルファの声。

「アル……ファ……」

 意識が遠のいていく。

 尋常ではない、抵抗の余地もない、強烈な脱力感。

(ダメだ……こんな、ところで……)

 敵の主力はまだ残っている。いくらアルファでも、意識を失った彼を連れて敵の追っ手から逃れることは不可能だろう。

 つまりここで意識を失うことは、死ぬことにほぼ等しい。

 だが――

(っ……)

 動けない。

 自分の体が自分のものではないかのように、まったく動けないのだ。

(こんな、ところで……死ぬのか――?)

 そんな彼の、懸命の抵抗もむなしく。

(セレナスさん……マリアさん……ごめん――)

「……」

 かがみ込んだアルファの指先が頬に触れた感触を最後に、彼の意識はそこでプッツリと途切れてしまったのだった。






 翌日。早朝の空の下。

「――7班、8班は後方援護! 9班以降は万が一に備え、この拠点の防備に当たれ!」

 山の中、中腹よりも少し下辺りに設置されたネスティアスの拠点に、凛としたリゼットの声が響いていた。

「先陣の1班から4班は特に幻覚に留意! 単独行動は厳禁! 呼びかけには必ず暗号を使用! いいか、決して油断するな!!」

 空気を震わすほどに気合の入った返事が響く。

 ネスティアスのディグリーズ玖隊。『月神』リゼット=ガントレットの率いる部隊はどちらかといえば若手の隊員が多く、ネスティアスにおいてはもっとも女性の比率が高い部隊でもある。

「よし!」

 ゆっくりとリゼットが武器を引き抜く。

 それは優男かあるいは男装の麗人かと言った容貌に似合わない、大きなナタのように無骨な大剣だった。

「じゃ……行こうか、みんな」

 そしてリゼットは声色を急に変え、後ろに控える部下たちに向けて軽くウインクしてみせる。

「生き延びた子には全員にご褒美をあげるから。だから頑張ってね」

 途端、隊員の間から失笑が漏れた。

 まあ、それはそうだろう。それが金一封だというならともかく、『ほっぺにキス』などという宴会の罰ゲームのようなご褒美では。

 ……もっとも、中には本気にして、なおかつ密かに奮起する者が数名いたようだが、それはともかく。

「リゼット様!」

「うん?」

 伝令がやってきたのは、今まさに、山に向かって突入を開始しようとしていた、そのときのことだった。

 身につけているのはネスティアスの制服。深緑色の制服の袖にあるのは『伍』の文字。

 彼らとは別のルートから突入する予定だったルーベン隊からの伝令だった。

「どうしたの? ルーベンがまた仮病でも使った? しょうがないな。あの子はすぐにそうやってにサボろうとする。君も真似してはダメだぞ」

「い、いえ……」

 リゼットの軽口に伝令は少しだけ萎縮しながら、

「たった今、我々の部隊が山の奥から脱出してきた者を保護しました」

「……逃げてきた? 話は聞いたの?」

 少し表情を引き締めたリゼットの問いに、

「はい。それでルーベン隊長がおっしゃるには、敵はネアンスフィア――前情報通り『キラーアント』で間違いなさそうとのことで、村の方はすでに全滅。ですが、まだ2人ほど仲間が生き残っているかもしれないとのことです」

「なるほどね。了解です。他にはなにか?」

「はい。それが……」

 伝令は少しためらった。

 だが、すぐに意を決したように口を開いて、

「忙しい中、伝えにきたのだから、使い――その、つまり私に『ご褒美』を持たせてやってくれ、と……あの、ご褒美、というのはいったい――?」

「……」

 再び失笑が漏れた。

「はぁ……まったく、あの子は」

 リゼットもまた、ルーベンの悪戯に仕方なさそうなため息をつきながらも、ニッコリと笑顔を伝令の青年に向けて、

「君はご褒美、欲しい?」

「あ、いえ! わ、私はそんな!」

「そっか。それは残念。じゃあ、ルーベンに伝えといてよ。そんなにご褒美が欲しいのなら、自分で取りに来なさいってさ」

「は、はぁ……」

 わからない顔で伝令の青年が下がっていく。

「さて、と」

 それを見送ったリゼットの表情に、再び闘志の色が差した。

 と同時に、隊員全員にも緊張が戻る。

「油断は禁物だよ、みんな。いかに取るに足らない相手でも、ね」

 そしてこの日の太陽がわずかに顔をのぞかせたころ、ディグリーズの2部隊は山の奥へ向かって突入を開始したのだった。






 ――はっ、はっ、はっ、はっ。


 駆ける、駆ける、駆ける。

 荒い呼吸。

 迫り来る生温い風。

 おかしい。

 おかしい、おかしい、おかしい。

 絶対に、おかしい!


 ――はっ、はっ、はっ、はっ。


 単純な計算違いだ。

 彼らの戦力はたとえまともにぶつかり合ったとしても問題ないほどの規模であり、彼が巡らせたのは勝つための策ではなく、ただ犠牲を減らすための策だった。

 ネアンスフィアは『ゲーム』だ。よって狩猟の楽しみを損わないようにとルール――毒を用いてはいけない、最初から丸腰の敵を襲ってはいけない等、いくつかのルールが設定されている。

 彼――キラーアントのリーダーであるオークデンはそのルールの範囲内で、出来る限り味方の犠牲を減らすためにいくつかの策を弄してきた。

 ジン=ファウストを仕留めるところまでは、うまく行きすぎたと思うほどに順調。

 その後に敵を分断し、確実に勝てるだけの戦力を個々にぶつけていった。

 そこまでも予定通り。

 ……アルファとティースに対して一時撤退せざるを得なかったところも、想定できる範囲の出来事ではあった。

 では、どこで計画が狂ったのだろう。

 いや――『誰が』計画を狂わせたというのだろうか。

「!!」

 ぐにゃっ、という感触。

「くっ……!」

 足元を確認するまでもなかった。

 辺りに散らばっていたのは、赤黒い肉塊。もはや元が誰であったか判別できないほどに寸断され、ちぎれ飛んだ生命の成れの果て。

 しかも――

「全……滅……だと!!」

 辺りに散らばる死体は、すべて彼の仲間のものだった。

 キラーアント――総勢51名のうちのどれだけか。少なく見ても30人近くの人魔の死体がその数倍以上のパーツに分かれ、木々の生い茂る地面に、木の幹に、枝の上に散らばっていたのだ。

 地獄絵図さながらに――

「馬鹿な! そんな馬鹿なッ!!」

 負けるはずがなかった。

 まともにぶつかっても負けないだけの戦力のはずだった。

「こんなに早く人間どもの部隊がやってきたとでも――!」

 まさか。

 それはどうしても考えにくい。あらかじめ彼らの動きを察知していなければ、とてもこの時間には間に合わないはずだったし、もちろんそれを計算に入れた上での今回のゲームだったのだ。

 だが、しかし。

 現実に仲間たちは全滅の危機にさらされている。

 逆に狩られる立場に追い込まれてしまっている。

 実際に、狩られている――

「……ォォォォォォォ――ン……ッ!!」

「!?」

 響いたのは大気を震わす、聞き覚えのある遠吠え。

 風の二十七族、ウィルヴェント。それを率いているのは彼の息子だった。

 まだ、戦っている。

「くっ……!」

 オークデンはとっさに声の方向へ走った。

 走る、走る、走る。

 息子と、その息子に従順なウィルヴェントだけは失うわけにはいかなかった。失えば再建の望みが絶たれる。彼の一生を賭けたこのネアンスフィアというゲームから、永久に脱落することになる。

 茂みをかき分け、仲間たちの死体を踏み荒らし、視界を覆う木の枝を払いのけ。

 走る。

 走る。

「……ヒヒ」

「!」

 聞き覚えのある笑い声が聞こえた。

 息子の笑い声。

 ――聞こえたような、気がした。

 ガサッ。

 上空で、木の枝が揺れる。

「なに……?」

 オークデンは立ち止まった。

 そして見上げた上空。

 そこから落ちてくる。

「な……」

 反射的に手を伸ばしたオークデンの顔に、水しぶきのようなものが飛び散った。

「っ……」

 一瞬目を伏せる。

 どさっ。

 腕の中に飛び込んできたのはちょうどスイカぐらいの大きさで、生あたたかい果物のような感触の物体。

 赤黒く。

 青白い。

「っ……っっっっ……!!」

 叫び声をこらえ切れたのは、戦地に身を置いてきた長年の経験ゆえか、あるいはあまりの衝撃に言葉すら失ってしまったのか。

 尻もちをつく。

 ギョロリと剥いた息子の白目が、恨めしそうに彼を見つめていた。

「どっ、どうしてこんな――」

「……ォォォォォ――……ッ!!」

「!」

 もう一度聞こえたウィルヴェントの遠吠え。

「……ォォ……ォ……」

 だが、それは不自然に途切れた。

 まるで……そう、まるでそれが断末魔の叫びであったかのように。

「……」

 そして静寂。

 空気が質量を増したかのような、重苦しい静寂。


 ――単純な計算違い。


「はぁ、はぁ……」

 聞こえるのは、唯一自らの呼吸音だけ。

 体が動かない。

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 まるで周りの空気に全身を押さえつけられているかのように。

「はぁ――はぁ――はぁ――……ッ!」

 肺が焼け付くほどの荒い呼吸。

 心臓が壊れるほどに脈打つ。

 闇が、迫る。

 恐怖。

 押し潰されんばかりの、恐怖。


 ――ちりん。


 狩猟者は用意周到でもなく、緻密でもなかった。

 ただ、圧倒的。

 ひたすらに圧倒的だった。


 死の影が、彼の背後に舞い降りる。

 死神が――舞い降りる。


 ――ちりん。


 最後に彼の耳に届いたのは、涼やかな鈴の音と。

 そして……魂を奪う、セイレンの歌声。


「――次の世では、どうか楽しく安らかな一生を送れますように」


 薄暗い霞の空に、血しぶきが舞う――。


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